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徳永直にみる働く青年の思想形成
大 串 隆 吉
1.徳永直をとりあげる意義と課題について
ここでとりあげる徳永直は,1899年熊本県で生まれ,労働運動史上有名な 1926年の共同印刷争議に参加し,それを題材とした小説「太陽のない街」を 1929年r戦旗』に発表して,労働者出身のプロレタリア作家として一・躍脚光を あびた。彼の青年時代は,戦前における労働運動の向揚期にあたっている。徳 永のように1900年前後に生まれ,青年時代に労働運動の活動家となった者は少 なくない。徳永と同じ年に生まれた労働者には,日本労働組合評議会で活躍し た渡辺政之輔,谷口善太郎,金子健太がおり,少しのちに生まれた者には,共 青初代委員長川合義虎(1902年生まれ),京都西陣の労働者で谷口と共に活躍 した国領伍一郎(1902年生まれ),総同盟本部常任中央委員となった徳永正報
(1901年生まれ)等がいた。
また,学生出身でも,この頃生まれ社会主義者になったものには次のような 人がいる。野呂栄太郎(1900年生まれ),戦後社会党書記長となった浅沼稲次 郎(1898年生まれ),著名なプロレタリア作家小林多喜二(1903年生まれ),で
ある。
彼等は,社会主義協会の結成に参加した堺利彦(1871年生まれ),平民社に 参加した荒畑寒村(1877年生まれ),大杉栄(1884年生まれ)等よりひとまわ り以上若く,平民社が創設された頃はまだ学齢以前であり,小学校卒業時が第 一次大戦勃発前後だった。そして,彼等の青年時代は大正デモクラシーの高揚
期であった。したがって彼等の思想形成を分析することは,大正デモクラシー の思想を主体的に受けとめていく民衆の思想形成をあきらかにすることにな る。すでに,私は,「大正期自由教育と青年会自主化運動」で,長野県下伊那
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の限られた地域の農村青年に即して,それをあきらかにしようとした。ここで は,労働者を対象にして,それを試みたい。
徳永直をとりあげる理由は,彼が自伝的小説や思い出を残していて,検討す る素材があるからであるが,もちろんそれだけではない。渡辺,谷口,徳永 は,尋常小学校卒業前から労働生活に入るという共通経験をもち,また川合義 虎のように親も労働者であった二代目労働者ではなく,親は農民あるいは農村 の職人であり,労働者階級の増大と共に工場に吸いよせられた一代目労働者だ った。その点で,村に定住した青年と対比すれば,当時の青年の進路の一方を 代表していた。
また,徳永は,二村一人が「労働者全体の傾向を反映しているに過ぎないの か,必ずしも明らかでないが」と,ことわりながら,「組合活動家には中途退学 者,進学断念者が多い」と指摘した特徴を持っていた(1)。すなわち,徳永は,
当時の労働者の教育歴の面(2),都市への流入一一代目労働者という進路の面 で組合活動家の特徴の面を代表していたと考えられるからである。
ところで,徳永は,プロレタリア作家として脚光をあびたけれども,他面で 私的生活の充実に強い欲求をもつようになった。後者の点は,当時ようやく日 本の労働者に生まれてきていたものであって(3),こんにちでは一般的になって いることは周知の事実である。そして,私的生活の充実をめざす意識は,政治 意識のあいまいさ,消極性と労働現場の変革意識の消極性をまねいていること が指摘されている(4)。徳永のもっていた私的生活充実の関心は,この点から考 えると,過去の問題ではなくなってくる。この点も,徳永をとりあげる理由で
ある。
徳永は,自伝的小説,思い出を共同印刷時代の年から書きはじめており,そ の一覧は以下のとおりである。
題 名1初出年汲び蝋蔽1対 象 、
馬 年譜では、925鞭合機関紙に・4歳嚇 i
、一あ勤者⊥塑絶て唾__聖墨印刷工場の時期.一..一一[
1
11927年,『約束手形三千八百円 悪党になれぬ男
23歳の時 [也』改造社1930年に発表
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ヵ・・さ撫鵜繍鰭i講滋表畔校・年
l I
日露戦争中の話 銃 後
脚本国民』・932年9朋1上と肌歩いて来た道
一僕の自叙伝一
1金繋欄諏御小学校時代から上京まで私の「黎明期」
r中央公論』1934年4月I
隣本電気会社第一発電所の頃
『黎明期』 i1935年ナウカ社 1上から発電所誠首まで
1
弱
虫r文学評論』1935年11月 小学校時代 長編小説 黎明期
第二部
〃 1936年1〜4月上京から博文館印刷所入社ま
で1『報知新聞』1936年 阿蘇山の思ひ出
12月21日〜23日
1熊本電気会社第一発電所の頃『黎明期』第一部
r長編小説』1937年3月小学校入学以前
文学的自叙伝
太陽のない街回想
r新潮』
1937年9月 { F
〃 1937年6月
最初の記憶
他 人 の 中
〃
1938年10月 小学校時代の労働体験
〃 1939年4月
米屋での体験
はたらく歴史
ir中央公論』・94・年6月 中島印刷工場の経験
悪
I H一 人
一一@ 一一一一L−一一
人 1
附ない謙』桃囎辱942年1 .me本煙韓売蝪の線
〃 八代の新聞社での話
1こんにゃくを売る子供lr甚左誰錨観
小学校時代のこんにゃく売り
1943年1の体験妻よねむ
一・ ツの時期 陣・のあと』民主評艦8年1上京一博文館印刷所入社まで
1
一つの歴史
1喜ちゃん勇ちゃん
r新日本文学』 上京から博文館印刷所での活
L.一一一聖957年Z−:i1月1動 一…一一
北島喜作さん
1−−
1泣かなかった弱虫
1r徳永直騰骼盾W年1中島印刷工場のこと
〃
r蝋か笆│、947年1 )ixt4 」tiii時代tt
「
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これからわかるように,自伝的小説,回想は1933年から1943年の10年間に集 中している。特に「歩いて来た道一僕の自叙伝」「黎明期」という題にあらわれ
るように意識的にそれらにとりくんでいた。自伝ないし,自伝的小説は過去を 問題にする現在の問題意識がある。この問題意識によって,とりあげる過去の 対象がかわって来るし,同じ対象でもとりあげ方のアクセントが変わって来る から,それらによって分析の内容が限定されてくる。したがってまず「現在」
の問題意識をさぐってみなければならない。
自伝的小説を集中的に書きはじめた1933年は,徳永のプロレタリア作家とし ての動揺がはじまった年であった。1929年にプロレタリア作家同盟(略称ナル プ,作同)に入っていた徳永は,r新潮』1933年10月号に「ナルプに対する希 望」を発表し,作同を脱会した。そして,1937年12月には,r太陽のない街』絶 版声明を出して,権力に屈服した。
