• 検索結果がありません。

雑誌名 同志社談叢

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 同志社談叢"

Copied!
37
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

<新出資料>徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について (1) : 二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡と して

著者 石倉 和佳

雑誌名 同志社談叢

号 33

ページ 83‑118

発行年 2013‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013417

(2)

八三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―

〈新出資料〉   徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴ ―二通の新島書簡   徳富猪一郎との往復書簡として―

石 倉 和 佳

本稿で取り上げるのは、徳富蘇峰記念館(神奈川県中郡二宮)に所蔵されている徳富猪一郎宛て新島襄書簡のうち、『新島襄全集』(以下、『全集』)に未収録のものである。これらの書簡は、折帖仕立であり、封書と書簡が繋ぎ合わされている。封書の順番は年月未記載のものを除き年月順である。折帖仕立本の中の順番通りに、書簡中の日付および書簡の封書の消印を判別できる箇所のみ記載すると次の通りとなる。

①明治二十一(一八八八)年十一月一日  書簡  墨   消印  十一月一日(京都)、十一月四日(東京)②明治二十二(一八八九)年一月十三日  書簡  墨   消印  一月十四日(神戸)、一月十六日(東京)③明治二十二(一八八九)年  月未記載   書簡  墨

(3)

八四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―

  封書表に「大久保真次[二]郎君ニ託ス」とある④明治二十二(一八八九)年六月十二日  書簡  墨   消印  六月十二日(京都)、六月十四日   封書表書は代筆⑤明治二十二(一八八九)年六月十五日  書簡  墨

  消印  六月十六日(京都)、六月十八日(東京)⑥明治二十二(一八八九)年六月、六月二十八日  書簡  墨   消印  六月三十日(京都)、七月二日(東京)

  『全集』四   六七二号明治二十二(一八八九)年六月二十八日  書簡  墨   『全集』四   六七三号本稿では便宜上、未公刊の書簡の通数を対応する封書の数によって数え、①から⑤の全五通と考える。⑥は既に『全集』に収録されている六七二号と六七三号の書簡である。これらの書簡の日付は同日であり、封書から見ても同日に一緒に投函された可能性が高い。

①から⑥の書簡は、昭和十七(一九四二)年に刊行された『新島先生書簡集』(以下、『書簡集』)には収録がない。この『書簡集』は、徳富猪一郎(蘇峰)が実質的に支援し、自らも大量の書簡を供出し巻頭言を寄稿するなど、物心両面にわたって関わったものである。その後徳富が没して二年後の昭和三十五(一九六○)年に、『新

(4)

八五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 島先生書簡集続』(以下、『書簡集続』)が刊行され、⑥の書簡が二通として採録された。二通とも注記には「故徳富猪一郎氏所蔵」とあり、編者の森中章光が何らかの形で保存していたものを原本としたと考えられる。二通目は全文ではなく後半部分のみの抄録である。森中が二通として採録した書簡は、前述のように折帖仕立本では一つの封書が対応しており、書簡中の日付も同じである。また、折帖仕立本では最後に綴じられた書簡であり他の書簡を無視してそれだけを抽出することは現実的には考えにくいので、折帖仕立本そのものから筆写したとは考えにくい。この点に関しては、平成元(一九八九)年に出版された『全集』第三巻の書簡編に全文の翻刻が採録された際の注記に「写真」とあることから、写真資料として現存していたことが考えられる。森中は資料を写真撮影し保存する活動をしたと伝えられており、この⑥は一定期間、写真資料として利用できる状態にあったと考えるのが妥当であろう。これらの書簡が未公刊となった経緯については、昭和十七年の『書簡集』をまず考えたい。この『書簡集』は六百部限定の大部の箱入り本で、新島の永眠五十周年の記念として編纂されたものである。この出版には、逝去から半世紀が経過し新島を直接知る人も少なくなる中で、「新島襄」という指導者に再び光を当てその言葉を残すという意義があったはずである 。当時の徳富はすでに八十歳となり言論界の重鎮として全国に蘇峰会を擁する大御所であった。『書簡集』出版に二年先立って、新島遺品の展覧会と徳富および永井柳太郎による記念講演会が行われ、どちらも大変な盛況となったが、これを当時の校友会長若松兎三郎は「新島先生をして再び昭和の御代に蘇生せしめたるもの」(『書簡集』一二三六頁)と評している。①から⑤の書簡が何故『全集』未収録のままとなったのかについて、はっきりしたことは分からない。しかし、徳富がこれらの書簡を公開しないとしたことが出発点としてあることは推測できる。徳富が新島からの書簡を大

(5)

八六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―切に保管していたこと、そして『書簡集』の出版に先立ってそれらを整理したことは確かである。『書簡集』に収録するために書簡を供出することは徳富の意思で行われたが、結果として収録されたのは一一二通であった。当該折帖仕立本の書簡群から一通も採録されていないのは、これらの書簡が当時散逸していた可能性が全くないとは言えないにせよ、徳富が意図的に収録することを見合わせたと考える方が自然である。①から⑥の書簡は徳富蘇峰記念館によれば徳富自身が仕立てたものであるが、いつこの形に仕立てられたのかは分からない。著作を残さなかった新島に触れるためには、家族や教え子たちに残された書簡群は貴重な資料だった。しかし①から⑤までの書簡には、特定の個人への批判、攻撃、揶揄などが散見し、また新島の家族への誤解を生みかねない文言も含まれている。徳富が公開を見合わせようと考えても不思議ではない。徳富はこの『書簡集』出版の三年と少しあとには戦犯として蟄居謹慎の身となった。『書簡集』は、徳富の長い言論人としての人生の中で、自身の影響力を充分行使できる恐らく最後のタイミングで出版された。太平洋戦争の戦時下において物資が窮乏しつつある中で、新島の言葉が大部の書籍に活字として残ったことは、ともあれ徳富としては上出来であったと考えられる。徳富の死後、これらの書簡は他の徳富宛ての膨大な量の書簡群とともに秘書であった塩崎彦市に委譲され、昭和四十四(一九六九)年には塩崎によって設立された徳富蘇峰記念館の保管となった。書簡の状態は非常に良く、当時の様子さえ彷彿とさせるほどである。ちなみにこれらの書簡群は、高野静子の『蘇峰とその時代』(一九八八)に言及がある。この本では、⑥のうちの前半部分のみ、『書簡集続』と若干の異同がある形で翻刻されている。

