著者 杉戸 信彦
出版者 法政大学人間環境学会
雑誌名 人間環境論集
巻 14
号 3
ページ 171‑194
発行年 2014‑03
URL http://hdl.handle.net/10114/9088
1847年善光寺地震の
地表地震断層に関する既存資料の整理
Compilation of Previous Reports on Surface Ruptures Associated with the 1847 Zenkoji Earthquake
杉戸 信彦 Nobuhiko Sugito
1.はじめに
活断層から発生する大地震の規模や強震動を適切に予測するためには、変動地 形学的手法に基づいて、活断層と地表地震断層の関係をくわしく検討する必要が ある。しかし約2000の活断層が分布する日本列島であっても、こうした検討の対 象となりうる事例は決して多くない。とくに逆断層型の活断層に注目すると,明 治以降に顕著な地表地震断層が生じた事例は、1896年陸羽地震(松田ほか,1980 など)や1945年三河地震(杉戸・岡田,2004など)など数例のみである。
そこで本稿では、江戸時代後期に長野盆地西縁断層帯から発生し顕著な地表地 震断層が生じた1847年善光寺地震に着目し、航空写真判読と現地調査、ならびに 既存資料のまとめを実施して、地表地震断層の出現位置と特徴を変動地形学的観 点から図表に整理した。
長野盆地西縁断層帯(図1)は、関田山地から犀川丘陵の東縁部に発達する西
側隆起の逆断層帯であり(Okada and Ikeda,2012など)、最新活動である1847
年善光寺地震の際には大部分が活動した(Sugito et al.,2010など)。地震の規
模はM7.4と推定され、死者は8174名に及んだ(宇佐美ほか,2013)。
中田・今泉編, 2002 )などを参考とした。 Sugito et al. ( 2010 )や杉戸ほか( 2013a , b )に掲載の知見も反映させた。
図 1 長野盆地西縁断層帯の分布
Sugito et al. ( 2010 )を一部改編。陰影図は国土地理院基盤地図情報数
値地図 50 m メッシュを使用して作成。実線は活断層線。×印は 1847 年
善光寺地震の震央(宇佐美ほか, 2013 ) 。
中田・今泉編,
2002)などを参考とした。Sugito et al.(2010)や杉戸ほか(2013a,
b
)に掲載の知見も反映させた。
図
1 長野盆地西縁断層帯の分布Sugito et al.
(
2010)を一部改編。陰影図は国土地理院基盤地図情報数
値地図
50 mメッシュを使用して作成。実線は活断層線。×印は
1847年
善光寺地震の震央(宇佐美ほか,2013) 。
172 173
本稿ではまず、航空写真判読と現地調査を行って長野盆地西縁断層帯の分布位 置を変動地形学的に再検討した。その際には既存の活断層マップ(活断層研究 会編,1991;宮内ほか,2000;東郷ほか,2000;堤ほか,2000;池田ほか編,
2002;中田・今泉編,2002)などを参考とした。Sugito et al.(2010)や杉戸ほ か(2013a,b)に掲載の知見も反映させた。
次に、1847年善光寺地震の地表地震断層、またはそれと関連すると推定される 地変の出現位置や特徴を記述した既存資料を、郷土資料なども含めて収集し、同 一基準で地点ごとに整理した(図2・表1)。既存資料の多くは、いわゆる「武者 史料」(武者編,1941)をはじめ、史料の検討に基づくものである。
出現位置の同定は、航空写真判読と現地調査に基づく断層変位地形の認定結果 を考慮して行った。表1においては,位置が正確にまたはおおよそ同定される地 点を(1)に,位置が不明である地点を(2)にそれぞれまとめている。ただし粟 田ほか(1987)・奥村ほか(2002)・東郷(2002)は、史料の検討に加えて変動 地形学的な検討を行っているため、表1では(3)として別途整理した。また地点 7は、今回の聞き取り調査によって得られた知見である。
なお、出現位置の同定に際しては、地震発生当時以降の地名変遷についても検 討を行っているが、確認できた資料(田中編,1955;小林,1969;共和小学校開 校百年記念事業実行委員会百年史委員会編,1974;信濃毎日新聞社開発局出版部 編,1977;永井・小林,1985;飯山市誌編纂専門委員会編,1993;鬼頭,2004;
長野市誌編さん委員会編,2004など)をみる限り、大きな変化は認められない。
3.今回の図表の位置づけ
地表地震断層を同一基準で地点ごとに整理するこうした取り組みはこれまで、
1891年濃尾地震や1927年北丹後地震、1930年北伊豆地震、1943年鳥取地震、1945 年三河地震について、Wellmanの方式に従って実施されてきた(松田,1972,
1974;岡田・松田,1997;金田・岡田,2002;杉戸・岡田,2004)。1896年陸羽 地震についても、表は作成されていないものの、地点ごとに詳しい記載が行われ ている(松田ほか,1980)。本稿もWellmanの方式を念頭に置いているが、正確
中田・今泉編, 2002 )などを参考とした。 Sugito et al. ( 2010 )や杉戸ほか( 2013a , b )に掲載の知見も反映させた。
図 1 長野盆地西縁断層帯の分布
Sugito et al. ( 2010 )を一部改編。陰影図は国土地理院基盤地図情報数
値地図 50 m メッシュを使用して作成。実線は活断層線。×印は 1847 年
善光寺地震の震央(宇佐美ほか, 2013 ) 。
172 173
にとどめたほか、表についても簡潔なものとし、かつ時代性を鑑みて和文とし た。
現在、「武者史料」について再検討を行うと同時に、いわゆる「新収史料」
(東京大学地震研究所編,1988など)や未確認の郷土資料なども含め、網羅的な まとめを実施している。また、本質的な地表地震断層か、または二次的な地変な のかについての検証や、重複の整理なども行っている。その意味で、本稿は中間 報告的な位置づけになるかもしれない。しかし、こうした作業を終えて完成版を 得るまでには相当な時間が必要である。本稿が、1847年善光寺地震の地表地震断 層を整理した第一段階のまとめとして、活断層からどのような大地震が発生し、
地形環境にどのような変化をもたらすかを考える一助として役立つことを願って
いる。
500 700
350
350 350
350
ud
u d ud ?
