新資料から読み直す宮古島でのドイツ商船漂着(一 八七三年)の経緯 : イギリス船カーリュー号の関 与と乗組員の数を中心として
著者 辻 朋季
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 47
ページ 97‑149
発行年 2020‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00023256
新資料から読み直す宮古島での ドイツ商船漂着(一八七三年)の経緯 —イギリス船カーリュー号の関与と乗組員の数を中心として—
辻 朋 季
一.はじめに
一八七三(明治六)年七月〔旧暦同治一二年六月
)1
(〕に宮古島で発生したドイツ商船ロベルトソン号(R. J. Robertson)の漂着と、島民による乗組員の救助、またこの救助活動に謝意を示すとして一八七六(明治九)年三月〔光緒二年二月〕に島に建立された、いわゆる「ドイツ皇帝博愛記念碑」をめぐっては、既に数多くの研究者が様々な視点から考察を行ってきた。筆者も、日独交流史を専門とする立場から、主にドイツ語資料を活用し、上記の一連の史実をドイツ側の視点で再構成してきた。またドイツ船救助の史実が一九三〇年代の沖縄で脚光を浴び、修身の教材への採用や一九三六(昭和一一)年の「建碑六〇周年式典」などを経て、「博愛」の名のもとに美談化されるプロセスも
追ってきた。近年は、ドイツ人研究者や宮古島市の郷土史家とも協力して文献の収集や情報交換を行い、史実の再検討に努めている。本論文では、この過程で得られた新たな知見を取り入れて各種文献を批判的に比較・検討し、特にロベルトソン号に救助の手を差し伸べたとされるイギリス船カーリュー号の動向と、宮古に上陸した同号の乗組員の数について考察したい。
二.ロベルトソン号の漂着をめぐる二つの疑問点
ロベルトソン号の宮古島漂着をめぐっては様々な情報が錯綜しており、その多くは再検証が求められるため、詳細を断定的に述べることには慎重さを要する。よってここでは、島の公的な記録である『宮古島在番記』(以下『在番記』と略
)2
()、ロベルトソン号の船長でドイツ中部、マインツ(Mainz)生まれのエドゥアルト・ヘルンスハイム
)3
((Eduard Hernsheim, 一八四七—一九一七)の著書(以下『船長日記
)4
(』と略)、それに宮古郡教育部会が島の記録の再調査や古老への聞き取りなどをもとに一九三五(昭和一〇)年に出版した『獨逸國商船遭難救助並同國皇帝建碑顛末書
)5
(』(以下『顛末書』と略)をもとに、整合性の取れている点を要約して概略を提示するにとどめる。
一八七三年七月、福州からオーストラリアのアデレードに向かっていたドイツ・ハンブルク籍の
スクーナー「エル・ヨット・ロベルトソン号」(R. J. Robertson)は、宮古島近海で暴風雨に遭って航行不能となり、漂流の末、七月一一日〔六月一七日
)6
(〕に宮古本島の南西、宮国沖に漂着した
)7
(。既にこの日、島民によってこの異国船の漂着が確認され、救助が試みられたが、高波に阻まれ断念せざるを得なかった。そのため島民は同日夜、海岸にかがり火を焚き、乗組員を救助する用意があることを伝えようとした(実際に船長もこのかがり火に気づき、大いに勇気づけられたとされる
)8
()。生存中の乗組員(人数については後段で検証)は、翌七月一二日〔六月一八日〕に島民(救助に向かったのは主に伊良部島佐良浜の住民
)9
()によって救助され、島に上陸した。彼らは当初、宮国村の番所に収容されたが、七月三一日〔閏六月八日〕には野原村の番所に移され、引き続き寝食の提供を受けた。宮古の在番役人は、琉球王府
)(1
(に使者を送ってこの異国船漂着の経緯を報告
)((
(、さらに乗組員が「馬艦舩致所望」つまりマーラン船(山原船)の使用を願い出たため、官船の使用可否について照会すべく二度目の使者(奥平筑登之、嵩原仁屋)を王府に送った。しかしこの二度目の使者は、順風が吹かず宮古に戻ってしまい、王府からの返答は得られなかった
)(1
(。そのため蔵元は、独自の判断でドイツ人らに官船の譲渡を決定、一行は八月一一日〔閏六月一九日〕に船に乗り込んで試運転を行い、以後船内で寝泊まりをした。八月一六日〔閏六月二四日〕には送別の宴を催した後、翌八月一七日〔閏六月二五日〕、乗組員は台湾に向けて宮古島を出航した。
追ってきた。近年は、ドイツ人研究者や宮古島市の郷土史家とも協力して文献の収集や情報交換を行い、史実の再検討に努めている。本論文では、この過程で得られた新たな知見を取り入れて各種文献を批判的に比較・検討し、特にロベルトソン号に救助の手を差し伸べたとされるイギリス船カーリュー号の動向と、宮古に上陸した同号の乗組員の数について考察したい。
二.ロベルトソン号の漂着をめぐる二つの疑問点
ロベルトソン号の宮古島漂着をめぐっては様々な情報が錯綜しており、その多くは再検証が求められるため、詳細を断定的に述べることには慎重さを要する。よってここでは、島の公的な記録である『宮古島在番記』(以下『在番記』と略
)2
()、ロベルトソン号の船長でドイツ中部、マインツ(Mainz)生まれのエドゥアルト・ヘルンスハイム
)3
((Eduard Hernsheim, 一八四七—一九一七)の著書(以下『船長日記
)4
(』と略)、それに宮古郡教育部会が島の記録の再調査や古老への聞き取りなどをもとに一九三五(昭和一〇)年に出版した『獨逸國商船遭難救助並同國皇帝建碑顛末書
)5
(』(以下『顛末書』と略)をもとに、整合性の取れている点を要約して概略を提示するにとどめる。
一八七三年七月、福州からオーストラリアのアデレードに向かっていたドイツ・ハンブルク籍の
スクーナー「エル・ヨット・ロベルトソン号」(R. J. Robertson)は、宮古島近海で暴風雨に遭って航行不能となり、漂流の末、七月一一日〔六月一七日
)6
(〕に宮古本島の南西、宮国沖に漂着した
)7
(。既にこの日、島民によってこの異国船の漂着が確認され、救助が試みられたが、高波に阻まれ断念せざるを得なかった。そのため島民は同日夜、海岸にかがり火を焚き、乗組員を救助する用意があることを伝えようとした(実際に船長もこのかがり火に気づき、大いに勇気づけられたとされる
)8
()。生存中の乗組員(人数については後段で検証)は、翌七月一二日〔六月一八日〕に島民(救助に向かったのは主に伊良部島佐良浜の住民
)9
()によって救助され、島に上陸した。彼らは当初、宮国村の番所に収容されたが、七月三一日〔閏六月八日〕には野原村の番所に移され、引き続き寝食の提供を受けた。宮古の在番役人は、琉球王府
)(1
(に使者を送ってこの異国船漂着の経緯を報告
)((
(、さらに乗組員が「馬艦舩致所望」つまりマーラン船(山原船)の使用を願い出たため、官船の使用可否について照会すべく二度目の使者(奥平筑登之、嵩原仁屋)を王府に送った。しかしこの二度目の使者は、順風が吹かず宮古に戻ってしまい、王府からの返答は得られなかった
)(1
