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『曽根崎心中』 : 西洋での受容

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『曽根崎心中』 : 西洋での受容

著者 アッタナズィオ ドナテッラ

雑誌名 同志社国文学

号 39

ページ 80‑88

発行年 1993‑12

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005095

(2)

『曽根崎心中』

    西洋での受容

ドナテ

ッラ ・ア

ッタナズィオ

 近松が日本のシェイクスピアと呼ばれ ,シェイクスピアと比較して ,西洋の判断基準 だけを基礎に評価されたのは今世紀の始めあたりで ,それから以後 ,その評価をめぐっ ては大きな変化があった。現在では ,近松は独自の天才だと思われていて ,他の劇作家

と比較してもあまり意味がないと考えられている

 しかし,近松の劇作をどのような方法で評価すればよいのかという問題が残っている DONALD KEENEが述べているように,近松の劇作には ,西洋の判断基準をよくま

こつかせる要素があるので,その劇作をとのように判断すれはよいのか,また ,とのよ うに解釈すればよいのかという疑問が出てくる 。日本でもこれについての評価には ,見 解の一致を見ていないようだが,外国ではどうだろうか

 その問題を ,近松の傑作と思われている『曽根崎心中』を例にして ,外国でのさまざ まな解釈を調査し,考察してみたい 。残念ながら ,西洋での「近松研究」はまだあまり 進んでいない 。さらに奇妙なことには ,外国の日本文学専門の雑誌には ,近松について の評論が非常に少ないのが現状である

 しかし,DONALD KEENE ANDREWGERSTLE RENE SIEFFERT達が,近 松の劇作を翻訳したり,近松を巡 って幅広く評論したりしていて ,近松や『曽根崎心 中』の理解を広げ,深めるための材料を提供している

 ここではまず ,この三人がどのように噌根崎心中』を解釈したかを明かにしたい

続いて,『曽根崎。L・中』の翻訳の問題を取り上げ,DONALD KEENEの英語訳,RE

      八

NE SIEFFERTのフランス語訳,MARCELLO MUCCIOLIの

IL TEATRO GIAP

 八

PONESE Sto

ha e anto1ogia (1962)の中のイタリヤ語訳を比較しながら,それぞれ の翻訳がどのような洞察の下に ,近松の劇作を再現しているかということを考えて行く ことにしたい

(3)

 KEENEが,初めて英語圏の読者層に ,近松の偉大さを示した学者である 。日本文学 の多くの話題についてのKEENEの書物の中には ,近松の劇作についての書物もある

1961年に出版された MAJOR PLAYS OF CHIKAMATSU には噌根崎心中』を含 めて11曲の翻訳が収められている。同書の前書きで ,噌根崎心中』について触れてい

る。

そこで,KEENEは噌根崎心中』の人物 心中の理由 道徳なとについて論じて いる。その中には ,後に有名になっ た次の一節がある

   詩の魔法を通して,特に道行で(近松が)全然前途に希望のない人物を ,悲劇の    ヒーローに変化させることができた。(同書p.16)

これは「道行」の効果を言 ったものである

 また ,KEENEは噌根崎心中」の登場人物は ,他の近松の劇作の登場人物とは違う と言っている 。すなわち,徳兵衛が反ヒーロー的な人物として創造されているし,その 徳兵衛を心中に駆り立てるお初も ,それ以前の劇作に登場する型にはまっ た遊女とは違 っているというのである

 KEENEにとって, 噌根崎心中』は他と異なる異常な劇作であって,その価値を日 本文学の歴史の一道標として認めるのは,登場する人物が普通の人問ではあるが,新し く違った人物として描かれており ,特に「道行」によって, 彼らが偉大なヒーローに成 長するところを発見したことによっ ている 。そして ,彼は近松の劇作を「普通の人間に ついての最初の成熟した劇」(同書p.1)と定義している

 その後 ,西洋の学者達が近松を問題にするときは,普通はKEENEの解釈に従った のである。しかし,KEENEと異なる見解もある。 JAPANESE AND WESTERN LITERATURE a Compara七ve Study (1970)の著者ARMANDO MARTINS JANEIRAが,日本文学と西洋文学の比較をするときに,前記のKEENEの言葉を引 用して ,次のように述べている

