著者 星川 正信
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 32
ページ 34‑40
発行年 1980‑03‑23
URL http://doi.org/10.15002/00010969
はじめに
下級官僚中原氏は、大政間少納言局に属し、清原氏と同様、代々大外記を世襲する局務家であった。大外記は「百寮訓要抄」に「天下の文書をかき、近き先例をかんがへ、よるづの公事を奉行(1)す。」とふえるように、太政官内における記録、文書勘例、公事等を奉行する職掌であり、その外記の上首を局務と称した。局務の職掌は、他に内廷経済の補完的役割をになう大炊寮領の頭として、その管理を委任されていた。すなわち、大炊頭として大炊寮頒の実際の管仙権を行使しうる立場にあるのは、大外記の上首たる局務にあった。中原氏・清原氏と大炊頭とのかかわりは、『康富記』の文安五年九月十九日条に(前略)局務之鍵祖頓隆真人、長元元年九月廿七日被兼任之云々、其外者無例、於師孝一流者、師平以来数代任之一奇(下略)とあるように、清原氏の場合は、長元元年(一○二八)に「大才之人」といわれた頓隆が任ぜられたの承で、他に例はなかった。中原氏の場合、師平以来数代大炊頭に任・せられた、と記されてい 法政史学第三十二号
室町期における大炊寮領と中原氏
一文安年間における寮領の管領権
文安五年二四四八)に生じた、山城国綴喜郡大住庄内にある大住御稲代官殺害事件を素材に、この時期に於ける、中原氏の寮領に対する管領権の実態を検討してよよう。『康富記』文安五年五月四日条に
(前略)今夜医師寿阿法印之宿所、備噸鵬靹鵬嶢、夜討乱入、寿阿 井共子禅僧噸騨学矢庭被討之、嫡子治部卿逃失、其外若党一
るょうに、平安末期に中原師平が大炊頭に就任して以後、再度清原氏が大炊頭に任ぜられる文安年間まで、代戈大炊寮領の長官大炊頭を世襲していた。しかし、文安五年C四四八)以降、大炊頭は、中原氏から清原氏へと移行をよぎなくされてから、清原氏による大炊寮領の知行が行なわれていくことになる。この小論では、中原氏の世襲にあった、大炊寮領の長官である大炊頭が、清原氏へと移行せざるをえなかった要因を、主として文安年間l享徳年間にゑられる大炊寮領の実態を分析することによって、明らかにしたい。星
ノ
正信
四
人死去(下略)とふえる。医師であった寿阿が、夜討によって殺害された。この寿阿の横死が、いったい寮価とどのようなかかわりを有していたのだろうか。文安五年五月九日条には「寿阿横死無相続仁也」とあり、また、次の如くふえる。(前略)大住内御稲川、寿阿致契約之間事、以親衛可被申管価典厩間事、右談合時分也、予当司価事、以彼次令披露可給哉曲事、同令談合丁(下略)すなわち、夜対によって非業の死を遂げた寿阿は、大住御稲川の代官として、御稲川管理を諸負っていた人物であったことが、この史料で明らかである。ここで問題とされているのは、「大住内御稲田、寿阿致契約之間事」について、その後の運営面でのことである。それは、「談合時分也」という文言から判明する。ところで、ここに兄られる「談合」とは、誰を中心に行なわれていたのだろうか。すなわち中原氏なのか、清原氏なのかということである。文安五年五月九Ⅱ条に典える「櫛賦典厩」とは、細川勝元を指しているが、ここで考えてゑたいのは、大住御稲田問題について、管領細川勝尤に使をつかわした主体が誰であったか、ということである。その手掛りは、「親衛」という人物が誰の御使であったかを考えれば、解騨は容易である。『康富記』文安五年五月十日条に、(前略)晩参局務、右麦飯、清親街参会、大住庄内御稲直務事、井予申隼人司分事等、今朝伺申細河典厩御返事之様被語之