500
700
500 700
350 350
u d ud ud
ud
u d
u d ud
1
Nagamine Hills
iku Ch a m
Ri
r ve
Mt. Nagamine
Lake Hokuryu Tokiwa
Iiyama
OikeKijimadaira (a)
Active fault traces Dashed where approximately located, dotted where concealed. u: up-thrown side, d: down-thrown side. 1 kmN
図2 1847年善光寺地震に伴う地表地震断層またはそれと関連すると推定される地変の出現位置 背景図は国土地理院発行数値地図25000を用いて作成。各図の位置は図1参照。
ru Ta wa ga ive R r
500 700
700
500
350
500
700
500
700
ud ud
u d ud ud ud
ud 2
3 4, 5
iku Ch a m ve Ri r
kum Chi ive a R
Iiyama r Shizuma
Iiyama
Remains of Iiyama Castle
Kijimadaira
(b)Active fault traces Dashed where approximately located, dotted where concealed. u: up-thrown side, d: down-thrown side. 1 kmN
350
500 500
500
u d
u d
350
350
350
350 350
350
350
350
500
u d ud ud ud ? 7
6
Nagaoka Hills
Takaoka Hills
hik C a R um r ive
Torii River
sa A w ka Riv a er
Entokuoki Lowland Toyonomachi
Obuse
Angenji Kusama
Tategahana
Nakano Nagano
(c)Active fault traces Dashed where approximately located, dotted where concealed. u: up-thrown side, d: down-thrown side. 1 kmN
350
500
500
700
700
500 500
700
900 700
900
700
700
ud
ud u d ud du
8 ??
17 2021 22, 23 2418
?29 25-28
9
14 15 16
10-1319
Mt. Jizuki
Joyama Hills
so Su na ba
Riv
er Asakawa River
Yufuku River
Nagano Nakagosho
Minami-Nagano Amori
MosugeUematsu Zenkoji Temple
Nagano
Miwa Koshibami
Hirashiba (d)
Active fault traces Dashed where approximately located, dotted where concealed. u: up-thrown side, d: down-thrown side. 1 kmN
500 500
500
500 700
u d ud
30 31 ?
33 3235 40
37, 38 39
360
du 34 36 41 42
Saigawa River Mt. Chausu
Amori Shinonoi-Komatsubara Shinonoi-Okada
Amori-Koichi Tenshoji Temple Korinji Temple
Shomyoji Temple Fuse Shrine
Nagano
(e)Active fault traces Dashed where approximately located, dotted where concealed. u: up-thrown side, d: down-thrown side. 1 kmN
500
700
700
500
500
700
700
900 900
u d ud ? 43
iku Ch ive ma R r
Nagano
Shinonoi-Okada Shinonoi-Ishikawa Shinonoi-Shiozaki
Chikuma
Amenomiya (f)
Active fault traces Dashed where approximately located, dotted where concealed. u: up-thrown side, d: down-thrown side. 1 kmN
地点位置記載長さ(m)隆起側 上下変 位量 (m)
特徴出典出典における引用文献 (1)
飯山市,長峰 山の麓 村々の屋敷が六~七尺から1丈程も(1.8~3.0m)高くなり,麓の村からは 七峰が以前より低く見えるようになった.-(西)1.8-3.0隆起 粟田ほか (1987)
蘆沢不朽手録 2
飯山市,市街 地付近 善光寺より飯山え八里有之候。此海道三才村・石村・浅野村半潰れ村々之内 大水ニ而田畑水損多く有之、飯山様御城不残潰れ、平一面地所壱丈余高ひく に相成、
市中一面に高く浮上り,不潰其上出火ニ而無残焼け飯山窪地に而折々
水損有之候所ニ候得共、今度は平地一面に高く相成候故水難は無之候得共、 死人数多有之候。同所より越後国谷通り所々潰れ多く満水にて田畑水損新潟 迄数ケ村有之、凡道程六十里之間大荒と申事に候。
-(西)3.0隆起田中編(1955)善光寺大地震ニ付巨細書
此節飯山御城下も水難を免れざるものと夫々家財を運びたるに此度の大地震 にて木島辺の地窪み、飯山は高くなりしと見え、以前の高水に入りたる所も 更に入らず。安田・野坂田・上新田皆入りたり。之に依りて誠に飯山は不幸 中に又幸を得たりと人々語り合えり。
-(西)-隆起田中編(1955)地震の記 城下地形七尺程高く相成立候-(西)2.1隆起
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事か 飯山城下(現飯山市街地)七尺~一丈余(2.1~3.0m)の土地の高低差が生じて, 市街地は一面に高く浮き上がった.-(西)2.1-3.0高低差
粟田ほか (1987)
御近領飯山異変之次第 善光寺大地震ニ付巨細書 地震の記
飯山城下は地震以前には水害の常習地であったが,地震によって隆起したた めに,その直後の
5月26日~27日の洪水では浸水を免れた.-(西)-隆起
粟田ほか (1987)
物集女翁と問答 善光寺大地震ニ付巨細書 地震の記
「物集女翁と問答」によれは,地震以前には,水位3.9m(一丈三尺)で堤を 越水するため警戒水位を3.0m(一丈)と定め・・・地震後の洪水では千曲川 の水位が4.5m(一丈五尺)に達し,この警戒水位を1.5m上回ったにもかか わらず,城下を浸す恐れすらなかった.以上のことから,善光寺地震に伴う, 千曲川の平水面に対する飯山城下の隆起量は,少なくとも1.5m以上であっ たことは確実である.また,この隆起をもたらした地震断層の位置は,当時,
水位観測を行っていた千曲川左岸の綱切の渡し場(信濃毎日新聞社開発局出 版部編,1977;徳竹氏地震記事)と飯山城下の間にあったと推定される.
-西1.5<隆起
粟田ほか (1987)
物集女翁と問答 信濃毎日新聞社開発局出 版部編(1977) 徳竹氏地震記事
飯山町場の西南地域約3m地高になり,安田村渡し場では床上浸水ながら飯 山方は堤をこえることなし.-(西)3.0隆起 飯山市誌編纂 専門委員会編 (1993)
信州大地震取調書
表1 1847年善光寺地震に伴う地表地震断層またはそれと関連すると推定される地変の特徴 地点番号は図2と対応する。 (1)地表地震断層,またはそれと関連すると推定されるもので,その位置が正確にまたはおおよそ同定される地点
飯山町場の西南の地が,およそ一丈あまり地高になり,安田村(現飯山市) の渡し場付近の人家は床上浸水となったが,飯山城下は,土堤を越すことが なかった.
