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近 代 に お け る 能 楽 表 象

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(1)

近代における能楽表象 ‑国民国家'大東亜'文化国家日本における「古典(カノン)」としてt

景     子

能楽は現在、日本を代表する伝統芸能のひとつとみなされている。しかし、能楽が

「伝統芸能」 であるためには、近代という時代が必要だった。

近代が数多‑の「伝統」を創出したことは'近年の歴史学と‑わけ国民国家論的観

点から指摘されている。明治に入って「能楽」と名づけられた能と狂言もまた、国民

国家日本のもとで、従来のあ‑かたを変え新たな「伝統芸能」としての位置を獲得する。

それゆえ'再構築された「伝統芸能」としてノの能楽、いいかえれば国民国家日本の 「古

/

I

典 (カノン)」としての能楽は、国民国家日本の変貌とともにその意義をかえてい‑。

本論では、「古典」としての能楽の意義の変化を、主に各種新聞、能楽専門誌や関連

書籍、公文書を通して概観したい。まず明治初めの能楽のあ‑方を確認したうえで'

日清戟争前後においてみいだされた「古典」としての能楽を明らかにする。そして、

アジア・太平洋戦争のもとで「大東亜の総合芸術」となって海を越える能楽を検討し、

ついで、戦後すぐに「民主主義」国家日本'「文化国家」日本の「古典」という位置を

確保した能楽をとらえる。

言説化された「古典」としての能楽と、実際の能楽作品および公演とはひとつでは

ない。しかし、それらが別々のものでないのも確かだろう。その関係をはっきりさせ

ていくためにも'言説化された「古典」としての能楽が検討されねばならない。さらに、

「古典」としての能楽の意義に異を唱え、能楽の可能性をそれぞれに見出そうとした作

()家たちの試みを再認識するためにも、その検討が必要なのである。

「能楽発見前夜

芸能が安定した繁栄を誼歌するには、経済的政治的な後押しが欠かせない。観阿弥

世阿弥父子による「猿楽」 の大成が足利義満の後援を背景としたこと、室町幕府の失墜後も「猿楽」が戦国大名に受け継がれたことは、よ‑知られている。そして「猿楽」

は'禁裏における興行で自らシテを務め大和能楽四座を保護した豊臣秀吉からも、大

和能楽四座の保護を引き継ぎ式楽とした徳川幕府からも捨て去られはしない。 だからこそ、明治という新しい時代が始まり、欧米から流入した価値観が前近代を過去の遺物として遠ざけたとき'「猿楽」も排斥の対象となる可能性があった。加えて、明治政府への政権交代の中でも、江戸幕府の式楽の破壊は'起こ‑うる事態であった。ところが、結果として、この芸能は生き続ける。

従来、明治維新の動乱期から明治十年代に存亡の危機に直面した能楽界は'岩倉具

: c "

E

視に救われたとされてきた.大正六 (1九一七)年の ﹃謡曲及能楽 趣味と名士﹄ は、

能を好み青山大官御所に能舞台を作った英照皇太后(明治天皇の母) を「謡曲能楽の

大女神」とし、岩倉具視を「謡曲能楽の大恩人」と称えている。

明治維新後'一にも二にも欧米心酔の風潮に煽られて、旧慣の乱さるゝもの少な

からざ‑し中に'最も打撃の甚だしき者ありLは斯道なり、明治十年の前後の如

き'殆ど一人の謡ふ者な‑舞ふ者な‑、さしも栄えし斯道七百年の歴史も、叢に

最終の頁として閉じらる、かを嘆かしめLに、上には英照皇太后のましませしあ

‑、大官人としては吾が岩倉公あ‑て'是を廻させ給ひたる鴻恩は、斯道に親し

み得る徒の決して忘却すべからざる事実たる也、左に録するは如何に公が斯道に

恵ませられたるかを知るの一斑として、公が逸伝中より引用し来れる一章な‑、

一字を改訂せず、原文の債を掲ぐ

明治四年公の洋行あ‑し時西洋各国に於て最も手厚き待遇を受けさせられ其都

度各国の御用芝居とも称すべきオペラの余興あ‑何れの国にも貴顕の人の遊楽

の道の手厚き保護の本に保存さらるゝを見て帰国後我国の音楽中貴顕の遊とし

て最も適当なる能楽の保護奨励法を案ぜられつゝある折柄米国のグランド氏来

朝し我国固有の楽たる能楽を見んことを求め実見の後深‑其古雅なるを称賛せ られしよ‑益々公の意を強うせられ自ら率先して華族を勧誘し六百余名の団結

を以て能楽社を設立せしめ其義指金によ‑て芝山内紅葉谷を埋めて能楽堂を建

設せらるゝ事とな‑宮内庁の技師白河勝文民をして其工を督さしめらるる又一

‑ 143‑

(2)

方にては重野文学博士をして能楽起源考を起草せしめ其保護奨励至らざる所な

く而も其処断全て公平無私なる故争ふて集合せし能役者も達て皆悦服して1々

其命に服さゞるな‑明治十四年能楽堂の落成後は頓に能楽振起の勢いとな‑隠

れつゝありし楽師連も招かずして来り集り観能者常に堂内に充ち貼たりしは全

く公の保護奨励の能く行き届けるに基づけり当時公の意中に於ては彼の伶人の

如‑能役者をして帝室附属のものとなして手厚き保護を加え京都大阪へは能楽

社の支部をも設けしめ漸次拡張の計画あ‑Lも不幸なる哉此大偉人に年歯を貸

さず明治十七年五十六歳を一期として注罵義去あ‑し (略)

たしかに岩倉具視は、明治政府の重臣や旧大名、華族を動員して明治十四(一八八1)

年に能楽社を設立、能楽社の会員による献金と先の英照皇太后からの出資をあわせ、

/l[・/芝公園内に芝能楽堂を建てた。さらに'「猿楽」「能狂言」などとさまざまに呼ばれて

きたこの芸能が'能楽社設立の前後から能と狂言との総称として「能楽」と多‑表記

: ca :

