榊li日大'/'一人'T:R孜m一研究科紀磐 第15>̀ 2005・‑3 JJ
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」
一胡蝶から雀蜂へ‑
19
北 揮 裕
1. 「胡蝶の夢」とコンピュータ・メモリーチップ
むかしくくたのかな
「昔者荘周は夢に御粟と為る○用糊然として胡蝶なiつ。自ら喰しみて志に適する与。周たるを知
セー㌻なわきょきょ
らざるなり。我然として覚むれば,則ち遅速然として周なりo知らず,周の夢に胡蝶為るか,胡蝶の
二iし
夢に周なるか。周と胡蝶とは,則ち必ず分有り。此れを之物化と謂う1〉」。
「御柴の夢」として知られている荘子の‑灘であるo荘子は胡蝶になった夢を見た。彼は,胡蝶と なって,嬉々として心ゆくまで飛びまわり,自分が荘周(荘子)であることを忘れていた。しかし,
目を覚ましてみれば彼はまざれもなく荘周である○いったい,荘周が御葉の夢を見ていたのか,それ とも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか,判然としなかった。ある種の夢は忘it去られ,完全に消え去っ たと思っていた記憶の鮮やかな再生だといわれる○荘周と胡蝶,現実と夢や記憶とでは確かに異なるO だが,考えてみれば,夢も記憶も現実もその区別は絶対的なものではなく,それぞれ「多元的リアリ
テ1Jの一つであり,荘子にとってこれらは「万物斉剛として相対的な現象の現れでしかない。
‑‑・方,マルセル・プルーストは,その長編瞳われた時を求めて』の最終章で次のように体験を描 写する。 I‑....‑良く響く,金属性の,いつまでも鳴りやまぬ,かん高い,涼しいあの音を,私はj沃 たび耳にした。はるかに遠い過去にある音なのに,私は昔のままに開いたのだ。このとき,鈴の音を 開いた瞬間と,ゲルマント家のマテネとのあいだに,当然加わっていなければならないすべての事件 に思いを馳せながら,私はその鋭い鈴の音を変えるすべとてないまま,今も私の心に鳴っているのは, 確かにあの小鈴なのだと考えて私出撃然とした2)」。プルーストのなかで蘇る記憶の流れは交錯し, 繰り返される追憶の渦のなかで現実は次第に小さくなり,過去の記憶のなかに今この時は埋没してゆ
く。われわれにとっては,一朝勺に,今は近しく記憶の過去は遠いものだと感じる。だが,彼にあっ ては,記憶の重みと夢想の力が現前を庄倒し,現実は遠く過去は近くなる。荘子の場合はこのどちら でもない。彼は夢や記憶から距離を取るのと同様に現実からも距離を取るo荘子と同じような視点, というよりむしろこれを逆転し,記憶にも近く現実にも近い関係をとっているのはベルグソンである。
彼によれば,夢や記憶は持掛こよって厚みを構成しながら,現実の知覚と分かちがたく結びつき,知 覚によって現在のなかに確実に着床し,現在において身体の感覚‑運動により現在を稼働させること になる3)。ベルグソンは,現在での知覚が具体的な物質の本質的なあり方にかかわるけれども,記憶
20 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北洋)
はこゴ1に何事かを付け加えそのあり方を完成させるのであり,このような知覚と記憶が相互に補い合 い均衡のとれた状態こそ,正常な自我をもち生活に完全に適応した人々として認められるのだと指摘 する′i)。
さて,今ここに現前せずにあるというこの記憶とはどのようなものなのだろうか。イエイツとロッ シによれば,活版印刷技術が普及する以前,記憶を強化し訓練することは決定的な重要性をもってお
り,記憶術は一つの技芸としてもてはやされ,また,その後も退潮することなく,近代初頭まで生き 長らえたという。このなかで,プラトンは蝋に刻印するように,感覚された印象を心に刻印すること が記憶だと考え,また,アリストテレスも同じように,知覚による印象をもとにつくられた想像上の
アイコニソク
絵像的イメージが記憶だと捉える。しかも,記憶は,それぞれ適切な場所をもち,その場所に秩序正 しく整然と割り当てられねばならず,記憶力を高めるためには,ある空間なり建物なりを想像して, 記憶すべき事柄をその内部の居間や塵室などの場所の印象と結びつけて配置し,思い出す場合にはこ の建物のなかを歩き回り,関連した箇所を訪れるような方法が推奨された。
ルネッサンス期,ジェリオ・カミッロの「記憶の劇場」 (図1)は,頭のなかにあるこの想像上の 記憶の建物を,現実の世界に実際に建てた特異な建造物として著名であったという5)。彼のこの劇場 は,ヴイトルウイウスの設計した円形劇場に類似し,中央の舞台に当たる部分を中心に,勾配のある 七段の階段状の層からなり,通路によってこれを七つに分割することで,特定のタイトルが与えられ た四十九の小部屋もしくは箱に画然と区割りされている半円形の構造をしていた。普通の劇場との違 いは,小部屋や箱としての観覧席に当たる箇所が,見る場所ではなく見られる場所であり,そこにさ
まざまな物品や書き付けの類が収蔵されていたということである。エラスムスは「心に抱くことはで きても,服では見ることのできないありとあらゆるものが,考え抜かれ整然と収納さjtているので, 見る者はさもなければ心の奥底の隠されているすべてのものを自らの眼で一一時に見ることができる。
このように,肉眼で見ることができるがゆえに,彼はこれを劇場と呼ぶのだ6)」と説明している。記 憶を眼で見て実際に確認できる場所,だからそれは劇場なのである。同様に,ロバパ・フラッドも
また,記憶の場を劇場にたとえ,これを実在したシェイクスピアのグローブ座の舞台正面壁に摸して 五分割された区画として表している7)0
「記憶の劇場」の説明や図からわれわれがすぐさま思い浮かべること,それは劇場であるよりも, 書類や本あるいはさまざまなモノが集約され明
瞭に整理されている図書館や博物館あるいは美 術館に類したものであろう。図書館や博物館は, 過去の遺産の保存,歴史の記録,モノの収集保 存,いってみれば,人間の記憶に代わってこれ らを蓄積し貯蔵してその持続性を保証する保管 庫であるといえ,実際,大英博物館の読書室は 構造も機能も,カミッロの記憶の劇場に酷似し
図1ジュリオ・カミッロ「記憶の劇場」。パオロ・
ロッシ『普遍の鍵』 123頁。
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」一胡蝶から雀蜂へー(北洋) 21
ている(図2)。また,博物館は自然の寄物 と異国の珍品,あるいは装飾美術品や古物 を,好事家やヴァ‑チュオーソたちが私的
r E^B ‑
に蒐集し陳列した「驚異陳列室」,
クンストカて‑
「芸術陳列室」または「珍品キャビネット」
と呼ばれた部屋,戸棚,箪笥や引き出しに その起源の一つがある。百科辞典的にあり とあらゆるモノを収蔵し展示するこれらワ ンダーカマ‑や珍品キャビネットは,覚え 伝えることから見て示す方法にと知のあり 方を変え,記憶を可視化し世界をスペクタ クル化することになる。キャビネットのせ
図2 「大英博物館言売蓄室」,シドニー・スミルク設計, 1857年建築。
界は「その独自性,結合性,関連性が(し
ばしば,護符的イメージを刻印している)眼に見える外観的な符号により明らかになり解釈される物 品を里示し,視点を構成する主体の位置はこの全体性の内部に含まれ,このなかから世界観や宇宙的 説明が示されることになりa人はワンダーカマ‑やキャビネットの内部において見られる記憶に 岡繰される。
記憶とキャビネットやカマ‑,つまり部屋との関係をロックは次のように檎えている。 「まず初め,
ェン7テ1.ヤヤt:'ネ・7ト
いろいろな感覚が個々の観念を取り入れて,それまで 空 室 だった心へ備えつける。そして,心 は観念のあるものにだんだん慣れ,そこで観
h ' ノ
√
イ>
⁚= 蝣>
」. '
‑
t ,・ ・ ∴:一・二
1\l
攣 薄墨象>%/
‑′ ‑
■ ■
図3 7ェランテ・インペラートの「ミェ‑ゼオ」0 1672年。インベラ‑トと息子のフランセスコが客人 に展示物の説明を行っている様子。フェランテ親子は ガリレオの見学を願っていた。 Eileen Hooper‑
Greenhill, Museums and the Shaping of Knowledge, p.
