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「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦 : そ の日中関係論を中心に

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「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦 : そ の日中関係論を中心に

著者 呉 懐中

雑誌名 同志社法學

巻 59

号 2

ページ 313‑335

発行年 2007‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011193

(2)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一三同志社法学 五九巻二号

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

その日中関係論を中心に

呉   懐 中

 (八八三) はじめに

 大川は戦前の代表的な超国家主義者、またアジア主義者として、近代日本の思想史・政治史に名を残した重要人物の一人である。そのアジア主義論を含めた政治思想や国家改造運動に関わる部分の検討は、近年における原資料の刊行に

基づいた実証的研究の展開もあって、かなり行われてきた観がある (

れいわ関のと国中なにれ通はてけ避もりつ疇統さなが究研な的系いでまれこ、はてで範すア分、なわのちジア主義問題 のな題問。、しかし、はる大川研究におけ基礎的部 1)

てこなかったことである。日中戦争期になって、彼が明かに中国と直接的に関わるようになったにも拘わらず、それを

全体的にカバーする業績は未だ存在していないのである (

取思日中関係をめぐる大川の想下認識を考察の対象としての争に戦のような研究史の現状鑑 み、本稿では、太平洋こ 。 2)

(3)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一四同志社法学 五九巻二号 (八八四)

り上げる。彼が大戦中に、講演や著作による宣伝活動を精力的に行うなど総力戦の一面である対外思想戦を展開し、「大

東亜戦争」の理論家として大きな脚光を浴びていたのはよく知られた事実である。最近の研究ではさらに、彼が観念右翼らに攻撃されながらも、ファシズム陣営を統合する歴史観を作り出し、国民を戦時動員に駆り立てる役割を果たした

正統的な思想家であることも論証されている (

大そたの拾収・決解の、、らか時当発勃戦中め色、活たきてし開展を動て々しそ言建・案考な日て対に実現ういとたし 。争てし入突に、戦洋平太日方一も然中課っ残てしと題の戦決解未依は争 3)

川は、抗戦中国への対処や日中戦争の解決が先決的要件だと堅く主張し続け、そのために思想言論の面では種々の大胆な提言をも行っていた (

たれ大きな影響力とそなはりの特質を有してい、論期係くして、当該時に。おける彼の日中関か 4)

はずである。 よって、太平洋戦争下において大川が、当時の国際情勢の下、どのように「大東亜新秩序」における中国の位置づけ

や日中関係の位相を解釈・定義し、またこうした自説の有効性が行き詰まるに従い、どのように対中国認識の転換や政府の中国政策への反省・批判を行ったのかという、彼自身の言葉で言うところの「大東亜戦争のための対外思想戦」の

展開プロセスや特質について考察するのは、有意義な作業と言えるであろう。これはまた、彼の政治思想の特質や日中関係史における位置づけなど、その全体像を描き出すために必要なだけではなく、同時に戦時下日本の中国認識や思想

の軌跡を理解する上でも、有意義な手掛かりとなるはずである。

(4)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一五同志社法学 五九巻二号 一、「大東亜新秩序」論における中国の位置づけ

平太九四一年十二月、正 洋戦争が勃発すると一末大予は川大たいてし言も期く早を戦決米日らか、 (

1

精アジア主義・「新東洋)、容」論による中国の包神

おべうした活発な活動ぶりに比れ。ば、それまでの日中戦争期にこたに本著を通じて盛んっ日国民の戦意を鼓舞してい オラジ、講演や論 5)

ける活動は、極めて不振であったとも言える。一九四一年まで彼が対外問題の論著としてたった一冊、﹃亜細亜建設者﹄(一九四〇)しか書いていなかったことからも、その一端が窺われる。これはおよそ、蒋介石国民政府の抗戦によって

何年もの続いた戦争状態の日中関係を、大川は自分のアジア主義的理念をもってしても、なかなか解釈しきれないという点に気付いたためであろうが、さりとて他の論調に歩調を合わせようともしないかのようであった (

。 6)

 大川が論客家として登場し理論的影響力を持つようになったのは、大戦の勃発で「東亜秩序」のカテゴリーが、彼にとって論じ難い日中関係から対米英関係に拡大変容し、長年アジア復興と反欧米のアジア主義を唱えてきた彼に、本領

を発揮する絶好の機会が訪れたからであろう。例えば開戦直後の講演で、日米戦争の意義について、彼は先ずこう述べている。

私は日米戦争の真箇の意味に就いて、十六年以前と毛頭変わらぬ考へを有って居ります。此の戦争は固より政府の

宣言する如く、直接に支那事変完遂のために戦はれるものに相違ありませぬ。而も支那事変の完遂は東亜新秩序実

現のために、即ち亜細亜復興のためであります。亜細亜復興は、世界新秩序実現のため、即ち人類の一層高き生活の実現のためであります (

。 7)

 (八八五)