作同加入時の徳永は,「失業都市東京」や「赤色スポーツ」にみられるよう に,労働者の階級的自覚の形成を労働者の生活感情とのかかわりで形象化しよ うとしていた時期であるが(5),作同脱退後の徳永は,労働者階級の立場にたっ て文学活動を継続してゆくことをのべながらも(6),インテリ出身のプロレタリ ァ作家に対抗して,労働者の生活意識と感情を身につけたものとして自己を押 し出しはじめた。1934年に書かれた「冬枯れ」は,これに力点をおくことによ って転向につながる動揺を示したものと評されているが(7),それにもかかわら ず,労働者階級の立場を守ろうとする残津がみられ,それと家族の生活を守る
という生活感情との動揺がみられる。そして,r太陽のない街』絶版声明の年 に発表した「飛行機小僧」(r中央公論』1937年5月号)では,労働者が生産の 面で一人前になる形成過程の形象化に課題意識が移行していった(8)。この課 題意識は定着していき,rはたらく歴史」の動機について書いた「勤労者の文学
(一)」(r都新聞』1941年6月19日付)では次のように書いている。「簡単に言 へぽ印刷の歴史とそれに従事する一印刷工の変化成長といったものを書いてみ
たいと思っている」。
以上のような徳永の問題意識の変化から見た場合,1937年以前の自伝的作品 の題明「黎明期」は,生活を維持しなけれぽならない労働者の階級的自覚の形
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成過程の黎明期に他ならなかった。しかし,黎明期にすぎず階級的労働者にな る入り口までしか書かれていなかった。階級的労働者として共同印刷で活躍す る様子は,戦後に「一つの歴史」に書かれるのである。
そこで,徳永の労働者としての自己についての問題意識は,次のようにわけ られる。第一・は,生産技術をもった生産する主体としての労働者であり,第二 は,家族の生活を養なう者としての労働者である。第一を生産的労働者,第二 を生活的労働者と呼ぶ。他のひとつは,階級的な意識一すなわち「大衆自体 にとっての階級」としての自覚一をもった労働者である(9)。これを階級的労 働者と呼んでおく。この三側面の成長,形成過程が,各々の時期の自伝的小説 ないし回想に力点をちがえてあらわれている。したがって,この三側面の持つ 問題と矛盾を,自伝的小説ないし回想を分析することによってあきらかにで
きる。そして,徳永における階級的労働者と生産的かつ生活的労働者との矛 盾,動揺を知ることができ,そこにまた,当時の青年労働者がかかえていた思 想形成の特徴をみれるだろう。
徳永の思想形成の分析を自伝的なものに頼らざるをえないのは,日記を書い ていないことによる。労働者の場合,農業青年と異なって住所が一定せず,か つ労働運動に参加した場合,日記を書く余裕も条件もなかったという状況にあ
った。したがって,分析にあたっては,なるべく事実を確定していくと共に,
日記にみられるような思想的変化の細かいニュアンスをおうことができないた め,大きな変化に力点をおかざるをえない。
2.徳永の家と村について
徳永は,1899年(明治32年)1月20日に熊本県飽託郡花園村(現熊本市)に 父辰次郎,母ソメの長男として生まれた。1905年6歳の時,同郡黒髪村(現熊 本市)に移住し,上京するまですごすことになる。父辰次郎の出生は,つまび
らかではなく,筑後柳川の生まれで明治初年の大飢饅のため全部落が消滅し親 と共に流浪してきたものであり,母ソメは黒髪村の生まれだと言う(1°)。花園 村も黒髪村もこうして放浪してきたものが住んでいる所があった。熊本市は西 南の役の際,多くの被災者を出したため,貧民街がつくられていた。黒髪村は,
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主に農村だったが,その一角に旧藩時代の名残りである武家屋敷の一部が残っ ていて,徳永の家族は,その一軒のすみに掘っ立て小屋をたて,作男をしなが
ら住みついたのである。
黒髪村に移った徳永の家は,小作と熊本連隊から出る残飯売りや竹ばしけず りをして,生計をたてた。竹ぽしは,竹の多かったこの地方の特産品だった。
1905年小学校に入学した年,父親は日露戦争に輔重兵として従軍した。そのた め,徳永は,母の手伝いに妹の子守りをやり学校を度々欠席した。父は,負傷 してかえり,その一時金で荷馬車引きをはじめ,徳永は,馬糧の草を刈った り,父が病気になった時は母や弟と馬車をひいて峠をこえたりした。荷馬車ひ きは,日露戦争後の不況のためうまくゆかなくなり,竹細工の内職やにしんや 野菜の行商等で主に生計をたてるようになった。これらが忙がしくなると学校 を欠席した。小学校E級学年になると徳永は,こんにゃく売りをするようにな
ったGD。
(注)
こんにゃく製造は,貧民だった塘林虎五郎がはじめ,熊本連隊におさめるようにな って成功した。塘林は,1892年熊本市内に貧児寮(現大江学園)を建設したが,そこ でもこんにゃく製造をおこない,熊本連隊に納品している縁で貧児寮の孤児養育に連 隊の残飯を払い下げてもらった。このように,こんにゃくと残飯売りは熊本市内周辺 における貧民の稼業となった(潮谷総一郎「社会福祉を支えた人々」r新熊本の歴史』
九州日々新聞社編,同出版 1981年)
徳永の小学校における出席状況は表一①のとおりである。欠席は,小学1 年,4年,5年に多い。病欠,事故欠の別は家庭からの報告,ないしは受持教 員の推察によるものなので,正確は期し難く,1年の時は,父親の出征中であ り,4,5年は,こんにゃく売り,竹細工をやった時期である。6年の時の記 録は,学業成績と共にない。これは,6年になった時,父親が大けがをして,
かわりに馬ひきをやり,かつ6年の12月からは印刷工場につとめはじめていた
からである。
学業成績は,表一②のとおりである。成績はとびぬけて良いわけではなく,
国語より算数,理科の方が得意だったことがわかる。彼が文学好きになる下地 は,学校の教育より子どもの頃に講談本を読んでいたことにあった(注)。
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表一①
11__一一一一
年
出席日数
239
病欠日数 事故欠日数
_._一._一一_.__...一一.一一一1−一 一一 一 一 一__
11 1
2 年1 247 3
3
年
251 i l4
0一〇
4 年
248 13
05
年 230
917
表一②
算術
修身 国語 1歴1地 理 図 唱 体i裁 操「
史理科i画歌操縫行
第1学年 甲 甲 甲
1 i 乙
第2学年 乙 乙 乙 1 乙
第3学年
乙 乙 乙
一乙第4学年1乙i乙4 1−_L
第5学年 甲i乙1甲 乙 乙 甲
乙 乙 甲
乙一ッ甲一乞一乙
乙
一・一一一・一一一一@1
ミ
第6学年卜
表一①,表一②とも吉良敏雄「徳永直の人と作品」r詩と真実』1969年7月号所収の
ものによる。
(注)
