著者 植村 正治
雑誌名 社会科学
巻 46
号 2
ページ 1‑30
発行年 2016‑08‑25
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014621
近代日本の教育機関における工学士経歴の統計観察
植 村 正 治
1893 年,1901 年,1910 年,1920 年,1930 年の『学士会会員氏名録』にあらわれた 総数 18,138 人の工学士たちは,大きく分けて 5 つの分野に勤務した。省庁,地方庁,
陸海軍,教育機関,民間部門である。本稿ではこれらのうち教育機関に勤務した 1520 人余の工学士たちを取り上げた。彼らの勤務先を,大学,理系実業専門学校等,工業 学校等,文系学校,の 4 つに分類した。1930 年段階では,工学士のほとんどは東京帝 国大学,京都帝国大学,九州帝国大学,東北帝国大学,北海道帝国大学の工学部(も しくは工科大学)の専門学科を卒業し,それぞれの学科で学んだ科学技術・専門技術・
技能を勤務校の学生たちに教えた。帝国大学卒業後,省庁,地方庁,陸海軍,民間部 門に勤務した工学士たちとは異なり,直接的には帝大で学んだ専門技術などを作業現 場に生かすことはできないが,技術移転の媒体として捉えた工学士たちに,自らが在 学中に学んだ専門的知見を基礎にして勤務校などにおいて新たに学んだ最新の知見を 学生たちに教えたはずである。本稿では,上記 4 種類の教育機関の技術教育内容の特 徴を統計的に明らかにしようとした。
は じ め に
幕末維新期以降,日本は工業化を推し進めるために,欧米先進国の様々な分野から,
様々な経路を通して近代工業技術の移転を図った。経路の 1 つが工学系高等教育機関で あり,そこで工学教育を受けた工学士は日本のあらゆる分野において技術移転を媒介し た。前稿では1),1893 年,1901 年,1910 年,1920 年,1930 年の『学士会会員氏名録』
(以下,氏名録とする)にあらわれた総数 18,138 人(同一人物を除く人数 9,986 人)の工 学士(工科大学もしくは工学部卒業生)について卒業大学別,卒業学科別人数・比率の 推移と,5 分野別勤務先人数・比率の推移を全体的に見渡し,さらに省庁(鉄道省庁,農 商工省庁,内務省,逓信省,大蔵省,植民地統治機関)に勤務する工学士たちの動向を より細かく検証した。卒業大学は東京帝国大学(その前身の東京大学,工部大学校,帝 国大学を含む),京都帝国大学,九州帝国大学,東北帝国大学,北海道帝国大学である。
学科は,機械工学,応用化学,採鉱冶金学,造船学,電気工学,土木工学,建築学,造
兵学,火薬学の 9 学科である。学科名称は各教育機関によって異なるので,後述のよう に,本稿ではこれらの名称に統一した。勤務先に関しては,省庁,地方庁,陸海軍,教 育機関,民間部門の 5 分野に分類した。
本稿では,教育機関に勤務する工学士たちの経歴動向を検討する。前稿では工学士た ちの各種勤務先機関における卒業学科別人数・比率を検討することにより,工学士を通 して勤務先の各種機関に需要された技術的特徴を明らかにするという視点であったが,
本稿では,それぞれの分野・勤務先機関が必要とする技術者を供給する教育機関の特徴 を見いだすという視点に立った。
教育機関に勤務する工学士は延べで 1,528 人,勤務校は 174 校にのぼった。各種教育機 関の統計的な特徴を導き出すためにいくつかの基準にしたがって分類した。1 つの基準 は,理系・工学系学校⇔文系学校(商業・普通・女子校など)である。前者に関して大 学,理系実業専門学校等,工業学校等の 3 つに区分し,後者については文系学校として 一括した。また,上記 5 分野別分類もしくは運営機関別分類(省庁の場合,文部省・逓 信省・植民地統治機関など)という,もう 1 つの分類基準も設定した。このような基準 にしたがって,これら 174 校を表 1 のように分類した2)。
以下では,文部省管轄下の大学すなわち 5 帝国大学,文部省管轄下の理系実業専門学 校,工業学校等,文系学校について検討を加えたい。
1 9 学科への集約
本稿では,東京帝大を基準にして学科を前記の 9 学科に区分して集計した。東京大学 理学部から分離して設立された工芸学部には採鉱冶金学科が置かれていたのに対して,
工部大学校では鉱山学科と冶金学科とが別置されていた。1886 年(明治 19),工芸学部 と工部大学校が合併して帝国大学工科大学となった時,採鉱及冶金学科という名称の単 一学科となった。1909 年(明治 42)に採鉱学科と冶金学科に分離され,1921 年(大正 10),採鉱学科は鉱山学科と改称,1926 年(大正 15)には両学科は再統合され,鉱山及 冶金学科となった3)。本稿では採鉱冶金学科という名称を採用し,1930 年まで単一学科 とみなして工学士たちを集計した。
造船学科は 1917 年に船舶工学科と名称変更されたが,九州帝大では前者名称を使用し ていたので,造船学科に統一した。造家学科は 1898 年に建築学科となったが,他帝大な どでも後者名称が使用されていたので,これを採用した。他の 6 学科については設立当
表 1 分類別教育機関 運営機関
理系・工学系学校 文系学校
大学 理系実業専門学校等 工業学校等 商業・普通・女子校等
文部省
東京帝国大学(323)
京都帝国大学(188)
九州帝国大学(117)
東北帝国大学(81)
北海道帝国大学(54)
横浜高等工業学校(7)
京都高等工芸学校(19)
桐生高等工業学校*(13)
金沢高等工業学校(10)
熊本高等工業学校*(42)
広島高等工業学校(15)
三重高等農林学校(1)
山梨高等工業学校(12)
秋田鉱山専門学校(21)
上田蚕糸専門学校(7)
神戸高等工業学校(7)
仙台高等工業学校(30)
大阪高等工業学校*(68)
長岡高等工業学校(8)
東京高等工業学校*(49)
東京高等工芸学校(2)
東京高等蚕糸学校(2)
東京高等商船学校*(4)
徳島高等工業学校(8)
浜松高等工業学校(7)
福井高等工業学校(11)
米沢高等工業学校(24)
名古屋高等工業学校(36)
明治専門学校*(33)
横浜高等商業学校(1)
弘前高等学校(1)
高松高等商業学校(1)
佐賀高等学校(1)
山形高等学校(1)
山口高等学校*(5)
山口高等商業学校(2)
松江高等学校(1)
新潟高等学校(2)
神戸高等商業学校*(2)
水戸高等学校(1)
大分高等商業学校(1)
第二高等中学校(1)
第三高等学校(1)
第四高等学校(6)
第五高等学校*(3)
第六高等学校(1)
第七高等学校*(5)
第八高等学校(1)
