大正期における規制と利用をめぐって一
児島 功和
はじめに
教育学において映画( )が論じられるとき,その基本となるのは「映画を手段
(教具)としていかに教育するのか」という映画教育(あるいは視聴覚教育や メディア教育)的な問題構成である。そこで映画は設定された教育目的に沿い ながら,動く映像によって観客である被教育者へと意味伝達をはかるものと考 えられている。このような映画教育にとって大正期は,昭和に入ってからの
「実践期」(田中1979)「発展期」(高桑1980)を準備した前史として描かれる 時期である。高桑康雄によれば,大正期における映画と教育との関係は,規制
を中心とする否定的なものから始まったが,次第に映画の教育的意義が認識さ れはじめ,教育に用いようという肯定的なものへと変化していったという(高 桑1999)。この映画の否定から肯定へという図式は,文部省が昭和13年(1938 年)にそれまでの映画と教育の関係の歴史をまとめた『本邦映画教育の発達』
や,著名な映画史家である田中純一郎が昭和54年(1979年)に著した『日本教 育映画発達史』でも採用されており,映画教育の歴史において適切なものとさ
れている。この図式は,映画教育の歴史記述としては確かに適切なものであろ う。だが,映画が教具として認識されるようになっていくというこの図式は,
当時の人々がまず映画をどのような教育における問題として受け取ったかを見
えづらいものにしてしまう。本稿の課題とは,この見えづらくなった場所に焦
点を当てることであり,それは映画教育的な問題構成のように教育という営為
を自明とし,そのなかで映画の意味を問うのではなく,映画がいかなる教育問
題として当時の人々に認識されて対応がなされたのかを分析することである。
上記以外の先行研究としては,メディア論や映画史で近年盛んになっている 大正期を中心とした映画研究がある(長谷1994,ジェロー1994〔1995〕,199 7,北田2000)。それらの研究が中心的に描いているのは,弁士一映写技師一 楽隊一観客によって生成される見世物あるいは「ライブ・パフォーマンス」
(長谷1994:128頁)の一種として見なされていた映画が,モンタージュなど の映像技法によって組み立てられる視覚的な表象装置として規定されていく過 程である。映画を教育に用いるということは,映画を動く映像による意味伝達 の手段として用いるということであるから,映画が視覚的な表象装置として規 定されていく過程を描いたこれらの研究と本稿では重なるところもある。だが 本稿では,「学校教育」や「子ども」といった事項を重視することによって,
それら先行研究との差異としたい。その他,教育学における先行研究としては,
なによりも20世紀初頭のドイッにおける映画と教育の問題を考察した今井康雄 の研究が挙げられる(今井1989,1992)。今井の研究は,映画と教育の関係自 体を問い直すという意味で本稿と同じ課題を遂行しており,結論だけを比較す
るならば,20世紀初頭の日本とドイッにおける映画と教育をめぐる関係には,
多くの共通点が見られることが確認できた(本稿では扱えなかったが,この共 通点自体が問うべき対象となるだろう)。だが,対象とする社会やそれによる 文脈の違いもあり,本稿では特に映画と制度との関わりを重視していきたい。
1.大正期までの映画と社会的受容の歴史
日本に初あて映画が輸入され興行がおこなわれたのは,明治29年(1896年)
11月の神戸においてである。この興行は成功をおさめ,映画の人気は常設館が できるまでの間は巡回興行によって高められ,広められていくことになる。そ
して明治36年(1903年)10月に浅草電気館が日本ではじめて常設の映画館とし
て誕生する。以後,各地に映画館が建てられるようになり,映画は大変な人気
を博すようになっていった。輸入当時からしばらく映画興行において中心にあっ
た作品は,世界中の風景や風俗,または役者が演じた舞台をそのまま写すといっ
た作品であり,一本の映写時間も数分の大変短いもので,興行はそれを繋げて
おこなうなどしていた。だが,大正期に入ってからはモンタージュなどの技法
を用いて一っ一っの場面を物語へと組み立てていく映画劇が興行における中心 となっていき,映写時間もそれに応じて延びていった(田中1980)。
当時,民衆娯楽の研究者として知られていた権田保之助は,「寄席」「劇場」
「映画」を三大民衆娯楽と呼び,明治36年(1903年)から大正7年(1918年)
