早稲田大学政治学研究科
博士学位申請論文審査報告
博士学位申請者 上原 賢司
論文題目 「複数国家からなる一つの世界におけるグローバルな正義」
論文書式 A4横書き(40字×36行)、目次1頁、本文・脚注105頁、文献8頁 受理決定日 2015年4月15日
審査委員 主査 齋藤 純一 早稲田大学政治経済学術院教授 副査 押村 高 青山学院大学国際政治経済学部教授 副査 谷澤 正嗣 早稲田大学政治経済学術院准教授 最終口頭試問実施日 2015年8月3日 於3号館1103教室
1. 論文の構成
本論文は、第1章~第6章および結論から構成されている。
目次
第1章 序論
1 本研究で検討していく問い──グローバルな正義論のどの点を論じていくのか 2 先行研究との関係性と本研究の主張
3 直近の先行研究との関係性と本研究の特徴 4 本論文の構成
第2章 グローバルな正義をめぐる二つの理想 1 イントロダクション
2 現実主義的な国家主義と理想主義的なコスモポリタニズム?
3 グローバルな正義と正義の情況 3. 1 正義の情況
3. 2 正義の情況に立脚するグローバルな正義の二つの理想理論 4 二つの理想とありうる非理想理論
4. 1 コスモポリタニズムの非理想理論とその課題 4. 2 国家主義の非理想理論とその課題
5 結論
第3章 国際的な援助の義務の優先性 1 問題の所在
1. 1 国際的な援助の現状と優先性の問題
1. 2 規範理論における国際的な援助とその優先性 2 ロールズの援助の義務
2. 1 援助の義務の対象と目的 2. 2 援助の義務に関する三つの指針
2. 3 国際的な正義の一原理としての援助の義務の意義 3 援助の義務と優先性の問題
3. 1 「政治家」の役割の重視 3. 2 世代間正義の原理からの類推 3. 3 援助の義務の拡大解釈
4 国内的な社会正義の延長としての国際的な援助の義務
5 結論
第4章 グローバルな正義の義務と非遵守
1 絶対的貧困の根絶というゴールと私たちの取り組み 2 消極的義務としての世界中の絶対的貧困とのつながり 3 不正な状況下で私たちに要求されるもの
4 理想と現実のギャップを前に私たちがなすべきこと 第5章 グローバルな正義と諸国家
1 イントロダクション
2 正義の射程の拡大と国家の意味
2. 1 国内社会と国外関係との制度的分業論:国家主義 2. 2 グローバルな正義への道具的手段としての国家 2. 3 二つの立場の同質性
3 主題としての社会の基本構造論とグローバルな正義 3. 1 社会の基本構造の重要性
3. 2 グローバルな基本構造への正義?
4 各国国家の相互作用とグローバルな基本構造との分業論 4. 1 グローバルな基本構造への着目の重要性
4. 2 国家に対する相互行為的な正義の原理の重要性 4. 3 グローバルな制度的正義と相互行為的正義との差異
5 結論
第6章 「国際的な」分配的正義 1 分配的正義の範囲をめぐる論争 2 分配的正義の範囲と制度的関係
2. 1 国家と分配的正義の範囲
2. 2 コスモポリタンの主張と制度的関係 3 グローバルな分配的正義の何が問題となるのか
3. 1 グローバルな分配的正義への国家主義からの反論 3. 2 集団的自己決定の尊重による反グローバルな分配的正義 3. 3 国内的な分配的正義とグローバルな分配的正義の緊張 4 国際的な分配的正義という応答の必要性
4. 1 国境を越えた制度的関係と国際的な分配的正義
4. 2 国内的な分配的正義と国際的な分配的正義との相互関係
5 結論
結論 参考文献
2. 論文の概要
本論文は6つの章および結論から構成されている。
序論に当たる第1章では、本論文の研究課題の概要と、それに対する先行研究の位置づ け、さらに先行研究の問題点の整理がなされている。そこで示される本論文の特徴は次の 二点である。一つは、グローバルな正義論において、制度的関係から分配的正義の要求が 生じるという理論的前提(「関係的な正義構想」)が置かれていることを指摘し、そこか ら従来の対立軸の再編を行っていくという点である。二つめは、グローバルな正義論が提 示するさまざまな正義構想を、理想の描写に関わる「理想理論」と、理想実現に向かう上 での道徳的指針の提供に関わる「非理想理論」とに分節化して、先行研究の内容を整理し 直し、批判的に検討していくという点である。