(5)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一六同志社法学 五九巻二号

 こうして、大川の従来からのアジア主義的論調が復活した。しかも上の引用から分かるように、その論理は二十年程

前とほとんど変わっていない。もちろん、「アジアの復興」は既に現実に日本が行っている「大東亜戦争」によって実現されつつあるので、この戦争およびこの戦争によって立てられようとする新秩序を、現実的状況に照らしていかに合

理的に説明するかという必要がある。このような言説体系の中で、彼は日中関係の歴史や現状をどのように位置づけたのであろうか。

 大川は﹃大東亜秩序建設﹄の序文で、「大東亜新秩序」が決して「支那事変」以後に発案された軍事的標語ではなく、既に明治維新前夜において、幾多の先覚者によって把握され、維新三代を通じて常に日本の大陸政策の基調となり、遂

に「大東亜戦争」によってその実現を見る経路を辿ったと断言した。そのプロセスとして琉球処分、台湾領有、日清・日露戦争、満州建国を列挙し、また先覚性と犠牲心によって日本は当然アジアの復興と秩序維持における指導権を与え

られたと強調した。しかし、米英は国際連盟やワシントン体制によって、日本の地位を抑圧しながら東亜侵略と世界覇権を図ろうとし、中国もその側に立って日本の真意とアジアの運命を理解せずに排日・抗日を繰り返した。その結果つ

いに「支那事変」が勃発するに至った。ところが大戦は事変の性格を一変させ、東亜における一つの内乱と化した。米英「世界幕府」を倒してアジア復興のために奮闘すべき時、日中両国は曾て薩長が相争う如く争っているので、日本は

一刻も早くこの内乱を鎮定してこそ、初めて「大東亜戦争」の完遂を期し得るのである、という (

主で歴史的に意味づけること論義証されたが、アジアの盟を主必ア大東亜新秩序」建設の然 性が、近代日本のアジ「 。 8)

たる日本が国民的世界史使命として、欧米の打倒・駆逐を通じてアジアの解放・復興、秩序・平和維持を実現することにその意義があると説いた点は、従前のアジア主義的論法と一脈通じるものであった。しかし、欧米への正当な反撃と

して明治からの日本の大陸政策を遡及的に肯定した結果、現に日本と対立する(蒋介石国民政府までの)中国の位置づ  (八八六)

(6)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一七同志社法学 五九巻二号 けは、欧米の傀儡または不当な排日を起こす存在として決めつけるしかなかった。そして大戦下の日中戦争、つまり近代日中関係の到達点的現状をアジア主義的ロマンチシズムで「内乱」と位置づけ、「外戦」に対する内乱の優先的解決

をなおも理性的に強調したが、その論法は自己の信念の貫徹に役立つだけで、現実的な適用性は甚だ薄いものであった。何よりも相手の中国はこの「内乱」意識を持っておらず、逆に大戦の現実を、米英を同盟国として引き寄せながら日本

を外に追い出すプロセスとして受け止めていたのである。 以上の「新秩序」の歴史的必然性を力説すると共に、大川が大戦中に説いて倦まなかったのは、その精神的基礎に関

する宣明であった。中でも彼が最も頻繁に使った言葉は、「三国魂(精神)、(新)東洋精神」等の用語であったが、この中には言うまでもなく中国も含まれる。この意味で、彼における「大東亜」の概念は、東南アジア・南洋を重点的に

含めた政府側の解釈よりも、日本・中国・インドの「三国」として抽象し特化される傾向を著しく持つのである。 大川によれば、人間の創造する制度や機構は、人間の抱く理念と精神の客観的・具体的実現である。「大東亜新秩序」

は雄大な政治的機構であるため、それに相応する精神によって基礎付けられねばならない。しかし現実には、排外的で偏狭な日本精神や「惟神の道」では「新秩序」の指導原理になれず、「大東亜戦争」は無力な思想戦となる。「大東亜共

栄圏」の発展に役立つ思想・精神体系、つまりアジア諸民族に自己の政治的運命を自覚させ、日本と協力してアジア復

興に駆り立てるためのものを日本は創造しなければならない。このような精神は、すなわち東洋的世界観や東洋的叡智を含む新東洋・三国精神である、という。その内容について、彼は東洋つまり日本・中国・インドの伝統精神・文明を

分析・総合した上で、以下のように結論づけている。 日本は長い歴史的経験によって、中国の倫理・儒教およびインドの宗教・仏教という東洋精神の両極やアジア文明の

精粋を日本の魂と生命に錬成し、日本精神として動かせている。この精神こそ、「大東亜新秩序」の基礎たるべき統一

 (八八七)

(7)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一八同志社法学 五九巻二号

的新東洋精神の根底または中心である。大東亜は既に日本の精神において統一されており、すなわち日・中・印三国は

日本の心において一体となっている。それは日本がアジアに対して偉大な使命と責任を負うことを示唆するものであり、現にその日はついに来た。従って「新秩序」の精神的基礎たるものは既に活躍している。日本が自己の魂に存在す