までの東京市内におけるそれぞれの入場人員の推移を,警視庁統計書に拠って まとめている(権田1921〔1974〕:23−30頁)。それによれば,寄席,劇場の 入場人員はそれぞれ基本的には200万人から400万人の間で推移しており,寄席 は大正に入ってからは300万人を超えることはなくなっている。それに対して,
映画の入場人員は明治40年代に入って急増しており,明治40年(1907年)が34 0万人,明治41年(1908年)が520万人,明治42年(1909年)が730万人となっ ている。大正元年(1912年)には驚くべき増加を示しており,1200万人に達し ている。その後も映画の入場人員は,寄席や劇場とは対照的に高い水準で推移 しているのである。もっともこの数値は映画を含んだ「観物場(見世物)」の 数値であるが,当時(曲芸や手品などの)見世物が衰退傾向にあることを考え
ると,この数値の大幅な上昇は映画が牽引しているものといえるだろう。この ことは,明治末から大正初期にかけて開業された映画館の多くが見世物小屋か らの転業だったことからもわかる(吉見1987:206頁)。
だが,このような映画の人気は,大人だけのものではなかった。権田が大正 6年(1917年)に東京市内でおこなった調査によれば,たとえば深川・麻布区
(市内場末)の日曜昼間の映画館への入場者のうち子どもの占める割合は,な んと56.4%にまで達しているのであり(権田1921〔1974〕:84−6頁),「活動 写真と云えば直ちに児童を思い出す程,活動写真と児童とは密接な関係がある」
(権田1922〔1974〕:394頁)とされるほどであった。映画がこのような人気 を博したのには,映画内容自体の面白さもさることながら,映画館の置かれて いた「盛り場」という環境にも理由があった。新聞記者の村嶋蹄之は,神戸の 新開地という当時隆盛を誇っていた盛り場について,次のように述べている。
「神戸市六十万の民衆は此処に来て,始めて,凡ての懊脳煩悶から脱却する事
が出来るのです。義理も人情も,賃金も,借銭も,恨みも,恋も,それどころ
か,可愛い妻子をも,又時には自分自身すらをも,綺麗薩ッ張りと忘れ去るこ
とが出来るのです。」(村嶋1922〔2004〕:18頁)この秩序だった日常からの 逸脱を可能にしてくれることが,盛り場が多くの人々を惹きっけた理由であっ
た( )。そして,大正期においてこのような盛り場の中心的な娯楽とされていた のが,(権田の調査が明らかにしているように)映画だったのだ。
2.映画という有害環境と規制
本節では,1において映画が当時いかに有害なものとして認識されていたか を明らかにし,2ではそんな映画への規制(を提起する動き)がなにを意味し たのかを明らかにする。具体的には,1で映画が子どもたちを含む観客によっ て「狸雑な共同性」を生成する契機となっていたことを示し,2では映画への 規制がその共同性を切り崩す意味をもっていたこと,そしてそれがどのような 教育的意識によるものかを示したいと思う。
2−1.映画という有害環境
前節で述べたように,大正期は映画館が各地に作られ,映画が民衆へと普及 した時期であり,子どもたちの生活にとっても映画が重要な位置を占めるよう になった時期であった。映画と子どもたちとのこのような密接な関係は,映画 が教育における問題として語られるたあの社会的条件がこの時期に成立したこ とを示していた。その最初の契機となったのが,映画の子どもたちへの有害性 という問題である。
フランスのエクレール社が製作した映画劇『ジゴマ』は,映画と教育の関係 が歴史的に問われるとき,その問題構成を開いたとして象徴的に扱われる映画 作品である(文部省1938:10頁,高桑1999:119頁)㈹。『ジゴマ』は,明治 44年(1911年)11月に浅草の金竜館で公開され,興行的に大成功を収めた作品
であり,内容としては,怪盗ジゴマがあらゆる犯罪をおかしながらも追ってく る探偵の手を巧みにすり抜け,活躍をするといった話である。この『ジゴマ』
人気は,観客のかなりの部分を占めていた子どもたちを巻き込みっっ,『日本
ジゴマ』といった日本製の類似品を生み出すまでに広がりをみせたが,大正元
年(1912年)10月に警視庁は『ジゴマ』と関係する映画すべてに上映禁止の措
置をとった。その理由とされたのが,フィルムによる子どもたちへの悪感化で ある(田中1980:184−5頁)。そして「かかる映画に示唆せられ,不良,犯罪 行為を行ふものさへ生ずるに至って,世の識者,教育者は愕然として眼をこの 新しき事象に見開いたのである。」(文部省社会教育局1938:10−1頁)以後,