本稿(前編)では以下に、①(以下第一書簡とする)および②(以下第二書簡とする)の翻刻ならびに注解を記す。翻刻に関しては送り仮名等も原文のままとする。 

(6)

八七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 《第一書簡》明治二十一年(一八八八)十一月一日  書簡  墨   消印  十一月一日(京都)、十一月四日(東京)

東京々橋区日吉町廿番地民友社

  徳富猪一郎様     西京寺町通丸太丁

        新しま襄 過日は御書面被下置奉鳴謝候陳御申越之日々新聞云々之件ハ至急金森氏ニ廻し伯迄申上サセ候処同氏より返応申進へき旨被申候由候得者中々□教取

(7)

八八徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―申間敷候間恐入候得共貴兄より最後御談判被成下度奉希望候過日湯浅兄より金森兄へ御遣し候之御書面ト渋沢氏より小生宛之書状は落手仕哉何卒別紙厚紙之印鑑ハ湯浅兄ニ御渡し被下度奉希候小生も同志社より外部之閉門ヲクラヒ教員も生徒も一切来訪を許されす京都におゐて東月ハ日々打咏め居候得共同志社之生徒トハ談話も出来不申候御一笑右は用事耳早々頓首

     

(8)

八九徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 十一月一日   新しま襄

徳富猪一郎兄 

[※  日付は書簡内容及び消印から一日とする]

これは十月二十六日付の徳富猪一郎の新島宛て書簡(『全集』九上  二八六号  以下、巻数および書簡番号を記載する)に返信したものである。新島は十月二十三日に横浜を発ち、翌日神戸に帰着、翌々日には京都に到着していた。かねてからの体調不良のため、この冬は神戸で静養するつもりで借家を探していた頃である。医師からは同志社生徒との面会を禁じられていた。しかしこの時期は、「同志社大學設立の旨意」、いわゆる同志社アピールの発行の直前であり、大学設立運動は正念場にさしかかろうとしていた。新島は病をおして精力的に各方面に働きかけていた。民友社を興し『国民之友』を発刊し、出版、言論人として活動を始めていた教え子の徳富は、この時期には同志社社員となり 、東京での同志社運動の前線基地とでもいえる働きをするようになっていた。第一、第二書簡は、徳富との往復書簡として現在読みうるものであり、当時の二人を取り巻く状況や二人のやり取りを如実に知ることが出来るものである。本稿では、これらの二通の書簡を徳富との書簡も合わせて紹介することにする。以下には、前述の徳富の新島宛て書簡の全文を若干長文ではあるが引用する。

粛啓、神戸御安着の電話に接シ漸く安堵仕候、途中の悪天気ニて定めて御迷惑と存申候、渋沢氏より本日寄付

(9)

九〇徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―金の事ニ付ても相談有之、湯浅兄面会ノ上篤斗相弁シ申候、渋沢氏より先生ニ当タル書状と其ノ模様等ハ湯浅兄より申上候筈ニ候間何卒左様御承知ヲ乞ふアッピールモ既ニ一度ハ印版ニ取リ候、右ハ明朝校正ノ上印行シタルモノヲ御目に懸ク可シ、各社共ニ大ニ義侠ノ精神ニテ賛成到候得共、独リ読売と日々とは其の先約に反し募金取次丈ハ断リ出申候、読売尚可ナリ、日々ニ到りてハ実ニ訳ノ解ラヌ次第ニ御座候、湯浅兄より金森兄ニ右通知致したれハ金森兄より井上伯ニ何とか可申出と存候、若し御序モ之レアリ候ハヽ、先生よりも井上伯ニ日々新聞ノ所、何とか論告の事御依頼如何ニ候哉、小生ノ愚見ニ於てハ今度ハ日々ニモ是非ヤラセ度存候、若シ都合次第ニ小生か関[直彦]と最後ノ談判ヲ開く積りニ御座候、既ニ集金人名ヲ紙上に掲載スルニハ広告料ヲ払ふ以上ハ日々新聞ニ於て別段損する所ナシ、損スル所ハ少々ノ手数ノミ、此ノ手数ヲ口実として前約ニ背クハ実ニ訳ノ解ラヌ次第ナリ、併シ事ハ成就ヲ主トスレハ可成穏に相談可仕候筈ニ御座候以上は用事丈ケ申上置候、時下冷気肌ヲ侵し千金の尊躰折角御加養千祈万禱此事ニ御座候、先生死セスンハ先生ノ志成ル可し、切に御加養ヲ祈ル、再拝十月念六   午後四時  民友社ニ於て        徳富生新島襄先生     玉案下 乍末筆御家内様ニモ宜敷申上候、御帰の節老父母ニ御贈遣被成下候由奉万謝候(『全集』九上  二八六号)     

(10)

九一徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 徳富は、「渋沢氏より本日寄付金の事ニ付ても相談有之」と述べ、「渋沢氏より先生ニ当タル書状と其ノ模様等ハ湯浅兄より申上候」と書いており、それに対して新島は渋沢栄一からの手紙が手元に着いた旨を徳富に連絡している。この渋沢からの手紙は同年十月二十五日付のものである(『全集』九上  二八五号)。渋沢は新島が二十二日ごろ神戸に向かったと聞いたこと、多忙のため見送りに行けず失礼したと述べ、寄付金の受け取りおよび運用方法についての意見等を連絡している。新島の書簡にある「湯浅兄」は、蘇峰の姉初子の夫であり民友社の経営を担い義捐金の取扱の担当者であった湯浅治郎である。「金森兄」、すなわち金森通倫は、当時同志社の校務を社長代理として行っていた。新島が「日々新聞云々の件」と書くのは、義捐金取扱を各新聞社や雑誌社に依頼する中で、『読売新聞』と『東京日日新聞』が断ってきたという事態を指している。徳富はこの件を「読売尚可ナリ」、すなわち『読売新聞』はまだそれでも良いだろうとしながら、『東京日日新聞』については「実ニ訳ノ解ラヌ次第」と書いている。『読売新聞』は大衆向けの小新聞として出発したもので、徳富は義捐金の徴収等には向かないとしても致し方ないと判断したのだろうが、かつての自由民権派の知識人を対象とした大新聞である『東京日日』が断ってきたことは不可解であったと思われる 。徳富は新島に『東京日日』の件について取りなしを頼んでいるが、すでに新島は十月十六日にこの件を依頼する手紙を井上馨に送っており(『全集』三  四八五号)、その返事を待つしかない状態であった。徳富が「今度ハ日々ニモ是非ヤラセ度存候、若シ都合次第ニ小生か関[直彦]と最後ノ談判ヲ開く積りニ御座候」と書くあたり、大学設立運動を支える意欲に加えて、自分より若干年長で帝国大学法学士でもある関直彦 に対する同業者意識の高さもうかがえる。新島はこの徳富の文言を受けて「貴兄より最後御談判」を願いたいと返答しているが、『日日新聞』の件については現段階で可能な対応はそうした直談判だけ

