一ヒトラー・ユーゲントと
朝鮮連合青年団の間(1)
大串 隆吉
目 次
1 第一回のヒトラー・ユーゲントとの相互訪問 1.相互訪問の経過
2.ドイッと日本のねらい
3.異文化体験とファッシズムへの同調 (以上本号,以下次号)
ll皇国臣民化と朝鮮連合青年団の結成 1.結成までの経過
2.朝鮮連合青年団の結成
3.日本青年団絶対論と「新世代」論 皿 世界新秩序をめざすドイツ・日本の青年 1.大日本青年団15回大会と日本の青年 2.ヨーロッパとアジアでの青年の連合
課題と方法
かって,私は地域社会教育史研究はある特定の地域での研究から抜け出し,
日本の資本主義社会の中で生まれた諸矛盾のなかに位置づけることにより世界 的な視野を必要とすることを指摘した(1)。この研究は,その具体化である。
日本の社会教育における国際化は,今に始まった事ではなく,すでに日本の 近代化とともに始まり,青年運動においても大正期におけるマルクス主義,自 由主義の影響に顕著に表れていた。ここでは繰り返さないが青年団自主化運動 においてもそうであった。しかし,民主主義運動の逆の面においても朝鮮の植
民地化とともにその国際化は顕著であった。特に昭和期の戦時体制期には,政 策の面でだけでなく,地域青年の体験として顕著になった。その歴史を画する ものが,ここでとりあげるヒトラー・ユーゲントとの交流と朝鮮連合青年団の 結成及び大日本青年団第15回大会にあらわれた。これらは,地域民衆青年の直 接の国際交流・提携となった。
ヒトラー・ユーゲントとの交流は1938年と1940・41年の二回行われた。それ は書物を通じての国際交流ではもちろんなく,またしばしば行われてきた専門 家やエリート候補者のそれでもなく,民衆青年の国際交流であった。ヒトラー・
ユーゲントとの国際提携のドイッ側の当事者であったラインホルト・シュルツ エはドイツと日本の「今までの国際交流は専門家によるものであったが国民と 国民との交流である」と述べたが(2),これはドイッ青年との交流にっいて言え ばうなづける。
朝鮮連合青年団の結成と1939年の大日本青年団大会のソウル開催もまた,.民 衆青年の国際交流であった。もちろん,日本が植民地化した朝鮮には,後述す るように大日本連合青年団の嘱託となった朝鮮人青年がいた。また,総督府に より青年団も組織されていた。しかし,1939年の交流は,ヒトラー・ユーゲン トとの交流と並んで,青年組織のファッショ化と世界の再分割に寄与するため の青年の交流であった点で,歴史の変わり目をなす,政策的意図を持っていた 点でも重要である。
この研究では,こうした政策的意図のなかで交流と提携が如何なる役割をは たしたのかを明らかにし,その提携に参加した地域青年がそれをどう受けとめ,
政策にどう同調して行ったのかを明らかにする。この青年の交流,提携は,日 本とドイッの,日本と朝鮮の間で行われたのであるから,この研究は日本青年
とドイッ青年との関係史と日本青年と朝鮮青年との関係史の比較であって,ヒ トラー・ユーゲント,朝鮮連合青年団,日本の青年団の比較ではない。
このような関係史の比較にっいての先行研究はないが,ヒトラー・ユーゲン トとの関係及び朝鮮連合青年団の先行研究についてふれておく。
ヒットラー・ユーゲントとの交流について。中道寿一『ヒトラー・ユーゲン トがやってきた』南窓社,1991は,ヒトラー・ユーゲントの日本の青年団・少
年団統合への影響を分析している。同様の研究は,山中恒『ボクラ少国民』辺 境社,1975にもあるが,中道の方がドイツ側の資料も利用しくわしい。藤田正
嗣「資料構成:ヒトラー・ユーゲント鹿児島県来訪日誌」(『VERA」11号,
1986)は,鹿児島県を訪ねたヒットラー・ユーゲントと日本側の歓迎ぶりを資 料を発掘して整理したものである。これらは1940年と41年の相互派遣にっいて 対象にしていないため,交流・提携の意図が世界の再分割の関係で明らかにさ れていない。また両国の青年の相互理解のずれという国際交流にっきものの事 態や両者の意図のずれにっいてふれていない。多仁照廣「ヒトラー・ユーゲン ト覚工書キ」(『日本青年団史研究会会報2』1984)は,日本側の意図に対支政 策を理解させることが,ドイッ側にコミンテルンに対する枢軸側の精神的団結
の誇示があったことを示唆している。
朝鮮連合青年団について。その結成は,戦時体制あるいは皇民化政策の一駒 として論じられている。小沢有作は,朝鮮の植民地教育政策の一っとして,農 村振興政策から皇民化政策の転換に当たって青年団の組織化に軍事的意図があっ
たことを明らかにしている。(3)しかし,全アジアの侵略的再編との関係では触 れていない。松村順子「朝鮮における『皇国臣民』化政策の展開一『皇国』青 年の養成を中心に一」(『史観』86・87合併号,1970)は,皇国臣民化政策のな かで朝鮮連合青年団が結成されたこと,1936年頃農村青年訓練所で中堅青年の 養成が活発化したことを述べている。しかし,宇垣総督下の農村振興運動の為 に行われた農村青年訓練所の目的,したがってその時期の青年団結成と,皇民 化のなかでの青年団結成の目的には違いがあるのだが,それが明確にされてい ない。また,「振興青年団」の結成や道連合青年団の結成について,資料が不 足していたためであろうか,事実誤認がある。青野正明「朝鮮農村の『中堅人 物』」(『朝鮮学報』141,1991)は,農村振興運動のなかでの中堅人物養成の矛 盾を明らかにした労作であるが,青年団の役割にっいてはふれていない。宮田 節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』未来社,1985は志願兵制度を分析し,非常
に参考になるが,青年団にっいてはふれられていない。
要するに,朝鮮の青年団については,朝鮮連合青年団の結成,青年団の存在 は指摘されているものの,通史さえない状況でその性格もまだ充分に明らかに
されていない。韓国での研究は,独立運動に関係した青年会の研究に集中され ており,朝鮮連合青年団の研究はまだ行われていない。
1 第一回のヒトラー・ユーゲントとの相互訪問
1,相互訪問の経過
ヒトラー・ユーゲントとの相互訪問は二回行われている。一回目は1938年,
二回目は1940年から41年にかけてであった。1938年には,日本側とドイッ側各 30名が相互に訪問した。日本側は,帝国少年団協会代表4名,大日本連合青年 団代表14名,大日本少年団連盟代表7名,幹事・通訳等5名っこう30名で,団 長は文部省文書課長朝比奈策太郎であった。ドイッ側は,団長(Fuehrer der Fahrt)ラインホルト・シュルッエ (Reinhold Schulze),団長代理