長崎高等商業学校(2)
東京商科大学(2)
東京美術学校(12)
彦根高等商業学校(2)
和歌山高等商業学校(1)
逓信省 官吏練習所*(3)
農商工省庁 水産講習所(3)
植民地統 治機関
南京第四中山大学(1)
旅順工科大学*(31)
セブランス聯合医学専門学校(1)
京城高等工業学校*(6)
広東工業専門学校(1)
東亜同文書院農工科(3)
南満州工業専門学校(12)
台北州立工業学校(1) 京城高等商業学校(1)
京城府公立第二高等女学校(1)
光州公立中学校(1)
高雄州立中学校(1)
台北高等学校(2)
台北高等商業学校(4)
台北州立第一中学校(1)
南満中学校(1)
撫順中学校(1)
奉天中学校(1)
地方庁
茨木県立工業学校(1)
栃木県立宇都宮工業学校(1)
岡山県立工業学校(2)
京都市立第一工業学校*(3)
金沢市立工業学校(1)
山形県立工業学校(1)
愛媛県立松山工業学校(1)
石川県立工業学校(2)
新潟県立長岡工業学校(1)
福岡県立福岡工業学校(1)
福島県立工業学校(1)
愛知県立岡崎師範学校(1)
愛知県立明倫中学校(1)
愛媛県立師範学校(1)
茨城県立水戸中学校(1)
茨木県立尋常中学校(1)
岡山県立第一岡山中学校(1)
岡山県立第二岡山中学校(1)
笠岡商業学校(1)
宮崎県立女子師範学校(1)
宮城県立宮城女学校専攻科(1)
京都府立舞鶴高等女学校(1)
新潟県立長岡中学校(1)
新潟市立尋常中学校(1)
盛岡県立盛岡中学校(1)
静岡県立見付中学校(1)
石川県立羽咋中学校(1)
石川県立金沢第一中学校(1)
千葉県立銚子高等女学校(1)
大阪市立扇町商業学校(1)
長崎県立長崎中学校(1)
長崎市立商業学校(1)
長野県立大町中学校(1)
奈良県立磯城農学校(1)
兵庫県立佐用農蚕学校(1)
福岡県立三池農学校(1)
熊本県立八代中学校(1)
五條町立五條高等女学校(1)
広島市立高等女学校(1)
弘前市尋常中学校(1)
高知県立城東中学校(1)
佐渡高等女学校(1)
埼玉県立浦和中学校(1)
三重県立津中学校(1)
山形県立山形高等女学校(1)
山梨県立甲府中学校(1)
鹿児島県立第二中学校(1)
鹿児島県立福山中学校(1)
秋田県立女子師範学校(1)
新潟県中学校(1)
東京府立第七中学校(1)
徳島県立商業学校(1)
奈良県立郡山中学校(1)
富山県立富山高等学校(1)
福岡県立小倉高等女学校(1)
福岡県立大牟田中学校(1)
福岡県立築上高等女学校(1)
福岡県立中学伝習館(1)
福島県立第一中学校(1)
福島県立白川中学校(1)
兵庫県立加古川中学校(1)
兵庫県立山崎高等女学校(1)
兵庫県立第三神戸中学校(1)
陸海軍
海軍大学校(4)
海軍兵学校(4)
海軍機関学校(9)
技手養成所(3)
工科学校(1)
工兵学校(1)
飛行学校*(3)
自動車学校(3)
水雷学校(1)
通信学校(5)
歩兵学校(1)
砲工学校(11)
砲術学校(5)
砲兵学校(2)
陸軍経理学校(1)
民間部門
早稲田大学(28)
日本大学(3)
工手学校(2)
三井工業学校(5)
筑豊鉱山学校(4)
長崎三菱職工学校(1)
電機学校(15)
東京化学校(1)
東洋自動車講習所(1)
日本自動車学校(1)
名古屋電気学校(2)
私立学校(1)
私立興風中学校(1)
私立天王寺高等女学校(1)
女子高等学園(1)
樟蔭高等女学校(1)
神戸女学院(1)
西南学院(1)
米沢私立中学校(1)
出所:1893 年,1901 年,1910 年,1920 年,1930 年の『学士会会員氏名録』。
注: *印の学校は工学士勤務が継続している期間内に名称変更もしくは改組が確認できた学校。かっこ内の数値は勤 務延べ人数。植民地統治機関に所属する学校には,中華民国政府や南満州鉄道(満鉄)などの民間が経営する学 校も含めた。勤務先が「小学校」としか記されていない工学士 1 人については,理系・工学系⇔文系分類を行う 場合に集計に加えた。また清国政府が設立した江南実業学堂,長沙高等実業学堂,南京高等実業学堂の各 1 人に ついては理系・文系の別が不明だったため,運営機関別分類の場合に集計に加えた。
初から名称変更や分離・統合はなかったが,1920 年に東京帝大工学部に航空学科が新設 された。1920 年と 1930 年に同学科に勤務していたことが確認できる 16 人の工学士のう ち,造船学科卒業生は 6 人,機械工学科卒業生は 7 人,航空学科卒業生 3 人であったこ とから,航空機には造船学や機械工学の知見が必要とされていたことがわかるが,これ より先の 1918 年,造船学科内に航空学講座が開設されたことに依拠して,航空学科を造 船学科に含めた4)。時系列の連続性を優先した。
京都帝大の場合,1897 年に土木工学と機械工学の 2 学科からなる理工科大学が設立さ れ,翌年,数学,物理学,純正化学,製造化学,電気工学,採鉱冶金学の 6 学科が増設 されて,合計 8 学科となった5)。1914 年(大正 3),理科大学と工科大学とに分離され,
後者には,土木工学,機械工学,電気工学,採鉱冶金学,そして改称された工業化学の 5 学科が含まれた。1919 年に建築学科が増設され,少なくとも 1930 年段階まで 6 学科から なっていた。6 学科のうち,5 学科までは本稿で使用した学科名称と同一であったが,工 業化学科については応用化学科に当てはめた。他の 3 帝大の学科設立過程については省 略するが,学科名称が異なる場合,東京帝大や京都帝大と同様の方法で 9 学科分類に集 約した。
図 1-1 は教育機関に勤務した工学士の卒業学科別人数時系列を示したものである。異な る年代に重複してあらわれた人物も含めて合計 1,527 人(卒業学科不明 1 人を除く)で あった。彼らは卒業学科と同一学科の教員もしくはそれに関係する学科教員として採用 されたものと考えられる。いずれの卒業学科別工学士数も増加しているが,各年代間に おける増加率が異なるに応じて,図 1-1 の比率時系列を示した図 1-2 は変化している。ま た図 2-1・2 は,全工学士の卒業学科別人数時系列とその比率を見たものである。延べ人 数は卒業学科不明の 19 人を除いて 18,119 人に達する。図 2-2 は,近代日本がどのような 専門技術を相対的に必要としていたかを示すものと考えると,図 1-2 と図 2-2 との乖離値 を示した図 3 は,各種専門技術者の需給ギャップの推移を示すものと見なすことができ よう。図 3 によると,応用化学科比率が全工学士数比率を大きく上回り,土木工学科比 率は常に下回っている。また採鉱冶金学科比率は初期には下回っていたのが,徐々に上 昇していき,1930 年には全工学士数比率を上回った。それ以外の学科については需給 ギャップは少なかったといえよう。以下,それぞれの分類別教育機関について検討して いく。