(11)

九二徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―だと了解したということだろう。押してもなかなか動かない状況からの連想も手伝ってか、新島は近況報告として同志社生徒に面会のできない状況を「小生も同志社より外部之閉門ヲクラヒ」といささか自嘲気味に書いている。興味深いのは同日に、生徒であった波多野培根に訪ねてくるように次の手紙を書いていることである。

十一月一日       新しま襄波多野培根君  我カ学校并教会之前途ニ付心中大ニ憂フル所アリ候間、一応貴君ニ御面談申度候間御都合被下、今午后四時ヨリ五時ノ間ニ御来訪被下度候、尤其時間ニハ多分裏庭ニテ射的ヲナシオリ候間、直ニ裏庭ノ方ニ御回ハリ被下度候、小生も御存之通、同志社ヨリ無残ニモ書生ニ面会スル事ヲ禁止セラレ候間、セメテハ僅々ノ人ニ逢ヒ学校ノ将来ヲモ御託シ置キ申度候間、貴君ノ御光栄ハ他人ニ御内密ニナシオキ被下度候右得貴意、艸々頓首(『全集』三  四九六号  ペン書き)     

新島はまた同じ日に、柏木義圓にも英文で手紙を送り、学校のことで話したいことがあるので二人で会いたいこと、自分を訪ねることは誰にも言わないでおくこと、などを英文で書き送っている(『全集』六  二七六号)。柏木義圓の昭和四(一九二九)年の追想によればその日の様子は次の如くである。新島から呼び出しが来たの

(12)

九三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― で行くと、新島は「予は校醫から諸君に面會することを禁じられて居るが會ふて話さねば胸が破裂しさうだから君に來て貰つたのだとて學校に關して憂慮して居らるゝ点に就て語り更に合同問題に及び若し今の様で合同が成るならば自分は北海道へ退くのみと沈痛なる面持で仰せられた」ということで、柏木は「其容今尚髣髴予が眼に在る」(『上毛教界月報』第三七三号  昭和四(一九二九)年十二月二十日発行)と結んでいる。なお、柏木のこの新島からの呼び出しへの言及は、小崎弘道が『日本帝国の教化』(一九二九年)で展開した新島の合同反対への非難を論破する中で行われている。以上のように第一書簡は、明治二十一年(一八八八)十月から十一月にかけての書簡群、すなわち井上馨宛書簡(『全集』三  四八五号)、渋沢栄一よりの書簡(『全集』九上  二八五号)、徳富よりの書簡(『全集』九上二八六号)、波多野培根および柏木義圓宛書簡(『全集』三  四九六号、『全集』六  二七六号)と相互に関係しており、この時期の新島の消息をより明らかにするものであるといえる。《第二書簡》明治二十二年(一八八九)一月十三日  書簡  墨   消印  一月十四日(神戸)、一月十六日(東京)

東京々橋区日吉町二十番地徳富猪一郎様

(13)

九四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―神戸諏訪山和楽園       新島襄 国民ノ友ハ向後直々神戸諏訪山ノ和楽園方へ御遣し被下候様御願候」 [ママ]文部ノ教策ヲ駁スルニハ何卒吾人ノ主義ヲ明ニスル為メニ歐米現今教育ノ方針又結果事実等詳細ニ御掲被成候様奉希候当月九日付之貴書拝読仕候又同村会別書北海道千島紗那之河内敬太郎氏より之書面も一読仕真ニ同氏之篤志ニハ感服仕候小生よりも同氏ヘハ壱書差出其好意を謝可申心得ニ御座候小生被申上候其後大ニ御無沙汰申上候条真平御免可被下候其訳ハ他にあらす昨十二月二十八日比より非常ニ咳嗽を致し

(14)

九五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 為メニ此二週間斗ハ諸事注意致し此三四日以前迄外出も見合居候次第然し最早宜しく候間御安心可被下候当時は金森氏も坂神之間を運動し小生は重モニ神戸ニテ工風致し金森ハ重モニ大阪にて漸々ト手廣ク之着手被致居候何分該地四分五裂人気之一致セサルニハ大ニ閉口致居候又近来ハ政事上ノ思想意外ニ燃へ揚カリ人々殆狂気ノ体ト申ストモ苦しからず而して餘り他事ニハ意を止めさるか如し然し此内カ又収獲之時機かとも存候決而怠不申候得共何分無人ニ而充分諸方ニ着手之不成ニハ大ニ閉口いたし居候○ [ママ]茲ニ甚オカシキ    去八日

(15)

九六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―事件大坂毎日新聞ニ掲ケアリタリ被 [ママ]ノ柴四郎氏之発起ニ而京都妙心寺中ニ一之大法会ヲ催し戊辰之戦死人ノ霊ヲ慰ムルト申訳ニテ多分之人も来会致セシニ在同志社会津之生徒ハ一人も来会セサルヲ大ニ遺憾ニ思ヒシヤ法外ナル虚誕を吐キ会津生ヲ罵詈し何ニモ関係ノナキ小生ノ名迄モ引会ヒニ出し不足ダラゝゝノ事ヲ申立ラレ候此レニテ柴氏之魂情モ大概相分之ヲ評スレハ英吉利ノブルドーグ之一種類ニ人ニ噛ミ付吠ヘ付人間ナリト被察候同志社之生徒ヘハ前約モナク何ノ相談モナクシテ生徒ノ一人ナル松平容大子ヲ発起人トナサシ事等不都合千万ノ挙ヲ

(16)

九七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 為シ居候ナカラ恥モ知ラスニ喋々有リモセヌ事ヲ以テ同志社之生徒ヲ誹謗いたしタル事実ニ可憐 88