-(西)3.0隆起
赤羽・北原編 著(2003)
(飯山藩から幕府への届 書)
町屋地も五尺ほども高く相成り-(西)1.5隆起
赤羽・北原編 著(2003)
(飯山藩から幕府への届 書)
3
飯山市飯山北 町・田町付近 現在の城山公園の方が低くなって,北町,田町辺が高くなったという. (筆者注)図 8中,現在の城山公園のすぐ西付近を境に「1.5丈段違」(西側隆 起)とあり.
-西4.5段違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事か 4
飯山市,飯山 城内 城内御広間地形二丈程も窪ぐ地底へ揺込候と申,---地底へ揺 込 佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事か 二尺ほど西上がり東落ちの段差が生じた.-西0.6段差
赤羽・北原編 著(2003)
(明記せず) 5
飯山市,飯山 城二の丸
一丈ほど地中へめり込んだ.---
地中へめ り込み 赤羽・北原編 著(2003)
(明記せず) (6)中野市立ヶ花
中野代官支配所であった立ヶ花(現中野市立ヶ花)付近では,千曲川とその 支流である篠井川の川底が浮き上がり,篠井川に水が逆流したために千曲川 の後背湿地である延徳沖低地の一部が浸水した.
-北西-隆起
粟田ほか (1987)
むし倉日記 鎌原桐山地震記事
立ヶ花村では大きな山崩れはなく,同村地内から上流の隣村との境まで 500m 程の間,千曲川の川底が隆起したという.むし倉日記 地震1~2日後には,延徳沖低地の浸水もくぼ地を除いて,大部分が引いた(鎌 原桐山地震記事).これは地震による山崩れのために上流の犀川がせき止めら れ,立ヶ花付近では千曲川の水位が1.2m(四尺)低下(虫倉日記)したため である.
鎌原桐山地震記事 むし倉日記
弘化度震災以来千曲川床高に相成,その上,立ヶ花村より川下谷合これまた 床高にて水吐きよろしからず,浅川逆水いたし格別の満水でなくても湛水す る
-北西-隆起
中野市立延徳 小学校
(1993)むし倉日記か 弘化度震災以来千曲川式床高ニ罷成,追年円徳耕地江水押入百姓相続難相成候 ニ付-北西-隆起
中野市立延徳 小学校
(1993)むし倉日記か 7
長野市豊野町 豊野西町 三井長治氏旧宅。善光寺地震によって南側部分が倒壊、後に増築した。その ため増築部分は一段低く、接合部には柱が残っていた。床下、段差あり。断 層か。30
~40cm。間取り図に位置記載あり。
-北0.3-0.4段差本研究
倉石和彦氏(長野市教育 委員会)資料
8
長野市上松~ 三輪 三輪より別に一二の裂目を生じて,同じく北に向ひたりき,何でも此筋目の 通り筋は地震の最強烈なりし所なりと語られき,
---地割れ
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
善光寺東方の三輪村(現長野市三輪)付近から北に向かって,一,二の裂け目 をなして床違いが現れた.-(西)-床違・地 割れ 粟田ほか (1987)
妻科村水崎惣左衛門との 問答
9 長野市長野, 城山
本城の南の細道を通りけるに,此辺はまた恐ろしく地割れて高低の多しく---
高低差・ 地割れ 粟田ほか (1987)
地震後世俗話之種 10
長野市長野新 町~伊勢町
新町も同じく焼失した.新町・伊勢町から割り筋が強くついた.---地割れ鬼頭(2004)
地震災之節大破焼失死亡 取調(宮下家文書)
11
長野市長野伊 勢町~岩石町 境 西南隅から東北隅へ斜めに,幅三~四尺,長さ二十間~一丁余にわたる地割 れが生じた.
・・・その間から黄・青・黒色に濁った泥水が噴出し,硫黄の臭 気がした.
36-109--地割れ
赤羽・北原編 著(2003)
地震後世俗話之種 12
長野市長野伊 勢町
伊勢町は残らず焼け,町は南北に割り筋がつき,聖条庵は焼失した.---地割れ鬼頭(2004)
地震災之節大破焼失死亡 取調(宮下家文書)
13
長野市長野岩 石町
岩石町も同じく焼失した.南北に割り筋がつく.---地割れ鬼頭(2004)
地震災之節大破焼失死亡 取調(宮下家文書)
14
長野市長野, 善光寺参道 正徳年中,伊勢白子(三重県鈴鹿市)の商人大竹屋平兵衛が寄付したという 善光寺参道の七七七七枚の敷石は,幅二尺余の亀裂を生じた.
・・・その間か
ら黄・青・黒色に濁った泥水が噴出し,硫黄の臭気がした. (筆者注)敷石は,二天門跡~三門~本堂と続く敷石のこと.
---地割れ
赤羽・北原編 著(2003)
地震後世俗話之種 15
長野市長野横 町
横町残らず焼失.町内は割り筋強く,南北へ割り入る.---地割れ鬼頭(2004)
地震災之節大破焼失死亡 取調(宮下家文書)
16
長野市長野西 町 西町の東側は一軒も残らず焼けた.上西町梅崎屋藤吉宅から上の方は東西に 割り筋がついたが,下西町には割り筋はつかなかった.
---地割れ鬼頭(2004)
地震災之節大破焼失死亡 取調(宮下家文書)
17
長野市長野立 町~中御所岡 田町(~平柴 か)
弘化大震ノトキ長野市附近ニ生ジタル地ノ変動線、即チ断層ハ今日モ尚ホ其 ノ痕跡ヲ判明シ認ムルヲ得ベシ、第二十二図ニ示ス如ク市ノ西側ト裾花川ト ノ間ナル幅下沖ト称スル平坦ナル耕地ニ現ハレ、数町ノ長サニ亘リ概略北 二十二度東、南二十二度西ナル方向ニ走リ、議事院ノ西手ニ接シテ通過シ裁 判所前ニ達ス、変動地帯ノ幅ハ約三百二十尺ニシテ、所謂「床違」ハ、渡辺 敏氏ガ記セラレタル如ク、約五尺ニシテ変動帯ヨリ東方ノ地ガ陥落セルカ、 若クハ其ノ西方ノ地ガ隆起セル結果ナリ、
数100西1.5
床違(幅 約
100m の変動地 帯)
大森(1913)-
At a point near Nagano the NWside of the fault had arisen as much as 2.4 metres relatively to the opposite side.
