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変貌した超越論的観念論としての現象学

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(1)

変貌した超越論的観念論としての現象学

著者 中村 拓也

雑誌名 文化學年報

号 64

ページ 139‑157

発行年 2015‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027528

(2)

変 貌 し た 超 越 論 的 観 念 論 と し て の 現 象 学

中 村 拓 也

フッ サー ルは 一九 三一 年の

﹃デ カ ル ト 的省 察

﹄で は っき り と 自身 の 現 象 学を 超 越 論的 観 念 論で あ る と 規定 す る︵

I

119 f.

︶︒ も っと も︑ それ に先 立っ てす でに 一九 一三 年の

﹃イ デー ンⅠ

﹄で の超 越論 的転 回に よっ て超 越 論 的観 念 論 と し ての 現象 学は 実質 的に 確立 して いた

︒﹃ イ デー ンⅠ

﹄に おい て 超 越論 的 観 念論 と し て の現 象 学 の内 実 は 達成 さ れ て い たけ れど も︑ 少な くと もそ の論 述に 関し ては

︑さ まざ まな 誤解 を生 じる 余地 のあ る問 題の ある もの であ った こと も ま た確 かで ある

︒そ れに とど まら ず

︑﹃ イ デー ン

Ⅰ﹄ から

﹃デ カ ル ト的 省 察

﹄に 至 って

︑フ ッ サ ール が 現 象学 を 明 確 に 超越 論的 観念 論と して 自己 規定 する に至 るま でに は︑ 伝 統的 な 超 越論 的 観 念論 か ら の 拡張 と 変 貌が 進 行 し てい た

︒ し たが って

︑﹃ イ デー ンⅠ

﹄公 刊以 前の 一九

〇八 年か ら一 九二 一年 に至 る︑ 超越 論的 観念 論に 関す る草 稿を 集成 した

︑ フ ッサ ール 全集 第三 六巻

﹃超 越論 的観 念論

﹄で 現象 学が 伝統 的な 超越 論的 観念 論か ら変 貌し てい く具 体的 過程 に光 を 当 てる こと によ って

︑い かな る意 味で 現象 学が 超越 論的 観念 論で ある のか

︑そ して

︑超 越論 的観 念論 とし ての 現象 学 に

︑伝 統 的 な超 越 論 的観 念 論 と 比較 し て︑ い かな る 新 しさ が あ る のか

︑こ の 問 いに 応 え るこ と が 本 論 考 の 課 題 で あ る

︒ 超越 論哲 学の 中心 概念 であ る超 越論 的と は 一体 何 か︒ さ しあ た り 応え て お く なら ば

︑こ う であ る

︒超 越 論 的と は

― 139 ―

(3)

対 象の 認識 を︑ さら には 経験 を可 能に する けれ ども

︑そ れ 自身 は 可 能に さ れ る当 の 経 験 と並 列 的 にあ る の で はな く

︑ あ くま でそ うし た経 験を 可能 にす る機 能と して のみ 確認 され るに すぎ ない

︒こ うし た超 越論 的な 機能 を解 明す るこ と を 主題 とす ると いう こと が超 越論 哲学 の基 本性 格に ほか なら ない

︒そ の際

︑け っし て忘 れら れて はな らな いの は︑ 超 越 論的 観念 論は

︑主 観性 の形 式︑ 超越 論的 なも のの あり 方を ただ それ だけ で独 立し て取 り扱 うこ とに 終始 する ので は な いと いう こと であ る︒ なる ほど 経験 を可 能に しつ つそ れ自 体は 経験 され ない とい う謎 めい た性 格は

︑そ れ自 体哲 学 の 主 題 とし て 魅 力的 で あ る こと は 確 かで あ る︒ 他 の学 問 が

︑け っ して 扱 う こと が な いあ る い は でき な い と い う 意 味 で

︑哲 学固 有の 主題 であ ると いう だけ では ない

︒ しか しな がら

︑そ うし た哲 学固 有の 課題 とし ての 超越 論的 なも のを 解明 する ため に︑ 単純 に哲 学的 論証 の緻 密さ の 度 合い を上 げる こと にの みこ だわ るこ と︑ この 場合 では

︑超 越論 的な もの のあ り方 にの み関 心を 向け 議論 を展 開す る こ とは

︑そ もそ も超 越論 哲学 の根 本精 神に 背く

︒な ぜか

︒そ れに 応え るた めに は︑ 経験 を可 能に しつ つ︑ それ 自体 は 経 験さ れな いも のと いう 定義 に今 一度 思い を凝 らす 必要 があ るだ ろう

︒可 能に され る経 験と の連 関こ そが 最重 要の 主 題 であ り︑ その 連関 の一 方の 側面 とし て超 越論 的な もの が主 題と なる

︒両 者の 関係 は︑ けっ して 逆で はな い︒ 超越 論 的 なも のの 解明 にの み関 心を 向け るの は︑ 最も 避け るべ き超 越論 的な もの の実 体化 を招 来し てし まう 危険 を冒 すこ と に なる

︒ 超越 論的 なも のの 解明 その もの では なく

︑む しろ 経験 され る世 界と 超越 論的 なも のと の関 係こ そが

︑超 越論 哲学 の 根 本主 題で ある

︒フ ッサ ール は﹃ 超越 論的 観念 論﹄ でこ の関 係の 解明 に取 り組 む中 で︑ 可能 性と 現実 性と いう 問題 に 突 き当 たり

︑現 実性 を証 明す るた めに

︑身 体性 を超 越論 的観 念論 のな かに 組み 込む 必要 性に 迫ら れて いる

︒同 じく 現 実 性の 確保 のた めに

︑相 互主 観性 を副 次的 な課 題と して では なく

︑超 越論 的観 念論 の不 可欠 の構 成要 素と して 取り 入

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 140 ―

(4)

れ る必 要が 意識 され るに 至る

︒こ うし た意 味で の超 越論 的観 念論 の拡 張と 変貌 がど のよ うに して 遂行 され るの かを 明 ら かに する こと にし たい

︒ 論述 の手 続き は以 下の 通り であ る︒ 第一 に︑ 超越 論的 観念 論の 基本 的性 格を

︑哲 学史 上は じめ ての 超越 論哲 学の 自 覚 的 展 開と し て のカ ン ト の 批判 哲 学 の検 討 を 通し て 確 定 する

︒そ の 際︑ 英 国経 験 論︵ 経 験的 観 念 論︶ と 大 陸 合 理 論

︵超 越論 的実 在論

︶と の比 較検 討を 通し て︑ カン トの 超越 論的 観 念 論が 経 験 的実 在 論 と 結合 す る 哲学 的 立 場で あ る こ と が 明 らか に な る︒ 第二 に

︑フ ッ サ ール の 超 越論 的 観 念論 を 検 討 する

︒﹃ イ デ ーン

Ⅰ﹄ で の 超 越 論 的 転 回 に よ っ て

︑ 実 質的 にフ ッサ ール は超 越論 的観 念論 を打 ち出 して いる

︒し かし なが ら︑ フッ サー ル自 身の 論述 の性 急さ もあ り︑ そ の 意図 は必 ずし も判 然と せず

︑誤 解を 呼び やす い︒ した がっ て︑ ここ では フッ サー ルの 真意 を肯 定的 に読 み解 くこ と を 通し て︑ フッ サー ルの 超越 論哲 学の 構 想 を明 ら か にす る

︒第 三 に︑

﹃ イデ ー ンⅠ

﹄公 刊 以 前か ら

︑一 九 二一 年 ま で の 草稿 を集 成し た︑ フッ サー ル全 集第 三六 巻﹃ 超越 論的 観念 論﹄ に定 位し て︑ 伝統 的な 超越 論的 観念 論と フッ サー ル の 超越 論的 観念 論と の差 異を 明ら かに する