室町期における人炊察倣と小原氏(星川) とある。局務とは清原業忠である。「親衛」とは、この史料に「清親術」と見える様に、この人物は清原氏の一族であり、この時点に於いて、局務清原業忠の御使であった。このように考えれば、御侠を室町幕府につかわした主体は、局務清原業忠であった。局務清原氏を中心に談合が行なわれていたことは、以上の推測によって察知できよう。その談合内容は、第一に大住御稲直務の事であり、第二として隼人司分事であった。後者については、この大住庄内に大炊寮領の他に、隼人司価も散在していた。隼人司領については、芸能史(2)の祖山岬から論及された林屋灰三郎氏の著名な研究があるので、ここでの詳述はさけ、関連珈頂についてのみ記せば、この大住庄内には、大嘗会田と称される一町二反の給田が存在し、これが隼人領となっていた。代官寿阿が押妨したのはこの給田と思われ、隼人可中原康窩がしばしば、この件について幕府に訴えていた。ここで検討したいのは、前者についてである。すなわち、代官寿阿なきあとの御稲管理を直務にするか否かについて、局務清原業忠が幕川に相談をしており、その際中原氏がこの談合に関与していない亦突である。『康腐記』文変五年九月十九日条には、(前略)大炊弧師孝、枕大住御稲事、武家之御奉書度々被成之笹飢処、不承引、佃自武家被訴中公家、可被召下放過状之由、以布施民部大夫被申伝奏了(下略)とある。これに依れば、大炊頭は確かに中原師孝である。ところが、中原師孝は「目武家被訴申公家」とあるように、大住御稲に関し
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南北朝時代、康永四年(一三四五)に、大炊頭中原師右が卒去(3)する。その前日、師右は死にさいし、素懐のこととして、嫡男の師茂を使として、朝廷に「大炊寮々務、任相伝、寮頭師茂管領不可有相違之由、可被下院嵐、魁恩師茂、師守相並可被召仕」旨を(4)願い出、勅許された。父師右の願望はかな陰えられ、以後師茂、師(5)守の「分譲支配」によって、大炊寮領は運営されてきた。しかし、文安五年、中原師孝に至り、中原氏の世襲であった大炊寮領の長官大炊頭を辞さなければならなくなった要因は、いったいどこにあったのだろうか。『康富記』享徳三年二四五四)八月八日条に、中原家の系図が記載されている。その巾に、師孝の名前の下に、次のような註記がある。目公武被処御罪科、師孝知行分大炊寮領等被下給少納言業忠真人之後、師孝死去、件一流断絶也、 て、幕府から公家へ訴えられている。この要因については後述するので、ここでは検討はしないが、次の点は重要である。すなわち、中原師孝と清原業忠との間で、大住御稲の管領権について相論されており、しかも清原氏は、管領細川勝元を通じて御稲管理の実権を掌握しようとしていることである。このように、文安年間、大炊頭としての中原氏の大炊寮領管理の権利は喪失し、既に伺務として、事実上清原業忠による寮傾管理がおこなわれていた。 法政史学第三十二号 二六角流中原家の断絶と管領権 「件一流」とは、師茂、師夏、師孝の六角流を指し、断絶以後は、師守を祖とする押小路家流が繁栄していく。中原師孝が死去するのは、『康富記』宝徳二年C四五○)六月十八日条にシキノコ戸(前略)一ハ角前大炊頭師孝頃来卒去、流布病也云会、子息師照去年入釈門云々、其外無子息鰍、師孝〈師茂之孫師夏之子也とあるように、宝徳初年のことである。師孝は、師茂の孫である師夏の子であり、師孝の子息師照は、釈門に入り出家をしている。師孝の死去によって、六角流中原家は断絶してしまったが、直接そのことが、大炊寮領の管領権を清原氏の方へ移行せしめた要因にはならないと考える。すなわち、先に掲げた史料中、師孝が「日公武被処御罪科」れたことにその直接的な原因が存在し、ゆえに彼の知行分及び寮繊の管倣権をも没収されてしまったと考えたい。しからば、その「御罪科」に処せられた直接の要因とは何であったのだろうか。『康富記』文安六年二月十三日条によれば、大外記の局務であり新大炊頭としての要職にあった清原業忠は、権大外記中原康富を私邸に呼び、次のように語った。大炊寮処々御稲田井便補保等注文事、注一紙、昨日目師孝方付給之、就之尚有不審事等、来臨者可入見参之由、雛申送、自身可罷向之条非無勘酌、所詮相伴大学向彼宿所、彼寮務童書等有