-西2.4fault
Imamura (1930)
-
本断層は市内八幡川分水点から北方に県庁議事院を通じて市の上半に及び師 範学校から裁判所に及ぶ延長約 11町に亙り,北十二度東に向かい相対的に上 下の変位五~八尺に達したもので,西方が隆起したものと認められる.
1200西1.5-2.4上下変位八木(1947)- 南岡田の八幡川分水点から,妻科の幅下沖を通じて,N12Eの方向に延長し,
県庁・議事堂・信州大学教育学部を通じて,裁判所に達したところの東落ち 断層で,1.5
~2.7mの落差を生じたために,八幡川には小瀑布ができた.
-西1.5-2.7上下変位
八木・八木 (1958)
-
善光寺地震によって生じた断層については大森の研究されたものを記すと, 前述した如く,長野市西を流れる裾花川に沿って県庁内から議事堂,旧刑務 所内を通って,信州大学教育学部,立町辺に至る南北約
1kmのものがある.
1000(西)-断層
佐山・河角 (1973)
大森(1913)
田畑狂ひ場何れも艮より坤の方へ懸りし,地震道と云ふか知らねども,件切 地陸床違三ヶ所,通にありし,宮東,聖徳,幅下の三沖,中程より西居村に 拘り,多少は有之と雖も,不残地陸床違
-(西)-床違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事
妻科村水崎惣左衛門氏との問答,徳竹の記に多くの地割床違を生じたりと聞 く,如何,翁のいふ,小割は所々にあり,或は青き砂を噴き,或は赤き泥を 吐くなど,様々にてありき,巾下沖には,大なる床違を生じたりとあり,巾 下沖とは何れの所ぞと問ふに,此方へとて其処にゆき見るに,今尚五尺余の 階段を為して,南北に亘るを見る,翁のいふ,此床違は,北は御殿跡(今裁 判所前方)
,南は平柴迄七八町の間に亘れり,それより北は三輪より別に一二
の裂目を生じて,同じく北に向ひたりき,何でも此筋目の通り筋は地震の最 強烈なりし所なりと語られき,
760-870(西)1.5床違・地 割れ
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
この床違いは,「妻科村水崎惣左衛門との問答」に詳述されている.それによ
れば床違いは,妻科村では床違いが生じ・・・床違いは,御殿跡(現信州大 学教育学部北側)から八幡堰川の分口上(現長野県庁の南西端付近)を経て 裾花川右岸の平柴
(現長野市小柴見)まで,長さ700~800mの間に見られた. 大森(1913)は現地を調査して,その当時は幅約100m,比高1.5mの撓曲崖 が残っていたと述べている.
700-800(西)-
床違・幅 約100m 比高 1.5mの 撓曲崖
粟田ほか (1987)
妻科村水崎惣左衛門との 問答 大森(1913)
長野市立町~信州大学教育学部正門~長野県勤労者福祉センター~長野県庁 西部,と連続する長さ約一キロの地震断層・・・ここでは,ひとつながりの 地面が各所で地割れと床違いを生じ,各所の地割れからは赤い泥や青い砂が 噴出した.最も大きな床違いは,県庁から信州大学教育学部にかけての場所 で,その落差は五~八尺に及んだ.いずれの場所でも西側が上がって,東側 が下がるような床違いであり,県庁南の八幡川の分口では落差二メートルほ どの小さな滝が形成された.
1000西1.5-2.4床違・地 割れ
赤羽・北原編 著(2003)
徳竹氏地震記事などか 18
長野市南長野 妻科上ノ原 亦戸張の上より上の原て拘り床違,是亦甚し,丹宮の東道にて犀川を遠見す るに,如何にも此地高く成りしと思はれける.池水大半涸る,亦河原には地 裂して,地底より青砂を吹出せし処ありし.
-(西)-
床違・隆 起・地割
れ
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事
地震の通りみち,地五~六寸口あき,地震のあるきたる通り所々五~六尺も 高くなり・・・妻科に於いても上ノ原に小屋がけす.
--1.5-1.8
上下変 位・地割 れ
飯島(1997)
小林平助見聞記「年代日 記帳」
19
長野市南長野 妻科,鐘鋳堰 併し鐘居堰水行にみては,眼前に高くなり,右堰は元より尻高河,然るに坂 落しとなりし場所三ヶ所,何れも八九寸位の段になり,
-西-上下変位
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事 20
長野市南長野 妻科聖徳~宮 東~巾下 宮東,聖徳,幅下の三沖,中程より西居村に拘り,多少は有之と雖も,不残 地陸床違
-(西)-床違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事
21 長野市南長野 妻科聖徳 翁のいふ,其が聖徳巾の田は,半反許の田なりしが,地裂の為め三段に分れ たりき,其後手を入れて一枚の田となしたれど,両三年間は止むを得ず,そ れなりに耕作したりき,此他是に類せし事は外にも多かりき
-(西)-
地裂の為 め三段に 分れたり
き
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
22
長野市南長野 妻科巾下,夫 婦橋
巾下夫婦橋北の辺凡七八尺程の床違,此近辺都て夥しく,-(西)2.1-2.4床違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事 妻科村では床違いが生じ,その規模は幅下の夫婦橋北側で七~八尺であった.-(西)2.1-2.4床違
粟田ほか (1987)
徳竹氏地震記事 23
長野市南長野 妻科巾下,八 幡川分流点 此ノ断層線ノ南端ハ岡田村ノ入口ニテ八幡川ノ分流点附近ニ達シ、同川流ヲ 横ギレル場所ニテハ其ヲ小瀑布ノ如キ急流ト変ゼシメタリ。
-(西)-
小瀑布の ごとき急
流
大森(1913)- 剰へ八幡堰分口上,長十間余程の間大なる滝を成し,-(西)-110mほ
どの間大 なる滝 佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事
八幡堰の分口は滝となりしとあれど,何処ぞと問ひしに,彼方の事ならむと てゆきて示し呉れたりしが,果して記の如く今尚七八間が程は,急湍激流, 雪を噴して流るるを見る.