る三国魂を鍛え上げて実現すること、三国精神をアジア地域における一つの政治・経済機構として具体化することこそ、取りも直さず「新秩序」の構築であり、「共栄圏」の建設である、という (

。 9)

 大川は一九一〇年代半ば頃、すでに文明論的経路を辿ってアジア主義を形成していた (

性かた文明使命論的特徴がある。しもと本属の有固族民日そは神精本日のし力一日統動可能にするを本神を中心的起精 アこには、アジ吸文明の収・。そ 10)

であり、祖先から伝来され、神性によって保証にされるものである。「大東亜戦争」にまでその文明論的論調は引き継がれていたが、肝心な日本精神論の重心はかなり変容してしまった。すなわち日本精神自体はその中心性・根本性が依

然強調されながらも、その適用範囲が拡大されるにつれて国際(地域)化し、「孔子の理想、釈尊の信仰を、その故国に於てよりも一層見事に実現せるところに日本精神の偉大があり、それ故にまた日本精神は取りも直さず亜細亜精神で

ある。日本は此の精神を以て亜細亜にはたらかねばならぬ (

東基羅欧世中が教督ものか恰、「はれそ。巴精あ宋く除を度印が学、神く如るせ臨君に界るでるれさ明説くとごのかの 同三神精国い、にうよう接と位続可能な」的概念であったと 11)

亜全域の精神界を支配したのであります。宋学は華厳・禅・孔子・老子の諸教説、即ち印度及び支那の精神的主流が、宋儒の魂を坩堝として渾融せられたる偉大なる思想体系であり、それ故にこそ普く東亜の指導原理となり得た (

」という、 12)

東亜地域における思想融合の歴史的経験に触発されたものであったのであろう。 もちろんこれは、大戦下で米英と激しく対決する前提の下で、いかにアジア諸国とりわけ中国との協力体制を成立さ

せるかに苦慮する大川が、精神的文化的共通要素であるアジア(主義)的イデオロギーの強調によって、中国(インド)  (八八八)

(8)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三一九同志社法学 五九巻二号 のナショナリズムを包み込み、東洋対西洋という構図の中で日中の対立を解消させようとした思想的努力でもあったであろう。ただ時流に乗るのではなく、従来の思想を発展的に固持するところに大川なりの特色があった。それゆえ彼は、

「大東亜建設の基本理念ハ我ガ国体ノ本義ニ淵源シ、八紘為宇ノ大義ヲ大東亜ニ顕現スルニアリ (

鋒員の急先長たる鹿子木信報(大日本言論報国会事国論局はや論」義主国皇「の)距言離を置き、また同志で務 ( に法論的製官ういと」 13)

、白鳥 14)

敏夫の「唯神の大道」論 (

。批次ぎのような判かを下していた、てうに識意を説言なしよるれさ表代 15)

然るに今日の日本人の言行は善き意味に於ても悪き意味に於ても、余りに日本的である。儒教や仏教をまで否定して、独り﹃儒仏以前﹄を高調賛美する如き傾向は、決して亜細亜の民心を得る所以ではない。(中略)徒らに﹃日

本的﹄なるものを力説して居るだけでは、その議論が如何に壮烈で神々しくあらうとも、亜細亜の心琴に触れ難く、従って大東亜戦争のための対外思想戦として無力である。希くは国内消費のためのみでなく、大東亜の切なる求め

に応ずる理論が一層多く世に出でんことを (

。 16)

 中国の場合については彼は更に、「文化方面に於ては、支那の伝統を無視して日本主義を強制せんようとした (

」とし 17)

て日本の政策を批判したが、比較的開かれた理念を「大東亜」の思想的指導原理に据えることによって、中国の戦争協力を引き出そうとする苦心が滲み出ている。

2

前固の序秩」るすと提を)、係関の導指被・導指「持

 「大東亜新秩序」の歴史的必然性と思想的統合原理を宣明し、理念的作業による中国包容を試みる大川は、現実に日

 (八八九)

(9)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二〇同志社法学 五九巻二号

中秩序の位相や日本の政策理念についても自分なりの認識を打ち出していた。彼は、東亜の地域秩序における日本の指

導的地位への懐疑や否定、換言すれば近代的民族自決・平等の容認論については、堅く拒否し、持論を譲ろうとはしなかったのである。

 例えば一九三八年十一月、第二次近衛内閣による「東亜新秩序声明」の発表に従い、それを理論化するための「東亜協同体論」や「東亜連盟論」が登場したが、大川がこれらの議論に熱意を示した形跡はほとんど見当たらない。彼はよ

うやく一九四一年の初頭に「東亜協同体」について論説したものの、協同体は「経済的関係を主眼とする利益団体に非ず、広汎なる意味に於ける道徳的主体的確立でなければならぬ」とか、「くるべき東亜協同体はこの統一的意識の上築