127.
念は記憶に宿り,こ狛こ名前がつけられる9)」。
心のキャビネットや内的劇場が記憶と関連す るように,ワンダーカマ‑や珍品キャビネッ トは,知覚が記憶されるのではなく記憶が知 覚される外化された記憶,物的に知覚可能な 記憶となり,観察し見ることの必要を説く博 物誌,自然史の発展とともに広がっていったo ナポリのフェランテ・インベラ‑トはこうし た菟集家のなかで,自己の収蔵品のカタログ とともに,ワンダーカマ‑ (ミューゼオ)の 内部を初めてイラストにより示したが(図3)
・o)毒絹と並べられ目を奪うコレクションの 前を歩きまた立ち止まって眺め, 「無意味なも のから意味あるものへ,また逆に意味あるも
22 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂‑‑ (北滞)
のから無意味なものへとさまようこうした視覚的な探索と身体的移動は精神的な動きを誘発し,その 湧き起こる潮の満ち引きにも似た揺れ動く心理現象の特徴は,変成転変する世界の象徴として示され るのである11)」。展示されているものは,インペラートが実際に現地におもむいた時の記憶,つまり 記念として持ち帰ったものなのか,それとも想像と夢のなかでしかなかった対象の現物を取り寄せた ものなのかは定かではないo Lかしいずれにせよ,記憶や夢を具象化した千差万別の標本や収蔵品は, 見学者の視覚の変容と身体移動にともなう心的変化を引き起こし,しかもこの変化がそっくりそのま
ま世界の生成変動にたいする直接的な感覚を与えることになる。記憶やその外化はわれわれを実際に はそこにない世界に結びつける連結器となり,それを感じ見る感覚器官であるということだ。
ところで,記憶,すなわち「メモリー」 (ストレージ)といえば,ワンダーカマ‑や図書館などよ りも,現在のわれわれにとってはコンピュータのメモリーの方が言葉として馴染みが深い。 CPUに
ランダム・アクセス・メモり‑ スダテ1ノク・ラム ダイナミッ,/・ラム ,)‑トオンリーLメモり‑
直結し電気的に高速に読み書きをおこなうR A M(SRAMおよびDRAM)やR 0 Mな どの半導体メインメモリーから,磁気的もしくは光学的な処理と保存をおこなうハードディスクや DVD,あるいはメモリーカードなどのフラッシュメモリーといった外部記憶装置まで,コンピュー タは半ばデータやプログラムを記憶するさまざまなメモリーにより支えられている。後者のハードデ ィスクやフロッピーディスクなどのディスク状の記憶媒体を考えた場合,これらはいずれも同心円状 の「トラック」によって仕切らjt,さらにこのトラックは放射状に分割されて「セクタ」と呼ばれる 区画を構成し,このセクタが記録と記憶のための場所となり,この場所には格納されている記憶デー タにアクセスするための位置情報としてインデノクスが添えられている12)もはや指摘するまでも なく,このディスク状のメモリーの構造や形態や機能は,カミッロの記憶の劇場,大英博物館の読書 室にそっくりである。
一・万,前者のメインメモリーは,メモリーモジュールに搭載された複数枚の「メモリーチップ」か ら構成されているが,このチップにはコンデンサ1個とトランジスタ1個からなる「メモリーセル」
ロT')コラム
が縦横に配列されているoそれぞれのメモリーセルは行アドレス(ワード線)と列アドレス(ビツド 級)により位置が決定されて,これにより管理されながら,一つのメモリーセルに0か1あるいは放 電か蓄電のどちらか,つまり, 1ビットの記憶の書き込みと読み出しがおこなわれることになる。し たがって,今では一般的になった512メガバイトのメモリーでは, 1ビット×8×512×100万‑40 億9600万のセルが存在することになる。このようなメモリーセルの構造やメモリーチップの配列は 明らかに,フラッドの劇場,あるいはインペラートのワンダーカマ‑やキャビネットに見られる区画 化された空間,棚や引き出しや小部屋に類似しているといえるだろう。
さて,ハードディスクのプラッタ(ディスク)に記憶されている内容はNかSかに磁気化されたパ ターンでしかなく,シリコンチップあるいはウエハーの表面に形成されているメモリーセル内部の記 憶内容も,蓄電か放電かの電気的状態であり,われわれは記憶を具体的には見ることができないし, たとえ見ることができたとしてもそれはまったく意味をなされ、ものだ(図4)。当然のことながら
このことは,われわれ自身の記憶についてもいえる。記憶はそのまま見ることも見せることもできな
テクノロジーのイドラ「ヴァ‑チヤル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北洋) 23 い。知覚はできないけれどもそれは現実のように鮮やかに
蘇りまた蘇らせることができるという意味で,存在しない わけではない。だがしかし,コンピュータにおけるメモリ ーそれ自体は知覚できないとはいえ,ディスプレイのスク リーン上に画像として表示したりプリントアウトしたりす れば,それを手にして見ることができる。また,われわjt の記憶は図書館,博物館,美術館などの記憶の劇場に,あ るいはそれほど大がかりでなくとも,様々な方法で具体的 な個物としてこの手に保有し可視化することで眼に与える ことができる。
記憶やコンピュータのメモリーの内容が,あるようであ りながら存在性を欠き,ないようでありながら存在してい る,という‑‑磯的な意味で,これらは「ヴァーチャル(磨 在的)」なものである。そjtに対し,記憶の劇場やディスプ レイの画像などはヴァーチャル,な存在に可視性を与えて具 現化しそこに規にあらしめるということにおいて,この対 極に位置するものであるということになる。だがしかし,
いうまでもなく,このスクリーンやディスプレイ上に表示 されている画像や映像などの視覚表象,そして記憶の劇場 そのものは別にして,とりわけ美術館のなかに展示されて いる絵画も,記憶やメモリーに劣らずヴァ‑チヤルなもの なのだ0
2, 「ヴァーチャル」と「アクチュアル」
ビッド線
図4 シリコンのメモリーチップ内に 整然と配列さjtたDRAMの「メモリ ーセル」。 ×lOO。下図は一‑ォのセル 内の構造を示すが,いたって簡単な ものであり,トランジスタがスイッ チの役割を果たし,コンデンサの蓄 電と放電をコントロールするだけの ことである。ただ,この回路をいか に小さくし集精するのかがICの技術 であり,規私 回路線幅は90ナノや 65ナノに移行し, 10億分の1を単位
とするナノ・テクノロジーの時代に
wBtm派
記憶をヴァーチャルな存在だと捉えたのはベルグソンであるが13)すでに指摘したように,この 記憶を蘇らせるか,なんらかの形でこゴ1を展観させることが現実を突き動かすことになる。それがか なわないアムニージアの状態では,人はアイデンティティを喪失し相互行為に支障をきたすことにな り,また,コンピュータ.メモリーへの即座の畜き込みや読みとりとデータの保管に実生活が依存し, その障害が現実の社会の混乱やパニックを生み出す【糾いこもなっている。さらには,記憶やメモリー だけでなく,これらを可視化した多種多様な表象もまたヴァーチャルなものであり,人や社会がこれ らヴァーチャルな出来事に取り囲まれそれに依存しているという事実があるならば,そもそもヴァー チャルであることとは何か,その諸相はどのようなものであるのか,ヴァーチャルという概念とこれ を取り巻いている事柄との間にはどのような関係があるのかを明らかにしておく必要があるだろ