-(西)-
80-90m ほどの急 流
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
(24)
長野市南長野 妻科巾下,巾 下沖
巾下沖には,大なる床違を生じたりとあり,巾下沖とは何れの所ぞと問ふに,
此方へとて其処にゆき見るに,今尚五尺余の階段を為して,南北に亘るを見 る,
--1.5床違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
(25)
長野市南長野 ~中御所 扨亦中島は四五尺位も床上げしけり,居村は総体に高く成り,朝日山は卑く なりしと諸人申けり,
--1.2-1.5隆起
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事 (26)
長野市南長野 ~中御所
当村友右衛門宅台所,七八寸之床違,--0.2床違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事 (27)
長野市南長野 ~中御所 徳竹の記に多くの地割床違を生じたりと聞く,如何,翁のいふ,小割は所々 にあり,或は青き砂を噴き,或は赤き泥を吐くなど,様々にてありき,
---地割れ
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
(28)
長野市南長野 ~中御所 中島は高く張出したる様に記しあれど,中島とは何処ぞと問ふに,彼所こそ 中島とは申なれ,彼地は仰の如く地震の為め,四五尺も張り出して,彼が如 く隆起したりとの言にて,今は一段高き桑畑となりて見ゆ,
--1.2-1.5隆起
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
(29)長野市茂菅茂菅村字臼場の田方三四尺位の地陸違--0.9-1.2地陸違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(妻科村 水崎惣左衛門との問答か)
30
長野市安茂里 小市
小市村の称名寺門前では,八~九尺の床違いが生じた.--2.4-2.7床違
粟田ほか (1987)
徳竹氏地震記事 31
長野市篠ノ井 小松原犀口, 犀川上中堰取 水口
川中島上中堰取水口,・・・約二百五十年程は何等の異状もなく揚水して居っ
た.然るに,弘化四年の地震後には西方地盤の隆起に伴って,河道の侵蝕急 激なものがあって揚水が困難となった.
-西4.5隆起八木(1947)- 同上-西4.5隆起
八木・八木 (1958)
八木(1947)
善光寺地震前後の川中島堰取水口の位置の変遷から,地震に伴って西側の土 地が相対的に
4.5m隆起したと推定されている.-西4.5隆起
粟田ほか (1987)
八木(1947)
地震により取水位置付近を境に西側の山地が隆起し段差が生じ,犀川は浸食 をはじめ河床が低下した.
-西-段差
赤羽・北原編 著(2003)
(明記せず) 32
長野市篠ノ井 小松原犀口~ 段ノ原 天照寺山麓から南方段の原の光林寺前に至る延長十町内外の断層で,上下の 変位七~十尺に達し地面は手を以て揉み砕いた様に波状の凹凸を現わし,流 紋岩中からベントナイトが鼻汁の如く流出して行人を悩ました.
1090西2.1-3.0上下変位八木(1947)- この断層は南方段の原部落まで通じた.-西-断層
八木・八木 (1958)
-
光林寺南平砂平は,凹所は凸所となり,凸所は凹所となり,地面に高低凸凹 を生ぜし事甚しかりき,天照山寺山は,東西半は裂け落ち,天狗の鼻とやら 称せし葛粉糊様のものを流し出し,通行する能はざる程なりしが,時を経る に随って砂土と称し,今日の如き硬土となれり,福井伝右衛門翁との問答, 御地中村某の記,我家の向側なる家は,渡辺長蔵,野口近治と申ものの両家 なれども,両家のありし地は,元来田にて,今の道敷よりも低き処にて候へ しが,地震の為め張出して,六七尺の石垣を築き立つるを要する程の高地と はなり申したり,ぬけ出したり,ずり出したるが為,此の如くなりしならむ には,不思議とするにもたらぬなれど,ぬけもずりもなく,彼が如く張り出 したりしたり,
然して彼の張出すと共に,天照寺山嶺は低下したり,申さば,
山が腰をつきて膝を此方に張り出したりとも申すべきか,此地低地にして高 地となり,高所にして低地となりしも多かりしが,光林寺門前の如き一反五 畝程の沼田なりしかど,是亦地震の為めに張出して,平地より一丈余も高き 丘陵となりたりしが,後其地を畑となし,家を作らむとて地ならしの時,中 より枯木の大なるもの出で来たりき,地割の生ぜしとは何れの地なるや,新 屋敷の裡手に葺池あり,其葺池こそ地割れのもとにて,夫れより檀の原光林 寺門前迄,斜めに七八町大きな裂目を生じたりしが,其割目は後々までも明 かに存ぜしが,近年其原池を桑畑とするが為め,地をならし,石塊どもを裂 目につめなどして,今は新屋敷の裏に,其名残の片はしを存するのみとなれ りとの事なり,中村氏の記に,天照寺の低下して,里村より小野平崎の三分 の一を見るに至れりとあれど,果して然ることなるや否や,翁のいふ,前に 申通り天照寺山の低くなりたるは事実なれば,里方より見て然りといふも, 最の事と思はるとの事なりき
(地点ごとに別項目で列挙)
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(福井伝 右衛門翁との問答か)
地震断層は,小松原の小松原トンネル出口付近から段の原の光林寺前にかけ て約一キロにわたって生じ,ここでも断層は山側が上がり盆地側が下がり, その落差は七~十尺程度であった.
1000西2.1-3.0上下変位
赤羽・北原編 著(2003)
(明記せず) 34
長野市篠ノ井 小松原北組 更級郡共和村の小松原では,断層が西の山麓にあらわれ,西側山地が隆起し た.そのために同地の野口親治氏の宅地は,道路より低い位であったが,地 震の結果隆起して現在
1.8mの石垣が築造されている程である.