2 帝国大学
ここでは,大学の分類のうち,その当時ほとんどの工学士を供給していた 5 帝国大学 を取り上げる。大学勤務延べ人数 830 人のうち 767 人を占めている。ただし,明らかに 工科大学・工学部以外の学部に勤務していた工学士を除いた。たとえば工部大学校応用 化学科(化学科)1881 年(明治 14)卒業で,理学博士でもあった垪和為昌は,1893 年,
1901 年,1910 年に東京帝大理科大学化学科に勤務していた。また東京帝大機械工学科(舶 用機関学専修)1901 年卒業の鳥山嶺男は,1910 年に東北帝大農科大学水産学科,1920 年 と 1930 年には北海道帝大水産専門部に勤務していた。このような工学士たちの延べ人数 は 12 人であった。また,東京帝大の航空研究所に属し,工学部航空学科教員と兼任して
0 50 100 150 200
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 1-1 教育機関勤務の卒業学科別工学士数
出所:各年の『学士会会員氏名録』による。
0 10 20 30 40
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 1-2 教育教育機関勤務の卒業学科別工学士数比率
出所:以下,特記しない限り図 1-1 と同じ。
0 200 400 600 800 1000 1200 1400 1600 1800 2000 2200
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 2-1 卒業学科別全工学士数
0 10 20 30 40
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 2-2 卒業学科別全工学士数比率
-30 -20 -10 0 10 20 30
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 3 卒業学科別全工学士数比率と教育教育機関勤務工 学士数比率との乖離
いない 7 人,東北帝大金属材料研究所専属の教員 8 人と,その前身の鉄鋼研究所専属の 1 人,合計 16 人は先の 12 人とともに集計から除いた。氏名録と各帝国大学一覧6)から勤 務学科が明らかになったほとんどの工学士は卒業学科と同一であったが,前述のように 工学部航空学科教員には機械工学科と造船学科卒業生が就任していた。また東京帝大鉱 山学第 4 講座(鉱山採掘への機械応用7))には機械工学科卒業の渡辺浩一が就任してい た。彼らはそれぞれの学科で専門分野に関する知識を教授したと解釈して,卒業学科所 属教員とした。人数的には少数なので,解釈を変更しても統計的には大きな差異は見い だせない。勤務学科が不明の工学士も卒業学科と同一の学科に勤務したと見なした。
教員には学位を持っていない教員や理学士教員なども含まれるので,ここでは学科別 工学士教員とする。表 2 は彼らの人数を掲げたもので,図 4-1・2 はそれぞれ人数および その比率をグラフ化したものである。図 2-2 と図 4-2 を比較すると,ある程度パラレルに 変動している。表 3 は,同一年代について卒業学科別全工学士数比率と 5 帝国大学学科 別工学士教員数比率との相関係数を示したものである。高い正の相関係数が得られてい
0 20 40 60 80 100
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 4-1 5 帝国大学勤務の卒業学科別工学士数
0 10 20 30 40
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 4-2 5 帝国大学勤務の卒業学科別工学士数比率 表 2 5 帝国大学勤務の学科別工学士教員数
学科名称 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年 合計
機械工学 3 11 18 41 74 147
応用化学 4 9 15 36 65 129
採鉱冶金学 2 10 17 28 65 122
造船学 1 3 5 10 29 48
電気工学 2 8 10 25 63 108
土木工学 6 15 16 28 49 114
建築学 3 4 5 13 20 45
造兵学 2 4 8 14
火薬学 3 2 3 8
合計 21 60 91 187 376 735
出所:各年の『学士会会員氏名録』。
注:卒業学科不明 1 人を除く。
る。また前者は日本全体の工学士に 対するニーズの動向を反映している ものと考えられるので8),2 つの比率 に相関が見られるということは,帝 国大学が社会的ニーズにある程度対 応していたことを示すものであろ う。
表 4-1 は,5 か年の東京帝国大学工 学部(工科大学)講座数の推移を示 したものである。表 4-2 は,表 4-1 に 依拠して各講座を 9 学科区分に振り 分けたものである。1893 年において,
土木工学を 5 講座としたのは,材料 及構造強弱学担当者が土木工学科所 属の田辺朔朗であったことによる。
同講座は 1901 年より応用力学講座に 名称変更され9),機械工学科教員が担 当した。1901 年の同学科を 5 講座と したのは,応用力学講座と舶用機関 学講座の 2 講座を加えたことによる。
1930 年における採鉱冶金学には,石 油採鉱学と応用地質学の 2 講座を加 え,機械工学には舶用機関学,熱及 熱機関学,実験工学(機械工学科の
表 4-1 東京帝国大学工学部(工科大学)講座数の推移 講座名称 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
機械工学 2 3 3 3 4
応用化学 2 3 4 5 5
採鉱冶金学 3 4 5 7 8
造船学 2 3 3 3 5
舶用機関学 1 2 2 2
航空学 4 4
電気工学 2 3 3 4 4
土木工学 4 4 4 5 6
建築学 3 3 3 5 5
造兵学 1 2 2 3 4
火薬学 1 1 1 1 2
材料及構造強弱学 1
応用力学 1 1 1 2
力学 1 1 1 1
一般電気工事 1
石油採鉱学 1 1
熱及熱機関学 1
実験工学 1
工業分析化学 1
応用地質学 1
講座数合計 21 29 32 44 58
出所:各年の『東京帝国大学一覧』。