第2章「グローバルな正義をめぐる二つの理想」では、これまで現実主義的な国家主義 と、理想主義的なコスモポリタニズムという構図で理解されがちであったグローバルな正
義論における二つの潮流を整理し直す。これら二つの立場は、いずれも国境を越えた分配 的正義のあり方に関するものであり、言い換えればその対立は、あるべき世界の描写をめ ぐる対立として理解できる。しかも、「正義の情況」を前にして、分配的正義の枠組みに は世界中の人々が組み込まれなければならないという共通の問題関心に鑑みるならば、二 つの立場がともに理想理論として成り立ちうることが示される。にもかかわらず、そうし た理想理論に照らして構築される非理想理論(移行期の理論)の内容如何によっては、い ずれの正義構想も非現実的なものとなってしまうことが明らかにされる。したがって、国 家主義とコスモポリタニズムのグローバルな正義構想を検討・評価していくためには、そ れぞれの正義構想がいかにして非理想理論の課題に適切に応答できているかこそが問われ なければならない、と論じる。
続く二つの章では、前章での問題提起を受ける形で、国家主義とコスモポリタニズムの 代表的論者の非理想理論に焦点を絞り、それぞれの議論が含む難点とその克服方法が検討 される。この考察を通じて、いずれの立場においても非理想理論の課題に適切に応答して いくためには、グローバルな制度的関係および各国家の対外的な振舞いという二つの観点 をともに考慮することが必要になる、と論じられる。
第3章「国際的な援助の義務の優先性とジョン・ロールズの「援助の義務」」では、ロ ールズの非理想理論の一つにあたる「援助の義務」について批判的検討がなされる。ここ での問題は、援助の義務の履行と、国内社会の不平等是正をはじめとした国内的社会正義 の追求とのいずれにより重点が置かれるべきなのかという、援助の義務の優先性に関する ものである。自国の政府が、国内的正義の達成を優先するという理由からグローバルな正 義の義務を遵守しないとき、市民はどう対応すべきなのか。援助の義務の性質や目的を踏 まえた場合、現実世界においてこの義務が遵守されていない状況そのものをいかにして変 革していくべきかが非理想理論における重要な課題であるにもかかわらず、ロールズ自身 の議論はそれに十分に応えられていないことが明らかにされる。こうした検討を経て本章 では、この課題への応答として、グローバルな正義の枠組みのなかで国内的な社会正義を 構築していく作業が必要になると論じられる。
第4章「グローバルな正義と義務の非遵守」では、コスモポリタニズムの代表的論者の 一人であるトマス・ポッゲの議論が非理想理論の観点から検討される。ポッゲは、途上国 の絶対的貧困に代表される、グローバルな制度的関係から生じる深刻な問題を「グローバ ルな不正義」と呼ぶ。そしてそうした不正義の存在を「消極的義務」違反とみなした上で、
その解消という義務の履行を先進諸国の市民に訴えかける議論を展開している。その際注 目されるのは、前章で取り上げたのとは別の非遵守の問題、すなわち、グローバルな正義 の義務を他国が遵守していない状況(部分的非遵守)の中でいかに自国は振舞うべきなの かという問題である。ポッゲの議論はこの問題にいかに応答しうるのか。ポッゲの解答に 伴う困難は、グローバルな不正義の除去という最低限の正義の要求と、その実現に向けて 要求される積極的責務(消極的義務の履行が不利にならないような制度的枠組みの創出)
の履行の公平さとが、部分的非遵守という現今の状況下において緊張関係に陥ってしまう、
という点である。この難題に応えていくために本章では、コスモポリタニズムにおいても、
非理想的な条件のもとでは、グローバルな制度に関わる道徳的指針と、行為主体としての 各国家の取るべき振る舞いに関する道徳指針とが、ともに提示される必要があると論じる。