︒そ の際

︑伝 統的 な超 越論 的観 念論 に対 して

︑フ ッサ ール の超 越論 的観 念 論 は︑ 身体 性と 相互 主観 性を 組み 込む こと にな る︒ 最終 的に

︑伝 統的 な超 越論 的観 念論 の拡 張と 変貌 とし てフ ッサ ー ル の超 越論 的現 象学 的観 念論 を示 すこ とに した い︒ 第一

節 超越 論 的 観念 論 哲学

史上 超越 論的 観念 論を 自覚 的に 展開 した のは

︑カ ント にほ かな らな い︒ カン ト自 身に よる 超越 論的 とい う術 語 の 定義 は︑ 周知 のと おり こう であ る︒

﹁ 対象 にで は な く︑ むし ろ 一 般に

︑対 象 に 携 わる 認 識 の仕 方

︑そ れ もア プ リ オ

― 141 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(5)

リ に可 能で ある べき かぎ りで の認 識の 仕方 に携 わる 認識 をす べて

︑わ たし は超 越論 的と 名づ ける

﹂︵

B2 5

︶︒ カ ント に よ れば

︑対 象で はな く︑ 対象 をア プリ オリ に可 能に する 認識 の仕 方お よび その 認識 の仕 方に つい ての 認識 が超 越論 的 と 呼ば れる

︒し たが って

︑こ うし た超 越論 的な もの の解 明を 課題 とす る哲 学を 超越 論哲 学と 呼ぶ こと が許 され るだ ろ う

︒ しか し︑ カン トは 自身 の哲 学を 単に 超越 論哲 学で はな く︑ 超越 論的 観念 論と 呼ぶ

︒そ うし て当 時の 哲学 的な 立場 と 対 比的 に自 身の 超越 論的 観念 論を 性格 づけ てい る︒ カン トに よれ ば︑ 英国 経験 論は 経験 的観 念論 であ る︒ 経験 的観 念 論 は実 質的 観念 論と も呼 ばれ

︑蓋 然的 観念 論と 独断 的観 念論 とに 区別 する こと がで きる

︒そ して

︑大 陸合 理論 は経 験 的 観念 論と 結合 する 超越 論的 実在 論で ある

︒こ のよ うに 経験 的観 念論 と超 越論 的実 在論 とが 結合 する のに 対し て︑ カ ン ト自 身の 超越 論哲 学は

︑経 験的 実在 論と 結合 する 超越 論的 観念 論で ある とさ れる

B 190 f.

︒ それ では

︑﹃ 純 粋理 性批 判﹄ に拠 りつ つ︑ それ ぞれ の立 場 の 基本 的 性 格と 関 係 を 明ら か に する こ と にし よ う

︒経 験 的 観念 論︑ すな わち

︑カ ント の定 義で は実 質的 観念 論は

︑外 界の 空間 的対 象の 現実 存在 を疑 わし い証 明さ れな いも の と みな す蓋 然的 観念 論と

︑虚 偽で あり そも そも 証明 不可 能で ある とみ なす 独断 的観 念論 とに 区別 され る︒ 蓋然 的観 念 論 には 方法 的懐 疑を 遂行 中の デカ ルト

︑そ して

︑カ ン ト自 身 は 明言 し て いな い が ヒ ュー ム が 属す る

︒そ れ に 対し て

︑ 独 断的 観念 論に はバ ーク リが 属す る︵

B 274

︶︒ 両者 が実 質的 観念 論と 言わ れる のは

︑﹁ 唯 一の 直 接的 経 験 は内 的 経 験 で あり

︑こ の内 的な 経験 から 外的 事物 は推 論さ れる にす ぎな い﹂

B 276

︶ とい う共 通の 主張 によ る︒ では

︑実 質的 観念 論が

︑二 つに 区別 され るの はど のよ うな 理由 によ るの だろ うか

︒蓋 然的 観念 論は

︑内 的経 験か ら の 推論 が外 的事 物の 現実 存在 を確 実な もの とし て証 明で きな い︑ すな わち

︑外 界の 事物 の存 在は 蓋然 的な もの にす ぎ な いと みな すが ゆえ に蓋 然的 と言 われ

︑独 断的 観念 論は

︑外 的事 物の 現実 存在 の証 明を 端的 に不 可能 とし て退 ける が

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 142 ―

(6)

ゆ えに

︑独 断的 と言 われ る︒ さて

︑哲 学的 な立 場と して の経 験的 実在 論と は︑ 外界 の事 物の 知覚 は︑ 外界 の事 物の 現実 存在 を端 的に 保証 する と い う主 張で ある

︒日 常的 な常 識を 哲学 的認 識論 的立 場と して 洗練 した もの であ ると 言え るだ ろう

︒そ して

︑認 識論 は こ うし た日 常的 な常 識の 成立 を説 明し よう とす る︑ ある いは

︑両 立可 能な 説明 を与 えよ うと する 企て であ ると みな す こ とが でき る︒ しか しな がら

︑経 験的 実在 論そ のも のは

︑哲 学的 立場 とし ては 素朴 であ り︑ そう した 素朴 さに 対し て 哲 学的 反省 が加 えら れて 経験 的観 念論 か超 越論 的実 在論 かの どち らか へと 考察 は深 めら れる こと にな る︒ しか しな が ら

︑蓋 然的 観念 論で あれ 独断 的観 念論 であ れ︑ 経験 的観 念論 は外 的事 物の 実在 を証 明す るこ とが でき ない

︒ した がっ て︑ 経験 論的 実在 論を 整合 的に 根拠 づけ るた めに

︑経 験的 観念 論に さら に哲 学的 反省 が加 えら れる こと に な る︒ こう して 経験 的観 念論 は︑ 経験 の可 能性 の根 拠を 主観 から 独立 して 存立 する 実在 に求 める 超越 論的 実在 論と 結 合 する に至 る︒ 超越 論的 実在 論は

︑外 界の 事物 の現 実存 在を 保証 する ため に︑ 唯一 直接 的な 内的 経験 から 神の 存在 を 推 論し

︑そ の神 の誠 実性 によ って 外界 の事 物の 現実 存在 を回 復す るに 至る

︒外 界の 事物 の現 実存 在の 認識 を可 能に す る も の を︑ 主観 の う ちに で は な く︑ 主観 依 存 的な 観 念 にで は な く︑ 主 観か ら 独 立の 実 在 とし て の 神 に 求 め る が ゆ え に

︑こ うし た主 張は 超越 論的 実在 論と 呼ば れる こと にな る

︒ しか しな が ら

︑こ う した 推 論 によ る 神 の認 識 は

︑単 な る 推論 を認 識と 僭称 して いる にす ぎな いと 断じ られ るこ とに なる

︒ こう した 脈絡 を背 景に して

︑カ ント は自 らの 超越 論哲 学を 経験 的実 在論 と結 合す る超 越論 的観 念論 の立 場で ある と す る

︒し た がっ て

︑カ ン トは こ う 述 べて い る︒

﹁ 経 験 的 実 在 論 者 は 超 越 論 的 観 念 論 者 で あ る

﹂︵

A 371

︶︒ カ ン ト は

︑ 超 越論 的な もの

︑対 象の 認識 を︑ さら には 対象 の実 在性 を保 証す る対 象の 経験 を可 能に する もの を︑ 空間

︑時 間︑ カ テ ゴリ ーと いう 形式 の観 念に ほか なら ない と主 張す る︒ した がっ て︑ 空間

︑時 間︑ カテ ゴリ ーに つい てそ の超 越論 的

― 143 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(7)