   厳密な意味で,(近松の劇は)いろいろな所で本当に悲劇的な生命感を表してい   るにもかかわらず,traged1es とは思われない。近松はローマン王義者である。彼   の感情的な性格は猛烈な川の流れと同じで ,日本の伝統または日本の教育のすべて   の柵を破壊してしまう。(同書p.260)

 JANEIRAが,近松のことをローマン王義者だというのは何故か ,また何故にロー マン主義者であれは近松の劇がtraged1esでなくなるのか ,この判断の根拠について何 の説明もない 。この暖味性は,ロマン主義やtragediesのような外国の言葉で,近松を

(4)

定義することの困難さを示している 。いうまでもなく ,外国の言葉は ,外国の文化に属 する観念であり ,よく誤解を生み出す

 しかし,JANEIRAのこの言葉には,近松の劇作を新しい角度から洞察する可能性 を示しており,興味深いものがある

 近松の劇作への新しい接近の道は

CIRCLES

 OFFANTASYConven{on inth P1ays of Ch1kamatsu (1986)の著者であるANDREWGERSTLEによって提案され ている

 Counc11ofE

astA

s1anStud

1es(H

arvard大学)から出版された同書は ,専門的な学 術書である

 GERSTLEは,近松の劇作を西洋の判断基準を基礎にするのではなく ,日本の伝統 的な判断基準を基礎にして劇作を解釈することを目指している

   この研究批評の中心は伝統の中からすることにある。外から課せられた批評の理   論は ,著者に以前は知られていなか った約束を強制し ,読むことを助けるというよ   り混乱させる傾向がある。(中略)批評はまず,劇作家の劇作法の約束,及びその   時代の読者 ・観客の読み方 ・見方の約束を考慮しなければならない。(同書 序文)

 GERSTLEの研究批評の方法は,劇を脚本 三味線 太夫の声に分け,その全体を 考慮しようとするもので ,新しい接近の方法である。GERSTLEは,劇作の独自な統 一性,または劇の各部分の強調のための ,音楽の役割を考えた 。西洋の悲劇がカタルシ スの観点から解釈できるのに対して ,近松の劇作は ,上の方から始まり ,苦しい危機の 経験が起る下の方に下り ,また上の方に戻るという循環的な「旅」の観点から解釈でき るという理論を展開している

   もちろん ,浄瑠璃のモザイクはグラフィッ クアートではなくて ,音楽的な進行で   もあり ,物語的な進行でもある劇である 。どの分野でも ,旅をさせ ,劇の危機を通   して終結にまで導く 。この旅の特徴は ,実は終結が,遠回しの道筋を通過後 ,出発   の所に戻って来ることにある。(同書p.63)

 GERSTLEは,同書のDescentto Parad1se(天国への下り道)という一章の中で

『曽根崎心中』 ・『心中万年草』 ・『心中天の網島』を取り上げている

 『曽根崎心中』についての批評の中で ,黒木勘蔵 ・祐田善雄・横山正 ・郡司正勝の諸 氏の理論をとりあげつつ ,この劇を特に構造と道行の観点から解釈している。噌根崎 心中』は一度苦しみの暗い夜に下り ,また解放の夜明に上が って来る動きの特質を示す 劇作だと解釈するのである

   噌根崎心中』は時間の動きの観点より見ると ,その質は大変にコンパクトであ

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  る 。昼間に始まり ,夕方に至り ,夜明けに終わる 。どの劇作にもより込み入 った筋   の展開があるのにもかかわらず,劇の流れは必ず夜明けにしか解放されない苦しみ   の暗い夜を目指して下がって行く。劇的展開の観点からは重要な意味がないにもか   かわらず,死へ向けての旅の道行は ,劇中の詩的な動きの決定的な部分になってい   る 。むしろ ,道行の旅の歌は ,KEENEが定義したように ,登場人物が偉大になっ   てゆく流れの中の閑静な水たまりである。旅の途中で登場人物が残して来た親しい   人達を思い出して苦しみ ,その最後に彼らを巻き込んだ問題のすべてを ,脳裏に映   し出すことになる 。道行とは,彼らの人生における重要なエピソードのすべてが圧   縮された見取り図である。新しい劇的展開はないが,観客達は,差し迫 った死に直   面して ,精神的に成熟して行く登場人物達の姿を見るのである。(同書p.115−116)