-西1.8隆起
八木・八木 (1958)
-
御地中村某の記,我家の向側なる家は,渡辺長蔵,野口近治と申ものの両家 なれども,両家のありし地は,元来田にて,今の道敷よりも低き処にて候へ しが,地震の為め張出して,六七尺の石垣を築き立つるを要する程の高地と はなり申したり
-(西)1.8-2.1隆起
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(福井伝 右衛門翁との問答か)
長野市小松原では,善光寺地震の際に田圃が張り出し,隆起した土地には六 ~七尺の石垣が築かれ,渡辺長蔵氏および野口近治氏の屋敷が建てられた.
-(西)1.8-2.1隆起
粟田ほか (1987)
福井伝右衛門翁との問答 35
長野市篠ノ井 小松原,天照 寺 然して彼の張出すと共に,天照寺山嶺は低下したり,申さば,山が腰をつき て膝を此方に張り出したりとも申すべきか
---地すべり か
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(福井伝 右衛門翁との問答か)
中村氏の記に,天照寺の低下して,里村より小野平崎の三分の一を見るに至 れりとあれど,果して然ることなるや否や,翁のいふ,前に申通り天照寺山 の低くなりたるは事実なれば,里方より見て然りといふも,最の事と思はる との事なりき
---地すべり か
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(福井伝 右衛門翁との問答か)
(37)
長野市篠ノ井 小松原新屋敷 ~段ノ原 後其地を畑となし,家を作らむとて地ならしの時,中より枯木の大なるもの 出で来たりき,地割の生ぜしとは何れの地なるや新屋敷の裡手に葺池あり, 其葺池こそ地割れのもとにて,夫れより檀の原光林寺門前迄,斜めに七八町 大きな裂目を生じたりしが,其割目は後々までも明かに存ぜしが,近年其原 池を桑畑とするが為め,地をならし,石塊どもを裂目につめなどして,今は 新屋敷の裏に,其名残の片はしを存するのみとなれりとの事なり,
760-870--地割れ
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(福井伝 右衛門翁との問答か)
新屋敷の裏手の葦池から光林寺門前に至る長さ700~800mの地割れが生じ,700-800--地割れ
粟田ほか (1987)
福井伝右衛門翁との問答
新屋敷の裡手に葺池あり,其葺池こそ地割れのもとにて,夫れより檀の原光 林寺門前迄,斜めに七八町大なる裂目を生じたりしが,其割目は後々までも 明かに存ぜしが,近年其原池を桑畑とするが為め,地をならし,石塊どもを 裂目につめなどして,今は新屋敷の裏に,其名残の片はしを存するのみとな れりとの事なり
760-870--地割れ東郷(2002)福井伝右衛門翁との問答 (38)
長野市篠ノ井 小松原段ノ原 裂目も所々に生じ,水を噴し,砂を吐きたる所ありしも,筋たちて裂目を為 したるは,段ノ原のみなりき
---
筋たち て・地割 れ
東郷(2002)
妻科村水崎惣左衛門との 問答
39
長野市篠ノ井 小松原段ノ原, 光林寺門前
光林寺門前の如き一反五畝程の沼田なりしかど,是亦地震の為めに張出して,
平地より一丈余も高き丘陵となりたりしが,後其地を畑となし,家を作らむ とて地ならしの時
--3.0隆起
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事(福井伝 右衛門翁との問答か)
光林寺門前では沼田であった所が地震によって張り出して一丈余りも高くな った.
しかし,これらの土地は,後に畑や家を作る際に地ならしされたという.--3.0隆起
粟田ほか (1987)
福井伝右衛門翁との問答 光林寺門前の如き一反五畝程の沼田なりしかど,是亦地震の為めに張出して, 平地より一丈余も高き丘陵となりたりし--3.0隆起東郷(2002)福井伝右衛門翁との問答 40
長野市篠ノ井 小松原段ノ原, 光林寺
段ノ原の光林寺は,「口開きたるのみにて潰れず」とある---地割れ
粟田ほか (1987)
徳竹氏地震記事
光林寺は,口開きたるのみにて潰れず---地割れ東郷(2002)
妻科村水崎惣左衛門との 問答
43
長野市篠ノ井 塩崎 田畑道路ニ幅四五寸ヨリ二三尺ノ地割ヲ生し水泥砂ヲ噴出セリ---地割れ大森(1913)- * カッコ付は当該文献全体からの推定
地点位置記載 長さ (m)
隆起側
上下変 位量 (m)
特徴出典出典における引用文献 -川辺八ヶ村川辺八ヶ村ニ而も田地床違に相成候---床違
佐山・河角 (1973)
徳竹氏地震記事か -川辺八ヶ村川辺八ヶ村(飯山市静間~豊田村替佐~長野市三才)でも床違いが生じた---床違
粟田ほか (1987)
御近領飯山異変之次第 -裾花川・浅川・ 鳥居川川中島上中堰取水口と同様のことが認められる---山地の隆 起か八木(1947)- 同上---山地の隆 起か
八木・八木 (1958)
- 同上---山地の隆 起か江口編(1963)(明記せず) -裾花川(川中島上中堰取水口と同様のことが認められる)---山地の隆 起か
赤羽・北原編 著(2003)
(明記せず)
(2)地表地震断層,またはそれと関連すると推定されるものの,その位置が不明である地点
位置
粟田ほか(1987)による記載とその整理 粟田ほか(1987)によるその解釈 記載
長さ (m)
隆起側
上下変 位量 (m)
2
飯山市,市街 地付近 飯山市立第二中学校の東から綱切橋の北方,西上がりの緩やかな崖が見られ る.
2000西1.5-2.5史料の記載と整合,地震断層である. 2
飯山市,市街 地付近 飯山面の標高は木島地区の自然堤防より2.0~2.5m高い.-西-史料の記載と整合,飯山面が地震時に隆起した. (6)中野市立ヶ花
善光寺地震における長丘断層の上下変位量は,地震前の千曲川の平水面と延 徳沖低地の後背湿地面との高度差にほぼ等しいものと推定できる・・・善光 寺地震に伴う断層運動や地震
18日後の洪水による堆積の影響が,比較的小さ
かったと考えられる木島付近では,千曲川の平水面と後背湿地との間には現 在約 3mの高度差がある.しかし延徳沖低地では,善光寺地震以前の断層変 位による影響のためにその高度差が3mよりも若干小さかった可能性がある.