されるようになった事実からも、能楽社の盟主である岩倉具視が、近代における能楽

の 「恩人」とはいえよう。

しかしt である。実際のところ、「明治十年の前後」 の能楽界は「殆ど一人の謡ふ者

なく舞ふ者なく」という状態にはなかった。明治四 (1八七1)年に明治政府が解雇

するまで、朝臣願いを提出していた能楽師たちには、江戸幕府のそれを引き継ぐかた

ちで手当てがあり、手当てが打ち切られた後数年には、各流派による盛んな能会が開

かれている。皇族や公家、旧大名'すなわち明治政府の有力な支配層にも謡を指導す

: ca

る能楽師たちが、真に困窮を極めていたという記録は多‑ない。そして、岩倉具視の

旗ふりを待つことな‑、明治政府の要人たちは能楽へとかかわり続けていた。

岩倉具視が明治九 二八七六)年三月'自宅への行幸に際して能を披露したことは

よく知られているが、それが支配層の交歓の場に能楽を走着させるきっかけでないの

は'明治八 (一八七五)年四月に催された九条道孝邸行啓公演でもわかろう。また'

同年五月の ﹃朝野﹄投書欄で曝し方や役者として興行に参加した華族が言及されてい

ること'華族による多くの素人能自主公演の記録、明治十一(一八七八)年に青山御

所の能楽堂付き宮内庁御用役者が任命されたことなども見逃すべきでない。欧米にな

らって明治新体制を構築したとはいえ、その大多数が旧体制からのスライド組である

支配層は'趣味としての能楽を放棄などしていなかったのである。

これと同時に明治政府は、岩倉具視が能楽社を立ち上げるはるか以前から、主要な

来訪者を饗応する際に能楽を用いてもいた。明治二 (一八六九)年にははや‑も英エ

ジンバラ公が、同五年には露アレクシス親王が、同六年には伊ジエノヴァ公が'同

十二年には英国議員リードと米国前大統領グラントが、明治政府あるいは華族の案内 で観能を経験している。これら饗応の席では、相撲や歌舞伎、浅草観音見物や和食が能楽とともに用いられた。新政府にとっての能楽とは、来訪者のエキゾチシズムを満たし楽しませるための'日本文化のひとつであったことになる。

こうした受容によ‑応ええた能楽界は、明治維新の混乱期にワキ方の春藤流・進藤

流や狂言の鷺流などを失いつつも西欧文化の流入によって押し流されることなく'「明

治十年の前後」から隆盛期を迎えたのではないか。支配層との蜜月関係を保つことで

発展してきた「猿楽」は'近代という時間軸の中でも支配層の関心をひ‑ことに成功

したといってよい。

とはいえ、幕府の式楽でな‑な‑、席料を払うすべての人々に公開された能楽は、

新たな受容者を獲得してもいる。公演の告知は早‑から各種新聞でなされていたが'

観能の定着に従って明治十七(一八八四)年十一月から﹃読売新聞﹄紙上に能評が載‑、

翌年一月の ﹃読売新聞﹄ 三千号記念行事や三月の ﹃郵便報知﹄創立記念祭などといっ

た民間主導の公演も増えていく。

古‑から存在したがゆえに注目される、すなわち「伝統芸能」だから言祝がれると

いうのではな‑、ある程度の格式ゆえに祝い事や饗応に適し、支配層にはもとより大

衆にとっても身近に感じられる芸能としての能楽。そんなゆるやかさが、明治前半に

おける能楽にはまだあった。

二㌧国民国家日本による 「能楽」 の発見

能楽についての言説が大きく方向を変えはじめたのは、明治二十七 (1八九四) 年

であ

る。

皇太后陛下'能楽保存の議を嘉し賜ふ 能楽は日本固有の美術なれば長‑国粋と

共に保存し、且斯道の盛ならん事を図るには日本貴婦人率先して之が責任者たる

l 1

べLとの議起こりし事

「日本固有の美術」 である能楽は、国家と国民の長所・美点としての 「国粋」ととも

に「保存」されねばならない。明治二十七 (一八九四)年八月にはじまる近代最初の

対外戦争(日清戦争) をひかえ、二月十五日の ﹃読売新聞﹄ に紹介されたこの「議」

と 「議」 に賛同する記事は、国民国家日本の 「古典」たる能楽の誕生を予感させる。

そして'この言葉を受けるかのように、皇后や明治政府の要人たちとつなが‑のあっ

た能楽界は'九月から各流派で盛んに日清戦争への軍資献金能を催してい‑0

そんな中、能楽とオペラとに関し、以下のような言及がなされた。芝能楽堂に招待

されたドイツの帝室技芸師ミネ・ホークの感想として、日清戦争直前の七月二十二日'

144

(3)

﹃東京日日新聞﹄ が掲載した一文である。

吾独逸及び喚大利に於ける演技を貴国の演技に比ぶれば近世のものにして、貴会.

は能く往古の形迩伝説を保存せられ候。夫の「オペラ」 の如き、小生等は欧羅巴

が之を始めて形造りしものと思ひしに、反って吾々の開化の前に日本に成り立ち

し事を知‑、今更感嘆の至りに候。

管見のかぎり'もっとも早い能楽とオペラとの比較、および「伝統芸能」としてのl■1・I能楽の称揚である。

たしかに、岩倉具視がヨーロッパで鑑賞したオペラに感動Lt オペラの抽象性・総

合芸術性に対抗できる日本の芸能として能楽を発見し'能楽界の再建に助力したとい

う言説は多い。しかしそれらの言説、たとえば、久米邦武が「国民娯楽の必要」 のた

めに「シツカリと国民性の奥に根を持って居るもの'即ち日本固有の歌舞音曲」 であ

( S)

る「能楽の芸術的価値を思」 ったと書‑のも、﹃謡曲及能楽 趣味と名士﹄ が刊行され

たのも、明治四十年代以後のことである。これ以外にもオペラと能楽をタイトルに掲

( 3)

げたいくつかの文章が'明治四十年代から大正初めの ﹃能楽﹄誌上を賑わしているO

岩倉具視がオペラをみて能楽の保護を考えたというエピソードも、エピソードを流

( )

布した久米邦武の言説もかな‑疑わしい.そしてt連の指摘は、日清戦争直前にあら

われた「古典」としての能楽をめぐる言説の後に位置する。だとすれば、「伝統芸能」

としての能楽の称揚や、「日本固有」かつ 「貴顕の遊」 への称賛とは、結果的に「芸術

的価値」高き能楽を「保護奨励」した皇族や岩倉具視ら華族たちへの賛美へと結びつ

くものだったのではないか。

ミネ・ホークが能楽をオペラより素晴らしいと称えた1この記事は、外からの眼

差しに力をか‑、「古典」としての能楽を有する国民国家日本が'西欧に優るとも劣ら

ない文化的な一等国であると'告げようとする。能楽の強い称揚は、能楽が欧米への

コンプレックスを補いうるすぼらしさ「伝統芸能」 であるという主張に支えられ'政

府に対する言祝ぎへと傾斜したのである。これに﹃読売新聞﹄ 二月十五日の記事をか

さねてみれば、日清戦争へむかって「古典」を定めつつあった国民国家日本と、内外

ともに「古典」として認知されゆ‑能楽を捉えることができよう。

日清戦争と第一次世界大戦の間、明治三十五 (一九〇二)年に能楽初の専門誌﹃能

( 3)