注: 採鉱冶金学講座については,関連する講座をこの中に含 めた。たとえば 1920 年段階で,採鉱学 3 講座,冶金学 2 講座,鉄冶金学 1 講座,製造冶金学 1 講座,1930 年では 鉱山学 4 講座,冶金学 2 講座,鉄冶金学 1 講座,製造冶 金学 1 講座に分かれていたが,本稿では採鉱冶金学講座 に集約した。
表 4-2 東京帝国大学工学部(工科大学)学科別講座数 学科名称 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
機械工学 2 5 6 6 8
応用化学 2 3 4 5 6
採鉱冶金学 3 4 5 8 10
造船学 2 3 3 7 10
電気工学 2 3 3 4 5
土木工学 5 4 4 5 7
建築学 3 3 3 5 5
造兵学 1 2 2 3 4
火薬学 1 1 1 1 2
力学 1 1 1 1
9 学科合計 21 28 31 44 57
合計 21 29 32 45 58
出所:各年の『東京帝国大学一覧』。
表 3 卒業学科別全工学士比率と 5 帝国大学学科 別工学士教員数比率との年代別相関係数 年代 相関係数 サンプル数 有意水準 1893 年 0.7876 7 5%
1901 年 0.9187 7 1%
1910 年 0.8278 9 1%
1920 年 0.8749 9 1%
1930 年 0.9044 9 1%
隈部一雄が担当)を加えた。造船学(船舶工学)には,前述のように航空学講座に加え て,さらに応用力学の 1 講座(船舶工学科の末広恭二が担当)を加えた。また土木工学 には応用力学の 1 講座を加えた。
京都帝大では,1914 年(大正 3)に工科大学と理科大学とに分離されたため,表 5 の ように 1901 年,1910 年において工科大学分の講座に相当しないとみなした物理学,数学,
化学を除外した。ただし化学講座については,1901 年と 1910 年に化学講座がそれぞれ 5 講座と 6 講座設置されていたので,機械的に工科大学と理科大学に 2 分割して振り分け,
工科大学分の講座として便宜的に応用化学(製造化学)講座として集計した。分科大学 が学部に改称された 1920 年,工学部では工業化学,理学部では化学という講座名称となっ た。京都帝大では,少なくとも 1930 年まで材料強弱学,構造強弱学という名称が使用さ れていたが,東京帝大と同様に応用力学と読み替えて担当教員所属の学科に振り分けた。
他の帝国大学もほぼ同様にして,9 学科に講座数を振り分け,5 帝国大学学科別講座数の 推移を示したのが表 6 と図 5-1 で,その比率を見たのが図 5-2 である。後者は卒業学科別
表 5 京都帝国大学理工科大学,工学部学科別講座数 学科名称 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
機械工学 4 6 7 8
応用化学 2.5 3 6 7
採鉱冶金学 4 6 7 8
電気工学 3 4 5 6
土木工学 5 5 6 7
建築学 1 4 4
物理学 3 4
数学 2 3
純正化学 2.5 3
9 学科合計 18.5 25 35 40
合計 26 35 35 40
出所:各年の『京都帝国大学一覧』。
0 10 20 30 40
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 5-1 5 帝国大学学科別講座数
0 10 20 30
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 5-2 5 帝国大学学科別講座数比率 表 6 5 帝国大学工学部(工科大学)学科別講座数の推移
学科名称 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
機械工学 2 9 16 27 36
応用化学 2 5.5 11 23 26
採鉱冶金学 3 8 15 24 36
造船学 2 3 3 9 15
電気工学 2 6 10 18 26
土木工学 5 9 12 20 27
建築学 3 3 4 10 10
造兵学 1 2 2 3 4
火薬学 1 1 1 1 2
9 学科合計 21 46.5 74 135 182
合計 21 55 86 138 189
出所:各年・各帝大の『帝国大学一覧』。
全工学士比率の推移を見た図 4-2 と一定のパラレルな動きを示している。表 7 は表 3 と同 様にして作成したもので,やはり高い相関関係が認められる。講座設置数はある程度社 会的ニーズに対応して設置されていたことをうかがわせる。また表 8 は,学科別講座数 比率と学科別工学士教員数比率との相関を見たもので,1893 年を除いて一層強い相関関 係が認められ,学科別講座数の変化に応じて学科別工学士教員数が同じ方向に変化して いたことが確認できる。
図 4-1 は,勤務人数が毎年一定比率で増加していることを示している。図 6 は,表 2
(図 4-1)の合計人数を図上にドット(◆印)し,これらに最もあてはまる直線回帰式と指 数回帰式に従った線形・指数近似曲線を描いたものである。それぞれの決定係数を見る と,前者が 0.894 であったのに対して,後者は 0.978 となっており,指数関数的に教員が 増加していったことがわかる。一方,教員数は,講座制(1893 年導入)に基づいて各学 科に配置された講座数に依存した。図 5-1 は,1920 年から航空学科を加えた造船学科を 除いて講座数が毎年一定数で増加していたことを示している。各学科講座の増加数は硬 直的であり,学部内においてパワーバランスが作用していたことを疑わせる。図 6 と同 様にして,表 6 の 9 学科講座数合計から作成した図 7 を見ると,直線的に講座数が増加 していることがわかる。右上がりにゆるやかに増加しているので,指数回帰式のあては
表 7 卒業学科別全工学士比率と帝国大学学科別講 座数比率との年代別相関係数
年代 相関係数 サンプル数 有意水準 1893 年 0.9051 9 1%
1901 年 0.9038 9 1%
1910 年 0.8227 9 1%
1920 年 0.8914 9 1%
1930 年 0.8991 9 1%
図 6 5 帝国大学勤務の工学士合計人数の直線・指数近似曲線
y = 9.1419x - 17321 R² = 0.894
y = 4E-60e0.0739x R² = 0.978
-50 0 50 100 150 200 250 300 350 400 450
1890 1895 1900 1905 1910 1915 1920 1925 1930
ே