(Stellvertretender Fahrtfuerer)ロルフ・レデカー(Rolf Redeker)等30名 であった。
日本代表団は,5月27日神戸港を出港し,7月2日マルセーユ経由でケルン 着,以後当時のドイッ領土,すなわち東プロイセン,ポーランドのシレジァ地 方,オーストリアをもまわり,9月15日デユッセルドルフを発ち,パリ・ロン
ドン経由でナポリを出港,11月12日神戸港に着いた。ヒトラー・ユーゲント代 表団は,7月12日ブレーメンを発ち,8月16日横浜港に上陸,沖縄を除く各地 を回り,11月12日神戸港を発ち,エジプトに立ち寄った後,12月17日ブレーメ
ンハーヘンに到着,帰国した。この間,7月12日にはブレーメンで,11月12日 には神戸港で相互の代表団が交歓を行った。
二回目は,相互各6名であった。この時は両者ともシベリア鉄道を利用した。
ドイツ側は・ハインリッヒ・ユルゲンス(Heinrich Juergens)を団長に満州・
朝鮮にたちより,1940年10月27日下関到着,別府,伊勢神宮などを訪ねた後,
11月1日東京に到着,11月10・11日の紀元2600年式典に参加した後,12月始め 日本を発ち,天津,奉天を経て12月末帰国した。日本側は,1941年2月27日ベ ルリンに着いた後,ガルミュシュのパルテンキルヘンで行われていた第5回国 際冬季競技大会を参観した後,ドイッをまわり6月6日ベルリンをたち6月21
日東京に着いた。ドイッのソ連攻撃開始の情報が入った為,予定を切り上げ帰
国したと言う(4)。
この二っの大きな行事の他に,ラジオ放送による相互交流,ヨーロッパ青年 連盟結成大会への参加等があった。
これらの交流のそもそもの前提は,1936年11月25日に調印された日独防共協 定にあったが,先に提案してきたのはドイッ側であった。同年12月7日武者小 路駐独大使を通じて外務省にヒトラー・ユーゲント(正確にはドイツ帝国青少 年指導本部一Reichsjugendfuerer der NSDAP und Jugendfuehrer des Deutschen Reiches, NSDAP−Nationalsozialistische Deutsche Arbeiter−
partei,国家社会主義労働者党,ナチ党一の青少年指導本部を兼ねていた。)が 日本の青少年団体組織の代表者の招待を提案してきているとの連絡があった。
この通知は,文部省と大日本青少年団連盟にまわされ,文部省はあらためてド イッ側に照会し,1937年2月にその回答を得た。それには,ドイッ側と日本側
との相互派遣が提案されていた(5)。
二荒芳徳(大日本少年団連盟理事長)は,1937年7月30日から8月30日まで オランダで開かれた第5回世界ジャンボリーへの出席を予定していたため,そ の帰途にドイツに寄って相談することを計画し,文部省の社会教育課長山川健
と打ち合わせのうえ出発した。二荒は,青少年指導本部の長バルドー・フォン・
シーラッハの招待を受け8月13日ドイッ入国,ブレーメンで開催されたヒトラー・
ユーゲントの北海地域スポーッ大会と第2回パレードに参加し,盛大な歓迎を 受けた後,8月17日にベルリンでシーラッハの次席にあたるシュタブスフユラー
のラウターバッヒャーと会談し,ドイッ側の意志を確認し,同行の宮本守雄
(ジャンボリー派遣団隊長)をヒトラー・ユーゲントとの連絡にあたる大日本 少年団連盟駐独連絡士にする了解をとりっけた(6)。
ドイッ側は二荒の招待を相互訪問の準備と位置づけていた。シーラッハは,
このパレードでの歓迎の挨拶で「日本とドイッの青年は共通の理念をもち,こ の最初の出会いがドイッと日本の青少年指導者の定期的な交歓の始まりとなる ことを期待する」と述べた。この歓迎に対し,二荒はヒトラー・ユーゲントの 教育から学び,統一した青少年組織を日本でも作る必要があると述べたのであっ
た(7)。
この時期,ドイッ側が接触していた日本の青少年組織の代表は二荒であった。
二荒は,ヒトラーが政権iを掌握した直後の1933年シーラッハと会見し感銘を受 け,国家と民族が一体化した第三帝国に共感をもっにいたり,ヒトラー・ユー ゲント型の統一した青少年組織と国家の一元的指導体制を日本に導入しようと した。そして,大日本少年団連盟が国際的っながりを持っていることを利用し て全体主義の国家を警戒する世界のボーイスカウト運動にヒトラー・ユーゲン
トと日本の八紘一宇の精神を理解させ,ヒトラー・ユーゲント,イタリアのジ ルとともに共産主義に対抗する国際青少年組織を造ろうとしていた(8)。
ドイツ側は二荒を日本の青少年組織の代表者として待遇したふしがある。彼 は,全日本青少年団連盟理事長(Oberdirektor des Alljapanischen Jugendverbandes )として紹介された。このドイッ語は日本での名称一大日 本少年団連盟と明らかに異なり,あたかもすべての日本の少年だけではなく青 年も含んだ組織という意味になった。そのうえ彼が伯爵で華族の一員であるこ
とが強調された。彼は,天皇家の一員として紹介された。したがって,ドイッ 側が大きな権威をもった,その意味で日本を代表する組織と考えたのも無理は
なかった。しかし,しだいにドイツ側は日本の青少年組織の実態に気がつきは じめ,1938年には幾っかの青少年組織があり,ドイッに来る代表団はそれらの 代表によって構成されているとはっきり認識した(9)。そして,最終的に大日本 少年団連盟はGross=Japanischer Schuljugend=verbandと訳し直された( °)。
ドイッ側はこうした手を打っ一方で,1938年初頭青少年指導本部の元海外部 責任者(海外部は在外青年ドイッ国民の活動と外国青年との共同活動を担当)
であったラインホルト・シュルツェを駐日ドイッ大使館駐在の地区指導者
(Gebietsfuerer)に任命した。シュルッェが任命されたのは偶然の要素が強かっ た。彼は1937年末NSDAPと仕事上の意見対立が生じ海外部責任者を辞任した。
その時,日本駐在に任命された同僚が,妻に日本行きを反対されたため,かわ りに行くのを引き受けたのであった。1937年5月19日に日本に着任した。彼の 任務は,日本在住ドイッ国民の青年の指導と日本の青年との交流を組織するこ
とにあり,二年の任期であった( 1)。
シュルッェは,1937年9月中旬伊東文部次官などと会見し,計画の具体化を はかった。交流のための予算が帝国議会で通過すると,シュルツェは文部省内 に執務室を与えられた。1938年4月には荒木文部大臣を会長とする日独青少年 団交歓会が設けられた。この間シュルッエは閑院の宮,秩父の宮に招かれ,ま た二荒などに同伴されて関西,四国,九州地方,水戸の内原訓練所に青年団・