うILl盲。
24 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北港)
・、蝣蝣.‑.1‑ ,. .[
まず,概念的な規定として,ピェ‑ル・レヴイは「潜在的」なものを次のように捉えている。 「厳
ヴァ‑ナヤルりアルアクナユ7ル
密にいって,潜在的なものは実在的なものではなく,現実的なものと比較されなければならない。な
ヴ7‑ナヤリテイアクナユアリテイ
ぜならば,潜在性と現実性は存在の二つの異なった様式でしかないからである15)」。この規定は,ジ
ヴァ‑ナ11ル1) 7ル
ル・ドゥルーズの区分に従ったものであるが,それによれば「潜在的なものは,実在的なものには対
アクナユアル
立せず,ただ現実的なものに対立するだけである。潜在的なものは,潜在的なものであるかぎりにお
リ7りテイヴ丁‑チヤル
いて,或る十全な実在性を保持しているのである16)とされている。つまり, 「潜在的」なものも
アクチュ7ルりアル
「現実的」なものも,ともに「実在的」なものに属し,この実在的な存在の二つの対立的な様式であ
rl/丁‑ナヤォーi│ Tル
り, 「潜在的」なものは「実在的」なもの一側面だということである。さらにドゥルーズは,潜在的
りアルポッシプル
と現実的の区分に加え「実在的」なものに対立する事項として何能的」という概念を導入する17)。
ポ17シプル1)アルヴァ‑+ヤルアクナユアJL,
こうして, 「可能的‑実在的」という対立項目に「潜在的‑現実的」という対立項目が,論理的に分 化しうるものとして,入れ子状的に挿入されており,これらは図(図5)のような関係にあるものと
して示すことができるだろう。
ドゥルーズによる世界のこの概念化は,ある戦略を含んでいる○実際に存在する世界を考えるなら,
II蝣.‑ .[
それは「実在的」であり,純粋な意味で生のまま自然にそこにあり身体をもって生きられている世界
* ‑Jシプル
の様相であるといえる。これに対し,何能的」とは,実際には存在しない世界,プラトンの示すイ デアの世界,ドゥルーズの辛殊な表現を用いるなら,実在的なものに似せてあたかも最初からあるか
ポッシプル
のように後から授遺された身体的には生きられない不活性な単なるロゴスの世界である。何能的」
という意味には,天気情報での明日の雨の可能性のように,予期的に末だ存在しない出来事の蓋然性 や確率を示す場合もあるが,プラトン的なイデアの考え方からすれば,実在的な世界はこのイデアの 可能的世界に物質的にまた形態的に類似すべきであり,その世界を模倣し再現前化をはかることこそ が実在する世界の薬の在り方だということに
なる。しかし,ドゥルーズから見た場合,こ
リ71)‑ど‑ション
の実在化のプロセスは,単なるコピーにすぎ ず,創造や学習とは無縁のものだという。そ
:! 蝣.一蝣'! '蝣< 一蝣 I
うではなく,むしろこの「可能的‑実在的」
な関係を,まさに実在を基軸とした世界に平
リアリテイヴ7‑チヤル
行移動させ,この実在世界で「潜在的‑
r*xnrm>.
現実的」な関係として展開される様相こそが 実際に意味をもち,またもたねばならないの である。
ヴァ‑‑f‑‑v)Uりアル
この実在世界での「潜在的」とは, 「実在的」
mxa句fm眉
でありながらも「現実的」ではないもの,す なわち,実在はするが今ここという現実のな かに具体的なものとして顕在的には現れえな
〆/㌦≒、〉/′小へ‑ん′ケ
〆 <も
英在的
m
(リ亨ル'
鰍〒現前化
可能的 も、 (ポッシブル)♂
ヽ J㌦
へ%pA沖′叫ノ.♂
質 体 然 物 身
自 コピ
、 〆㌦ ^\ ∫
〆 ヽ、、.
Slr't的 (アクチュアル)
千 異化・分化
ドラマ化
潜在的 ヴァーチャル)
メ モナド・精神 文化 テクノロジー
図5 ドゥルーズの世界の概念化
シミュレーション
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北洋) 25 いものである。だから,あるようでないようなもの,ないようであるようなものという潜在的なもの に与えられた表現は正しい。しかし,それは,虚偽とか幻想とかではなく,具体的で現実的な木に対 する「種子」,具体的な個体にと形態形成する‑でありながら多である「卵」にたとえことができる
たね
ものである。あるいはまた,種であることは木へと成長を遂げる課題を内包しているのであるから, 潜在的とは課題や「問い」であり,木はこの問いに対する「解」であるともいえ,形態の変化が行わ れない可能的なものとは異なり,潜在的なものは,ある状態,出乗挙,対象,もしくは実体へとダイ ナミックに生成変化を成し遂げて,現実的な物理的世界に意味の核を注入する役割を果たす趨勢であ
るとされる18き。
ヴ7‑ナヤルアクチュアル
したがって, 「潜在的」なものに対する「現実的」なものとは,そのすべてが一度に実現されるわ
7'ク+.‑I.Tりせ‑ション
けではないが,多様性を秘めた今ここでの実現にむけての「現実化」という異化・分化のプロセス
ヴ7‑+ヤルアクナ3・アル
において劇的変化を遂げ,具体的に開花した具象的世界の様相を示し,潜在的なるものから現実的な るものへの移行は,類似や模倣という「コピー」ではなく,質的に変異を引き起こし飛躍がおこなわ れる「シミュレーション」という創造の過程だということになる193。ただし,このシミュレーショ ンによる創造を考えた場合,後述するように,これが完全な意味でアクチュアル化の過程のなかで起 こるということには必ずしもならない。とりわけ,視覚的な「表象」の場合にはそうである。
身体的に生きられている自然のままの実在世界,そこにおいて繰り広げられる「ヴァーチャル〜ア クチュアル」という軸におけるアクチュアル化の力動的プロセスは,確かに種と卵のなかで起きてい る現象である。しかし,こjtが最もよく展開されるのは単‑実体(単子)としての「モナド」,すな わち精神こおいてであるといえる。柳生新影流『兵法家伝書』には次のように記されている。 「積ん
わ′二
で多端に捗り,窮む甜卜一心に帰し,一心多事に渉り,多事一心に収まる○畢蒐叢に在り20)」。心は 一つであるが,それはさまざまなことを考え記憶するという多様性をもっている。ほぼ同時期に,ラ イプニッツは, 「われわれの意識する想念がたとえどんなに微小でも,そこには対象のもつ多様性が っっみこまれている。そのことに気づいたとき,わjtわれは単一な実体であるはずの自分自身のなか に,多の存在を確認するのである21)」と述べたOモナドは一にして多であり‑でありながら多を思 念し,それを表象もしくは表出するという自己展開をおこない,しかもこの展開において「表出する
ものが乗出される事物と類似していることは必要ではなく,ただ関係の或る種の類比が維持されるだ けでよい22)」ということにより,モナドとしての精神ま,類似やコピーではなく事柄を多様にドラ マ化し類比としてのシミュレーションを行うことのできるものなのである。
さらに,このプロセスが人間の精神や思考に関連している以上,自然であるよりも文化におけるそ の変容として起こるものだといえるだろう23)。指摘するまでもなく,文化は耕作や栽培,飼育や培