き上げられるべき﹃三国﹄である。又は﹃三国﹄魂の客観化である (

たが東「たし係関爾連莞原石、たま。亜盟っりっか近に的脈人な論かが彼、もに」たあ」で体論的論議とは程遠いもの の流己ま自ういか明説りを出したに止」、「協同と 18)

にも拘わらず、ほとんど関わっていなかったのである (

に観的民族協和・対等連邦の念差的論議およびその有効性別無にのその理由の一つは、彼とって思想的にこれら運動  。 19)

賛同し難かったためと思われる。例えば一九四〇年七月東亜経済調査局主催の座談会で、嘉治隆一が発した「東亜に極限して来るわけですけれども、東亜の協同体といひますか、連盟といひますか、あゝいふ問題は、今世間で謂はれてい

るやうな意味では成立ち得ないわけですか」との質問に、彼は「さうなると思ひます」と答え、次いで嘉治の「有力なものが指導するか、支配するかでなければ⋮⋮」との確認に、彼は﹃同じ平等の立場で、東亜連盟が出来るなんといふ

ことは、私は絶対に考へられませんね。誰かゞ指導するんです。中心勢力が

。誰かゞ

と云ったのは、それは日本ですよ」と応答し、さらに「それは平等といふことは、絶対に夢にも見えません (

。挟るあでのだんを葉言的調強と」 20)

 大川のこういう立場は、いわゆる「大東亜宣言」案の起草過程において典型的に見られる。彼は大東亜省や外務省等  (八九〇)

(10)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二一同志社法学 五九巻二号 の官庁では省部トップとはもちろん、多くの中堅官僚とも親交を持ち、かなり思想的影響力を持っていた (

中東営のさ心官庁である大亜と省から宣言文の起草を運催頼年るあでのたれ一九四三十開月彼は、大東亜会議の依 ( 、えゆれそ。 21)

。た 22)

だ、大東亜会議をめぐる位置づけについて、外務省と大東亜省との間にはいわゆる政府内対立があり、宣言の起草は実際に外務大臣重光葵の主導で進んでいたので、大川が大東亜省に提出したと思われる宣言案は (

、道義による新秩序建設 23)

などの文言などを除いて、宣言文の中心的内容とはならなかった。 この結果を受けて、大川は後の一九四四年二月末、同じく宣言文の起草を依頼された国策研究会代表矢次一夫の話を

聞き、「僕らの書いてやった﹃世界新秩序論﹄は青木大東亜省が発表を押さえている。指導国などといふのが支那や泰から嫌われるとの理由らしい。馬鹿げた信念のないことだ」と語っている (

を論論序秩新亜東大的主盟・論国導指は彼。 24)

否定するかのような新国際秩序論が大東亜宣言に盛り込まれたことに批判を加え、自らの立場を後退させようとはしなかったのである。ただ当時の政治的事情から推察すれば、大川の新秩序論を押さえたと思われる青木一男・大東亜省よ

りも、むしろ「大東亜新政策]を主導した重光葵・外務省の方が直接彼の批判の的に当たると思われる。 大川は実は重光とは五高の同期で、かねてからの旧知であった。ただ個人的関係については重光自身が戦後「外務大

臣時代に一二度、(大川が)支那問題に付て意見を述べに来られた外は」、あまり交際はなかったと回想したように (

、そ 25)

れほど親しくもなかった。その原因の一つは、重光は外務省アジア派に属し、アジアにおける英米主導の秩序体制打破をも目指していたに拘わらず、実際の対中・英米政策等では穏健な路線を採ろうとしたからであろうと思われる。それ

とは反対に大川は、重光と同じくアジアにおける英米主導の現状維持体制を打破しようとしたが、対中・英米政策で親軍的で急進的な強硬姿勢を採る同時代の外政家松岡洋右や白鳥敏夫と、より密接な関係を持っていたのである (

。 26)

 もちろん、アメリカのモンロー主義をアジアに適用し、極東における日本の現状打破を正当化する「亜細亜モンロー

 (八九一)

(11)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二二同志社法学 五九巻二号

主義」を目指し、さらに大戦下日本外交の大半を担いながら、東洋対西洋という一貫した論理的立場で、「大東亜戦争」

の目的が欧米からのアジア解放・復興にあると唱える重光の姿勢に、大川がある程度共感を覚えたのも不思議ではない。しかし、大川は宣言案の起草を通して唱えられる重光の新国際秩序論には全く賛同しなかった。日本がアジアの盟主で

あるという主導国原理を主張する大川およびその起草案に代表される大東亜省の立場は、形式的ではあってもアジアの「独立国」の相互平等性を強調しようとする重光葵外務省的立場とは大きな相違があったのである。

 そもそも一九二〇年代の初めに重光が上海で孫文と会って孫の民族革命・民族独立の主張にかなりの理解を示した経緯もあったが (

勢いローチも共感もしてなアかった。この対照的姿プに後派川は当時ないし以の、長い期間、孫・蒋一大 27)