少年団のための遊説と見学にでかけた。また,大日本連合青年団と帝国少年団 協会から連絡係を委嘱された。シュルツェはしだいに日本の青少年組織の活動 を知るようになり,それがヒトラー・ユーゲントの日本訪問日程に影響した。
宮崎の労働奉仕団,水戸の内原訓練所の見学が日程に取り入れられた。
このようにして準備が文部省とドイッの青少年指導本部により進められたの であるが,日本側には交流をめぐって外務省と文部省との,また文部省と大日 本少年団連盟との問に競争があった。
外務省は青少年団体の交流を文部省にあずけたが,この交流にさきがけて学 生武道使節団を派遣した。これは,柔道と剣道の大学生選手12名を3月から6 月にかけてイタリアとドイッに派遣したもので,ドイッでの滞在費・旅費はド
イツ側が持った。彼らはミュンヘン,ニュールンベルグ,ベルリンなどで柔道・
剣道の公開演技をおこなうとともに,ヒトラー・ユーゲントと交流した(12)。
他方,大日本少年団連盟は7月から9月にかけて三島通陽を団長としてイタ リアを主眼にドイッも訪問する代表団を派遣した。この派遣は,1937年11月イ タリアが日独防共協定に参加したにもかかわらず,文部省がイタリアへの派遣 団を送る意志がないことから,独自におこなったものであった。ドイッには8 月末,8日間しか滞在しなかったが,ベルリン周辺の青少年宿泊施設を訪ねた( 3)。
このように,ドイッへの訪問がきそって行われた。青少年組織だけではなく,
この年初めには社会大衆党の代表団が訪問し,またドイッと日本のジャーナリ ストの相互派遣も行われたのであった。
2,ドイッと日本のねらい
ドイッは何故熱心であったのか。ヒトラー・ユーゲントの国際交流は盛んに なっていた。外国を訪問した彼らのグループは,1935年186,36年226,37年340
と増えていた。青少年指導本部が1936年に招待した外国人は,イギリス23000 人,スエーデン3673人,アメリカ合衆国3609人,イタリア2544人,その他ベル
ギー,ノルウエー,フランス,オランダ,ポーランド,バルト諸国等であった(14)。
このように,数が多かったのは,1936年にベルリンオリンピックがおこなわれ たことがあろうが,当時ドイッは非常に関心が持たれていた。ナチスドイッは 外国人に大きく門戸を開いていて,観光客は多かった。そして,来訪した外国
人には好感を持っ者が多かった。(15)
青年の外国との交流にNSDAPは熱心であった。特に指導者になるものに。
1933年から設立された国家政治学院(NAPOLA:Nationalpolitishe Erziehun gsanstalt。10才から18才の青少年を対象としたあらゆる領域のエリート養成 機関で1933年3校,34年5校,35年7校建設された。これは政府の科学・教育 省の管轄下にあり,ナチ党の指導者養成のためにはアドルフ・ヒトラー・シュー
レが1937年から建設された。)では最終学年の行事として外国の学校を訪問す ることになっていた。その場合,通常相互訪問の形をとった㈹。
そして,青少年指導本部は1938年を諸国民の青年との相互理解の年にした。
そのねらいは,次の点にあった。第一に,NSDAPに対する国際批判に対し,
他国の青年に第三帝国を理解させること,(外交政策では特にチェコ政策とス ペインのフランコ支持を)第二に1938年8月ニューヨークで開催された第二回 世界青年会議のような共産主義青年が中心となったファッシズム反対運動に対 抗するためであり,第三にドイッの青年が他国の文化と接する事により,自国 の理解を一層深める機会にすること,であった( 7)。これが,日本の青少年指導 者の支持を得たことは二荒の主張でわかるであろう。1938年には,多くの外国 人青年代表を9月に開かれたNSDAPの党大会に招待したのであり,そのひ
とっに日本の青少年組織が入っていたのである。
こうした,全般的な理由の他に,日本の青年との交流の独自の意義は何だっ たのか。ひとっにすでに述べたように,日独防共協定の存在があった。「ドイ ッと極東の大国との間の友好関係のもとで青年組織の素晴らしい,実り豊かな 共同活動がはっきりと見通される」のであった(18)。その上で,臼本との交流が 大洋を越えた外国とのナチス青年の初めての共同活動だったこと。ヒトラー・
ユーゲントの活動を提示する事で,日本の青年活動の参考にさせ,統一した青 少年組織結成のための機会をあたえること。他の国の場合と同様に第三帝国へ の理解と共感をっくること,であった。ドイッ訪問の日本代表団の行事の頂点 は先に述べた全般的な取り組みと同様に党大会への参加にあった( 9)。
そして,次の点もあった。第一に日本訪問の代表団には,日本滞在中のドイ ッ人高等学校教師にドイツの教育状況を伝えることも任務として与えられてい た(2°)。第二に東京で行われる予定であったオリンピックの下準備のために,日 本の状況と日本の青年とのスポーッ交流の可能性をさぐることもあった。しか
し,これは彼らの出発直前の7月5日,日本政府がオリンピック開催を返上し たため取り消された。第三,外交官養成の実習の場でもあった(2 )。以上の他に,
日本への独自の関心があったことも事実であった。日本は,彼らにとって「ヨー ロッパの注意を引いている未知の固有の世界の神秘的な物」を持っ国であり,
「若い,好戦的な国民の生活リズムに同じ鼓動を感じる」ことを通じて「三回 目の戦争をいまや遂行している国民の精神,文化,ヨーロッパとの関係を」明 らかにすることにあった。すなわち,神秘性,精神,文化に対し,また戦争中 のそれらに対する関心があったのである(22)。
以上が,ドイッ側の位置づけであった。その際,ヒトラーの強固な人種差別 主義及び日本人への劣等民族視とドイッ側の積極性との関連に疑問が残るであ ろう。この解明はドイッ外交にかかわることなので本論文の範囲を越えるが,
次のことを指摘しておく。ナチスの時代の外交政策は外務省,ドイツ国防軍,
ナチ党の関係の中で作られた。そして,ナチ党のなかも一枚岩でもなかったよ うである。外務省,国防軍が以前から親中国的であったのにたいし,ナチ党内 部ではリッペントロップなどのように親日論者になった者もおり,ヒトラー自 身政治的に日本との同盟をこばまず,防共協定を結ぶと共に,1938年6月頃か
ら中国との国交を維持しながらも親中国外交から転換しはじめ,同年秋には日 独伊三国同盟の検討を始めていた(23)。