 この引用に見えるように,GERSTLEの噌根崎心中』に接近する道は,KEENE

の接近の道とは随分違 っているにもかかわらず,GERSTLEは,道行で登場人物が偉 大になるという点では ,KEENEの見解に賛成している

 1991年にRENESIEFFERTが,24曲の世話物の翻訳を含めた CHIKAMATSU

Les Trag6diesBo皿ge01ses という4冊の物書を出版した。SIEFFERTの出版の目的

は批評ではなくて,翻訳であるが,同書には長文の前書きがあり ,かつ ,噌根崎心中』

の翻訳の部分にも解説的な前書きが付いている

 SIEFFERTが近松の世話物を外国語の 位ag6d1es と呼んでもよいものかとうか ,長 く熟慮を重ねた末に 位ag砧es bourgeoises と決めた理由は,近松の世話物が西洋の演 劇を性格付ける行動 ・時問 場所の統一性を,(KEENEも言うように)もっているこ

とによる

 しかし,SIEFFERTが trag6d1es と認めたのは ,統一性よりも,近松の登場人物が 避けられない運命の犠牲になっ ていることを重視した結果である。SIEFFERTによれ

ぱ, 近松の劇作においては,その運命はいろいろな形で表わされるが,金銭問題という 形を一番とりやすい

。噌根崎

。L・中』の重要性は,まさに ,のちの traged1es

bo肚geoises において見られるような,そうした金銭問題が,先駆的に描かれているこ

となのである。SIEFFERTは次のように述べる

   この運命は ,経済的や社会的な形をとっても,人々の大部分にとっ ては神の意志   とか ,捕えがたい「必然性」と同じように避け得ないものであるので,より少なく   悲劇的であるとは言えない。(同書p53)

(6)

 近松や『曽根崎心中』の評価がそれぞれの学者によっ て異なるのと同じように,噌 根崎心中』の翻訳の場合も ,翻訳する学者の目指すものによっ てある程度の違いが生じ ている。そのため ,同一の劇作であっても,全く違 った印象を与えることになる 。その 文体,全体の整理の仕方 ,言葉と描写 ・説明の部分の翻訳の仕方 ,台詞の属性について の考え方に ,違いが現れる。この相違の一番重要なポイントを,『曽根崎心中』の三種 の翻訳を比較することで考えて見たい 。そして ,翻訳とは ,劇作をどのように読むのか によって決定するという角度から ,論じて見たい

 取り上げるのは,KEENEの英語訳 ,MUCCIOLIのイタリヤ語訳,SIEFFERTの

フランス語訳の三種である。それぞれの言語によっては,台詞と地の文の翻訳に微妙な 表現の違いがあるようだが,ここでは ,大きな問題になる部分を取り上げることにした

い。

 まず,三種の翻訳は ,全体の整理の仕方が違うというところから始めたい

 KEENEは劇作を次の三つのシーンに分けているが,「観音巡り」の部分を翻訳して いない

  1 The gromd s of出 e Ikutama Shnne m Osak

  2 Ins1de the 

Temma 

House

  3 The Joumey From D6jma to th e Sonezak 1Shnne

 MUCCIOLIは劇作の全体を翻訳して,三つの幕に分けている

  1 I1pel1egrmag910a Kwannon

  2 A1temp1o d1Ikutama   3 A11a Tenma ya M1ch1yuk

 SIEFFERTもやはり,全体を翻訳して ,三つの幕に分けている

  

1 

Le pe1egrmage aux trente−tro1s Kamon/Devant1e T emp1e d Ikutama

  2 A1a Ma1son 

Tenma

  3 Chant de route de Tokuby6e et OHatsu

 また,三人の学者達は脚本を ,散文と詩の部分に分け ,太夫の語り方の区別をしてい るが,それぞれに違いがある

 一般的な印象としては,KEENEの翻訳は,台詞を基礎にして ,西洋の劇の脚本に近 い。一方,MUCCIOLIとSIEFFERTの翻訳はむしろ詩の入った散文で ,級晴詩調の 物語体の読み物である

(7)