こうして、非理想理論の課題に応答するためには、グローバルな制度的関係と、そのも とでの各国家の存在という「制度の二重性」を理論的前提に再配置することが必要である ことが示された。次の二つの章では、この前提にしたがって既存のグローバルな正義構想 が再検討される。それを通じて、従来の論争軸である、国家主義とコスモポリタニズムと の対立を架橋するとともに、この対立にとどまる場合には見出すことのできないグローバ ルな正義構想が明らかにされる。
第5章「グローバルな正義と諸国家」では、このような制度的関係の二重性——「複数 国家からなる一つの世界」——という前提が、グローバルな正義において少なくとも二種 類の正義構想を要求することになる、と論じられる。とりわけ、制度的関係から分配的正 義を論じる論者において共有されている観念の一つである、「社会の基本構造」という観 念のグローバルな適用の含意を探ることで、グローバルな正義の多元的性格が明らかにさ れる。「社会の基本構造」に関する議論を参照していくなかで、グローバルな正義におい てグローバルな制度と各国家の制度の間の分業を想定すべきであること、言い換えれば「グ ローバルな制度的正義」(グローバルな制度そのものの正しさ)と「グローバルな相互行 為的正義」(各国家の振る舞いの正しさ)とを別個に問う必要性が生じることが明らかに それる。そして、非リベラルな社会への寛容についてのロールズの議論の批判的検討から、
この二種類の正義の内容を異なったものとして理解すべきである、と主張される。
第6章「「国際的な」分配的正義」では、「グローバルな制度的正義」の主張と「グロ ーバルな分配的正義」の主張との関係が検討される。コスモポリタニズム論者の主張する グローバルな分配的正義に対する国家主義の批判の根拠は、各国の国内社会における分配 的正義構想の追求が否定されてしまうという点にあった。したがってこの批判は、国外に おける分配的正義の可能性や必要性自体を否定するものではない。そこから本章は、グロ ーバルな制度的関係を前提とした場合、国家間の相互関係から生じることになる財の多寡 を考慮の対象として限定する、「国際的な分配的正義」の要求が生じることになると主張 する。
結論は、本研究の主張するグローバルな正義構想の内容およびその論拠を再確認する。
その構想とは、「複数国家からなる一つの世界」という理論的前提から出発することで、
制度に関する正義を、各国家という制度とグローバルな制度の観点から二元的に捉え、限 定的な分配的正義の要求を掲げるものとしてグローバルな正義を理解するものである。
3. 論文の評価
本論文は、国境を越えた正義/不正義という規範的問いの探求を目的とするグローバル な正義について、分配的正義の観点から考察し、新たな見解を提示したものである。本論 文の意義は以下の三点にまとめられる。
第一の意義として挙げられるのは、グローバルな分配的正義の構想として従来示されて きた二つの立場(コスモポリタニズムと国家主義)のいずれかを他方に対して擁護するので はなく、双方の理論的難点を指摘するとともに、双方に共通する前提を見いだし、そこか ら出発しながら、新たなグローバルな正義構想の骨格を提示したことである。
従来の研究は、国内的な社会正義論をそのままグローバルに拡張すべきとするコスモポ
リタニズムと、国内社会とは別の、より限定的なグローバルな正義を主張する国家主義と いう二項対立の枠組みのなかで進められてきた。これは財の分配状況をめぐる正/不正を 問う分配的正義の探求が、グローバルなレベルにおいてもなされるべきなのか(コスモポリ タニズム)、それともあくまで各国内でなされるべきなのか(国家主義)という、分配的正 義の射程をめぐる理論的な対立があることを意味している。
このような状況に対して、本論文は従来とは異なる応答を示している。それは、国内と 世界における制度的関係の二重性——「複数国家からなる一つの世界」という本書の標題 はこの二重性を指している——が、グローバルな正義論の理論的前提に据えられるべきで あり、グローバルな分配的正義の構想も、この二重の制度的関係に対応して、各国間の相 互行為的正義とグローバルな制度的正義とに分節化されるべきである、という応答である。