彼は講談通であることを自他ともに許していた。賊ケ谷の合戦で四天王寺但馬守と
加藤清正とどちらが勝ったかで,ガキ大将同士が争った時は,彼が呼ばれた程だっ た。徳永は,5,6歳の頃から貸本屋から借りた講談本を読んでいた。母親は全く読み書きができなかったが,父親は,いろはが読めた。徳永は,いろはを父親からおそ
わったと言っている。5・6歳の児童がみずから講談本を借りたとは思えないから,父親が,借りた本を読ませて,いろはをおしえたのだろう。
当時の貸本業には,店を持たずに本を背負うなり車に積むなりして家々をまわる持 ち込み貸本法と,いわゆる貸本屋である通俗貸本法と,専門的な本を貸す高等貸本法 の三種類があり,明治末は持ち込み貸本法全盛時代だった。徳永が借りた貸本屋は,
この持ち込み貸本法であった。少年をとりこにしたr立川文庫』がでるのは,1911 年,徳永12歳の時であるから,徳永をとりこにした講談本はr立川文庫』以前の「赤
本」時代のものである。これは関西方面に普及し貸本屋を通じてよく読まれており,
総ルビだった。
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(足立巻一r立川文庫の英雄たち』文和書房)
徳永の人生に深い刻印を残した小学生時代の体験は,貧困からくる労働体験
とよそ者意識である(11)。
労働体験について,「最初の記憶」で次のように書いている。「私は現在もと きどきじっと自分の掌を見ることがある。r箸作り』当時の左掌の人差指のタ コも草刈り鎌の柄で出来た右掌のひらのしこりも,印刷工時代の右掌の人差指 の頭の異常にひらべったくなってゐるのも,まだ判然と残ってゐる。そして私 はそれらの労働が私の肉体に與へた消し難い記念を通じて,三十年も以前のこ
とをまざまざと思ひ浮べることが出来る」。
「最初の記憶」にあるエピソードは,貧困であるがゆえの労働体験が,貧困 である故に見せ物となり,笑いものとなったことを示し,竹箸作りは,それと 認められず疎外の感を強めさせたことを示している。rこんにゃくを売る子ど
も」では,こんにゃくの行商をしていてわんぱくぼうずからいたずらをされる 様子をえがいているのも同様である。労働体験は,家族をのぞいた他者から疎 外感を深めさせることになった。
この地方には,先祖代々村にいる者を「村んもん」(村の者),他から来た者 を「よそんもん」といって区別する習慣があった(12)。徳永の家は「よそもん」
であり,「よそんもん」の多くは貧乏で徳永の親のように百姓家の日雇取りな どをしていたから,「田圃道で肥樋をかついだ百姓衆にぶつかるとぼくから道 をゆずってていねいにお辞儀」していたのであった。徳永は,小学校でいぢめ
られっ子であった原因のひとつに,こうした貧乏な「よそんもん」だったこと をあげている(13)。また,小学校を卒業してからは,熊本市の印刷工場で働い ていたことを理由に,青年会の会合にほとんど出席しなかった。「あまり者」
では,残飯のおこぼれをもらいに徳永の家によく来た兵さんが,青年会の幹部
(みんな「村んもん」だった)に馬鹿にされ,からかわれている情景をえがきな ら,兵さんに自己を投影させrrおめえ,飼馬よりも馬鹿にされてんだぞ,が馬 鹿に……おい』,暗がりで,私は泣きながら,兵さんの胸倉を押し揺ぶった。」
と書いている。このような「よそんもん」意識,いわぽマージナルマンとして の意識は,貧乏と重さなって,村と家からの脱出志向をつくりだしていた。
4.立身出世願望と一人前になるなかでのその挫折
徳永がはじめて村を離れるのは,市内の中島印刷工場に徒弟的見習として就 職した尋常小学校6年の12月だった。未だ卒業に至らなかったが,家は徳永の 現金収入を期待していた。小学卒業以前から工場に働きに出るのは,何も徳永 に限ったことではなかった。谷口善太郎も卒業直前の11歳の時から村内の製陶 所に徒弟的見習として就職している。工場労働者の教育程度別構成は1919年に 尋常小中退22.5%,尋常小卒48.9%であるが,徳永も谷口も卒業証書をもらっ
ているから,統計上尋常小卒になっていても,実質的には尋常小中退だったの も相当いたのではなかろうか。徳永にとって市内に就職することは,マージナ ルマソから脱出することであり,貧困から脱出する希望を持つことであった。
「怖いは怖かったが,いま自分には翅が生えてとべる。どんな翅かわからぬ が,自分のカーつで今までの貧しさから飛びたつことが出来るという喜びの方
がつよかった」(他人の中)。
上京するまでに徳永は,中島印刷工場→九州日日新聞植字部→若宮商店の丁 稚(1913年春)→熊本毎夕新聞社印刷工(1914年)→熊本専売局煙草工場(1917 年)→熊本電気会社第一工場(1919年)→九州日日新聞文選工(1920年)→島 原時事新聞社(1921年)と転々と勤め先をかえている。この時期を,徳永の思 想形成からみると1919年の熊本電気会社第一一工場(20歳)を境にしてふたつの 時期にわけられる。後期は,立身出世の挫折と煩悶から社会主義の影響を受け
る過程である。また,仕事の上からの一一人前でわけると,1913年春の若宮商店 の丁稚時代を境にわけられる。
働きに出るようになった徳永の最大の目標は「えらくなること」一立身出 世だった。それは,貧乏からの脱出も意味した。海軍大将になりたかった。海 軍大将になる希望は,漠然としたものだったようだが,r成功』とかr立志』を
本屋で立ち読みしていたところからみて,陸軍大将とくらべ達成可能なものと して選んだとも言える。彼のように小学校卒の場合,中学校を卒業しないでな れるものに海軍大将があった。
時期があとになるが,1932年出版の本間晴著帝国教育会出版部r海軍軍人志
願者宝典』には次のように書かれていた。rこれ等の学校(海軍兵学校,海軍 経理学校,海軍機関学校等一引用者)を志願するには,中学四年修了程度を標 準として試験を試行される。これを資格として中学四年修了を要求されるので はなく,入学試験がその程度で施行されるだけであるから,全く学歴のない独 学者でも自由に志願することが出来る。現在海軍部内の要職にある人で,独学 出身の人は相当多く,むしろ独学出身者の方が,その気塊に於て学校出身者を 凌駕してゐるくらゐである」(同書47ページ)。このようなことは,正規の中等 学校非進学者に対して古くから言われていたであろう。その上,高級将校にな
る道は,海軍の場合,兵学校から実地をへて海軍大学校に行けるのに対し,陸 軍の場合,陸軍幼年学校→士官学校→陸軍大学校と,海軍にくらべ制度化がす すんでいてむずかしかった。また,専門学校・高等学校の場合には,専門学校 あるいは高等学校高等科入学検定試験に合格し,更に本試験を受けれぽならな かった。したがって,海軍兵学校入学の方が相対的に容易で,学歴がない者で も出世の可能性があったのである。徳永が,これらを調べて海軍大将の道をえ らんだとしても不思議はないだろう。
