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ヒトゲノム解析問題で問われる学校教育界の将来(1)

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ヒトゲノム解析問題で問われる学校教育界の将来(1)

堀井健一(長崎大学教育学部)

はじめに

最近,ヒトゲノムの解析がもたらす様々な問題が新聞などのマスメディアによって報 じられている。その間題の根底には兄弟・姉妹同士であっても個人レベルの遺伝情報の 差異によって人と人との違いが明瞭になることと,遺伝子上の違いはその人が産まれる 前の受精の段階からの違いであるために一生涯持ち続けなければならない性質のもので あることと,この遺伝子上の違いが次の世代に遺伝する可能性があるという特性がある。

まさにこの点でこの間題は,人間そのものが問題になるし,その人の存在自体が問題に なるので,まさに我々の子孫を含むすべての人が関わる重要な問題であろう。

また,遺伝カウンセリングや遺伝子治療を受ける際,来訪者や患者は最終的な治療方 針の決定には自己決定で臨まなければならない。その過程の中で当事者によっていくつ かの決断が迫られる。けれども,遺伝子診断が盛んになれば,遺伝子は遺伝するという 特性のせいで最初の診断者から連鎖的にその種の決断を迫られる人が出てくる。また,

武部啓(2)は,バーディーワインハーグの法則から推測して,誰でも1人平均数個は重い遺 伝病の劣性遺伝子をヘテロ状態で保有していることが確実であることを指摘する。従っ て,遺伝病に関連するカウンセリングや治療の際に自己決定を迫られる人は少なからず 潜在的に存在することになるので,未成年者の自己決定権一つをとっても問題になる。

従って,その種の決定を補助するためにも遺伝学についての啓蒙活動が必要となる。

1.ヒトゲノム解析の問題が学校教育界に関わる点

ヒトゲノム解析の問題と学校教育界との関連を探るために,過去1年間に掲載された 新聞記事の中から,ヒトゲノム解析が社会全般にもたらす影響や問題に関連する事項を 挙げ,さらにはその中から学校教育界に関連する事項を拾い出すことを試みてみる。

2000年2月9日付けの朝日新聞記事(3)によれば,その年の2月8日に米国大統領は,

連邦政府職員の採用や昇進に当たり,遺伝子情報による差別を禁止する大統領令に署名 して即日発効させた。その大統領令は,連邦政府に対し,「①採用の際,遺伝情報や遺 伝子検査を要求してはならない ②昇進や任地の選定に,遺伝情報を用いてはならない

③職員の遺伝情報を得たり公開したりしてはならない」と求めている。新聞記事は他に も,遺伝子情報を理由にして保険加入を断られるのを防ぐ法律の制定をアメリカの議会 に求めていること,団体加入保険については遺伝情報の要求を禁止する法律がすでに 1996年に成立していることを報じている。

さらにその記事は,別の遺伝子差別にも言及している。すなわち,「遺伝子差別をめ ぐる96年の民間調査では,病気に関係する遺伝子を持つ人の15%が採用などの際に遺伝 子情報を求められ,13%が本人や家族が解雇されるなどの差別を受けた,と答えてい る」と報じる。また,同記事の関連記事(4)は,「遺伝情報が就職先や保険会社に渡ると,

就職できない,保険加入を拒否されるなどの差別を受ける可能性がある」と,さらに

「差別は米国では,1995年ごろから社会問題になった。遺伝カウンセラーなどによる調

(2)

査で,就職や保険加入の際に差別を受けた550人が特定された。/たとえばある男性は,

内蔵や骨髄などに障害を起こす難病であるゴーシェ病に関係する酵素の遺伝子に異常が あって,就職の際にそれを明らかにしたところ,本人に発病の危険はなく,また仕事に も全く影響がないにもかかわらず それを理由に断られた」と報じる(5)

