東北中世史の開拓者 大島正隆資料集
著者
佐竹 輝昭, 佐藤 健治, 曽根原 理, 七海 雅人
, 柳原 敏昭, 山田 仁史
雑誌名
東北文化資料叢書
巻
6
発行年
2012-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/54277
【正誤表】
各コ下記のような誤りがありましたので、お詫びのうえ、訂正いたします。
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(塑名敏次郎)
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(神奈川県海老名市)
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家族への/家族からの手紙
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(下) 1944年家族宛年賀状
(絶筆、 『上総の海』所収)
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_- i廿-∴ 6審葎 G 六一′・・ 〉#・一入 ′10,I ・・加も(上) 1938年6月24日付
父正満あて書簡付属自筆地図
(右下)大量の調査メモ帳の一部
(左下)卒業論文
(富豪) 一 雷同/ 宕ur由 (上前作即しI ∴∴m
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研究者との出会い
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1938年7月3日森嘉兵衛あて書簡
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1938年1月の日本民俗学単位レポート「葬送に関する二三の報告」
および柳田国男講師の「評価」
民俗学への関心
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大富上略壷璃(右)会場の様子
(左)参会者に配布された遺稿歌集『上総の海』
(下)参会者寄せ書き
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大島正隆の再発見
(上) 1987年に刊行された遺稿集
『東北中世史の旅立ち』
(下) 2011年秋に開催された
「清風一過一大島正隆の
歴史学と民俗学」展示会場
(東北大学附属図書館)
中央は末弟の大島智夫氏
東北文化資料叢書第六集 史学史・民俗学史資料
東北中世Te開拓者犬萬亜隆資料集
東北大学大学院文学研究科東北文化研究室
東北文化資料叢書第六集 史学史・民俗学史資料
東北中世史の開薯大島正隆資料集
次
一家族への/家族からの手紙
/二 石原純への手紙
三 森嘉兵衛への手紙
四 柳田国男・平山敏治郎への手紙
五 大島正隆記念会の記録
六 東北大学史料館所蔵「大島正隆文書」目録(新訂版)
総 説
柳 原 敏 昭 東北大学史料館には「大島正隆文書」と名付けられた資料群 が収められている。大島正隆は、戦前の日本史研究者・民俗学 研究者であ-'とりわけ東北中世史研究の開拓者として知られ ている。本書は、「大島正隆文書」 の中から書簡を中心とした 資料を収載し、大島の軌跡を明確にすることで、史学史・民俗 学史あるいは東北文化研究に寄与しようとするものである。こ こでは大島の経歴'研究業績、「大島正隆文書」 の成り立ち' メ 掲載資料の概要を記して読者の便に供したい。 一 生涯と学問 大島正隆は'一九〇九年(明治四二) 三月五日、生物学者の 父正満と母今子の間に台北で生まれた。祖父正使は札幌農学校 後輩の内村鑑三を入信させたという経歴の持ち主で、その影響 から大島家は敬虔なクリスチャン家庭となった。 大島は、父親の転勤もあって京城中学校、京都府立第一中学 校'麻布中学校と学校を転々とする。そして十一九二八年(昭 和三) に第二高等学校 (以下、二高) 理科一組に進学した。二 高では、山岳部の部長として「二高の山男」 の異名をとった。 一方、昭和恐慌下の社会矛盾を鋭く感受し'共産青年同盟の キャップとして学生運動の指導にもあたった。それは当時にお いでは非合法活動であ-、一九三三年(昭和八)一月、検挙・ 起訴されへ退学処分を受けることとなる。前年一〇月以来の全 国的弾圧'宮城県でいえば一一月一四日の一斉検挙(一一一 四事件) の余波であった。大島への取-調べは峻烈を極め、拷 問も加えられたというが'同志に不利な自白をすることはな かったという。 大島は一年余の監獄生活ののち'「転向」を認められ'釈放 された。キリスト者として生きる決心をした大島は'塚本虎 二・矢内原忠雄らを信仰上の師と仰ぎ、彼らの主宰する聖書研 究会や講演会に足を運んだ。また'民俗学への関心を深め、飯 豊連峰のマタギの習俗について調査・研究した。柳田国男との 出会いもこのころである。 その後、大島は東北帝国大学法文学部 (現在の法・経・文学 部の前身)の聴講生となり、文検に合格した後'一九三六年(昭 刺一一) 四月、同大学への入学を許された。ただし、この年の 一月から一一月まで尚和会なる「転向」者の修養団体に加入す ることを強いられている (後に農業経済学者となる栗原百寿も 会員であった)。この会の解散後も、大島に対する監視が解かれることはなかったという。 大学に入学した大島は'法文学部国史研究室 (現文学研究科 日本史研究室) に属して中世史を専攻した。当時は教授・古田 良一(近世史)、講師・喜田貞吉(古代史・考古学) という陣 容で、古田が大島の指導教官となった (このほかに、東京大学 史料編纂所の伊木寿一が非常勤講師として古文書学を講じてい た)。在学中は、柳田国男主宰の全国山村調査・梅村調査に加 わるなど民俗学に一層傾倒した。『民間伝承』 誌の常連投稿者 となり、柳田の自邸で開かれる研究会 (木曜会) にも度々参加 している。一方で歴史学の研鐙も怠らなかった。その成果は' 一九三八年(昭和一三)一二月に提出した卒業論文「仙台藩領 農村の成立展開過程」となった。この論文の扉には 「主の名の 故に」と題された矢内原忠雄への献辞(I)が記されている。 一九三九年(昭和一四) 三月に大学を卒業すると、ただちに 副手として採用され、寄託されたばか-の 「秋田家文書」(2)の 整理にあたった。同時に卒論で取り組んで以来の東北地方の中 世・近世移行期に関する研究を本格化させ'歴史学の論文を発 表するようになる。