は、二十余年後の二人の民族自決問題に対する立場とも、ある程度重なったようである。実際、重光は不平等条約の解消を含む中国民族主義の要求に、たとえ部分的ではあれ列国に先んじて応じることによって日中間の提携強化を図る構

想を、中国現地での外交活動に当たることで持つようになっていくが、対照的に大川は、一九四三年秋の講演において大東亜建設審議会の答申の基調である「分」の考え方について、「所謂ウイルソン流の民族自決主義に対する所の明快

な回答を与へるものである (

新見対外・対中政策論等について意交光、支対「の光重り換あもとこたしと重一時 は四三年秋の九点含めて、大川を えの説明を与あたのでる。」と 28)

政策」志向を承知していたと思われる (

。説のうな論よをいていた書 にかのようは、彼以下する判念批れこそ重光の政策理を。意識し、真っ向からそ 29)

大東亜秩序も、それが秩序である限り、指導・被指導の関係を前提とする。若し指導能力ある者が指導の地位に立

つに非ずば、秩序は必ず紊乱せざるを得ない。大東亜圏内に於て、日本が指導的地位に立つことは、東亜新秩序の  (八九二)

(12)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二三同志社法学 五九巻二号 確立と発展とのために、最も自然にして且つ必要なることと言はねばならぬ。然るに近来動もすれば故らに其の言明を避けんとする傾向がある。第三国の嫉視を緩和するために又は東亜諸民族の感情を顧慮するために、過度に謙 譲を装うことは望ましくない (

。 30)

 つまり大戦下で、大川の構想する日中関係の秩序(像)は、「世界史的協同圏」時代において欧米流の民族自決主義によるデモクラシー的ないしアトミック的な秩序形態ではなく、日本の道義的指導のもとで各国が協同しあい、各々が

そのところを得て存立するシステムである。それはあくまでも平面的平等関係を意味するのではなく、指導民族たる日本に奉仕し追従するという階層的序列関係であった。このような秩序観では、中国は日本に奉仕することで自己の役割

を果たし、また強大な日本の先導性・道義性によってその存立も繁栄も保証されると描かれるのであろう (

。 31)

二、中国認識の転換と自国批判の開始

はをっかなしはとうよめ認序め秩的」係関の導指被・導たた、とやはダンガパロプのろ彼こたにが意き的識取り組んで う指「たしとよよの観主なうしの上以川「大は側国、中局結しか的新 知持固の、彼りあで」感秩無「はに伝宣」論序し

1

換転識認国中の形たし折屈)、

り無力であった。時局の悪化もあって、大川には中国再認識と自国政策批判の念が色濃く見え始めた。

 実は、一九四〇年半ばに入って日本軍による中国沿岸封鎖や北部仏印進駐で、米英の援助ルートがほとんど遮断されたにも拘らず、蒋介石国民政府がなお抗戦を続けたという事実は、すでに大川にある程度対中認識の変化を起こさせ、

 (八九三)

(13)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二四同志社法学 五九巻二号

思想的反省をもたらしていたと思われる。一九四〇年末期、彼は時勢の要望に応じ、一九二〇年代初期の名高い﹃復興

亜細亜の諸問題﹄の続編として﹃亜細亜建設者﹄を世に出し、第一次大戦後から第二次大戦初期に至るまでの約二十年にわたるアジア民族独立運動の行程を、ガンディやネルーを含むアジア解放の英雄五人を中心に叙述した。前編と同様、

中国についての叙述は何もなされていないが、しかし今回は大川は特に中国に留意しつつ、序文において次のような説明を付した。

新亜細亜を物語るためには、泰国の指導者並に支那の孫文・蒋介石の志業を逸し去ってはならぬ。わけても孫・蒋

両者の功罪を正しく認識することは、相手にすべき者と相手にすべからざる者とを誤らぬためだけでも、東亜新秩序建設の重大なる準備の一である。唯だ予は東亜を以て亜細亜のうちの特殊の地域となし、之を別個に研究の対象

たらしむべきものと考へ、暫く東亜を除外して亜細亜といふ文字を使用した。本書に「亜細亜建設者」と題したるは、決して羊頭を掲げて狗肉を売るためでない (

。 32)

 孫文・蒋介石の志業を認識し、とりわけその功罪を認識することが敵・味方区別や「新秩序」の問題に繋がるとした

のは、これまでの大川の孫・蒋に対する姿勢に見られない新傾向であった。孫・蒋の志業と功績を一貫して認めず、また日中戦争勃発以来、蒋政権を相手とせずにひたすら壊滅させようとしてきた彼の言葉を翻って読めば (

、もし孫・蒋の 33)

功績を評価するならば、それを相手として日中関係の再構築を考慮する余地もあるという意味になる。しかし勿論、戦争状態で絡み合った日中間の厳しい現実の狭間では、孫・蒋の功績を肯定すれば、それは日本に一面の非があり、また