(。そのため蔵元は、独自の判断でドイツ人らに官船の譲渡を決定、一行は八月一一日〔閏六月一九日〕に船に乗り込んで試運転を行い、以後船内で寝泊まりをした。八月一六日〔閏六月二四日〕には送別の宴を催した後、翌八月一七日〔閏六月二五日〕、乗組員は台湾に向けて宮古島を出航した。
なお一部の先行研究やインターネット上において、この遭難救助を「博愛美談」と讃える記述も散見されるが
)(1
(、過度な美談化には注意が必要である。もちろん、危険を伴う状況下での救助活動、負傷者の手当て、一か月以上にわたる乗組員への寝食の提供といった行為に、ドイツ人船長が感銘を受けていたことは理解できる。だがこれらの対応の多くは「日本他領之船漂着之時御用帳」(一七二三〔雍正元〕年)などの公務規定や、「異国人江之返答心得」(一八四八〔道光二八〕年)などの返答マニュアルに概ね忠実に従ったものである
)(1
(。島民がドイツ人からの金品の受け取りを拒否した
)(1
(のは、「博愛精神」によると言うよりは、金銭その他の授受を禁じた琉球王府の通達によるものである。戦前にロベルトソン号の救助が修身の教材となり
)(1
(、そこで強調された「無償の博愛精神」が戦争遂行を支える徳目ともなり得た点を踏まえれば、事件を美談として捉えることには慎重になるべきである。また、ロベルトソン号に関し、現在も根強く残る事実誤認の点も指摘したい。まず、『船長日記』や「博愛記念碑」の碑文を鵜呑みにしたためか、乗組員の宮古島での滞在期間を三四日間とする記述が圧倒的に多いが、実際の日数は七月一二日から八月一七日〔旧暦六月一八日から閏六月二五日。この年の旧暦六月の日数は二九日〕までの三七日間である。また「乗組員は無事にドイツに帰国した」との記述も多いが、船長ヘルンスハイムは宮古を出航後、台湾、香港を経てシンガポールに到着、ここで新たな船を購入してすぐに太平洋地域での交易に参入しており、ドイツにはその後も長い間帰国していない
)(1
(。ただ、これらの各点は既に拙稿でも紹介しているので、詳細は省き、本論文では以下の
二点について再検討を試みる。
①ロベルトソン号漂着と、イギリス船カーリュー号との関わりについて:ロベルトソン号漂着に関する研究において大きな疑問点とされてきたのが、ドイツ人乗組員の救助を試みたとされるイギリス船カーリュー号の存在(の有無)である。この点を、先行研究が依拠したドイツの新聞記事を批判的に読み解いて検証していく。その際には、南西諸島水中文化遺産研究会の研究成果なども参照する。
②ロベルトソン号の乗組員数と、洋上ないし陸上での死者数について:この点については、『平良市史』や『みやこの歴史』においてさえ記述に不一致が見られながら、これまで本格的な検討がなされず、正確な数は特定できていない。そこで本論文では、ドイツ人研究者より提供を受けた資料も手がかりに、各種資料を突き合わせて再検討し、ロベルトソン号の乗組員の一部が宮古上陸後に死亡していた可能性を指摘したい。
なお一部の先行研究やインターネット上において、この遭難救助を「博愛美談」と讃える記述も散見されるが
)(1
(、過度な美談化には注意が必要である。もちろん、危険を伴う状況下での救助活動、負傷者の手当て、一か月以上にわたる乗組員への寝食の提供といった行為に、ドイツ人船長が感銘を受けていたことは理解できる。だがこれらの対応の多くは「日本他領之船漂着之時御用帳」(一七二三〔雍正元〕年)などの公務規定や、「異国人江之返答心得」(一八四八〔道光二八〕年)などの返答マニュアルに概ね忠実に従ったものである
)(1
(。島民がドイツ人からの金品の受け取りを拒否した
)(1
(のは、「博愛精神」によると言うよりは、金銭その他の授受を禁じた琉球王府の通達によるものである。戦前にロベルトソン号の救助が修身の教材となり
)(1
(、そこで強調された「無償の博愛精神」が戦争遂行を支える徳目ともなり得た点を踏まえれば、事件を美談として捉えることには慎重になるべきである。また、ロベルトソン号に関し、現在も根強く残る事実誤認の点も指摘したい。まず、『船長日記』や「博愛記念碑」の碑文を鵜呑みにしたためか、乗組員の宮古島での滞在期間を三四日間とする記述が圧倒的に多いが、実際の日数は七月一二日から八月一七日〔旧暦六月一八日から閏六月二五日。この年の旧暦六月の日数は二九日〕までの三七日間である。また「乗組員は無事にドイツに帰国した」との記述も多いが、船長ヘルンスハイムは宮古を出航後、台湾、香港を経てシンガポールに到着、ここで新たな船を購入してすぐに太平洋地域での交易に参入しており、ドイツにはその後も長い間帰国していない
)(1
(。ただ、これらの各点は既に拙稿でも紹介しているので、詳細は省き、本論文では以下の
二点について再検討を試みる。
①ロベルトソン号漂着と、イギリス船カーリュー号との関わりについて:ロベルトソン号漂着に関する研究において大きな疑問点とされてきたのが、ドイツ人乗組員の救助を試みたとされるイギリス船カーリュー号の存在(の有無)である。この点を、先行研究が依拠したドイツの新聞記事を批判的に読み解いて検証していく。その際には、南西諸島水中文化遺産研究会の研究成果なども参照する。
②ロベルトソン号の乗組員数と、洋上ないし陸上での死者数について:この点については、『平良市史』や『みやこの歴史』においてさえ記述に不一致が見られながら、これまで本格的な検討がなされず、正確な数は特定できていない。そこで本論文では、ドイツ人研究者より提供を受けた資料も手がかりに、各種資料を突き合わせて再検討し、ロベルトソン号の乗組員の一部が宮古上陸後に死亡していた可能性を指摘したい。
三.カーリュー号による救助活動を報じたドイツの新聞について
ロベルトソン号漂着の経緯を記録した代表的な一次資料が、『在番記』、『船長日記』、それに『顛末書』(成立年代は遅いが、『蔵元文書』の翻刻や聞き取り調査も収録しているので一次資料に分類した)の三点である。そしてこれらに基づいてドイツ船漂着を紹介した、半ば公的な二次資料が、『平良市史』と『みやこの歴史
)(1
(』である
)(1
(。いずれの「市史」にも、ロベルトソン号漂着を扱った箇所には、イギリス船カーリュー号(Curlew)の関与についての言及がある。しかしその説明はあいまいで、実態の解明はなされていない。カーリュー号の関与を報じた資料とは、『ドイツ帝国新聞』(Deutscher Reichsanzeiger、正式名称『ドイツ帝国—プロイセン国新聞』[Deutscher Reichs-Anzeiger und Preu
βischer
Staats-Anzeiger])の一八七四年二月一八日の記事だとされる。戦前に九州帝国大学昆虫学教室教授(当時)の江崎悌三(一八九九
碑行三第』島南の『発所年)九一和昭四(輯収九船念記助救難遭商の「ツイドの島古宮四一入手、 −一イ保が館使大ツのド京在が、)七五管九す写を)略と」し下「当以し(写の事記該る
)11
(」において和訳を付して掲載
)1(
(したが、この翻訳の次の箇所が独り歩きを続け、今まで様々な憶測を呼んでいる(なお、引用中の「ウエード」の記載は誤記と思われる。第五節で検討)。