たねiしiさ
養といった意味がある。栽培と飼育は,人間の手によって自然の種 を育成し多様に撞めることで ある。また,われわれは同じようなことをワンダーカマ‑や図書館の文化のなかで見てきた。記憶と その外在化ということと関連し,ワンダーカマ‑や珍品キャビネットは,フーコーのいわゆる古典期 における可視的で同時的に並置された外見上の特徴によって対象を分類したものであり, 「対象は表
26 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北樺)
面と線とによってあたえられ,機能や目に見えぬ組織によってあたえられるのではない。動植物は, その有機的統一性においてというよりも,個々の器官の示す可視的な姿において見られる2̀王)」ので ある。要するに,ワンダーカマ‑の分類学的空間は「棲息状態のそれではなく特徴のそれ25)」であ り,自然をそっくりそのまま模倣したものでも,さらには解剖学的な内的器官,あるいは現代的にい えば遺伝子,すなわち潜在的に種が決定を受ける生命を,表面的に多様化された見ることのできる生 物としての特徴に従って,可視的にアクチュアルなものとしてシミュレートを行い再配置しているの である。
ところで,モナドそのものとの直接的な関連でいえば,ヴァ‑チヤルなものからアクチュアルなも のへというアクチュアル化のプロセスは,モナドの働きを機械に担わせようとしてきたテクノロジー に結びつく。もっとも,それは力学的に作動し身体の代わりとなって大量生産や大量複製にかかわる 機械よりも,コンピュータ・サイエンスやコンピュータ・テクノロジーによって最も顕著に示される。
ハードウエア‑上のメモリーやそこにインストールされたソフトウェアーの形態と内容は,あらゆる 意味において潜在的なものであるということに加え,コンピュータが「思考する機械」あるいはまた Alとして,モナドの機械化でありこの二つのテクノロジカルな結合であるなら,それはモナドに求
めらjtている‑にして多を行うべきものでなければならないばかりでなく,それはまさに「欲望する 機械」そのものとして登場することになる。ドゥルーズとガダリによれば,人間だけではなく機械も また欲望するものとして存在する。というのは,欲望は欠如から生まれ,また欠如しているものを観 念することで実在しない別の世界を存在させることとして考えられているが,そうではなく,欲望は 一切のことがありうるようになること,つまり,欲望は生産であってしかも現実に実在するものを生 産すると捉えられているからである26)○つまり,欲望は要素や部分を組み変え,絶えず形態を与え 直してこれを次々と多様に生産する働きとしての機械なのだ。
欲望は生産する機械であり,機械は欲望し生産する装置となるが,いかなるものにもましてコンピ ュータはそのような機械だといえ,メモリーはその欲望の中心の一つなのである。実際,コンピュー
タというこの機械装置はモナドよりも一層「アンチロゴス」であり27)初めから全体的な統一性を 既知とし,また,因果的な観念連合の連銀を前提とするイデア的ロゴスとは対抗関係におかれ,それ ぞれに分離されたヴァーチャルなメモリーや部分の出会いと偶然の純粋性が織りなす競合から多元決 定的に欲望‑生産する,つまりアクチュアル化するということである。あるいは,この機械はカット, ペースト,つぎはぎ,入れ替えなど多様な操作と機能を得意とし,ウインドウ(ズ) /スクリーンで は複数のプログラムを同時に立ち上げ稼動することができ,随時に,一方から他方へと移行しながら 断片を寄せ集め,自在に部分を配列し直すことで,現実的なものへとアクチュアル化をはかるのであ る。
ライプニッツはこの基礎を築いた最初の人間の一人である。今日のデジタル・コンピュータの場合 には,デジタルであるということにおいてすでに自然により近い連続性によるアナログ的なコピーと は区別され,あらゆるコンピュータ・プログラムはこれにもとづいているが,彼はこのデジタルでシ
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北滞) 27 ミュレート的な二進法を確立し,実際に1679年には二進法による計算機の開発をおこなった28)。だ がこれだけではなく,彼は先のモナドの表象について次のように指摘する。トつの表象から他の表 象へ,変化や移行をひき起こす内的原理のはたらきを,名づけて欲求という29き」。欲求とは,表象を 求め続けるモナドの努力であり,多くを表すその意欲である。ライプニッツは,デジタルな計算機の
ように機械化されたモナドの存在に関しても,それをおそらく多様な表象と表象の推移を欲求するも のとして捉えていたに違いない。なぜならすべての多様性をできる限り表象し実現する共可能性が
「最善」であり,それがすべての存在の理由であると捉え,最善律が存在理由律だと考えているから である。
コンピュータはあれこれ表象したいのだ。それはアクチュアル化を望むのである。これがその存在 の根拠であって,それは部分を組みかえ映し出し表象を現実に生産することを自ら願い欲し望む機械 であり,ヴァーチャルでデジタルなメモリーやドットの結合による表象変換を,その液晶スクリーン での結びつきによる絶えまない変容による多様な表出を,これらを希求しアクチュアル化するのであ る。つまり「コンピュータは物理的な表象を求める抽象的な実体もしくはプロセスである。必ずしも ただ単なる現実的な何ものかのシミュレーションではなく,それそのものがシミュレーションなの だ30)」ということであるoコンピュータは欲望し,生産し,表象する。こ裾こよってヴァーチャル なメモリーが欲望し生産するという問題は,アクチュアルな解として,具象的で可視的な表象を得る ことになる。だが,視覚的な表象をめぐっては,ヴァーチャルとアクチュアルにおいてある捻れを生 ずることになる。
3.ヴァーチャル化と擬制的アクチュアル化
人間から機械へと辿ることができるアクチュアル化というプロセスが存在するならば,これとは逆 のプロセス,つまり,アクチュアルなものをヴァーチャルなものに置き換え,アクチュアル化のため
りゼ‑ション
にヴァーチャルなものを播種する「潜在化」もまた存在していなければならない。アクチュアルな ことをヴァ‑チヤ)i,なことに変異させるこのヴァーチャル化は,現実という特定の文脈からの離脱, 今ここの外部地平の破却,そこからのエクソダスとしての「脱時間化」と「脱空間化」をくわだてる ことであるといえるだろう。したがって,あるようでなく,ないようであるとしたヴァーチャルな出 来事は,脱時空の感覚的印象として起こるものだといえる。ヴァーチャルとは今ここという特定の時 間と空間にしぼられていない状態であると考えられ,この脱時間や脱領域をおこなうのがヴァーチャ ル化であり,これと反対に,ヴァーチャルであることを今という時間とここという空間に根ざして文 脈化することが先のアクチュアル化なのである。このようなアクチュアル化とヴァーチャル化の二つ のプロセスは多元的に重層化され,これに従いアクチュアルなものとヴァーチャルなものとが多様に 分化することになる(図6)。
まず,記憶はヴァーチャルなものだと規定したが,それは記憶が今ここに現前する事柄として知覚 をしてはいないにもかかわらず,今ここのモナドのなかで起きるからである。それは過去という時点