注:直線回帰式,指数回帰式は,それぞれ y=at+b,y=beat。
y = 4.439x - 8390.3 R² = 0.983
y = 2E-46e0.0574x R² = 0.965 0
50 100 150 200 250
1890 1895 1900 1905 1910 1915 1920 1925 1930
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図 7 5 帝国大学講座数の直線・指数近似曲線 表 8 帝国大学学科別講座数比率と学科別工学士教
員数比率との同一年代相関
年代 相関係数 サンプル数 有意水準 1893 年 0.7338 7 10%
1901 年 0.9359 7 1%
1910 年 0.9785 9 1%
1920 年 0.9800 9 1%
1930 年 0.9697 9 1%
まりも良好になるのは当然であるが,直線回帰式の決定係数は 0.983 であった。講座数と 教員数の増加形態に差異が生じたのは,1916 年(大正 5)にそれまでの 1 講座 1 教員と いう原則が改められ,1 講座に教授とともに助教授や助手のポストが配置されたことによ る。さらに 1920 年には 1 講座につき教授 1 人,助教授 1 人,助手 2 人という教員配置が 一般的となった10)。
図 8 は図 3 と同様にして図 2-2 と図 4-2 との乖離値,図 9 は図 2-2 と図 5-2 との乖離値 を示したものである。図 3 に比し 2 つの乖離値はより狭まっている。しかし図 8 を見る と,図 3 と同様に,応用化学科における工学士教員数比率は卒業学科別全工学士数比率 を上回り,土木工学科では下回っている。すなわち前者では卒業学科別工学士教員数は 社会的ニーズに比し過剰であったのに対して,後者では不足状態であったことを示して いよう。また採鉱冶金学科は全体に不足状態から過剰状態に変化している。図 10 は 5 帝 国大学学科別工学教員 1 人当たりの学科別卒業生数を見たものである。図 2-1 を図 4-1 で 除して得られた。全体に土木工学科では教員 1 人当たり卒業生数が多く,応用化学科で は少なくなっており,工学士教員 1 人当たり学生数を調整することにより,結果として 需給ギャップが解消された。
採鉱冶金学科に関して
,1893 年段階で社会的ニーズが高かった。官業払い下げを受けた
民間部門において需要が拡大し,また農 商務省においても鉱山監督のために採鉱 冶金学科卒業生を受け入れた11)。しかし これ以降急減し,次第に教員過多となっ たが,1920 年段階で逆転している。これ は第一次世界大戦の民間部門における好 景気による鉱業部門の拡大があったこと によろう。1910 年の鉱業部門における男-20 -10 0 10 20
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 8 卒業学科別全工学士数比率と 5 帝国大学勤務工学 士数比率との乖離
-20 -10 0 10 20
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 9 卒業学科別全工学士数比率と 5 帝国大学学科別講 座数比率との乖離
0 10 20 30 40 50
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 10 5 帝国大学学科別教員 1 人当たり学科別卒業生数
性有業者数は 16 万 700 人で,同年の全産業男性有業者数 1536 万 1200 人の 1.0%を占め ていたのが,1920 年ではそれぞれ 29 万 4001 人,1693 万 5912 人,1.7%に達した。1930 年では 23 万 8055 人,1903 万 237 人で,比率は 1.3%に低下している12)。民間部門におけ る採鉱冶金学科卒業生比率は 1893 年 36.3%,1901 年 29.3%,1910 年 18.9%と急減して いたのが,1920 年には 19.7%と増加に転じている。1930 年では 16.5%であった。また陸 海軍における採鉱冶金学科卒業生に対する需要も高まった。1910 年段階の陸海軍勤務の 採鉱冶金学科卒業生比率は 1.3%にすぎなかったのが,1920 年 5.0%,そして 1930 年 7.6%
となっている。
しかし 1930 年段階では,講座数の増加に応じて教員数も増え,ふたたび教員 1 人当た り卒業生数は低下した。この段階ではまだ当時の社会的ニーズに対して教員過剰であっ たものと考えられる。第一次世界大戦と,1919 年(大正 8)3 月からはじまった「高等諸 学校創設及拡張計画13)」実施の影響によろう。すでに東京帝大では 1919 年 8 月に鉄冶金 学講座が冶金学講座から分離され,1920 年 9 月,製造冶金学と,「輓近航空機潜水艇等ノ 発達ニ伴ヒ軽油及重油ノ需用激増」に対応するための石油採鉱学講座が増設,1922 年に は,前掲の鉱山学第四講座と「礦物資源ノ開発利用」のための応用地質学講座が増設さ れた14)。また仙台高等工業学校を改組した東北帝大工学専門部(1912 年設立)は,1919 年,機械工学,電気工学,化学工学の 3 学科からなる東北帝大工学部となったが,1923 年,4 講座からなる金属工学科が設置され,翌年には 2 講座が追加されて 6 講座となった。
異例の多さであった15)。1930 年の氏名録から同学科に 13 人の工学士が勤務していたこと が確認できる。これ以外に東北帝大では前述の金属材料研究所が設置され,氏名録では 8 人の工学士が同研究所に勤務していた。八幡製鉄所研究所から招聘された大石源治と,
1920 年段階で住友鋳鋼所に勤務していた浜住松二郎は16),研究所員と学部教員とを兼務 していた。
大石は,八幡製鉄所研究所(1919 年に研究課から研究所に改組17))のうち,鋼材の材 質に関する科学研究を行う第 2 部に所属していた。1916 年,アメリカの鉄鋼業を視察し,
1917 〜 1919 年,イギリスのシェーフィールド大学やマンチェスター大学でクロムステン レス鋼などの研究を行い,帰国後に研究所第 2 部主任として勤務していた。1922 年,金 属工学科が設立されるに先立ち,大石は工学部講師を兼務することとなり,金属材料研 究所長の本多光太郎と金属工学科の基本方針を討議したという18)。
このような採鉱冶金学科関連の講座の設置や多数の教員・研究員の配置の背景には,特 殊鋼などを必要とする陸海軍からの要請があったものと推測する。1920 年段階で海軍技