獨逸船の坐礁は又大ブリテン國軍艦カーリユウ號の司令官チヤーチ艦長の知るところとなり、坐礁者の生死を確め且つ大いに感謝すべきことには救援せんとして、一小艇に士官ブレナン、オーグル、ウエード等を兵士と共に乗せて遣したのであるが、その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた。 )11
(
この記述だけを読めば、ロベルトソン号漂着と同時期にイギリス船が付近を航行していたとか、同号の漂着直後にカーリュー号が島への上陸を試みた、あるいは危険性に鑑みて上陸を断念したなどの解釈が可能であるように見える
)11
(。第六節で検討するように、『平良市史』では実際に、この記事と「宮古島取調書」の(実は誤った)記述をもとに、宮古の人々はドイツ人のみならず英国軍人も救助した、という独自の説も展開している
)11
(。他方で『みやこの歴史』では、「カーリュー号がロベルトソン号の乗組員救助に関与した史料は確認できない
)11
(」として新聞記事から距離を取り、カーリュー号は「漂着民を救助しようと宮古島まで来たが、着いた時にはロベルトソン号の乗組員は出発した後であったと思われる
)11
(」と『平良市史』の記述を事実上修正し、ロベルトソン号遭難の時点でのカーリュー号の関与に疑義を呈している。しかし、ではカーリュー号がいつ宮古に来たのかという疑問は解明されておらず、かといって記事の内容を完全に否定しているわけでもなく、カーリュー号の関与の有無は不問にされている。
三.カーリュー号による救助活動を報じたドイツの新聞について
ロベルトソン号漂着の経緯を記録した代表的な一次資料が、『在番記』、『船長日記』、それに『顛末書』(成立年代は遅いが、『蔵元文書』の翻刻や聞き取り調査も収録しているので一次資料に分類した)の三点である。そしてこれらに基づいてドイツ船漂着を紹介した、半ば公的な二次資料が、『平良市史』と『みやこの歴史
)(1
(』である
)(1
(。いずれの「市史」にも、ロベルトソン号漂着を扱った箇所には、イギリス船カーリュー号(Curlew)の関与についての言及がある。しかしその説明はあいまいで、実態の解明はなされていない。カーリュー号の関与を報じた資料とは、『ドイツ帝国新聞』(Deutscher Reichsanzeiger、正式名称『ドイツ帝国—プロイセン国新聞』[Deutscher Reichs-Anzeiger und Preu
βischer
Staats-Anzeiger])の一八七四年二月一八日の記事だとされる。戦前に九州帝国大学昆虫学教室教授(当時)の江崎悌三(一八九九
碑行三第』島南の『発所年)九一和昭四(輯収九船念記助救難遭商の「ツイドの島古宮四一入手、 −一イ保が館使大ツのド京在が、)七五管九す写を)略と」し下「当以し(写の事記該る
)11
(」において和訳を付して掲載
)1(
(したが、この翻訳の次の箇所が独り歩きを続け、今まで様々な憶測を呼んでいる(なお、引用中の「ウエード」の記載は誤記と思われる。第五節で検討)。
獨逸船の坐礁は又大ブリテン國軍艦カーリユウ號の司令官チヤーチ艦長の知るところとなり、坐礁者の生死を確め且つ大いに感謝すべきことには救援せんとして、一小艇に士官ブレナン、オーグル、ウエード等を兵士と共に乗せて遣したのであるが、その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた。 )11
(
この記述だけを読めば、ロベルトソン号漂着と同時期にイギリス船が付近を航行していたとか、同号の漂着直後にカーリュー号が島への上陸を試みた、あるいは危険性に鑑みて上陸を断念したなどの解釈が可能であるように見える
)11
(。第六節で検討するように、『平良市史』では実際に、この記事と「宮古島取調書」の(実は誤った)記述をもとに、宮古の人々はドイツ人のみならず英国軍人も救助した、という独自の説も展開している
)11
(。他方で『みやこの歴史』では、「カーリュー号がロベルトソン号の乗組員救助に関与した史料は確認できない
)11
(」として新聞記事から距離を取り、カーリュー号は「漂着民を救助しようと宮古島まで来たが、着いた時にはロベルトソン号の乗組員は出発した後であったと思われる
)11
(」と『平良市史』の記述を事実上修正し、ロベルトソン号遭難の時点でのカーリュー号の関与に疑義を呈している。しかし、ではカーリュー号がいつ宮古に来たのかという疑問は解明されておらず、かといって記事の内容を完全に否定しているわけでもなく、カーリュー号の関与の有無は不問にされている。
しかし素朴な疑問として、そもそもロベルトソン号がマストを失って航行不能に陥るほどの荒天時に他の船舶が付近を航行していたのか、そして同号の難船を察知し救助できる状況にあったのか、士官を生命の危険に晒してまで同号を救助する義理がイギリスにあったのか、もしブレナンらが島に上陸できたのなら、なぜドイツ人を連れ帰らなかったのかなど、数々の疑問が自ずと生じる。しかもカーリュー号の関与に言及した資料はこれまで『ドイツ帝国新聞』一点しか挙げられておらず、その点でも説得力に乏しい。そもそも、江崎が紹介した新聞記事は実在するのか、また「写し」の内容は正確なのだろうか。筆者は、ミュンヒェン大学附属図書館が所蔵する同紙の原本を閲覧し、当該記事の存在を確認するとともに、江崎が引用した「写し」との比較を行った。巻末に、記事(原本)の本文と拙訳を参考資料として掲載し、「写し」と異なる箇所には下線を付した。ここからわかるように、「写し」には、細かい正書法上の相違や単語の置き換え、語句の位置の違いや欠落箇所がある他は、概ね原本と一致している。もっとも江崎の和訳は、原文とは異なる印象を読者に与えるおそれがあり、注意を要する。また語句の欠落箇所は、前節②の漂着者数を考える上で重要な箇所であり、検討が必要になる。ただ、こうした問題点はあるものの、記事の原本にもカーリュー号への言及があることから、やはり同号とロベルトソン号漂着の間には何らかの関連があったと考えられる。
四.実際にあったカーリュー号の宮古来航
この疑問点は、沖縄本島北部の国頭村宜名真の「オランダ墓」を調査した南西諸島水中文化遺産研究会などにより、いわば副次的に解明される形となった )11
(。同研究会のプロジェクトに参加した新居洋子・渡辺美季が、イギリス外務省文書(FO: Records created and inherited by the Foreign Office)を用いて調査した結果、この墓は、一八七二(明治五)年に起きたイギリス商船ベナレス号(Benares)遭難の死者を葬ったものと判明した )11
(。さらに、ベナレス号の捜索に赴き、生存者を那覇で収容し上海に送り届けた(一八七二年一二月
−七三年一月)船がカーリュー号で、同号は一八七三 年一一月、王府への謝礼のため再度琉球を訪れていた )11
(。そしてこの二度目の琉球訪問時に、同号のチャーチ艦長は、宮古島での異国船漂着の情報を伝えられ、彼は実際に上海への帰路、宮古に立ち寄っていたことが判明したのである )11