28 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂‑‑ (北滞) アクチュアル
木
檀
ヴァーチャル
図6 ヴァーチャル化とアクチュアル化
アクチュアル化 設定立
擬制的アクチュアル化 異次元化
記憶化 デジタル化 解
ではなく今現在の過去であり,
「以前の知覚の現前化31)」として, かつてのあそこでの時間と空間 を脱しヴァーチャル化され今こ こにもたらされた時間と空間で ある。同様のことが,コンピュ ータでのメモリーについてもい えるわけである。記憶とメモリ ーに関連するこのプロセスはヴ ァーチャルであることの核を構 成する深いヴァーチャル化とで
も呼ぶべきもので,指摘するま でもなく,視知覚されたアクチ ュアルなものを記憶として残す
「記憶化」,あるいは,プログラ ミング言語をビット列からなる 機械語にコンパイルすることや, データを同じくビットパターン
として読み込むこと,つまりメ モリーセルに「デジタル化」することなどである。この場合でのヴァーチャルの内容は基本的には不 可視であり,少なくとも外側から,もしくは他者によっては見ることのできないものである。もちろ ん,記憶に落とされたりデジタル化されたりした内容はさまざまにアクチュアル化されるのであるが, 一方では,まったくアクチュアル化されず,発芽することのない種のようにそのまま沈潜したり,あ るいはそこに投入してこの状態を繰り返すか,その周囲の旋回だけに終始したりすることもある。こ れがすなわち夢想や白昼夢,プログラムにおける無限ループやフリーズだということになる。
脱時空を考慮に入れるなら,次に,アルベルティが,絵画を不在の離れた別の場所と時を今ここに 移行し現前させる開かれた窓として捉えているように32)絵画,より正確には,絵具やキャンバス
といった物理的対象ではなく,猫かjtて額縁に固まれ内部地平を構成している色,級,形態からなる
「表象」 (「写像」)それ自体も,特定の具体的で現実的な経験時空とかけ離れた存在としてヴァーチャ ル化されたものがここにあり見られているものなのだ33)。そjlは「『本当に現実には』そこに成り立 っていることとしては意識されてはいない」ものであり,この「存在しているものとして,わjtわれ の眼前に撃髭といているのでもなければ,存在しないものとして,撃髭としているのでもない34)」
というフッサールの視覚に対する絵画表象の「中立変容」は,いま現在のここには確実に定位されて いないヴァーチャル化された存在様式に他ならない。同様に,写真あるいは映画,テレビなどなんら
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北滞) 29 かの形でスクリーンやディスプレイに投影されるかそこに描き出される可視的な映像や画像なども, 脱文脈的にヴァーチャル化された存在であり,いうまでもなく,コンピュータが生み出し,さまざま なディスプレイを通じて示されるヴァーチャル・リアリティやヴァーチャル・エンヴァイロメント は,主に視覚の徹底的なヴァーチャル化を通じて身体感覚上完全に現実の時空を脱した世界を与える
ということにおいて,ヴァーチャルなものとして命名されているわけである。
ところで,ヴァーチャル化されるさまざまな視覚表象は,記憶やメモリーでのヴァーチャル化のプ ロセスとは異なり複雑な様相を里することになる。そこには,ヴァーチャル化とアクチュアル化とが ほぼ同時に進行し,両者が表裏一体となって生起するプロセスが存在するとともに,一一にして多であ る本性が示されることになる。絵画を例に取るならば,絵を措くことは眼で見られ知覚された現実の ヴァーチャル化であるが,このヴァーチャル化によって,キャンバスになんらかの可視的で具体的な 有形の表象を出現させることは,明らかにアクチュアル化以外のなにものでもないと考えられる。と ころが,すでに指摘したように,この表象としての絵は具体的な今ここの現実では決してありえず, あくまでヴァーチャルな存在に留まり続けているものなのだ。つまり,ヴァーチャル化されながらも 即時にアクチェア)i,化され,アクチュアル化されながらも常にヴァーチャル化されているのであり,
このことが眼に見えて実在するにもかかわらず,現実的ではないという点で,記憶やメモリーなどよ りも,まさにヴァーチャルであることの本質を形成しているといえる。しかも,そのさい,問題は, ここでのアクチュアル化が,ヴァーチャルなものをアクチュアルなものとして定位するというドゥル ーズの意味するアクチュアル化の概念には当てはまらず,アクチュアル化しながらもヴァーチャルな 状態であり続けるプロセス,すなわち,擬制的なアクチュアル化のプロセスを展開させているという
ことである。
もちろん,絵画にあっても,これを現実の時空間に引き戻しそこに置き,現実の「地平」とo?関連 で定位する本来の意味でのアクチュアル化が存在する。この場合のアクチュアル化の一つは,絵画を その内部地平のもとで表象として捉えることではなく,今ここに現前する壁に掛けられた具体的な物 体として知覚し,身体とともにテーブル,椅子,スタンドなど事象的な外部地平と関係づけ,同じよ うな家具や装飾品の一種,あるいはこjtちとは異なった美術品として定位することであるOまた,記 憶の劇場やワンダーカマ‑と同様に,クンストカマ‑や美術館において,時代,地域,ジャンルなど のさまざまな分類体系としての事象の外部地平に従って関連づけて現在の時空のなかで展示を行い, 現実的に意味定位することであるともいえるだろう。またもう一方で,事象としての絵画ではなくそ の表象それ自体に対して心情的に態度決定をすること,つまり,内部地平を構成している表象の中立 変容に対して「設定立」を行うことも,アクチュアル化のプロセスである。設定立するとは,ヴァー チャルな表象を,美しい,素晴らしい,面白い,気に入ったなどとして価値的に評価し,そのような 存在として今のここの現実の時空において思いこむことである35き。事象的な定位と心情的な定位と のこの二重性は,デカルト的空間という延長とこれまたデカルト的な情念・精神において絵を別々に 引き裂くことになる。現代の美術館は,この二つに外から働きかけ結びつけつなぎ止める機会原因論
30 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂‑‑ (北洋)
邑‑ e<ke:
での「機会」として存在している。というの も,クンストカマ‑では事象と心情は絵を所 有する主体において一致し,主体がすべての 作用因(原因)となり二つが蔀離することは ないのであるから,機会原因が介在する余地 はないが(図7),一方,美術館では, 「その 荘厳で神聖不可侵な呈示が,基本的に(歴史
と国家と知識などの)権威に対する服従以外 のいかなる選択も許さず36)」,その場で直接 語る主体の介入はタブー視され,そこに置か れた事象としての物的絵は,美術館が取り持 つこの外在する権威に従って心情の面で半ば 自動的に設定立される。そjMよ見ること以外 の感覚,触覚や聴覚の隔離であり,主体の存 在の萎縮をもたらすことになる。
これに対し「擬制的アクチュアル化」とは, 事象的にせよ心情的にせよ,今ここの時空に
図7 ダヴイッド・テニールス『自分の画廊にいる レオナルド・ウイルへルム大公』 1647年, 129×