映画は逸脱した子ども=「不良少年・少女」との関連で語られるようになるω。
アーロン・ジェローは,『ジゴマ』問題が映画への認識にどのような影響を 与えたかを当時の新聞を中心に詳細に分析しているが,それによれば,『ジゴ マ』問題を重要な契機として,「社会問題を引き起こした映画の本質が新しい 一種の意味を持っ動く映像である事が 発見 された」(ジェロー1997:46頁)
のだという。この「動く映像」が引き起こす悪感化への批判の一例として,東 京帝国大学助教授の保科孝一の言葉を挙げておこう。「彼等の審美的及倫理的 性格が破壊せられ,その結果,性質が一般に粗暴になり,忽ちにして高潔な品 性を喪ふのみならず,日を追うて,虚偽的行動が多くなり,或は不合理な空想 に耽るやうになる。(中略)以上は悪徳文学から青少年の蒙る害毒の一斑であ るが,俗悪醜狸なるフィルムから蒙るものに至っては,更に一層それが甚しい のである。」(保科1914:85−6頁)そして,そのような悪感化を引き起こすの が,(非道徳的な内容の)「其光景を直観的に表示する」(保科1914:86頁)動
く映像の力なのである。『ジゴマ』がそうであったように,とりわけ映画劇が 強い批判の対象となる。
このようなフィルムによる悪感化への批判は,以後の映画批判の常套句とな るが,これ以外にも映画の有害性が次々に指摘されるようになる。日本映画界 に特有とされていた説明者(当時は「弁士」「活弁」とも呼ばれた)の問題も その一っである。教育学博士の西山哲治は,「フィルム其物を見れば無害なる 可きを,彼が巧妙な露骨な奇警な裏面的説明を入れて,人気をとらんとする為
めに,子供に聞かしても良くない影響を興へ,彼の言なくば無事で過ぐ可きを 反つて俗悪化して了ふのである,路傍に犬が糞をしていると言ふものならば誰
も知らずして過ぐ可きを,彼が『此処に臭いものあり』と説明したがために,
人々は悪い思を心に残して去ると等しいのである」(西山1917:115頁)とい
うように説明者を厳しく批判しているが,これなど当時の説明者批判の典型的
な語り口であった。説明者は,無声映画時代の映画体験を語るうえで欠かすこ とのできない存在であったが,西山の言葉からわかるように,説明者はただフィ ルム内容を「補完」あるいはフィルム内容に「従属」する存在ではなく,フィ ルム内容の解釈と映画館という場の状況定義において重要な存在であったのだ
(ジェロー1994〔1995〕)。この重要性は,先述の権田による調査において,説 明者と子どもたちとの関係に関して多くの頁が割かれていることからもわかる。
権田は「記憶し居る弁士の名を記せ」という質問をしているが,それに対して 名前を挙げることのできた子どもがおよそ七割もいたのである(権田1921
〔1974〕:123−5頁)。そんな影響力の強い説明者が,野卑な言動によって観客を 煽っていたことが問題視されたのである。その他には,映写機械の不備によっ
て画面が眼を悪くさせ頭痛を起こすといった問題映画館の換気の悪さが体調 を悪くさせるといった問題など(広義の意味での)施設の問題や(権田1921
〔1974〕:73−4頁,田口1922〔1990〕),映画館内の暗闇で男女が抱き合ったり するといったことが問題視されることもあった。
海野幸徳は,このような当時の映画批判を次のような言葉でまとめている。
「活動写真館内の児童は映画そのものの影響を受ける外に活動写真館そのもの の影響をもうける。(中略)電気の薄暗いのを利用して,男女互にみだりがま しき接近にいたり,甚だしいのは,殆むど抱擁せむばかりのものもあり,さて は,女給に戯れる観客,乱雑なる観覧振り,不良少年の右往左往,弁士の野卑 なる説明,薄暗いみだらな光景など児童に悪影響を及ぼさずにをかないものば かりである。」(海野1924a:17頁)吉見俊哉は,当時映画のメッカだった浅 草を分析しているが,吉見によれば「浅草的なるもの」の最も重要な特徴とは,
「客席と舞台との間の濃密なコミュニケーションを媒介に一種の共同性の交感」
(吉見1987:211頁)が生成していたことにあるという。だが,これは当時の 映画体験にも当てはまるのではないだろうか。すなわち観客は映画館で「狸雑
な共同性」とでも呼べるような状況を生成し,またそのような状況を享受して