代表作とされる「秋田家文書による文禄・ 慶長初期北国海運の研究」 (一九四一年)、「北奥大名領成立過 程の一断面」 (一九四二年) は、いずれも「秋田家文書」を駆 使した北奥羽の研究である。南奥羽の伊達氏・最上氏について もすぐれた論文を書いている。留守氏の研究も重要で、「鎌倉 時代の奥州宮守氏」 (一九四二年)、「奥州留守氏考」 (一九四三 年) を公にしている。 一方'大島の信仰も深まりを見せていた。熱心なクリスチャ ンでキリスト教史の専門家であった法文学部教授・石原謙の信 頼が厚-'その勧めによ-一九四一年(昭和一六) 四月'東北 帝国大学基督教青年会寄宿舎に入-、舎監として後輩の指導に あたった。 このように多-のすぐれた研究を発表し、人望も厚かった大 島であったが、健康面では常に不安を抱えていた。拷問や監獄 生活が本来は頑健だった体を蝕んだといわれている。一九四三 年(昭和一八) 五月に朝鮮・中国東北部の遺跡視察旅行からも どったあたりから体調を崩し'九月には千葉県勝浦での療養生 活を余儀な-される。そして年が明けた四四年(昭和一九)一 月一二日、帰らぬ人となるのである。享年三四であった。 活躍した期間が戦時中ということもあり、戦後しばらくの間、 大島は学界から忘れ去られた存在となっていた。しかし、死後 十数年を経たころから再評価の動きが始まる。特に豊臣政権の 外圧を重視しながら奥羽諸大名の近世的転形を跡づけていくと いう視角が注目され'山口啓二氏、藤木久志氏(3)がその継承・ 発展につとめ、学界を主導した。一九八〇年代に入ると、まず
小林清治編 『戦国大名論集二 束北大名の研究』 (吉川弘文館、 一九八二年) が'的確な解説を付して大島の論稿二編を収録す る。そして一九八七年、大島の歴史学・民俗学の業績をほぼ網 羅した遺稿集『東北中世史の旅立ち』 (そしえて。以下、『旅立 ち』) がまとめられる。伊東信雄・小林清治・大石直正・遠藤 巌・入間田宣夫の諸氏によって詳細な解説・年譜も付され、ま た、正隆実弟の智夫氏が「茨の冠」という回想記を寄せている。 この本の出版は反響を呼び、中世史学界の牽引車であった石井 進氏一。)、網野善彦氏(5)が紹介文を書いている。 このようにして大島の業績は、研究史上に確固たる位置づけ を与えられることになったのである。 一 二 東北大学史料館所蔵「大島正隆文書」 次に東北大学史料館所蔵「大島正隆文書」(以下'「大島文書」) の概要について述べる。「大島文書」は'大島の自筆メモ・ノー ト'書簡を中心とする遺品と関連資料から成る。点数は目録上 で四七一点であ-'寄贈された経緯によって左の四つに分類さ れる。 - 伊東信雄氏が保管されていたものを、同氏が逝去された後、 一九八八年九月にご遺志により寄贈を受けたものである (地 図一点のみ葛西森夫氏寄贈)。伊東信雄氏 (一九〇八∼八七) Ⅲ は、二島教授、東北大学文学部教授をつとめた考古学の大先 達である。大島より一つ年長で'高校・大学の先輩にあたる。 『旅立ち』編者の一人でもある。 ここに分類された資料の主体は、大島自身が書き残した調 査記録である。奥羽中世史料の筆写が中心で、刊本・東大史 料編纂所影写本はもちろんのこと'自身が所蔵者の許に赴い て調査したものも含まれる。島根県隠岐島、三陸海岸などの 民俗調査記録も多い。読了した研究論文の内容を摘記したメ モ、論文作成のためのノート'論文草稿、研究報告のレジュ メ、講義受講ノートもある。これらの大半が約一〇m×一五 mの手製メモ帳に細字で記録されている。 大島の末弟・大島智夫氏(神奈川県海老名市ご在住) の旧 蔵品で、一九八九年五月および二〇一〇年七月・八月'二〇 一一年一月・九月に寄贈された。朝鮮・中国東北部旅行関係 の資料、信仰にかかわるノート類、大島が家族に書き送った 書簡'石原純 (東北帝大基督教青年会での友人) あて書簡が 中心となる。没後四〇年を記念して開かれた座談会の記録 (録音) も含む。これらはいわば人間としての大島正隆にか かわる資料であり'劇的ともいえる生涯を送った大島の内面 をうかがうことができる。 上記以外の個人・機関から寄贈された資料である。大島が 3
舎監をつとめた東北大学基督教青年会宿舎の日誌写、柳田国 男・平山敏治郎(敏次郎) にあてた書簡写などが含まれる。 大島自筆原本はない。 Ⅳ 東北近世社会経済史研究で著名な森嘉兵衛にあてた大島書 簡である。二〇二年一月'盛岡市の森肇氏 (森嘉兵衛のご 子息) より寄贈された。同年一〇月受贈の史料メモ一点もあ る。 「大島文書」は、-の寄贈があった際に一定の整理がなされ たが、日録は作成されていなかった。そこで二〇〇九年七・八 月を中心に佐藤健治・曽根原理・七海雅人・佐竹輝昭・柳原敏 昭・山田仁史の六名が目録取りを行った。山田を除く五名は' 『青森県史』資料編・中世二 (青森県'二〇〇五年) の編纂に かかわり'大島ゆかりの「秋田家史料」に関連する部分を担当 した。宗教学を専攻する山田は東北地方における民俗学の展開 に関心をもっていることから参加した。完成した目録は、二〇 一〇年三月末に史料館のホームページ上に公開し'増補・修正 の上,同年三月発行の冒史談話会雑誌』五一号に再掲した。 三 収録した資料について 本書には'「大島文書」に収められた資料のなかから大島正 隆の書簡全点、没後四〇年記念座談会の記録および目録の新訂 版を掲載することとした。詳細はそれぞれの解説に譲り'ここ では概略のみ述べておく。 (一)書簡 大島書簡は、「大島文書」に正本が収められている①家族あ て (一部'家族から大島あて)'②森嘉兵衛あて'③石原純あ てに加え、④成城大学民俗学研究所所蔵の柳田国男あて・平山 敏治郎あてのコピーを翻刻・掲載する。 これら書簡が書かれた時期は'大島が治安維持法事件で獄中 にあった一九三三年(昭和八)から死の直前にまで及んでいる。 したがって通覧することで、大島の半生をたどることができる。 ②④は、大島が研究者に差し出した書簡である。歴史研究者 としての大島にはその先駆性ゆえに〝孤高〟というイメージが 伴うが、実際には多-の研究者と交流し、情報を交換・共有し ながら自らの学問を高めていったことがわかる。戦前の研究者 間交流のあ-方を知る上でも興味深い。一方、①はヶ素顔の大 島正隆〟を垣間見せて-れるもので、山や自然を愛し、哲学や 音楽へ深い関心を寄せていた様子、あるいは家族思いでユーモ アに溢れた人柄を偲ばせて-れる。時に内面の吐露もある。③ は療養先から出されたものが主体で、最期の日々の心情を伝え る。絶唱ともいえる短歌が胸を打つ。 それにしても大島の筆まめなことには驚かされる。生涯に何