106cm,プラド美術館oクンストカマ‑では,中央 に描かれたコレクターであり所有者である主体が自 らを主張し,所有物としての絵の物的延長を自らの 精裾こおいて引き受け,すべてを己に繋留し自己が 原因となることで,事象と心情の両者の分裂は回避
5SiE詞
定位することとはまったく異なり,自らをアクチュアルなものに見せかけること,もっといえばアク チェアルな視覚的時空をシミュレートすることに他ならない。このシミュレートするという点から見 れば,すでに述べた異化・分化やドラマ化という多様性は,本来のアクチュアル化においてであるよ
りも,擬制的アクチュアル化のもとで起こるということができる。ヴァーチャル化は脱時間,脱空間 を企てるが,それは今ここの時空を離れるということであって,時間と空間を必要としないわけでは ないO擬制的なアクチュアル化はいまここに代わる新たな時空を編制し,こjtをヴァーチャルなもの に差し向け多種多様な「異次元化」を行う可能性を学んでいる。例をあげるまでもなく,遠近法によ る絵画表象は,計算され尽くした幾何学的に均質な時空間から成り立つ‑‑#で,キュビズムでは複数 の視点の重複,したがって異なった時間と空間が折り込まれた時空が構成されている。絵はヴァーチ ャル化されたものではあるが,それは同時に,異次元の時空を創出する擬制的なアクチュアル化であ
り,擬制的にアクチェアル化されることでヴァーチャルなものに常に回帰する「ブーメラン効果」を 含んでおり,この効果が絵に「自己成形」させる力を与えることにもなるのである。絵画における表 象だけではなく,写真,映軌テレビなど,およそ視覚メディアに現れている酎象や映像には,通常, 現実的な三次元空間を構成しているわけでも,直線的で不可逆的な時計時間のもとにおかれているわ
けでもない。これらには,アクチュアル化するのだが決して現実そのものにはなりえず,異次元化さ れることによりヴァーチャルな存在に常に落ち込むことになる視覚の擬制的アクチュアル化という
「魔術的現前」の過程が存在している。
テクノロジーのイドラ「ヴァ‑チヤル」 ‑胡蝶から雀蜂へ‑ (北洋) 31 なかでも特異なのは,コンビェ一夕が構成するヴァーチャルな時空間である。そこでは,不可視の 深いヴァーチャル化と可視的なヴァーチャル化である擬制的アクチュアル化とが,つまりメモリーと いうヴァーチャルな存在と視覚表象というこれまたヴァーチャルな出来事が自らの内で見事に結合 し,同時並行的に進行する○言うなればコンピュータそれ自体が「ヴァーチャル・マシーン」なので り,記憶を外化し可視化するワンダーカマ‑の変異体だということでもある。コンピュータでは,蛋 子が数理的に指定されたアドレス空間を,あるいはフローチャートやツリーで示すことができる抽象 的な論理空間を,ナノセコンド(1/10億秒)単位で行き来しており,常識を越えた時空が構成され ている。そして,これが作り出すヴァーチャル・リアリティやヴァーチャル・エンヴァイロメント (図8)は,現実とはまったく異なりながらも,そこで通常では体験できないものも含めさまざまな 相互行為が可能な三次元の可視的時空であるOこの「ヴァーチャルな世界は完全に三次元であり,そ れがあなたを取り囲み,層問を見回すために頭を動かせば,これにしたがってアイグラスの内部で見 るイメージが推移し,まるでこの世界が歩き回りながら立ち聯1てくるようなイルージョンを生み出 すことになる37)」。絵画,映軌テレビが表す擬制的にアクチュア叫ヒされたヴァーチャルな表象は ゎれわれの外にある。だが,ヴァ‑チヤル・リアリティの場合には,アイグラスやHMDを装着する しないにかかわらず,見るわれわれが見られるその表象や対象のただなかに置かれそこに溶け込み, 見るものと見られるものとが一体化し分雅することのできないものとなるo
メルロ=ボンティは,対象は知覚のなかに与えられるものではなく,われわれによって内面に引き 戻され,そこで再構成され,かつ生きられるものであり,この意味で「ものは私自身の受肉を反映し, その対をなしている38き」と指摘する。対象はわれわれが見たようなものとして見られているOとい
図8クリスタ・ソムラーとロラン・ミニヨノー『イ ントロ・アクト』 1995‑1997年, LeMuseed‑Art Contemporain de Lyon, France.1995年のビエンナーレ で公開されたイントロ・アクトでは,三次元のヴァ‑
チヤル・スペースの内部に自己の姿が投影され,その 動きや姿勢にしたがって抽象的な対象の形態が同期的 に変化する。
うことは,対象を見るということが見られる 対象に送り返され宿り,見るということは見
られる対象から見ることに等しく,対象は
「主体的客体」として存在するいということ である。われわれ自身が可視的な表象のなか
に融解し,その主要な局面が「人間の身体の 特性に反応するヴァーチャルな環境(および
そこに存在しているもの) ‑の直裁的な介入 やそれとのコミュニケーションが重要な局面 を構成している39う」ヴァーチャル・リアリテ ィでは,まさにこのことが直裁的に体感でき る事態が展開される。そこでは,見らjtる対 象は見る主体の身体的移動にしたがってあか らさまにその姿を変え,われわれの動きに応 じて自らの在り方を表象しようと欲望し,ヴ
32 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑胡蝶から雀蜂‑‑ (北洋) アーチヤルな「空間そのものが私の身体を通
って自己を感ずる」ものとなる。擬制的にア クチュアル化されたヴァーチャル・リアリテ ィは,精神と身体,意識と物体,思惟と延長 といった二元論を超克し,いかに対立するも のであっても究極的には一致にいたるという, ニコラウス・クザ‑ヌスの「反対対立の一致 10)」にも似た相対的な時空の構成を行うこと になる。それは見られる対象の権利の主張に ともなう見る主体の回復でありその拡張とな る。別様のいい方をすれば,あらゆる意味で
「主体が世界にとって存在するためには,世界 を主体の中におかなくてはならない′11)」ので あり,擬制的アクチュアル化は,この主体と 世界とが相互に折り畳まれ禰曲しているヴァ
図9 アシンプト‑テ『プリェックススペース (Fluxspace) 3.0, 2002』。天井と壁面を鏡で覆われ たこの空間では,歪曲された機械的で未来的なヴァ ーチャルな構造物が3Dで生み出され,身体とヴァー チャルな存在とが交差し,身体の移動とともに,覗 実の空間とデジタルな媒体とが絡み合うことになる。
‑チヤルな「襲」の存在を,可視的な様相としてわれわれの眼前に呈示するということだ(図9)。
同様に,コンピュータを介したインターネットやeメールなどサイバースペースの登場とともに始 まったヴァーチャル・コミュニティの空間も,電気もしくは電子的であって感覚的にはないともいえ るし,ネットとしての広がりの構成は無限だともいえ, 「地球村」として世界規模で存在しうるが, 高速で結ばれているために時空は圧縮され,時間と距離が絶滅される方向に向かっている。これらは 物理的で地理学的な時空に拘束されない異質な次元でのネットワークを構成し,現実の時空の上に覆 いかぶさり,これを基盤としてきた相互行為を脇に押しやることになる。携帯電話とそのメールのや