いたのではないだろうか。権田が次に描いた映画館内の子どもたちの様子から
も,それは明らかであろう。「ラムネ,麺包,煎餅,キャラメル,蜜柑等各種
の飲食物を飲み食いて,熱心に写真の面を注視しっつあり。そして己が知れる
俳優の画面に現われ来るや,或は『チャップリンだ』或は『や一松之助!』な どと知人に会せるが如き態度にて歓迎し,最も興深き喜劇の場面に至りては声 を上げて我を忘れて笑うに至る。」(権田1921〔1974〕:87頁)っまり,『ジゴ マ』問題以後の映画批判とは,映画が子どもたちを含む観客によって,「狸雑 な共同性」を生成する契機になっていることに向けられていたのである。そし て「狽雑な共同性」を生成する映画館とは,すなわち「悪所」ということであ
る。だが,映画館は「悪所」であるがゆえに多くの人々を魅惑したのであり,
またそれは子どもたちにとっても同じであった(v)。(家庭や学校という)子ど もたちにとっての日常生活において大人が遠ざけたいと考えていることを,
「悪所」たる映画館で学べるということが,彼らが映画館に足繁く通う理由で
あったのだ。
2−2.映画への規制
このような映画の有害性を批判する社会的機運の高まりを背景として,国家 権力あるいはそれに近い立場による規制が大正期に入ってから提起され,実施 されることとなる。大正元年(1912年)の『ジゴマ』への警視庁による上映禁 止の措置はその先駆けともいえるが,詳細な点にまで及ぶ規制が提起されたの
は,大正6年(1917年)2月に沢柳政太郎を会長とする帝国教育会が文部省に 提出した活動写真取締建議,そして警視庁によって同年7月に制定され8月に 施行された活動写真興行取締規則を嗜矢とする。時期的に近いというだけでな
く,二っは内容的にも明らかに連動しており,ここでは一緒に検討してみたい。
活動写真取締建議は,次の十の条項から構成されている。「(一)活動写真取 締に関しては,関係官庁,特に教育官庁と警察官庁との間の連絡を尚一層親密
にし,一定の方針に依りて取締を厳重にすること(二)中央地方の各官庁に於 けるフイルムの検閲は成るべくその標準を一定すること(三)各官庁に於ては 活動写真特にフイルムの検閲に関しては特に教育上の意見を徴すべき機関を設
けること(四)活動写真説明者たらんと欲する者には其の人物性向等を調査の
上之に鑑札を興ふること(五)説明者の説明要領はフイルムと共に検閲するこ
と(六)活動写真に関し衛生上の取締を尚一層厳重にすること(七)関係官庁
に於て特に児童生徒等に適する教育的活動写真の興行及び之に必要なるフイル ムの製造を保護奨励すること(八)いかなる活動写真館に於ても十六歳未満の ものをして夜間は入場せしめざること(九)学校在学児童に対しては教育官庁 より学校当事者に訓令して活動写真の閲覧を取締らしむることを努めしめ,そ して警察官庁は之と協力すること(一〇)関係官庁,役所,教育会,学校等に 於て活動写真の教育上の影響を調査し,児童生徒の父兄等に注意を興ふること。」
(文部省社会教育局1938:13−4頁)一方,活動写真興行取締規則の要旨は次の とおりである。「(1)フイルムを甲乙両種に分け,甲種フイルムは十五歳未満 の者には閲覧させないこと。(2)フイルムは警視庁で検閲すること。(3)男 女席を区別すること。(4)説明者は免許を受けること。(5)看板を制限する
こと。」(警視庁1960:659−60頁)
項目が多岐にわたっていることからわかるとおり,ここには前項で述べた映 画の有害性を徹底的に除去しようという意図を感じることができる。フィルム
の問題に対しては検閲,説明者の問題に対しては免許制や説明要領の検閲,映 画館内での男女の接触の問題に関しては男女の席の区別,そして施設の問題に 対しては厳重な注意によって,というようにである。規則で看板の制限が提起
されたのは,看板がその派手さによって狸雑な雰囲気を醸し出していたからで ある(長谷1994:132−3頁)。なかでも注目すべきは,規則の「フィルムを甲 乙両種に分け,甲種フィルムを十五歳未満の者には閲覧させないこと」という 提起である。これは他に提起されたものとは少し違う意図を持っている。それ は映画館から子どもたちを排除するということである。なぜ大人用と子ども用 のフィルムを分けることがこのような結果に繋がるのかというと,映画館で上 映される映画館のほとんどが大人用とされたからである(長谷1994:125頁)。
建議では第七項のように教育(的)映画の興行や製造の奨励もおこなわれては いるが,これは当時の興行されている映画や映画館がいかに有害であると考え