(。新居・渡辺はFO17/562 やFO17/656 を調査し、上海の英字紙North China Daily News (『字林西
披
John MurrayGillespie くの館事領ス訳リイ海上在たし通ギ官報ジづ基に告書のョ)ー(レマン・ ーュリー)カや、けの号問一回目の琉球訪に同行日付四船損スベナレス二の号失」(一八七三年一月 Harold Palmerロハ者存生にの号スレナベの、載ド・ル基パづリギイ事「記くにー言証の)ー(マ掲 服』)
Shanghai Evening Courier (『上海晚
鄺
㹨年れそ)、け付日七二月一三』)七」(旅のへ球琉事「記のに
しかし素朴な疑問として、そもそもロベルトソン号がマストを失って航行不能に陥るほどの荒天時に他の船舶が付近を航行していたのか、そして同号の難船を察知し救助できる状況にあったのか、士官を生命の危険に晒してまで同号を救助する義理がイギリスにあったのか、もしブレナンらが島に上陸できたのなら、なぜドイツ人を連れ帰らなかったのかなど、数々の疑問が自ずと生じる。しかもカーリュー号の関与に言及した資料はこれまで『ドイツ帝国新聞』一点しか挙げられておらず、その点でも説得力に乏しい。そもそも、江崎が紹介した新聞記事は実在するのか、また「写し」の内容は正確なのだろうか。筆者は、ミュンヒェン大学附属図書館が所蔵する同紙の原本を閲覧し、当該記事の存在を確認するとともに、江崎が引用した「写し」との比較を行った。巻末に、記事(原本)の本文と拙訳を参考資料として掲載し、「写し」と異なる箇所には下線を付した。ここからわかるように、「写し」には、細かい正書法上の相違や単語の置き換え、語句の位置の違いや欠落箇所がある他は、概ね原本と一致している。もっとも江崎の和訳は、原文とは異なる印象を読者に与えるおそれがあり、注意を要する。また語句の欠落箇所は、前節②の漂着者数を考える上で重要な箇所であり、検討が必要になる。ただ、こうした問題点はあるものの、記事の原本にもカーリュー号への言及があることから、やはり同号とロベルトソン号漂着の間には何らかの関連があったと考えられる。
四.実際にあったカーリュー号の宮古来航
この疑問点は、沖縄本島北部の国頭村宜名真の「オランダ墓」を調査した南西諸島水中文化遺産研究会などにより、いわば副次的に解明される形となった )11
(。同研究会のプロジェクトに参加した新居洋子・渡辺美季が、イギリス外務省文書(FO: Records created and inherited by the Foreign Office)を用いて調査した結果、この墓は、一八七二(明治五)年に起きたイギリス商船ベナレス号(Benares)遭難の死者を葬ったものと判明した )11
(。さらに、ベナレス号の捜索に赴き、生存者を那覇で収容し上海に送り届けた(一八七二年一二月
−七三年一月)船がカーリュー号で、同号は一八七三 年一一月、王府への謝礼のため再度琉球を訪れていた )11
(。そしてこの二度目の琉球訪問時に、同号のチャーチ艦長は、宮古島での異国船漂着の情報を伝えられ、彼は実際に上海への帰路、宮古に立ち寄っていたことが判明したのである )11
(。新居・渡辺はFO17/562やFO17/656を調査し、上海の英字紙North China Daily News(『字林西
披
John MurrayGillespie くの館事領ス訳リイ海上在たし通ギ官報ジづ基に告書のョ)ー(レマン・ ーュリー)カや、けの号問一回目の琉球訪に同行日付四船損スベナレス二の号失」(一八七三年一月 Harold Palmerロハ者存生にの号スレナベの、載ド・ル基パづリギイ事「記くにー言証の)ー(マ掲 服』)
Shanghai Evening Courier(『上海晚
鄺
㹨年れそ)、け付日七二月一三』)七」(旅のへ球琉事「記のに
カーリュー号の二度目の琉球訪問に通訳として同行したバイロン・ブレナン(Bayron Brenan)の報告書を発見し、その原文と和訳とを公開している
)1(
(。このうち三点目のブレナンの報告書には、カーリュー号の宮古島来航も記録されている。それによれば、チャーチらが首里を訪問した際、王府の役人から、宮古島で異国船が漂着したが、その後の動向がわからないとの報告を受けた。そこで彼は、元在番奉行で琉球駐在の外務省九等出仕、福崎季連に詳細をたずね
)11
(、漂着船がドイツ船であることを知ると、帰路宮古に立ち寄り乗組員を捜索・収容することとし、王府が提供した二人の水先案内人とともに宮古に向かったという
)11
(。この記録に対応する記述は、『球陽』にも見られる
)11
(ほか、宮古島側の記録である『在番記』の以下の記述からも、カーリュー号の来航が裏付けられる。
同年外國舩一隻宮国村ノ浦ヘ到着間モナク出帆ニ付形成御届ノ事、附右舩ヘ水先用琉人二人乗合当島ヘ召卸翌春罷登候事
)11
(
来航場所が、ロベルトソン号の漂着地と同じ宮国村の沖であること、到着後間もなく出帆していること、そして「水先用琉人二人」が乗っていた点から、これをカーリュー号来航の記録と判断して間違いない。ロベルトソン号の乗組員は、実際には宮古の役人から官船を与えられ、既に八月一七日に宮
古を出航していたが、ブレナンらもこのことを島の役人から聞き出し、島に外国人が残っていないと知ると、同行した琉球側の役人二人を下船させ出航した。ブレナンの報告書によれば、カーリュー号は一一月一五日に宮古に到着したが、その日の晩には宮古を出発し、同月一九日に上海に到着している
)11
(。
五.新聞記事をどう解釈するか
以上のことから、カーリュー号は、ロベルトソン号漂着と時を同じくしてではなく、(『みやこの歴史』が推測したように)ドイツ船の乗組員の出発後、具体的には約三か月後に、確かに宮古に来航していた。この点を踏まえ『ドイツ帝国新聞』の記事を読み直すと、以下の解釈が可能となる。まず、カーリュー号に関する記述が、宮古島民によるドイツ船救助の前の段落にあるため、ミスリードを誘っている点は否めない。ドイツ船漂着→カーリュー号による救援の試み→島民による救助、という記事の構成からは、確かにロベルトソン号漂着と同時期ないし直後にカーリュー号が救援を行ったものと誤解されやすい。他方、カーリュー号によるロベルトソン号救援を報じた箇所を前後の文脈から切り離し、これがロベルトソン号漂着と同時期ではなかったと見れば、記事に誤りはないことになる。ドイツ船漂着の事
カーリュー号の二度目の琉球訪問に通訳として同行したバイロン・ブレナン(Bayron Brenan)の報告書を発見し、その原文と和訳とを公開している
)1(
(。このうち三点目のブレナンの報告書には、カーリュー号の宮古島来航も記録されている。それによれば、チャーチらが首里を訪問した際、王府の役人から、宮古島で異国船が漂着したが、その後の動向がわからないとの報告を受けた。そこで彼は、元在番奉行で琉球駐在の外務省九等出仕、福崎季連に詳細をたずね
)11
(、漂着船がドイツ船であることを知ると、帰路宮古に立ち寄り乗組員を捜索・収容することとし、王府が提供した二人の水先案内人とともに宮古に向かったという