楽﹄が発刊された。その巻頭辞は、「古典」としての能楽を扱う上で特筆に価する。

能楽は我国固有の音楽にして。尊皇尚武の経とし。忠孝仁義の道を緯とし。因果

応報の理を之に寓して。彩るに高尚優美の文学的趣味を以てしたるものなれば。 貴神を慰むるには他に比類なき適当の舞楽也。(略) 好況といはゞは即ち好況な‑。然れども。翻って静かに其内容を考ふる時は。吾人は未だ俄にこれを慶すること能はざるを如何せん。(略) 局に当る人々の中には。自ら進んで此衰勢を挽回するの気力なきのみならず。流派を争に感情に制せられ。兄弟潜に閲ぎて其衰勢を助長するの愚を演ずるもの往々これあり。若し平然として現状に安んじなんには。此高尚優美なる日本特有の舞楽も。遂に廃絶して再び見る事能はざるに至らん。実に慨嘆の至りならずや。吾人が﹃能楽﹄を発行する所以もこゝにあ‑。﹃能楽﹄微力なりといヘビも。自ら能楽界の期間を以て任じ。流派に偏せず個人に党せず。進んでは世間一般の人に能楽の保存必要を叫び。ひいては当局の人々と1致融和の法を図り。以て此国粋的舞楽振起保存を実行するの先鋒たらんとす。

能楽を「国楽」と呼び、外国から流入した楽よりも好ましいという言説は'明治

< = )

二十九 (一八九六) 年にあらわれていたが、ここで能楽は「尊皇尚武」と 「忠孝仁義

の道」とによって成り立つ 「国粋的舞楽」といわれ'だからこそ'能楽界は能楽の保

存のために一枚岩になれ、と語られる。

同年八月、陸海軍両省と華族会館との総意に基づいて'老朽化した芝能楽堂が靖国

神社内に移転された。靖国神社ではそれまでも勧進能、鎮魂能が行われていたが、「国

粋的舞楽」とみなされはじめる時期の能楽堂移転は、能楽が皇室や華族にとどまらず、

軍部とも密接な関係にあったことをうかがわせる。

これを裏付けるように、翌三十六 二九〇三) 年一月には陸軍大臣の奏請によって

靖国神社の九段能楽堂へ下賜金があり、日露戟争開始の年には'日清戦争の際と同じ

く各

地で

軍資

献金

能が

行わ

れた

。雑

誌﹃

能楽

﹄ 

には

「戦

時の

能楽

」 

(三

月)

 や

「大

和魂

と能楽」 (四月)、後者に端を発し九月号まで四度にわたり掲載される「大和魂と能楽

説に就いて」などが目立つ。そして'「出征軍」や「東郷大将」などの新作能が作られ、

明治三十八 (一九〇五) 年一月には旅順陥落祝賀能が催された。

もちろん、能楽界が進んで対外戦に加担したとはいい切れない。しかし、同五月八

日の ﹃日本﹄ にも「能楽案内」として「大和魂を鼓舞する」「愛国心を要請する」など

という言葉がみえることから、このときすでに、「大和魂」を奮い立たせ戦勝を喜ぶた

めの能楽が、自明と見倣されていたのは明らかである。

明治四十二 二九〇九) 年の雑誌﹃能楽画報﹄ へよせられた発刊祝辞には'「欧州楽

の如きは単に音楽として耳を傾くるの外、舞躍のこれに漆はざるものあ‑、(略) 其音

( 2)

楽と舞楽を併備し高遠にして遊趣あるものは能楽を措いて他に求む可らず」 や、能楽

∴、∵を楽しむものは「愛国の徒」 であるとの言説があり、後に「健全な国」 になるために

( a)

能楽を盛んにしようという大隈重信の提言も掲載される。演じ手である能楽師たちが

ー145‑

(4)

そうした意識をもたなかったとしても、「古典」として発見された能楽は、日本が対外

戦争を‑‑かえすたびに、「古典」たる特性を強めているといってよい。日露戦争以降、

能楽へもたらされたのは'日清戦争の頃よ‑も明確な「大和魂」との結合であった。

即位式の大典能ではじまった大正期の能楽は、習い事としての謡曲人口の多さから

充分な収入源と観客を確保し、隆盛をきわめる。関東大震災で八箇所の能楽堂消失と

いう甚大な被害を受けながらも'ほとんどの能楽堂が一〜二年のうちに再建された。

能楽界には、政治的な後援者のみならず'経済的にも豊かな素人弟子と観客がついて

/ / I l

いたのである。

こうした支持層に加え、「大正十四年からのラジオ放送開始に伴って謡曲が電波に乗

るようになったことや'昭和二年創刊の岩波文庫に世阿弥の﹃風姿花伝﹄や﹃申楽談儀﹄

( 2)

が収められ」たこと'「能楽研究の成果の続出もあって識者の能への関心が強ま‑、古

典劇として能楽を見る観客が増えた」 (同右) という好条件も重な‑、能楽は、昭和初

期にも衰退の兆しをみせない。

三㌧

 「

大東

亜の

綜合

芸術

」 

十五年におよぶアジア・太平洋戦争中、芸術および芸能へも'権力によるさまざま

な介入がなされた。能楽にも'天皇を称する「皇帝」が「天皇」に言い換えられたり'

皇女の物狂いが登場する「蝉丸」 の上演が自粛されたりという変化はあった。しか

し'かざし言葉の伝統から禁句の回避が可能であるとともに、政権を担う人物を後援

者としていた能楽は、芸能取締‑を行う機関にとっても「できるだけ触れた‑ない ﹃聖

3

域﹄」 であったようにうつる。

昭和十六(l九四1)年に靖国神社能舞台で初漬された「忠霊」や、現役の軍人が

(

S

)

(

S

3

)