   早速会津生徒ヨリ誤正間敷可申事ニ致しオキ候イヤミ千万ナル天下ノ志士ト 888888存候○ [ママ]小生もアマリ大同団結ニハ信仰ヲオキ不申候得共万丈虚士吠フルノ類カ近来諸々ニ大同団結カ初マリ僧侶神主輩迄モ大同団結ニ喋言スルニハ実ニ抱腹千万ノ事ニ候旦尚吾人ノ了解ニ苦シムハ我カ基督教中諍々タル人物ノ一致論ニ全ク心酔シテ地方分権平民主義之貴重ナルニハ眼ヲ開カス不知不識中央皇権ノ教会政治ニ退却セントシ苟モ自由自治ヲ唱フル吾人ヲ指シテ狭隘偏狐頑固ナトヽノ評アルニ

(17)

九八徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―至ルハ近来ノ解シ難キ一現象ト云ハサルベカラス此ノ一致論モ当時流行之大同団結ノ種類ニシテ到底真実之一致ハ成り難キハ小生輩ノ初メヨリ主張スル所ニ候」 [ママ]先日ギュリク氏之意見書ヲ諸方ノ教会ニ分配スル事ニ相成候得共教師中会議ヲ開ラキ同氏之意見書ヲ教会に出ス事ハ全ク差し止メラレタル由自由ニトム米国人ニモ如斯挙動アリ冝ナク我教会之振ハサル今ノ勢ナレハ我カ教会ヨリ自由平民主義ヲ皇張スル殆望ムヘカラサルモノヽ如し民友社 888

宜シク此重且大ナル責任ヲ 8888888888888

負ヒ賜ヘ 8888

本日京都ヨリノ通知ニハギュリク氏意見書

(18)

九九徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 出版ノ事ニ付議論数日ニ亙リテ同氏ノ意見書ニレ ールネドデウィス両人カ銘々ノ意見ヲ添ヘテ上梓スル事ニ決シタル由此レハ吾人ノ勝利ト御認被下度候小生モ此事ニ関シテハ大ニ骨折内部ノ周旋致申候▲ [ママ]大阪会議中シトニーギュリク氏ニ忠告し海老名ニ気ヲ許ス勿レト勧メオキ申候国民ノ友前号(卅七号)第八ページニ君子豹変 8888ノ美質ヲ有スルト御断言アルガ此レハ実ニ我カ日本人ヲ評シ尽シテ更ニ剰ス所       ナキ近来        ノ明評ト

       奉存候嗚呼我カ東洋ノ男子中英ノピューリタン人ノ性質ヲ具有スルモノヽ見エサルハ日本ノ大弱点ト云ハサルヲ不得内村鑑三氏ハ新潟之学校ニ散々ニウチコワシ而シテ又自ラモ打コワシ遂ニ退去ニ及候伊勢之米国行ハ賛成いたしオキ候」 [ママ]海老名氏ハ

(19)

一〇〇徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―大坂ニ至ルト直ニ変説セし事ハ小生も洞察致し▲ [ママ]

小生ハ本年是非トモ出京いたし度心得ニ候得共多分医者カヤカマシク可申ト恐居候右者為貴答早々敬具

一月十三日    新しま襄

徳富猪一郎兄

(行間に書かれた文字は文頭を下げている。右傍線部分、及び※を付けた箇所の傍点◦は朱書き部分である。)

本書簡の書かれた明治二十二年一月当時、新島は静養のため神戸諏訪山の和楽園に借家し滞在していた。書簡は篤志金への礼から書き始められているが、おそらく本文を書いたあとで『国民之友』についての言及を余白に書き込んだと思われる。後半部分にも一旦書いた手紙の余白に続けて書きこんでおり、結果としてかなり長文の手紙となり、内容は多岐に亘る。本書簡は、冒頭に「当月九日付之貴書拝読」とあるように、一月九日付徳富猪一郎書簡(『全集』九下  四○三号)への返信である。まずは徳富の書簡を全文引用する。

(20)

一〇一徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―         徳富生新島先生新年以来甚た御無音申上候、其れとても所謂□事匆忙ノ致ス所幸ニ御高怒ヲ乞ふ○同志社集金モ追々ト出て来り候模様ニて今一層尽力セハ随分出来ル事と存申 上候、但シ東京ニ於て専務尽力スル人無之困リ入申候○上州地方ハ別して出来高モ多カル可く、尚本年ヨリハ段々各地方トモ賛成ノモノアルヤニ見受け申シ候、別紙ハ朝野新聞より受取リタルモノニして御手元ニ差出し申候、其ノ篤志可感也、本年四月頃ハ是非共今一度御上京可仰心算ニ御座候、先生御上京ニ相成居候ハヽ、御高臥被成居候ても随分事ハ緒ニ付き可申、必ラス其ノ節ニハ今再応ノ募集ニ着手仕度何卒先生ニモ充分それ迄保養ノ上御出京奉待候、本回ノ国民之友ニハ高等中学廃止ノ議論致し置候以来追々我党と文部と教育上ノ主義ノ異同ヲ弁論致度積リニ御座候○海老名氏ハ頃日伊セ氏ニ説破セラレ再タヒ合併論ニ変説したる由熊本より通知有之候以上彼是取り雑奉得貴意候、寒気峭 料幸ニ天下ノ為め同志社の為め御加養千祈万禱申上候、頓首再拝   一月初九

この書簡の冒頭で、徳富は東京での義捐金募集の運動について、もう少し頑張りたいが人手不足であること、新島が上京して運動してくれるのであればもっと進むであろうと述べている。そして『朝野新聞』より受け取ったものを同封していること、熊本より届いた海老名弾正の近況を伝えている。徳富の書簡の内容は、主に大学設立のための義捐金に関する話題を中心としたものであるが、それに対する新島の返信(第二書簡)は、徳富の書簡の内容に応答する以上に、対話するように想念の赴くまま書き連ねて

(21)

一〇二徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―いる趣があり、話題は多方面に及んでいる。本稿では以下、次の項目ごとに解説を付すこととする。【1】「文部ノ教策」について【2】千島紗那の河内敬太郎からの篤志【3】大学設立募金運動の近況【4】妙心寺大法会と『大阪毎日新聞』の記事【5】世情についての話題    ・大同団結には賛成しない由    ・民友社への期待および「君子豹変の美質」について    ・ギューリック意見書【6】海老名弾正、内村鑑三、伊勢時雄について