)11
(。この記録に対応する記述は、『球陽』にも見られる
)11
(ほか、宮古島側の記録である『在番記』の以下の記述からも、カーリュー号の来航が裏付けられる。
同年外國舩一隻宮国村ノ浦ヘ到着間モナク出帆ニ付形成御届ノ事、附右舩ヘ水先用琉人二人乗合当島ヘ召卸翌春罷登候事
)11
(
来航場所が、ロベルトソン号の漂着地と同じ宮国村の沖であること、到着後間もなく出帆していること、そして「水先用琉人二人」が乗っていた点から、これをカーリュー号来航の記録と判断して間違いない。ロベルトソン号の乗組員は、実際には宮古の役人から官船を与えられ、既に八月一七日に宮
古を出航していたが、ブレナンらもこのことを島の役人から聞き出し、島に外国人が残っていないと知ると、同行した琉球側の役人二人を下船させ出航した。ブレナンの報告書によれば、カーリュー号は一一月一五日に宮古に到着したが、その日の晩には宮古を出発し、同月一九日に上海に到着している
)11
(。
五.新聞記事をどう解釈するか
以上のことから、カーリュー号は、ロベルトソン号漂着と時を同じくしてではなく、(『みやこの歴史』が推測したように)ドイツ船の乗組員の出発後、具体的には約三か月後に、確かに宮古に来航していた。この点を踏まえ『ドイツ帝国新聞』の記事を読み直すと、以下の解釈が可能となる。まず、カーリュー号に関する記述が、宮古島民によるドイツ船救助の前の段落にあるため、ミスリードを誘っている点は否めない。ドイツ船漂着→カーリュー号による救援の試み→島民による救助、という記事の構成からは、確かにロベルトソン号漂着と同時期ないし直後にカーリュー号が救援を行ったものと誤解されやすい。他方、カーリュー号によるロベルトソン号救援を報じた箇所を前後の文脈から切り離し、これがロベルトソン号漂着と同時期ではなかったと見れば、記事に誤りはないことになる。ドイツ船漂着の事
実は、後に(首里において)カーリュー号のチャーチ艦長の知るところとなり、実際に彼はロベルトソン号救援のため、宮国沖から小艇を派遣してブレナンらを宮古島に上陸させている。時期は異なるが、事態は新聞記事の通りに進行していたのである。ではなぜ、新聞記事がこのような誤解を招く構成になっているのか。その背景には、記事の編集段階でカーリュー号関連の情報が錯綜し、誤解が生じていた可能性もある一方、この記事が島民によるドイツ船救助を称賛することを主旨とし、記念碑設置も検討されている点を強調するため、二次的な情報に当たるカーリュー号関連の記述を前半に配置した、という構成上のストラテジーも指摘できよう。仮にこの記事を時系列的に構成すると、カーリュー号への言及が末尾に置かれてしまい、記事が狙いとする「善良な島民像」がうまく描出できない。そのため、敢えて順序を入れ替えてストーリー性を持たせるという、読者志向型の記事構成になったと考えられないだろうか。いずれにせよ、『ドイツ帝国新聞』の記事では、時系列が前後してロベルトソン号遭難救助の経緯が報じられている点に留意する必要がある。新居・渡辺が指摘した通り、カーリュー号は、実際には一八七三年一一月に宮古に来航していた。よって、同号がロベルトソン号の遭難と同時期に宮古近海を航行中だったとか、ドイツ人らに直接の支援を行ったと見ることはできない。また、江崎の「写し」の翻訳中には「その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた」とあり、これが「カーリュー号は救助を試みたが、島への上陸に危険を伴ったので断念せざるを得なかっ た」とのイメージも抱かせがちだが、この解釈も不正確である。記事の原文は本来「岩礁のため、その上陸は、危険を冒すことなしに成し遂げられ得なかった」と直訳すべきだが、筆者は、文末の助動詞(不定形はkönnen〔〜できる〕)が、事実を客観的に叙述する直説法過去形konnte(〜できた)であり、仮定の事柄を述べる接続法(könnte )ではない点を考慮し、敢えて「危険を冒して上陸した」と訳出した。それにより、実際にオーグルらが上陸した事実を明示するためである。しかし江崎は記事内容を十分精査しないまま、「写し」に直訳調の和訳を付している。その結果、ミスリードを誘う彼の訳文と、時系列が前後する原文の構成とが相まって、様々な誤解が生まれることになったと考えられる。なお、『ドイツ帝国新聞』の記事にはWade(ウェード)の記載があるが、新居・渡辺が紹介した資料によれば、ウェードは在北京イギリス公使なので、カーリュー号に同船していたとは考えられない。同名の士官がいた可能性もゼロではないが、カーリュー号が宮国沖から送った小艇にブレナン、オーグル、「琉人二人」の他、カーリュー号の二度目の琉球訪問に上海出航時から同行していた在上海日本領事館の和田雄次郎が乗船していた点を踏まえると、記事中のWadeは誤植で、実際はWada(和田)を指す可能性が高い。
実は、後に(首里において)カーリュー号のチャーチ艦長の知るところとなり、実際に彼はロベルトソン号救援のため、宮国沖から小艇を派遣してブレナンらを宮古島に上陸させている。時期は異なるが、事態は新聞記事の通りに進行していたのである。ではなぜ、新聞記事がこのような誤解を招く構成になっているのか。その背景には、記事の編集段階でカーリュー号関連の情報が錯綜し、誤解が生じていた可能性もある一方、この記事が島民によるドイツ船救助を称賛することを主旨とし、記念碑設置も検討されている点を強調するため、二次的な情報に当たるカーリュー号関連の記述を前半に配置した、という構成上のストラテジーも指摘できよう。仮にこの記事を時系列的に構成すると、カーリュー号への言及が末尾に置かれてしまい、記事が狙いとする「善良な島民像」がうまく描出できない。そのため、敢えて順序を入れ替えてストーリー性を持たせるという、読者志向型の記事構成になったと考えられないだろうか。いずれにせよ、『ドイツ帝国新聞』の記事では、時系列が前後してロベルトソン号遭難救助の経緯が報じられている点に留意する必要がある。新居・渡辺が指摘した通り、カーリュー号は、実際には一八七三年一一月に宮古に来航していた。よって、同号がロベルトソン号の遭難と同時期に宮古近海を航行中だったとか、ドイツ人らに直接の支援を行ったと見ることはできない。また、江崎の「写し」の翻訳中には「その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた」とあり、これが「カーリュー号は救助を試みたが、島への上陸に危険を伴ったので断念せざるを得なかっ た」とのイメージも抱かせがちだが、この解釈も不正確である。記事の原文は本来「岩礁のため、その上陸は、危険を冒すことなしに成し遂げられ得なかった」と直訳すべきだが、筆者は、文末の助動詞(不定形はkönnen〔〜できる〕)が、事実を客観的に叙述する直説法過去形konnte(〜できた)であり、仮定の事柄を述べる接続法(könnte)ではない点を考慮し、敢えて「危険を冒して上陸した」と訳出した。それにより、実際にオーグルらが上陸した事実を明示するためである。しかし江崎は記事内容を十分精査しないまま、「写し」に直訳調の和訳を付している。その結果、ミスリードを誘う彼の訳文と、時系列が前後する原文の構成とが相まって、様々な誤解が生まれることになったと考えられる。なお、『ドイツ帝国新聞』の記事にはWade(ウェード)の記載があるが、新居・渡辺が紹介した資料によれば、ウェードは在北京イギリス公使なので、カーリュー号に同船していたとは考えられない。同名の士官がいた可能性もゼロではないが、カーリュー号が宮国沖から送った小艇にブレナン、オーグル、「琉人二人」の他、カーリュー号の二度目の琉球訪問に上海出航時から同行していた在上海日本領事館の和田雄次郎が乗船していた点を踏まえると、記事中のWadeは誤植で、実際はWada(和田)を指す可能性が高い。