それでは,日本側はどうであったのか。その目的は次の点にあった。第一に,
日独防共協定が前提としてあったことはドイッ側と同じである。第二に日本の 青少年団体の連携を促すこと。第三に,国体の歴史と民族の伝統により国民的
精神が形成されていることを示すこと。第四に,東洋文化の推進力,アジァの 中心勢力としての日本を理解させることにあった。これは,日中戦争での日本 の立場を理解させることでもあった。そのため,日本訪問のヒトラー・ユーゲ ントには,日本古来の伝統的精神と現代の発展,それを支える青少年団体の活 動(特に農村の),わが国固有の神社・武道・修練などに接する機会を持たせ
ることを重点としたのであった(24)。
ところで,第二の点が単なる「連携」にとどまらなくなったこと,すなわち 大日本青少年団の結成にっながったことは,先述した中道寿…の研究で明かで あるが,計画の初期の段階では文部省担当官はそこまで明らかにしていなかっ た。しかし,通訳兼世話役としてlr本代表団に同行した小塚新一・郎は,肖』少年 指導部の関係者に,日本の青年活動の現在の目的は三っの青少年団体の結合に あり,ドイッ訪問がその為の方法と活動を学ぶことにあると明言し,それは計 画のときに一致していたと述べていた(25)。小塚が通訳であったことを考えると この言明はにわかに信じ難いが,この方向を二荒が志向していたことはすでに 見たとおりである。したがって,ヒトラー・ユーゲント型の組織にするための 学習として訪独を位置づけていた計画立案者,実行者がいたことは間違いない。
また,〕独防共協定との関連での位置づけでは,ドイッ側とニュアンスが異 なっていた。先述したように,青年の国際交流をドイッ側は反国際共産主義青 年運動の一環として位置づけていた。日本側には,日独伊防共協定の枠の中で むしろ対中国に関心が集中しており,中国と外交関係を維持していたドイツか
ら日中戦争の理解をとりっけようとしていた。ドイッ側が反ファッシズム運動 として警戒していた第二回世界青年会議に対して,日本外務省はそれに中国の 青年代表が参加することに関心を集中し,この会議に参加しその情報を提供す
るように在アメリカ日本大使館に指示したのであった。大使館は留学生三名を 参加させ,詳細な報告を作らせたのである(26)。そしてまた,日本の対中国政策 を理解させるために在中国のヒトラー・ユーゲントを日本訪問団に合流させた のであった(27)。もちろん,ドイツ側とて反共産主義運動という大儀だけでおこ なったわけではなく,そこにはすでに述べたように,ドイッの対外政策の観点 があった。そして,この両者のニュアンスの違いは,交流にあたって微妙なズ
レを生み出した。例えば,外務省調査部第三課(真鍋)による「ヒトラー・ユー ゲント覚え書き」は,代表団のあいさっや発言から「独逸ハ防共ト言ウ抽象的 ノモノニハ十分日本ト協力スル意志ガアルガ,対支ノ場合ノ如キハ,例へ其ノ 戦ノ目的ガ防共ニアッテモナルベク表面二立ッテ援助スルノヲ好マヌト言フ印 象ヲ受ケタ」と書いた。一方ドイッ側はチェコ問題がドイッに有利に解決した
ことに日本側の歓迎の挨拶がふれないことに不満を述べたという(28)。
3,異文化体験とファシズムへの同調
日本代表団の場合
それでは,どのようにして日本側の団員は選ばれたのであろうか。母体となっ たのは,先述したように大日本連合青年団,帝国少年団協会,大日本少年団連 盟であった。大日本連青は,道府県連合青年団から25歳以下,身体強健・思想 堅実・青年団活動に顕著な業績のある者を推薦させた(29)。大日本少年団連盟は,
16歳以上23歳以下の最低2年以上加盟している連盟員で,英語・ドイッ語の日 常会話を話せる者を募集した(3°)。帝国少年団協会の場合は,明らかにしえない が,指名であったようである。このため,大日本少年団連盟の代表は6名中1 名を除いて高等教育機関の在学生であった。帝国少年団協会は学校少年団の指 導者である教師を選び,大日本連青の場合は,応募者あるいは所属青年団の推 薦に基づき選考を行い,その結果町村団の活動家が多数を占めた。(県連青の 役員は1名だけ)したがって,学歴,会話能力,活動経験は一様ではなかった。
代表団には,日本青年館を中心にして三週間におよぶ合宿訓練が行われた。
その内容は,教練・野営訓練・音楽,見学(理科学研究所・科学博物館・各種 工場・歌舞伎・軍隊など),講義,討論会などであった。講義は,国体の本義・
対満支問題・欧州地理・ドイッ史・日本文化と西洋文化・欧州政局・国勢一般・
最近科学の発達であった。団体規律,日本の精神と日本・ヨーロッパ・ドイッ にっいての知識など入念な準備が行われた。対満支問題にっいての講義は二回 行われ,重視されていたことからみて,ドイツ人に日本の対中国政策の理解を 求めるねらいがあったと考えられる。
彼らは,一般の人からしばしば中国人にまちがえられながら,旅行した。中 道寿一は前掲の著書の中で,代表団がゲッベルスやシーラッハ,ゲーリングな どのナチスの要人達に謁見するにっれ興奮の度合いを高め,それが最高潮に達
したのがナチス党大会への参加であったと述べている。ドイッ側のねらいは成 功したのである。この興奮の中で,日本青年がヒトラー・ユーゲント及びドイ
ッから学び,感動したのは次の点であった。青少年組織の統合の必要性,若者 による青年組織活動,ヒトラー・ユーゲントの施設の立派さと青年施策の優越,
ドイッ青年の体格の立派さ,ナチスの民族共同体への羨望,日本の天皇制とそ れに見られる伝統への誇り。
青少年組織の統合の必要性を感じたことにっいては,中道が明らかにしてい るので繰り返さない。若者による青年組織活動とは,多くの者がヒトラー・ユー ゲントがその指導者であるシーラッハを始めとした青年の手によって自立的に 運営されていると受け取り,官僚や大人(しかも老人)によって支配されてい
る日本の青少年団体の在り方を批判したことである。秋月鏡観は日本の青少年 団は「指導的立場より老人(四〇歳以上)を除き,青年の意気と熱で結合した 団体たるべきこと」と言い,安達猛はヒトラー・ユーゲントの「枢要なる地位 にある人が皆若い。又年長でも彼等の心に青年らしさと若さを持っている」と 指摘し,シーラッハをとりまいて,日本青年の歌を歌ったとき「何だか感激し て泣けそうだったと」とその感動を書いている(31)。そして,彼らが希望した青 年団の自立的運営はナチス体制への同調を促進させた。
ヒトラー・ユーゲントの施設の立派さと青年施策の優越に目をみはった。労 働者は午後五時で仕事が終わることによって青年活動が保障されていること,