汪兆銘政権の性質や存続に問題があるのを認めることになるため、彼は「特殊の地域」や「別個の研究対象」と断って  (八九四)

(14)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二五同志社法学 五九巻二号 孫・蒋に対する評価を暫く避けなければならなかった。 その後、汪兆銘政権は孫文の正統的継承者であるとの論理が「成立」するにつれて、彼は「昨日までは三民主義が天 地容れざる思想として痛撃されたが、今日は孫文の﹃真精神﹄を是認すると言ふ (

、も批判しながらる状むしろ孫文にを評するたっなにうよす価正修に的分部を対 ( の現、戦時下日本「」思想混迷」のと 34)

民相国石介蒋るた手争闘、は彼たま。 35)

政府に対し、日本側の真意に対する事実誤認や政権の維持・強化と権力闘争の必要、また欧米の挑発・離間策による排日行為を糾弾しながらも、中国国家の統一と建設をめぐるその努力自体にはかなり客観的評価を与えるようになってい

た。例えば、彼は「事変以前の支那には、蒋介石指導の下に国家体制が次第に整ひつつあった。蒋介石は(中略)国家的統一のために苦心惨憺していた (

蒋針時の蒋の対日方に発ついて、「恐らく当勃、争の見解を示しさ」らには日中戦と 36)

介石もまた日本に対して勝算を抱いて居なかった。彼もまた当初は局地解決を望んだことと想像される。併し乍ら国民党の狂暴焦燥分子は、最早彼の手によって制御すべくもなかった (

。露るあでのたし披を定想のと」 37)

 大川のこうした認識変化には、中国現地での交友・見聞やその他の情報獲得も一因であったと思われる。戦時中、頻繁に華中地域(上海・南京間)入りした彼は、現地状況を自分の目で観察・確認し、また「浙江財閥」を中心に各方面

の人物と深く交際したことから得た感触・体験はもちろん、政府や軍側、そして満鉄系列をはじめ国策調査機関の情報

成果を一定程度入手できたと推察される (

石彼衆民「国中、ずらまは信孫文・蒋介止への再認の用に本力勢日親るすと景背を日最「」、はのもしりか薄も識 ( るたおに界世報情れ、か開的較比のけ位。能てっよにと力考置思な的立独とこ 38)

」であ 39)

るという厳しい現実判断も示すようになり、さらに大戦勃発後は中国で起きたある種の変化をより明白な口調で語るようになった。例えば、前掲の﹃大東亜秩序建設﹄で、彼は「四半世紀に於ける支那の非常なる変化」について、ついに

否定をしなくなったのである。

 (八九五)

(15)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二六同志社法学 五九巻二号

若し是が清朝末期又は軍閥時代の支那であったならば、恐らく南京陥落の後に、然らずば漢口・広東を失った時に

支那は早くも吾が軍門に降ったことであらう。然るに戦へば必ず敗れながら前後七年に亙りて抗戦を続け、殊に大東亜戦争半年の戦果を目賭して、日本の武力の絶対的優越を十二分に認識せるに拘らず、また其の最も頼みとせる

米英の援助が殆ど期待し難くなれるに拘らず、尚且抗戦を止めんとせざるところに、吾等は此の四半世紀に於ける支那の非常なる変化を認めねばならぬ。若し日本が現在の支那を以て、清朝末期又は軍閥時代の支那と同一視して

居るならば、直ちに其の認識を更めねばならぬ (

。 40)

 これは八年間の日中戦争において、同時代の中国に対して大川が下した、入手できる資料から見て最も正面的かつ積極的な評価である。中国で具体的にどのような「非常なる変化」が発生したのか、どのような原因によるものだったの

かについては、恐らく当時の厳しい言論統制の事情もあって、彼は自分の論著においてこれ以上論及することができなかった。しかし、「現在の支那」を「清朝末期又は軍閥時代の支那」と同一視してはいけないという自省を含意する呼

び掛けには、中国民族の結束力または国家意識の自覚、指導層の求心力等をついに認めたことが明かに込められていたのである。

客口彼。たいてし言諌で調いジし厳はていつに策政や方がアア戦の魂国三、し号呼を」復争亜と興の東い戦しての「大 るり在の本日あ具に明的体ではていつ化を変や状実の国中は川言避 固国自、がたいてし持をけ権導主域地の本日、大

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観験経史歴と論省反策政)、

観化としての「大東亜秩序」を闡明していたにもかかわらず、現実には日本は中国と戦い続け、彼の言葉で言えば「対  (八九六)

(16)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二七同志社法学 五九巻二号 英米戦争の宣戦の大詔下りてより、支那事変は大東亜戦争のうちに包容され、その名称は廃止されたけれど、現に日支両国は激しく戦ひ続けて居る (

。なして、彼は痛切問直題提起を行った面に態実いう皮肉な状が」あった。この現と 41)

