• 検索結果がありません。

雑誌名 東北学院大学キリスト教文化研究所紀要

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 東北学院大学キリスト教文化研究所紀要"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

考察――

著者 吉田 新

雑誌名 東北学院大学キリスト教文化研究所紀要

号 36

ページ 21‑39

発行年 2018‑06‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024277/

(2)

長老たちへの勧告

── I ペトロ書 5 章 1

-

5a 節に関する考察 ──

吉 田   新

 はじめに

 1 Iペトロ書51-5a節に関する考察  2 新約聖書文書における長老の役割  まとめ

はじめに

Iペトロ書5章1-5a節には,長老たちと若者らに向けられた勧告句が記されている。奴 隷たち(2 : 18-25),妻と夫たち(3 : 1-7)に向けて語ったように,全ての受け取り手で はなく特定のグループを対象とした訓戒である。なぜ,送り手は書簡の終結部分において

(4 : 12-5 : 11),長老たちへの訓戒を記したのだろうか。例えばIテモテ書では,長老と 奴隷への訓告は連続して語られており(5 : 17-6 : 2),Iペトロ書の著者が長老たちへの 勧告を書簡の後半に配置したのは何か意図があるのだろうか。また,同書簡において,こ の勧告はいかなる機能を果たしているのだろうか。長老とはどのような存在なのか。その 役割とは何か。本稿では5章1-5a節の考察を通して,同書簡における長老たちへの勧告 の意義について考察したい。まず,5章1-5a節を分析した後,他の新約聖書文書に残さ れている長老に関する記述を取り上げ,Iペトロ書における長老たちへの勧告の特徴を確 認する。

1  Iペトロ書51-5a節に関する考察

1.1 内容と構造

初めに,Iペトロ書5章1節までの書簡の内容を確かめたい。4章7節で「万物の終わ りが迫る(Πάντων δὲ τὸ τέλος ἤγγικεν)」という終末の近接が語られるが,話題はすぐさま 書簡の受け取り手らの共同体のあり方に移る。4章8節で最も大切なこととして互いに愛 し合うことが勧められる(Iコリ13 : 13参照)。そして,「語る者は語り,奉仕する者は 奉仕せよ」と命じる。12節から「火のような試練」に耐えることが訴えられ,その苦難 の中でも喜ぶことも勧められる。そして,17節で裁きは「神の家」から始められるとい う警告が発せられる。

(3)

5章1節からやや唐突に長老たちへの勧告を記したのは,この「神の家」,つまりは書 簡の宛先である各共同体への審判と関連付けて理解することができるだろう1。この書簡は 個人に宛てた私信ではなく,小アジア地域に散在する共同体を対象とする回状である。同 書簡は,終末論的背景を色濃く有しており,この世の終わりを前提としている(1 : 17,

4 : 5,7)。それゆえ,書簡の最後に試練の中にある各共同体を指導する長老に忠告するの は,この書簡が共同体論(教会論)に重心を置いて記しているからだと思われる。

書簡の送り手は,常に読み手の自己理解を深めさせ,彼,彼女らが本来的に属する共同 体(神の家)とは何かを教示する。読者は書簡の最初から「仮住まいの者」と規定され(1 : 1,

2 : 11),この地上には属しておらず,やがて受ける栄光を待つ存在であることが明確にさ れる(1 : 4,11,17,2 : 11)。読者らが何者であるかを折に触れて説き明かし(1 : 1,

17,2 : 11),彼,彼女らは地上ではなく,天に帰属していることを意識させている2。そし

て,「霊的な家」(2 : 5),「神の民」(2 : 10,ホセ2 : 25),または大牧者が牧する群れに 属する羊であるとも教えている(2 : 25,5 : 4)。つまり,手紙の送り手は,寄るべき真 の共同体を伝えることによって,受け取り手らがこの世で生きるための拠り所を与えてい る。確かに,読者らは天上において栄光を受けるために,この地上で善き業を遂行する必 要がある(4 : 19)。裁きは目前に迫りつつある。それは,自らが地上で属する共同体,「神 の家」から開始される。それに備えるため,共同体を統べる長老も正しい行いをしなけれ ばならない。そして,共同体の成員は彼に従わなくてならない。書簡の終結部分に長老た ちへの勧告を配置したのは,以上のような理由からであろう。

次に書簡の構造に関する考察に移りたい。5章1-4節は長老たち,5節aは若者らへの 勧告である。ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第28版では(それ以前の版 を含めて),6節から段落を落とし,新しい単元として始めている。6節以降は終末論的言 説が語られているゆえ,文脈上は5節までがひとつの単元として捉えている。しかし,5 節b以後からは勧告の対象が「みな(πᾶς)」となっており,5節前半と切り離して考える べきではなかろうか3。5b-11節の対象は,これまでの長老たちと若者らを含む共同体の成 員全体を意味していると考えられる。個々のグループへの勧告句の後に,対象を全てに向 けるのは,すでに3章8-12節にも見られる語り方である。書簡の送り手は,3章と同じ 言い回しを繰り返している。また,旧約聖書の引用(詩34 : 13-17,箴3 : 24)を用いて 説明する方法も同箇所と類似している。

1 Vgl. Michaels, 278 ; Perkins, 76(パーキンス,130頁参照)。

2 フィリ3 : 20,ガラ4 : 26,エフェ2 : 12,19,ヘブ12 : 22参照。

3 Vgl. Windisch, 78 ; Grudem, 200(グルーデム,217頁); Feldmeier, 154 ; Elliott, 809f. 田川,332 頁参照。

(4)

5 : 1-4 長老たち 2 : 18-25 奴隷たち

5 : 5a 若者たち 3 : 1-7 妻と夫たち

5b-11 みな 3 : 8-12 みな

(箴3 : 24引用) (詩34 : 13-17引用)

5章2節と3節は,否定と反意を三回繰り返して論じる構造になっている4

2 ποιμάνατε τὸ ἐν ὑμῖν ποίμνιον τοῦ θεοῦ  ἐπισκοποῦντες

  μὴ ἀναγκαστῶς

   ἀλλ᾽ ἑκουσίως κατὰ θεόν,   μηδὲ αἰσχροκερδῶς    ἀλλὰ προθύμως,

3 μηδ᾽ ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων    ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου·

他の箇所と同様に,5章1節から5a節までひとつのまとまりと受け取ることができる。

また長老への訓告は,他の新約聖書文書(及び使徒教父文書)にも確認できるので,この 部分は伝承を用いた可能性も考えられるだろう。ただし,他の箇所と同様にIペトロ書の 著者は,受容した伝承を巧みに書簡に組み込んでいるので,元来の伝承を抽出することは 不可能である。では,次に同箇所の翻訳を提示し,分析へと進みたい。

1.2 翻訳5

1  あなた方の中の長老たちに6,同じく長老であり,また,キリストの受難の証言者7, 将来に現わされる栄光を共に与る者である私は勧める。

4 Vgl. Nauck, 200 ; Forbes, 165.

5 丸括弧内は別訳を示し,亀甲括弧内は翻訳上の補い。

6 ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第27版までは,「ἐν ὑμῖν」の前に「oun」が本文に 採用されていた(写本では