【1】「文部ノ教策」について冒頭余白に書かれた「文部ノ教策ヲ駁スル」云々の文面は徳富が一月九日書簡で言及している『国民之友』(第三十八号  明治二十二年一月二十日発行)に書いた記事に関するものである。徳富は、「先つ高等中學を廢すべし」と題し、民間による高等教育の必要性を説いた。記事には、「吾人は平生私立學校の盛大ならんことを願ふものなり、特に我邦私立學校の随一とも謂ふへき同志社大學の設立に熱心するものなり」とある。明治十九(一八八六)年の中学校令により、全国には官立の高等中学校が設立されていた。帝国大学への進学者養成と地方における高等教育の推進を目的としたものであったが、その多くは後に旧制高等学校へと転換されることになる。徳富

(22)

一〇三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― の議論は民間の教育への熱意と意欲が政府の教育政策によって阻害されていると見、高等中学の廃止を説くものであるが、新島はこの記事を読み思うところがあったらしく、一月二十九日付徳富宛書簡で、「先ツ高等中学廃スベシノ御論ニ付、近頃府下之議論ハ如何、御序ニ御漏し被下度候」(『全集』四  五六四号)と、高等中学の是非に関する東京での世論に興味を寄せている。【2】千島紗那の河内敬太郎からの篤志北海道千島紗那の河内敬太郎からの篤志金は、徳富の書簡によれば『朝野新聞』が取り次いだものである。現在北方領土に属する択捉島の紗那には、当時は役場が置かれて開拓が進んでいた。紗那の地域に明治期在住していた住人の記録等には、河内敬太郎の名を今のところ確認できていないが、北海道立文書館に保管されている『札幌県官吏履歴書』(簿書八六二八)、『履歴短冊』(簿書一九五八)、および『改正官員録』の明治十六年十二月版と明治十七年五月版には、「河内敬太郎」という人物の記載がある。この人物は安政四(一八五七)年生まれの米沢藩の元藩士の士族であり、明治十年から十二年までは警視局、明治十二(一八七九)年以降は開拓史御用掛や札幌病院当直医などをつとめ、明治十七(一八八四)年まで札幌県の御用掛であった。大新聞であった『朝野新聞』の読者であると考えられること、新島も徳富もその篤志に感心する書状をしたためていることなどの状況を総合して、この元米沢藩士である河内敬太郎が義捐金を送った当

『朝野新聞』明治21年12月29日 広告

(23)

一〇四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―人ではないかと考えられる。明治十八年以降の記録がないことから、札幌県が明治十九(一八八六)年に廃止される前に河内は官吏を辞職し別な職業に就いたと考えられるが、択捉島に渡った経緯などは不明である。義捐金募集は全国の有力新聞、出版社に取り次ぎを依頼して展開していた。このときの募集では締め切りを四月三十日としており、徳富が四月に新島が上京することを慫慂し、「必ラス其ノ節ニハ今再ノ応募ニ着手仕度」と書くのはこの点に関するものと考えられる。【3】大学設立募金運動の近況新島は神戸に来てから二週間ほどは体調不良で養生していた。文中にはその事に関する言及がある。一月十一日の神山(阿部)充家宛書簡にも近況を述べる中で「甚しき咳嗽等引起し大ニ困難」(『全集』四  五五三号)とある。徳富にしばらく連絡をしていなかったためか、新島は募金運動の関西での近況を知らせている。金森通倫は阪神間や大阪で、新島自身も神戸で運動を展開していることを述べながら、大阪での募金運動に苦心している様を、「何分該地四分五裂人気之一致セサルニハ大ニ閉口致居候」、と伝えている。また、大学設立の運動を展開するための人手不足についても言及している。【4】妙心寺大法会と『大阪毎日新聞』の記事「茲ニ甚オカシキ事件」から始まる部分は、『大阪毎日新聞』で明治二十二年一月五日から八日まで「雑報」に記載された、京都妙心寺における鳥羽伏見の戦いの戦死者供養についての柴四郎の記事に言及したものである。柴は旧会津藩士であり、当時は『大阪毎日新聞』の主筆をつとめ、東海散士の筆名で『佳人之奇遇』などの政治小説も書いていた。八日の記事には、「會主松平容大」と記載され、同志社生徒の会津出身者が参列しなかったと報告されていた。「法外ナル虚誕を吐キ会津生ヲ罵詈し何ニモ関係ノナキ小生ノ名迄モ引会ヒニ出し不足ダ

(24)

一〇五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― ラゝゝの事ヲ申立ラレ」「松平容大子ヲ発起人トナサシ事等不都合千万」と、新島の逆鱗に触れたのはこれらの部分である。記事の中の該当部分を以下に引用する。(前略)奉行の報告により施主焼香す是時會主松平容大君在東京にて参場せられざるを以て當地より徳川氏の惣代として立越れし相澤氏に第一の焼香を譲りし處柴に會主の代理をと強て辞退せらるヽゆゑ餘義なく柴第一に焼香し第二に相澤氏第三に舊大垣藩士小原氏ぞ焼香せらる此の小原氏は舊大垣藩有名の家老にて伏見戦争の當時卽ち正月五日會津勢頗る苦戦の刻み生兵を引卒して應援せられし小原仁兵衛氏(號を鐡心と云ふ)の親族なり(中略)是にて大法會も首尾好く終りを告げぬ扨又茲に一寸記すべき事こそあれ开は他にあらず是の法會には舊會津藩の者にて目下西京の同志社に入り修学せる七八名の人も來會する兼約ありしが當日に至り忽ち一人の使を遣はし急用の出來致したれば孰れも参會なり難き旨を以て断はられたるにぞ發起人は意外の思をなし抑も此事や昨今急遽の企てにはあらず彼の人々の同意せしも亦昨今急遽の事に非らず且つ此の祭典は兼て世湖に向て廣告もせし程の譯なれば亡霊の為め約束の為めに對しても少々位の所用は繰合せて参會致さるヽこそ社會徳義上の義務とも申すべき歟尤も已むを得ざる事の急に出來るは人事の常なれば敢て其の事なしとは申さヾるも七八名の人が打揃ひて同じく急用の湧出したりとはチト受取り難き話しなり去りながら彼の人々は有名なる新島襄氏の薫陶を受け基督敎を奉信する善男なり且夫れ嘘誕所謂妄語をなさヾる事は其の敎義なりと聞けは努虚言を以て社會の徳義を缺くが如き卑劣の所行を致されざる事は我々の堅く信ずる所なれども或る人が此の祭典は佛敎を以て執行する事となりしが故に宗敵として参場せさるなるべし愈よ以て左る狭隘なる了簡を維持し世の徳義を