作詞した「皇軍艦」など、戦争を措‑新作能が各界で賞賛されるのはもちろん、能楽

' { ・ . ,

界も昭和十五 (一九四〇) 年の皇紀二千六百年にあたって自主的に奉祝式能を催し、

l .: ご

観世錬之丞が「戦時下に於ける能楽師の覚悟」をあらわすように、能楽師たちは戦争

協力者としての発言を繰り返す。本来武家の芸能である能楽であるから、「全体の仕組

なり精神なりは戦時下の気分に合って行‑やうになって居‑ます故'今日の御時勢に

背くことは断じて無いと信ずる」とし、「慰問の能とか献金の能とかを催し」 て戦時体

制に協力するという「戦時下に於ける能楽師の覚悟」。この覚悟を実行するために'昭

和十八 (一九四三)年八月より「観世報国隊奉仕能」が催され、観世以外の流派もこ

れにならう。

雑誌

﹃能

楽界

﹄ 

には

「民

族芸

術と

して

の能

楽」

 (

昭和

十七

年三

月)

、「

謡曲

と敵

性国

家」

(同

四月

)、

「大

東亜

戦争

と謡

曲」

 (

同五

月)

、「

決戦

下の

能界

」 

(昭

和十

八年

八月

)な

どが

載り、「能楽人が絶えず砕身粉骨、芸道への精進を許されつつあるは何によるか。思ふ にこれただちに時局に超然たるが故にあらずして、寧ろ、その純正なる芸術的発動が'国民の志気を昂揚し、情操を滴養して、崇厳なる皇国愛護の念を層一層に結集推進せしめ得べきがためのみ。斯‑して全能楽界は'初めて戦力増強に資Lt まさしく決戦体制のうちにありとなすべ‑、職域奉公の実は、庶幾くただこれによってのみ完遂せ

( iS )

らるべきものなるを信ず。」と巻頭「宣言」 にいう﹃能楽﹄ は、「芸能報国の一助」と

( S)

して報国のために楽師の全国機関が設置されることを報じ'「時局下に見直す能の姿」

や'「厚生娯楽としての狂言」と題し能楽を勤労芸能と論じた。

厳し‑思想統制がなされていた時期であるから、これらを以て能楽界が軍部に協力

的であったとは'直ちに判断できない。こうした傾向は、軍部と能楽界だけの閉ざさ

れた関係ではなかった。文化的な潮流だけをみても、国学=皇学としての古典が注目

を浴び'プロレタリア文学からの転向者をも呑み込んだ民族主義が全盛を極め、日本

( S3 )

浪漫派の古典崇拝が明確化してい‑時期である。

とはいえ'紙の配給量減少から文芸誌が次々に廃刊へ追い込まれた昭和十八

(一九四三) 年以降にも専門雑誌を複数有し、それらを統合するかたちではあれ昭和

十九 二九四四) 年に五十頁前後の雑誌﹃能楽﹄ を創刊しえたこの能楽は'軍事体刺

に と っ て 後 援 す る に 足 る

「 国 楽

」 で あ っ た

。                   一

このことは、昭和十八年の世阿弥没後五百年記念イベントを控えた識者の発言によっ 46

1 { ・ . I

てもはっき‑する。横井春野の ﹃世阿弥の生涯﹄ は、タイトルの通‑世阿弥の生涯を 1丹念に追った力作だが,能楽を唐突に「日本精神、大東亜精神」と呼ぶ異様な序が付 l

されている。

能の源流を究めてゆ‑と我朝においては神代の古へ迄、海外においては支那'西

域、天竺迄もさかのぼらねばならぬ。(略) 今日行ほれてゐる能の基礎をつくっ

た人は観阿弥、世阿弥父子である。か‑観じ来れば'能芸術は我日本の綜合芸術

であると同時に、大東亜の綜合芸術である。観阿弥以来五百数十年間に発達して

きた現在の能楽には'日本精神、大東亜精神がみちあふれてゐる。吾人は多年能

楽の大衆化(国民化) 運動にいさゝか努力し来つたが'今後は大東亜大衆化運動、

更に進んでは世界化運動に向けて通進すべき秋であると信ずる。大東亜民衆各位

の間に能楽を広め、大東亜精神をしっかりと把握せしめねばならぬ。

「能の源流」が「我朝においては神代の古」 に、「海外においては支那、西域、天竺」

にあるという視点はかならずLも間違ってはいないO しかし序は、そこから1気に現

代へ目をうつし、「か‑観じ来れば、能芸術は我日本の綜合芸術であると同時に、大東亜の綜合芸術」と規定する。この言説は、能楽がもともと 「大東亜の綜合芸術」とし

(5)

てあったのではなく'「大東亜精神」を創造するために満州や台湾の文化的統治に用い

られたという意味において、まった‑逆転している。﹃謡曲界﹄ が「台湾だより」とい

う連載を組むように台湾への能楽輸出は明らかで'「滴洲国民も親邦日本国民と1体」

のために「全面的な文化建設の促進」が必要だから能楽を満州へもちこもうという梅

1 7. (

田正太郎「戦争と能楽」 の指摘を実現するかのように、京城などでの演能も行われた。

その

他に

も、

雑誌

 ﹃

謡曲

界﹄

 や

 ﹃

能楽

﹄、

﹃能

楽画

報﹄

 は

、租

借地

大連

、日

本軍

に攻

された奉天や旅順といった地での演能記録を伝えている。

この長いアジア・太平洋戦争の中で'能楽は、「大和魂」 の象徴から、侵略して奪い

とった地域に押し付けるべき「大東亜の綜合芸術」 へと変貌していたのである。

四㌧

 「

文化

国家

」 

日本

の象

徴か

アジア・太平洋戦争が終わったとき'多‑の能楽堂や代々能楽師の家に伝えられて

きた面や装束、膨大な文書は空襲で焼失しており、出征していた能楽師の中には帰ら

ぬ者もあった。さらに、占領軍による財閥解体と戦犯の追及、家族制度の廃止。能楽は、

「大東亜の総合芸術」としての意義はもちろん、近代以前から後援者であった層のほと

んどを失ったといってよい。

だが能楽は、昭和二十 (一九四五) 年九月十六日、早‑も染井能楽堂で能楽協会第

一回定例能を行う。これは敗戦前から企画された公演であると同時に'明治、大正期か

ら続く家元制度の混乱を是正し、家元制度を尊重するために結成された能楽協会の定

例能である。その意味で能楽協会第一回定例能は、国民国家の「古典」としての能楽

を引き受け、それに順応してきた「古典」の担い手たちの存続を約束するものであった。

こうした能楽界と上演演目に対し、GHQも介入をしない。あだ討ち物の上演を禁止

するなど歌舞伎への規制はしつつも、結局、能楽への規制が表面化することはなかった

l   m r '