本論文の第二の意義は、理想理論と非理想理論という方法論的区分に関して、後者のさ らなる検討の必要性を指摘したことである。本論文は、従来のグローバルな正義論におけ る理想理論を直接批判の対象とするのではなく、その理想の条件整備に関する非理想理論
(「移行期の理論」)に着目することによって、従来の研究を拘束してきた対立軸の架橋 を試みている。理想理論の相違にもかかわらず非理想理論においては前提と課題が共有さ れており、それを踏まえて理想理論そのものの再構成がはかられるべきであるという本論 文の指摘と主張は、グローバルな正義論にとどまらず政治理論全般における非理想理論へ のさらなる注目の必要性を喚起している。
第三の意義は、本論文が、ロールズの『諸人民の法』以降活発になったグローバルな正 義論の最新の研究成果を含め、この主題に関する重要な先行研究をほぼ網羅的に取り上げ、
しかもそれらに対して適切な評価と位置づけを与えていることである。このことを通じて 本論文は、グローバルな分配的正義を今後論じていく際に考慮・検討されるべき論点と課 題を明示することに成功しており、この分野の研究水準を引き上げることが期待できる。
最終口頭試問および論文審査委員会では、以下の点が審査委員より指摘された。
1)本論文は二つの「基本構造」(制度的関係)の違いを重視しているが、それらの相違点、
またそれらの間の相互作用——影響関係のみならず(法)規範の生成・変容を含む——につ いての論述はまだ十分に展開されているとは言えない、2)本論文は国家主義とコスモポリ タニズム双方の理想理論に代わる独自の理想理論の構想を提示しているが、それが具体的 にどのような制度デザインをともなうか——とくにその制度が人々にどのような諸権利を 保障するのか——についてはまだ十分な議論が示されていない、3)本論文は『諸人民の法』
におけるロールズの議論を分析することを通じて国家主義もまた暗黙のうちにグローバル な基本構造を想定していると論じているが、これは論争的な主張であり、予想される反論 に応える準備が必要である、4)相互行為的正義の構想については、そのアクターの範囲、
各アクターの交渉力や影響力の違い、またリベラルな社会が非リベラルな社会に対してと るべき態度などについてさらに議論を詰める余地がある、5)本論文は関係論的正義論を予 め考察の対象として前提としているが、功利主義を典型とする非関係論的なグローバル正 義の構想に対する批判が示されてもよかった、6)本論文は各章の関連が明確であるとの印 象を読者に与えないおそれがあり、その点について論述を整理、改善したほうがよい。
審査委員によって指摘されたこれらの問題や課題は、基本的に、今後の出版や研究にむ けてのアドヴァイスと言えるものであるが、本論文が独自性の高い議論を行っていること
もあり、まだ十分に詰められていない箇所があるのは否めない。しかし、このことによっ て、国家主義対コスモポリタニズムという従来の枠組みを越えようとする本研究の価値が 損なわれるわけではない。
4. 結論
本論文は、分配的正義に関して国家主義かコスモポリタニズムかという従来の二者択一 に代わる新たなグローバル正義論の構想を提示するものであり、とりわけ制度的関係の二 重性に注目して、グローバルな制度的正義と各国の相互行為的正義とを分節化し、その双 方がグローバルな正義の構想にとって必要であることを論証したことは本論文の大きな貢 献である。また、理想理論と非理想理論との関係について本論文が示した分析は、グロー バル正義論の研究水準を引き上げるだけではなく、規範的な政治理論一般における研究の 進展にも寄与するものである。審査委員一同は、これらの学術的貢献を高く評価し、本論 文は、博士(政治学)の学位を授与するに相応しいものであると判断する。
2015年9月20日
齋藤 純一 押村 高 谷澤 正嗣