3

5:5a 若者たち 3:1‐7 妻と夫たち

5b‐11 みな 3:8‐12 みな

(箴3:24引用) (詩34:13‐17引用)

5章2節と3節は、否定と反意を三回繰り返して論じる構造になっている4

2 ποιμάνατε τὸ ἐν ὑμῖν ποίμνιον τοῦ θεοῦ ἐπισκοποῦντες

μὴ ἀναγκαστῶς

ἀλλ᾽ ἑκουσίως κατὰ θεόν, μηδὲ αἰσχροκερδῶς

ἀλλὰ προθύμως,

3 μηδ᾽ ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου·

他の箇所と同様に、5章1節から5a節までひとつのまとまりと受け取ることができる。ま た長老への訓告は、他の新約聖書文書(及び使徒教父文書)にも確認できるので、この部分 は伝承を用いた可能性も考えられるだろう。ただし、他の箇所と同様にIペトロ書の著者は、

受容した伝承を巧みに書簡に組み込んでいるので、元来の伝承を再抽出することは不可能 である。では、次に同箇所の翻訳を提示し、分析へと進みたい。

1.2 翻訳5

1 あなた方の中の長老たちに6、同じく長老であり、また、キリストの受難の証言者7、将来 に現わされる栄光を共に与る者である私は勧める。

2 あなた方の中にいる8神の〔羊の〕群れを牧しなさい。強いられてではなく、神〔の意思〕

に従い9自発的に見守りなさい10。恥ずべき利得を得るためではなく、喜んで〔しなさい〕。

4 Vgl. Nauck, 200; Forbes, 165.

5丸括弧内は別訳を示し、亀甲括弧内は翻訳上の補い。

6ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第27版までは、「ἐν ὑμῖν」の前に「oun」が本文に採用さ れていた(写本ではî72, A, B, 614, 630。î72を含め、比較的重要な写本を重んじたからだろう。しかし、

28版からはそれが削除され定冠詞「τοὺς」が挿入されている(写本ではa, Y, 623, 2464)。こちらの方 が文法としては正しい。

7î72では「Χριστοῦ」の代わりに「θεοῦ」と記している。î723世紀に記されたと考えられるので、その

時代の神学的理解を反映しているのだろうか。

8口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳「あなたがたにゆだねられている」、共同訳「自分にゆだねられ ている」と意訳。

9複数の写本には「κατὰ θεόν」を記されているが(î72, a2, A, P, Yなど)、これを挿入しない写本も存在す る(B。これが無くても文章としては問題ない。

10ἐπισκοποῦντες」を削る写本も存在する(a*, B, 323

î72, A, B, 614, 630)。

3

5:5a 若者たち 3:1‐7 妻と夫たち

5b‐11 みな 3:8‐12 みな

(箴3:24引用) (詩34:13‐17引用)

5章2節と3節は、否定と反意を三回繰り返して論じる構造になっている4

2 ποιμάνατε τὸ ἐν ὑμῖν ποίμνιον τοῦ θεοῦ ἐπισκοποῦντες

μὴ ἀναγκαστῶς

ἀλλ᾽ ἑκουσίως κατὰ θεόν, μηδὲ αἰσχροκερδῶς

ἀλλὰ προθύμως,

3 μηδ᾽ ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου·

他の箇所と同様に、5章1節から5a節までひとつのまとまりと受け取ることができる。ま た長老への訓告は、他の新約聖書文書(及び使徒教父文書)にも確認できるので、この部分 は伝承を用いた可能性も考えられるだろう。ただし、他の箇所と同様にIペトロ書の著者は、

受容した伝承を巧みに書簡に組み込んでいるので、元来の伝承を再抽出することは不可能 である。では、次に同箇所の翻訳を提示し、分析へと進みたい。

1.2 翻訳5

1 あなた方の中の長老たちに6、同じく長老であり、また、キリストの受難の証言者7、将来 に現わされる栄光を共に与る者である私は勧める。

2 あなた方の中にいる8神の〔羊の〕群れを牧しなさい。強いられてではなく、神〔の意思〕

に従い9自発的に見守りなさい10。恥ずべき利得を得るためではなく、喜んで〔しなさい〕。

4 Vgl. Nauck, 200; Forbes, 165.

5丸括弧内は別訳を示し、亀甲括弧内は翻訳上の補い。

6ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第27版までは、「ἐν ὑμῖν」の前に「oun」が本文に採用さ れていた(写本ではî72, A, B, 614, 630。î72を含め、比較的重要な写本を重んじたからだろう。しかし、

28版からはそれが削除され定冠詞「τοὺς」が挿入されている(写本ではa, Y, 623, 2464)。こちらの方 が文法としては正しい。

7î72では「Χριστοῦ」の代わりに「θεοῦ」と記している。î723世紀に記されたと考えられるので、その

時代の神学的理解を反映しているのだろうか。

8口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳「あなたがたにゆだねられている」、共同訳「自分にゆだねられ ている」と意訳。

9複数の写本には「κατὰ θεόν」を記されているが(î72, a2, A, P, Yなど)、これを挿入しない写本も存在す る(B。これが無くても文章としては問題ない。

10ἐπισκοποῦντες」を削る写本も存在する(a*, B, 323

î72を含め,比較的重要な写本を重んじたからだ ろう。しかし,第28版からはそれが削除され定冠詞「τοὺς」が挿入されている(写本では

a

, Y, 623, 2464)。こちらの方が文法としては正しい。

7

5:5a 若者たち 3:1‐7 妻と夫たち

5b‐11 みな 3:8‐12 みな

(箴3:24引用) (詩34:13‐17引用)

5章2節と3節は、否定と反意を三回繰り返して論じる構造になっている4

2 ποιμάνατε τὸ ἐν ὑμῖν ποίμνιον τοῦ θεοῦ ἐπισκοποῦντες

μὴ ἀναγκαστῶς

ἀλλ᾽ ἑκουσίως κατὰ θεόν, μηδὲ αἰσχροκερδῶς

ἀλλὰ προθύμως,

3 μηδ᾽ ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου·

他の箇所と同様に、5章1節から5a節までひとつのまとまりと受け取ることができる。ま た長老への訓告は、他の新約聖書文書(及び使徒教父文書)にも確認できるので、この部分 は伝承を用いた可能性も考えられるだろう。ただし、他の箇所と同様にIペトロ書の著者は、