ので

ある

そして能楽は、新たな使命を獲得して再生の道を歩みはじめた。能楽は「大東亜の

(

3

1

)

(

3

2

)

総合芸術」から一転'「民主主義的」な「文化国家として再生する日本に於いて」重い

使命を負う芸能になったのである。

昭和二十一(一九四六)年の九月に創刊された雑誌﹃幽玄﹄ には、このような巻頭

言がふされていた。

能は日本文化の粋であり基調であった 能がしかし化石化しっ,ある 能が閉じ

こもってゐる古い殻を割って活き活きとしたものにしたい 能についてゐる雑物を

拭ひ去って純粋なものにまで昂めたい 能をもつと広‑一般文化人の所有とした

い 能の持つ高い芸術精神と文化性は必ず将来の日本文化に寄与するに違いない 雑誌﹃幽玄﹄ の本文では'「能に見る東洋芸術の特質」というアジア民族をキーワードとする連載が回を重ねている。謡曲「御軍艦」 における八紘一宇の高唱や、アジアへの文化的侵略の道具のひとつであった戦時中の能楽を思うとき'この変わり身のはやさは驚異的といってよい。

新たな使命を負い、「能についてゐる雑物を拭ひまつ」た能楽は、「活き活きと」新

境地を開拓する。

昭和二十五 (1九五〇)年結成の能楽ルネッサンスの会から華の会へと至る観世寿

夫らの取‑組み、新劇の舞台への進出'昭和三十(一九五五)年の武智鉄二「智恵子抄」

などといった新作能、三十三二九五八)年には新しい能楽を模索する雑誌﹃能楽思潮﹄

が創刊、小山清茂「交響組曲︽能面︾」や湯浅譲二「葵の上」といった現代音楽界との

提携。他の芸能からの影響を表に出してこなかった能楽は、ここにきて他ジャンルと

の盛んな交流によって話題をさらう。「純粋」であるかどうかはともかく、「古い殻を

割」 った能楽は、戦後飛躍的に力を増したマス・メディア、それを享受する「民主主義」

二〃■下の知識人と大衆によって支持されたのである。

「日本文化の粋であ‑基調で」あると認知され、「広‑1般文化人の所有」となり、「日

本文化に寄与」し始めた能楽。さらにこの芸能は、意外な後押しを受ける。

敗戦後'古典文学に平和国家日本の精神的源泉を見つけようという試みが起こる。

昭和二十一(一九四六) 年の ﹃国語と国文学﹄ 国文学特集には、「日本国民は建国の古

から'平和と美と道義の愛好者であ‑'清浄潔白を尊ぶ国民である。その国民性に根ざし其の精華として咲き出たる国文学である以上、虚心にその本質に立ち向かふなら

( 朗)

ば、それで十分」とまで断じる論が掲載された。「平和と美と道義」 の国日本を創造す

るための「古典」探しが、始まったのである。

また、反体制知識人たちにも動きがあった。一九四〇年代後半インド・エジプ‑な

どの植民地独立運動勝利、中国革命に由来する「民族」意識の高まり'そして民族と

言語をめぐるスターリン論文の影響が加わって'昭和二十六(一九五1) 年度の歴史

学研究会大会は「歴史における民族の問題」をテーマにする。その中で、「能楽・狂言・

( S3 )

謡曲・茶の湯・生花等はいずれも武士・農民による闘争の中で生まれてきた」との発

言があり'能楽は民族特有の舞台と称揚された。

昭和三十九 (一九六四) 年に東京オリンピックと併催された ﹃オリンピック能楽祭﹄

は、このような文化国家日本の「古典」としての能楽のあ‑かたを端的に示している。

能楽祭のパンフレットは、能楽を「民族的な舞台芸術であるからこそ、また国際的な

舞台芸術として世界演劇史の上からも注目される価値がある」と言祝ぐ。かつて式楽

として育てられ'文化水準の高さを示す対外的な指標とな‑、戦意高揚に7役かった

能楽

は'

敗戦

直後

の日

本で

 「

文化

国家

」 

の 

「古

典」

、民

族の

 「

古典

」と

して

発見

され

147 ‑‑

(6)

さらに日本の復興の象徴となった東京オリンピック開催に際Lt 「世界演劇史の上から

も注目される価値」をもった称賛すべき「伝統芸能」 へと返り咲いたのである。

五、おわりに

高度経済成長の時期がすぎ'平成四 (一九九二) 年頃からバブル崩壊が鮮明となる。

政治や経済ばか‑でなく、文化においても「失われた十年」と呼ばれる長い停滞期が

続き、現在においてさえ'そこからの完全なる脱却は果たされていない。

だが、ちょうど同じ時期、能楽界が昭和二十年代後から三十年代前半を思わせる活

況をロ王しはじめる。平成四年、能楽研究所紀要﹃能楽研究﹄ の「能界展望」欄は「こ

こ数年、能楽界は催しの数も格段に増え'全国各地での薪能も頂点に達した感があっ

( )

た。(略) 能楽界は未曾有の盛況を呈している」といい、国立能楽堂主催の外国人対象

の能楽鑑賞会が盛んだとも伝えた。ここには'戦前の「古典」 であ‑戦後の 「古典」

であった能楽の面影が揺曳する。やはり能楽は'今も'日本のアイデンティティが揺

らいだときにそれをとりまとめ、内外に威を示すための 「古典」なのだろう。

もちろん、近代以降の能楽が、すべて「古典」として表象されているというわけで

はない。日々の娯楽に属する能楽や、能楽を日常とみなせない人々によって新しい芸

能として注目された能楽。そのような能楽との多層的な接触は'近代文学の担い手た

ちによって豊かに記録され、能楽から抽出された方法やモチーフが作家たちに影響を

与えた例も多い。

( SS I

死の床で謡を楽しむ正岡子規の痛々し‑も強い生への執着を伝える「病床六尺」。苦

沙弥先生が口ずさむ謡の一節が先生という人物の造型に奥行きを与える夏目歌石の「吾

1 7! , I

輩は猫である」。加賀藩葛野流大鼓方の娘を母にし、宝生流の松本金太郎を伯父とする

泉鏡花が能楽的=幻想的な空間の創造につとめた小説「照葉狂言」や﹃草迷宮﹄'「杜

若」。バイロンの劇詩「マンフレッド」に謡曲の方法を融合し、日本初の近代戯曲となっ

( 3)