術研究所所属の海軍造船大佐で,東京帝大工学部造船学科(船舶工学科)教授を兼任し ていた平賀譲は,「軍艦と鋼材19)」(1921 年)において第一次世界大戦の教訓は軍艦の「防 禦力」の強化であるとし,高品質の軍艦装甲板用「高張力鋼材」を開発し,自給すべき ことを論じた。「現に今年乃至明年は大正十六年度迄の艦艇補充計画上恐らく最大の鋼材 年額を要す可きものならんも・・・何れの製鉄所も元来か軍艦材を主なる目的に置かれ さりしにも依る可きも概して高張力鋼材に対する準備及研究の不充分なることにし て・・・今日速かに優良なるものヽ製作を遂行せしめんこと切望に堪えす」としている。
3 理系実業専門学校
表 1 に掲げたように,理系実業専門学校等の分類に入れた学校には,陸海軍に属する 海軍大学校などや,植民地統治機関監督下にあった京城高等工業学校などを含めたが,ほ とんどは文部省管轄下の理系実業専門学校であった。32 校のうち 24 校,延べ勤務工学士 数 476 人のうち 436 人を占める。図 11 は,前者 476 人の卒業学科別人数を見たものであ る。1920 年まで全体に直線的な増加を示していたが,これ以降急上昇したのは,上記の
「高等諸学校創設及拡張計画」による もので,1920 年だけでも金沢高等工 業学校,鳥取高等農業学校,横浜高等 工業学校,広島高等工業学校が設置 されている。
以下,これら実業専門学校のうち,
1919 年以前に設立され,歴史的変化 を辿ることのできる実業専門学校 8 校(1929 年(昭和 4)に高等工業学 校から大学に昇格した東京・大阪工 業大学も含めた)について各種統計 観察を行いたい20)。図 12-1 はこれら 実業専門学校に勤務する工学士数
(表 9),図 12-2 はその比率を示して いる。東京高等工業学校(高工)や 大阪高工に勤務する工学士数比率は
表 9 8 実業専門学校勤務の工学士数
学校名 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
東京高工 4 4 7 10 24
大阪高工 9 14 12 33
熊本高工 10 10 10 12
名古屋高工 11 10 15
明治専門 3 14 16
米沢高工 3 10 11
仙台高工 14 6 10
秋田鉱山専門 9 12
合計 4 23 62 81 133
0 10 20 30 40 50 60 70 80
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 11 実業専門学校等勤務の卒業学科別工学士数
それほど多くない。年代経過に伴って減少傾向にある。大阪高工の 1930 年では 24.8%に 上昇しているが,この年,他の実業専門学校が多数輩出していたので,全体では 12.8%
にすぎなかった。図 13-1・2 は卒業学科別工学士数とその比率を示したものである。
彼ら工学士を受け入れた理系実業専門学校の人員配置について見てみよう。教養部に 相当する「共通学科」所属の教員や数学・物理学担当教員を除いて,専門教育担当の教 授と助教授の人数を集計した。表 10 は,各実業専門学校の教授・助教授を帝国大学と同 じ 9 学科区分(ただし造兵学科と火薬学科は設置されていない)とそれ以外の学科に割 り振ったものである。たとえば,東京高工の場合,東京工業学校と称していた 1893 年段 階では染織工科(のちに色染科と紡織科に分離)3 人,陶器瑠璃工科(のちに窯業科と改 称)4 人,応用化学科 2 人,機械科 7 人が見いだせた。合計 16 人の教授・助教授が確認 できた。このうち 9 学科区分に振り分けたのは後者 9 人である。前者を固有学科,後者 を 9 学科区分学科としておきたい。
図 14 は表 10 の各学校の合計欄に基づいて作成したものである。図 12-1 とあまり対応 していないことがわかる。実業専門学校勤務の教員には工学士ばかりでなく,理学士や 実業専門学校卒業生らが教員として勤務していたためである。図 15,図 16 も表 10 に基 づいて作成したものである。前者は 9 学科区分にあてはまる学科数,後者は各学科所属 の教授・助教授数の推移を見たものである。図 13-1 とパラレルに推移している。表 11 は,
0 10 20 30 40
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 12-1 8 実業専門学校別勤務工学士数
0 10 20 30 40 50
1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 12-2 8 実業専門学校別勤務工学士数比率
0 10 20 30 40
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 13-1 8 実業専門学校勤務の卒業学科別工学士数
0 10 20 30 40
1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 13-2 8 実業専門学校勤務の卒業学科別工学士数比率
表 10 8 実業専門学校所属の学科別教授・助教授数
学校 学科 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年 学校 学科 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
東京 高工
機械工学 7 9 9 8 9
米沢 高工
機械工学 5 7
応用化学 2 5 7 11 14 応用化学 5 4 5
電気工学 6 6 4 10 電気工学 4
建築学 4 4 6 9 学科小計 5 9 16
9 学科小計 9 20 26 27 39 染織科 8 6 8
染織科 3 6 8 6 9 合計 13 15 24
窯業科 4 3 2 4 2
仙台 高工
機械工学 7 5 7
工業図案科 4 5 採鉱冶金学 5
合計 16 33 41 37 50 電気工学 5 4 5
大阪 高工
機械工学 14 13 12 11 土木工学 6 4 7
応用化学 5 5 7 12 建築学 3
採鉱冶金学 2 7 3 6 9 学科小計 23 13 22
造船学 4 3 4 6 合計 23 13 22
電気工学 3 7 6
秋田 鉱山 専門 学校
機械工学 7
9 学科小計 25 31 33 41 採鉱冶金学 14 15
染色科 3 9 学科小計 14 22
窯業科 2 2 合計 14 22