同様のことは, 2000年3月7日付けの朝日新聞の広告記事として掲載された["ゲノ ム機能解析 その現状と展望を語る""""'J と題する対談形式をとった記事の中にも窺うこ とができる(6)。その対談の中で井出剛・熊本県生命科学検討会委員と山村研一・熊本大 学医学部教授がヒトゲノム解読の意義を語るとともに個人の遺伝情報およびプライパシ 一保護について語る。井出が「機能解析の進展に伴い,個人情報の流出防止やプライバ シ一保護などについては,これまで以上に細かい配慮が必要となりますね」と語るのに 対して,山村は遺伝子機能の研究のためのサンプルの抽出を話題にした後["もし,病 気になりやすいという情報が漏れたりして,就職や結婚に影響する場合があるかもしれ ません。そうした不利益を被るような人が出ないよう さまざまなケースを想定した対 応策を講じる必要があるでしょう」と語っており,それを受けて井出は「プライバシー の保護は非常に重要だと思います」と述べる。

これらの記事の内容から判断して将来のわが国の教育現場で生じる可能性のある問題 は,学生が就職するに当たって遺伝子情報による差別を受けることが予想されることで ある。従って,教育関係者は,学生の就職に際しでかかる遺伝情報に基づく差別が生じ ることのないように社会に対して働きかけをしていかなければならない。

2.プラトンの理想国家が投げかける問題

筆者の専門は西洋史学,特に古代ギリシアの歴史研究である。かかる者がヒトゲノム 解析研究に非常に関心を抱いた理由は,古代ギリシアのアテネの歴史にある。古代アテ ネでは前4世紀に哲学者プラトンが活躍して多くの著作を書き残した。彼の『国家』や

『法律』の中で,選ばれた哲学者が最高位の官職としての国の守護者・法の番人を勤め る一方で手仕事職人は政治決定の場から締め出すようにすべきであることが主張されて いる。いわゆる哲人王の政治理論がその最たるものである。

プラトンは本国アテネを活動の場とした。ところが,そのアテネの政治制度は,周知 のとおり,民主制である。その中から手仕事職人などの下層民は政治に参加する資格が ないと,反民主主義的な発言をする哲学者が輩出したわけである。民主主義国からなぜ そのような反民主主義者が出たのか。その理由は 彼の『国家~ 413C‑415Bを読めば理 解できる。彼は,人が遺伝的素質によって金・銀・鉄・銅の4種類に分けられ,その素 質に応じて国の最高位の高官である国の守護者,国防の兵士,農夫,職人の仕事を勤め ればよいと考えた。つまり,彼は民主主義国家の下で人の遺伝的素質の違いに基づく反 民主主義理論を唱えた。確かに彼は,今から約2.350年前の人であり,現代社会のように 基本的人権の思想がないからそのような遺伝的素質の違いに基づく不平等を公言したの かもしれない。けれども 現代の社会でも,前述のとおり,米国での実際の遺伝子上の 差異に基づく差別の事象は,遺伝子上の個人差が,法律による平等の保証を根底からな し崩しにしている有り様を示すのではなかろうか。古代では貴族と貧民の聞の血統の違

(3)

3.遺 伝 情 報 の 漏 洩 問 題 に つ い て

これからの社会では遺伝子による差異から生じる差別が起きないためにも研究・診断 のために獲得された被験者の遺伝情報はあらゆる手段を用いて保護されなければならな い。遺伝情報の漏洩防止のためには 遺伝情報の記録の保護のための物理的な処置を講 じる必要がある。具体的には 獲得された遺伝情報を記録したコンビュータなどの記憶 媒体を孤立化させ,つまりネットワークへの接続をしないで,部外者が遺伝情報に近づ けないように物理的な障壁を設けなければならないし(7) また関係者がその情報を入力 したり閲覧する時には情報の漏洩が妨げられるように情報の出力に制限を設けるなどの 巧妙なソフトの開発が行なわれる必要がある。

4. 米 国 の ELSIプログラム

青野由利(8)によると,米国では, NIH (国立衛生研究所)によってヒトゲノム計画が 押し進められていると同時に,毎年そのヒトゲノム研究予算の全体の約5パーセントに 当 た る 費 用 がELSIプログラムに投じられている。 ELSIとは Ethical,Lega ,l and  Social Implications'  つまり倫理的 法的,社会的問題を意味するもので,それらの 問題を考えることが進められており, 1995年には630万ドルが投じられている。この ELSIプログラムが取り組んでいる項目は (1)遺伝情報の使用にあたってのプライパシー と公正, (2)臨床応用に関する問題, (3)遺伝子研究をめぐる問題, (4)教育である。青野(9)