観 念性 が主 張さ れる

︒し かも

︑こ の主 観の 形式 の超 越論 的観 念性 は︑ 対象 の経 験を 可能 にし てい るか ぎり で経 験的 実 在 性を 同時 にも つ︒ しか し︑ 経験 を先 行的 に可 能に する とい う条 件を 度外 視し て︑ 超越 論的 なも のそ のも のを それ だ け で取 り出 して 考察 する なら ば︑ それ は無 であ る︵

B4 4

︶︒ し たが って

︑経 験を 可能 にす ると い う意 味 で の経 験 と の 関 係と いう 枢要 な要 件を 度外 視し て︑ 超越 論的 なも のを それ 自体 であ たか も客 観的 実在 性を もつ もの とし て扱 うこ と は 不可 能で ある

︒ ここ での 諸々 の哲 学的 立場 の整 理と 性格 づけ は︑ もち ろん あく まで

﹃純 粋理 性批 判﹄ での カン トの 主張 を基 本的 に 前 提し た上 で展 開さ れて いる

︒カ ント の立 場か ら見 られ たと いう だけ では なく

︑個 々の 立場 につ いて のい っそ う正 確 な 論究 が必 要で ある のは 当然 であ る︒ カン トの 超越 論哲 学の 構想 その もの の成 否は

︑そ れは それ で独 立し た大 部の 論 考 を必 然的 に要 請す る巨 大な 論題 であ るこ とも また 言う まで もな い︒ しか しな がら

︑超 越論 的観 念論 とし ての フッ サ ー ルの 現象 学の 解明 を課 題と する 本論 の範 囲で は︑ カン トの 場合 の超 越論 的と いう 概念 の意 味を 解明 した うえ で︑ 認 識 論的 な立 場の 哲学 的深 まり 行き を概 観し

︑そ の到 達点 とし ての 経験 的実 在論 と結 合す る超 越論 的観 念論 にカ ント の 超 越論 哲学 が定 位し てい るこ とを 確認 する こと で十 分だ ろう

︒こ うし て獲 得さ れた カン ト的 な意 味で の伝 統的 な超 越 論 的観 念論 の基 本的 性格 を踏 まえ たう えで

︑フ ッサ ール の超 越論 的観 念論 に取 り組 むこ とに した い︒ 第二

節 超越 論 的 観念 論 と して の 現 象学 フッ

サー ルも また 自身 の現 象学 を超 越論 的観 念論 と規 定す る︒ カン トに とっ て超 越論 的と いう 概念 は︑ 経験 的と い う 概念 との 対概 念で ある

︒し かし なが ら︑ フッ サー ルに とっ て超 越論 的と いう 概念 は︑ 経験 的と いう 概念 との 対概 念

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 144 ―

(8)

で はな く︑ むし ろ自 然的 とい う概 念と の対 概念 であ ると いう こと がま ず注 意さ れね ばな らな い︒ した がっ て︑ 経験 的 観 念 論 や超 越 論 的実 在 論 と いう 術 語 を︑ フッ サ ー ル自 身 の 論 述の う ち に少 な く とも 明 示 的 には 見 出 すこ と は で き な い

︒し かし

︑術 語と して 明示 的に 用い られ るこ とが ない とい うこ とは

︑フ ッサ ール の現 象学 がそ うし た問 題構 制と 無 関 係で ある こと を意 味し ない

︒む しろ こう した さま ざま な認 識論 的立 場に 対す るフ ッサ ール の批 判の 内実 は︑ この 図 式 と重 ねる こと によ って より よく 理解 する こと がで きる

︒そ して

︑フ ッサ ール 自身 の論 述の 拙さ もあ って

︑フ ッサ ー ル の現 象学 は︑ 自身 の自 己理 解と して の超 越論 的観 念論 とし てで はな く︑ その ほか の哲 学上 の立 場と 容易 に誤 解さ れ る こと にな って しま う︒ した がっ て︑ ここ では そう した 誤解 から フッ サー ルの 本来 の意 図を 掬い 出し

︑カ ント 以来 の 超 越論 哲学 とし ての 超越 論的 観念 論の 基本 性格 は︑ フッ サー ルの 超越 論的 現象 学的 観念 でも やは り踏 襲さ れて いる と い うこ とを 明ら かに する こと にし たい

﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の第 四省 察の 最後 の二 節︑ 第四

〇節 と 第 四一 節 を フッ サ ー ル は︑ 自身 の 現 象学 が 超 越論 的 観 念 論 であ ると いう 主張 にあ てて いる

︒現 象学 と超 越論 的観 念論 の結 びつ きに つい て︑ フッ サー ルは 次の よう にす ら述 べ る

︒﹁ 志 向的 方法 のも つ最 も深 い意 味や 超越 論的 還元 の最 も深 い意 味や その 両方 の最 も深 い意 味を 誤解 する 者だ けが

︑ 現 象学 と超 越論 的観 念論 を分 離し よ うと す る こと が で きる

﹂︵

I 119

︶︒ フッ サ ー ル は︑ 伝統 的 な 意味 で 観 念論 と 呼 ば れ てき た哲 学的 な立 場と 自身 の超 越論 的観 念論 を明 確 に区 別 し てい る

︒﹁ こ うし た 体 系 的具 体 態 にお い て 遂行 さ れ た な ら ば︑ 現 象学 は そ れ自 体

﹃超 越 論 的観 念 論﹄ で ある

︒も っ と も︑ 根本 本 質 的 に新 し い 意 味 で で は あ る が︒ す な わ ち

︑心 理学 的観 念論

︑意 味の ない 感覚 的与 件か ら有 意味 な世 界を 導出 しよ うと する 観念 論の 意味 でで はな い︒ 少な く と も 限 界概 念 と して 物 自 体 の世 界 の 可能 性 を 開い た ま ま にし て お くこ と が でき る と 信 じる カ ン ト的 観 念 論で も な い

⁝﹂

I 118

︶︒

― 145 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(9)

この よう に﹃ デカ ルト 的省 察﹄ で極 めて 明瞭 に打 ち出 され てい る超 越論 的観 念論 とし ての 現象 学の 自己 規定 は︑ い わ ゆる 超越 論的 転回 を果 たし た﹃ イデ ー ンⅠ

﹄に そ の実 質 的 な淵 源 を 求 める こ と がで き る︒

﹃ イデ ー ンⅠ

﹄で の 自 然 主 義的 態度 の批 判か ら論 じる こと にし たい

︒哲 学以 前の 日常 的な 生は

︑エ ポケ ーや 還元 が遂 行さ れる こと によ って は じ めて それ 自身 一つ の哲 学的 態度

︑す なわ ち︑ 自然 的態 度で ある こと が明 らか にな る︒ この 自然 的態 度は 一般 定立 を そ の 本 質と し て いる

︒自 然 的 態 度の 一 般 定立 に つ いて は

︑こ う 言 われ る

︒﹁ 私 は恒 常 的 に私 に 対 立 す る も の と し て

︑ す べて の他 の︑ その

︹現 実の

︺な かで 目の 当 たり に さ れ︑ それ

︹現 実

︺に 同 じ仕 方 で 関 係づ け ら れる 人 間 の よう に

︑ 私 自身 が帰 属す る空 間的 時間 的現 実を 見 出す

︒﹃ 現 実﹄ を︑ す でに そ の 後が 述 べ て いる よ う に︑ わた し は 現存 在 す る も のと して 見出 し︑ それ が私 に与 え ら れる 通 り に︑ 現 存在 す る 現実 と し て受 け 取 る﹂

III 52 f.