られていたかを示しているといえるだろう。
以上の規制をめぐる動きが意味するものとはなにか。それは,「狸雑な共同
性」を生成する条件(有害なフィルム,有害な説明者,劣悪な施設,男女の身
体的接触など)を切り崩すということ,そして子どもたちを有害な映画体験か
ら遠ざけ,(家庭や学校のなかでの)秩序だった日常へと繋留しようというこ とにあったといえるのではないだろうか。ここからは当時の教育的意識が読み 取れる。っまり,子どもたちは大人の目が届く場において大人が与えた「世界」
だけを受容するべきであり,それ以外の場で大人が与えた「世界」以外の「世 界」を学ぶべきではないのだ㈲。映画が有害であるとして批判されたのは,こ
のような教育的意識を突き崩そうとしたからであり,規制をめぐる動きはこれ を守ろうとするものだったということができる。
3.教具としての映画と利用の構図
前節では,映画の子どもたちへの有害性という問題に対して,規制によって 映画館から子どもたちを排除しようとするという動きを追ったが,映画を教育 に用いようとする動きが存在しなかったわけではない。本節では,その動きが どのようなものであったかを明らかにしたい。1では,映画がいかなる過程を 経て教具として認識されていったのかを示し,2では,具体的に学校教育にお いて映画がどのように用いられるべきと考えられていたかを,海野幸徳の言説 を中心に検討する。
3−1.教具としての映画の「発見」
映画を教育に用いようとする動きは,既に明治末期から大正初期に現れてい る。現存する日本最古の映画雑誌である『活動写真界』にも,そのような記事 をいくっか見っけることができる。明治43年(1910年)の第6号で,編集部の
「一記者」名義で書かれた記事では,映画が実物教育の教具として学校で用い られるべきであるとされており(一記者1910〔1999〕:3頁),同年の第12号 で江水老樵は,「活動写真の利用 敢て教育家に告ぐ」という題で,実物と 異ならないものを見せることができるという点で映画はそれまでの教具とは比 較できないほど優れていると主張している。江水によれば,映画を用いれば,
山野に住む子どもたちには海辺の風俗や人情などを教えることができ,海辺に 住む子供たちには山野の風俗や人情を教えることができるという(江水1910
〔1999〕:12頁)。また第20号では,ペンネーム「夏渓山人」後にロ本映画界に
おける重要人物となる「帰山教正」が,「活動写真が興ふる知識」という題で 議論を展開している。帰山によれば,元来,映画とは娯楽的なものだが,「知 識として得て取るべきものは中々多い。」(夏渓山人1911〔1999〕:16頁)では,
映画からどのような知識が得られるのかというと,「一っは字に由って得るも の二っは風俗習慣を見ること三っは絶景に接し又は地理を知ること四っは教訓 的に得らるるもの五っは科学的に得るもの等」(夏渓山人1911〔1999〕:16頁)
であるという。大正に入っても同様のことが主張されている。たとえば前節で 参照した保科孝一は,あれほど強くフィルムによる悪感化を批判しながらも,
次に述べるように教具としての映画の力を認めざるをえなかったのである。
「若し之を直観教授に利用したならば,掛図や幻燈にまさる萬々で,例へば,
鉱山における鉱夫の作業,鉱物の製煉手績,工場における壮観なる作業,河海 における漁猟の光景等をフィルムによって学童に説明したならば,知識の啓発 状稗益するところ蓋し勘少であるまい。」(保科1914:90頁)
このように映画を教育に用いようとするときにまず提起されたのが,見るこ とがそのまま知ることへと繋がる実物教育という文脈であった。ここでは,映 画を見るという体験と実際に体験するということが同質のものとして考えられ ているたあに,海辺に住む子どもたちは山野に実際に行かなくても,山野のイ メージ/表象を見るだけで山野に実際に行ったのと同じように知ることができ るとされるのである。基本的にこの〈イメージ/表象を見ること=現実を知る こと〉という図式は,映画を教具として用いる最大の意義としてこれ以降も用 いられることになる。だが,このような主張は先駆的ではあったが,大正半ば までの映画と教育をめぐる言説と制度の布置においては限定的なものだったと いうことができるだろう。その理由は,前節で論じたように映画を有害なもの として見なし,規制によってそれを封じ込めようとする動きが強かったからで