(25)

一〇六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―度外に放棄するが如き次第ならば新島氏の熱心に計畫せらるヽ彼の大學校にも決して義捐金をなすまじなどまで憤りけるが世に知られたる新島氏にして斯の如き偏頗狭隘なる敎を以て前途悠遠の子弟を誘導致さるヽ事は萬々あるまじ必らずや全く七八人打揃て所用の出來せしなるべしとて其の儘止みつるよし        (完)(『大阪日日新聞』  明治二十二年一月八日  原文のルビは省略)

旧会津藩主の松平容保の嫡男松平容大は、当時同志社に在学していた。容大が法要の会主であったという柴の記述がどれほど正確であるかは判断できないが、旧幕府軍の戦死者が多く出た鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争の弔いに容大の名が出ることは、井上馨などの現政府側の要人の援助を頼みながら、大学設立の募金運動を展開していた新島にとって「不都合千万」と感じられたとしても不思議ではない。新島は「何ニモ関係ノナキ小生」と述べて憤慨しているが、これは妙心寺の大法会の計画に関与していない自分の名がわざわざ引合いに出されている処に何がしかの悪意を感じているからであろう。このような新島の不愉快な気分は、柴が旧会津藩士の子息である同志社生徒の参会を当然のごとく求め、彼等は「有名なる新島襄氏の薫陶を受け基督敎を奉信する善男」であるから来会の約束をたがえるということは考えられないと述べているのに対して、「実ニ可憐 88(かわいそうな)イヤミ千万ナル  天下ノ志士 88888」と揶揄で応答しているところにも表れている。また、大阪毎日新聞社は同志社からの依頼を受けて義捐金取り次ぎを引き受けた新聞社の一つであったが、その紙面にこのような記事が掲載されたことも、新島の神経を逆撫でしたと考えてよいだろう。記事には、仏教の法要だからキリスト教を奉じる者はその価値を認めないなどと狭量な了見で参拝しないようであれば、「新島氏の熱心に計畫せらるヽ彼の大學校にも決して義捐金をなすまじなどまで憤りける」人もいた云々とまで書かれているからである。

(26)

一〇七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― このような同志社大学設立運動に対する逆風ともいえる言論は、例えば前年十二月に発行され同志社大学設立仮事務所に「忠告書」として送付された「同志社大学の設立は吾人の賛成すべき者か将た賛成すべからざるもの乎」(『全集』九上  三五七号)と題された印刷物の主張にも明白である。新島は、国民の間に同志社運動を肯定する世論を形成することを目的として、徳富が『国民之友』に全面的支持を表明するのは大いに結構であるが、同志社への否定的な論調が同じ報道機関である新聞を通じて流布することは絶対避けるべきであると考えていたはずである。新島の激しい論調には、『国民之友』という当時のベストセラー雑誌の主宰者としてジャーナリズムに身を置いていた徳富に檄をとばしている趣もある。尚、新島は二月二日付の葉書で京都の留守宅に容大の近況について問い合わせているが(『全集』四  五六八号)、そのすぐ後に松平容保からの書状が届いた。二月七日付のこの書状によれば、「今般徴兵令之次第切迫、学習院江入塾之事ニ相成」と、徴兵令が厳しくなってきたので、容大は学習院に転校させるということであった(『全集』九下  四五一号)。同年一月、徴兵令が全面改訂されている。私立学校には徴兵猶予の特典が与えられず、新島は長年その獲得を模索していたが、同志社に適用されたのは新島の死後、明治三十一(一八九八)年になってからである。なお学習院は明治十七年より宮内庁所轄の官立学校となっていた。柴の記事がこの転校に影響を与えたか否かは定かではない。【5】世情についての話題   ・大同団結には賛成しない由    ・民友社への期待および「君子豹変の美質」について    ・ギューリック意見書

(27)

一〇八徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―続く部分では、世相への言及を含めて教会合同問題に絡んだ話題が様々に出てくる。まず新島は大同団結には反対であると述べ、「地方分権平民主義之貴重ナルニハ眼ヲ開カス不知不識中央皇権ノ教会政治ニ退却セントシ」と持論を展開している。徳富とはこの点については既知の話題であり、明治二十年十一月六日の書簡では次のように述べている。「君ニハ政治上ノ平民主義ヲ取ルモノニ テニシテ、僕ハ宗教上ノ平民主義ヲ取ルモノナレハ、ツマリ平民主義ノ旅連レナリ」、「我党ヨリ一致論ヲ吐キ出シタルモノハ非常ノ馬鹿モノト云テ苦シカラズ」(『全集』三  三三四号)。新島は徳富が『将来之日本』(一八八六)以来唱えていた「平民主義」の意義を拡大し、信仰上の自由主義とも相通じるものだと考え、長老派と合同するといった「中央皇権ノ教会政治」を是とするような態度を全面的に否定している。そして、組合派の教会が中々勢力を拡大できない中では、徳富(民友社)が頑張って平民主義を広めて欲しいと、「民友社宜シク此重且大ナル責任ヲ負ヒ賜ヘ 8888888888888888888」と書くのである。新島が本書簡の終わり近くで言及している「国民之友前号」(『国民之友』 第三十七号  明治二十二年一月一日発行)には、徳富の「一種の流行病」という記事が掲載された。これは当時の日本の社会に観察しうる国民性を話題にしたもので、次々と「流行熱」に浮かされたように人々が熱狂する様を社会の諸相に見出している。「凡そ文學界に於る小説熱と云ひ、雑誌熱と云ひ、商工業界に於る會社熱と云ひ、鐡道熱と云ひ、鑛山熱と云ひ、社交上に於る踏舞熱と云ひ、男女交際熱と云ひ、衣食住改良熱と云ひ、又た之より反射して生し來れる反動熱と云ひ・・・」と、徳富は当時の社会が「恰も一種の熱病に浮され居るか如き有様」であると述べている。新島はこの記事が気に入ったらしく、「国民ノ友前号(卅七号)第八ページニ君子豹変 8888ノ美質ヲ有スルト御断言アルガ此レハ実ニ我カ日本人ヲ評シ尽シテ更ニ剰ス所ナキ近来ノ明評ト奉存候」と書き、徳富の議論が日本人の性質を分析したものとして卓越であると称賛している。新島の言及している「君子豹変」云々の部分を以下に

(28)