通の書簡を認めたのだろうか。一方、これらが今日まで失われ ずに保存されていたことにも感嘆せざるをえない。 (二) 大島正隆記念会の記録 大島没後四〇年を記念して一九八三年二月に開かれた記念会 (座談会) の記録である。公表を前提としたものではないし、 個人情報も含まれているが、内容の重要性'開催から三〇年近 -が経っていることに鑑み'大島智夫氏のお許しを得て掲載す ることとした。二高'基督教青年会等で親交を結んだ友人・知 人たちが、大島への思いを語っている。没後四〇年を経て'こ のような企画が立てられていることに驚きを禁じ得ない。生前 の大島を知る方々による証言として貴重であるばかりでなく、 一 研究者としての大島を考える上でも示唆を与えてくれる。 (≡) 目録 先に記したように'「大島文書」 の目録は二〇一〇年末のも のが最新版となっている。しかし、その後、資料の寄贈が相次 ぎ'点数が一年足らずの間に百点以上も増加している。こうし た事情を考慮し'目録の新訂版を掲載することとした。 四 本書刊行の経緯と研究史的意味 本書の執筆にあたったのは、先述した「大島文書」 の日録取 り作業を行ったメンバーである。「大島正隆文書研究会」を立 ち上げ、会合を重ねるとともに'二〇二年九月末から一〇月初 めにかけては、東北大学史料館企画展として「清風一過-大島 正隆の歴史学と民俗学-」を開催した(於東北大学附属図書館)。 こうした中で、資料集刊行の気運が高まり、東北文化研究叢書 の企画に応募したところ、採択していただくことができた。発 行母体の東北文化研究室は、大島が深-関わった奥羽史料調査 部を前身としている。非常に意義深いことだと考えている。 各項目のとりまとめ責任者は左の通-であるが、資料の判 読・入力作業、注の付加などは研究会として共同で行った。本 書は名目上'柳原が編者となっているが'実質的には全員によ る共編著であることを銘記しておきたい。 口絵(曽根原理) 一家族への/家族からの手紙 (佐藤健治) 二 石原純への手紙(佐藤健治) 三 森嘉兵衛への手紙 (柳原敏昭) 四 柳田国男・平山敏治郎への手紙(柳原敏昭) 五 大島正隆記念会の記録 (七海雅人) 六 東北大学史料館所蔵「大島正隆文書」目録(新訂版) (普 根原理) おしまいに現在の学界状況において本書がもつ意味について 述べておこう。 5
最近、日本史学界においては学史的な研究が盛んである。大 きな特徴として'公刊された著書・論文だけを素材とするだけ でな-'大学アーカイブズ等の整備を背景として書簡・日記な ど個人資料も活用していることがあげられる(6)。本書も期せ ずしてかかる動向と軌を一にするものとなっている。 一方'学史研究は民俗学界においても活発である。本書との 関係で注目されるのは、戦前の京都帝国大学民俗学会の活動実 態が明らかにされつつあることである(7)。文学部国史研究室 員多数が参加してお-、柳田国男を招増した研究会も一度なら ず開かれていたという。このことと大島正隆を中心とする東北 帝大の事例もあわせ考えれば、歴史学と民俗学との関係を軸に 史学史の新しい見取-図を描-ことができるのではなかろうか。 かかる視点から大島を逆照射することも課題となってこよう。 本書所収の諸資料および「大島文書」には大きな可能性が潜在 している。多-の方にご検討いただきたい。 なお末筆ながら、本書に収めた資料をご寄贈いただいた大島 智夫氏'森肇氏'成城大学民俗学研究所には心より御礼申し上 げます。また、仲介の労を執って-だきった森ノブ氏、茂木明 子氏、鈴木岩弓氏、研究費の面で便宜をはかっていただいた大 藤修氏にも感謝致します。
注
(-) 「みすぼらしい旅人を受け入れ、前途を励まし力付けて 下さったその日の喜びを記念して」。矢内原忠雄は'民主 主義的言動がもとで前年に東京大学経済学部教授の地位を 追われていた。 (2)津軽安藤氏の系譜を引-三春藩主秋田家の家蔵文書。現 在は東北大学附属図書館所蔵で、「秋田家史料」と称される。 (3)藤木久志「豊臣政権論の二、三の問題-大島正隆氏の論 文の紹介-」 (『国史談話会雑誌』 六'初出一九六三年。の ち同『戦国大名の権力構造』吉川弘文館'一九八七年に再 録)。 (4)石井進「新刊紹介 大島正隆著『東北中世史の旅立ち』」 (『史学雑誌』九六-一二'一九八七年。石井進の世界三『書 物へのまなざし』山川出版社'二〇〇五年に再録)。 (5)網野善彦「ある歴史家の生涯-大島正隆『東北中世史の 旅立ち』IL (『列島の文化史』六、一九八九年) (6)佐藤雄基「朝河貫一と比較封建制論序説-個人資料に基 づ-史学史研究の試みー」(『歴史評論』七三二・特集「時 代の奔流と向かい合って生きた歴史家たち」二〇二年)。 東北大学史料館に関係するところでは所蔵資料を用いた村 岡典嗣(日本思想史学) の研究がある (『季刊日本思想史』七四・特集「村岡典嗣‥新資料の紹介と展望」、二〇〇九 年)。 (7)蘇理剛志「京都帝国大学民俗学会売っいてー関西民俗学 の黎明IL (『京都民俗』一九、二〇〇一年)、『柳田国男研 究論集』 四 (二〇〇五年) に掲載された柳田国男生誕一三 〇周年記念シンポジウム 「京都で読む柳田国男」 の記録' 斉藤利彦「西田直二郎と民俗調査」 (『俳教大学アジア宗教 文化情報研究所研究紀要』 四、二〇〇八年)、菊地暁「敵 の敵は味方か--京大史学科と柳田民俗学」 (小池淳一編 『(歴博フォーラム)民俗学的想像力』 せりか書房、二〇 〇九年)など。一 (附記〉小箱を執筆するにあたっては'主として次の文献を参 考とした。 ・大島正隆『東北中世史の旅立ち』 (そしえて、一九八七年) 付篇「大島の学問と生涯」 ・大石直正「大島正隆の民俗学」 (『国史談話会雑誌』 二八、一 九八七年) ・東北大学キリスト教青年会七十五年史出版委員会編『東北大 学キリスト教青年会七十五年誌』 (東北大学キリスト教青年 会、二〇〇三年) ・柳原敏昭「東北帝大入学前後の大島正隆」 (『東北中世史研究 会会報』一八、二〇〇八年) ・佐竹輝昭・佐藤健治・曽根原理・七海雅人・柳原敏昭・山田 仁史「東北大学史料館所蔵『大島正隆文書』 目録」 (『国史談 話会雑誌』 五一、二〇一〇年) ・佐藤健治「大島正隆'家族への手紙」(『東北大学史料館紀要』 六、二〇一一年) ・柳原敏昭「『東北中世史の旅立ち』を告げる資料群」 (『東北 大学史料館だより』一四、二〇二年) また'東北大学史料館における大島正隆関係資料の受贈につ いては、樋口知恵氏作成の資料を参考にさせていただ-ととも に'永田英明氏よりご教示いただいている。 7
大島正隆略年譜・主要著作