一見者可悦入之由被示之、即伴国子向師孝宿所鑑稗麺噸、面謁之、
処々重書等被取出加一見、昨日被注進送一紙之上、注加了、武家御判等支証大略質物二入置一葛すなわち、昨日、師孝方より清原業忠のもとに、「大炊寮処々 一一一一ハ御稲田井便補保等」の注進状が届けられた。これについて清原方から、不審があれば来臨して調べてほしいという要請があったので、清原業忠は御使を師孝の宿所におもむかせ、御稲田及び便補保の状況について調査したところ、「武家御判等支証大略質物一一入置」いていた事実がわかった、というのである。大炊頭であった中原師孝が、公領である所領を質物に入れ置いていたという実態が、浮きぼりにされてくる。この事実は、前年の文安五年にだ(6)された論旨には、次のようにゑえる。
大炊寮揮艫事、近年多及非分之違乱、当知行頗有名無実鰍、或
又前寮務任雅意令沽却云を、為公領之上者、太以不可然、縦雌有其証文、不能許容、早致興行之沙汰、繊鍬繼別可専公役者、
天気如此、可被存知之状如件、文安五年十二月州日左大弁判大炊頭殿この論旨は、大炊頭清原業忠に宛てられたもので、「早致興行之沙汰辨鋤松川可専公役」という文言から判明するように、大炊寮
領の再建を行なう目的で発給されたものである。この輪旨から、非分の違乱による寮領の有名無実化、前寮務師孝の雅意によって沽却されていた大炊寮領の実態が理解される。さらに『康冨記』享徳四年閏四月二日条には、「買得之寮領井常御判之地等、文安五年大炊頭拝任以来、棄破前寮家之沽却、当寮家致当知行之処々趣鰔」とある。これによれば、文安五年、清原
氏が大炊頭となってから回復した所領数が十カ所に及んでいた。その目録は、管見に及ぶ限り見い出すことができなかったので、室町期における大炊寮領と中原氏(星川) その全容を知ることはできない。以上の考察によって明らかにされたことは、大炊頭中原師孝が、公武より罪科に処せられた原因は、公領である大炊寮領を、雅意にまかせて沽却したことにあった。それゆえに、中原氏が大炊寮領の管領権を没収された直接的な要因ともなったのである。
前大炊頭中原氏によって沽却された公領が、十カ所以上にも及んでいたことは先述した。次に、沽却された所領の内、若干史料が存在している所々について検討し、沽却の対象とされはじめた時期を考察することによって、中原家経済衰退の一面を論じてふる。表に掲げた御稲田保(殿上米)は、中原氏が大炊頭の職を解任された後、新大炊頭に就任した清原氏が、沽却された寮領復興をおこなう過程においてあらわれた所領である。他にも管見に及ばなかった史料の存在も考えうるが、一応この限られた所領を検討してゑたい。的近江国高嶋郡賀茂領内殿上米所領名については不明である。この殿上米沽却については、『康富記』宝徳三年十月二十九日条に、(前略)江州高嶋郡賀茂領内殿上米事、六角故師夏称別相伝令油却山徒了、隠大炊寮領之名歎、子細見延喜式第舟五巻大炊寮部(中略)、件買得山徒東塔北谷学頭代戒行坊、今日出京、於奉行所可請批判之由申之云々。(下略) 三寮領沽却の実態
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すなわち、中原師茂の嫡男師夏が、大炊寮領の名を隠して、殿上米を延暦寺僧に沽却していたことは、この史料から理解される。管見に及ぶ限り、大炊寮領沽却に関する初見史料である。②丹波国天田郡今安保この保は、『康富記』文安六年五月十四日条に、