この立身出世志向を地位上昇志向と一般化すれぽ,これは,徳永に限られた ことではなかった。谷口は,弁護士になろうとおもって中学講議録を勉強して いたし(14),小林多喜二でさえ,「金持になることを本気に考えていた」のであ
った(15)。
海軍大将になるために,徳永は14歳から大日本国民中学会の中学講議録(こ れには,r正規中学講議録』とr速成中学講議録』があったが,どちらであった かはわからない)をとって勉強しはじめた。各種の入学試験を受けたり,その 資格をえるには,中学講議録を修了した上で一年間の受験勉強をせねばならな いとされていたが,その場合,村役場,郵便局の勤務者がヒナ型とされ,勤務 時間が午前八時から午後四時までの者が出勤前二時間,帰宅後四時間勉強する ことが必要とされた(16)。中学講議録をとりはじめてから,すぐに家庭の都合 で借金のかたに米屋の丁稚になるが,自分の時間のない丁稚奉公では時間をと って勉強するのは不可能だった。一番早くおき,夜十一時頃に寝るまで解放さ れることがなかった㈱。徳永は,時間をくすねること一「あぶらをうること」
を覚え,配達を早くすませ,帰りに講議録の勉強をした。しかし,それもしじ ゅう出来たわけではなかった。
(注)
「私は解放された時間といふものがない。朝,蹴とばされて眼をさましてからとい ふもの,夜十一時すぎに,番頭の惣さんが『寝ろ』といふまでr私の時間』といふも のは一秒もなかった。そしてr寝ろ』といはれれぽチャンとr寝る』ことであって,
他のことをしてはならないのである。而も一日二十四時間のうち,私は時計の振子の やうに,不断に動いてゐるわけではない。飯をくったり,眠ったりする以外に,店土 間の砂糖樽に腰かけてボソヤリしていなければならなかったり,主人の赤ン坊をおぶ って,軒先に何時間も突っ立ってゐなければならなかったりする。しかし,居眠りし たり寅さんや惣さんの相手にされてくだらぬ悪ふざけする時間は許されても,r私の
時間』といふものはないのだ。」(「他人の中」)
1914年の春,丁稚奉公をやめ熊本毎夕新聞社の印刷工となった。それには,
ふたつの理由があった。ひとつは,姉が養女になり,その現金収入をあてにで きなくなったため,徳永が現金収入を得なけれぽならなくなったこと。ひとつ は,丁稚奉公では勉強の時間がとれないからである。熊本毎夕新聞に入ると,
私立錦城館中学校の夜間部に通いはじめた。朝9時から午後5時半まで働ら き,6時半からはじまる夜学校へでかけ,10時頃帰宅して4,5時間ねむって のち,午前3時頃おき勉強する日課となった。ところが,18歳の時眼病で工場 をやめざるをえないハメにおちいった。したがって,中学講議録の勉強はやめ
ざるをえなくなった。
こうして,地位上昇の努力に挫折する18歳までの時期は,印刷工としても米 屋の丁稚としても仕事の上で一人前になる知力と体力を身につけていく時期で
もあった。米屋で丁稚でなくなるのは,米俵をかつげることだった。「しかし,
私の腰はもう落ちついてきた。汗が眼に滲みいってよく見えないが,自信をも って蔵の入口の石を一つづつのぼった。一そして二俵め,三俵めはもっと調 子よく,寅さんが三俵かつぐうちに一俵くらゐかついだ。『ウム,もう一丁ま
えだ』米俵を搬び終ってから,汗を拭きながら,主人はひどく御機嫌で私に云 った。rソラ,町の風呂でもいってこい』惣さんや寅さん並に,十銭玉を帳場 の上り椎に揃ってくれた。お内儀さんも,私が米俵をかつげるやうになってか
ら,rツル』と同じにr直』と呼んでゐたのを『直どん』といふやうになった」
40
(「他人の中」)。これ以後,配達だけでなく集金もまかされ,米をますではかる こともまかされるようになった。また,女郎屋につれていかれてもいる。この 徳永の体験は,当時の丁稚のとりあつかわれ方を示している(注)。
(注)
明治から大正末まで,丁稚入りは十歳前後で,子守,掃除,走り使い等に使われ,
本名を呼ばれず小僧とか子供と呼ぽれ,十五,六歳になると半元服と称して顔に角を 入れ,本名の頭字を取って之に吉または松等の字をつけた。この頃になると半人前と みなして,荷造,金銭の授受等をまかされるようになっていた(r明治大正大阪市史第 三巻』大阪市編1933年,復刻版1976年,368ページ)。この例は大阪の例であるが,丁 稚でなくなる指標として,名前の呼び方をかえる,仕事の内容がかわる点があり,こ れらは,徳永の体験と共通している。
印刷工としてはどうだったろうか。彼の職歴からみて,熊本毎夕新聞の印刷 工になった時には文選工としての実力を持っていたとおもえる。文選工は年少 者が多く,文選工になって二・三年位になると他工場から勧誘されるので移動 率が高かった(17)。このことは,文選工は印刷工になる入口であると共に,会社 はすぐ使えるものとして勧誘するのであるから,一般的に文選工になって二,
三年位で文選工としては一人前になったことを示している。したがって,徳永 が,中島印刷工場→九州日々新聞社→熊本毎夕新聞社と転々と出来るようにな ったのは,一人前として扱われるようになっていたと推さつされる。文選工の みならず,植字工としてひとり前になるのは,博文館印刷所の就職試験の際,
徳永がつくった版をみた試験官が職人同士の会話をはじめたことからみて(18),
二度目に九州日々新聞社に勤めてからのようである。
仕事の上で一人前になることは,生活的労働者にとってなくてはならないも のであった。のちに,共同印刷争議によって誠首された時,彼の生活を一時的 にしろ救ったのは印刷工としての一人前の力量であった。しかし,一一人前にな
る道はたやすい道ではなかった。中島印刷工場では,ランプみがきからやらさ れ,どなられたりなぐられたりしながら,午前七時から午後八時半まで,みよ
うみまねで仕事をおぼえねばならなかった。ある時は,銅版で頭をなぐられて 工場をとびだし家へ帰り,母がわびを入れたこともあった。このような体験は 谷口にもみられ,見習工に共通していた。谷口は加賀取二の筆名で書いた「工
41
場ヘーr少年時代』の一」(r改造』1934年10月号)で,製陶所でランプみがき をやらされ,ほんのかすかに膜がかかっていたため,職工から徹底的になぐら
れる様子をえがいている(19)。
以上のように徳永の思想形成の原初的体験は,貧困から来る労働体験と「よ そ者」にあった。彼の少年期から青年期は貧困と「よそ者」からの脱出の過程 であった。その脱出は,生産的労働者として一人前になることをともなった生 活的労働者になることと共に,立身出世志向に求められた。
徳永の立身出世志向は,労働者なる故に多くの人が直面しなけれぽならなか った挫折をへて,あとでのべるように「えらぼれたる者」,または「えらい者」
になるという意識にかえられてうけつがれた。しかし,それは労働者であるこ とから,精神的にも階級的にも脱出することではなくて,労働者のなかの「え らばれたる者」または「えらい者」であった。なぜかと言えぽ,結局まず生活 的労働者であらねぽならなかったからである。