受容した伝承を巧みに書簡に組み込んでいるので、元来の伝承を再抽出することは不可能 である。では、次に同箇所の翻訳を提示し、分析へと進みたい。

1.2 翻訳5

1 あなた方の中の長老たちに6、同じく長老であり、また、キリストの受難の証言者7、将来 に現わされる栄光を共に与る者である私は勧める。

2 あなた方の中にいる8神の〔羊の〕群れを牧しなさい。強いられてではなく、神〔の意思〕

に従い9自発的に見守りなさい10。恥ずべき利得を得るためではなく、喜んで〔しなさい〕。

4 Vgl. Nauck, 200; Forbes, 165.

5丸括弧内は別訳を示し、亀甲括弧内は翻訳上の補い。

6ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第27版までは、「ἐν ὑμῖν」の前に「oun」が本文に採用さ れていた(写本ではî72, A, B, 614, 630。î72を含め、比較的重要な写本を重んじたからだろう。しかし、

28版からはそれが削除され定冠詞「τοὺς」が挿入されている(写本ではa, Y, 623, 2464)。こちらの方 が文法としては正しい。

7î72では「Χριστοῦ」の代わりに「θεοῦ」と記している。î723世紀に記されたと考えられるので、その

時代の神学的理解を反映しているのだろうか。

8口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳「あなたがたにゆだねられている」、共同訳「自分にゆだねられ ている」と意訳。

9複数の写本には「κατὰ θεόν」を記されているが(î72, a2, A, P, Yなど)、これを挿入しない写本も存在す る(B。これが無くても文章としては問題ない。

10ἐπισκοποῦντες」を削る写本も存在する(a*, B, 323

î72では「Χριστοῦ」の代わりに「θεοῦ」と記している。

5:5a 若者たち 3:1‐7 妻と夫たち

5b‐11 みな 3:8‐12 みな

(箴3:24引用) (詩34:13‐17引用)

5章2節と3節は、否定と反意を三回繰り返して論じる構造になっている4

2 ποιμάνατε τὸ ἐν ὑμῖν ποίμνιον τοῦ θεοῦ ἐπισκοποῦντες

μὴ ἀναγκαστῶς

ἀλλ᾽ ἑκουσίως κατὰ θεόν, μηδὲ αἰσχροκερδῶς

ἀλλὰ προθύμως,

3 μηδ᾽ ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου·

他の箇所と同様に、5章1節から5a節までひとつのまとまりと受け取ることができる。ま た長老への訓告は、他の新約聖書文書(及び使徒教父文書)にも確認できるので、この部分 は伝承を用いた可能性も考えられるだろう。ただし、他の箇所と同様にIペトロ書の著者は、

受容した伝承を巧みに書簡に組み込んでいるので、元来の伝承を再抽出することは不可能 である。では、次に同箇所の翻訳を提示し、分析へと進みたい。

1.2 翻訳5

1 あなた方の中の長老たちに6、同じく長老であり、また、キリストの受難の証言者7、将来 に現わされる栄光を共に与る者である私は勧める。

2 あなた方の中にいる8神の〔羊の〕群れを牧しなさい。強いられてではなく、神〔の意思〕

に従い9自発的に見守りなさい10。恥ずべき利得を得るためではなく、喜んで〔しなさい〕。

4 Vgl. Nauck, 200; Forbes, 165.

5丸括弧内は別訳を示し、亀甲括弧内は翻訳上の補い。

6ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第27版までは、「ἐν ὑμῖν」の前に「oun」が本文に採用さ れていた(写本ではî72, A, B, 614, 630。î72を含め、比較的重要な写本を重んじたからだろう。しかし、

28版からはそれが削除され定冠詞「τοὺς」が挿入されている(写本ではa, Y, 623, 2464)。こちらの方 が文法としては正しい。

7î72では「Χριστοῦ」の代わりに「θεοῦ」と記している。î723世紀に記されたと考えられるので、その

時代の神学的理解を反映しているのだろうか。

8口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳「あなたがたにゆだねられている」、共同訳「自分にゆだねられ ている」と意訳。

9複数の写本には「κατὰ θεόν」を記されているが(î72, a2, A, P, Yなど)、これを挿入しない写本も存在す る(B。これが無くても文章としては問題ない。

10ἐπισκοποῦντες」を削る写本も存在する(a*, B, 323

î723世紀に記されたと考えられるので,

その時代の神学的理解を反映しているのだろうか。

(5)

2  あなた方の中にいる8神の〔羊の〕群れを牧しなさい。強いられてではなく,神〔の 意思〕に従い9自発的に見守りなさい10。恥ずべき利得を得るためではなく,喜んで〔し なさい〕。

3  割り当てられている人たちを力で治めようとせず,むしろ,群れの〔羊たちの〕模 範となりなさい11

4  そうすれば,大牧者が現れるとき,あなたがたは消えることのない栄光の冠を受け ることになる。

5a 同じように,若者たちよ,長老たちに従いなさい。

1.3 分析

長老への言葉は,「(私は)勧める(παρακαλέω)」という動詞によって始められている。

この語句の使用は,おそらく,パウロ書簡からの影響が考えられる(ロマ12 : 1,Iコリ1 : 10 他参照)。書簡の最終章である5章では,二回使用されている(5 : 1,12,2 : 11参照)。「あ なた方の中の(ἐν ὑμῖν)」とあるように(3 : 15,4 : 12,5 : 2参照),この書簡が対象と する小アジアに散在する共同体には,それを指導する存在がいたことを示唆している(後 述2参照)。書簡の送り手は,共同体を導く長老たちにそれぞれ任されたグループの統率 を求めている。

書簡の冒頭句(1 : 1)を除いて,送り手であるペトロ(を称する人物)は,自分が何者 かを語ることはなかった。しかし,ここにおいて「同じく長老」であり,「キリストの受 難の証言者」,「将来に現わされる栄光を共に与る者」と三つの肩書を並べている。自身の 存在を明確に提示した上で,2 : 11と同様に「(私は)勧告する」と一人称で読者に語り 掛け,注意を喚起する。ではなぜ,書簡の終結部分で,再度,自分がペトロであることを 受け取り手に印象付ける文言を挿入したのだろうか。この三つの肩書を詳しく考察して,

この問いの答えを見出したい。

まず,「長老(πρεσβύτερος)」という語句は,新約聖書で度々登場する語句の一つであるが,

それぞれの文脈で意味内容が異なって使われている。ここでは職制としての長老である(後 述2参照)。「同じく長老(συμπρεσβύτερος)」とは,「共に(σύν)」+「長老(πρεσβύτερος)」と

8 口語訳,新共同訳,フランシスコ会訳「あなたがたにゆだねられている」,共同訳「自分にゆだ ねられている」と意訳。

9 複数の写本には「κατὰ θεόν」を記されているが(

3

5:5a 若者たち 3:1‐7 妻と夫たち

5b‐11 みな 3:8‐12 みな

(箴3:24引用) (詩34:13‐17引用)