表沽却された御稲山・便il1li保 法政史学第一一一十二号
御稲保矧内容
|細川勝元の被官との 今安保‘半済,本所分師孝沽
国名|郡名 年月日lllI典
蜑壽雌市康富記
宝徳’一 39.2.条|〃
、認条Elr
駒条|鵜事
丹波|天、
却 lU・』・壁・
口蝿擁傳1鵜,
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不明 不明 御稲田
賀茂領内にあるが不 明,六角師夏山徒に 沽却
1111小路外記分 高嶋 殿上米
近江
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山城 宇治
北山科御稲
奥'1Ⅲ1 御稲
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勘解由小路在富卿と 清原業賢との間でそ の知行をめぐる相論
13.5.3.天文
綴喜 伺事記録
〃 条
(前略)大炊寮頗丹波今安半済分、為細河下野給恩被官人吉良七郎持来之、於本所分者、師孝永代枯却之間、令買得致知行之間、勅裁御下知御教書、守護代波状等随身之(下略)とある。「今安半済分」と「本所分」という文言からわかるように、今安保は、細川の被官人吉良七郎による半済が成立してい(7)た。この半済の成立時期に関しては、詳細にはわからないが、南北朝期に書かれた、大外記中原師守の日記『師守記』には、「半済分猶未進有力」とふえることから、このころ既に半済が成立していたものと考えられる。「本所分」とは、大炊寮恢を指し、中陳川孝が永代油却した所領であった。㈹山城国宇治郡南北山科御稲現在の京都市東山区山科一帯に散在していた。この地域は、都市近郊挫村として恵まれた地に位値し、室町期は「山科七郷」と(8)称され、惣的自治村落を形成していた。大炊寮領の他に、山科家、近衛家、醍醐寺、鋤修寺家等の所恢が錯綜して散在していた為、用水堺相論もたえることなく惹起された。南北山科御稲の油(9)却についての記載は、天文八年『披露事記録』五月二十七日条の中にみえる、次の史料である。一、同披露、飯尾中務大夫申抑少路外記分山科南北御稲田享、於
泊却分者、被棄破当知行之処、南御稲田儀極“悴排、然処在所
寺庵地下人己下窓令自専背御下知之条、至隠田之輩者、被間食出次第被行閾所、可被仰付之趣、対寺庵諸侍地下人同七郷中、被成御下知者、可恭存旨申之、伍御裁許。これは、奉行衆松田対馬守盛秀の披露によるものであるが、同 三八『披露事記録』天文八年六月十七日条に、「清大外記申押少路外記諸知行之事、当時飯尾中務大夫二為御料所預下され、御糺明之間……」とゑえることから、飯尾中務大夫貞広と大外記清原業賢とによる、御稲田の知行をめぐって相論されていたことがわかる。飯尾中務大夫貞広が、御料所として知行していたのは、山科燗北御稲のうち、既に沽却された分の所領であった。これらの史料によって、南北山科御稲が天文年間以前に沽却されていたことが理解される。目山城国綴喜郡奥山田御稲田現在の京都市綴喜郡宇治田原町奥山田村に散在していた御稲山(皿)(u)である。『何事記録』天文十三年五月三日条に、勘解由小路在富卿と、大炊頭清原業賢との間で争われた、奥山田郷内御稲分につ(皿)いての記載がある。この相論の中で、とりわけ注目したいのは、御稲山の沽却についての記載がふられることである。在富卿が出附した証文の中に、「永享師孝、師勝、師基沽券」とあり、又応永八年の御教書にも、「永享五年沽券、文明九年公験御稲分相見者哉」とある。ここでいう御稲分の名称は定かではないが、ここで机諭になっている奥山田郷内の御稲分とは、奥山田御稲田を指しているのではないだろうか。するとこの御稲田は永享年間以前に沽却されていたと考えられる。このように、若干の所領について検討した結果、大炊寮領の沽却の時期については、応永年間大炊頭であった、中原師夏の頃にその初見がふられたことから、その頃から寮領沽却が進行し、文安年間に、その息である師孝の代に至ってかなり頻繁に行なわれ