りとりには, 「いつ」といった時間制限と「どこ」といった空間限定は存在せず,今までの時空の制 限を自覚しない,あるいは自覚できない「いつでもどこでも」というそれぞれの「自己のコンビニ化」
を押し進めることになった。
コイレは次のように指摘する。 「永遠の物質が永遠の必然的法則に従って永遠の空間のなかを終わ りも削的もなしに動いている,持続の面でも延長の面でも無限な,新しい宇宙論による無限の字 針2)」,このニュートンの常に同一で不動の絶対空間と真に一様に進行する絶対時間の概念が,有限 で閉ざされしかも万物が階梯的に連鎖した階層秩序をなしているアリストテレス以来のコスモスの崩 壊を招き,それが近代を生み出したと。しかし,事態はさらに進展した。相対性理論によれば,絶対 的な位置や時間は存在せず,宇宙の時間や空間は事物と事物,物事と主体の関係から相対的に規定さ れるだけである。今,この宇宙が酪り立ち,現在のわれわれは,唯一絶対的で無限に均質化さjtた時 間と空間にしたがうことはなくなり,さまざまに相対化された時空を生みだし,そこに住むようにな ったのだ。ヴァーチャルからアクチュアルへの変換のなかで生み出される異化・分化の多様性は,本
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 JkB蝶から雀蜂へ‑ (北港) 33 乗的なアクチュアル化のプロセスで起こるというよりも,今日では,モナドとしてのコンピュータが 欲望し視覚的に表象する擬制のアクチュア叫ヒによって,まさに劇的に展開されることになったので ある。
4.操作子としてのコンピュータと「雀蜂」
いままで,ヴァーチャルとアクチュアル,およびこれに関連した事柄を,最終的にはヴァーチャ ル・リアリティに収赦される共時的で普遍的な観点から取り上げてきた。だが,この共時的なものに
も適時的な変遷が存在し,人間はヴァーチャルとアクチュアルな事柄に歴史的にそのつどさまざまな 関連をもち,自らを創り上げ社会と世界を構成してきた。もちろん,歴史一適時的といっても,ある 時代が完全に特定のヴァーチャルとアクチュアルの関係性によって明確な形で時代画定されるわけで
はないが,それぞれの時代の特殊な出来事とのかかわり合いのなかで境界づけを行うことは可能であ る。
宗教はこの最初の最も良い例だ。例えば,仏教において, n争土三部制の‑‑づ「大無量寿経」で
いのf,むりょうじミさぷつ
は次のように説かれている。 「これらの衆生,寿の終わる時に臨んで,無量寿仏は,もろもろの大衆 とと射二,その人の前に現れたもう。すなわち,かの仏に随って,その国に往生す‑13)」。浄土教を信 伸し極楽浄土への往生を願う人には,臨終の際,鯉養寿仏
(阿弥陀仏/如来)が忽然と来迎し,目の前に立ち現れるの を見るという。浄」二教の観点からすれば,阿弥陀仏も仏同 士も存在しない単なる理想的な可能性を示しているわけで はなく,それらは実在し硯にここにはないけれども時と場 合によっては現実に具体的に現れアクチュアル化されると いう意味で,これはヴァ‑チヤルな存在だ◆川。加えて,あ たかも出現したかのように見せかけてこのアクチェアル化 を下支えするか,もしくはヴァーチャルであることを確保 し脱時空をはかるか,このいずれかを行うための擬制的ア クチュアル化も存在した。さまざまに描かれた「阿弥陀来 迎図」がこれである(図10)。来迎図は往生者の眼の前に吊
り下げられたり,枕元に立て置かれたり,さらには,来迎 図に猫かjtた阿弥陀仏の手とこの者の手とが五色の紐で結 ばれるなど臨終行儀に用いられたが‑15)こうした手法は, 真実,本当に眼に見えて阿弥陀仏が来迎したと当人に感じ
させるに十分だったにちがいなく,ここでは,現実の具体 的な出来事とヴァーチャルな現象との間の明確な区別は撤 廃され,現実とヴァーチャルとが一つに融合された空間が
田SHU
図10 阿弥陀来迎図の‑…一種『山越阿 弥陀図』。絹本著色, 120.6×80.3cm,mfecaw 鎌倉時代。山あいから皆金色の阿弥陀
如来と諸菩薩が出現し来迎する様子を 描いた図。国宝o京都国立博物館O
34 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」一胡蝶から雀蜂へ‑ (北揮) 出現することになる。
このようなことは仏教だけではなく,キリスト教にも見られる現象である。聖餐式でパンを食し葡
トランスサプスタンテイアチオ
萄酒を飲むことは「全質変化」,つまり,本当にパンがキリストの肉体に,葡萄酒がキリストの
サクラメント
血となり,これらを受け取る重要な秘蹟としての「聖体拝領」であると考えられていた。全質変化は 教会での聖餐式という特殊な時空のなかで,現実に存在するものが異化され変質するということにお いてヴァーチャルな現象である。しかも,トマス・アクイナスは「人間は『可感的なるもの』を通じ て阿知的なるもの』にいたるのが本性的なのである○われわれの認識はすべて感覚にその始まりを 持つのだからである46)」という。したがって,カトリシズムでは,全質変化というヴァーチャルな 現象は,現実に口にされる具体的で可感的なパンと葡萄酒によって実際に知られることになる。つま
り,ヴァーチャルな出来事は具体的な世界のなかに組み込まれ,ヴァーチャルと現実との境界はここ でも暖味なものとなるのである。
この点に異議を唱えたのが周知のジョン・ウイクリフやマルチン・ルターである。彼らは,パンと 葡萄酒はキリストに全質変化せず,あくまでパンはパンとして葡萄酒は葡萄酒としてその質を保持し ており,キリストはそれらの変化として存在するのではなく,聖餐の場にそのものとして臨在すると
コンサプスタンテイアチオ
いう「共 在」を説いた47)。プロテスタンティズムでのこの共在的臨在は,キリストはいないよ うであるがわれわれとともにそこに実際に硯臨すること,つまり,そのパン/肉や葡萄酒/血として の実体的な存在を否定し,完全にヴァーチャルに現れていることを強調したのである。実際, 1654 年のOEDには次のように記載されている。 「キリストは口によって捉えられ存在するのであり,精神 的にそしてまたヴァーチャルに彼を捉えることでは不十分であるといわれるけれども‑‑・われわれ は,キリストは信仰によって実際に捉えられるのだと断言する48)」。このことから,宗教改革は単純 素朴な秘蹟よりも,バーガーの言葉を剛舶ざ「精髄への還元19)」をおこない,現実を強嗣するこ とで現実をヴァーチャルなことから独立させたのではなく,逆に,ヴァーチャルという概念を極度に 純化することでこれを現実と完全に切り離し,そのなかにキリストを封印することによりこの超越的
な神聖性をより一層高めることに成功したのだといえる。
ところで,宗教改革とヴァーチャルとの関係は,プロテスタントに転向した先のペトルス.ラムス
*ft‑*蝣/ >
の考えのなかにも示されている。ラムスはアリストテレスの「論理学」全般を非難する。というのも, アリストテレスの論理学は体系化されておらず,とりわけその中心をなす『分析論後割は,厳密に
ロジック
命題を証明する方法を説いた「論証」のための書であり,スコラ的な思弁的論理体系を形成する上で はもてはやされてきたが,それは基本的に数学と幾何学にもとづいて既知の公理を演鐸的に証明する ための知識でしかなく,新たな事柄の発見や創意工夫には結びつかず実那勺でもないとみなされたか らである50)。このような論証に対し,ラムスはいかに自然に議論を組み立て配列するかにかかわる