た北村透谷の ﹃蓬莱曲﹄。白樺派の郡虎彦が残した謡曲「道成寺」 のおどろおどろしい

翻案戯曲「清姫 若しくは道場寺」とその改作「道成寺」 や、同名の謡曲の翻案であ

∴L

りながら筋を心理劇風に膨らませた戯曲「鉄輪」。能楽教授であった夢野久作は、謡曲

( 3)

「綾鼓」を思わせる怨念を、妖艶な「あやかしの鼓」に封じ込めた。

( 3)

そして、アジア・太平洋戟争を経て三島由紀夫の戯曲﹃近代能楽集﹄ シリーズが昭

和二十年代後半からの能楽ブームを牽引した後'能楽はさまざまに拡散する。山崎正

(

3

)

<

S

)

和の戯曲「世阿弥」。謡曲「砧」を通奏低音とした遠藤周作の小説﹃わが恋ふ人は﹄や、

(S O

倉橋由美子の小説「紅葉狩‑」。小説やエッセイで能楽を語るだけでな‑、自らも舞台に立った白洲正子など。

戦後二度目の長き能楽ブームにある現在、すなわち決着のみえない 「第一次世界内 戦」 (ポール・ヴィリリオ) の時代において'ロボットや戦火と結びつき、漫画やアニ

( 3)

メーションのモチーフとして登場した能楽も見逃すべきでない。そうした作品にあら

われた能楽は、きわめて「古典」的でありながら、「伝統芸能」にも日本という国家に

も還元されない新たな意義と輝きを獲得つつあるといえよう。

国民国家日本に「古典」として発見され、三度の転換を経てなお「古典」 でありつ

づける能楽。近代において、こうした能楽のあ‑方からまった‑自由な能楽表象はな

い。しかしだからこそ、そこには、「古典」 であることを言祝ぐ圧倒的多数の表象にま

じって、「古典」 であ‑つづけることを逆手に取った波乱の試みや、「古典」 であるこ

とを投げ捨てる謀叛の表象がみてとれる。本論は、能楽を介した創造的な表象発見を

扱うための前提である。

*引用に際し、旧字は適宜新字に改めた。

注(‑) ハルオ⁚ンラネ、鈴木登美﹃創造された古典﹄ (新曜社一九九九年四月) の用語に従えば'能楽もまた国民国家形成の過程で実際には共通の歴史・宗教・人種二言語的

ルーツを持たない集団を束ね'統一国家のアイデンティティを支える「古典(カノン)」であろう。だが本論は、国民国家形成期にとどまらず、「古典」となった能楽の微妙

かつ大胆な変異を捉えることを目指す。また、本文中ではふれえなかったものの'この「古典」という視点において、能楽と国定教科書との関わりも重要である。明治期から現在にいたるまで続‑謡曲の教科書採用と'そこでなされる能楽の説明が、つね

にそれぞれの時代の要請に従って日本という国へと還元されている点にも、能楽という「古典」 の変異がみいだせよう。

(2) そうした作家のひと‑が三島由紀夫である。三島と能楽の創造的関係については'拙論「﹃中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜草﹄試論」 (﹃繍﹄早稲田

大学大学院文学研究科修士ゼミ繍の会 二〇〇四年三月)'「能楽における﹃生の否定﹄

の発

見 

三島

由紀

夫﹃

近代

能楽

集﹄

第1

作「

郡部

」論

」 

(﹃

国文

学研

究﹄

 二

〇〇

五年

月)、「三島由紀夫の能楽受容‑﹃地獄を見たことによって変質した優雅﹄ の表象‑」

(﹃

早稲

田大

学大

学院

文学

研究

科紀

要 

第五

1輯

第三

分冊

﹄ 

二〇

〇六

年二

月)

、「

﹃言

の優雅﹄ から ﹃実際の行動﹄まで‑三島由紀夫の能楽受容‑」 (﹃早稲田大学大学院教

育学研究科紀要 別冊第十三巻二﹄ 二〇〇六年三月)'「救いなき死の受容 三島由紀

夫﹃

近代

能楽

集﹄

第四

作﹃

葵上

﹄論

」 

(﹃

昭和

文学

﹄ 

二〇

〇六

年九

月)

、「

切‑

捨て

られ

た供

養‑

三島

由紀

夫﹃

近代

能楽

集之

内﹄

 ﹃

源氏

供養

﹄ 

論‑

」 

(﹃

国文

学研

究﹄

 二

〇〇

年十月) などを参照されたい。(3) 近代以前の能楽史'および標準的な能楽史を把握するうえで、西野春雄・羽田飛編集﹃新訂増補 能・狂言﹄ (平凡社一九九九年六月)、表章・天野文雄﹃岩波講

座 能・狂言 ‑能楽の歴史﹄ (岩波書店一九八七年三月)、横道寓里雄・小林貢

‑ 148‑

(7)

﹃日本古典芸能と現代﹄ (岩波書店一九九六年三月)を参照した。

(4) 川村秀﹃謡曲及能楽 趣味と名士﹄現代芸術名家大鑑発行会一九l七年三月(5)岩倉具視の功績から明治の能楽と明治政府とを関連づけ、カノンとしての能楽を指摘する論に、横山太郎「岩倉具視の能楽保護1華族と国民の間で‑」 (﹃文学 増

刊 

明治

文学

の雅

と俗

﹄ 

二〇

〇一

年十

月)

と同

「能

楽堂

の誕

生」

 (

﹃表

象文

化論

研究

二〇

〇三

年三

月)

 が

ある

(6)一八八〇年十月二十二日の ﹃朝日新聞﹄が、新作能「鶴ヶ丘」を紹介する記事で「能楽」という名称を用いたように'能楽社設立以前から「能楽」 の語は存在した。しか

し'公文書においては「能狂言」「猿楽狂言」、民間では「能」あるいは「お能」と「狂言」 の名称が圧倒的に優勢であった。倉田喜弘編著﹃明治の能楽(一)﹄ (国立能楽

堂一九九一年三月)参照。

(7

) 