5章2節と3節は、否定と反意を三回繰り返して論じる構造になっている4

2 ποιμάνατε τὸ ἐν ὑμῖν ποίμνιον τοῦ θεοῦ ἐπισκοποῦντες

μὴ ἀναγκαστῶς

ἀλλ᾽ ἑκουσίως κατὰ θεόν, μηδὲ αἰσχροκερδῶς

ἀλλὰ προθύμως,

3 μηδ᾽ ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου·

他の箇所と同様に、5章1節から5a節までひとつのまとまりと受け取ることができる。ま た長老への訓告は、他の新約聖書文書(及び使徒教父文書)にも確認できるので、この部分 は伝承を用いた可能性も考えられるだろう。ただし、他の箇所と同様にIペトロ書の著者は、

受容した伝承を巧みに書簡に組み込んでいるので、元来の伝承を再抽出することは不可能 である。では、次に同箇所の翻訳を提示し、分析へと進みたい。

1.2 翻訳5

1 あなた方の中の長老たちに6、同じく長老であり、また、キリストの受難の証言者7、将来 に現わされる栄光を共に与る者である私は勧める。

2 あなた方の中にいる8神の〔羊の〕群れを牧しなさい。強いられてではなく、神〔の意思〕

に従い9自発的に見守りなさい10。恥ずべき利得を得るためではなく、喜んで〔しなさい〕。

4 Vgl. Nauck, 200; Forbes, 165.

5 丸括弧内は別訳を示し、亀甲括弧内は翻訳上の補い。

6 ネストレ=アーラント・ギリシア語新約聖書の第27版までは、「ἐν ὑμῖν」の前に「oun」が本文に採用さ れていた(写本ではî72, A, B, 614, 630。î72を含め、比較的重要な写本を重んじたからだろう。しかし、

28版からはそれが削除され定冠詞「τοὺς」が挿入されている(写本ではa, Y, 623, 2464)。こちらの方 が文法としては正しい。

7 î72では「Χριστοῦ」の代わりに「θεοῦ」と記している。î723世紀に記されたと考えられるので、その

時代の神学的理解を反映しているのだろうか。

8 口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳「あなたがたにゆだねられている」、共同訳「自分にゆだねられ ている」と意訳。

9 複数の写本には「κατὰ θεόν」を記されているが(î72, a2, A, P, Yなど)、これを挿入しない写本も存在す る(B。これが無くても文章としては問題ない。

10ἐπισκοποῦντες」を削る写本も存在する(a*, B, 323

î72,

a

2, A, P, Yなど),これを挿入しない写本も 存在する(B)。これが無くても文章としては問題ない。

10 「ἐπισκοποῦντες」を削る写本も存在する(

a

*, B, 323)。

11 写本B3節全体を削除している。脱落したのだろうか。

(6)

いう合成語である。書簡の送り手であるペトロは,共同体の職位の一つであり,おそらく その指導的立場に任じられた長老と,自身が同じであることを示している。だが,ここで さらなる疑問が生じてくる。この手紙の冒頭には「イエス・キリストの使徒ペトロ

(Πέτρος ἀπόστολος Ἰησοῦ Χριστου)」とあり,送り手は「使徒」であることを強調しているが,

この箇所では自らも長老の一人であると語り掛けている。この点に関して辻は,「長老が 今や,使徒がかつて担った務めを果たすべき存在であることが示される」と説明する が12,使徒と長老とは当時の教会の職位理解では異なっていると思われる(使15 : 2,4,6,

16 : 4,エフェ4 : 11参照)。また,グルーデムはペトロ自身が高ぶっているように見え

ないよう,謙遜さを示して同じく長老であると告げたと理解している13。確かに,これ以 後の記述は,長老(と若者)の慎み深さが一つの主題となっている(5 : 3,5参照)。だが,

この自称の使用は,書簡の受け取り手との関係性を重視していると思われる。つまり,読 者との一体感を意識して用いられたのだろう14。この肩書は,書簡の送り手であるペトロ

(を称する人物)と,各共同体を任された長老たちとの結びつきを強める効果を与えてい るように思える15

「同じく長老」に続く「キリストの受難の証言者」という自称も,このような一体感を 含意している。苦難の中にある読者と同じように,自身もキリストの苦難の証人であるこ とを印象付けている。書簡の終結部分で長老たちに命じる際,この手紙の書き手はその受 け取り手への親密さを示している。そのためにもう一度,送り手は自身がペトロであるこ とを読者に意識させ,自分も同じような状況にある者としての連帯感を高めつつ,彼,彼 女らを戒め,かつ鼓舞する。使徒ペトロも読者と同じような立場に「共に(σύν)」あるこ とを訴えている。

次に,「キリストの受難の証言者(μάρτυς τῶν τοῦ Χριστοῦ παθημάτων)」とは何を意味す るのだろうか。ここでは,イエス・キリストの受難を目撃したことを意図しているのか(II

ペト1 : 16参照)16。「証言者,証人(μάρτυς)」とは,「目撃者」「(見たり,聞いたりしたこ

12 辻(2000),695頁。

13 Grudem, 193(グルーデム,209頁).

14 同じような見解はブロックス。Brox, 228f(ブロックス,314頁)。ただし,ブロックスは戒告を 告げる者と受ける者が一体であること(Verbundenheit)をここでは確保しようしていると説明す る。だが,戒告自体が問題ではなく,読者と運命を共にする連帯意識がこの箇所ではより本質的 な問題である。

15 パウロは,自分が「使徒」という特別な存在であると度々強調する(ロマ1 : 1,11 : 3,Iコリ1 : 1,

9 : 1,15 : 9他)。彼の偽名書簡も同様である(コロ1 : 1,Iテモ1 : 1,7他)。しかし,自分や

その他のメンバーを教会の働きに加わる「協力者,同労者(συνεργός)」であるとも述べている(ロ 16 : 3,9,21,Iコリ3 : 9, IIコリ1 : 24,8 : 23,フィリ2 : 25,4 : 3,Iテサ3 : 2,フィレ1,

24)。

16 Vgl. Selwyn, 228 ; Dubis (2002), 104-107 ; ders. (2010), 159. しかし,マルコ福音書1450節で

(7)

とについて)証言に立つ者」という意味も含んでおり17,この語句を「目撃者」と解する ならば,イエスの苦しむ姿を実際に目の前にしたと証しするペトロが,この手紙を書き記 したという書簡の真筆性を高める意図がうかがえる。しかし,Iペトロ書では度々,イエ スの受苦の姿を模範として示していることに注目しなければならない(2 : 21-23,3 : 18)。

ここでペトロの名を借りる送り手は,イエスの受難を目撃したことを主張するのではなく,

むしろ送り手自身もイエスと同様の艱難に耐え,それを証していることを訴えているので はなかろうか。「証言者(μάρτυς)」とは,生き方(やその死に様)を通して人々に模範を 示す証人(殉教者)という意味と受け取るべきであろう18。ペトロ(を称する送り手)は,