ある。
しかし,この流れは少しずっではあるが,変わっていく。背景にあるのは,
大正8年(1919年)に公開されたD・W・グリフィス監督の映画劇『イントレ
ランス』のように,興行映画のなかに人気を集めながらも,俗悪ではないとさ
れるような作品が現れたということが挙げられる(文部省社会教育局1938:
15頁)。このような作品の登場が契機となって,映画を有害なものとして単に 否定し,規制をかけること以外の映画と教育との関わりが意識されるようになっ ていったのである。文部省の映画施策にもこの影響は現れており,大正10年
(1921年)の11月20日から12月10日まで東京お茶の水教育博物館で開催された 活動写真展覧会は,摂政宮殿下(後の昭和天皇)が訪れたということもあり,
「社会の映画を見る眼も著しく改って来た」(文部省社会教育局1938:16頁)
という。当時,展覧会以外にも文部省は重要な施策をおこなっている が㈲,なかでも重要だと思われるのが,「雑誌『社会と教化』創刊」と「活動 写真説明者講習会」㈲である。
『社会と教化』を挙げる理由は,映画に関して書かれた記事の内容による。
そこではそれまで同様に映画の有害性について批判するものも含まれてはいる が,映画の教育的利用について積極的に言及しているものも多く含まれている のである。一部ではあるが,次に挙げた記事の題名からもそのことがうかがえ るはずだ。「活動写真雑話一映画の教授上の利用と映写機の実費計算」「フ イルム使用の教育一煽情による知識」「教育活動写真と線画の応用」「教化 機関としての活動写真」。また内容においても,映画を教育においていかに用
いるのかという具体的な点にまで議論が及んでおり,それまでの「実物教育に おいて用いることが出来る」という議論とは異なっていることがわかる。
次に,活動写真説明者講習会がどのような意味をもっていたのかは,「開会 の辞」での中田俊造の言葉に表れているだろう。「観衆の思想言動に関する責 任の一半は,正に説明者に分たねばならないと思ふのであります。斯く考へて 参りますと諸君の責務の重大なるを思ふと同時に,広く社会教化の上より,切 に諸君の奮働努力を希ふ次第であります。」(中田1921:2−3頁)っまり,こ の会とは,それまで悪感化の要因として否定的に捉えられることの多かった説 明者を,社会に対する教育者として捉えなおすことによって,その責任を説明 者自身に自覚してもらおうとして開かれた会であったのだ。説明者へのこの認 識の変化は,映画の教育的利用を考えるうえで決して小さなことではない。前 節でも述べたように,無声映画時代の説明者の影響力はとても大きなものであ
り,彼らの言動によってはフィルムへの解釈が変わることもあるからである。
以上,明治末期から大正初期に教具として映画は「発見」されたわけだが,
その動き自体は限定的であった。これが変化してくるのは,大正も半ばを過ぎ てからのことである。社会的に高く評価される興行映画の存在や,文部省の映 画の教育的意義を積極的に打ち出す施策によって,映画の教育的利用という動
きは強く後押しされることになったのである。
3−2.学校教育と映画
大正も半ばを過ぎてくると,いくつかの要因によって映画の教育的利用とい う動きは強く後押しされるようになった。それはまた『社会と教化』の記事が 示しているように,映画を教育においていかに用いるかという具体的な議論が 展開されるようになるということでもあった。以下では,海野幸徳が大正13年
(1924年)に刊行した『学校と活動写真』『児童と活動写真』という二冊の著作 を検討することによって,学校教育において映画がどのように用いられるべき だと考えられていたのかを示したい。なぜ海野を対象とするのかというと,海 野は,欧米(特にドイッ)の映画と教育に関する議論を参考にしっっ,自身で も調査をおこなうなどして非常に精緻で体系的な議論をしており,映画教育の 歴史が問われるときに必ずといっていいほど言及される人物であるというその 重要性からである。
海野はまず,映画を有害であるとして批判する言説の認識の甘さを指摘する。
「学校児童の活動写真に於ける関係は麻酔の一語で表示することができる。(中 略)なぜ行くのか,そんなことは分らない,行き度くなるから行くのだ。この 児童心理は麻酔の外何ものでもないであらう」(海野1924a:1−2頁)と述べ,
子どもたちが映画に夢中になっている様子を「麻酔」という言葉で表している。