日支両国は何時までも戦ひ続けねばならぬのか、これ実に国民総体の深き嘆きである。普通の常識を以てしても、

日支両国は相和して手を握れば測り知れぬ利益あり、戦って相争へば百害ある。わけても世界史の此の偉大なる転換期に於て、若し両国が和衷協力するならば、亜細亜の事、手に唾して成るであらう。いま日支両国が復興亜細亜

の大義によって相結び、その実現のために手を携へて起つとすれば、印度また直ちに吾に呼応し、(中略)大東亜圏の建設が、順風に帆を挙げて進行するであらう。

然るに現実は甚しく吾等の理想と相反する、もとより南京政府は既に樹立せられ、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦に於て吾等と異体同心であり、進んで大東亜戦争に参加するに至ったのではあるが、支那国民の多数は其の心の

底に於て尚ほ蒋政権を指導者と仰いで、反日・抗日の感情を昂めつつある。かくして日本は、味方たるべき支那と戦ひ乍ら、同時に亜細亜の強敵たる米英と戦はねばならぬ破目になって居る (

42)

 しかも、かくて問題は中国一国に止まらず、抗日中国の存在によってインド国民会議ネルーらと蒋介石とが接近するという反日同盟の動きも現れ、実に三国中の二国が米英と共に日本の敵となったのである (

。大川はかねてからインドの 43)

反英独立運動に関心と期待を寄せ、ガンディーやネルーらの業績への称賛を惜しまなかった。さらにまたインドが反英米戦に出ることは、「強敵たる米英」と死闘中の日本にとって最も必要とされるという緊迫感から、米英打倒を目指す

日本こそがインドの独立達成に対して決定的な支援要素であることを強調してそれとの同盟結成を大川が図ろうとして

 (八九七)

(17)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二八同志社法学 五九巻二号

いた時だけに、インドの反日的転向は大いに彼を困惑・焦燥させたようである。

 このような深刻な局面に対する痛感から、大川は一連の論説を通じて中国やインドの回心と日本の誠意を呼びかけると同時に (

特現〇年の時点から彼は、地九における日本の憲兵・四一ももなる原因への検討に目、を向け始めた。早く内 44)

務班が中国の品性劣悪な政治ブローカー・通訳・無頼漢と手を結んで行った占領地行政、つまり「日支の政治工作」の拙劣さ(とそれによる経済復興の失敗)を強く批判したのである (

。でるいてべ述うこは彼、説論の年一四九一てしそ。 45)

支那事変は、亜細亜復興を理想とし、東亜新秩序建設のための戦なるに拘らず、最も悲しむべき事実は、独り支那

多数の民衆のみならず、概して亜細亜諸国が吾国に対して反感を抱きつつある一事である。(中略)彼等の或者は、日本を以て彼等の現在の白色主人と択ぶ所なき者と考へ、甚しきは一層好ましからぬものとさへ恐れて居る。この

誤解は何処から来るか。(中略)日本自身に、斯かる根強き誤解を招く行動は無いか、また無かったか。日本の重大なる使命を誠実に自覚する者はこの非常の時期に於て厳粛深刻に反省せねばならぬ (

。 46)

 太平洋戦争勃発後も、大川はやはり中日戦の現実を最も意に介して、「支那と日本が相争ふのは、討幕のために協力

せねばならぬ薩長が相争ふ如きものである。非は支那側に在りとするも、殆ど五年に垂んとする必死の努力を以てして、尚且其非を改めさせ得ぬとすれば、日本は深刻に反省すべき時ではないか (

、うはに的体具。るすとそ促を省反の国自と」 47)

反省の帰着点を日本の道義主体性とこれによる統治政策に帰して、「清朝創業の教訓」や「異民族に臨む態度」等の論説をもって種々の建言を提示している。「東洋に於ては、政治とは﹃仁﹄の具体的実現に外ならぬと考へて来た。大東

亜共栄圏は先づ第一に日本の﹃仁﹄の客観的機構でなければならぬ (

貫一るた想思治政たし的の教身自、は彼るすと」儒 48)  (八九八)

(18)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三二九同志社法学 五九巻二号 (仁徳)政治観に鑑みて (

。な、以下のよう教か訓を挙げているら史る、統服征の族民異治す対に族民漢 49)

満洲人が支那四百余州に君臨するに至れるは、世人が往々にして想像する如く、決して単に武力によったのではない。漢民族をして彼等に臣附せしめた最大の原因は、実に彼等の勝れた徳性である。いま大東亜の指導者たらんと

して居る吾等に取りて、清朝創業当時の歴史は深甚する教訓を含む。吾等は専ら欧米の植民政策に学ぶことを止めて一層誠実に東洋に於ける異民族統治の跡を省みる必要がある (

。 50)