-北西3もし
くはそ れより 若干小 さい量
善光寺地震の伴う長丘断層の上下変位量は,約 もしくはそれより若干小さい量であった. 8
長野市上松~ 三輪 城山断層から派生した,浅川扇状地に2~4mの上下変位を与える撓曲崖が 認められる.撓曲崖は幅100~200mであり,長野短期大学西方から長野高 等学校を経て旧長野営林署北方まで,長さ1.5kmにわたって認められる.
1500西2-4
史料の記載と整合,ここで地震断層が出現した,た だしこの撓曲崖が
1回の断層変位かどうかはわから ない. 17
長野市,市街 地付近 善光寺断層は,信州大学教育学部正門付近から合同庁舎敷地南東端および長 野県庁北西部から同南西端を経て小柴見に至る,延長
2.2kmで西上がりの断 層である.本断層の上盤側には幅200mの撓曲崖が発達する.本断層による 上下変位量は,裾花川左岸において,氾濫原では2.8m,妻科II面では5.1m, 妻科I面では10m以上である.
2200西2.8史料の記載と整合,地震断層である. 30
長野市安茂里 小市
称名寺は・・・その南側門前には比高6mの崖が見られる.-北6
史料から,この崖に沿って断層変位が生じたと解釈 され,この崖は低断層崖と考えられる.ただし,史 料に記載された地震断層の上下変位量よりも大き く,善光寺地震
1回で生じたものではないと考えら れる. 33
長野市篠ノ井 小松原犀口~ 北組 長野市小松原では,善光寺地震の際に田圃が張り出し,隆起した土地には六 ~七尺の石垣が築かれ,
渡辺長蔵氏および野口近治氏の屋敷が建てられた・・・ 現在も野口氏宅の東側には高さ1.6mの石垣によって残された西上がりの低
断層崖を見ることができる.さらに地震断層は,その北方の布施神社西側ま で,延長
500m,高さ1~2mの低断層崖として認められる.
500西1-2
史料から,この崖に沿って断層変位が生じたと解釈 され,この崖は低断層崖と考えられる.
位置
奥村ほか(1988)による記載とその整理 奥村ほか(1988)によるその解釈 記載
長さ (m)
隆起側
上下変 位量 (m)
2 飯山市,市街 地付近
飯山市街地の東よりには幅50m前後,比高1.5~2.5mで東側低下の緩やかな小崖
が連続する.善光寺地震時に起こった飯山市街と千曲川水面との相対的な垂直変位 (西側隆起)は,
この小崖を地震断層と解釈することにより合理的に説明できる(粟 田ほか,1987).この低断層崖は飯山市街西側に顕著な南北性のバルジを作る東落 ちの断層の先端が前面に移動してできた可能性がある.
-西1.5-2.5
史料の記載と整合,地震断層である.飯山市街西側 に顕著な南北性のバルジを作る東落ちの断層の先端 が前面に移動してできた可能性がある.
8
長野市上松~ 三輪 城山東縁の断層崖東では新しい扇状地面に東落ち落差2~3mの低断層崖が みられる.この低断層崖の垂直変位量は次に述べる1847年善光寺地震時の善
光寺断層の断層変位量にほぼ等しい.ここでも善光寺地震時に断層が前面に 移動した可能性が考えられる.
-西2-3
史料の記載と整合,地震断層である.善光寺地震時 に断層が前面に移動した可能性が考えられる.
17
長野市長野立 町~中御所岡 田町(~平柴 か)
地震断層として大森(1913)により善光寺地震時の変位が記載されている. 県庁西側に幅
2~300mの撓曲帯として認められる断層は,裾花川の新旧の
扇状地面に累積的な変位を与えている(筆者注:地形断面が示されており, 2.8m・5.1m の上下変位を読み取っている).1回のイベントによる垂直変位 は2.5~3m程度である.
-西-
地震断層として大森(1913)により善光寺地震時の 変位が記載されている.1
回のイベントによる垂直 変位は2.5~3m程度である. 地点位置東郷(2002)による記載とその整理 東郷(2002)によるその解釈 記載
長さ (m)
隆起側
上下変 位量
33
長野市篠ノ井 小松原犀口~ 北組 善光寺地震時に生じた崖地形の名残として知られるいわゆる“野口氏宅敷地 東縁の石垣”が位置する.その続きとみなせる小崖地形が,粟田ほか(1987)
がすでに指摘している通り,北側延長部において認められる.この小崖地形 は,地点 bを経て布施神社の西方(地点a)まで約200mにわたってほぼ連 続しており,山麓線から10~30m離れた沖積低地内に位置し,数10cm~ 1m程度の比高を有する.地点c以南においては,これらの延長にあたる崖 地形は現状では見い出せない.
200西数10cm ~1m“野口氏宅敷地東縁の石垣”は史料と整合,地震断 層である. (史料との関係の項ではここまでしか言及してい ないが,のちの考察でこの小崖地形全体を地震断層 と考えている)
36
長野市篠ノ井 小松原段ノ原
沖積低地内に,南北に連続する小崖地形が発達する.g付近では,東に向か
って発達する急勾配の沖積扇状地の扇頂近くにあって流路に直交するように のびているので,侵食崖とは思えず,沖積扇状地が西側上がりに変位して生 じた変動崖であることは明らかであるこれは南へ連続し,h
付近の山麓際に
位置するごく幅狭い段地形の前縁を限るやや明瞭性を欠いた崖へと続いてい る.
-西-
(史料との関係の項では言及していないが,のちの 考察でこの小崖地形全体を地震断層と考えている)
41
長野市篠ノ井 小松原段ノ原 岡田川に沿って分布する沖積低地面(谷底面)に,東側低下の変位の結果を 示唆する傾斜異常が認められる.
-西-
(史料との関係の項では言及していないが,のちの 考察でこの小崖地形全体を地震断層と考えている)
42
長野市篠ノ井 岡田 岡田川と河流Aの谷口付近との間・・・東に向かって緩やかに分布高度を下 げてきたM面,L面がともに地点jからkに至る一線上で急に凸面をなして 撓み下がり,撓曲崖をつくっている.さらにその南側延長部を横切る河流A
沿いの谷底面上にも顕著な高度不連続が認められ,東向きの崖地形が形成さ れている.