いたるところに青年宿泊施設があり,青少年活動のために鉄道運賃が割引であ ること,青少年保護法があることに感心した。そして,男子青年を含あ女子青 年の体格の立派さに感心する。
彼らは,ウィーンで飛行機に乗せてもらい,アウトバーンを通り,HJのグ ライダー訓練を見学するなど,日本の当時の技術水準では得ることのできない 機会にめぐりあった。「テンペルホーフの民間飛行に欧州第一たらんとする姿 を見,毎日幾回となく翅る翼を仰いでその普及に驚く」(32)のであり,アウトバー
ンに驚き,製作機械の優秀さにも驚いたのである。
そして,ナチスの民族共同体精神を羨望する。「金持ちの息子も持たざるも のの子も学力のあるものなきもの,職にっけるもの職なきものも,労働者も,
学生も,あらゆる青年男女が同志として協同体として民族国家第三帝国の建設 に蒸進しているのは実際にみては本当に羨ましかった。」(33)「学生であろうと貴
人の子弟であろうと,学者の子であろうと,皆同様に黒パンをかちって働いて 居る所を見て非常に頼もしく感じた」(34)のである。ここまで書かなくても,多
くの者は統一した協同した活動の姿に感銘を受け,ヒトラーを頂点とした国家 体制に共感している。
以上は,まさに彼等がナチスの国家体制と青年活動に共感したことを示して いた。これは,ナチス外交政策の勝利であった。ナチスのユダヤ人に対する迫 害として象徴的な水晶の夜は,日本代表団帰国後の一一ケ月あと11月8日に起こっ
たが,すでにユダヤ人への迫害は始まっていた。しかし,ユダヤ人への迫害に っいて触れたのは,『大日本青少年独逸派遣団訪独記録」(1939年)で一ケ所だ
けであった。すなわちブレーメンのホテルに泊まった時,「入り口にはられた
『ユダヤ人お断り」の札が吾々の注目を引く」(同書,30p)というだけであっ
た。
彼等は,日本の青年として日本人の誇りを考えた。それは,青年団活動や青 年政策の優越性にあるのではなく,日本精神にあった。「大和魂は世界の優秀 民族たる日本国内の体内に秘められたるものであって,此の魂は世界のどの民 族の何物にも劣らない,しかもそれは国威のしからしめる所である」㈹,「私共
は独逸,伊太利の人よりも体は小さく貧弱であったかも知れませんが,『意気」
に於いては何物にも負けないとの自身が胸中にあふれていました。此の意気も 我国古来の大和魂も武士道も皆之有難い我国から滲み出て来るのだろうと思い
ます」(36)。「欧州各地の雰囲気に浸りつつはるかに祖国日本の姿を顧る事により
今までとは変わった。神の国,日本の有難さと,世界無比の国体をもっ国民の 幸福さであり且っ又国を思うの念を一層強く強く認識した喜びであります」(37)
それでは,ドイッ側はどうみてたのであろうか。「日本の青年グループが表 れる所で,彼等は規律ある行動により強烈な印象を残した。常に友好的で,快
活で明るく,何かを常に熱心に学び,HJとすぐ結びっきを見っけ,彼等と良 い友好関係を結んだ」(38)と評価された。日本の青年達は,ドイッ語の会話が出 来る者はいなかったたあ,英語が出来る者と英語であるいはその筆談で交流し ていた。しかし,英語が出来た者も少なかったから,会話は限られて者しか出 来なかったが,それでもすばらしい印象を与え,交流を楽しむことが出来たと
いう㈹。これは,日本の外交官も認めたところで,ドイッ側の好印象を理由に
毎年の交流が提案されていた( °)。
ドイツ代表団の場合
ドイッ側はどのように選考したのであろうか。団員は,労働者は4, 5名で大 部分は専門学校の学生で,帰国後ヒトラー・ユーゲント・アカデミーに入学す
ることになっていた(41)。先に述べたエーリッヒ・ハウトの回想によれば,多く はギムナジウム卒業で大学入学資格(アビトーア)をとっており,将来外交官 になることを期待されて選考された。そして,選考は本部でおこなわれ,ハウ トには突然,通知が来たと言う。ただし,団員は帰国後,青年指導アカデミー
に入学しなかったようであるC 2)。
日本に来たドイツの青年達が驚いたのは,日本人の国を挙げての歓迎ぶりで あった。それは,横浜上陸時から彼等を驚かせた。日本側は歓迎のため北原白 秋作詞,高梨哲夫作曲「万歳ヒトラー・ユーゲントー独逸青少年団歓迎の歌」
と⊥井晩翠作詞,東京音楽学校作曲「ヒトラーユーゲント歓迎の歌」を準備し,
代表団はこれらの歌とともに迎えられ,訪問先まではしばしば地元の青少年団 体がブラスバンドとともに先導した。神社・寺院と都市・県の文化的中心地で の道路では人々が常に二重の人垣をっくり,ハーケン・クロイッの旗と日の丸 の旗をふって歓迎した。列車の車内は歓迎の日本人で一杯になり,住民は彼等 の列車の停車駅に出迎え,夜でさえ彼等の誰かが停車駅での贈り物の受け取り のため起きていなければならなかった。人々は「ハイル・ヒットラー」を叫ん だ。ショウウィンドーにはヒトラー・ユーゲントの制服が展示され,「ヒトラー・
ユーゲントのように強くなりたければ,森永チョコレートを食べなさい」とい
う広告まで登場した(43)。
その歓迎行事は,訪問先の行政が組織した。例えば,長野県では学務部が中 心になり準備を進め,小海線から軽井沢までの駅での歓迎,軽井沢での交歓会 の出席者,青年団・女子青年団・少年団員の服装の指示などを行った(44)。民衆 の歓迎ぶりは行政の予想を越えた。文部省は主なる通過駅以外での歓送迎はな るべく中止し夜間は中止すること,列車に乗り込むことは禁止することを通達
した(45)。
こうした歓迎は単に,地方行政や民衆,青少年組織だけではなく,政府要人 によって行われた。まさに国賓のようにあっかわれた。彼等が軽井沢に滞在し た時,首相近衛英麿は別荘に招待した。近衛は,防共協定により日本とドイッ は個人主義文明より優れた理想を共有したこと,共産主義の撲滅のために日本 も容共主義,容共支那,支那国民政府壊滅のために闘っていると挨拶し,パー ティでは庭で彼等と腕を組みダンスをし,彼等に歌のアンコールを希望した。
この歓迎ぶりは,彼等をひどく感激させた。公私の別のない歓迎ぶりに感激し ただけでなく,日本人がドイッの文化,特に歌曲を愛好していたということに
も感激したのである(46)。しかし,近衛が政治的意図を持たずに歓迎したと考え るのは早計であろう。防共協定の存在と対中国政策の理解の取付だけでなくこ の時期,ナチスの影響を受けた社会大衆党や政友会の一部などにより,近衛を 党首とした一国一党体制の計画がねられ,それに近衛も乗り気であったし,ま た近衛内閣の5相会議は7月19日にドイツと対ソ軍事同盟を結ぶことを決めて いたからである。