では,なにが麻酔状態といわれるほどに子どもたちを夢中にさせたのだろうか。
「子供は本能によって,活動写真を好むのだ。(中略)動くものが見たい,形ち
や色の変化が面白いとするのは,原始人以来の本能によってである。」(海野
1924a:2−3頁)よって,「活動が悪い,教育上悪いと言ふことは,先刻分っ
ているとしても,悪いから見てはならぬといふ希望と,その実現とは,あなが
ち一致するものではない。悪いことは悪いが,それを逆用して金儲けをする営
利業者に対抗することはできぬ筈だ。それは,本能を揺り動かす作戦に対し,
赤手空拳,抵抗すると同一である」(海野1924a:3頁)と述べるのである。
っまり,子どもたちが夢中になっているのは,映画が動く映像という性質を持っ ているからであり,それは本能に適っている。よって,映画を単に有害である
として否定することはないとできないと主張するのだ。そして,「本能は教育 の本源でなくてはならぬ」(海野1924b:10頁)以上,教具として映画を用い
るべきであるとするのである。
動く映像という映画の性質は,既に明治末期・大正初期において実物教育の 文脈で「発見」され,評価されていた。よって海野が「映画は教育に用いるこ とができる」と主張したこと自体は決して新しいわけではない。だが,海野の 言説が従来の言説より踏み込んでいるのは,映画が本能という拒絶しえない前 提に適っていて,それゆえに教育において用いるべきとする点である。海野は 将来的には映画を教科書に代わって用いることすら構想しているのであり
(「私は,現今の教科書による教授法を廃絶して,活動写真による教授法を採る べしと主張するものである。」(海野1924a:99頁)),映画は教育において欠
くことのできない教具とされているのである。
それでは,授業においてただ教育(的)映画を子どもたちに見せればいいの だろうか。海野はこれも否定する。彼によれば,映画を用いた教育がその力を 十分に発揮するには,なによりも教師の「一粒よりの説明」(海野1924a:138 頁)が必要なのだという。教師の適切な説明があってこそ,映画を用いた授業 は活きてくると彼は考えているのである。また海野は,これまで明確には規定 されてこなかった教育(的)映画の基準を示してもいる。それによれば,教育
(的)映画は「間接若くは直接に教材に関係し教科書に響鷹するものたること を原則とする」(海野1924a:146頁)のだという。以上のことから,海野の 主張の重要性が明確になってくる。それは,彼が従来のように「実物教育に有 効である」と主張するだけでなく,より実践的な映画を用いた教育の構図を描 いたということである。海野にとって,映画はもはや教育にとって本質的な
「問題」とは捉えられていない。「活動写真教授により弊害をうけると云ふこと
は多くの場合,活動写真教授の本質として,さうあるのではなく,それは,寧
ろ,技術と教師の不注意並びに不熟練のためである。それ故,かかる場合には,
活動写真が悪いと考へるよりも,如何にすればその教授法を改善しうるかと云 ふことに腐心しなくてはならぬ」(海野1924a:61−2頁)と述べているよう に,映画を用いた教育にとって「問題」があるとすれば,それは教授法や技術 の「問題」として捉えられているのである。ここには,「はじあに」で述べた 映画教育的な問題構成の端緒を見出すことができるであろう。
これまで述べてきた言説と制度の動きは,昭和に入ってからの映画教育へと 結びっいていくことになる。昭和初期には「児童映画デー」という日に子ども たちを映画館に引率し,そこで教育(的)映画を閲覧させるということがおこ なわれた。また携帯用の映写機の発達によって学校でも上映が可能となり,学 校で教育(的)映画が上映されるということもあったのである。では,実際に それはどのようにおこなわれていたのだろうか。田中純一郎によれば,東京市 の児童映画デーでは,「日の丸大海,皇居等の実写に国家君が代を演奏録音
した『みはた』という短編を,全員脱帽起立して映写する」(田中1979:58頁)
ということがおこなわれていたという。私たちはここに映画の教育的利用の一 つの帰結を見出すことができるだろう。海野が示したように,教育(的)映画 とは授業で用いる教材や教科書と内容において連動したものであるから,決し て映画教育だけがこのような政治性を帯びていたわけではない。だが,このよ うな内容が映画によって子どもたちに提示されることの意味は大きいであろう。