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凡例
書簡の翻刻は年代順に配列して'各書簡のタイトルには、番 号・書簡名・年月日・形態÷六 東北大学史料館所蔵「大島 正隆文書」目録(新訂版)」の番号を付した。推測した年月日には ( ) を付けた。 翻刻に用いた記号は以下の通りである。 □ 字の欠損 音 字の抹消 ● 判読不能〔 〕 校訂者注
本文中の異筆部升は「 」をもって本文と区別し、〔異筆〕 と傍注した。大半が正隆死後、大島家で記入したものである。 傍線も多数引かれていたが省いた。 必要に応じて、書簡の後に*を付して注記を施した。 1 大島今子書簡 (一九三三年(昭和八)夏) 二八日 (便箋) Ⅱb3〔本文〕
旭ケ岡は床がはれましたそうでいろIl楽しみに存じて想 像してゐます、井戸の水がわる-なりましたそうで、未練 なくてようございます かすていら只今着'珍し-重宝いたします 丁度二本松水野医 へ智夫をつれて買物も序にしてかへりの自動車へ一虐にのって 参-ました、昨日御手紙着あ-がたく拝見'東京の暑さの中に 御一人残し相すまな-思ひます、私とものため御つとめ下さる 事思って有難-子供達にもよ-申伝へて居ます、智夫の足は まだ糸をぬきませんでした ねんざか思った様に治って居ない ので糸ぬき方々相談に水野さんに参りました、糸もだん〈肉 にきれこんで来ますので、肉がよくつきませんけれどもぬいて もらひました 場庭が場虞でいつも動く虞で △形のきづはな かなかつきに-ひとの事です ▲-比の部に栄養が届かず合せ 目がじ- - してゐます 別にいたみはないそうです 乾草治 療がよいので御湯へつける事は嶽の御湯でもいけないと申され ます ヨードガ-セをおいて消毒ガ-セを上におき度々オキシ フルを用ぶる様にといはれました、充分きをつけて早く治る様 にさせ度、あるいてはいけない様です、 一昨日大風が吹き其あとは大そう涼しくスエークーを出しどて らをきてさむがって居ります、夜とてもきもちよ-ねますので 一日食事がすゝみ'三度 -一舛づゝ御米をたいて居ます 此 賄方本当にいそがし-別段にたい-つするひまとてなく相変ら ず短い一日を送って居ます' 東京のあっさを思ふ時こゝで充分休養させ 体を丈夫こさせねバと一層深-感じます、皆々丈 夫でまだ誰れも具合の悪い人もございません 正明は大元気で さわざまわって居りますが'たづなをゆるめず度はづれぬ用心 致して居-ます、正幸のため四時にはお起きになります由、日 中あつき事故朝早い方御からだによろしいとは思ひますがどう ぞおつかれなき様願上ます、五・一五事件毎日新聞にてよみ、 人知らぬ同情を以てよみます、吾子達と年を同じうし純情の青 年をかくまで思はす 不良の上流社会に大きな打撃を与へた事 はたしかと思ひますが犠牲となった若人の上を思へば実に -きのどくてたまりません'それにしても仙台から其後何とか申 て参-ませんか、嶽の景色を見るにつれ涙がにじみ出ます'一 / 寸行って見たくも思ひますが 無駄かとも思ひ夢に現にさ-か ねてなやんで居-ます'正幸 とうぞ体大切にと御伝へ下さ 〔ママ〕 い、松島行きは嶽の評番です、 話の種の少い虞とて、いかに も珍らしそうに話します、 『家紋付の紫のふろしきは舜にお もたせ下さい、昆虫の箱もう三つ入用だそうでございます、舜 も早く来ます様、幸も是非よって休養して札幌へ帰ります様、 御申伝へ下さい 清水先生は毎度頂たいして相すまな-存じます、其内一度御伺 ひいたしませう、 正幸のかいまきを手入れする様、もうしたかも知れませんが 〔ママ〕 房にどうぞよろしく、こちらの皆々の製服とてもきたな-なって居ます、 舜にたのむもの 『健夫が黒い手帖に友達の番地のかいたもの どこかにおいて来ました「わら半紙四ツ切に 感想文の題が七 つ八つかいた智夫と正明の宿題だしかに荷もつに入れたつも-のがありません ちいさい紙切れの事故うちでも見付らないで せう 〔ママ〕 糸えんぴつを全部忘れて来ました一箱でよろしいから御願ひ します、 ラシャ紙(五反田の相事や 安田銀行のとな-)色とりませて 智夫の切ぬきをはって帖めんに作りますから 00000 前にかました昆虫のはらと'風ろしきを一虞に願ます 父上さまによろしく H 廿八日
今子
正満 様' *五・一五事件の全容が公表される一九三三年五月一七日以後 のものと推定。正隆は治安維持法違反の嫌疑により検挙さ れ、同年一月から宮城県監獄片平丁支署に拘置されている。 この書簡では、母今子が仙台の正隆のことを心配している様 子がうかがえる。「嶽」は福島県岳温泉のこと。2 大島正隆書簡一九三三年(昭和八)一二月五日 (封書) Ⅱ1
〔封書表書〕
〔東〕 □京市目黒区中根町一八三三番地 大島今子様 〔 巽 等 〕 「111」 〔消印「□□ 8・□・□」〕〔封書裏書〕
仙台市片平丁四〇番地 大島正隆 〔異箪〕 十二月五日 「昭8 (推定) ②」〔本文〕
廿七日のお便-嬉し-拝見しました。 こちらへ来て頂ける様なお話'何よ-も嬉しく感じました。実 はこの前のお葉書で常分、その機会もない事と多少がつかりし て居た所たったのです。昨今はもう自分の心情も全く確定的な 方向に落着いて居ます故、この様な妙なわびしい場所でお目に かゝつても'お心を暗-悲しいものにおさせする様な事ばかり でもありますまい。その日をお待ちして居ます。たゞ時間が極 めて制限されてるさうですから'ゆっくり心ゆくまでといふ具 合には行きかねるでせう。 醸審の模様など詳し-はおしらせしてあ-ませんでしたが、今 までに終了したのはたゞ以前の事実調らべだけで'現在の心境 とか将来の問題とかについてはいづれ又その中お調べがあるで せう。そのためのものとして先日醸審終了後、今日までかゝつ て、今の僕がマルクシズムを如何に見るかについてを陳述書に 書いて居たところです。近-これを醸審判事さんの所にまわし て頂けるでせう。判事の方は、中年の如何にも厳格さうな方の 様に感じました。今の僕の眞実の状態をよく了解して頂けるか どうか、何だか心配の様な気がしますが、とに角できるだけの 誠心をもって、お調らべを受けて行くつもりです。 陳述書をか-のに気をとられてなつかしい88弟達の便りにま で返事をか-のを延引してた様な状態'大分方々に手紙の不義 理をこきへてしまひました。 この頃'新らしい本がな-なっていさゝか淋しさを感じて居ま す。それに近頃は検閲が馬鹿に手間取って、もう一月半にもな るのに、この前の独逸語の本がまだ入って来ず、甚だしいのに なると、九月に購入したスピノーザの哲学書が未だに検閲中な どいふ時間を超越した話を聞かねばならぬ状態ですから。