イエスの苦しみに倣い同じように受苦する,その生き方を読者らに訴えている19。 だが,受難の証のみを力説するのではなく,将来の希望も同時に語り掛ける。終末時,「将 来に現わされる栄光(μελλούσης ἀποκαλύπτεσθαι δόξης)」を授かるために,現在の苦難を甘 受すべきであると示唆している。近い将来,栄光が確実に現わされることを強調し,その 栄光を共に受け,参与すること(κοινωνός)が読者らには許されている。苦しみへの参与 だけではなく,栄光に与ることも同時に明言されている。このような約束は,書簡の冒頭 から度々繰り返されている20。「受難」と「栄光」の組み合わせは,1章11節ですでに預言 者の証として語られているように(4 : 13,14も参照),この書簡全体を貫く主旋律となっ ている。

続いて2節からは,長老への具体的な指示が与えられる。「牧しなさい(ποιμάνατε)」と いう動詞は,新約聖書ではあまり登場しないが,通常は羊を飼育することを意味する。ヨ ハネ福音書では,復活後のイエスはペトロ(シモン・ペトロ)に対して,「私の羊を牧し なさい(ποίμαινε τὰ πρόβατά μου)」と命じている(ヨハ21 : 16)。ペトロと同じような長 老は,牧者のような存在として,信徒の群れを導くことが訴えられている21。その姿は牧

はペトロを含め弟子たちの全員が逃げたと伝えられている。また同66節からはペトロの裏切り の姿が描かれている。実際,ペトロがイエスの受難を目の当たりにしたのか疑問が残る。田川,

328頁参照。

17 Bauer, 1000-1002. 法廷での事実を証言する者の意味としては,例えば以下,申17 : 6,19 : 15,

マタ18 : 16,IIコリ13 : 1,Iテモ5 : 19他。とりわけルカ文書では,この語句は重要な働きを担っ ている。復活後のイエスは,死と復活の証人として弟子たちを宣教へと派遣する(ルカ24 : 48)。

事実,その後,弟子たちは証人となる(使1 : 8他多数)。

18 Iクレ5 : 4では殉教者としてのペトロについて,以下のような記述が残されている。「ペトロは

不正な嫉妬のために,一度や二度だけではなく,度々の苦しみを耐え抜き,このような証を立て

(μαρτυρήσας),相応しい栄光の場へと赴いた」。Vgl. Beare, 172.

19 「自ら我が身に苦難を経験するという形でのキリストの受難の参与」が問題であるとブロックス は指摘する。Brox, 229(ブロックス,315頁)。Vgl. Schweizer (1972), 98 ; Vahrenhorst, 188. 同様 に速水,429頁参照。

20 Iペト1 : 7,11,21,4 : 13,14,5 : 4,10参照。

21 Iクレ16 : 1,44 : 3,54 : 2,57 : 2,ポリ手紙6 : 1,イグ・ロマ9 : 1,イグ・フィラ2 : 1参照。

(8)

者として羊を養うキリストの比喩を思い出させる(ヨハ10 : 7以下)22。「ποίμνιον」は単な る「群れ」であるが,本訳では「羊の」と補って訳した。キリスト教の共同体を群れと呼 ぶのは,ルカ文書で用いられている表現である(ルカ12 : 32)。パウロは,エフェソにい る長老たちとの別れの際,「群れに気を配れ」と命じている(使20 : 28-29)。

この群れは単なる烏合の衆ではなく,「神の(τοῦ θεοῦ)」という属格が示しているように,

本来,神が有している群れである。長老にはその群れを神から任され,守り育てる大切な 役割が与えられている23。2節では畳みかけるように,その群れを「見守りなさい

(ἐπισκοποῦντες)」と続けられる。「見守る」「配慮する」「世話をする」と訳すことのでき る「ἐπισκοπέω」は,新約聖書ではこの箇所とヘブライ書12章15節のみに用いられてい る24。ここでは羊の群れを束ね,間違った方向に向かないように導くことを意図し,「見守 る 」 と 解 し た。 そ れ を「 強 い ら れ て(ἀναγκαστῶς)」 す る の で は な く「 自 発 的 に

(ἑκουσίως)」行うことが促される。ここは解釈が困難な箇所の一つである。群れを牧する 行いを,強制的にさせられていた事実を間接的に示しているのだろうか25。または,「長老 の選出と任命という過程」を指しているだろうか26。共同体の長老職を選ぶ際に,強いら れて(嫌々ながら)選出された者がかつていたのだろうか27。この短い箇所からはその事 実を裏付ける根拠を得ることはできないが,いずれにせよ,長老という職務は進んで行う べきであることを促している。

続いて「κατὰ θεόν」とある。本訳では「神〔の意志〕に従い」と補って訳したが28,実際,

この語句の理解も困難である29。「κατὰ θεόν」は,Iペトロ書では4章6節にも見出せるが,

別な意味として用いられている。「人間として肉においては裁かれても,霊においては神 の よ う に 生 き る た め で あ る(ἵνα κριθῶσιν μὲν κατὰ ἀνθρώπους σαρκί, ζῶσιν δὲ κατὰ θεὸν πνεύματι)」。この箇所では,限界のある「人間として(κατὰ ἀνθρώπους)」裁きを受ける存 在と理解し,後者は類似の意味で「神のように」と理解すべきだろう。

本訳では「神〔の意志〕に従い」と補って訳したのは,この手紙では度々,「神の意思 22 旧約聖書において,神とイスラエルは牧者と羊の関係で比喩的に語られる。エレ23 : 1-4,エゼ

34,ゼカ11 : 4-17他参照。その他,クムラン文書でも確認できる(CD XIII, 7-12)。

23 エフェ4 : 11には「使徒,預言者,福音宣教者」に続いて「牧者(ποιμήν)」と「教師」という役

職が記されている。

24 共同訳「面倒をみなさい」,新共同訳,新改訳「世話をしなさい」。

25 同様の疑問は田川,329頁。

26 辻(2000),696頁。

27 それゆえ,塚本はこの語句を「不承不承でなく」と訳している。

28 口語訳,前田訳,共同訳,新共同訳,岩波訳,新改訳では「神に従い」参照。

29 例えば,塚本訳「神のように」,田川訳「神に応じて」,岩隈訳「神の気に入るように」,フラン シスコ会訳「神の御旨に従って」と解釈がそれぞれ異なる。他にも,「神が喜んで自分の民の世 話をするのと同じように献身的に」という意味であると速水は解説している。速水,429頁。

(9)

(θέλημα τοῦ θεου)」を強調しているからである(2 : 15,3 : 17,4 : 2,19)30。人の思いや 意思ではなく,神の計画(予知)やその意思を念頭に置き,群れを牧することを訴えてい るのではないだろうか。神の群れを見守るのは人間の業では決してなく,本来的に神の業 であることを送り手は教えていると思われる。

さらに,群れを見守る行為を「恥ずべき利得を得るためではなく,喜んで」行うことが 奨励される。「恥ずべき利益を得る(αἰσχροκερδῶς)」とあるが,Iペトロ書が書かれた当時,