池内

信嘉

﹃復

刻・

増補

版 

能楽

盛衰

記 

下巻

 東

京の

能﹄

 (

東京

創元

社一

九九

二年

十月) が示すように危機的な時代として明治初期を回顧する能楽師もいた。しかし、

﹃重修猿楽伝記﹄ (わんや書房一九八一年十二月) で苦境を伝えられた観世清孝が'実際には明治政府に朝臣願いを出さず徳川家に従って駿府へ行き自ら苦境を招いたよ

うに'明治初期の能楽界全体が破滅的な危機にあったわけではなかろう。それは'﹃梅若美日記 第一巻〜第七巻﹄ (八木書店一九九二年一月〜一九九三年十二月) にも、さほどの困窮が記されていないことでもわかる。逆にいえば'能楽界の危機を誇大に

語り政府からの恩恵を喜ぶ傾向とは、「古典」としての能楽を立ち上げるときにこそ

必要なレトリックであったということになる。

(8

) 

﹃読

売新

聞﹄

一九

八四

年二

月十

五日

(9) 遣欧使節団の一員であった久米邦武の欧米見聞記﹃特命全権大便米欧回覧実記﹄ (悼

聞社 1八七八年十月) は'オペラを「諸種の芝居中にて最上等なるもの猶我能楽の如し」と紹介する。なおここでの引用は'田中彰校注﹃特命全権大便米欧回覧実記

一巻〜五巻﹄ (岩波書店一九七七年九月〜一九八二年五月)。そして、﹃復刻・増補版 能楽盛衰記 下巻 東京の能﹄ (前掲) が採録した「能楽社設立之手続」 には'発起人たちが「高尚優美」な能楽は「高尚優美」なオペラの如‑保護すべきとの考え

に基づき、能楽社を立ち上げたとある。しかしこれらには、古い能楽はオペラよ‑上等であるという発想がない。そのため'オペラ<能楽という発想を一八九四年以前に

遡ることは出来ない。

(2

) 

「能

楽の

過去

と将

来」

﹃能

楽﹄

一九

二年

七月

(3) 「オペラと能楽」 (投稿者不明一九〇八年六月)'本居帳世「能とオペラについて」(一九二一年九月) など。

(2

)竹

本裕

1 

「久

米邦

武と

能楽

復興

」 

(西

川長

夫・

松宮

秀治

編﹃

幕末

・明

治期

の国

民国

形成と文化変容﹄新曜社一九九五年三月収録) は'久米邦武の能楽に対する言説の変遷を追いながら:久米が近代国家と不可分なかたちで復興させた「能楽」を指摘し

てい

る。

(2) 1九〇二年から1九二一年までの第l次﹃能楽﹄ である.

(3

)芋

兵衛

「能

楽保

護に

係‑

て」

﹃読

売新

聞﹄

 l

八九

六年

八月

二十

四日

(S

)飯

田巽

「祝

発刊

」 

﹃能

楽画

報﹄

一九

〇九

年三

(S

)観

世清

廉「

祝発

刊」

 ﹃

能楽

画報

﹄一

九〇

九年

三月

(5)大隈重信「能楽は国民的娯楽な‑」﹃能楽画報﹄四号一九〇九年六月 大隈重信は、

高田早苗や池内信嘉らと共に早稲田に能楽文学研究会を発足させ、自ら舞台にも立ったという。

(2)このことは、一九二四年1月に第1刷が出版され'すぐに部分的再版がなされた﹃初心者稽古用 観世流改訂謡本﹄ (観世流改訂本刊行会)と、同時期に出版された大正十三年版﹃観世流改訂謡本﹄ (観世流改訂本刊行会 1九二四年二‑四月) の存在か

らもわかる。関東大震災による書籍の消失に'その後のメディア再編成も加わって、大正末期の出版業界は活況であった。とはいえ、観世流改訂本刊行会の謡本が観世宗家正本と括抗しながら二系統あらわれ、「初心者稽古用」と銘打った前者が再版され

る様子は、間接的に能楽界を支える愛好家の膨大さを物語っていよう。表章﹃鴻山文

庫本

の研

究 

謡本

の部

﹄ 

(わ

んや

書店

 1

九六

五年

三月

)参

照。

(2) ﹃岩波講座 能・狂言 Ⅲ能の作者と作品﹄岩波書店一九八七年一月(8) 中村雅之「戦時体制下における天皇制の変容」 (能楽学会﹃能と狂言 2﹄ 二〇〇四年五月)。能楽師の回想などを見ると'「大東亜戦争に遭遇し、後援者を失ったため'

衰退の1途を辿った」(﹃観世寿夫著作集 三 伝統と現代﹄平凡社一九八l年三月)というような言説が散見され、能楽にも戦時下なりの抑圧が存在したことは間違いな

い。しかし本稿では'出版物などの傾向から、能楽界が体験した戦争というよ‑も戦争にあって能楽がいかに表象されたのかを問題にしたい。

(S

)佐

古少

尉作

詞・

観世

華雪

作曲

。l

九四

三年

五月

'華

族会

館恩

賜能

舞台

で初

演?

(S

3)

雑誌

﹃観

世﹄

 (

一九

四二

年一

月)

 の

「忠

霊」

特集

など

参照

のこ

と。

(S3) 皇紀二千六百年奉祝芸能祭は、政府でな‑、財団法人日本文化中央道盟主催のイベ

ントである。そのため'「政府や民間企業から資金援助が期待ほど集まらなかったというような主として財政的な問題から縮小された」 (宮崎刀史「皇紀二千六百年奉祝

芸能に関する一考察」 ﹃演劇研究センター紀要Ⅰ 早稲田大学21世紀coEプログラム﹄ 二〇〇三年三月所収)。一九三九年の企画段階において「新しい現代日本の舞台

芸術

」 

の礎

たる

「大

昔の

お神

楽や

能」

 (

﹃東

京朝

日新

聞﹄

 1

九三

九年

1月

十三

日)

 の

演を第一に予定しながら、これらの公演が行われなかったのも経済的な事情と思われる。ことに能楽は'もともと新年祝賀を始めとするたくさんの能会を予定していたた

め、あえて演劇祭の一プログラムと銘打って予算を割‑必要がなかったのだろう。しかし、だからといって能楽関係者が奉祝行事に非協力的であったわけではない。芸能祭の演目から省かれたことに対し'1九四〇年1月号の ﹃能楽画報﹄ 「能楽新開」欄

は 「実世間に疎い二一の人達によって決めてしまふことは広‑大きい能楽そのものの冒涜で許すべからざる専断であるといふ説が既に高まりつ,あるところが能楽会は

‑149‑

(8)

25 24

空空

30 29 28

‑̲‑    \・‑■    \・‑

33 32 31

﹃私設芸能祭﹄とでも称すべき催しを十五年も年末に近い十一月甘三四の両日に亙っ

て開

催す

る」

と伝

え、

「五

流家

元の

総出

勤」

 (

﹃能

楽画

報﹄

一九

四〇

年十

月号

) 