何か 手頃なものがあ-ましたら送って頂けませんか。今、第一書房 から出て居るプラトン全集の「メノン」(一、五〇銭)買って頂 きた-思ひますが'いかゞでせう。いつでもいゝですからおつ 〔大島正億〕〔大島正徳〕 いでの節お願ひしたいです。それから租父上に本郷の小父さん の「英国哲学史」、もしおあきでしたら拝見させて頂けませんかどうか伺って見て下さい。-英国の功利哲学ではなくて新ヘー ゲル学派と現代実在論について学びたい考へで居るのですが。 〔弟〕 健夫君の珍奇なる考へ方、可笑しさを禁じ得ぬ感がありました。 小さい人達の話、いつも嬉し-謹んで居ます。早くそれにして も皆に会ひたい感がつのります。 時間がありませんからへそれでは又、今日はこゝで打切らせて 頂きます。どうか御大切に。 *正隆はこの年の一月に'治安維持法違反の嫌凝により検挙さ れる。発信元の「仙台市片平丁四〇番地」は、宮城県監獄片平 丁支署。2号∼5号文書は、獄中から母今子に出された書簡。 / 3 大島正隆書簡 (一九三三年(昭和八))一二月一三日 (封書) Ⅱ2
〔封書表書〕
〔東〕 □京市目黒匿中根町一八三三番地 大島今子様 〔英筆〕 「推定 13/12/昭8」 〔異筆〕 「松本伯父に面会 115」 〔消印は切り取られて不明〕〔封書裏書〕
仙台市片平丁四〇番地 大島正隆 〔異等〕 「① 」〔本文〕
〔光〕 一昨日松本さんにお目にかゝりました。 多分もうおぢ様から色々お話し下さった事と思います。実は僕 の方では母上が数日前その旨御通知下さったとかいふお便-、 まだ拝受して居ませんでしたのですっかり面喰ってしまひ、折 角遠路はる人・-お居で下さった貴重な面会時間を十分に活用し 得ずに仕舞った様な憾みがあ-ます。ですが僕のいひたい事 は、おぢ様の事ですから、大体、不充分なお話の中からも酌み 取って下さった事と思ひます。 母上に直接御拝顔したいのが第一目的でもあったわけですが、 考へて見ますと'それは却へって幸い思ひをおさせする事かも 知れません。僕の方でもきつと涙なしにお目にかゝる事は出来 なかったでせう。やは-松本さんに来て頂いたのがお話をお侍 へするには一番よかつたかも知れません。無人島の漂流者が経 験するであらうやうな救ひ'数年ぶりで始めて人の顔を見た様 な複雑な気持を感じました。 持参して頂いた金子確かに拝受しました。半分だけは差入屋の 方にお預けになったらし-、昨日から朝夕二度づゝ牛乳が入っ 〔ママ〕 て来て居ます。「箇養物を謹んで仕舞ふ」との御心配、どうも 恐れ入ります。この前の御送金はあれで肝油、錘詰類等を購入、 あとの残-を謹むものゝ方へ積み立てゝおいたやうな事情です。 13お心を無にしない様にできるだけ充分滋養を取って行くやうに しませう。重ね - の御配慮ほんとうに心から嬉しくお薩申し ます。 今日は以上の事の御報告だけで筆をとめておきます。以前のお 便り、それと松本氏御持参のお手紙、入って来ました上でもつ と詳し-改めて色々書かせて頂きます。
13/12
では 隆 *差し出しの 「隆」は正隆のこと。正隆の家族あて書簡によく 見られる。口絵2頁参照。 4 大島正隆書簡一九三三年(昭和八) 二一月二〇日 (封書) Ⅱ3〔封書表書〕
〔東〕 □京市目黒匝中根町一八三三 大島今子様 〔英等〕 「119」 〔消印「□□ 8・12・□口 前8-12」〕〔封書裏書〕
仙台市片平丁四〇番地 大島正隆 「乱調o m〕12/820」 「鉄筆」〔本文〕
〔異筆〕 「昭和8」 20/12月 〔光〕 七日のおはがきと松本伯父御持参のお手紙'拝受しました。済 んで仕舞ってから用件のお手紙を頂-など'随分不便なところ です。 お話しした-思って居ました事、大体松本さんからおきゝ下さ った事と思ひます。それは要するに'現在の自分がマルクシズ ムから離れて居る事をハツキリ知って頂いて御安心願ふ事、そ れから今まで自分の過誤から計り知れぬ程の御心痛をお与へし た事を心の底からお詫びしたいといふそれだけの事に轟きま す。この気持'以前、自分の立場を飽-まで正しいものと確信 して居た時分にはこれ程苦しいものではなかったのです。ほん とうにい-らお詫びしても済まぬ事です。僕としては将来'自 分の出来る限-、自分の生涯を通じてこの気特を実際の生活の 上に実現して'今までの償ひをさせて頂-より外ない事をしみ ∼-と考へて居ます。 それはさうと僕は今度、お目にかゝれるであらう事を非常な期 待を以って待って居たのです。お話しする事より'たゞ母上の お姿に接したいといふ気持の方が先立ったものであったかも知 れません。それだけ伯父さんの代理は僕に失望であったわけで す。遠路お忙しいところをはるぐ-お居でた松本さんに限りない感謝の気特を持って居る事は勿論ですがこれは偽のない僕の 心の状態です。色々お居でになれぬ面倒な事情があ-ますこと を思って残念な事ですが、母上にお会ひする事はあきらめて居 ます。 御送金をあ-がたう御座居ます。牛乳を松本さんが入れて下す たのですが丁度一月の廿日頃まで績-勘定です。それと肝油と 〔ママ〕 で今のところ螢養は充分と思ひます。この点御心配ありませ ん。今度随分と飴分な御送金を頂きました故'それの一部で又 本を貫はして頂きます。この前お願ひしたもの、近-こちらで 購入しますからあれは取消しにして下さい。別なお願ひを又申 し上げます。足袋カバーを送って下さいませんか。この頃は足 一 袋をはいて居ながら指にしもやけの出来る冷さになって来まし たから。そのついでに何でもいゝですから中学の日本史'東洋 〔ママ〕〔異筆〕「戸越-中根町」 史、西洋史の教課書一緒に送って-ださい。お引越しであの古 教課書の山が虎分されて仕舞って居ますのなら、このお願ひは 取消しますけど。誰かの古いのがなければわざ - 揃へて下さ る必要はあ-ません。 もうほんとうに一年になりますね。あと十日でお正月だなどち ょっと考へられぬ様な気がします。いゝクリスマスと新年をお 迎へなさいますやう蔭ながらお祈-して居ます。それでは、 5 大島正隆書簡一九三三年(昭和八) 二一月二八日 (封書) Ⅱ4
〔封書表書〕
〔東〕 □京市目黒匿中根町一八三三 大島今子様 〔異等〕 「120」 〔消印「□□ □・□□・□□」〕〔封書裏書〕
仙台市片平丁四〇番地 大島正隆 〔異等〕 〔巽筆〕 「昭8 28/12」 「① ④」〔本文〕