 大川には、唐や清が既に東亜において「一種の東亜共栄圏」や「大帝国主義」を創ったという論断がある。「唐のや

り遂げたあとを見て吾々は深く反省して参考にしなければならぬ」と考えた彼は、「大唐帝国」が「偉大なる勢力圏を築き上げることができた」のは、「異民族に対して甚だ寛大であったこと」と「国際的(全アジア的)文化を創り上げた」

ことにあると指摘し、「一層雄大なる規模において新しい大東亜秩序を築かんとする日本にとって他山の石とするに足る (

」と呼びかけた。 51)

 以上から分かるように、大川は、武力や欧米的植民政策に頼る日本の統治姿勢に道義や仁徳が欠けると指摘し、その

批判的修正を強く意図したのである。そもそも彼自身は満鉄内で仕事である植民史・植民政策研究を長年行いながら、実際に中国(満州や華北)に対して欧米的植民政策を講じたこともあった。しかしここに至って、日本が中国民族をな

かなか「臣附」させられない現実が、彼にその限界性を認識させた。よって彼は、東洋政治術への回心に立ち返って循環的類似性のある中国歴史の経験の中にその「範」を求め、また言論の局限された現実を、類似的成功例に裏付けられ

た歴史の舞台に移すことで、日本の政治主体に、より自覚的倫理に立つ行為を求めようとしたと言えよう。

 (八九九)

(19)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三三〇同志社法学 五九巻二号

 ここにおける彼の認識は、大唐帝国、わけても少数的征服民族である満州人ができた(大)東亜帝国創成や漢民族臣

附を、東西文明を融合した能力と事実を有する、文明的優位に立つ日本が更にできる筈であり、この行為自体は、「近世植民地的搾取政策を否定 (

過文民族の歴史発展や明漢進化の合理的な一)(が国た「仁」の政治前」提であれば、中し 52)

程と位置付けられるべきであるというものであったろう。ここに内藤湖南の東洋文化中心移動説の影響があったかどうかは不明であるが、当時の一部官庁・国策機関や東洋学者による、中国の征服統治法に関する歴史的研究の発想に通底

するものが見えてくる (

能性本が確固たる道義的主体をる確立した上で、あるいは日たこ者前でも触れたように、こで彼が構想したのは指導  。 53)

動的に確立を目指す過程で、他民族を抱擁した階層的有機体的共栄圏を構築するというビジョンであった。これは、近代的国民国家や民族自決の原則に注意を向けない設定であり、中国史や日中関係を古今同様のものとして捉えたのであ

る。そこには近代的要素をはっきり認識し取り入れることはなかったが、同時に日本が自ら主導性を放棄して民族自決原則を現実化させえない条件下では、最大限の理論的反省でもあった。つまり、戦争協力の前提下において現状を変え

ようとする体制修正的主体意識を、彼は明確に持っていたのである。

おわりに

 以上、太平洋戦争期の日中秩序関係の再構築をめぐる大川の思想活動について述べてきた。彼は最初から、自分の「大

東亜新秩序」論において、「新秩序」の歴史的必然性を論証して中国の位置づけを理念的に包摂しようとし、また現実の中国政策(の理念)においては、近代的中国民族主義に対応する政策志向を否定し、あくまでもアジア地域わけても  (九〇〇)

(20)

「大東亜戦争」期における大川周明の思想戦

三三一同志社法学 五九巻二号 日中関係における日本の指導性を堅持して譲らなかった。一方、中国側が抗戦を続けて自分の論理に乗らない現実に直面しつつ、彼は一定程度の中国再評価と自国批判を行うようになる。それは、蒋介石国民政府の指導力と中国民族の結

束力を認識し、中国史の経験的類推に基づく帝国創成や異民族統治の政策論的反省を本国政府に促したものである。もちろん、彼におけるこうした言説の出発点は、何よりも戦争協力、とりわけ総力戦たる「大東亜戦争」下の思想戦遂行

にあったのは先ず疑いもないことである。これはまさに、彼が大東亜戦争のイデオローグや理論家と称される所以である。 ただ部分的であるにせよ、大川のこうした思想活動には、その「大東亜秩序」論における日本主義の東洋的・国際文

化論的改造、抗戦中国の実態再認識や本国政府の政策錯誤への批判など、当時の言論環境に照らせば、竹内好の下した、戦時下における大川の言説には思想性がなくなったとの評価を超えたところの特質も、一定程度存在したと言えよう (

。 54)

確かに、中国民族との直接的衝突の中で対中認識が根本的に再定式化を求められていた中、彼における思想的努力は深刻な形ではなされておらず、中国論の再構築よりも国策論や統治論的考案に注意を傾ける姿勢は、まず存在していた。

しかしながら、国家権力に対する抵抗意識を持ち続けた橘樸の言説も戦時下の総動員の論理へと組み替えられ、凡庸な戦時下的言説パターンに据えられたことを考え合わせれば (

複川にりなれそ、はけづ置位の大るけおに史想思の期中戦、 55)

雑な一面があったのも事実であろう。

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参照

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