しかし,ヒトラー・ユーゲントは,日本の文化,日本政府が目的とした日本 の精神には違和感を持った。旅館で食事の時まで女性が給仕にっいているのを 不思議におもい,神社の参拝にしばしばっれられていくことに不満を持ち,内 原訓練所の粗末さに驚いたのである。そして,ドイッにとってのチェコ問題の 重要性を日本人が理解してないことに不満を持ったのであった(47)。また,先述
したように日本の対中国政策に理解を示したわけではなかった。神である天皇 の理解も彼等に取って難解であった。エーリッヒ・ハウトは日本に来て,天皇 が日本の精神にとって重要であることは理解できたが,何故そうなのかは理解 できなかったと言う。何故なら,天皇制は世界(ヨーロッパ)で例にない体制
であり,民族・国民統合に苦労したドイッから想像できないからであった。し かし,彼らは日本青年の規律正しさ,友好性,清潔さに感銘を受けた(48)。
そして,彼等はその日本精神を理解しようと努力し,ハインッ・レールは天 照大神以来の歴史を叙述し「日本の将来,それは南,南西方に向かって一大民 族的飛躍が約束される」と書いた(49)。その結果,ドイッと異なる日本精神を鍛 錬に,日本刀に,武道に,富士山に,出征兵士に見ようとし,ベルリンオリン
ピックの選手が軍人となり祖国の危難を救おうとしたことに共感したのであっ
た(50)Q
彼等は日本がナチスのようになっていないこと(ファッシズム体制が完成し ていないこと)に不満であった。シュルツェは,高校のドイッ語教科書にトー マス・マンなどのナチスに逐われた作家の作品が依然として使われていること などから,日本の高等学校には自由主義者が多いと不満をもらし,団員は「ま だ英国式のボーイスカウトの風習が未だに日本で行われているのにはちょっと 奇異な感じを受けたのであった」(51)。これはドイッが臼本のナチスなみのファッ
ショ化を間接的に要求したことを意味した。先のレールの日本は南に行くこと で未来が開けるという発言も考えると,代表団の青年はうぶな青年ではなく,
ドイッの外交方針を積極的に伝えようとした。なぜなら,この年5月にはヒト ラー,リッペントロップは日本がイギリスに対抗するよう一それは日本が北
(ソ連)ではなく南に向かうことを意味した一働きかけることにしていたから
である(52)。
それでは,彼らを迎えた日本の青年はどのような感想を持ったのであろうか。
軽井沢で交流した長野県の青年団員,少年団指導者の感想から見てみよう。
立派な体格,近眼の皆無,統制と秩序ある行動,溌辣たる元気,日本の青年 と打ちとけようとする態度に感銘を受け,そうした青年の国と友邦になったこ と,枢軸国の一員であることに誇りを感じたのである。「日独両国青年の偉大 さに,身も心も,大きく,体内に優越を感じよくぞ日本に生まれたもので,我 等こそ東亜の青年日本なりと思わしめた」のであり,「表面ばかりでなく,し んからガッチリと組んで鍛錬している彼の一行に接しまして,あうゆう人達を どんどん養成している国とお互いに防共協定したという事を実に心強く思いま
す」(53)
しかし,県連合青年団幹事長竹内は,異なった反応をしていた。彼は「ドイ ツ青年から特に学び摂ると言った程のものを感じませんでした」と述べ,しい て言うならと次の点をあげた。ひとっは社交性,二つ目は青年が青年によって 指導されているが,日本では例えばドイツ訪問団の団長が青年でなかったよう に,そうなっていない。第三は,ドイッでは青年が国家から愛されているのに,
日本では補助金ひとっとってみても微々たるものだということ,であった(54)。
このような意見は,訪独青年も持ったものであり,それがナチス体制への共感 を意味したことはすでに指摘した。竹内も茶話会で枢軸国の連帯とナチスドイ
ツによるドイッ再建に奮闘するとしてヒトラー・ユーゲントへの敬意を表した。
それでは,なぜ竹内は学びとるほどのことを感じなかったと言ったのであろ うか。それは,日本人の「誇り」を示したたかったからである。彼は茶話会の あいさっで,ドイッとの対等の立場を,ドイッ青年団が日本の青年団を参考に して出来た事を指摘し,日本の国体と民族精神を正しく認識するよう期待した
・のである(55)。
こうして,ヒトラー・ユーゲントを迎えた日本青年も,訪独青年と同様に,
ナチズムへの支持ないし共感と日本の国体と民族精神への誇りを感じたのであっ た。結局,第一回の交流は,ドイッの青年よりも日本の青年に思想の面でも青
少年団体の展望においても大きな影響を与えたと言えるであろう。それは,枢 軸国への一体感と天皇制への一体感を増幅させ,青少年団体のファッショ的統 合の必要性を自覚させたのであった。
交流とヒトラー・ユーゲントからの日本側の学びは,亡命ドイッ人や植民地 朝鮮の青年にとって抑圧を意味した。ドイッを逐われた哲学者カール・レービッ トはそれを書き残している。ユダヤ人のためマールブルグ大学を逐われ東北帝 国大学に招かれていた彼は,ヒトラー・ユーゲントが軽井沢に滞在していた時,
避暑のため同地にいた。ヒトラー・ユーゲントの軽井沢での行進を見たとき,
「思想というものをいっさい頭から追い出すのにひっきりなしに行進させ歌を 歌わせる」のが一番だと言ったP博士に同感した。「東方でも鈎十字から逃げ られなかった」のであった(56)。ナチスドイッからの亡命者にとって,この交流
は抑圧を感じる以外のなにものでもなかったのである。
そして,またこの交流に複雑な立場をとった朝鮮人がいた。それは,訪日代 表団通訳の一人姜世馨(完奉)(カン・セヒョン(ワンボン))であった。彼は
日独文化協会の職員として,来日したシュルツェの通訳をしばしば行い,団長 の通訳として代表団に随行した。日本政府の資料によれば次の経歴の持ち主で あった。1903年生まれ,朝鮮在住中独立運動に参加し,1920年懲役刑をうけた。
その後,日本に渡航し東京でも民族運動を行っていたが,上智大学哲学科に入 学し卒業後1930年にベルリン大学に留学,1934年に日独文化協会の職員となっ
た。
代表団随行中の彼の態度は,日本人関係者に好ましいものと映らなかった。
大阪府知事は「言動には往々にして好ましからさるものありて殊に此種微妙な る親善関係の公式仲介者としての役割に関与せしむるは適当と認め難き点ある」
と政府に報告した。その例として,大阪で写真撮影禁止地区をヒトラー・ユー ゲントの団員が撮影しようとしたのを官警が制止したさい,それに抗議したこ と,日本人に丸刈りが多いわけを聞かれて,日中戦争が長期化し経済的に苦し くなり頭髪の手入れができないからと答えたことが挙げられていた。また,日 本精神の真髄を認識させるのに適当だと考えられたことにっいての通訳が形式 的であったり,通訳をしなかったことも挙げられていた(57)。