己の利益のために長老職を担う者が存在してことを間接的に語っているのだろう。Iテモ テ書5章17節には,立派に指導している長老は,二倍の「報酬(τιμή)」を受けるべきだ と教えている31。当時の長老職には「言葉と教え」に従事し,その働きに応じて,何らか の報酬が払われていたのだろう。このような報酬を目当てにして,長老職を誤用する者が いたのだろうか。この後の3節にも「力で治めようとせず」とあるので,やはり金銭欲に 駆られ,己のことだけを第一に考える権威主義的な長老が存在しており,手紙の送り手は そのような存在を厳しく咎める必要があったのだろう32

続く3節においても,誤った指導者を強く牽制する。「κλῆρος」の複数形として「割り 当てられている人たち」という語句が用いられている(使1 : 17参照)33。長老にそれぞれ 任されている共同体のことを指すのだろう34。「κλῆρος」の元々の意味は「籤で当たった分 け前」であり,担当する共同体は自身の希望ではなく指定されたものであった可能性が考 えられる35。それゆえに,仕方なしに担うべきではなく(5 : 2),命じられたものとして責

30 1 : 2では「神の予知によって(κατὰ πρόγνωσιν θεοῦ)」とある。シュナイダーも「神の意思(Gottes

Willen)」と補って訳している。Schneider, 87(シュナイダー,207頁)。ブロックスは「神の委託

によって(Gottes Auftrag)」。Brox, 225(ブロックス,309頁)。他にもシュヴァイツァーは「wie Gott es will」。Schweizer (1972), 97. Vgl. Vahrenhorst, 189.

31 Dibelius/ Conzelman, 61. 辻はIテモテ書53節の「τιμάω」との関係から,「報酬」ではなく二 倍の「尊敬」と解する。「金銭的報酬に値するほどの大きな尊敬という意味であり,数値上厳密 な意味での『2倍の報酬』ということではない。」辻(1997),15頁。土屋も同様に「尊敬」と理 解する。土屋,78頁。しかし,「働き手はその報いを受ける」という18節との繋がりを鑑みれば,

やはり報酬でも問題ないと思われる。同意見は川島(1991),313頁。Vgl. Dibelius/ Conzelmann, 61 ; Johnson, 277f ; Roloff, 308f.

32 Iテモ3 : 1-7の「監督(ἐπισκοπή)」に対する訓戒でも,金銭欲に厳しく咎めている。テト1 : 5-9,

ディダケー15 : 1参照。

33 Vgl. Foerster, ThWNT, III, 763. 口語訳「ゆだねられた者たち」,共同訳「自分にゆだねられている 人々」,新共同訳「ゆだねられている人々」と意訳する。

34 Iペトロ書の理解では,割り当てられた個々の共同体を統括するのは,牧者であり,監督者とし てのキリストである(2 : 25)。

35 使徒の選出は籤で決定し(使1 : 26),パウロらは長老たちを任命したとあるが(使14 : 23),こ の共同体の割り当てをどのように決めたのかはここからは明らかではない。ナウクは「κλῆρος」

の語意を詳細に検討しており,それは「位階(Rangplätze)」を意味すると解している。Nauck,

211. しかし,このIペト5 : 3の文脈では,いささか不自然のように思える。ここでは地位の問

題を論じているのではなく,長老という職務のあり方である。Vgl. Schweizer (1959), 101, Anm.

(10)

任をもって担当すべきである。その際,任された群れを「力で治める(κατακυριεύω)」こ とはせずに,むしろ,群れの模範となることが勧められる。実際,長老の中には力を用い て組織を統率しようとした者がいたのだろうか。書き手はこのような誤った行為に釘を刺 す。この「模範(τύπος)」という語句は,新約聖書の文書において,共同体内の倫理的規 範に則る生き方を示す際の術語となっている(フィリ3 : 7,Iテサ1 : 7,IIテサ4 : 12,

Iテモ4 : 12,テト2 : 7参照)36。上に立つ者の定めは支配することではなく(IIコリ1 : 24 参照),成員に対して生き方の手本を示すことであると教えられている。Iペトロ書では しばしば訓戒を提示する際,模範的な存在を例として挙げている。たとえば,奴隷に対し てはキリストの受難(2 : 21以下),妻に対してはサラを挙げている(3 : 6)。

このような一見して厳しい訓戒を長老らに告げたのは,次に見るようにそれなりの理由 があるからだ。長老たちは,大牧者,つまり,キリストの到来時に栄光を受けるためであ る。「大牧者(ἀρχιποίμην)」は,Iペトロ書のみに存在する語句であり37,これも同書簡で度々 確認できる合成語のひとつである。最も偉大なる牧者(ποιμήν)が,すなわちキリストで あることは,2章25節ですでに読者に伝えられている。栄光を受けることについても,

この手紙でしばしば約束されているが,「栄光の冠」という表現はこの箇所のみに登場する。

ただし,他の新約聖書文書では,終末時に受ける誇りや朽ちない冠について語られてい る38。然るべき長老たちが受ける栄光の冠は,勝利者の頭上に掲げられた冠の如く輝いて いる。「消えることのない(ἀμαράντινος)」栄光の冠とは(1 : 4参照),いささか大げさに 思える表現だか39,同書簡では時にこのような形容詞などで修飾して,その偉大さや尊さ を際立たせる傾向にある(1 : 4他参照)。苦しみに耐え抜き,勝利を獲得した競技者と同様,

苦難に忍耐した者は勝利の栄冠を受けることができる40。まさにこの冠こそ,選ばれた者 のみに与えられる神からの報酬(τιμή)である。

422(シュヴァイツァー,174頁,注8)。

36 I,IIテモテ書においては「τύπος」のみならず,「手本(ὑποτύπωσις)」という語句も用いつつ,読

者に対してパウロに倣う生き方を勧めている(Iテモ1 : 16,IIテモ1 : 13)。

37 類似した語句としてヘブ13 : 20。

38 Iテサ2 : 19,Iコリ9 : 25,IIテモ4 : 8,ヤコ1 : 12,黙2 : 10他参照。他にもユダヤ教黙示文 学などに終末時に「冠」を受ける記述が見られる。シリ・バル黙15 : 8,遺レビ8 : 2,遺ベニ4 : 1,

イザ昇11 : 40,1QS IV, 7,1QH IX, 25参照。

39 口語訳,共同訳,新共同訳,フランシスコ会訳,新改訳他「しぼむことのない」,岩波訳「しお れることのない」と訳すが,この形容詞は「冠」にかかっているので,おそらく当時の競技の勝 利者に与えられた冠は植物で編まれていたので,枯れることのない冠という訳が正しいかもしれ ない。Vgl. Grundmann, ThWNT, VII, 630. しかし,ここでは原語のニュアンスをそのまま訳し「消 えることのない」とした。研究者の間では,「ἀμαράντινος」が植物「アマランサス」の冠を指して いるという指摘があるが,明らかではない。Vgl. Selwyn, 233 ; Michaels, 288. 宮平,214頁参照。

40 Vgl. Achtemeier, 330.

(11)

そして,この単元の最後,5節aでは「若者たちよ(νεώτεροι)」と呼び掛け,長老から 若者たちへの勧告に移る。「同じように(ὁμοίως)」は,別なグループに対象を向ける際,