は,ヒトゲノムのELSIに求められているのは多様な分野の人が参加することであり,分 子遺伝学や臨床遺伝学,心理学,倫理学,社会学,法学などを網羅する超学際的研究が 必 要 と さ れ て い る と 指 摘 す る 。 米 国 に はBSCS (Biological  Sciences  Curriculum  Study)という組織があり,初等・中等・高校・大学向けのテキストを刊行する。他方,

わが国の文部科学省は1998年度以降, ELSIに予算をつけていないと言われている(10)。 次に, ELSIに関連してその狙いの一つである教育の問題を考えてみる。青野(11)は今日 のわが国で遺伝学教育が欠落していることを警告する。すなわち,中学・高校でヒトの 遺伝学はほとんど教えられていないし 大学の医学部で遺伝学をきちんと教えていると ころは数えるほどしかない。それゆえ,かかる警告を受けて筆者は,このような状況で はたとえ遺伝子解析研究が進んで遺伝子治療が盛んになったとしても恩恵を受けるはず の患者に不安感を与える可能性があるし,大衆の間では情報不足ゆえの遺伝子治療に対 する偏見・差別が生じる恐れがあると考える。また たとえ遺伝カウンセリング制度が 設けられでも,最終的な判断は来訪者自身による自己決定に委ねられるので(12) 来訪希 望者が来訪前に遺伝学に関する情報不足で自己決定の自信のなさゆえにカウンセリン グ・サービスを受けることをためらう恐れがある。従って,遺伝子治療の対象者だけで はなく広く一般人も遺伝学について正しい知識を身につける必要があろう(13)

かかる事情から WHO (世界保健機関)が1995年に公表した「遺伝医学の倫理的諸 問題および遺伝サービスの提供に関するガイドラインJはすでに,遺伝医学によるサー ビスが円滑に行なわれるために PublicEducation' ,つまり社会に向けた教育,の必 要性を提唱した。それは(14)

r

理想的には,遺伝病の教育は義務教育の理科の時間に始 めるべきであろう。国によって頻度の高い特定の疾患の遺伝的特質,およびその国にお

(4)

ける特殊プログラムについての基本的な知識は,義務教育の段階で教えるべきである。

遺伝学の定型的な教育は,たいていの場合,高校の生物学の時間から始まる。生物学が 必修学科でなくても,遺伝学に関する知識は別の学科 つ ま り 保 健 学 衛 生 学 , 家 庭 科 一般科学などの分野で得られるようにすべきである」と述べ,さらに高校の遺伝学カリ キュラムとして進化論,遺伝形質の遺伝の仕組み,主な遺伝病の知識,人の多様性の理 解と尊重を教育する内容を盛り込むべきであると勧告する。わが国でも新川詔夫(15)が遺 伝学教育の政策の必要性に言及している。従って わが国でも社会に向けた遺伝教育の ためにそのプログラムの開発を進めていく必要がある。

ところで,わが国の教育面では,武部(16)がヒト遺伝学の教育が極度に不足していると 警告を発する。他方では2002年から実施される中学校理科の新指導要領では中学3年の 遺伝の規則性と生物の進化の2つの項目が高校の課程へ移される(17)。そうなると,高校 生全員が生物を履修するはずはないので,中学レベルの基礎的な遺伝の知識も教わらな い世代の人たちが今後増えてくる。従って,これからの学校教育が,前述の

WHO

の提言 の内容とは逆の方向に進もうとしていることに懸念を表明せざるをえない。

米国のBSCS編 WGenes and Surroundings ~ (18)は,ミドルスクール生徒向けの,遺 伝学の基礎的概念の学習書である。狙いは,人間の身体的特徴が展開する上での遺伝子 と環境の相互作用に焦点を合わせてその多様性を生物学に基づいて学習することである。

内容は,他人との違い,身体的違いの遺伝とその仕組み,遺伝的特徴の多様性,人の成 長とその環境因子について生徒がグループ作業を通じて学ぶようになっている(19)

その内容を一つ紹介する。この本の中では CaseHistory'として実話が紹介されて おり,それについて生徒がグルーフごとに討論して発表することを求める。その実話の 一つは,テイ・ザックス病の赤子の話で,デウ。イドという子供の作文のような書き方が しである。その内容は,彼にアランという名の弟ができ,赤子のアランは始めは元気に ハイハイするまで成長したが,ある時からハイハイすることも笑うこともしなくなった ので 8カ月の時に検診を受けたところテイ・ザックス病を患っていると診断される。