しかし,彼は1941年には朝鮮で『毎日申報』のドイツ留学生座談会に登場し,
ナチスドイッがヒトラー・ユーゲントにより青少年訓練に力を注いでいること を紹介し,当時朝鮮において進められていた青年の軍事訓練の参考にさせた㈱。
日本とドイッの,交流当事者の青年たちにとっての意味は,政治的にだけと らえるわけにはいかない。それは,彼らが戦後,日本代表団員同士あるいはド イツ人代表団員同士で集まり,かっ相互に交流を復活させた意味にかかわって いる。ヒトラー・ユーゲントの青年にとって,日本訪問は人生において強烈な 体験であった。それは,地球を半周する船旅であり,その途中で見聞したもの,
そして日本で見聞したものは,彼らの記憶にいっまでも残るものであった。そ して,戦後に戦前と異なった新たな関係を作りだそうとする気持ちを起こさせ
るものであった(59)。
注
(1)拙稿「地域社会教育史研究の方法」津高正文編「地方社会教育史の研究一日本の 社会教育第25集」東洋館出版,1981
(2)「歓迎の子供に頬ずり,母親達をうれしがらす」『信濃毎日新聞」1938年8月24日
(3)小沢有作『民族教育論」明治図書,1967。87p
(4) 『大日本青少年団史」日本青年館編・発行,1970。235p
(5)柴沼直「日独青少年団交歓に就いて」『青年教育時報』14号,1938年6月及び二 荒芳徳「独逸青少年団訪問記」『少年団研究」15巻1,1938年1月。柴沼は当時文 部省青年教育課長
(6)二荒前掲稿。『日本ボーイスカウト運動史」同編纂特別委員会編,ボーイスカウ ト日本連盟発行,1973によれば,二荒のこの訪問が機縁となって相互訪問が出来た と書いているが,二荒は文部省の意向により打診したに過ぎない。
(7) 「Der zweite Gebietsaufmarsch des Nordsee−HJ(北海ヒトラー・ユーゲント 第二回地域パレード)」『Voelkischer Beobachter」(VB.と略す)1937年8月15日 及び「Japanischer Urteil ueber Deutschland(ドイッにっいての日本人の評価)」
同1937年8月18日
(8)二荒前掲及び「来年より進むべき吾人の進路」「少年団研究』15巻12,1938年12 月。及び同著「独逸は起ちあがった』実業の日本社,1938,1−39p。
(9) 「Deutsch=japanisher Jugendaustausch(ドイッー日本青年交流)」『Reichs・=
Jugend−Pressedienst」(RJP.と略す)Nr.44,1938年2月22日。すでに『Wille und Macht』シーラッパ編集, NSDAP中央出版の第6巻,1937年3月号にのっ たJunyu Kitayama「Die Oraganisationen der japanischen Jugend(日本青年 の諸組織)」は,大日本少年団連盟を紹介していなかった。
(10)「Japans Jugend einig(日本青年統一す)」『Das junge Deutchland」35巻3号,
1941年3月
(11)シュルッェ『Skizzen auf meinem Leben(我が人生の覚え書き)』私家版,1984 24−25p。シュルッェは,1905年生まれ,ミュンヘンの工業大学在学中1929年に NSDAPに入党,その後ナチの学生組織ドイッ学生同盟の幹部となった。
(12)多羅尾光道「独伊の青少年に接して」『青年教育時報』17号,1938年9月,「Jap an Judo−und Kendoumeister zeigten Ihre Kunst(日本柔道・剣道選手は彼らの 術を示した)」VB.1938年5月27日。 VB.の記事に依れば,ベルリン・クッペルザー ルの公開演技には,ドイッ側からヒトラーユーゲントの代表だけでなく,政府・ナ チ党・国防軍・警察の代表が参加し,ドイッの柔道選手も演技し自己防衛のために 柔道が有効だと評されたと言う。
(13) 『日本ボーイスカウト運動史』前掲によると,文部省は訪独代表団がイタリアを 経由して行くから,独自に送らなくても良いということであった。同書200p。「Ei ne zweite japanische Jugendgruppe im Reich(帝国に二番目の日本青年グルー フ゜)」RJP. Nr.199,1938年8月28/29日
(14)Michael Buddrus「Zur Geschichte der Hitlerjugend 1922−1939」第2巻,博 士論文,1989。73p
(15)ウィリアム・シャイラー,井上勇訳『第三帝国の興亡一戦争への道』東京創元社,
1961,8−10p。著者によれば,ロイド・ジョージのような聡明な者まで総統に魅了 されて帰国し,「ことに英国やアメリカからの客は,自らの目で見たものにたいへ んな感銘をうけた」と言う。しかしながら,他方でナチスに警戒感を持っ者も少な くなかったようで,後掲のコッホによれば,NAPOLAのイギリス訪問者はイギリ スの学生が反ナチであることを感じたという
(16)H.W.コッホ,根本政信訳『ヒトラー・ユーゲント」サンケイ出版,1981,158p。
(17) 「Von der Ergebnissen der modernen Jugenderziehung(現代青年教育の成 果に就いて)」『Sonderbeilage der VB zum Reichsparteitag(帝国の党大会のた めのVB特別号)』1938年12月
(18)VB.1937年8月14日前掲。
(19) 「Deutsch=japanischer Jugendaustausch(ドイッと日本の青年交歓)」RJP Nr.4422.21938及び「Japans Jugendfuerer ueber die HJ.(ヒトラーユーゲン トについて日本の青年指導者)」同Nr.18816.81938
⑳ 「信濃毎日新聞』前掲
⑳ エーリッヒ・ハウトによる。ハウトはこの当時,ドイッの北部都市シュッラーズ ンドのヒトラー・ユーゲントのスポーッ活動担当をしていた。彼が代表団員に選ば れたのは,スポーッ活動家として第二の任務を担当するためであったと言う。代表 団の多くがアビトーア取得者であったのは外交官にするためであったと言う。エー リッヒ・ハウトには1995年9月9日にヴォルヘンビュッテルの自宅でインタビュー をおこなった。