5.挫折のはんもんから社会主義への関心へ
徳永は,1919年18歳の時,眼をつかわなくても良い仕事として熊本専売局煙 草工場の原料受入部男工,のち葉選工となった。ここで,彼に社会主義への関 心をひらかせた米村鉄三と知りあうことになった。この頃の徳永は,眼を悪く
したため,海軍大将の夢やぶれた「みじめな自分」だった。「いつも黒い眼鏡を かけジュクジュク涙がたまってゐる私の眼からは,世間がすべてくらくそうけ だってみえた。青い服を着て赤い帽子をかぶって,顔色のよくないみじめな自 分をつよく意識して,若い女の子でもゐると,廻り道をしてでも自分をかくし てしまふ」のであった。したがって,彼は孤独だった。貧乏とマージナルマソ からの脱出に挫折した時,ふたたびマージナルマンにもどらねばならなかっ た。しかし,そのマージナルマソは,他から強制されたものではなく,自分自 身で意識してそこへ追いこんでいくものであった。そこに,18歳になった特徴
があった。
彼の関心は文学へむかっていった。貸し本屋からトルストイの「民話集」と か大町桂月の紀行文や谷崎潤一郎等を借りて休憩時間の読むのが常になった。
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人から離れて本を読むことは,「他の同僚からかくれるために,或は私の自尊 心を彼等から区別するためにやっていた」のである。小説を読むこと,さらに 書くことは,他の労働者から自分を区別する「えらい者」でありたい「自尊心」
をあらわしていた。この読書によって,米村鉄三と雇書記の栗須と知りあうこ とになった。この三人は,朋治節の慰安会でも他の職工一女工の輪に入らず,
休み時間も三人でいることが多かった。そして,印刷工の文学グループ「ささ やき」と合流し,同人雑誌に処女作「陽の出前」を書いた。その内容は,「ひ どくイプセン的なる『生と死』の問題」であった。「おそろしい予言的な『死の 夢』からやっとさめた瞬間,徒弟の死が通知され,一一晩おびえながらr通夜』
し,やがて暁方の光りにr死』の絶対を否定しr生』こそが絶対だ,r現実』こ そが絶対だ一と叫ぶストウリであった」(「歩いて来た道固」)。当時,挫折か
ら立ちなおれず,自殺に興味をひかれ,それが生と死のテーマをとりあげた理 由だった(「文学的自叙伝」)。実際,徳永は阿蘇山中の熊本電気第一発電所の 見習工の時,自殺を試みた。専売局にいた時,1916年にロシア革命が,1917年
には米騒動がおこったが,これらに関心を示さなかったし,影響をうけなかっ た。熊本には米騒動が波及しなかったからでもあるが,主として彼の精神状態
にあった。
死と生のテーマは,実は現実の生活を認めそれに順応するか,それとも別の 道を選ぶかの選択であった。彼には,海軍大将の夢破れたとは言え,労働者と
自分とを区別するえらくなりたいという欲望を捨てたわけではなかった。それ が,全く出来ない時,死を考えたわけだった。発電所の見習工となったのは,
母親のたっての勧めだった。母親は,一家のひどい貧乏の原因が「手に職を持 たない」父にあると考え,将来に見込みのある電気関係の仕事につくことを願 ったのである。しかし,発電所では,彼のはんもんの話し相手になる者はいな かっただけでなく,同性愛者をげき退しなけれぽならず,性と酒の世界を目の 前にしなければならなかった。こうした生活から抜け出る道は,自殺しかない ようにみえた。彼は自殺を試みたが失敗した。失敗した時に浮かんだったのは 何だったのだろうか。「私の眼前に,何のゆかりもなく,ひょいと母親の顔が 泥んだ。小さい私の妹をおぶって,手拭かぶりの下から青い顔をのぞけて,せ
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はしそうに何か立働いてゐる母の横顔……。フット咽喉から何かが飛び出しそ うになったほど懐しい『現実』の姿であった。私は一かかさん一と咳いて みた。声はかすれて,くすぐったいやうな変な声が出た。一かかさん一」
(「黎明期」)。懐しい母親の姿,それは彼がはじめて工場に勤めた時,瀬戸びき の弁当箱を買ってくれ,また残業を終るのを待っていた末の妹をおぶった姿で
あったろう(注)。
(注)
「歩いて来た道(二)」に次のような印象的な思い出が書かれている。「(職工に鋼版 でなぐられた為工場を飛びだし,母親がわびを入れて工場に戻った日の一引用者)夜,
三時間の夜業を終へて工場を出てくると,町角の暗いところから,母親がヒョッコリ 出て来た。母はながい時間,工場のあたりをウロついては,ぼくの様子をみまもって ゐたのだった。末の妹をおぶった母親と,手も顔もインクだらけにして,弁当箱を持 ったぼくとが,殆んど無言で,くらい道を帰っていったその晩のことを,ぼくは今で も忘れられない。」
母親の現実の姿は,徳永にとって生活苦のなかで彼をいたわり励げましてく れた姿であるだけでなく,自分の仕送りをあてにしている母親がいるという現 実だった。夢などえがかず,はんもん等せずに金をかせがねぽならないことだ った。それは,彼が軽ぺつしていた職工達と同じように生活することだった。
したがって,「ひどく卑屈になり,意識的にr馬鹿になれ』r馬鹿になれ』と考 へた」(「歩いて来た道㈲」)のである。彼は,しょうちゅうの味をおぼえ,職 工達と共に飲み屋にいりびたり,山かげの温泉に出かけ女風呂をからかったり
した。一方では,小倉といふ技手の世話をかねた「自炊」をして,なにがしか の金をもらい家への仕送りを得た。ここに,彼の生活的労働者としてのあらわ れをみることができる。
こうした生活を救ったのは米村の来訪だった。米村は,彼の前に文学青年と してではなく,政治青年として,しかも資本家と労働者との対立を確信した政 治青年としてあらわれた。徳永は,米村の誘いに応じ,いとこの角田と共に熊 本市で労働問題演説会を開くことを計画した。この演説会は,同志といつわっ て準備会に参加した憲兵をつゆほど疑わないという未熟さのゆえに検挙され失 敗に終った。徳永は,発電所を首或首され,失業した彼は竹ばしけずりを家でお
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こなったが,これ以後積極的に労働運動に参加していった。
したがって,米村との再会は徳永の思想転換のきっかけとなった。r黎明期』,
「歩いて来た道」,「文学的自叙伝」にも,大きな転換期として書かれており。
戦後書かれたr私の人生論』(青木書店,1952年)には次のように書かれいて いる。「米村たちとクロポトキソのr青年に訴う』を読んだり,r労働問題演説 会』を計画したりするようになったときは,私の思想が変化しはじめたので す。ひどい貧乏と,生命をちぢめるやうな労働をしなけれぽならぬ人間は,人 間のうちでもクズだ,と考え,立志成功した人間がえらいのだと考えていた私 が,そうではない。ひどい貧乏と,生命をちぢめる労働,したがって教育もな い人間がこんなに沢山いるのは,けっしてその人の罪ではなく,そうさせてい る社会のくみたて一中略一のせいだと変化していくのであります」。この文章 で,「変化しはじめていた」とか「変化していく」と進行形を使っていることか