一〇九徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 引用する。

我か國民は世界各國の人民に比して、實に一の優美の性質を有せり、其性質とは物に凝滞せすして、能く推し移るなり、即ち君子豹變の美質を有するなり、此性質は實に充分の發達をなせり、吾人は敢て我か國民か此の如き美質を有することを、誇るを欲せさるにあらす、此の美質より出て來る諸々の出來事を見て、満足を呈せさるにあらす、然れとも今日の現象に到りてハ、我か國民は旣に君子豹變の美質を一變して、殆ど一種の熱病に侵されたるか如きを見るなり、切に之を論すれは 、我か國民は恰も長竿を立つるか如く 、一方に傾かされは 、必す他方に倒る 、更に屹然として樹立する所のものを見ず 、未た知らす我か國民の意思は何の處にあるか

(明治二十二年一月一日発行

  『國民之友』第三十七号)

徳富は、日本人が機を見て即座に態度を変化させ状況に適合していく「君子豹変」の美質を持っているとはいえ、昨今は目先の流行に翻弄されるばかりで屹然として動かないものがないと述べているが、新島はこれに賛同して、「嗚呼我カ東洋ノ男子中英ノピューリタン人ノ性質ヲ具有スルモノヽ見エサルハ日本ノ大弱点ト云ハサルヲ不得」と応答している。徳富が、浮足立ったような社会の情勢を分析しているのに対して、新島は教会合併に傾く組合派の人々を念頭に置いているのか、信仰に基づく信念のない日本人の有様を詠嘆しているということになるだろうか。大同団結反対といっても、「基督教中諍々タル人物ノ一致論ニ全ク心酔」するような何事にも熱狂する国民性の前には、なかなか難しいと一種愚痴めいた内容になっている。また、「君子豹変」に関する話題は、最終部に出てくる海老名弾正への言及へと繋がっている。

(29)

一一〇徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―文中「先日ギュリク氏之意見書ヲ諸方ノ教会ニ分配スル事ニ相成候」とあるように、ギューリック意見書の配布の話題が出ている。また最終部の行間書きこみには、京都からの知らせで、デイヴィスおよびラーネッドの意見も一緒に出版されることになった旨が述べられている。「本日京都ヨリノ通知ニハ」以下で始まる文面の内容は、十一月の組合総会以来の経緯を受けての近況報告である。前年十一月二十三日から二十八日まで開かれた組合教会の臨時総会では、教会合同問題について議論が沸騰したが、結論が出ず議論は翌年五月に行われる次回の総会に持ち越されることになった(『全集』三  五一二号参照)。この総会中、合同賛成派が多数を占める中で表明されたシドニー・L・ギューリック(Sidney L. Gulick )の反対意見は、聴講した大久保真二郎によれば「堂々タル論」であり「中々千万無量ノ味アリキ」というものであった(『全集』九上  三四○号)。総会終了直後、新島はギューリックの意見を印刷、配布することを各教会等に「至急廻状」として発信した(『全集』三  五二一号、五二二号)。シドニー・L・ギューリックとO・H・ギューリックが連名で書いたQuestions Concerning the Proposed Union と題された意見書のことである(『全集』三  九二三頁、新島遺品庫○四七五)。ただし合同賛成派の中には、他の宣教師の意見も同じく印刷配布するべきである(市原盛宏書簡 徳富が「海老名氏ハ頃日伊セ氏ニ説破セラレ再タヒ合併論ニ変説したる由」海老名弾正の話題であるが、さて、 【6】海老名弾正、内村鑑三、伊勢時雄について   『全集』四書簡に詳しい(五七九号、五九六号)。 容展の後のて、いつによ内の5】び【等お3】【お、な開そは、月二島新宛富徳付日五の三日び十三月付およ Union ○)四八四、○四八五。が印刷、配布された遺庫品島問(「組合・一致合併題に就ての意見」新 on Statement J。はに日五十二月一ったあも見意たっいと、ィ・・のドッネDラ・WーDびよおスヴイデ・    『号六六三全上九』集)、

(30)

一一一徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― と書いて寄こしたのに対して、新島は「海老名氏ハ大坂ニ至ルト直ニ変説セし事ハ小生も洞察致し」と返答している点について、何の根拠に基づいているのかは判然としない。とはいえ、二日前の一月十一日付の、熊本在住の神山(阿部)充家宛の書簡に、熊本英学校の海老名について問い合わせたが「一切海老名氏よりハ何ニ之通知も無之」と、連絡がないのでどうなっているのか、手紙を送っても返事も来ないと新島は書いており(『全集』四  五五三号)、徳富からの情報で連絡がないのは変説のためかと考えたとも思われる。また、前述の書簡で大久保真二郎が「海老名は非合併ニナレトモ聯合論者ノ由、則両方ノ教会ノ其儘ニシテ幾分カ布教上ニ聯合シテ働カントノ意味ナル由(利巧の説ニテ却テ恐ルヘキニ似たり)」(『全集』九上  三四○号)と新島に報告していることも、海老名の人物評価に関連している可能性がある。内村鑑三への言及は、いわゆる「北越学館事件」に関したものである。前年の九月に新潟の北越学館の教頭として赴任した内村であったが、宣教師や教師達と衝突を起こし十二月末には辞任していた。この件の詳細は松山高吉および加藤勝弥宛書簡(『全集』四  五四九号、五六一号)などに見られる。伊勢時雄は前年暮れの十二月十一日付の新島宛て書簡で、東京に一大聖堂を建設するため米国に行きたい旨を伝えていた(『全集』九上  三六二号)。これに対して宮川経輝は大学の資金さえ充分集まっていない中で伊勢が米国に行くことは止めてほしいと、十二月二十一日付の書簡で新島に頼んでいる(『全集』九上  三七八号)。新島は徳富に「伊勢之米国行ハ賛成いたしオキ候」と述べており、伊勢は同年三月に米国に出発することになる。

新島の第二書簡を一読し、徳富は同日一月十六日に返信を書いた。即座の対応である。以下に徳富書簡の前半部分の関連個所を引用する。

(31)