の「

設芸能祭」は宝生能楽堂において予告どおり実現する。また、横浜観世会は一九四〇年一月、すでに横浜伊勢佐木の特設舞台で自主的な皇紀二千六百年記念能を催しても

い>

蝣' ''

観世鏡之丞「戦時下に於ける能楽師の覚悟」 ﹃観世﹄一九四三年五月

第三

次 

﹃能

楽﹄

。﹃

観世

﹄ 

﹃宝

生﹄

 な

ど各

流派

の雑

誌を

統合

した

もの

だが

'そ

れに

して

もこの時期、各月五十頁前後という規模を維持し'敗戦をまたいで1九四六年まで続‑雑誌は非常に珍しい。雑誌﹃能楽界﹄ においても、一九四二年のの頁数は百三十頁

前後で、一九四三年にも百頁近い紙数を確保している。これらから、能楽界関係の出版物に対し'優先的に紙が支給されていたのではないかという疑いがもたれる。

一九四四年七月。「厚生娯楽としての狂言」も同。日本浪漫派の根本は西欧美学であり、「﹃日本浪漫派﹄広告」 (一九三四年) で保田与

重郎がいう「伝統芸術人復興の使命」も「.日本に限定されるわけではない。しかし'戦時下に ﹃コギト﹄ ﹃日本浪漫派﹄ ﹃文芸文化﹄と活動拠点を広げてい‑過程で、日本古典への崇拝が濃‑なっていった。日本の古典文学への傾倒の著しさで知られる ﹃文

芸文化﹄ (1九三八年七月〜1九四四年四月) には、謡曲に対する投稿文も多い。大東出版社 1九四三年十1月

﹃謡

曲界

﹄ 

1九

四三

年五

占領下において能楽公演もGHQの許可が必要であったが、近年発見された資料

(ク

No

クP

la

y 

調査

はM

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an

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la

によ

る)

から

も'

実際

に謡

曲の

内容

が規

制さ

れた

という事実は認められない。謡曲「鉢木」 のごとき封建道徳そのもののような曲も'武士の亡霊が閥歩する修羅物も'さらには明治以降'対外戦争が起こるたびに戦意高

揚のために作られた多‑の新作能もありながら'GHQは具体的に規制するべき曲を見つけえなかった。公演の演目を決める能楽界側の自主規制もあろうが'歌舞伎と同

等あるいはそれ以上に戦時体制を維持する支配層と関わってきた能楽の歴史を把握せぬGHQが、能楽の象徴性の高さから看過したものと思われる。なおt GHQが能楽

へ唯一介入した例として梅岩問題があるが、これは占領期の行政機関としてのGHQに梅若流が提訴した結果であってt GHQが家元制度解体をも‑ろんだわけではない。竹越建造「能楽過去未来」 雑誌﹃幽玄﹄創刊号一九二六年九月

雑誌

﹃能

﹄創

刊号

(一

九二

六年

1月

) 

の巻

頭言

一九四五年十一月には'以降の新聞社主催の能会の範となった朝日五流能が開かれ

ており、1九五一年七月のテレビ実験放送では能舞台の映像が用いられた。新しい時代の中で起こった新しい演劇や音楽への待望と連動する能楽と他ジャンルとの融合も、それを喧伝するマス・メディアをともなっていた。 史学研究会封建部会で松本新八郎が行った「中世の民族と伝統」報告がまとめられてい

る。

(8) 戸井田道三「能と狂言について」 オリンピック東京大会芸術展示パンフレット﹃オリンピック能楽祭﹄ 一九六四年

(&

5)

 ﹃

能楽

研究

﹄法

政大

学能

楽研

究所

1九

九四

年三

月号

掲載

の西

野春

雄「

能界

展望

」よ

‑。

この回は一九八八三年〜1九九四年までを総括的に扱った文章である。

(3

) 

﹃日

本新

聞﹄

 1

九〇

二年

五月

〜九

(3) ﹃ホトトギス﹄ l九〇五年1月〜八月(ァ) 「照葉狂言」 は ﹃読売新聞﹄一八九六年十一月〜十二月に初出。﹃草迷宮﹄ は

一九〇八年一月に春陽堂から刊行。「杜若」は ﹃新小説﹄一九二年八月号に掲載。

(3

) 

﹃蓬

莱曲

﹄養

真堂

 l

八九

1年

五月

(覗) 「清姫 若し‑は道場寺」はl九二年六月﹃スバル﹄ に初出の後、公演に際して改

作さ

れ、

「道

成寺

」と

して

二九

二1

年四

月の

 ﹃

三田

文学

﹄ 

に掲

載o

「鉄

輪」

は、

初稿

1九二年二月の ﹃スバル﹄ に発表されたが、1九1三年三月﹃白樺﹄ で改作されて

いる

(3

) 

﹃新

青年

﹄一

九二

六年

十月

(3)一九五〇年五月﹃人間﹄初出の戯曲「郡部」から'一九六二年三月﹃文芸﹄初出の戯曲「源氏供養」までの九曲。なお'「源氏供養」は三島由紀夫自身によって廃曲さ

れ ‑ ! ' .   ' ‑ 47 46 45

1九六三年の第九回岸田国士戯曲賞受賞作。

﹃京都新聞﹄一九八五年十一月一日〜八十六年七月八日

﹃クロワッサン﹄1九八七年九月〜十l月

サンライズ制作アニメ「ガサラキ」(一九九八年十月〜一九九九三月テレビ大阪系に

て放送)と同漫画化MEHMU﹃ガサラキ﹄(角川書店一九九八年十二月〜二〇〇〇

年六月)、およびProductionI.G制作アニメ「お伽草子」(二〇〇四年七月〜二〇〇五

年三月日本テレビ系にて放送)と同漫画化瀬都ナルミ﹃お伽草子﹄(マッグガーデ

ン二〇〇五年二月〜七月)は、能楽を主要なモチーフとする作品であるだけでな‑、

二〇〇1年九月十1日をはさんでなされた戟争をめぐる能楽の表象という意味でも興

味V'4‑いr

‑150‑

(S) 能勢朝次「国文学会は如何にあるべきか」 ﹃国語と国文学﹄ 至文堂一九四六年三月(8) 歴史学研究会編﹃歴史における民族の問題﹄ (岩波書店一九五一年十二月) に'歴

参照

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