そしてデウ事イドが母親からこの病気の仕組みを つまり遺伝子の異常によってある酵素 が欠けるために脂肪がどんどんたまり,脳細胞の中にその脂肪が蓄積すると脳細胞が死 んでしまうことを図示してもらいながら教わったが,弟の症状が進むのを見て自分が病 因遺伝子のキャリアではないかと心配もする,という話である(20)。遺伝病について率直 に記載されていて興味深い。この WGenes and Surroundings ~のようなテキストを使 ってわが国でも遺伝教育を施せば,遺伝子検査や出生前診断を受ける際に医師からのイ ンフォームド・コンセントのための説明を理解しやすくなるのではなかろうか。

結 び

わが国では米国のBSCS編テキストのようなものを用いた遺伝学教育が欠けているので,

この分野のプログラム作りが求められる。この方面の教育界の努力が必要である。

(5)

学部分子医療部門原爆症に関する調査研究班主催による「原爆放射線の遺伝的影響に関 する生命倫理市民シンポジウム」の第2部「遺伝子(ゲノム)解析に関わる生命倫理と それに関する話題j の中で「遺伝子解析問題で間われる学校教育の将来」と題して筆者 が行なった講演の原稿を改訂したものである。

2)  武部啓「ヒト遺伝子情報の特許と倫理J W科学~ 70‑4 (2000年) , 310頁。

3)  朝日新聞記事「遺伝情報で差別禁止 米大統領連邦政府対象にJ (2000年2月9 日付け,西部本社版)。

4)  朝日新聞記事「遺伝情報差別禁止 『負の側面』の抑制に狙いJ (2000年2月9 日付け,西部本社版)。

5)  我が国でも30才代の男性が遺伝子診断を受けた結果遺伝病であることが判明して 生命保険会社によって障害保険金の支払いを拒否された件で保険金支払拒否は不当とし て神戸地方裁判所に提訴したことが,朝日新聞記事「遺伝子診断 保険金拒む 生保

『契約前から発病~ w理不尽』男性が提訴J (2000年2月9日付け,西部本社版)の 中で報知されている。

6)  朝日新聞広告記事「ゲノム機能解析 その現状と展望を語る"‑'J (2000年3月7 日付け,西部本社版)。

7 )  文部省,厚生省,通商産業省,科学技術庁「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関す る倫理指針(案)J (平成12年12月20日答申, http://www.mext.go.jplb̲menulhoudou/ 

12/12/001238.htm)  11.4.(2)  <個人情報保護のための措置に関する細則>。

8)  青野由利『遺伝子問題とはなにか~ (新曜社 2000年)196‑197頁。 9)  青野,前掲書, 220頁。

10)  青野,前掲書, 198頁。 11)  青野,前掲書, 216‑217頁。

12)  新川詔夫,福嶋義光編『遺伝カウンセリングマニュアル~ (南江堂, 1996年) 2 

頁。 Cf. 米本昌平他『優生学と人聞社会~ (講談社, 2000年)252頁。 13)  青野,前掲書, 264‑265頁。

14)  WHO編(小児病院臨床遺伝懇話会有志訳)

r

遺伝医学の倫理的諸問題および遺 伝サービスの提供に関するガイドライン 1995J  3.1 Cf. WHO編 松田一郎翻訳監修

『遺伝医学と遺伝サービスにおける倫理的諸問題に関して提案された国際的ガイドライ

ン~ (信州大学医学部衛生学教室内遺伝医学セミナ一実行委員会発行 1998年)

r

要 約」の記事。

15)  新川詔夫,阿部京子『遺伝医学への招待 改訂第 2 版~ (南江堂, 1998年) 9頁。 16)  武部啓,前掲誌, 310‑311頁。

17)  朝日新聞記事「理科離れ防げ 勝負の年 新指導要領実施で学ぶ内容3割減」

(2001年1月25日付け,西部本社版)。

18)  Biological Sciences Curriculum Study ed., Genes and Surroundings 2nd  edition (DubuQue, 2000). 

19)  http://www.bscs.org/cp̲ms̲modl.html中の WGenes and Surroundings ~紹介記

事。

20)  B.S.C.S. ed., op. cit., p. 50. 

参照

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