〔英軍〕 「昭8 」 これは一九三三年の最后のお便りになります。明日からこゝの お役所も休みとなりますからあと営分書けないわけです。 苦しい時の流れも過ぎて仕舞へばすべて夢にも似たあっけなさ を感じます。とう - 拘束された生活がまる一年にもなってし まった事を思ふと実際夢とでもいひたい様な、自分でもそれを 現実に経験して来た事を信じられぬ程の異様な感慨なしに考へ る事は出来ません。この一年は僕にとってかつてない悪い運命 ●● の歳であったと同時に又一方非常にいゝ歳でもありました。前 言については首肯されるでせうが、この後の方については妙に お考へになるでせう。けれども今の僕は現在自分の境遇を実際 15さうしたものとして考へて居ます。何よりも第一に僕がこの異 様な一年の生活に負ふ所のものは、それを通じて御両親の深い 御愛情に心の底の底から目覚めさせられた事、それから又眞に 冷静な客観的な批判の眼をマルクシズム理論に向け得る様にな ったのもこの生活な-しては不可能であった事などを申し上げ ●● たら'きつとそのいゝ歳であった意味を了解して頂けるでせう。 この一年の体験をしっか-握って来る可き年はこの苦い経験の 上に立脚して本営に誤-のない眞実の生活を建設しなければな らぬことを強-心に感じて居ます。 この一年子としての務めからはるかにかけはなれた行き方をし て居た自分の罪こゝに又改めて深く - お詫びせねばなりませ ん。これが今の僕の心を蔽ふ一番に苦しい感情です。獄舎の生 活の物理的な苦しさなどこれに比してはいふべき程のものもあ -ません。この様な子に対して差し伸べて下さった暖かい御両 親の手を思ふ時、実に漸悦に耐えぬものがあります。来る可き 年はきつと生れ改った正隆となって何よ-も第一に御両親に安 〔弟〕 心して頂かねばならぬといぶその事ばかり考へます。正幸君の 帰京'新しい家での最初の新年、本営に僕の事さへなかったら 家中どんなに明るさのみなぎった昨今でせうのに。 寒さの折ではありますがへこちらはその後異状なく来て居ます。 どうか御安心下さいます様。 いゝ新年を皆々様のために祈-ます。 それでは。 十二月廿八日 〔英等〕 「昭8」 正隆 6 大島正隆書簡 (一九三五年(昭和一〇) 六月) (便箋) Ⅱb4
〔本文〕
〔異箪〕 「昭和十年の手紙と推定」 当地も二三日来、俄かに暑さを感ずる様になって参りました。 とはいへ未だ着物はセルでして御地よりは余程涼しいものでせ う。蚊帳も未だ当分要らないでせう。 学校の方は来週一杯で (廿七日頃)普通講義は全部終了とな ります。その後、東大からの出張連績講義に出ても七月五日頃 から完全な休暇に入-ます。そして九月の廿日まで講義は始ま りません。さてこの三ケ月にわたる休みを如何に過すかについ て御指示を頂きたいのですが如何でせう。僕は今、次の様なプ ランを立てゝ居ますが。とに角'明年春には学年試験の外本 科生になれるかどうかの検定試験も受けねばなりません。とこ ろでこの検定試験たるや相富の難物でして毎年聴講生の半分は 落第の憂目にあふさうです。まか-間違って四年もかゝて卒業した-しては誠に申請ないことですから'是非ともこの秋と冬 はそれへの準備に没頭しなければな-ません。この様な次第で すから、本業の方の歴史そのものについて勉強する機会はこの 夏を除いては全-あ-ませんし、今のところ'日本史全体につ いての概説的基礎的なノートを、自分で作製するだけの勉強が 是非必要なのです。勿論参考文献を一々買ってゐては到底やり きれませんから図書館通ひをや-ますがそれには学校の固書館 がずつと半日づゝ開館して居って非常に都合がいゝのですが' 然しこれは東大のライブラリーへ通ってもやれます。そこで若 しこちらでやるとすると、七月中こちらへ残るか或ひは九月或 ひは八月末、早く来るかですし'それでなければ六月末すぐ帰 / 宅して毎日東大へ通ふかの三通りの方法を考へられます。この 中のどれにしますか。そちらの御都合を何はせて頂き度く思ひ ます。 それからもう一つ、聖書知識の廣告で見たのですが塚本先生 の軽井沢の講習会-地方に来てしまひますと先生の教へを受け る唯一の機会でして今年は是非やつて頂きたいのですがどうで せうか。若しお許し願へるならば苑ちゃんからでも丸ノ内で参 加を申込んでおいて頂きたいものです。遅くなるとシャットア ウトされさうですから。 僕としては、七月廿日過ぎまでまだいくらか涼しいこちらで ミツチリ、一年分の勉強をし'帰途、軽井沢に立寄り、八月一 杯は家で久しぶ-で皆の鼠の遊び相手になって過したいなど考 へて居-ますがいかゞでせうか。勿論これは自分だけの考へで すから、家の方の御都合のまゝに従ひたいと思って居-ます。 はじめは直ちに帰京して東大に通ふ積-でしたがよ-考へて見 ますとこちらとはちがつて足代がたゞでは済まぬことに気がつ き、仙台残留に模様換えをしたわけです。然し一方では、帰心 矢の如しでもありまして、早-お目にもかゝ-たいですし「音 楽家」 の生の音楽にも接したく、祖父上もお待ち兼ねの様です から、勉強は八月末からのことにして直ちに帰京致してもよい のですがどちらかと言ふとこの方が勉強する上には多少都合が よくない様に思ほれます。 〔裏書巽筆〕 「平信 検定試験受験前の記事」 17 *検定試験は、大学人学資格取得のための試験(いわゆる文検) のことと思われる。当時、東北帝大法文学部聴講生であった 大島が、正規の学生となるために受験する必要があった。 *塚本は、塚本虎二(一八八五-一九七三)。無数会派の伝道者。 7 大島正隆書簡写 (一九三六年(昭和一一)) 四月二八日 (封書) Ⅱ5
〔封書表書〕
父上様 東北大入学直後〔本文〕
〔畏筆昭和十.カ〕 「昭和十二年四月東北大入学直後」 父上様 四月廿八日 正隆 只今帰宅致して見ますと机上に本らしき小包あり'面倒なお願 を致しましたのに、早速お取計ひ頂き先づ以て一杯に有難さを 感じました。さて外側からよ-見るとどうも本の大きさ、厚さ 等僕が古本屋でよ-見かけたものや又昨日丸善に参って居った ものとも異る様なのでちょっと不思議に思ひましたがさて開け て見ると、これは又思ひも掛けぬ立派な新版のグロックナ-版 なのでびっくりして仕舞ひました。ヘーゲルの著作には色々版 がありまして'グロックナ-版ラツソン版等その他にも二三種 / あるのです。此虞の丸善で扱って居りますのはこの中でも一番 よくない版のものでしてそんなのを貴はされるより東京で多少 汚れて居ても安-古本を手に入れて頂けたらと思って此前お願 をしたのですがそれが全く予期しても居なかった最上等の版の 而かも新本を買って下さったのですから、実に何とも言い様の ない嬉しさです。本営に有難う御座居ました。こんな立派なテ ●● キストの手前だけでも人一倍勉強してこれをものにしなければ ならぬと考へて居ます。授業も二週間目に入-、い-らか学生々 活にも慣れて来ました。始めの一週間は何しろ四年ぶりなもの ですから何とも勝手がちがつて落着かずに過ぎて仕舞ひました。 