︶︒ こ う し た現 実 の と ら え方 は︑ 哲学 的立 場か ら︑ すな わち

︑還 元以 後の 現象 学的 態度 から 見ら れる なら ば︑ 世界 に対 する 一つ の態 度に ほ か なら ない

︒し かし なが ら︑ 哲学 的反 省以 前の 日常 的生 とし て自 らが 態度 であ るこ とに 対し て反 省を 遂行 する こと が な い日 常的 生と して の自 然的 態度 は︑ 自ら が絶 えず 遂行 して いる 一般 定立 を意 識す るこ とが ない

︒こ うし て自 然的 態 度 は︑ 一般 定立 とい う自 らの 本質 に対 する 反省 を欠 くた めに

︑不 可避 的に 意識 とは 独立 に世 界が 存在 する とい う自 然 主 義的 態度 に至 る

︒ この 自然 主義 的態 度を 支え るの は︑ 先に 述べ た超 越論 的実 在論 であ る︒ とい うの は︑ ここ では もは やか つて のよ う に 世界 の実 在を 支え る超 越論 的根 拠と して 神が 持ち 出さ れる こと はな いけ れど も︑ 意識 と独 立に 存在 する 世界 が前 提 さ れる こと にな るか らで ある

︒こ の意 味で 自然 主義 的態 度は 超越 論的 実在 論の 現象 学的 変奏 にほ かな らな い︒ なる ほ ど

︑フ ッサ ール 自身 は超 越論 的実 在論 とい う術 語を 用い はし ない けれ ども

︑自 然的 態度 にお いて 遂行 して いる 一般 定 立 に 反 省的 な ま なざ し を 向 ける こ と なく

︑そ の 成 果と し て の 意識 と 独 立に 存 在 する 世 界 に だけ 注 意 が向 け ら れ て い

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 146 ―

(10)

︒そ の結 果︑ 一般 定立 は忘 却さ れ︑ 意識 から 独立 自存 する 世界 が疑 われ るこ との ない 事実 とし て固 定化 する

︒そ う し てこ の自 然主 義的 態度 を支 える 超越 論的 実在 論の 理論 的前 提が 強い 自然 主義 的主 張を 招来 する

︒い っさ いを 自然 科 学 によ って 解明 する ある いは 自然 の真 の姿 を捉 える こと がで きる のは 自然 科学 だけ であ る︑ と︒ 超越 論的 実在 論の 現象 学的 変奏 とし ての 自然 主義 を意 識と の関 連で 性格 づけ るこ とに しよ う︒ なる ほど

︑自 然的 態 度 の一 般定 立は

︑意 識を 自然 の一 部と して 捉え ると いう 主張 を含 んで いた

︒し たが って

︑一 般定 立の 一面 的固 定化 と し ての 自然 主義 的態 度で は︑ 意識 は必 然的 に自 然化 され てし まう こと にな る︒ そう して 再び 強い 自然 主義 的主 張が 自 然 化さ れた 意識 に対 して も繰 り返 され るこ とに なる

︒す なわ ち︑ 意識 の真 の姿 を捉 える こと がで きる のは 自然 科学 だ け であ る︑ と︒ しか し︑ この 意識 の自 然化 こそ が︑ 自然 主義 の 欠陥 を 露 呈さ せ

︑理 論 的破 綻 に 導 くの で あ る︒ 自然 主 義 的 態度 は

︑ 確 か に 自然 的 態 度の 一 般 定 立と の 連 続性 を も ち︑ その 意 味 で 自然 的 態 度の 必 然 的帰 結 で あ ると 言 え る︒ し か し な が ら

︑そ れは 哲学 的反 省を 経る こと なし に︑ 哲学 的に 素朴 なま まで ある かぎ りで のこ とに すぎ ない

︒哲 学的 反省 以前 の 日 常的 生そ のも のと して の自 然的 態度 は︑ その 素朴 さの ゆえ に︑ 一般 定立 を自 明な もの とし て匿 名化 し︑ 忘却 して し ま って いる こと から 自然 主義 的態 度に 至る

︒し かし

︑現 象学 的還 元が 遂行 され るこ とに よっ て︑ 自然 的態 度が 哲学 的 立 場の 一つ であ るこ とが 明ら かに なる

︒そ して

︑そ のこ とに よっ て︑ 自然 的態 度の 本質 であ る一 般定 立の 哲学 的含 意 も はじ めて 十分 に明 らか にさ れる こと にな る︒ 自然 ない し世 界が 意識 と独 立に 存在 する とみ なさ れる のは

︑ほ かな ら ぬ 意識 の一 般定 立に よる ので ある

︑と

︒こ の世 界と 意識 の関 係性 こそ が︑ 一般 定立 から 現象 学か ら導 き出 す哲 学的 含 意 であ る︒ 現象 学的 還元 が遂 行さ れる こと によ って この こと が理 解さ れて はじ めて

︑意 識は 世界 の中 の一 成素 とし て 自 然化 され るだ けで はな く︑ 世界 に対 する 意識 であ ると いう こと

︑す なわ ち︑ 意識 のも つ超 越論 的次 元が 十全 な意 味

― 147 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(11)

で 開示 され るこ とに なる

︒こ の意 識の 超越 論的 次元 を捉 え損 なう がゆ えに

︑自 然主 義的 態度

︑ひ いて は超 越論 的実 在 論 は哲 学的 理論 とし ては 欠陥 理論 であ るこ とが 明ら かに なる ので ある

︒ ここ で先 に持 ち込 んだ 認識 論的 態度 の図 式を 援用 して 整理 して おく こと にし よう

︒態 度と して 自覚 され る以 前の 日 常 的生 の立 場に は素 朴実 在論 が︑ それ 自身 哲学 的立 場と して の自 然的 態度 には 経験 的実 在論 が︑ 一般 定立 の成 果の 固 定 化と 自明 化に よる 匿名 化に よる 世界 の実 在化 とし ての 自然 主義 的態 度に は超 越論 的実 在論 がそ れぞ れ対 応す るこ と に なる

︒現 象学 的還 元に よっ て意 識と 世界 の相 関関 係が 露わ にさ れる こと によ って

︑意 識の もつ 超越 論的 次元 が明 ら か とな る︒ この 現象 学的 態度 が超 越論 的観 念論 に対 応す るこ とに なる

︒ 意識 の超 越論 的次 元へ の探 究で ある とい う意 味で 現象 学は 超越 論哲 学の 基本 性格 を踏 襲し てい る︒ さら にそ れに と ど まら ず現 象学 は超 越論 哲学 の拡 張で もあ る︒ それ は超 越論 的観 念論 とし ての 現象 学は

︑経 験的 実在 論の 現象 学的 変 奏 とし ての 自然 的態 度と 結合 する から であ る︒ 意識 の超 越 論的 次 元 を主 題 と する 超 越 論 的観 念 論 とし て の 現 象学 は

︑ カ ント が実 在と して 確定 した 自然 科学 の法 則に 支配 され る実 在と して の科 学的 実在 へと 実在 の範 囲を 限定 する ので は な い︒ むし ろ実 在を 志向 的相 関者 と捉 える こと によ って

︑科 学に よっ て説 明さ れる 実在 をも 含め た︑ あり とあ らゆ る 世 界を

︑意 識に 与え られ る︑ 意識 によ って さま ざま な意 味を 付与 され ると いう 意味 で意 識と 相関 する 現象 世界 とい う 豊 かさ を具 えた もの とし て回 復す る︒ そこ では いわ ゆる 外的 世界 の実 在も 世界 に与 えら れる 存在 意味 とし て︑ 無限 の 意 味宇 宙と して の世 界の もつ 意味 の一 つと なる