六.「宮古島取調書」の不備からわかる、『平良市史』の推論の限界
以上の点を踏まえ、次に『平良市史』の記述を批判的に検討したい。というのも同書では、『在番記』に記録された一八七三〔同治一二〕年の異国船漂着を、「英吉利国ローマニア二国」(二は漢数字)つまり「二か国」の船の漂着と捉え、ここからロベルトソン号漂着とカーリュー号来航とを関連付け、以下の大胆な解釈を行っているからである(但し結論を先取りしておくと、この推論は、根拠資料に誤りがあるため成り立たない)。
宮古人によって救出されたのは、ロベルトソン号の乗員と、英国軍人ということが考えられ、ロベルトソン号の乗員のヘルムシャイン船長らは𨳝𨳝𨳝𨳝に三𨳝𨳝𨳝𨳝𨳝の𨳝𨳝船を𨳝𨳝されて宮古𨳝から出帆していったが、ロベルトソン号乗員救出のためロベルトソン号に在って乗員らとともに宮古に上陸したイギリスの軍人は、その𨳝も𨳝在し八𨳝になって母艦カーリュウに収容されたものであろうことが考えられてくる。 )11(
この解釈は、江崎による「写し」の翻訳と、『平良市史』第𨳝巻資料編2に所収の「宮古𨳝取調書」(以下「取調書」と略)に依拠している
)11
(。旧慣改正期に当たる一八九五(明治二八)年
)11
(に作成された
この記録には、外国船の漂着事例を列記した「外国船到来ノ度数及ヒ年月現況」という項目がある。このうち威豊三(一八五三)年の漂着事例には「別紙一号ノ通リ」、同治一二年の漂着事例には「別紙二号ノ通 [ママ]」と別紙が付され、詳細が述べられている
)11
(。そしてこの別紙二号「同治十二年砂川間切宮国村沖ヘ英国船難波漂着ノ現況」(傍線は引用者)には、旧暦六月一七日に宮国沖で英国船が破船したこと、さらに八月二一日に「同国船」が来航し、乗組員が「先キノ漂着人ヲ以テ面接セシメタ」と書かれている。これが『平良市史』の推論の根拠である。しかし「取調書」を批判的に読むと、この推論には無理が生じる。なぜなら平良勝保も指摘したように、「取調書」では、同治一二年の「英国船漂着」に関する記録の中に、威豊三年に宮古島新城海岸で起きたイギリス船漂着に関する記述が混入しているからだ
)1(
(。平良は、「近古文書」その他の一次資料をもとに、苦力を乗せてカリフォルニア(記述中の「金山」がこれに相当)に向け航行中のイギリス船が旧暦威豊三年六月一七日に新城に漂着したこと、さらにこの船の漂着民を収容すべく同年八月二一日にイギリス船が嘉手苅村に来航したこと、その際先発隊として「唐人四人異国人五人」が島に上陸した史実を明らかにしている。これら平良の成果も踏まえながら、では具体的に「取調書」でどのように記録が混同されているのか、やや長くなるが別紙二号の記述を引用したい。その際には別紙一号、つまり威豊三年の新城での英国船漂着に関する記録も並べて引用する。それにより、別紙二号の大半がロベルトソン号漂着の記
六.「宮古島取調書」の不備からわかる、『平良市史』の推論の限界
以上の点を踏まえ、次に『平良市史』の記述を批判的に検討したい。というのも同書では、『在番記』に記録された一八七三〔同治一二〕年の異国船漂着を、「英吉利国ローマニア二国」(二は漢数字)つまり「二か国」の船の漂着と捉え、ここからロベルトソン号漂着とカーリュー号来航とを関連付け、以下の大胆な解釈を行っているからである(但し結論を先取りしておくと、この推論は、根拠資料に誤りがあるため成り立たない)。
宮古人によって救出されたのは、ロベルトソン号の乗員と、英国軍人ということが考えられ、ロベルトソン号の乗員のヘルムシャイン船長らは𨳝𨳝𨳝𨳝に三𨳝𨳝𨳝𨳝𨳝の𨳝𨳝船を𨳝𨳝されて宮古𨳝から出帆していったが、ロベルトソン号乗員救出のためロベルトソン号に在って乗員らとともに宮古に上陸したイギリスの軍人は、その𨳝も𨳝在し八𨳝になって母艦カーリュウに収容されたものであろうことが考えられてくる。 )11(
この解釈は、江崎による「写し」の翻訳と、『平良市史』第𨳝巻資料編2に所収の「宮古𨳝取調書」(以下「取調書」と略)に依拠している
)11
(。旧慣改正期に当たる一八九五(明治二八)年
)11
(に作成された
この記録には、外国船の漂着事例を列記した「外国船到来ノ度数及ヒ年月現況」という項目がある。このうち威豊三(一八五三)年の漂着事例には「別紙一号ノ通リ」、同治一二年の漂着事例には「別紙二号ノ通 [ママ]」と別紙が付され、詳細が述べられている
)11
(。そしてこの別紙二号「同治十二年砂川間切宮国村沖ヘ英国船難波漂着ノ現況」(傍線は引用者)には、旧暦六月一七日に宮国沖で英国船が破船したこと、さらに八月二一日に「同国船」が来航し、乗組員が「先キノ漂着人ヲ以テ面接セシメタ」と書かれている。これが『平良市史』の推論の根拠である。しかし「取調書」を批判的に読むと、この推論には無理が生じる。なぜなら平良勝保も指摘したように、「取調書」では、同治一二年の「英国船漂着」に関する記録の中に、威豊三年に宮古島新城海岸で起きたイギリス船漂着に関する記述が混入しているからだ
)1(
(。平良は、「近古文書」その他の一次資料をもとに、苦力を乗せてカリフォルニア(記述中の「金山」がこれに相当)に向け航行中のイギリス船が旧暦威豊三年六月一七日に新城に漂着したこと、さらにこの船の漂着民を収容すべく同年八月二一日にイギリス船が嘉手苅村に来航したこと、その際先発隊として「唐人四人異国人五人」が島に上陸した史実を明らかにしている。これら平良の成果も踏まえながら、では具体的に「取調書」でどのように記録が混同されているのか、やや長くなるが別紙二号の記述を引用したい。その際には別紙一号、つまり威豊三年の新城での英国船漂着に関する記録も並べて引用する。それにより、別紙二号の大半がロベルトソン号漂着の記
録ではないことが明確になるからだ(太字、傍線、波線はいずれも引用者)。
一号 威豊三年丑年当島新城村へ漂着ノ現況九月十七日酉ノ刻ノ時分船壱艘平良間切新城村後ノ浦ヘ漂着致シ早速破損場ヘ差越取調タルニ唐人四人女一人游揚居候ニ付湯粥相進メ候其他又唐人十二人阿蘭陀人形貌ノ者六人游揚候ニ付是又番所ヘ列行キ本国宗旨漂着ノ次第通詞役ヲ以テ相尋候処中華国広東省広洌府南海県ノ者男二百三人女四十人大英国船主水夫三十人合二百七十三人大漢国船ヘ乗合買売ノ為メ五月二十三日広東ヨリ金山ト申処ヘ渡海ノ洋中大風大雨ニ逢ヒ当年十七日午ノ時分当所漂着破船致シ候由申出候宗旨ノ義ハ疑敷□ニ無之候ト返答セシニ由ナク夫々介抱シ尚ホ当島各所ノ海浜ヘ一二人ツ、漂着セシニ由テ夫々介抱シ右生揚候人数ハ三十人内唐人男二十二人唐女二人阿蘭陀人六人ナリシト乗合人ノ内唐男三人ノ死体寄揚候由ナリ