らみて,この時点で,「社会のくみたて」まで理解していたとはおもえない。
r黎明期』,「歩いてきた道」では,米村との出会いの様子や,「青年に訴う」
等の本を読む時期等にちがいがあるが,共通しているのは次の点である。それ は,米村から資本家と労働者との対立を言われても,資本家をイメージできな かったこと。労働者のイメージは資本家と対立した階級としての労働者である より,彼の生活体験から生まれた精神的,物質的な貧民であることであり,そ うした労働者もまた人間であるという自覚の発生であった。「歩いてきた道㈲」
には,「私は,まつしい労働者であります。……しかし,私も一個の生命をも った人間である」と演説を練習する徳永が,また「同因」には,「われわれは人 間である。虫けらでさえ生存する権利を持っているんだ」と練習する角田が描
かれている。
この頃,米騒動の影響をうけなかった熊本にも,大正デモクラシーの諸潮流 の影響があらわれはじめていた。国権党は熊本の普選運動の中心となり,国権 党の準機関紙的性格を持っていた「九州日々新聞」は,自由画教育の論文を掲 載し,1920年9月25日付には「国家の隆盛」のためという限界をもっていたと はいえ,そのために「生存権の確認」が必要だとする,「生存権の確認」と題 する「社説」をかかげた。また「九州日々新聞」の「読者の声」欄(1919年)
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には,「職工の要求」「安息日を与へよ」「労働者の地位」「誠意なき代表者」「労
働者の敵」という労働者の投書が掲載された。「職工の要求」「安息日を与へ よ」は,各々賃上げと休日の要求であり,「労働者の地位」は治安警察法17条 の撤廃,8時間労働制,児童労働禁止要求であり,「誠意なき代表者」「労働者 の敵」は,当時問題となっていたILO代表選出方法を労働者の意見を無視し たものと批判したものであった。
このように,熊本においても労働者の地位改善の要求がおこってきたのであ り,このなかで徳永は,1920年に結成された熊本労働団に参加し,この年初夏 に九州日々新聞社の印刷工になると,10月に九州日々新聞社の印刷工を中心に 組織された技工会に参加した。また,同年7月に熊本高校の学生によって組織
された新人会熊本支部にも数少ない労働者会員として参加した。当時,技工 会,新人会には,サソヂカリズムの影響が強く,新人会は赤松克磨,門田武雄 等を招いて講演会をひらいた。他方で,徳永は九州日々新聞社主催の普選獲得 演説会に英国のチャーチスト運動の演説をしたり,賀川豊彦を招いて講演会を ひらいたりしたと言う(2°)。サンヂカリズムと普選運動,賀川豊彦の思想には 一致点はなかったが,大正デモクラシーの社会運動を代表する潮流であり,徳 永はそれらの潮流の洗礼をうけたことになる。
徳永は,1921年のはじめに九州日々新聞社から派遣されて島原時事新聞社に 入ったが,島原の私娼窟をあばいて翌年誠になり熊本にもどった。この一年の 間に労働運動にはボルシェヴィズムの影響が強くなっていた。
1922年9月に新人会熊本支部は,高橋貞樹をまねいて講演会をひらいた。徳 永は,高橋とあってボルシェヴィズムにひかれた。それは,理論的というより 実感的なものだった。高橋と会い話をきいた時のことを次のように書いてい
る。「この若い『ボル学生』は第一,非常に論理的である。傲岸な位冷静で,
そして尖がってゐる,嘗てのサンヂカリストのように空想的でなく,感情的で ない,和助(徳永のこと一引用者)はそれをボル学生の姿勢や挙から感じる。
言葉の感触や一種の匂ひから感じるのである。」(「長編小説黎明期一第一回」)
ここで,ボルシェビキの魅力としてとらえられている「嘗てのサンヂカリスト のやうに空想的でなく感情的でない」という評価は,赤松克磨が来てサンヂヵ
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リズムの実力行使を聞いた時の感想と符節する。「夜更けのもう寝静まりかけ た市街の黒い屋根の起伏から,突如として湧き起る銃声と労働者の叫び一,
それは全く無秩序に,無規律に湧き起る反逆の焔一そういった劇的な情景 を憶ひうかべてみたが,なかなか実感とはならなかった。たよりないやうな,
怖ろしいやうな気がした」(「歩いて来た道(A)」)。これは,生活的労働者意識か
ら派生したものだった(21)。
実感的だからと言って,学習しなかったわけではなかった。彼は,この頃,
「終生革職人で暮した有名な経済学者(エンゲルスなどと親交のあった)でも あった何とかいふ人のようでありたいと考へたりした」(「文学的自叙伝」)の であるが,これは,ドイツの唯物論哲学者,ヨゼフ・ディーツゲンのことであ
る。ディーッゲンは,労働者として生涯をすごし,マルクス,エンゲルスとは 別に弁証法的唯物論の境地に達した。このディーツゲンの紹介が徳永の読んで いたr社会主義研究』(山川均・菊栄編輯)1921年7月号にのった。その紹介 には,次のように書かれた部分があった。
「ろくに大学の教育も受けないで,祖父の革なめし工場の職人となった。
1845年から49年までの間は,彼は祖父の工場に働いてゐたが,仕事の間に も,彼の座席の脇には,いつも書物がひろげてあった。」「米国のニケ年間,
彼は間々靱皮工,ペンキ師,教師などもしたが,多くは其日稼ぎの労働者と して,渡り歩いてゐた。」「1859年には,彼は経済上の独立を得て,学術上の 研究に全力を致したいといふ希望から,再び米国に渡って,稽々大きな事業 に着手したが,南北戦争の為に失敗に帰した。」
このように紹介されたディーツゲンの姿に自分の体験を重ねあわせて共感を 覚えたとしても不思議はない。ただここで,ディーツゲンみたいになりたいと おもったところに,徳永の精神状態があった。彼には,それだけの「自尊心」
があったのである。それは,挫折したとは言え,文学サークル時代にもあり,
発電所時代にもあった,「えらい者」として他の労働者から自分を区別する自 我の状態だった。これは,「立身出世」志向の変形したものだった。
かくして,社会主義の影響は,徳永を挫折から救うことになった。しかし社 会主義の理解は労働者階級についての階級的理解に基づくよりも,労働者=貧
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乏人という意識に基づくものだった。この点をよく示していのるは,r種まく 人』1922年9月号にのった徳永砂夫名の「妖怪の出現」である。この一一一iL部には 次のように書かれている。
「主義者の鬼門と称ぼれる南九州に,私は立派な収穫を見る積りだ。
諸兄!