⑳ 「HJ.−Fuehrer erlebten Japan(ヒトラー・ユーゲント指導者は日本を体験し た)」VB 1938年12月17日。なお, Brend Martinは,当時ドイッは日本に対し優 越感と異国情緒的関心及び驚くべき軍事的成功への賞賛という相反する見方を持っ ていたと指摘している。この指摘はこの場合にもあてはまる。同著「Japan and Germany in the Modern World』Berghahn Books 1995,参照
⑳ テオ・ゾンマー『ナチスドイッと軍国日本」金森誠也訳,時事通信社,1964及び 田嶋信雄『ナチズム外交と「満州国」』千倉書房,1992参照。シーづッハがこれら の関係の中でどのような位置におり,ヒトラーがどのようにかかわったのかを明ら
かにすることはこれからの課題である。
⑳ 文部省社会教育局青年教育課「日独青少年団交歓について」「青年と教育」3巻 4号,1938年4月
㈱ 「Japans Jugendfuere ueber die HJ.」前掲RJP, Nr.188
㈱ 『世界青年会議関係一件」外務省外交資料館所蔵
⑫7)外務省は,「支那にある独乙人の対日本認識は従来兎角不十分なる憾ありしに鑑 み此の機会に於いて在支「ヒットラー・ユーゲント」約百名中より十名及至十五名 代表を選抜せしめ一中略一訪日「ヒットラー・ユーゲント」旅行に随行せしめ」る ことを文部省に了承させ,上海から8名,青島から4名を参加させた。「日独青少 年交歓に関する件」外務省堀内次官から伊東文部次官宛,1938年7月15日,『各国 少年団及青年団関係雑件』外交資料館文書。なお,ドイッと日本の対中国認識のず れは大きかった。ドイッは親中国政策をとってきた。満州国承認が1938年2月と遅 く,軍事顧問団引き揚げはヒトラー・ユーゲント代表団来日の同年7月であったし,
ドイッは中国との国交を維持した。すでに述べたようにドイッは親中国政策から転 換し始めていたものの,日本政府はいらだちを持っていた。
⑱ この点にっいては,多仁照廣「第十二回例会報告・「ヒトラー・ユーゲント覚エ 書キ』」「日本青年団運動史研究会々報』2,1984の示唆に負うところが大きい。な お,真鍋は外務省から代表団に同伴し,この年12月に外務省への報告をまとめた。
それがこの「覚え書き」である。『各国少年団及び青年団関係雑件』前掲所収
②9) 「日独青少年団交歓の大要」「青年』24巻3,1938年4月
BO) 「日独交歓少年団代表京城府列口口選抜応募口口口゜1司司叫」「毎日申報」1938
年3月3日
Bl)安達猛「ドイツ青少年教育の目標」「大日本青少年独逸派遣団員感想集』1939,4p B2)土肥善雄「ケルンよりハンブルグまで」『旅』14巻1号,1939年1月
B3)安達猛「結束しましょう」『少年団月報」9,1938年12月28日 B4)林正巳「独逸の印象」前掲『感想集』54p
B5)村上二四夫「質実・勤勉・明朗」前掲書150p B6)松井保作「独逸国の荒廃を担う青少年」前掲書144p B7)砂川格三「ドイッ旅行を終えて」「少年団報』前掲
B7) 「Der deutsch=japanische Jugendfuereraustausch」RJP前掲
㈱ 「Japanische Jugendfuerer besuchten Luebeck(日本の青年指導者リ=一ベッ ク訪問)」「Luebecker Volksbote』1938年7月18日あるいは「Gespraeche mit Jung−Nippon(若い日本との会話)」VB.1938年7月9日
qo) 「訪独日本青少年団のウイーン訪問に関する件」ウイーン総領事山路章から外務 大臣近衛文麿あて,1938年10月1日。『本邦少年団及青年団関係雑件」前掲
ql) 「胸問にナチ章燦然!」「読売新聞」1938年8月17日,これは,団長代理レデカー の談話となっている。ヒトラー・ユーゲント・アカデミーは正確には青年指導アカ デミー,Akademie fuer Jugendfuerungで,ヒトラー。ユーゲントの指導者養成 のために1938年ブラウンシュバイクに設立された。このアカデミーに入るための四 条件の内に職業教育修了かアビトーア取得があった。建物は改装され現在も他の団 体に使われている。
q2)エーリッヒ・ハウトの1995年10月10日付けの筆者宛の書簡。それによれば「アカ デミーは1939年8月に最初の課程がはじまったが,同年9月に戦争が始まり,ヒト ラーユーゲントの指導者層の8割が兵士になったたあ,その課程は一時的なもので 終わった。それ以後,通常の課程は開かれなかった。我々のグループ(代表団一引 用者)の誰かがそこに行ったということは一度も聞いていない。」
(43)Artur Axman『Das kann doch nicht das Ende sein(それは終わりなること ができない)」Bueblis Verlag 1995。「Mit HJ auffahrt in Japan(ヒトラー・ユー ゲントとの円本旅行)」「Junge Welt』1巻5,1939年8月。
幽) 「日独青少年団交歓二関スル件」長野県学務部長,1938年7月29U及び「日独青 少年団交歓』(長野県)。後者には,小海・中込・岩村田・小諸・軽井沢各駅での出 迎え人数・団体,プログラムが記載され,青年団員は団服・戦闘帽,女子青年団員 は紺色の団服,少年団員は所定の団服を着用することが指示され,歓迎用日独国旗 は県で作成するとなっている。
㈲ 「文部省青年教育課長より9月30日付け鹿児島県学務部長宛通知」藤田正嗣前掲 稿
@6) 「首相の招待に喜ぶ彼等」「信濃毎日新聞』1938年8月28日および「Die Japaner lieben unsere Lieder(日本人は我々の歌を愛好する)」RJP 291,1938年12月15日,
および「Japanischer Bilderbogen(日本の絵草紙)」RJP297,38年12月22日
@7) 「Junge Welt」1巻5前掲及び「ヒトラー・ユーゲント覚え書き」前掲
㈲ エーリヒ・ハウトによる。また前掲の「ヒトラー・ユーゲント覚え書き」にも次 のような記述がある。「彼らが日本に感心して帰った事は確かである。支那位に思っ て来たのではないかと思う。支那は実に汚い,秩序も何もない,目茶な国だ,それ に引きかえ,日本は実に清潔だ,秩序がある,立派な国だと思うと」
㈲ ハインッ・レール「日本発展の歴史」「旅」前掲
60) 「日本青年館の宿舎にヒトラー・ユーゲントと語る」「青年」23巻1,1938年11月 61) 「ヒトラー・ユーゲント覚え書き」前掲及び「日本青年館の宿舎にヒトラー・
ユーゲントと語る」前掲
62)テオ・ゾンマー前掲書165−168p
63)軽井沢町連合青年団長と北佐久郡連合女子青年団副団長の感想『ヒットラー・ユー