この手紙で用いられる言い回しである(3 : 1,7参照)41。「若者(νέος)」の理解について,

研究者の間で意見が分かれている。① ここでは単に年齢的に「若い人」たちのことを指 すのか42。② 入信して間もない信徒を指しているのだろうか43。③ それとも教会の指導 者である長老に対してそれに従う一般信徒のことを指すのだろうか(田川訳「平信 徒」)44。④ または,5節aの「πρεσβύτερος」だけは,これまでの職位を指す「長老」では なく,「老人」を指すのだろうか45

まず,他の聖書個所ではどのように記されているか見てみよう。Iテモテ書5章1-2節 では男性の年長者(πρεσβύτερος)の後に年少者(νέος),そして年長女性,年少女性それぞ れに対して勧めの言葉が残されている46。ここでは,「πρεσβύτερος」は年長者を指しており,

教会の職位を意味する「長老」ではない47。教会での様々な年齢層や身分の構成員に対す る指示を記している。また,テトス書2章6節においても年をとった男性と女性の後(同 2 : 2,3),年齢的に若い男性に対する戒めの言葉を記している。こちらも共同体内の年齢 の異なる構成員に向けた勧告である。Iテモテ書3章1-13節,5章17-20節(テト1 : 5-9)

と類似する形で,ポリュカルポスの手紙5章と6章では執事(διάκονος),若者(νέος),長 老(πρεσβύτερος)の順番で同種の訓戒が示されている48。この訓戒も教会内での年若いグルー プに向けたものと受け取れる49

では,Iペトロ書も同様に年齢的に若い人たちのことを指しているだろうか。教会の指

41 イグ・トラ3 : 1,ポリ手紙5 : 2,3参照。

42 Vgl. Schelkle, 130 ; Dubis (2010), 163f ; Forbes, 170.

43 Vgl. Elliott, 838-840.

44 Vgl. Windisch, 79 ; Goppelt, 331 ; Feldmeier, 159 ; Vahrenhorst, 192 ; Achtemeier, 331 ; Michaels, 289.

45 Vgl. Selwyn, 233 ; Kelly, 204f. 確かに,このように理解すれば,年齢の重ねた者と若者とが対にな る。

46 長谷川と樋脇の考察に従えば,ローマ帝国の平均寿命が20歳から25歳と考えられている。当時 はゼロ歳児の死亡率が極めて高かったので(約3割),それが平均寿命を押し下げている。平均 年齢は27歳ぐらいであり,20歳未満の男性は全体の約45%,60歳以上の男性は4, 8%に満たな いので,ローマ帝国は若い社会と言える。長谷川/樋脇,209-224頁,樋脇,72-80頁参照。ロー マ帝国の人口比率はそのまま初期キリスト教内にあてはまるので,ここで述べる年長者とは現代 で言えば40歳ぐらいの壮年ではなかろうか。

47 Iテモ5 : 17でも同じ語句の「πρεσβύτερος」が用いられているが,ここでは教会の長老に関する

言及であり,5 : 1と区別している。土屋,74,78頁参照。レビ19 : 32(LXX)でも年長者に尊 敬の念を示せと教えている。「ἀπὸ προσώπου πολιοῦ ἐξαναστήσῃ καὶ τιμήσεις πρόσωπον πρεσβυτέρο」。

48  Iクレ1 : 3,21 : 6参照。

49  Iクレ3 : 3には若者(νέος)が年配の者(πρεσβύτερος)に逆らったとある。長老への反発は同

47 : 6。

(12)

導者層は当時の家父長制の慣習から考えれば年齢的に高い人物が選出されたとも想像でき るが50,しかし,長老がすなわち年長者であるとはっきりと断定はできない。Iペトロ章5 章5節aは,先に見たIテモテ書5章1節以下にあるような,共同体の様々な年齢層への 訓戒ではない。あくまで長老への訓告に続く文脈であり,長老とそれ以外の人々を意図し ていると受け取るのが自然である。それゆえ,ここでは,共同体内の若年層だけを意味す るのではなく,③ 信徒全般を指していると思われる(無論,そこに若者も含まれるだろう)。

若者らへの「従いなさい(ὑποτάγητε)」という命令形は,Iペトロ書2章13節において も使われているが,動詞「ὑποτάσσω」は分詞として同2 : 18,3 : 1,5,22において使わ れている(ポリ手紙5 : 3参照)。奴隷が主人に,妻が夫に従うように,教会の成員全般も その指導者である長老に従属すべきと教える。そして,5節bからは長老と信者一般を含 む全ての人に向けた訓告へと続く。

2 新約聖書文書における長老の役割

次に新約聖書文書で言及されている長老の役割について考えたい51。先述したように,

長老(πρεσβύτερος)という語句は様々な用いられた方を新約聖書文書(及び使徒教父文書)

ではされている52。主に以下の五つに分類できるだろう。

①  「年長者」「父祖」: 年齢が上の存在である「年長者」「老人」という意味で用いられ ている53。または,先代としての「父祖」という意味にも使われている54

②  ユダヤ教の長老: 地域共同体の指導的立場の者55,またはシナゴーグの指導者やエ ルサレムの最高法院(サンヘドリン)に属するユダヤ人の長老を指して使われてい る56

50 「老人」を意味する「πρεσβύτερος」という語句を教会の職位として導入した背景について考える べきという意見もある。「(教会の)役職の名称は日常の用語からかけ離れた特殊な言葉でないこ とを,ここでも想起すべきであろう。」土屋,181頁,注4。

51 新 約 聖 書 で は 計65回 使 用 さ れ て い る。 長 老 に つ い て の 詳 細 な 解 説 は 以 下。Bauer, 1402f ; Bronkamm, ThWNT, VI, 651-683 ; Rohde, EWNT, 356-359(ローデ,181-183頁)。松見,21-36頁。

52 ユダヤ教文献における長老については,以下に詳しい。Bronkamm, ThWNT, IV, 655-661 ; Camp- bell, 20-66. 松見,48-58頁。

53 ルカ15 : 25「年上の息子(ὁ υἱὸς αὐτοῦ ὁ πρεσβύτερος)」,使2 : 17(ヨエ3 : 1の引用),ヨハ8 : 9,

Iテモ5 : 1,2(πρεσβύτέρα),創18 : 11-12,19 : 4他。

54 「父祖たちの言い伝え」: マタ15 : 2,マコ7 : 3-5。ヘブ11 : 2以降では信仰の証人として,アベ ル,エノク,ノア,アブラハムなどの名が列挙されている。

55 ルカ7 : 3,ヨシュ20 : 4,ルツ4 : 2,ユディ8 : 10,10 : 6。

56 マタ16 : 21,マコ8 : 31,ルカ9 : 22,22 : 52,使4 : 5,23,6 : 12他。クムラン宗団にも共同

(13)