貧乏人でありたまへ,金でも拾ったら富豪の邸に返しに行き給へ,黄金を共 同便所の踏板に用ひねぽならない私達には,貧乏人であることが,より甚け れば甚いほど,最良の指導者となってくれるからだ。
いXかい諸兄! 忘れ給ふな 黄金の光りが私達貧乏人の血をどれだけ吸っ たかといふことを一ね。」
社会主義への接近は,労働者階級という自己認識よりも,貧乏人という自己 認識に基づいていたことがわかる。
徳永は,この年9月高橋貞樹の紹介状をもって上京するのであるが,この時 点での,彼の思想的特徴は次のようにまとめられる,一,社会主義への接近を はじめたがそれは労働者階級というより貧乏人という自己の体験に基づくもの であった。二,当時,アナ・ボル論争がさかんだったため,社会主義への接近 は,どちらかをえらぽねぽならないことになったが,徳永はボルシェビキの方 を選んだ。その理由は多分に生活的労働者としての実感に基づいていた。三,
社会主義への接近は,「挫折」から救う道であった。しかし彼のえらくなりた いという気持はなくなったわけではなく,労働者の集団から自己を区別するも のとして,社会主義への接近もあった。
徳永は,高橋貞樹の紹介状をもって上京した。上京の理由は二点あった。ひ とつは熊本に流れてくる思想や運動へのあこがれだった。そこに参加すること は,彼の自尊心を満たすものだったろう。他のひとつは,より現実的な理由だ
った。彼は,熊本では要注意人物だったので就職先をことわられていた。唯一一 あった八代新聞社の仕事も,その新聞社がごろつき新聞だったため,つとめ続 けることが出来なかった。家では,父親が事故で重傷を負って働くことが出来 なかった。したがって職を求め,運動を続けるとすれぽ熊本以外にしか考えら れなかったのである。
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徳永の青年時代は,立身出世志向とその挫折からはじまった。この点を社会 的地位上昇志向とその挫折とすれぽ,拙稿「大正自由教育と青年会自主化運 動」で分析した下伊那の農村青年とかわりがない。そのちがいは,後者の挫折
の理由が,封建的な家制度の中での長男の位置にあったのに対し,徳永の場合 労働者としての位置にあった。また,その後の進路も異なっていた。後者が地 域に定着したのに対し,徳永は東京に出た。徳永の場合,親が徳永をひきとめ るだけの土地等の資産をもつことができなかったからである。この点は,谷口 善太郎も同様であって,谷口が福井から京都へ出たのは,父が破産して土地等
をすべて失なったからであった(22)。
このようなちがいは,先の拙稿で分析した農村青年の一部と徳永の自我のあ り方にちがいをもたらしていた。前者が,反封建的自我と農業生産者としての 自己の確立を課題としたのに対し,徳永は,貧民一労働者としての自我と生 産的労働者としての一人前になることを課題としていた。貧民一労働者とし
ての自我は,階級的自覚の道を進むのであるが,それに進む要因として,立身 出世志向と,その変形された「えらい者」になりたい意識があった。この意識 は,自己の認識を工場内に限定せず,より広い世界へひろげるからである。こ の点は,石川晃弘が紹介,指摘している仕事の世界のなかで一人前になるこ
とのみに集中している労働者の関心が,工場内の世界に限定されていること と(23),比較するとあきらかになる。しかし,この意識は,社会主義にふれて 階級的労働者の道を選ぶことになると共に,後述するように,その徹底した意 識化のカベにもなり得たのである。
6. 上京と社会主義者のなかで一階級的労働者への道と矛盾
徳永は,1922年9月,23歳の時高橋貞樹の紹介状をもって上京した。行く先 は,大森にあった山川均の主宰するr前衛社』であり,そこに寄宿した。徳永 は知らなかったが,この時すでに日本共産党が創立され,山川はその理論的指 導者として,8月には「無産階級運動の方向転換」をr前衛社』発行のr前衛』
に発表していた。r前衛』は,実質的に日本共産党の合法機関誌であった。こ の編さんに従事していた杉浦啓一,田所輝明,上田茂樹は共産党員だった。し
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たがって,徳永が彼等の話をきいて,何も知らない田舎ものであることを自覚 するのも当然だった。
この寄宿時代に徳永は,rタンクの水』などの啓蒙パンフレヅトやr前衛』
を読み,1922年9月に大阪でひらかれた日本労働組合総連合大会に傍聴人とし て派遣された。彼はここで,アナとボルの対立を目のあたりにし,帰りの汽車 の中で下中彌三郎から論争をふっかけられたという。これらによって,徳永 は,自からがボルの立場に身をおいていることを自覚した。
徳永は,アナーキズムとボルシェヴィズムとの理論点ちがいをおぼろげなが ら理解していったが,アナーキズムの影響を受けなかったのは,それ以上に,
すでにのべたごとく実感的,かつ生活への態度から生まれたものだった。そ れは,アナーキズムに対する「『計画』やr方針』やr客観』は忌み嫌らわれ た」という批判にあらわれている。彼は,家に仕送りするために仕事を探さね ばならなかった。同郷の印刷労働者にツテを求め民友社に就職した。彼は生活 的でならねぽならなかった。r計画』的に生活をつくらねぽならなかった。こ のような,生活の確立の必要性が,アメーキズムに賛成しないと同時に,すぐ にはボルシェヴィズムの運動にくわわらない理由となった。「そのころのアナ ーキズムの根拠地である印刷労働者の組合運動に,ボルの組合をつくって,そ れをふくめつしなくてはならぬ,というような議論を,一,二度きいた。しか し,まだ私はその企てに対して,あまり積極的ではなかった。それよりか私の 足場をまつつくることでけんめいであったからだ」(「一つの時期」)。