なぜなら,日本のどこにいても同じように,まるで皇居が目の前にあるかのよ うな体験をさせることができるのだから一っまり,映画の教育的利用とは,
単に映画を教具として用いるということを意味していたのではない。それは,
教育者あるいはその背後にある国家権力によって設定されたイメージ/表象の
「世界」へと,現実感をもって子どもたちを誘うことを意味してもいたのであ
る。
おわりに
大正期において映画はいわば教育の「外部」から「内部」へと包摂されたわ けであるが,それは子どもたちを映画を手段(教具)に,教育者によって設定 される「世界」へと導こうとすることだったということができるだろう。第2 節で示したように,映画は子どもたちの生活にとって重要な位置を占めていた。
子どもたちにとって映画館は,学校を中心とする秩序だった生活からの逸脱を 可能にしてくれる場であったのだ。映画館がそのような場たりうるのは,映画 館が「狸雑な共同性」を生成したからである。規制が意味するのは,このよう な「狽雑な共同性」を解体することだったといえるだろう。その一方で,子ど もたちの映画閲覧が認あられるのは,「児童映画デー」や学校での上映会といっ た統制された場においてのみが望ましいとされたのである。そして,そこで子 どもたちに見せられるのは,教育者あるいはその背後にある国家権力によって 設定された「世界」=教育(的)映画なのである。このように映画は,イメー
ジ/表象を現実そのものとして体験させることができるというその性質によっ て,他の教具よりも優れた教具とされ,そうであるがゆえに強い政治性を帯び ていたということができるだろう。映画を教具として自明視するのではなく,
映画と教育の関係それ自体を問い直すことは,このような教育の政治性を明ら かにすることへと結びっくのである。
また,より広い視点から見ると,映画と教育という問題を問い直すことは,
現代にまで続く教育の条件を探求することにも結びっくのではないだろうか( x)。
大人は子どもたちに教育しようと意図するとき,自分たちが指し示した「世界」
=イメージ/表象の世界へと誘うために教科書や絵本,幻燈といったメディァ を用いる。私たちにとってこのようなメディアを用いない教育を想起すること はもはや難しくなっており,このことが意味するのは,もはや〈生の現実(生 活)〉に教育の絶対的な条件を求めることはできないということである。映画 は,イメージ/表象の世界を〈生の現実(生活)〉のように体験させることが できるという点において,他のメディア以上に現在にまで続く教育の条件を体 現しており,映画と教育という問題を問い直すことは,このような教育の条件
の存立構造を明らかにするうえでも意味があると考えられるのである。
i 当時は「活動写真」という語彙が一般的であったが,本稿では引用部を除いて「映 画」という語彙を用いている。当時の言説を読むかぎり,大正後期になって「映画」
という語彙の使用が増加してきたように思われるが,この語彙の変化をめぐる検討は 本稿の課題を越えるためおこなわなかった。
li 当時の盛り場がどのような意味を帯びた場であったかの詳細にっいては,吉見
(1987)を参照されたい。
血 無論『ジゴマ』という作品の影響力だけがそれを可能にしたわけではないだろう。
しかし,大正期における映画と教育の問題について論じた言説の多くが,『ジゴマ』
をその起点と見なしているという象徴性をここでは重視した。
iv 映画と不良少年・少女との関係に言及した雑誌記事や著作は多いが,一例として東 京区裁判所検事で少年係主任だった鈴木賀一郎のものを挙げておこう(鈴木1923)。
鈴木によれば,映画は少年犯罪の近因でもあり遠因でもあるという(鈴木1923:134
頁)。
v この点にっいては鹿野(1986)が説得的に論じている。
vi このような教育的意識は,当時「新中間階級」を中心に流通していたもので,それ が社会全体に規範化していったことが映画批判の基底にあるのは確かであろう。「新 中間階級」と教育の関係については,小林(1995)を参照されたい。
Vi 映画の教育的意義を国家が積極的に喧伝しはじめた理由の一っとして,乗杉嘉寿と いう文部官僚の存在があったことも重要である(田中1979)。
面 この展覧会とそれ以降の映画展覧会の詳細とその意味については,岩本(1995)を
参照されたい。ix このような視点は,モレンハウアー(1983〔1987〕)によって示唆されたものであ
る。