︒現 象学 は︑ 超越 論的 次元 を有 する 意識 との 相関 関係 にあ ると いう 意 味 での 世界 の観 念性 を主 張す るこ とに よっ て超 越論 的観 念論 の基 本的 性格 を踏 襲し つつ

︑そ れを 科学 的世 界の みな ら ず

︑世 界一 般に まで 拡大 する に至 って いる ので ある

︒こ の意 味で フッ サー ルの 超越 論的 現象 学的 観念 論は

︑伝 統的 な 超 越論 的観 念論 の正 当な 拡張 なの であ る︒ こう して 明ら かに され た意 識と 相関 する 意味 宇宙 とし ての 世界 は︑ さら に

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 148 ―

(12)

後 期に いた って 生世 界と いう 概念 へと 彫琢 され てい くこ とに なる

︒ しか し︑ 本節 のは じめ に取 り上 げた

﹃デ カル ト的 省察

﹄第 四省 察で の超 越論 的観 念論 とし ての 自己 規定 にも かか わ ら ず︑ フッ サー ルの 現象 学が 伝統 的観 念論 との 混同 をは じ めと す る さま ざ ま な誤 解 に さ らさ れ る こと に な っ たの は

︑ ほ かな らぬ 現象 学の 超越 論的 転回 を内 実 と する

﹃イ デ ー ンⅠ

﹄で の 論述 の 仕 方 にも 一 因 があ る

︒た と え ば︑

﹃イ デ ー ン

Ⅰ﹄ の第 四九 節の 表題

﹁世 界無 化の 残余 とし ての 絶対 的意 識﹂

III 91

︶ は︑ 無用 な誤 解を 現象 学に 引き 入れ るこ と に なっ た︒ さら に︑

﹃ イデ ーン

Ⅰ﹄ の第 一編

︑第 二章

︑第 三 八 節以 下 で の論 述 に よ って

︑こ れ と 関連 す る 絶対 と 相 対 と いう 対立 が︑ 内在 と超 越と いう 対立 と重 なり 合う こと によ って

︑さ らに 現象 学に 対す る誤 解は 混迷 を深 める こと に な る︵

III 67−88

︶︒ 端的 に言 えば

︑超 越の 内在 への 一方 的依 存と いう 主張 が そ れで あ る︒ い っそ う 詳 しく 言 え ば︑ 相 対 的︑ 偶然 的な 超越 的な もの であ る事 物の 絶対 的︑ 必然 的な 内在 的な もの であ る意 識へ の依 存と いう 主張 であ る︒ こ う した 主張 は︑ 第四 六節 での 次の 主張 に極 まる

︒﹁ し たが って

﹃偶 然的

﹄で ある 世界 の定 立に は︑

﹃必 然的 で﹄ 端的 に 不 可疑 であ るわ たし の純 粋自 我と 自我 生の 定立 が対 立 する

﹂︵

III 87

︶︒ なる ほ ど

︑事 物 とし て の 超越 が 体 験と し て の 内 在 の 志向 的 相 関者 で あ る とい う こ とは

︑と り も なお さ ず 超 越あ る い は現 象 が 観念 性 を 帯 びて い る とい う こ と で あ る

︒こ れは これ で現 象学 的超 越論 的観 念論 がや はり 経験 的実 在論 と結 合し てい ると いう こと を証 示す る︑ 現象 学的 な 仕 方で の超 越論 的観 念論 の証 明に ほか なら ない

︒し かし なが ら︑ 体験 を意 識や 自我 と交 換可 能な 概念 とし て用 いて い る こ と はや は り 拙速 で あ る とい う そ しり を 免 れな い だ ろ う︒ 内在 と 超 越に は

︑な る ほど 差 異 は あ る け れ ど も︑ そ れ は

︑あ くま で純 粋意 識に 対す る与 えら れ方 の差 異で ある と捉 えら れる べき であ ろう

︒内 在と 超越 とが 截然 と対 立さ せ ら れて しま うが ゆえ に︑ 体験 その もの が純 粋意 識で ある とい う取 り違 え が 生 じて し ま う

︒ そこ か ら さら に

︑現 象 学 は 純粋 意識 を絶 対化

・実 体化 する 絶対 的観 念論 や形 而上 学的 観念 論に ほか なら ない とい う誤 解が 惹起 され るこ とに な

― 149 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(13)

る ので ある

︒そ れで は︑ 現象 学を こう した 誤解 や批 判か ら擁 護す るこ とは いっ たい いか にし て可 能な のだ ろう か︒ 第三

節 現象 学 に よる 超 越 論的 観 念 論の 変 貌 現象

学は

︑現 象学 的還 元に よっ て意 識と 世界 との 志向 的相 関関 係を 明ら かに した こと によ って

︑意 識の 相関 者で あ る 世界 を︑ 単に 認識 論的 な相 関者 とし ての 自然 科学 的世 界で はな く︑ そう した 自然 科学 的世 界を も含 めた 意味 の宇 宙 と して 露わ にし た︒ 超越 論的 観念 論が 結合 する 経験 的実 在論 の内 実を いっ そう 豊か に具 体的 主題 とし て獲 得す るこ と に よ っ て︑ 超越 論 的 観念 論 と し て の 現 象 学 は

︑伝 統 的 な カ ン ト 的 超 越 論 的 観 念 論 を 拡 張 し て い る︒ し か し な が ら

﹃イ デー ンⅠ

﹄で の超 越論 的観 念論 の証 明と して の内 在の 絶 対 性の 強 調 は︑ 必ず し も 現 象学 の 内 実に ふ さ わし い も の で ある とは 言え ない

︒む しろ 意識 を絶 対的 なも のと して 実体 化す る絶 対的 観念 論や 形而 上学 的観 念論 とい う批 判を 招 く こ と にな る

︒し か し︑ 超 越 論 的 観 念 論 の 証 明 は︑

﹃ イ デ ー ンⅠ

﹄に よ る も の に つ き る わ け で は な い

︒ こ こ で は

︑ 一 九〇 八年 から 一九 二一 年の 超越 論的 観念 論に つい て の草 稿 を 集成 し た フッ サ ー ル 全集 第 三 六巻

﹃超 越 論 的 観念 論

﹄ に 定位 して

︑現 象学 によ る超 越論 的観 念論 の変 貌の 内実 を照 明す るこ とに した い︒

﹃ 超越 論的 観念 論﹄ での 超越 論的 観念 論の 証 明 は︑

﹃イ デ ー ンⅠ

﹄の 証 明と ど の よ うに 異 な るの だ ろ う か︒

﹃イ デ ー ン

Ⅰ﹄ が招 来す るこ とに なっ た超 越論 的観 念論 に対 する 誤解 を払 拭す るこ とが でき るの だろ うか

︒﹃ 超 越論 的観 念論

﹄ で の証 明の 特徴 をあ らか じめ 示し てお けば

︑基 本的 な性 格︑ すな わち

︑意 識の 絶対 性と 超越 の相 対性 とい う性 格そ の も のが 根本 的に 変更 され るわ けで はな い︒ しか しな がら

︑そ の際 に︑ 理念 的意 識で はな く現 実的 意識 が重 要な 役割 を 果 たす こと にな る︒ そし て︑ 現実 的意 識の 特徴 とし てそ の身 体性 が強 調さ れる に至 る︒ さら に︑ 身体 性と 事物 の多 様

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 150 ―

(14)

な 与え られ 方か ら相 互主 観性 とい う主 題が 浮か び上 がる こと にな る︒ つま り︑

﹃ 超越 論的 観念 論﹄ での 証明 の特 徴は

︑ 身 体性 の重 視と それ と関 連し た相 互主 観性 を超 越論 的主 観の 本質 的要 素と して の組 み入 れで ある

︒し かも

︑身 体性 と 相 互主 観性 が超 越論 的観 念論 の不 可欠 の契 機と され るこ とに よっ て超 越論 的観 念論 その もの が変 貌を 遂げ るに 至る の で ある