醸造科 3 3 3 5 出所: 各年の実業専門学校一覧による。ただし,米沢高 工,仙台高工については,1911 年もしくは 1912 年 の一覧による。また仙台高工は,1912 年に東北帝 国大学工学専門部となり,1921 年に再設置された ので,教育機関として連続しているものとみなし て,「東北帝国大学工学専門部一覧」掲載の人数を 1920 年段階の仙台高工の人数とした。熊本高工 は,第五高等学校工学部を前身としているので,
1901 年の数値は「第五高等学校一覧」に依拠した。
注: 1929 年,東京高工から大学に昇格した東京工業大学 には工学専門部が設置された。同専門部は染織科(色 染科 2 人,紡織科 2 人)4 人,応用化学科(電気化 学科 2 人を含む)4 人,電気科 3 人,機械科 2 人,建 築科 2 人からなり,彼らも集計に加えた。大学では 電気化学科,物理化学教室,分析教室(化学実験分 析)の教員を応用化学科に加えた。物理学教室,数 学教室に属する教員については共通学科に相当する ものとみなし,集計から除外した。大阪高工の場合,
たとえば 1920 年,機械科には 5 人配置されていた が,他に機械工場 2 人,機械工場実験室及原動室 2 人,舶用機関科 3 人の教員を機械科教員に加え,表 のように 12 人とした。また理科担当教員は共通学科 と見なした。1929 年,大学昇格にともなって工学専 門部が設置され,東京工業大学の場合と同様に大学 学科別教員数に加えた。名古屋高工,米沢高工一覧 の教員名簿には,教授・助教授別に教員が配列され ている。学科長を除く教員については所属学科が不 明なので,担当授業科目に基づいて所属学科を推定 した。
合計 33 36 36 46
熊本 高工
機械工学 6 5 7 5
採鉱冶金学 4 5 6
電気工学 7 6
土木工学 6 6 6 5
9 学科小計 12 15 25 22
合計 12 15 25 22
名古 屋高 工
機械工学 6 5 5
電気工学 2
土木工学 5 6 5
建築学 4 2 5
9 学科小計 15 13 17
機織 1 4 7
色染 5 5
合計 21 22 24
明治 専門 学校
機械工学 3 6 6
応用化学 6 7
採鉱冶金学 5 8 9
電気工学 5 8
9 学科小計 8 25 30
合計 8 25 30
各年における各学科別比率間の相関係数を見たもので,サンプル数の少ない 1893 年と 1901 年を除いて,高い相関係数が得られた。8 実業専門学校勤務工学士の学科別比率は,
彼らもその中に含まれていたので,学科別教授・助教授数比率との相関の方が,9 学科区 分学科数比率との相関より高くなっている。
造船学科は大阪高工 1 校に設置されていたが,帝国大学でも 1921 年に九州帝大に造船 学科が開設されるまで,東京帝大にのみ造船学科が設置されていたにすぎなかったので,
帝国大学,8 実業専門学校ともに同学科卒業生比率は低い。土木工学科についても,1920 年以降に設立された多くの高等工業学校に設置されたが,これ以前には第五高等学校工 学部を前身とする熊本高工や,仙台高工,名古屋高工に置かれただけであった。図 15 の 土木工学科設置数,図 16 の土木工学科所属教授・助教授数,そして図 13-1 の土木工学科 卒業工学士数はほぼ同じような推移を示している。
機械工学科は,当初,学科数,教授・助教授数ともに急増したが,次第に他学科の増 加が大きくなり,図 13-2 のように,同学科工学士数比率は低下し,電気工学科の場合は,
機械工学科とは対称的なグラフを描いている。採鉱冶金学科の場合,1910 年以降,設置
0 10 20 30 40 50
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 14 8 実業専門学校別教授・助教授数
出所:各年・各校の実業専門学校一覧による。
0 2 4 6 8 10
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 15 8 実業専門学校に設置の 9 学科区分学科数
出所:各年・各校の実業専門学校一覧による。
表 11 8 実業専門学校勤務工学士の学科別比率と 9 学科区分学科数比率(上段)・学科別教授・助 教授数比率(下段)との年代別相関係数 年代 相関係数 サンプル数 有意水準 1901 年 0.4502 5
1910 年 0.8462 7 5%
1920 年 0.9625 7 1%
1930 年 0.8686 7 5%
1901 年 0.6239 5
1910 年 0.9065 7 1%
1920 年 0.9950 7 1%
1930 年 0.9779 7 1%
0 10 20 30 40 50 60
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 16 8 実業専門学校の学科別教授・助教授数
学科数に変化はなかった。表 10 のように,1910 年段階で同学科が仙台高工に設置されて いたが,同校が東北大学工学専門部に改組された後の 1917 年(大正 6)に同学科は廃止 され21),その一方で 1911 年,秋田鉱山専門学校採鉱冶金学科(採鉱学科,冶金学科)が 開設されたので,1910 〜 1920 年では設置数に変化はなかったことになる。教授・助教授 数について見ると,1910 年段階では 21 人であったが,1912 年の秋田鉱山専門学校一覧 には 9 人の教授・助教授が記載されていたので22),1912 〜 1920 年では教授・助教授数に 変化は見られない。図 13-1 でも増加を示しているが,1910 年の氏名録に基づいているの で,1,2 年後の氏名録に依拠すると,教授・助教授数と同じような推移をたどるものと みられる。しかし 1920 〜 1930 年においては,設置学科数に変化は見られないが,教授・
助教授数,勤務工学士数ともに急増している。帝国大学の場合と同様の背景により定員 数の増加があったのであろう。
前述のように,帝国大学卒業学科別全工学士数比率と,帝国大学勤務工学士数比率と の乖離値を見ることによって,工学士技術者市場における需給ギャップをうかがうこと ができたが,帝国大学以外の教育機関卒業生への需要動向に関するデータを得るために は,各学校の卒業生就職先に関する資料に依拠しなければならない23)。本項では,帝国 大学勤務の卒業学科別工学士数比率と,実業専門学校勤務の卒業学科別工学士数比率と の乖離値(図 17)を見ることによって,技術者教育に関する帝国大学との差異を検討す ることとした。