民友社に就職したのち,住居はr前衛社』から田所輝明を中心にした大井町 の合宿所,同郷の印刷労働者木部氏の下宿,暁民会を主宰していた高津正道の 早稲田の家と1922年中転々とした。その年末に博文館印刷所にはいるとそれが
ある小石川に移った(注)。
(注)
彼が転々とした理由は,「一つの時期」「長編小説黎明期」には書かれていないが,
日本共産党の運動と関係があった。1922年12月に,r前衛』の編集責任が山川から上 田茂樹にひきつがれ,r前衛社』は麻布に移り,翌1923年4月にr前衛』r社会主義研 究』r無産階級』が合併して日本共産党合法機関誌r前衛』として発刊された。この 過程で,r前衛社』にいた人々も大森を去り,上田は麻布へ,西雅雄は神田へ,田所
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輝明,金子健太,杉浦啓一らは大井町へ移ったのである。徳永によると,1922年10月 か11月はじめに大井町へ移ったことになっている。田所らが大井町へ移ったのは,日
本共産党労働部の機関紙r労働新聞』を発行するためであった。r労働新聞』は1922 年10月28日に発刊されているからs徳永の記憶はほぼ正しく10月に移ったとみられる。ところで,大井町から木部氏の所へ移ったのは,彼以外のものが共産党員だった から,いづらくなったのであろう。木部氏の所にいたのは短かく,すぐ早稲田に移っ たようである。この辺の記憶は,はっきりしていない。「文学的自叙伝」では,r前衛 社』にニケ月ばかり,大井町に三ケ月ばかりいたことになっているし,「一つの時期」
では大井町に二ヶ月いたことになっている。しかし,1922年10月には博文館印刷所に 就職したことは自筆年譜その他でもはっきりしており,そこに就職した時には早稲田 におり,その後小石川に移った(「一つの歴史」では1923年1月)ことは,一致して いるので,1922年中には,早稲田に居たのが正しい。なお,「長編小説黎明記」では 民友社に就職したことにはなっていないが,これは小説のためであろう。
大井町や早稲田では,他の合宿人とくらべて彼の生活はちがっていた。それ は,学生や労働運動の活動家が不規則な生活をしてたのに対し,朝早く出勤し 夜遅く帰るという規則正しい生活をしていたからだった。それは,彼にある異 和感を持たせていた。この点を「長編小説黎明期(第一回)」では,「前衛社」
に寄宿した当時のこととして次のように書いている。
「和助にとって始めて経験するここの生活はまったく奇妙であった。規則が なく時間がないようであった。いろんな人物が風の如く来て風の如く去って ゆく。誰も彼もがてんでに動いてゐる。そしてすべてが自分の発意で動いて るやうに見える。田舎者の和助は誰もに相手にされないし,する仕事がな い。朝早く起きて,何年も以前から散らかったままのやうな縁先や,玄関土 間などを掃除してみるが誰も喜ぶ風は見えないし,下手に早く起きて雨戸な ど開けると叱言を云はれるのだ。秋日和の好天気が幾日もつゴくのに和助は 仕事がない。幼さない時から一日と骨休めしたことがなく,失業してゐると きでさへ不断に内職など働いてきた和助には,廿四年の生活のレールがここ でポッソと停まって,まるでどっかにおっ拗り出されたやうな感じがするの
であった」。
また「一つの歴史」では高津から社会科学書を読むように意見される場面で 次のように書いている。「実際五平(徳永のこと一引用者)は年ぢゅう本をつ
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くる仕事はしているが,本を読むということはあまりしなかった。本を読むこ とが嫌いではなかったが,毎日十数時間,活字ぽっかりみていると五分でもい いから活字づらから眼を反らしたくなるのだった。しかし,そんなふうに意見 されると恥かしかった。一中略一rだって五平さんは疲れるものね』そぼから 五平を救ってくれるのはいつも痩せっぽちの赤津夫人(高津夫人のこと一引用 者)であったが,ほんとのところ家の階上階下を通じての住人で,毎朝五平が 暗らい足もとをさぐりながら,台所の硝子戸の鍵をはずして出ていく姿を知っ
ている者はなかった。」
これらにみられるように,徳永には,働く者だという自意識が学生や職業的 革命家と出会うことによって強く意識された。すでにのべたように,熊本時代 に他の労働者に対して「えらい者」としてあった自意識は,ここで職業的革命 家と学生に対して生産的かつ生活的労働者として意識されたのであった。
博文館で働らくことは,印刷職工として熊本のような地方都市では体験でき ない日本の出版文化の最先端のものを作る一員だという誇りと共に,植字のス
ピードを要求され疲労するという被搾取者としての労働の体験者である側面も 合わせもっていた。前者の点について,「長編小説黎明期」では博文館の入職 試験での経験を次のように書いている。「持たされた仕事は講談社のr雄辮』
といふ雑誌で,ルビ物に面倒くさい凸版や写真銅版のワリコミが幾つもあっ た。しかし和助にはそれがひどく晴れがましく感じられた」。また,後者につ いては,「一つの歴史」で次のようにのべている。「彼ら文選工や植字工は必死 になって難かしい原稿を読まねぽならなかった。同じ仮名でも三態くらいに変 化させてある原稿,その文字が何を意味するかをてんで理解する力を持たない ままに,やはりこれを形だけで読まねぽならず,さらにもっと重要なことはス
ピードということであった。だから五平たちは毎日沢山の原稿を読み,しかも その文字の群れが何をいったい表現しているのか理解したことは殆んどないの
だった」。
これらの引用から,徳永には,一人前となった印刷労働者として時代の先端 をいく仕事をすることの喜びと,それが資本主義工場制度のなかで,システム 化され骨化された分業形態でおこなわれることにとまどいをもったことがわか