)11
(
二号 同治十二年砂川間切宮国村沖ヘ英国船難波漂着ノ現況
同治十二年癸酉年(明治六年ニ当ル)六月十七日宮国村ノ沖ニ於テ暴風ノ為メ破船致シ唐人一人異国人三人其他ノ漂着人(人数不詳)生揚タルニ由リ夫々介抱セリ同国人ノ望ニ由リ牛豚羊𨿸𨿸玉子野菜等ヲ供セリ
八月廿一日四時同国船一艘下地間切嘉手刈村(宮国ノ東隣村)ヨリ申酉ノ間三里程沖ヘ押寄来リ八時々分右村ノ前浜ヘ二十町程沖ヘ
𥖧ヲ卸シ間モ無ク本船伝間船一艘ヨリ唐人四人異国人五人座
乗込同所浜ヘ上陸セシニ依テ在番並ニ筆者頭惣横目其外役々差越本国宗旨来着ノ次第通詞ヲ以テ相尋候処大英国火輪船唐人四人英人百二十六人都テ百三十八人乗込有之来着ノ次第ハ五月二十三日同国ノ船一艘類船ニテ広東ヨリ金山ト申処ヘ渡航ノ洋中不意大風ニ逢ヒ今ニ着場分ラザルニ由リ探索ノ為メ来レリト若シ漂着人アラハ対面致シタシト云ヒタリト依テ先キノ漂着人ヲ以テ面接セシメタリ同日本船ヘ列行キ翌二十三日五時出帆未申ノ間ヘ乗行九時ヨリハ帆影見ヘザリシト
)11
(
(以下略)
傍線を付した箇所を比較するだけで、別紙二号の記述が実際には(第一段落を除き)別紙一号で述べられた漂着事件の後日談であることがわかる。なぜなら別紙一号では、「金山」を目指して(旧暦威豊三年)五月二三日に広東を出航したイギリス船が、洋上で暴風に遭って宮古島に漂着したとあり、別紙二号ではまさにこの漂着船(五月二三日に広東から「金山」に向け出航した後に行方不明となった英国船)を捜索すべく、旧暦八月二一日に嘉手苅沖に「同国船」つまり英国船が来着したとあるからだ。また別紙二号の見出しが「砂川間切宮国村」での英国船漂着であるのに、第二段落では同国船が「下地間切嘉手刈村」に投錨しており、見出しと本文の間にも齟齬が見られる。
録ではないことが明確になるからだ(太字、傍線、波線はいずれも引用者)。
一号 威豊三年丑年当島新城村へ漂着ノ現況九月十七日酉ノ刻ノ時分船壱艘平良間切新城村後ノ浦ヘ漂着致シ早速破損場ヘ差越取調タルニ唐人四人女一人游揚居候ニ付湯粥相進メ候其他又唐人十二人阿蘭陀人形貌ノ者六人游揚候ニ付是又番所ヘ列行キ本国宗旨漂着ノ次第通詞役ヲ以テ相尋候処中華国広東省広洌府南海県ノ者男二百三人女四十人大英国船主水夫三十人合二百七十三人大漢国船ヘ乗合買売ノ為メ五月二十三日広東ヨリ金山ト申処ヘ渡海ノ洋中大風大雨ニ逢ヒ当年十七日午ノ時分当所漂着破船致シ候由申出候宗旨ノ義ハ疑敷□ニ無之候ト返答セシニ由ナク夫々介抱シ尚ホ当島各所ノ海浜ヘ一二人ツ、漂着セシニ由テ夫々介抱シ右生揚候人数ハ三十人内唐人男二十二人唐女二人阿蘭陀人六人ナリシト乗合人ノ内唐男三人ノ死体寄揚候由ナリ
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二号 同治十二年砂川間切宮国村沖ヘ英国船難波漂着ノ現況
同治十二年癸酉年(明治六年ニ当ル)六月十七日宮国村ノ沖ニ於テ暴風ノ為メ破船致シ唐人一人異国人三人其他ノ漂着人(人数不詳)生揚タルニ由リ夫々介抱セリ同国人ノ望ニ由リ牛豚羊𨿸𨿸玉子野菜等ヲ供セリ
八月廿一日四時同国船一艘下地間切嘉手刈村(宮国ノ東隣村)ヨリ申酉ノ間三里程沖ヘ押寄来リ八時々分右村ノ前浜ヘ二十町程沖ヘ
𥖧ヲ卸シ間モ無ク本船伝間船一艘ヨリ唐人四人異国人五人座
乗込同所浜ヘ上陸セシニ依テ在番並ニ筆者頭惣横目其外役々差越本国宗旨来着ノ次第通詞ヲ以テ相尋候処大英国火輪船唐人四人英人百二十六人都テ百三十八人乗込有之来着ノ次第ハ五月二十三日同国ノ船一艘類船ニテ広東ヨリ金山ト申処ヘ渡航ノ洋中不意大風ニ逢ヒ今ニ着場分ラザルニ由リ探索ノ為メ来レリト若シ漂着人アラハ対面致シタシト云ヒタリト依テ先キノ漂着人ヲ以テ面接セシメタリ同日本船ヘ列行キ翌二十三日五時出帆未申ノ間ヘ乗行九時ヨリハ帆影見ヘザリシト
)11
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(以下略)
傍線を付した箇所を比較するだけで、別紙二号の記述が実際には(第一段落を除き)別紙一号で述べられた漂着事件の後日談であることがわかる。なぜなら別紙一号では、「金山」を目指して(旧暦威豊三年)五月二三日に広東を出航したイギリス船が、洋上で暴風に遭って宮古島に漂着したとあり、別紙二号ではまさにこの漂着船(五月二三日に広東から「金山」に向け出航した後に行方不明となった英国船)を捜索すべく、旧暦八月二一日に嘉手苅沖に「同国船」つまり英国船が来着したとあるからだ。また別紙二号の見出しが「砂川間切宮国村」での英国船漂着であるのに、第二段落では同国船が「下地間切嘉手刈村」に投錨しており、見出しと本文の間にも齟齬が見られる。
以上の点から、別紙二号の第二段落「八月廿一日四時」以降の記述は、同治一二年の「宮国沖ヘ英国船難波漂着」の記録ではなく、明らかに威豊三年に新城で起きたイギリス船漂着の続報である。別紙二号の中に強いてロベルトソン号との関連を探せば、漂着日時と場所から勘案して、第一段落をその記録と見ることもできるが、漂着者数が不詳とされているうえ、提供された食料の一覧以外に「漂着ノ現況」に関する具体的記述はない。よってその二〇年前に起きた英国船の漂着の記録が混入した「取調書」の、ドイツ船漂着に関する資料的価値は乏しい。なお平良によれば、一八五三年の苦力船の漂着は、「取調書」に書かれた旧暦九月一七日ではなく、六月一七日のことであったという
)11
((よって別紙一号の冒頭の記載「九月十七日」は「六月十七日」の誤り)。つまり、奇しくもこのイギリス船漂着(一八五三年の旧暦六月一七日)のちょうど二〇年後(一八七三年)の同日にロベルトソン号の漂着が起きたことになる。イギリス船漂着とドイツ船漂着の記録が混同された一因は、こうした背景にも求められよう。つまり「取調書」の作成段階において、一九世紀中期以降に増加していた異国船漂着の記録が錯綜し、ロベルトソン号漂着が、その二〇年前のイギリス船漂着と混同して語られ、記録されたのではないか。いずれにせよ、別紙二号をロベルトソン号漂着の記録と見ることはできず、宮古の人々がドイツ人と英国軍人とを救助したという『平良市史』の解釈は成り立たない
)11
(。ロベルトソン号漂着をめぐる史実を考察するに当たっては、他の漂着事例との記録の混同という可
能性も視野に入れて、各種資料を批判的に検討するとともに、様々な観点からの考察により先行研究を再検討していく作業が必要になる。次節でも同様の批判的視点に立ち、ロベルトソン号の乗組員の数や遭難時の死者数を再検討してみたい。
七.『在番記』と『船長日記』、『蔵元文書』に見る生存者数の相違
ここで、ロベルトソン号漂着を記録した三つの一次文献(『在番記』『船長日記』『顛末書』)の特徴を概観したい。まず『宮古島在番記』は、一三六八〔明の洪武元〕年から一八九三(明治二六)年まで五二五年間に起きた事件を記録した文書で、一七八〇〔乾隆四五〕年から白川氏上地与人恵賛が書き始め、代々の蔵筆者が書き継いできたとされる