図 17 から,全期の機械工学科や 1920 年以降の電気工学科・採鉱冶金学科の乖離値が 高くなり,これら実業専門学校においてそれぞれの学科が帝国大学に比し重要視された ことがわかる。応用化学科はマイナスの乖離値から上昇していき,1930 年段階では乖離 は消失した。一方,土木工学科や造船学科は年代経過にともなって低下していった。し かしこのような特徴を示しながらも,帝国大学と 8 実業専門学校の卒業学科別工学士数 比率の乖離値は年代経過にともなって縮小していった。少なくとも前者の 9 学科と後者 の 7 学科の人員配置が似てきたことを意 味する。とくに 1910 〜 1920 年において 縮小のテンポが顕著である。これは前述 の 1918 年に議会に提出された「高等諸学 校創設及拡張計画」を契機として大学へ の昇格が強く要望されるようになったこ とによろう。1920 年に東京高等商業学校
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図 17 8 実業専門学校勤務卒業学科別工学士数比率と 帝国大学勤務卒業学科別工学士数比率との乖離
が東京商科大学となり,1923 年(大正 12),東京・大阪高工の大学昇格が議会に より承認されたが,関東大震災のため 1929 年に延期された24)。図 17 は 8 実業 専門学校全体の動向を示したものである ので,このような大学への昇格要望は,
東京・大阪高工だけではなかったのであ ろう。
図 18 は,教授・助教授数に占める工学士数比率を示したものである。図 12-1 の数値に 対する図 14 の数値の比率を算出することによって得られた。全体の平均値が 1893 年段 階で 25%であったのが,1901 年 29.5%,1910 年 39.5%,1920 年 43.3%,1930 年には 55.4%へと上昇した。東京・大阪高工の 2 校は 1930 年段階では大学に昇格したこともあっ てこの比率は急上昇している。しかしこの段階でも東京工業大学の比率は 48%で,平均 を下回っていた。熊本高工は 1901 年段階で 80%を超える高さであった。熊本高工の前身 校であった第五高等学校工学部の学科名称は帝国大学と同一であった。前掲表 10 に掲げ た学科名称は上記「9 学科への集約」で指摘したような方法で,9 学科名称に読み替えた もので,厳密には表に掲げた名称に一致しない場合が多いが,第五高等学校工学部の学 科名称は帝国大学で使用されていた名称であった。同学部は 1897 年に設置され,「土木 工学科」と「機械工学科」からなっていた。帝国大学のカリキュラムを参考にしたもの と推測されている25)。1906 年に第五高等学校から独立した際に「採鉱冶金学科」が増設 された。
1907 年(明治 40)に設立された仙台高工も熊本高工と同様に帝国大学で使用された学 科名称を用い,上記の 3 学科に加えて「電気工学科」の 4 学科から構成されていた。図 18 のように,工学士数比率は 60.9%と平均を上回っていた。帝国大学の影響がうかがわ れる。また両高工が固有学科を持っていなかったことも共通している。個別に見るとこ の比率は上下変動しているが,全体的に,9 学科区分学科数が増加するに応じて上昇して いる。図 19 は,(1)全専門学科の教授・助教授数(表 9 の各校の合計欄の合計),(2)9 学科区分学科所属の教授・助教授数(9 学科小計欄の合計),(3)9 学科区分学科勤務の 工学士数,の推移を示したものである。図 20 はこれら 3 変量間の比率の変化を見たもの である。「(2)÷(1)」は,専門学科所属の教授・助教授数に占める 9 学科区分学科に属す る教授・助教授数の比率を示し,学科数の増加に応じて,9 学科区分学科所属教授・助教
0 20 40 60 80 100
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図 18 8 実業専門学校の教授・助教授数に占める工学士 数の比率
授数が相対的に多くなったことを示している。1893 年段階で 56.3%であったのが,1930 年には 87.1%に上昇した。逆に固有学科数と,それら学科に所属する教授・助教授数が 相対的に減少したことを示していよう。「(3)÷(2)」は 9 学科区分学科所属の教授・助教 授数に占める工学士数の比率を示している。1893 年の 44.0%から 1930 年の 63.6%へと上 昇した。「(3)÷(1)」は図 18 に掲げた時系列と同一のものである。工学士の採用拡大に より大学化への経路が,前掲図 17 のように帝大との差別化が図られながらも整備されつ つあったといえよう。
4 工業学校等
表 12 は省庁・地方庁・陸海軍・教育機関・民間部門の 5 分野別分類に従って工業学校 等に含めた教育機関数・人数を見たものである。省庁として逓信省・農商工省庁(農務 省・商工省・農林省)・植民地 統治機関に細分した。全体に事 例数が少なく,延べ人数で 93 人,学校数では重複を除くと 37 校にすぎない。前稿で検討した ように26),この分類の中には各 種学校も含まれているが,1910 年頃の工業系各種学校は 71 校,
1920 年頃では 173 校,また工業 学校は 1910 年頃 52 校,1920 年 頃 89 校に達する27)。表 12 によ ると,1910 年段階の地方庁に属
0 20 40 60 80 100
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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(䠏)㾂(䠎)
(䠏)㾂(䠍) 䠂
図 20 3 変量間の比率の推移
表 12 工業学校等所属分野別工学士数(各欄上段)・勤務校数(下段)
所属分野 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年 合計
逓信省 1
1
2 1
3 1
農商工省庁 1
1 2 1
3 1
植統治 1
1 1 1
地方庁 2
2 4 4
2 2
10 10
18 14
陸海軍 1
1 15
4 20 10
36 11
民間 1
1
3 3
8 4
20 7
31 9
合計 2
2 2 2
8 8
26 11
55 30
93 37 出所:各年の『学士会会員氏名録』。
0 50 100 150 200 250
1 8 9 3 1 9 0 1 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 3 0
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図 19 教授・助教授数,工学士数の推移