﹃ 超越 論的 観念 論﹄ の五 番﹁ 超越 論的 観念 論に つい て﹂

XXXVI 73−9

︶に 分類 され てい る﹃ イデ ー ンⅠ

﹄が 公 刊 さ れ たの と同 じ︑ 一九 一三 年夏 学期 の﹁ 自然 と精 神﹂ の講 義で もや はり

︑超 越論 的観 念論 の基 本的 性格 は変 更さ れて い な い︒

﹁ 実在 的世 界の 存在 は意 識の 存在 にと って 偶 然 的で あ る︒ 意 識︑ 可能 的 内 在 的存 在 の 領分 が

︑な ん らか の 超 越 的 実在 性な し で︑ 現実 存 在 でき る 一 方で

︑超 越 的 な もの の 存 在は 終 始 意識 の 存 在 に依 存 的 であ る

﹂︵

XXXVI 79

︶ と い う箇 所に よっ てそ れは 確認 する こと が でき る

︒し か し︑ ここ で 注 目す べ き な のは

︑形 相 的︑ 理 念的 対 象 と 個体 的

︑ 事 実的 対象 の区 別と

︑後 者に 対す る 現勢 的 意 識の 必 要 性の 強 調 で ある

︒﹁ 個 体 的対 象 は︑ そ れ︹ 個体 的 対 象︺ に﹃ 関 係 づけ

﹄ら れて いる 自我 ない し現 勢的 意識 が実 存 する こ と なし に 実 存す る こ と はで き な い︒ しか し

︑形 相 的 対象 は

︑ 単 にそ れ︹ 形相 的対 象︺ に関 係づ ける こと がで きる 意識 の可 能的 実存 を要 求す る に すぎ な い﹂

XXXVI 74

︶︒ と い う の は

﹁事 物 の実 存 の 想定

︑理 念 的 可 能性 に 現 実的 に 妥 当し て い る とい う と いう 想 定 は︑ 理性 的 想 定 で あ る べ き な ら ば

︑そ のた めに は事 物を 経験 する 意識 の理 念的 可能 性で は十 分で はな く︑ 現勢 的に 経験 する 意識

︑し たが って

︑こ の 事 物へ の経 験関 係 にお い て 現実 に 存 在す る 自 我 が要 求 さ れて い る﹂

XXXVI 76

︶ から で あ る︒ こう し て 現象 学 に よ る 超越 論的 観念 論の 証明 は新 たに 定式 化さ れる こと にな る︒ 現実 的に 実存 する 事物 は現 実的 に実 存す る意 識に 依存 す る

︑と

︒ 超越 論的 観念 論の 証明 の新 しい 定式 の内 実を 解明 する ため には

︑事 物の 現実 的実 存と それ に対 応す る現 勢的 現実 的

― 151 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(15)

意 識の それ ぞれ がど のよ うな もの であ るか が明 ら かに さ れ ねば な ら ない

︒﹃ 超 越 論 的観 念 論﹄ に 収録 さ れ た草 稿 の な か で最 も長 大な 六番 に分 類さ れた

︑一 九一 五年 夏学 期講 義に 由来 する 草稿 に定 位す るこ とに した い︒ 事物 の現 実的 存 在 の源 泉は

︑知 覚で ある

︒﹁ 知 覚は

︑現 存在 につ いて のす べ て の理 性 主 張に と っ て の究 極 的 権利 源 泉 であ る

︒と い う の は︑ 知覚 は最 も原 的な 経験 であ るか らで ある

﹂︵

XXXVI 86

︶︒ さら にこ の﹁ 最も 原的 な経 験﹂ とし て の 知覚 の も つ 方 位性 が際 立た され るこ とに なる

︒﹁ あ らゆ るそ うし た 知 覚︑ ない し は 知覚 位 相 は その 方 位 づけ 零 点 を伴 い

︑方 位 づ け の 様 態を 伴 う⁝

⁝﹂

XXXVI 94

︶︒ こ う し て現 勢 的 現実 的 意 識が 知 覚 の﹁ 方 位づ け の 零点

﹂︑ つ ま り︑ 知覚 が そ こ を 出発 点と して 調和 的に 秩序 づけ られ る 関係 点 に ほか な ら ない こ と が 明ら か に され る

︒﹁ そ の際

︑つ ね に

︿注

﹀意 す べ きで ある のは

︑方 位づ けと 射影 する 現出 は不 可分 に共 属し てお り︑ 方位 づけ への 関係 はあ らゆ る現 出構 成要 素に 同 じ 仕方 でつ きま とう

﹂︵

XXXVI 95

︶︒ その 上で

︑こ の草 稿で もや はり 超越 論的 観念 論の 証明 の定 式が 繰 り 返さ れ る こ と にな る︒

﹁ した がっ て︑ 世界 は︑ それ

︹世 界︺ を経 験す る自 我 が 実存 す る とい う こ と なし に 実 存で き る と言 う な ら ば

︑そ れは ナン セン スで ある

︒と いう のは

︑﹃ 世 界が 実存 す る こと が で きる

﹄と い う 真 理は 原 理 的な 根 拠 づけ 可 能 性 な しに は無 であ るか らで ある

︒し かし

︑こ うし た根 拠づ け可 能性 は︑ 定立 的に この 世界 に関 係づ けら れて いる 現勢 的 自 我を 前提 する

﹂︵

XXXVI 119

︶︒ では

︑超 越論 的観 念論 の証 明の 新し い定 式化 の核 心で ある 知覚 の方 位づ けの 零点 とし ての 現勢 的意 識な いし 現勢 的 自 我と はい った いど のよ うな もの なの だろ うか

︒一 九一 四年 か一 九一 五年 に成 立し た﹃ 超越 論的 観念 論﹄ の七 番に 分 類 され た草 稿で は︑ 現実 的意 識が 身体 性に ほか な ら ない こ と が明 ら か に され る

︒﹁ 事 物世 界 の 経験 の 可 能 性は

⁝⁝ 経 験 す る 者 自 身 は︑ こ の 世 界 の 中 に 身 体 を も つ 者 で あ る か ぎ り で 経 験 さ れ る 世 界 に 属 す る と い う こ と を 前 提 す る

XXXVI 133

︶︒ こ こに 至っ て 超 越論 的 次 元 を有 す る 意識 が

︑す な わち

︑世 界 に 対 する 意 識 が︑ 再び 世 界 の中 の 意 識

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 152 ―

(16)

と して 世界 内に 身体 化さ れる こと にな る︒ 世界 を可 能に する 意識 が︑ 世界 を可 能に する

︑い っそ う正 確に 言え ば︑ 世 界 を現 実的 なも のと する ため の条 件と して

︑現 実的 世界 の中 に組 み入 れら れる こと にな るの であ る︒ 超越 論的 意識 が 身 体を 具え て世 界内 に具 体化 する

︒こ れが 身体 的主 観性 であ り︑ 方位 づけ の零 点に ほか なら ない

︒実 在的 対象 は︑ こ の 方位 づけ の零 点と して の身 体的 主観 性に 対し て無 限の 射影 の多 様と して 現出 する こと にな る︒ 現出 の無 限の 多様 と 身 体的 主観 性と の相 関が 調和 的に 進行 する こと こ そが