 後者二人の翻訳には流れがあり ,それに翻訳言語の音楽性を加えて ,非常に詩的なも のになっている。フランス語の翻訳は哀れ深く ,多量に使用された感嘆符に支えられた チェーシン律動がある 。全てが悲劇的結末に落ち込み,それに抵抗できない登場人物が 無我夢中で巻き込まれて行くしかないような運命の力が感じられる。イタリヤ語の翻訳 には,より閑雅な律動があり ,悲劇への進行には,心に迫る悲しみが強く感じられるが

それはより落ち着いた諦念と入り交じっ ていて ,ほとばしるようなものではない

 しかし,何よりもまず,この両者の翻訳に著しい魅力を与えているのは,オリジナル 通り,最初に「観音巡り」の叙情詩を用意したことである。「観音巡り」は昔の観客に 対してと同じように ,現代の読者を ,より具体的な描写の前に ,魔法の雰囲気の中にひ

き込むものである

 「観音巡り」の有無は人物の重要度にも関係を持っている。「観音巡り」の無い KEENEの翻訳では,男女のとちらが王人公かはっきりしないが,「観音巡り」のある SIEFFERTとMUCCIOLIの翻訳の方では,予想外にも,むしろお初の方が王人公と して感じられる 。劇の始まりの部分で読者はお初を紹介してもらう 。劇作全体の約四分 の一も占める「観音巡り」は全部お初のものである 。お初のお参りの様子 ,美しさ ,若

さ, 愛情に満ちた心などの他に ,はかなさや悲劇への予感などが描かれている 。読者が 魅了される愛情の魔法は ,お初の魅力であり,抵抗できないままに悲劇的結末に追い込 まれるお初の運命の力である 。読者はまず最初に ,「観音巡り」のお初の姿に心引かれ

お初の運命と出来事を聞くことを楽しみに ,劇作の続きを読もうとする 。お初がその後

どうなるのかを知りたくなるのである 。そして読者の期待通りに物語は進んで行く 。生 玉の場面で ,読者は始めてお初が愛している徳兵衛に出会う 。ここで徳兵衛は主人公と して登場してはいるが,物語全体のなかでは,むしろお初の話の補完的なものとして描 かれているように見える

 徳兵衛よりお初の方が重要である印象は,特にMUCCIOLIのイタリヤ語訳が与え ている。このイタリヤ語訳では ,語り手の声が「観音巡り」の部分と同じく ,登場人物 の会話部分とは異なる字体(イタリッ ク体)で区別されており ,その語り手は ,もっぱ らお初について語 っているのである。そのことが,「観音巡り」のお初と ,後のお初と の継続性を際立たせる効果がある 。語り手の声をたどって行くと,読者は噌根崎心 中』が本来太夫の声による対話劇ではなくて,「観音巡り」から結びまで ,首尾一貫し たお初の物語である ,という印象を受ける 。その物語に途中から徳兵衛が巻き込まれて 行き,男女二人の物語になるが,原則的にはお初の物語として見える

 KEENEとSIEFFERTによれは,「観音巡り」が次の場面である生玉の場の最初の

(8)

文句「立ちまよふ。浮名をよそに 。」からの文章が,徳兵衛に関するものとなっ ている

が, MUCCIOLI訳では,お初に関する文章となっている。これは,MUCCIOLIが

「観音巡り」と生玉の場が連続していることを ,意識して翻訳しているのである    Declsa a non1asc1ar trape1are e d1伍onders1,come fumo c he,sa11to m a1to s

  spande, 1a stona de1suo amore

,O H

atsu ,sebb ene1o nascoda ne1cuore,non sa re

  pr1mere11fuoco c he1e arde m petto Su1suo T okube1,be11o come una bambo1a

  a11a mranoya,1e prmavere s1sonoaccumu1ate(同書P458)

 この部分の会話主は全部お初で ,徳兵衛も「彼女の徳兵衛」として描かれているので ある。生玉の場面は「観音巡り」の続きとして ,同じ主人公のお初の物語として書いて いるので ,徳兵衛は新しい主人公の登場として紹介されるのではなく ,お初が愛する男 性として紹介されているのである

 MUCCIOLIの翻訳を,そのまま正解の解釈 ・翻訳とするのには ,判断に注意を要す るが,さらに彼は深い解釈を示した翻訳をしている

 上記に述べた通り,SIEFFERTの翻訳では,生玉の場面の最初の台詞は徳兵衛が言 うようになっ ている 。しかし ,ここでも ,「観音巡り」とそこに描かれたお初との関係 を暗示する言葉が使用されているのである。フランス語の「煙」(fumee)と,同じく