室町期における大炊寮領と中原氏(星川) 以上、大炊寮領の実態を、中原氏と清原氏との間で争われた大炊崇敬の管領権を中心に考察を試ふた。小稿は、享徳年間に、六角流中原家の断絶という時期を転機に、以後押小路流中原氏と清原氏との間に展開されていく、洛中洛外の米商人売買課役の壮烈な争いを追究せんとする為の前提作業として、文安l享徳年間における寮領の実態と、中原氏との関迎性を素描したものである。最後に要約すれば、次の如くである。大炊察領の長官たる大炊頭は、大外記の上首である局務が兼任するのが慣例であり、平安末期以降代々中原氏の世襲にあった。しかし、文安年間の史料には、大炊頭が中原氏で局務が清原氏という、先の慣例に相反する現象が見られる。これは、この時期に於ける中原氏の大炊頭としての実際上の管領権が、大住御稲代官職をめぐる事例の中で承たように、既に喪失し、局務清原氏に移行していたものと考える。中原氏が大炊頭職を喪失した要因は、j蝋すでに応永年間から進行していた、察領の沽却にあったと結訟叩づけられる。
註(1)『群書類従』「官職部」(2)林屋辰三郎氏箸『中世芸能史の研究』(3)「中原氏系図」合統群書類従』「系図部」所収)及び『康富記』享徳三年八月八日条。左に中原氏の略系図を掲げ ていた、と考えられる。
おわりに
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(6)(7)
(8) (4)(5) 法政史学第三十二号
清水三男氏「禁裏御料所山城国山科七郷」(同氏署『日本中世の村落』所収)、豊田武氏「土一摸の基礎構造」(社会経済史学会編『農民解放の史的考察』所収)、田端泰子氏「徳政一摸に関する一考察」(日本史研究会史料研究部会編『中世の権力と民衆』所収)、飯倉晴武氏「山城国山科七郷と室町幕府戸豊田武教授還暦記念会編『古代中世史の地方的展開』所収)天理図瞥館所蔵九条家旧蔵史料、東京大学史料編纂所架蔵写真帳『大館記十三所収。なお、この史料は、桑山浩然先生の法政大学大学院におけるゼミのテキストとして使用したものである。桑山先生に謝意を表したい。『禅定寺文書』(古代学協会編、吉川弘文館)、の中に鎌倉後期と推定される「山城国田原郷山司等陳状断簡(折紙と(五○号)により、奥山田御稲供御人の存在が知られる。南北朝期の奥山田御稲田及び供御人の動向については、『師守記』に詳しい。尚『宇治田原町史、参考資料』第九輯(宇治田原町史編さん委員会)に森本米一氏の「奥山田御稲について」という論文がある。 会の研究』所収)。『康富記』文安六年五口橋本義彦氏、前掲論文 (六角流)
師右l|Ⅱ輌識Ⅱ緬理Ⅱ舸峠l師益
(抑小路流)『園太暦』康永四年二月五日条橘本義彦氏「大炊寮領について」(同氏箸『平安貴族社る◎
文安六年五月十四日条
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文科大学史誌叢書奥山田郷内の御稲分について、勘解由小路在富は、「帯御代々御判御教書写、証文、当知行」をおこなってきたと主張するのに対し、業賢は、「錐被成直務之御下知、一任在富卿雅意押所務仕之間、可被処其科」であると反論する。幕府は両方の証文を勘弁した後、「業賢卿証文山田郷御稲所見非分明、何以奥山田郷請文、可混大炊寮哉」、という、在富勝訴の裁決を下す。 四○