︑実 在 的 世界 の 実 存を 証 示 す るこ と に なる

︒﹁ 実 在 的存 在 は お よ そ事 実的 に存 在す る認 識主 観性 だけ では なく

︑実 在的 存在 を要 求す る︑ ある いは

︑実 在的 世界 の存 在は 同時 に︑ こ の 世 界 にお け る 相関 的 な 認 識主 観 性 が身 体 的 主観 性

︑人 間 的 主観 性 で ある と い うよ う に し てだ け 考 える こ と が で き る

﹂︵

XXXVI 132

︶︒ 現実 的に 実存 する 事物 は現 実的 に実 存す る意 識に 依存 する とい う超 越論 的観 念論 の新 しい 証明 は︑ 現実 的に 実存 す る 意 識 を現 実 的 に実 存 す る 世界 の 中 に 組 み 入 れ る こ と に

︑す な わ ち

︑身 体 的 主 観 性 の 成 立 に つ き る わ け で は な い

﹁あ らゆ る事 実的 存在 の︑ あら ゆる

﹃個 体 的﹄ 存 在︵ 自然 的 事 態︑ 関係 な ど を 含む

︶の 実 存 は︑ 認識 す る ない し は 認 識 能力 のあ る主 観 の 必然 的 共 実存 を 要 求す る

﹂︵

XXXVI 140

︶︒ こ の よ うに 現 実 的 に実 存 す る世 界 は︑ そ の事 物 の 知 覚 が身 体と 相関 する 射影 の無 限の 多様 性に 対し て開 かれ てい るこ とに 基づ いて

︑わ たし と同 じよ うに 身体 を伴 って 世 界 の中 に生 きる 異他 的な 主観 が共 存す るこ とを も存 立の 条件 とし て要 求す るこ とに なる

︒と いう のは

︑わ たし の超 越 論 的意 識の 身体 化と して のわ たし の身 体的 主観 性と 相関 する 現出 の多 様の 調和 的進 行だ けで は︑ あく まで わた しに と っ て の 実在 的 世 界の 実 存 が 証示 さ れ るに す ぎ ない か ら で ある

︒わ た し だけ に と って の 実 在 的世 界 の 実 存 が︑ 文 字 通 り

︑実 在的 世界 がわ たし にと って のみ 実存 する とい うこ とを 意味 する なら ば︑ 端的 にナ ンセ ンス であ る︒ 実在 的世 界 の 実存 とは

︑世 界が 誰に とっ ても 実存 する とい うこ とを そも そも 意味 して いる から であ る︒ わた しに とっ ての み実 存

― 153 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(17)

す る私 秘的 実在 的世 界な ど形 容矛 盾で ある

︒し たが って

︑身 体的 主観 性と 実在 的世 界の 同時 成立 は︑ わた しの 身体 的 主 観性 と異 他的 身体 的主 観性 とに よる 現出 の調 和的 進行 の相 互確 認︑ すな わち

︑自 我の 多性 ある いは 複数 化を その 内 実 と す ると に よ って

︑は じ め て 理解 で き るも の と なる

︒﹁

⁝自 我 の 多性 の 想 定は 感 情 移入 の 実 在 的 可 能 性 の 想 定

︑ し たが って

︑す べて にと って の統 一的 現出 世界 の想 定を 前提 する

︒い まや さら に︑ 人は こう 言う かも しれ ない

︑あ ら ゆ る自 我は

︑あ らゆ る自 我が 自分 の世 界に 合流 させ るこ とが でき る現 出を もつ こと がで きる

﹂︵

XXXVI 123

︶︒ なる ほど

︑こ の自 我の 多性 と現 実的 世界 の成 立と いう 現象 学に とっ て枢 要な 問題 に対 して

︑フ ッサ ール は感 情移 入 に よっ て解 決を 与え よう とし てい る︒ 相互 主観 性論 の可 能性 その もの の検 討は

︑フ ッサ ール によ って 残さ れた その ほ か の膨 大な 資料 の精 査を 必要 とす る巨 大な 課題 であ るだ ろう

︒し かし なが ら︑ 身体 性と 相互 主観 性の 問題 は︑ 現実 に 実 存す る世 界の 現実 的に 実存 する 意識 への 依存 とい う超 越論 的観 念論 の証 明の 新し い定 式化 によ って

︑フ ッサ ール の 超 越論 的観 念論 にと って 解明 を求 めら れる 不可 避の 課題 であ り︑ けっ して 必ず しも 論じ る必 要の ない 派生 的な 問題 な ど では ない こと はす でに 明ら かで ある だろ う︒ した がっ て︑ 身体 性と 相互 主観 性が 超越 論的 観念 論本 来の 主題 とし て 超 越 論 的観 念 論 に組 み 入 れ られ る こ とに な る︒ わ たし の 意 識 と同 じ く 超越 論 的 次元 を 有 す る意 識 の 共 実 存︑ す な わ ち

︑超 越論 的主 観性 の複 数性 を組 み入 れる こと では じめ て現 実的 世界 の成 立が 十全 に解 明さ れる こと にな る︒ この 意 味 でフ ッサ ール の現 象学 は︑

﹁ 超越 論的 主観 の有 限性 を意 識し た形 式﹂

の超 越論 的 観 念 論へ と 変 貌を 遂 げ てい る の で あ る︒

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 154 ―

(18)

び カン

トの 超越 論哲 学は

︑経 験的 実在 論を 認識 論的 に解 明す るた めの 立場 であ る経 験的 観念 論と 超越 論的 実在 論に 対 す る批 判的 検討 を通 して

︑経 験的 実在 論と 結合 する 超越 論的 観念 論に 至る こと にな った

︒こ こに カン トの 超越 論哲 学 の 大き な意 義が ある こと は疑 いよ うが ない

︒し かし

︑カ ント が超 越論 的観 念論 の立 場に 立つ こと によ って 根拠 づけ た 経 験的 実在 論の 言う 経験 は︑ 極め て限 定さ れた 狭い 意味 での 経験 であ る︒ ここ での 経験 的実 在論 にお いて 経験 され て い る世 界と は︑ 自然 法則 に従 う科 学的 世界 にほ かな らな い︒ フッ サー ルの 現象 学は

︑カ ント の超 越論 的観 念論 の基 本的 性格 を踏 襲し

︑そ れ自 体や はり 経験 的実 在論 と結 合す る 超 越論 的観 念論 であ ると みな すこ とが でき る︒ しか しな がら

︑フ ッサ ール 自身 は︑ 超越 論的 と経 験的 とを 対概 念と し て いな い︒ 超越 論的 とい う概 念の 対概 念は

︑自 然的 とい う概 念で ある

︒し たが って

︑現 象学 的に 捉え られ た経 験的 実 在 とは

︑自 然的 態度 と相 関す る世 界に ほか なら ない

︒ 現象 学的 還元 が遂 行さ れる こと によ って

︑あ りと あら ゆる もの が意 識に 対し て与 えら れる 意味 の宇 宙と して の現 象 で ある こと が露 わに され る︒ あり とあ らゆ るも のが 意識 に対 して 与え られ る︑ ある いは

︑意 識と 相関 関係 にあ ると い う こと は︑ 同時 にあ らゆ る現 象の 観念 性を 意味 する

︒そ うで ある がゆ えに

︑現 象学 が超 越論 的次 元を 有す る意 識と の 相 関関 係を 通し て主 題と する のは

︑も はや 科学 的世 界に 限定 され るこ とな く︑ 世界 一般 にま で拡 張さ れる こと にな っ た

︒多 様な 意味 の無 限の 宇宙 とし ての 世界 を主 題と して 獲得 した こと によ って

︑フ ッサ ール の現 象学 は︑ 伝統 的な 超 越 論的 観念 論の 主題 を拡 大す るこ とに なっ たの であ る︒

― 155 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(19)