③  教会の指導者としての長老: 主に使徒言行録では,エルサレムを中心とした初代教 会において指導的存在であった長老について記されている57

④  教会の職務としての長老: 新約文書の中で比較的後期に成立したと考えられる書 簡では,職制としての長老について言及している58。Iペトロ書5章1節以下もこの 職務の呼び名として長老について記している。

⑤  天的存在としての長老: ヨハネ黙示録では天上の礼拝に集い,四頭の生き物と共に 玉座を前にする24人の長老について語られている59

本稿では ④ 「教会の職務としての長老」について考察すべきだが,まず,③ 「教会の 指導者としての長老」について考えてみたい。使徒言行録では使徒の他に,教会の運営を 司る長老の存在が示唆されている。11章30節ではアンティオキア教会のメンバーが,パ ウロとバルナバを通してエルサレム教会の長老たちに援助を送ったと記されている。この 箇所からは,この長老が具体的に誰を指しているのか分からない。続いて14章23節では パウロはバルナバと共に,リュストラ,イコニオン,アンティオキアの伝道の際,「教会 ごとに長老たちを任命し(χειροτονήσαντες δὲ αὐτοῖς κατ᾽ ἐκκλησίαν πρεσβυτέρους)」たとある。

そして,パウロらは「彼らを主に委ねた」とある。使徒言行録の記述に従えば,パウロら が長老を選び,教会の運営を彼らに任せたと考えられる。しかし,ここで問題となるのは,

パウロはその書簡で長老について一度も言及していないことである。従ってこの記述は,

長老という職務が存在していた当時の教会制度に沿って,ルカが創作したと考えられるだ ろう(20 : 17も同様)60

さらに,15章に収められているエルサレム使徒会議の報告には,長老たちが再び登場 する。パウロとバルナバとその他の者が,エルサレム教会にいる使徒たちと長老たちを訪 ねる(15 : 2,4,6,22,23,16 : 4)。これらの箇所には「使徒たちと長老たち」という 順で記されているので,後者は前者より地位が低い存在であったことがうかがえる。使徒 会議においては,使徒であるペトロや主の兄弟ヤコブが主に発言しており,長老は会議の

体の指導者たる監督が存在していた(CD XIII,1-22, XIV, 9-11)。

57 使11 : 30,14 : 23,15 : 2,4,6,16 : 4,20 : 17他。IIヨハ1 : 1,IIIヨハ1 : 1に記された書 簡の送り手である長老も,職制としてのそれではなく,ヨハネ共同体の指導的立場を指す存在と 考えられる。

58 Iテモ5 : 17,テト1 : 5,ヤコ5 : 14,Iクレ57 : 1他。

59 4 : 4,10,5 : 5-14,7 : 11,13,11 : 16,14 : 3,19 : 4。長老は天使のような天的存在とし て神を礼拝する。佐竹(2009),229-223頁参照。

60 ルカ文書の年代を80年から90年とすれば,この時期にはすでに各共同体を担う長老という職務 が存在していたことになるだろう。荒井(2014),278頁参照。

(14)

主導権を握ってはいない61。また,20章17節には,エルサレム教会ではなくエフェソ教会 における長老について言及される。ここで,パウロは長老たちに別れの辞を述べる。長老 たちの責務は,群れに心を砕き,牧者として凶暴な狼が群れに入り込んだ時,それを守る ことであると教える。この箇所でパウロは「群れの監督者(ἐπίσκοπος)」を定めたとあるが,

後述する教会の職位としての監督ではなく,おそらく長老と同義で用いていると思われ る62。さらに,21章18節では再びヤコブと共にエルサレム教会の長老たちが登場する。こ の箇所ではもはや「使徒たち」について語られない。

以上,見てきたように,使徒言行録では次に取り上げる牧会書簡にあるような,確固と した職制としての長老について記してはいない。ここでは,エルサレムやエフェソなどの 各共同体における指導的存在を長老と呼んでいたことが記されているだけである。

次に ④ 「教会の職務としての長老」の考察に移ろう。ここでは,③ 「教会の指導者と しての長老」と比べると,より発展した教会制度内の長老の立場を確認できる。主に牧会 書簡と公同書簡において用いられる「長老」について,個々の箇所を詳しく検討してみた い。

牧会書簡と呼ばれているIテモテ書,IIテモテ書,テトス書は,いずれも2世紀初頭に 成立したパウロの名による偽名書簡である。これらは教会制度が次第に確立していった時 期に記された文書であり,そこには組織化されつつあった教会への具体的な指示が残され ている。牧会書簡は,テモテとテトスという個人に向けた私信の形を有している。本稿で 扱うIペトロ書とおおよそ同時代に成立した文書群であり(Iペトロ書の方が成立は早い),

同書簡の長老を理解する上で,これらの書における長老に関する記述を確かめるのは有益 であろう。

長老については,Iテモテ書とテトス書で語られている。Iテモテ書では,教会に入り 込んだ異端の教えを排斥するように呼び掛けられ(1 : 3-20,4 : 1-16,6 : 3-21),それに 挟まれる形で教会制度に関する指示とその成員への教えが示されている(2 : 1-3 : 16,

5 : 1-6 : 2)。まず,Iテモ4 : 14では,複数の長老たちの集まりと思われる「長老団

(πρεσβυτέριον)」という集団について示唆されている63。テモテへの賜物(χάρισμα)は,こ の長老団の按手の際,預言の言葉を通して与えられたとする。按手の執行は,長老たちの

61 荒井(2014),288-289頁参照。

62 荒井(2016),106頁参照。

63 共同訳,新共同訳では「長老たち」。2世紀に生きたアンティオキアの監督イグナティオスの書簡 では,長老団の職権を強調している(イグ・エフェ2 : 2,4 : 1,20 : 2,イグ・マグ2 : 1,

13 : 1,イグ・トラ2 : 2,7 : 2,13 : 2,イグ・フィラ4 : 1,5 : 1,7 : 1,イグ・スミ8 : 1,

12 : 2)。ただし,Iテモテ書には,このような制度として確定された長老団が存在していたとは

思えない。辻(2004),70-71頁。

参照

関連したドキュメント

quarant’annni dopo l’intervento della salvezza Indagini, restauri, riflessioni, Quaderni dell’Ufficio e Laboratorio Restauri di Firenze—Polo Museale della Toscana—, N.1,

 大正期の詩壇の一つの特色は,民衆詩派の活 躍にあった。福田正夫・白鳥省吾らの民衆詩派

現実感のもてる問題場面からスタートし,問題 場面を自らの考えや表現を用いて表し,教師の

[r]

Kuntze, Carl Ernst Otto (1891) Revisio Generum Plantarum: vascularium omnium atque cellularium multarum secundum leges nomeclaturae internationales cum enumeratione plantarum

雑誌名 金沢大学日本史学研究室紀要: Bulletin of the Department of Japanese History Faculty of Letters Kanazawa University.

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

記述内容は,日付,練習時間,練習内容,来 訪者,紅白戦結果,部員の状況,話し合いの内