一番閉口したのはノートで今迄に経験しなかった様な速力のも のばかりで先生によりちがひますが一回八頁より少いことはな し多い時は十二三頁に及びますのでその時間を四乃至五回繰り 返しますと腕が棒の様になって仕舞ふ有様でした。僕は今特別 たくさん講義を聴いてゐるせいもあ-ますが一週間毎にリング ノートの紙を冊銭分づゝ買はねばならぬので驚いて居ます。 頂戴して参った全集は大変重宝して居-ます。前'家で読んだも のも一度講義を聴いた後で読むと今度は今迄殆んど見過して居 った様な種々の意義を汲み取ることが出来、やはり或る専門の 学問をやるためにはしっか-した基礎的な訓練を受-る事がど んなに大切なことであるかといふことに気付かされます。今度 の様な機会を与へて頂けたことを何度も - 感謝させて下さい。 おひるは学校食堂ですがそこの十二銭也のカレーライスとハヤ シライスとは先日各々試みて見ましたが恰も牛の糞をなめてる やうな気がする代物で度胆を抜かれました。毎日メヌーの代る 十五銭の定食を喰べてゐますがこの方は少しましです。食堂は 二つありまして片方の方は少し高級ですがどうも廿銭代なので 敬遠して居ます。然し学生食堂のおかげで菅さんの食事が比較 上大変おいしいものに感ぜられて来ました。今のところかくして漸次生活にアダプトしっゝあ-ますが'家から通へたらなど 時々考へることがあ-ます - 上をのぞめば限りなしでしてま あそんなことを思ひ乍ら今から夏に帰る旧を楽しみにして居る 次第です。菅さんのおもてなしは非常に御親切でして少しも窮 〔常〕 屈な思ひをさせずに居て下さいます。雄吉氏は夕食后レコード 二三枚を聴かせるのを日課の如-にして-れるので以前と違っ て耳の飢餓には会はずに済んで居ます。今日は新に買入れたシ 〔弟止寮〕 ョパンのワルツをかけてくれました。 - 泰ちゃんが前に弾い てゐたものです。 こちらは桜が今満開です。八重もしだれ桜も、それに梅、紅梅、 李'梨'黄梅、木蓮等花をつける木々が今一度に咲き揃って居 / ますので実に美事です。花を一杯につけた紅梅の梢や桜花の上 を鯉のぼりが悠然と泳いで居るのなど、宮地でなければ見られ ぬ風景でせう。お見せしたい物です。 暇がないのでいつも大急ぎで手紙を書いて居ます。乱筆乱文お 許し下さい。 それでは又 祖父上、御両親その他皆の人達の上にあつき上よりの御護りあ らんことを日々祈って居ます *東北大学史料館に収蔵されているものは電子複写である。封 筒も本来のものではない。 8 大島正隆書簡 (一九三六年 (昭和一一)) 五月四日 (原稿用紙) Ⅱb5
〔本文〕
父上様
本日例の書類'学生課よ-やっと手に入れて来ましたから早 速御送り申します。どうぞ御署名捺印の上当方へ御返送下さい ませ。その上で石原先生のところへ参上致す手筈になって居-ます。右御願申上げます。 学校は非常に興味深-やって居-ます。本年の輿へられた問 題でもあり、自分にも最も興ある日本古代史をやるためには、 三つの補助的な学問が必要でしてその第一は考古学、第二が民 族学・土俗学、第三が言語学的研究となって居ります。 これらは勿論自分で調べて行かねばならぬものですが大なる 熱情をもってこれに従事し得る現在の自分であることを、非常 に幸福に思ひます。ほんとうに'此様な境遇も'父上の学問的 な御活動の少からぬ犠牲によって頂戴して居るものであること を考へ通り一ぺんの勉強などして居っては実に申請なき次第と 思って居-ます。但し、先日塚本先生から御注意を頂いたので すが出来るだけ「逸らずあせらず」 やる事に細心の注意を排ひ ながら目下の勉強をやって居-ます。 ところで園語の方言的研究のことについての本を今日図書館 19で調べて居たのですがその中に'我国に始めて方言地図の作製 〔天鳥止健〕 なる独創的提言をなせる人として祖父上のことが出て居り'明 治廿八年に発表された論文からの引用など出してありまして、 驚き且なつかしく御壮年時代の御活躍をしのんだ事です。 御健康を祈-ます。 それでは又 五月四日 〔呉等〕 「昭和十一年と推定」 正隆 *石原先生は、東北帝大法文学部教授の石原謙(一八八二-一 九七六)。 *正隆が見た本は、東条操『国語の方言区劃』 (育英書院、一 九二七年)と思われる。本書の一二∼一三頁に、「明治廿八年' 大嶋正健氏は国民の友に「地方発音の変化及び其配布」と云 ふ論文を掲げ」と書かれ、その内容ことに方言分布地図の提 唱についての廟介がある。「国民の友」は民友社から発行さ れていた雑誌『国民之友』。なお、大島正健の伝記として『大 島正健-生涯の軌跡』 (海老名市、一九九六年)がある。 東京市目黒区中根町一八三三 大島正泰様 昭12 1月16日 〔消印「福島 12・1・16 后4-8」〕
〔本文〕
二本松で出しそびれて福島で投函 吾妻の一斉はパウダーケーキの純白さ、もう仙台まで二 時間の所に来た。 こんなに山の美くしい日は度々の往復中初めてゞす。丁度安達 太良の眞横を走って居る。高台ケ原附近より上は眞白'その中 から例の頂上が黒-乳首の様に突出して居ます。一月の半ばと いふに稀らしく今年は雪のない平地、然し流石に北へ来たゞけ のことはある。田には厚い氷が張り'山かげの崖からは太いつ ●● らゝが幾條も、そして学校帰へりのモンペの子達が毛締頭巾の 中に紅い頬と好奇の眼の輝きだけをのぞかせて汽車を見てゐる のも寒い点景です。 今朝は荷物特の御見送りありがとう。では又 9 大島正隆書簡一九三七年(昭和一二)一月一六日 (官製葉書) Ⅱ6〔葉書表書〕
1 0 大島苑子書簡一九三七年(昭和一二)三月二一日 (官製葉書) Ⅱb6〔葉書表〕
仙台市北二番町六八菅様方 大島正隆様東京市目黒区中根町一八三三 大島苑子 〔異筆〕 廿一日「昭12」 〔消印「目黒 12・3・22 后0-4」〕
〔本文〕
お変りありませんか。こちらも大分春らしくなりました。御祖 父様はその後異状ありませんがお休みのまゝで物忘れがひど-でもこゝしばらくは大丈夫だそうです。寛は次第に元気に向ひ よろこぼしい事です。昨日曜午後塚本先生祖父上の御見舞に夕 方迄ごゆつく-いらして寛にも色々御話下さった由です。私は ヘブル語取込んで一つもおさらひ出来ず落伍か映席か等と思ひ 惑ひっゝも奮知巻頭言に励まされて幸に出かけました。御送附 / 理由もなくおそくな-悪しからず。 Ⅱ 大島今子書簡 (一九三七年 (昭和一二)) 六月二一日 (便箋) Ⅱb7 今朝御手紙着。細々事情御通知よくわか-ました 金輸 入円送ります。 カトリックの坊さんは自分の宗教 のため息実にて倍道の手段を撰ばない事故致し方なし。私達の 幼時英語を習ふために宣教師の家に出入し、熱心なクリスチャ ンであった沢山の青年の事を思ひ出します♪ 旺龍山裳址畳丑卦淋W