・・・lからm,nを経てoに続く低崖地形は・・・沖積低地面上 に形成された東向き撓曲崖と見なせよう.・・・地点o以南では・・・その続 きは,玄峯院の東から宇土沢川のすぐ北(地点p)まで達していると考えら れる.
-西-
(史料との関係の項では言及していないが,のちの 考察でこの小崖地形全体を地震断層と考えている)
* カッコ付はおおよその位置のみ判明
倉石和彦氏(長野市教育委員会)には地点7に関する知見をご教示いただい た。また資料収集等の作業において、多数の方にお世話になった。記して感謝の 意を表する。なお本稿は筆者の京都大学大学院理学研究科博士学位論文主論文の 一部を改訂してまとめたものである。
引用文献
赤羽貞幸・北原糸子編著,2003,「善光寺地震に学ぶ」,信濃毎日新聞社,177p.
粟田泰夫・奥村晃史・佃 栄吉,1987,善光寺地震断層系に関する史料と地震断層の現況,歴 史地震,3,166-174.
江口善次編,1963,「豊田村誌」,1017p.
飯島 豊,1997,25.弘化四年善光寺大地震妻科村の被害状況,妻科公民館編,「つましな風 土記」,209p,98-102.
飯山市誌編纂専門委員会編,1993,「飯山市誌歴史編(上)」,896p.
池田安隆・今泉俊文・東郷正美・平川一臣・宮内崇裕・佐藤比呂志編,2002,「第四紀逆断層 アトラス」,東京大学出版会,254p.
Imamura, A., 1930, Topographical changes accompanying earthquakes and volcanic eruptions, Publications of the Earthquake Investigation Committee in Foreign Languages, 25, 1-143.
金田平太郎・岡田篤正,2002,1943年鳥取地震の地表地震断層-既存資料の整理とその変動地 形学的解釈-,活断層研究,21,73-91.
活断層研究会編,1991,「新編日本の活断層-分布図と資料-」,東京大学出版会,437p.
鬼頭康之,2004,善光寺西町の善光寺地震,信濃,56,869-810.
小林計一郎,1969,「長野市史考-近世善光寺町の研究-」,吉川弘文館,844p.
共和小学校開校百年記念事業実行委員会百年史委員会編,1974,「共和小学校百年史」,
469p.
松田時彦,1972,1930年北伊豆地震の地震断層,星野通平・青木 斌編,「伊豆半島:杉山隆 二先生還暦記念論文集」,東海大学出版会,415p,73-93.
松田時彦,1974,1891年濃尾地震の地震断層,東京大学地震研究所研究速報,13,85-126.
松田時彦・山崎晴雄・中田 高・今泉俊文,1980,1896年陸羽地震の地震断層,東京大学地震
武者金吉編,1941,「増訂大日本地震史料第三巻」,文部省震災予防評議会,933p.
永井善左衛門筆・小林計一郎監修,1985,「弘化四年善光寺大地震図会:地震後世俗語之 種」,銀河書房,270p.
長野市誌編さん委員会,2004,「長野市誌第四巻歴史編近世二」,934p.
中野市立延徳小学校,1988,「延徳学校と地域の沿革」,633p.
中田 高・今泉俊文編,2002,「活断層詳細デジタルマップ」,東京大学出版会,68p+DVD2 枚+付図1葉.
岡田篤正・松田時彦,1997,1927年北丹後地震の地震断層,活断層研究,16,95-135.
Okada, S. and Y. Ikeda, 2012, Quantifying crustal extension and shortening in the back-arc region of Northeast Japan, Journal of Geophysical Research, 117, B01404, doi:10.1029/2011JB008355.
奥村晃史・粟田泰夫・佃 栄吉・池田国昭・安田 聡・渡辺和明・宮崎純一,1988,長野盆地 西縁の活構造と地震活動,日本地理学会予稿集,33,8-9.
大森房吉,1913,弘化四年三月二十四日ノ善光寺大地震,震災予防調査会,本邦大地震概説,
震災予防調査会報告,68(乙),93-109.
佐山 守・河角 広,1973,古記録による歴史的大地震の調査(第一報)(弘化四年三月 二十四日善光寺地震),東京大学地震研究所研究速報,10-2,1-50.
信濃毎日新聞社開発局出版部編,1977,「弘化四年善光寺大地震」,信濃毎日新聞社,240p.
杉戸信彦・岡田篤正,2004,1945年三河地震の地表地震断層,活断層研究.24,103-127.
Sugito, N., A. Okada, and H. Tsutsumi, 2010, Geologic evidence for surface rupture associated with the 1847 M 7.4 Zenkoji earthquake at Dannohara, Nagano City, Japan, Bulletin of the Seismological Society of America, 100, 1678-1694. doi: 10.1785/0120090171.
杉戸信彦・松多信尚・廣内大助・石山達也,2013a,1847年善光寺地震に伴う飯山城下町の地形 変化,日本活断層学会2013年度秋季学術大会講演予稿集,P-3,茨城,11月.
杉戸信彦・鈴木毅彦・石山達也・廣内大助・今泉俊文,2013b,長野盆地西縁断層帯,飯山市街 地付近の平均変位速度,日本地震学会講演予稿集,P2-23,神奈川,10月.
田中修一編,1955,「飯山町誌」,566p.
東郷正美,2002,小松原断層沿いにおける1847年善光寺地震時の地表変位,活断層研究,22,
45-54.
東郷正美・堤 浩之・宮内崇裕・大石 超・宇根 寛・小田切聡子,2000,1:25000都市圏活断
東京大学地震研究所編,1988,「新収日本地震史料第五巻別巻六ノ一・六ノ二」,1834p.
堤 浩之・東郷正美・宮内崇裕・大石 超・宇根 寛・小田切聡子,2000,1:25000都市圏活断 層図「中野」,国土地理院技術資料D・1-No.375.
宇佐美龍夫・石井 寿・今村隆正・武村雅之・松浦律子,2013,「日本被害地震総覧599- 2012」,東京大学出版会,724p.
八木貞助,1947,弘化四年の善光寺地震に随伴し継続したる陸地変形に就て,帝国学士院紀 事,5,180-186.
八木貞助著・八木健三増補,1958,「上水内郡地質誌」,上水内教育会,480p.