一一二徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―粛啓、只今尊瀚相達シ拝読仕候、昨年より御不勝の模様定めて御困却と奉拝察候、何卒為天下為我党御加養専一ニ奉祈上候、却説此処ニ一事の御高見ヲ伺度事有之候、頃日熊本より奈須義質氏ヲ奥亀太郎の代リニ(同氏ハ福岡ニ在)招聘シ海老名氏の下ニありて教会及ひ伝道の為めに働きもらひ度旨接々小生迄依頼し来り候、同氏ハ甘楽郡ニて随分有用の人物ニハ相違無之候得共、熊本の伝道も随分緊要ノ事と奉存候(第一)自今伝道上ノ好機ナル事頃日改進党ノ総代上京仕候、新聞新設ノ事ニ付、小生ニ依頼致シ候間、小生奔走の上其の首尾相ひ届き申候、其上小生より熊本改進党ノ是迄基督教ニ対する政略の曖昧冷淡不親切軽薄ナル事ヲ痛論シ将来ノ事ヲ懇談致候処、彼等帰郷ノ上向後改進党の末々ニ到ル迄決して基督教ニ邪魔セサル可シ、必ラス友愛ヲ以テ接ス可しと議決候旨申し来り候、実に唯今ハ伝道上ノ好機ニて来年ニナレハ政治上ノ擾々ニて多少き可申と存候(第二)非合併の勢力ヲ強メル事尤も九州ニハ大迫氏モ参り居候間、大丈夫ト存候得共、既に海老名氏か変節したる上ハ九州モ随分危ク候間、奈須氏ニても熊本教会ニ入れ置き候事甚た必要と奉存候     (後略)(『全集』九下  四一七号)

新島が、教会合同問題で紛糾している状態とはいえ、「然し此内カ又収獲之時機かとも存候」と擾乱の中から勢力を拡大する好機もあると見ているのに対して、徳富は「自今伝道上ノ好機ナル事」「非合併の勢力ヲ強メル事」と新島の言を支持する主旨で、具体的な対応を記述している。徳富の対応策は、大学設立運動にしても教会合

(32)

一一三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として― 同問題にしても、新島の主張を助ける人がいた方がよいだろうから、奈須義質を熊本の海老名の下に送ること、また自分が努力して立憲改進党系新聞の紙面においてキリスト教を尊重することを確約させたこと、の二つである。奈須義質は蘇峰が熊本で開いていた大江義塾の元塾生であり、この時点では群馬県富岡の甘 楽教会の伝道師であった。文中「九州ニハ大迫氏モ参り居候間、大丈夫ト存候得共」として言及されている大迫真之も、同じく大江義塾時代からの徳富の同志である。同志社英学校の卒業生である奥亀太郎の代わりに奈須をという徳富の提案は、バイブルクラスの影響力を少なくして徳富と気脈を通じた熊本出身者で「非合併の勢力ヲ強メル」という作戦かと思われる。「海老名氏か変節したる上ハ九州モ随分危ク候」という事態に備えているわけである。奈須は一月十八日に伝道師を辞めその後群馬を発ち、神戸の新島に面会したあと二月五日に熊本に着任した 。新島は一月二十九日の書簡で徳富に「過日ハ貴書を賜ハリ后直ニ奈須君迄一書差出し申置候」と返答している(『全集』四  五六四号)徳富としてはすでに発刊されてしまった『大阪毎日新聞』の柴の記事については打つ手がないわけであるが、代わりに自分に連絡を取ってきた改進党に対して、これまで熊本改進党がキリスト教に関しては「曖昧冷淡不親切軽薄ナル事ヲ痛論」し、以後改進党はキリスト教に「友愛ヲ以テ接ス可し」と申し入れをしたと報告している。徳富はこの時期、来年の総選挙を控えて熊本から立候補する予定の山田武甫との選挙遊説を目前にしていた。改進党系の新聞に関係が出来るのも総選挙との関連があるはずである。何にせよ新聞社に対してキリスト教への攻撃を牽制したと報告することで、新島の怒りの矛先を若干かわした格好である。

第二書簡は、柴四郎への辛辣な人物評が圧倒的な印象を与えるが、様々な話題を通して大学設立運動を牽引

(33)

一一四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―する新島の活動が多面的に浮かび上がるものである。択捉に渡った旧米沢藩士、河内敬太郎の応援に感激し、新聞紙上におけるキリスト教系学校設立への逆風に憤慨し、教会合同問題に関しては世情と絡めて詠嘆する、人間新島の姿がこの書簡からは読み取れる。徳富は昭和十七年の『書簡集』の巻頭言で、新島の書簡においては「雲飛ヒ泉迸リ鳥啼キ花笑フ」「先生ノ心地自然ニ發露シ来ル」と書いたが、このいささか文学的な新島書簡への賛辞を超えて、現実の世と戦う新島がこの書簡には表れている。徳富の記事に「近来ノ明評」と感心し民友社にエールを送る新島は、同時に新聞社主筆の柴を一気呵成に罵倒する―書簡を受け取った徳富の立場からすれば、新島の叱咤激励に応えてさらに粉骨砕身して働かなくてはならないと思われただろう。徳富は昭和二十七年五月、九十歳にして同志社を再訪し、「私を一人前に育成してくれた新島先生の同志社」に感謝の意を表し、次のように述べた。

基督教派合同の議に際し、組合教会の多数は何れもその賛成者なりき、しかも先生は心中大にこれを不可とせり先生は私にこれを予に告げたり、予は教会問題には何等の関心なし、但だ先生の志を成さんがために、合同を打破すべく、若干の努力を拂へり(『同志社タイムス』昭和二十七年五月二十八日)

折帖仕立本にある③、④、⑤の書簡は、この「合同を打破すべく」新島が徳富に宛てた内容が中心となる。

参照

関連したドキュメント

第四系更新統の段丘堆積物及び第 四系完新統の沖積層で構成されて おり、富岡層の下位には古第三系.

これまで十数年来の档案研究を通じて、筆者は、文学者胡適、郭沫若等の未収 録(全集、文集、選集、年譜に未収録)書簡 1500

東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記  

紀陽インターネット FB へのログイン時の認証方式としてご導入いただいている「電子証明書」の新規

キャンパスの軸線とな るよう設計した。時計台 は永きにわたり図書館 として使 用され、学 生 の勉学の場となってい たが、9 7 年の新 大

物的対策 危険箇所の 撲滅・5S ①各安全パトロールでの指摘強化

H23.12.2 プレス「福島原子力事故調査報告書(中間報告書)」にて衝 撃音は 4 号機の爆発によるものと判断している。2 号機の S/C

アセアン包括 誤った原産地証明書に替えて新規証明書を発給する。 権限者の署名による承認と機関の証印