トピカ′ロキ
「弁証」により論題を明らかにしながら真理を発見する帰納的な方法と,さらにはこれとは明確に区 別された表現方法に関わる「修辞」の問題を取り上げ論理学の再構成と実射ヒを試みが1)。彼が, 一方で方法論的に厳格な『分析論後割とそこでの論証,証明,数学,演縛を捨て,他方でより柔軟
テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」一胡蝶から雀蜂‑‑ (北滞) 35 で応酬隻のある『トビカ』に従い,弁証,発見,創意,実用を志向したという事実,および,弁証と 修辞の区分は,そのまま現実であることとヴァーチャルであることとを完全に対立した事柄,混同を 避けAjaばならない問題として考えていたということを意味している。なぜならば,カッシーラーが幾 何学は実際の形態を感性的に定義するのではなく,現実には存在しない「虚」,つまりヴァーチャル な要素を容認することで成り立つと述べているように52き。数学的とりわけ幾何学的な論証は異次元 空間(ここではユークリッド空間であるが,非ユークリッド空間やリーマン空間ならなおさら異次元 である)を考えてのことであり,また,この幾何学は,遠近法によるヴァーチャルな空間を構成する 手法となってもいるからである。ラムスはこれと現実の世界での平明な弁論や説得法を区別したので
ぁる。そして,穿った見方をすれば,この弁証が清明で堅実で現実的であるとすれば,修辞は虚構で あり虚飾でありヴァーチャルなものである。
ヴァーチャルであることを現実であることから隔離するこのラムスの思考法は,知的技術を発見, 判断,記憶,伝達の四つに分類するベーコンに影響を与えることになる5:ラ:'Oベーコンはアリストテ
レスの論理学をラムスと鞘堂に論弁的とみなし,非数学的な技術や機械を用いた経験科学による自然 の解明,つまり発見や実験にもとづいた現実的な事実の認識を,論証的な判断よりもまさる第‑のも のと位置づけ,また剛寺に, 「冷静な心で信仰に属することだけを信仰に与えるなら,それこそ極め て健全なことなのである5‑1き」と述べ,スコラ的キリスト教神学によるヴァーチャルな出来事に関す
る崇拝を架空的で舞台的な世界を作り出す周知の「劇場のイドラ」として批判したoこうして,宗教 的にも,論理学的にも,科学的にも,アクチュアルとヴァーチャルとは完全に境界区画され,両者の 棲み分けが確立さゴ1る。
ァクチュアルとヴァーチャルが視覚的に不可分な宥和的関 係片あり区別が立てられないならば,両者は, 「アクチェア ル=ヴァーチャル」として等号で結ぶことができ,この関係 を構成するのは前近代的な社会での神話や宗教的儀式に代表
イコライザ‑
される「等価子」であることになる。これに対し,両者の関 係が分離と対立であるなら,これは「アクチュアル⇔ヴァー チャル」で示さゴ1,この場合,現実の経験的事実の背後にい かなる存在も認めずまた見ることもない広い意味での啓蒙主
セバレイター
義や実証主義が「分離子」として作用し,いうまでもなく, これが近代社会の一つの道標となった(図11)。
さて,ホルクハイマ‑とアドルノは,ラムスからベーコン へと続く発見や実験や弁証という啓蒙的で実証主義的な傾向
を次のように捉え批判する。テクチュテんで厳然たる事実性 のみの正当化は,最終的に人をも「即物的に彼から期待され
る慣習的な反応と機能様式の結び目にまで収縮させる」こと
アクチュアル‑ヴァーチャル
1
等価子 (神話、宗教的儀式)
アクチュアル⇔ヴァーチャル
1
分離子 (啓蒙主義、実証主義)
アクチュアルニヴァーチャル
≡
操作子
(コンピュータ・テクノロジー) 図11等価子,分雅子,操作子。
36 テクノロジーのイドラ「ヴァーチャル」 ‑m蝶から雀蜂へ‑ (北洋)
になるOそれは人間精神の物象化であり,この物神的に規格化さjtた「個々人はもはや事物として, 統計学的要素として,成功か失敗かを問われるものとして‑‑自己の職務の客観性やその職務の鑑と される範例へ,うまく剛ヒできるか否か55'」によってのみ自らを規定する即物的な「自己保存」に 陥るのだと。自己保存とは,衝動的主観性という人間の内なる自然の禁圧とタブー,その制御と支配 により自己を守ることにはかならない。とすれば,啓蒙と実証性は,皮肉にもそこから人間が逃れよ うとした自然に見られる野蛮な支配と神話による管理を再び復活させ,結果的に人間の主体性を抑圧 し,その内面性の萎縮につながることになる。
分離子がヴァーチャルとアクチュアルを切断することで,人間の内面の物象化的な支配を強化し人 間性の退化を招くのなら,このような拘束と管理から逃れ出る人間にとっての自由とは,この逆,す なわちアクチュアルとヴァーチャルとの融合を行い,両者の「共可能性」を探ることである。サルト ルによれば,対象として存在する即日の「無化」,もしくは意識する自己である対日の「脱自性」や
「ディアスポラ」を通じて,絶えず今あらぬところのものへ自分を投企し,あるところの自分を変更 してゆくことが自由への道であり56)ァクチュアルな領域を超脱し多数性にと自分を開示する必要 性を存在に求めているが,この超脱する先として彼が指定する「あらぬところのものであり,あると
ころのものであらぬ」ものとは,まさしくヴァーチャルな現象であるといえるだろう57)。ヴァーチ ャルとは「自己成就的予言」における像となり,過去の写実がヴァーチャルであるのと同様に将来の 写真にもなるものなのだ。
一方,メルロ‑ボンティは,サルトルのこのような考えは,サルトル自らが自由を抑圧するものと 考え忌避した山稜の本質として鯉を扱うことだと捉えて自己の鯉化を批判し, 「われわれは鯉から出 発して, 『鯉から』存在を出現させるのではなく,そこでは(地)は何ものでもないとさえ決して言 えないような存在論的起伏から出発する58)」のだと主張するoわjtわれにとっては,鯉があるので はなく世界や何ものかが常に存在しているのであり,しかも,世界の存在は私の外にただあるのでは なく,私によって私の内側から体験され見られると同時に,世界から私は疎隔されてはおらず,私は その中に身を置いているのである。この意味で, ‑#を他方によって,また外と内とがそれぞれ照射
し合い交叉するような「相互内属」や「転換可能性」をその特徴としているという。私の存在,私の 身体,見る私は,対象,世界・見られるものとの祈れ重なりや転換を条件としているなら,そしてわ れわれの存在や身体や見るものがアクチュアルなものとしてこちら側にあるのならば,それが越境し 絡み合い交叉する対象,世界,見られるものは,アクチュアルなものだけでなくヴァーチャルなもの であってもよいわけである59)。というよりむしろ,ヴァーチャルなものは,見る者に外在する事柄 として突き放すことによってでは成立せず,われわれのアクチュアルな身体や視覚のそのヴァーチャ ルな異次空間への飛躍と没入と着生によって可能となるのであり,すでに示したように,ヴァーチャ ルな世界でのこの身体的で視覚的な在り方は,アクチュアルな存在にとっての相互内属や双方の癒着 的な開在という根本的な様相を垣間見せてくれるのである。
サルトルとメルロ‑ボンティはお互いに対立する視点に立ち,また,両者ともに直接ヴァーチャル