「軽さ」(1egerete)の二語が「観音巡り」と共通する単語として再度使われている 。こ こからも徳兵衛は自立した人物としてよりも ,お初に結び付けて紹介されていると考え ることカミできる

 KEENEが述べているように ,浄瑠璃では一人の太夫によっ て時問 場所 進行なと の全てが語られるので ,作者の近松は台詞の一つ一つに会話主を説明する必要も無く そのため読者には ,だれが話しているのか分からないときがある 。さらに日本語では人 称代名詞がほとんど使用されないために ,翻訳は大変困難になる

 人称の使用の相違点は,他に「心中道行」の中にも見つけることができる

 道行の途中で,近くの遊郭からの歌謡が聞こえてくる場面で ,それを聞いている人物 の場合である。KEENEとMUCCIOLIの翻訳では,「どうで女房にや持ちやさんすま

い, いらぬものぢやと思へども」から「放ちはやらじと泣きければ」までの詞章は,歌 謡であるが,その真ん中に哀れさを語る太夫の言葉が挿入されている。SIEFFERTの 方は,この部分は全部 ,歌謡のままで扱い ,挿入部分はない 。この相違は ,その歌謡の 意味を変えることになる

 すなわち,KEENEとMUCCIOLIの翻訳では,歌謡は二人の王人公の気持ちに関 連しているように見える。SIEFFERTの方では,第一人称で絶望的な愛を歌うお初の

(9)

「女の歌」として位置づけられ,お初の気持ちが強調されていることになる

 また,KEENEとSIEFFERTの二人が,お初 ・徳兵衛の両人に関わる詞章としてい る「歌も多きにあの歌を 。」から「命を追はゆる鳥の声」までを,MUCCIOLIはお初 だけのものに解釈している

 異なる翻訳を比較検討すれば,登場人物の重要性に関して ,興味深い仮設が生まれる

たとえぱ ,もし ,「とうで女房にや」からの部分をお初に限定したSIEFFERTの解釈

と, 「歌も多きにあの歌を」からの部分をお初に限定したMUCCIOLIの解釈を接続さ せれば,最初にお初にふさわしい歌があり ,続いてお初の心の苦しみカ需吾られ ,続いて お初と徳兵衛の絶望的な嘆きの場面が,太夫によっ て語られることになる 。これらの部 分は「心中道行」の前半の所にあるので,お初を中心にした詞章が続いていることは

劇中のお初の役割を非常に重要にすることになる

 もし,「観音巡り」 ・「生玉の場」 ・「天満屋の場」 ・「心中道行」のそれぞれの最初の場 面やそれに続く部分で ,お初が中心になっ ていることが正しければ,お初こそが,死の うという希望を現実のものにする主人公だと言わねばならなくなる。(結局 ,「天満屋の 場」の中に出て来る「望みの通り一所で死ぬる」の語句の王語は,SIEFFERTの翻訳

によれば,お初になっている。)

 翻訳が劇の読みに影響を与えるもうひとつの例として,人称代名詞について考えてみ たい

 KEENEは「心中道行」の二人の描き方で they (彼ら)を用いず

we

(私達)

という代名詞を使用し,お初 ・徳兵衛が直接話しているように翻訳しているが,一方 SIEFFERTとMUCCIOLIの方は 11s 1oro (彼ら)という代名詞を使用して ,太 夫の語る詞章として ,翻訳している

 こうした詞章への解釈は,作品解釈に関わる大きい意味をもっている。即ち

KEENEの翻訳では,二人が偉大な英雄になり,第一人称の声を獲得している

GERSTLEが述べた通り,道行を前にした二人が,以前よりも精神的に成耽している ように見える

 一方,SIEFFERTとMUCCIOLIの翻訳では,偉大さや精神的な成熟は,心中にま で至る恋仲の二人の現実と伝説のはざまの話を物語る ,神のごとき太夫の偉大さであり 成熟なのである

 先学の解釈を検討しながら,その可否を考えてみたが,まだ紹介の域を出ることがで きなか った。さらに今後を期したい

(10)

<参考文献>

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      Donate11a 

ATTANASIO

・L

ノ、

参照

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