昔はその宗教に帰依した顔をして辛抱して目的は語学や学問で め-なから宣教師からいろ - 習得したさま - の実例を思ひ 出します。此度もその古いそのまゝの経路へ正隆が入った事を 思ひ、もししっかりした福音を知らずば、その方面をあっさ-考へて語学をつゞけていろ - 侍道の手段にのせられたかも知 れないと思ひますが、それを辛抱する事はちっとよく知りすぎ て居たので。 まあ早くさがついてよかった。又他の方法で フランセ-を習ふ事は出来るでせう。東京に居ると、アテナフ ランセ-に多数学生が行き成績もよいらしいのですが。 又 よい折もある事でせう。一ケ月半分の授業料といへばそんな安 いものではないでせう。金高を明記してないけれども、どの位 排ひましたか。 菅夫人から御手紙頂いて、よろしく御願申上ておいて-ださい。 実君からえはがきや写真をよく送って下さいます。忘れずに嬉 しい事と思ひます。 こちらは毎日相変らずなから、祖父は「いろたぬか見え●四匹 居るだろう」なんて天井指して居られる時もあ-'丸裸になっ て畳の上へころがつて居たり又わかる様な事を申された-。 この前の六日の日曜日には甲府中学の同窓会から醸金して見舞 に上京して代表者小尾孝平といふ羅漢さまの様なかほした卒業 生で当時学校の書記をしたといふ人野尻さんと一虞二来ました。 21大そう嬉んでその当時の御話をして居られました。札幌教会の 在京の人からさつきの花さかりの鉢椙を送られ、又予科の時で 御世話になったといぶ工学士丑 六十位の人がメロンを持って 来た-古い昔の人達がきゝ倍へて見舞にちょい - 見えます がへ 丁度甲府から見舞が来た翌日、清水●郎●長が長崎ビワの 到来物をわけて見舞はれ此話をきいてうるほしい話だと申され ましたが、清水さん御自身にしても先生 - と御租父さんを見 舞ほれますのはほんとにうるほしい事と感謝します。」 寛は相変らずの容体でねた-起きた-」 苑子がなか - 体が 元々にならずねて居る日が多く、全快をまち遠く思ひます」 泰は第三コンチェルト上り、バッハものとな-、相変らず一生
懸命
十九日は学校の演奏会、「マタイ受難」 の大合唱、オーケスト 〔圃力〕 ラ児童楽園まで加は-、キリスト最後の受難の曲、大したも 声を眞字目でして居る。もう眞黒なかほをして居る」 め荘川 典子種痘をしてつい〈かゆがり最中。 菅御主人によろしく、父上の御本大分評判よろしき様子。 六月十二日朝今子
正隆殿 *本文中に六月六日日曜日とあ-、一九三七年と比定。 のゝ由」 正明は一週間の旅行を終へ、まる一日相通し'昨日は軍教で ラッパを吹いて先頭をして居るとの話」 智、健、宵からねて朝三時半頃からか四時からか、大声で勉強 宣はじめる。健夫、今日は動物の試験、父上の教科書を古本や で買つたのをひろげて「人間は毛がはえて居けれども全身一様 でない 手足がちがふ、手は足の代-をしない」なんて大きな 1 2 大島正隆書簡 (一九三七年(昭和二一)夏) (封書) Ⅱb8〔封書表書〕
東京市目黒区中根町一八三三 大島正満様 〔異箪〕 「岩手県下閉伊郡調査旅行出発を前に」 〔消印は不明〕〔封書裏書〕
仙台市北二番丁68菅方 大島正隆 〔異筆〕 「昭和12年頃 (-)」〔本文〕
父上様為替とお手紙只今拝受、お取計いを感謝申上げます。 岩手へは明後日出発することゝします。-火曜夜に石原邸での 今学期最後の読書会があ-ますから。段々調べるにつれ大した 村であること判明、流石の小生もいさゝか顔負けの態です。廣 い村ですが田は少しもあ-ません。焼畑耕作によるヒ工と粟が 主食、トチの賞やブナの貫なども用ひられる様です。夜はワラ の中で寝ます。冬の寒い時は俵に入るのださうです。役場も郵 便局もあ-ません。この中で地頭と名子の主従的関係が封建時 代を偲ばせます。この様な所で二旬を過すのは相営苦労です が'それだけに'収穫のスバラシさが思ほれます。携帯品の主 なるものは肝油とバク。蚤取粉とシュラフ・サツクーこれは先 / 日資ちゃんにお貸ししたのを中野のをぽきんに改装を加へて頂 いてこちらへ送-かへして頂いたもの。(その序の小包でお菓 子一錐まで頂戴'今度お出でになったらよろし-お礼申上げて 下さい)。これは祭賽と睡眠のための生活必需品といった様な ものです。 嶽は七月若しそちらから行かれるとしても下旬なのでしたらこ の調査も充分念入りにやって来られます。大体廿日頃までの醸 定ですがあちらの様子次第でもう少し延びるかも知れません。 本擬とするところは 岩手懸下閉伊郡有蟄村上有蜜区長宅ですがこゝに約一週間居て あとは村内あちこちの谷奥や山中に散在する小部落を二三日 づゝ巡回します。御用の節は同郡岩泉町郵便局留でお願ひしま す。これは村の北方、一日のところに存在する町でこの町役場 が村の行政事務をも扱って居る関係と、それから又、息抜きの ためにも二三回はこゝへ出る機会があ-ます 帰仙後のこと、そちらの御都合に従ってもよろしいのです。若 し、醸定の書物を学校から携出出来ると好都合なのですがこれ は明日教授宅をご訪問した時に伺って見る積りです。 それでは行って参ります。ルックザック一杯のお土産話を持っ てお目にかゝれる時まで、皆々様の御健康を祈ります。僕も 精々気をつけて無理をしない旅をして来ませう。 同封の窯眞この四月初めの日'石原邸での撮影 前方眞中 のが先生御夫妻、その他は大学出たて二三年といったとこ ろのセビロ連中と、大学生の有象無象共、聖書研究会後お ひるを御馳走になった後。 僕の頭を見て下さい。チヨン切る直前のものなるが故に感 慨無量といったところです。 23 *写真一枚添付。 * 『民間伝承』 三-二 (一九三七年一〇月二〇日) に、大島に よる有頭村調査の短報が掲載されている。一九三八年一月に
柳田国男の集中講義に対して提出したレポート「葬送に関す る二、三の報告」にも同地に関する報告がある。また「三 森嘉兵衛への手紙」2 (一九三八年七月七日) には「閉伊那 の方は昨夏有壁村へ焼畑を調べに四五日参ったほかは全然経 験なし。どこも知-ません。」とあ-、本書簡は一九三七年 夏のもの。 つて来ます。四方の山が晴れて判然見えるのを秋になったよう だと云ひます。めっきり寒く一寸うつか-冷えましたがもう大 丈夫。今日はセルの下に毛糸と足袋をはいて丁度良うございま す。山葡萄の葉が美しく紅葉さし青い実が美味し-熟れる時が 想ほれます。桐の葉の落つる事頻-。足腰丈夫となり元気で達 者で間もな-かへ-ます。 〔末行に重なって青鉛筆の横文字あり〕 I 3 大島正隆書簡一九三七年(昭和二一)九月四日 (官製葉書) Ⅱb9