)11
(。戦中戦後の宮古を代表する教育者・郷土史家の稲村賢敷(一八九四—一九七八)が「御蔵元年来記とでもすべきであるが、その内容が在番以下頭、大 おおあむ安母(宮古の女人の最高位の神職:引用者)、住持、医者等の次第を記すのが主になっているので宮古島在番記という書名にしたものと思はれる
)11
(」と述べたように、主に在番の吏員の動向を記録したものである。本論文では、『平良市史』第三巻資料編1(前近代)に収録されたものに依拠するが、稲村の『宮古島旧記並史歌集解』中の「宮古島在番記」の口語訳も第一一節で参照する
)11
(。ロベルトソン号漂着に関するドイツ側の記録が、船長ヘルンスハイムの手記をもとに出版された
以上の点から、別紙二号の第二段落「八月廿一日四時」以降の記述は、同治一二年の「宮国沖ヘ英国船難波漂着」の記録ではなく、明らかに威豊三年に新城で起きたイギリス船漂着の続報である。別紙二号の中に強いてロベルトソン号との関連を探せば、漂着日時と場所から勘案して、第一段落をその記録と見ることもできるが、漂着者数が不詳とされているうえ、提供された食料の一覧以外に「漂着ノ現況」に関する具体的記述はない。よってその二〇年前に起きた英国船の漂着の記録が混入した「取調書」の、ドイツ船漂着に関する資料的価値は乏しい。なお平良によれば、一八五三年の苦力船の漂着は、「取調書」に書かれた旧暦九月一七日ではなく、六月一七日のことであったという
)11
((よって別紙一号の冒頭の記載「九月十七日」は「六月十七日」の誤り)。つまり、奇しくもこのイギリス船漂着(一八五三年の旧暦六月一七日)のちょうど二〇年後(一八七三年)の同日にロベルトソン号の漂着が起きたことになる。イギリス船漂着とドイツ船漂着の記録が混同された一因は、こうした背景にも求められよう。つまり「取調書」の作成段階において、一九世紀中期以降に増加していた異国船漂着の記録が錯綜し、ロベルトソン号漂着が、その二〇年前のイギリス船漂着と混同して語られ、記録されたのではないか。いずれにせよ、別紙二号をロベルトソン号漂着の記録と見ることはできず、宮古の人々がドイツ人と英国軍人とを救助したという『平良市史』の解釈は成り立たない
)11
(。ロベルトソン号漂着をめぐる史実を考察するに当たっては、他の漂着事例との記録の混同という可
能性も視野に入れて、各種資料を批判的に検討するとともに、様々な観点からの考察により先行研究を再検討していく作業が必要になる。次節でも同様の批判的視点に立ち、ロベルトソン号の乗組員の数や遭難時の死者数を再検討してみたい。
七.『在番記』と『船長日記』、『蔵元文書』に見る生存者数の相違
ここで、ロベルトソン号漂着を記録した三つの一次文献(『在番記』『船長日記』『顛末書』)の特徴を概観したい。まず『宮古島在番記』は、一三六八〔明の洪武元〕年から一八九三(明治二六)年まで五二五年間に起きた事件を記録した文書で、一七八〇〔乾隆四五〕年から白川氏上地与人恵賛が書き始め、代々の蔵筆者が書き継いできたとされる
)11
(。戦中戦後の宮古を代表する教育者・郷土史家の稲村賢敷(一八九四—一九七八)が「御蔵元年来記とでもすべきであるが、その内容が在番以下頭、大 おおあむ安母(宮古の女人の最高位の神職:引用者)、住持、医者等の次第を記すのが主になっているので宮古島在番記という書名にしたものと思はれる
)11
(」と述べたように、主に在番の吏員の動向を記録したものである。本論文では、『平良市史』第三巻資料編1(前近代)に収録されたものに依拠するが、稲村の『宮古島旧記並史歌集解』中の「宮古島在番記」の口語訳も第一一節で参照する
)11
(。ロベルトソン号漂着に関するドイツ側の記録が、船長ヘルンスハイムの手記をもとに出版された
『船長日記』である
)11
(。船長がアデレードを目指して福州を出航した後、暴風雨に巻き込まれて宮古に漂着し、島での滞在を経て、官船を与えられて出航し基隆に到着するまでの経緯が、日付ごとに記されている。一八七三年一二月にシュトラースブルク(現在はフランスのストラスブール)で初版が刊行され、一八八一年にはドイツ東部の街ライプツィヒで第二版が出版された
る部付け記事の一のが用されてい引 ZeitungAllgemeine Norddeutsche 年三一一一月八日八七の一ド事件を報た『北じイ聞ツ』()新般一 。なみ、のに本版初お
)11
(。また第二版には、「博愛記念碑」設置に関わる四点の文書(うち二点は新聞記事の写し)が付録として追加されている。最後に、『顛末書』に翻刻された『蔵元文書』であるが、これは宮古郡教育部会が旧宮古島蔵元(『顛末書』の出版当時は「宮古支庁」)に保管されていた文書を翻刻したとされるもので、砂川玄正が現代語訳を付してその内容を『平良市総合博物館紀要』第二号に転載している
)1(
(。但し砂川も指摘の通り、乗組員をはじめに収容した場所が「宮国村番所」ではなく「在番所」となっているなど、『蔵元文書』の記載に誤りがある点にも留意が必要である。次に、各資料でロベルトソン号漂着がどう記録されているかを比較したい。意外にも、島の公的な史書とも言える『在番記』では、従来の定説と異なり、計一〇名が宮国沖に漂着し、島に上陸したと述べられている(傍線は引用者)。
同(同治:引用者)十二酉年六月十七日暎咭唎國ノローマニアニ國ノ船ヘ同國ノ者共男七人女一人広東人男二人都合十人乗合當島宮國村ノ浦ヘ漂着致破損乗込人数致陸下候ニ付成行為御届馬艦舩飛脚使取仕出長浜目差小禄仁屋若文子大宜味仁屋宰領ニテ差登致事
)11
(
これに対し『船長日記』によれば、宮古島に上陸した乗組員は七名となる。福州出航時の乗組員数は記されていないが、七月九日の暴風雨に際し、「舵のところにいた二人の船員のうち[…]一人は海にさらわれ」溺死したとあり、この時にもう一人が足を骨折、さらに「大工のオルヘーフト(Olhöft )が[…]押し寄せた波にさらわれて」溺死、その後「元気だった最後の船乗りも足にひどい怪我」を負ったという
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(。こうして死者二名、負傷者二名が出た結果、「我々全体で手足を動かせるのは白人三人、中国人二人になってしまった
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(」とあるので(但しその後、中国人の若い乗組員が食料品の樽に叩きつけられ負傷)、当初の乗組員数は九名、うち二名が死亡したことになる(原文を読む限り、「白人三人」には船長ヘルンスハイムが含まれると考えるのが妥当)。この点に関し、巻末に掲げた『ドイツ帝国新聞』の原本も再度参照したい。実は、江崎の「写し」の欠落箇所には、生存者の内訳が「船長と六人の船乗りから成る」と書かれていた。これによれば、上陸時には負傷者も含め七名が生存していたことになり、『船長日記』の記述とも一致する。但しこの記事は、独自取材の成果ではなく、ヘルンスハイムの香港領事への報告や、出版後間もない『船長