さら に︑

﹃ 超越 論的 観念 論﹄ にお いて

︑フ ッサ ール は現 実に 実 存 する 世 界 の現 実 的 に 実存 す る 意識 へ の 依存 と い う 超 越論 的観 念論 の証 明の 新し い定 式化 を行 う︒ それ によ って

︑な るほ ど伝 統的 な超 越論 的観 念論 の基 本性 格を 損な う こ とは ない けれ ども

︑新 たに 身体 性と 相互 主観 性と を超 越論 的観 念論 の本 来的 主題 とし て組 み込 むこ とは

︑現 象学 を 超 越論 的主 観性 の有 限性 を意 識す る超 越論 的観 念論 へと 変貌 させ るの であ る︒ 本論 考が 論じ た︑ 現象 学に よる 超越 論 的 観念 論の 変貌 は︑ 後期 フッ サー ルが 扱う 主題 を先 取り し︑ その 思索 の一 貫性 と整 合性 を証 示す るも ので ある

︒意 識 の 身体 化の 問題 は︑ 最晩 年の

﹃ヨ ーロ ッパ 諸学 の危 機と 超越 論的 現象 学﹄ のな かで 人間 的主 観性 のパ ラド クス とし て 先 鋭化 して 主題 とな る︒ そし て︑ 相互 主観 性 の問 題 は︑

﹃ デカ ル ト 的省 察

﹄の 第 五 省察 で の 相互 主 観 性論 が

︑現 象 学 に 付加 的に 課せ られ たの では なく

︑必 然性 と整 合性 をも って 主題 的取 り扱 いを 要求 する こと にな る事 象の 萌芽 にほ か な らな いの であ る︒ 註 引 用 に 際 し て

︑ フ ッ サ ー ル の テ ク ス ト は フ ッ サ ー ル 全 集

︵Husserliana

︶ に よ り 文 中 に 直 接 全 集 の 巻 数 を ロ ー マ 数 字 で

︑ 頁 数 を ア ラ ビ ア 数 字 で 挿 入 し た

︒ カ ン ト

﹃ 純 粋 理 性 批 判

﹄ か ら の 引 用 は 慣 例 に 従 い 第 一 版 を A

︑ 第 二 版 を B と し て 頁 数 を ア ラ ビ ア 数 字 で 挿 入 し た

︒ 引 用 文 中 の

︿

﹀ は 編 者 に よ る 補 足

︑︹

︺ は 引 用 者 に よ る 補 足 で あ る

︒ ゲ シ ュ ペ ル ト な ど に よ る 強 調 は 引 用 に よ っ て 脈 絡 か ら 切 り 離 さ れ て い る こ と に 鑑 み て す べ て 無 視 さ れ て い る

⑴ こ う し た 四 つ の 哲 学 的 立 場

︑ す な わ ち

︑ 経 験 的 実 在 論

︑ 経 験 的 観 念 論

︑ 超 越 論 的 実 在 論

︑ 超 越 論 的 観 念 論 の 区 分 と 整 理 に つ い て は

︑ 以 下 を 参 照

︒ 川 島 秀 一

﹁ カ ン ト に お け る 超 越 論 哲 学 の 理 念

﹂︵

﹃ 人 文 学

﹄ 第 百 五 十 八 号

︑ 一 九 九 五 年

︶ 一

二 七 頁

︒ 超 越 論 哲 学 の 基 本 性 格 を 確 定 す る こ と を 目 的 と す る 本 節 の 議 論 は

︑ こ の 論 文 に 多 く を 負 っ て い る

︒ 川 島 は

︑ カ ン ト の

﹃ 遺 稿

︵Opuspostumum

︶﹄ を 踏 ま え

﹁ 超 越 論 哲 学 の 最 高 の 立 場

﹂ あ る い は

﹁ 最 高 の 立 場 に お け る 超 越 論 哲 学

﹂ と し て

﹁ 超 越 論 哲 学 は 結 局

︑ 実 践 的 超 越 論 的 実 在 論 と し て の 道 徳 的 人 間 存 在 論 に ほ か な ら な い

﹂ と 結 論 づ け て い る

変貌した超越論的観念論としての現象学 ― 156 ―

(20)

︵ 同 論 文

︑ 二

七 頁 参 照

︶︒ フ ッ サ ー ル の 倫 理 学 的 立 場 を 考 察 す る 際 に も 示 唆 に 富 む 重 要 な 論 点 で あ る が

︑ 本 論 文 の 範 囲 を 大 き く 超 え る た め

︑ 改 め て 論 ず べ き 課 題 と し た い

︒ な お

︑ こ う し た 四 つ の 哲 学 的 立 場 に つ い て は

︑ ア リ ソ ン も ま た

︑ 特 に 超 越 論 の 二 つ の 形 式 と し て 超 越 論 的 実 在 論 と 超 越 論 的 観 念 論 を 対 比 的 に 論 じ て い る

DeInterpretationandfem.nse,RevisedanAnlisCf.KantAllison,H.E.,’seaTranscendentalIdd

EnlargedEdition,YaleUniversityPress,2004,pp.20−49.

⑵ こ う し た 内 と 外 に 関 し て

︑ 経 験 的 内 と 外 と 超 越 論 的 内 と 外 が 取 り 違 え ら れ

︑ 行 動 さ れ る こ と に よ っ て

︑ カ ン ト の 超 越 論 的 観 念 論 の 独 自 性 も ま た 実 質 的 観 念 論 の 一 種 と 誤 解 さ れ る に 至 っ た と 主 張 す る の は ア リ ソ ン で あ る

︒Allison,H.E.,ibid.

⑶ 川 島

︑ 前 掲 論 文

︑ 五 頁 以 下

⑷ 現 象 学 と 自 然 主 義 に つ い て は

︑ザ ハ ヴ ィ が 明 解 な 見 通 し を 与 え て い る

︒nomeghelaalG.S:inogy,nolPheZaedlizratuNa.,D,vihar

andD.Schmicking

︵eds.

Sc2010,r,ingeprS,enciee,tivCogniandogynolnomePheofHandbookpp.3−19.

と り わ け

︑ 前 半 部 の

﹃ 厳 密 学 と し て の 哲 学

﹄ で の 体 系 的 反 自 然 主 義 の 試 み の 論 述 は

︑ フ ッ サ ー ル 現 象 学 の 古 典 的 な 強 い 自 然 主 義 に 対 す る 現 象 学 の 取 り 組 み を よ く 整 理 し て い る

⑸ そ う で あ る が ゆ え に こ そ

︑ 意 識 の 相 関 関 係 は

﹃ デ カ ル ト 的 省 察

﹄ に 至 っ て エ ゴ

コ ギ ト

コ ギ タ ー ト ゥ ム の 三 肢 構 造 と し て 改 め て 定 式 化 さ れ る 必 要 が あ っ た の で あ る

︵I71ff.

︶︒

⑹ テ ン ゲ イ は 超 越 論 的 観 念 論 の 証 明 を

﹃ イ デ ー ン

﹄ で の 証 明 と

﹃ 超 越 論 的 観 念 論

﹄ で の 証 明 と の 二 種 類 に 区 別 し て い る

Tengelyi,L.,DermethodologischeTranszendentalismusderPhänomenologie,in:C.Iernaetal.

︵eds.

︶,Philosophy,Phenomenology,

Sciences,Springer,2010,S.135−153.

Zahavi,D.,PhänomenologieundTranszendentalphilosophie,in:G.FigalundH.-H.Gander

︵hrsg.

︶,HeideggerundHusserl.Neue

Perspektiven,VittorioKlostermann,2009,S.94.

― 157 ― 変貌した超越論的観念論としての現象学

(21)

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