沈澤民研究 : 五四時代
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(2) 94. 白. 水. 紀. 子. 死した。遺言には,中国は実業の振興を急務としており,将来は理工系の人材が必要に なること,また自由と平等の意味を誤解しないようにと書かれていた。妻の陳愛珠は夫 の遺影に対聯を作って添え,二人の子供沈雁泳(茅盾)と沈滞民を大の遺言通りに育て る決意をした。茅盾の『回想録』く1〉には,母への敬慕の情があますところなく得られてい るが,少年時代の沈兄弟に彼女は計り知れない深い影響を与えた。陳愛珠は,医者の家 の娘として,読み書きはもとより相当の教養を身につけていた女性だった。大の勉学を 陰で支えたばかりか,共に時事や歴史も学んだといわれている。若くして寡婦となった 彼女は,長男の腹として経済的に苦しくなった沈家を維持する一方で,周囲の反対を押 し切って二人に高等教育を受けさせるだけの気丈な性格を持ち合わせていた。このよう な家庭環境のもと,沈兄弟はともに優秀な成績で中学校を卒業したが,数学と体育を苦 手とする茅盾が北京大学預科第一類(文科)に進学したため,父親の遺言を守ったのは 沈滞民のほうだった.一九-七年,数学,物理,化学で全校-の成績を上げた彼が見事, 南京の水利局河海工程専門学校に合格したのである。この学校は張蕃が一九-五年に創 設した道路建設と水利事業のための人材を養成する新設の専門学校で,卒業後の進路も 大いに期待されるものだった。夫との約束を果たした母の喜びはそれは大変なものだっ た。茅盾のほうも,前年に北京大学預科を修了し,経済的理由から本科進学を断念せざ るを得なかったとはいえ,上海の大手出版社商務印書館に就職していた。この年,彼女 は沈滞民の南京行きに同行して上京し,二人の息子ともに上海,杭州に遊んだ.そして 別れぎわ,沈滞民に「技術者になっても世界の歴史と中国の歴史がわからないでは困り ます」と言って,. 『西史紀要』『東洋史要』『清史講義』等の国内外の歴史書を買い与えて. いる。常に新聞に目を通して内外の動きに関心を払っていた彼女は年老いてからも,エ ドガ-・スノーの『中国の赤い星』を読んで感動し,甥や姪たちにも読むように勧めた といいく2〉,同世代の女性の中でもめずらしく柔軟な思考と進歩的思想の持ち主だった。 だが,河海工程専門学校に進学した沈滞民の関心は,科学知識の修得よりも次第に社 会問題に向けられていった。同級生の張聞天とともに,一九一九年六月二十三日に創刊 したばかりの≪南京学生達合食日刊≫の編集に携わり,政治や社会問題を論じた批評文 を書きはじめたのであるく3)。彼もまた例外なく. ≪新青年≫に代表される五四新文化運動. の影響下にあった。そして十一月,沈滞民は少年中国学会南京分合の成立大会に出席し, 同会の会員になった。成立大会出席者九名の中には,少年中国学会結成の準備段階から の会員である左学訓や楊賢江がいた。この時,彼は会員が順番で担当することになった 学術談話会の八番目の当番になっているく4).親友の張聞天は-,ニヶ月遅れて南京分合 に入会した。少年中国学会は王光祈,李大別ら七人の発起人によって一九年七月に正式 に成立し,五四の時代精神を反映した多様な思想を包括した文化団体で,二十年代に入 ると,マルクス主義の青年層-の浸透を背景に内部分裂が起こったが,合としては二十 五年まで存続した。少年中国学会の宗旨は「科学精神に基づき,社会運動を行って,少 年中国を創造する」というもので,機関誌≪少年中国≫を発行,各地に分会を設けて活 発な活動を展開した。沈滞民の少年中国学会-の加入は,兄の周りに集まる人々とはま.
(3) 沈滞民研究一五四時代. 95. た違ったタイプの青年達と交友関係を築く貴重な機会となり,さらにこの時期から彼は 外国の文学作品の翻訳,さらには自分でも短い小説を書くなど文学にも強い関心を示し 始めた。. 一九一九年八月,故郷の桐郷県で社会団体「新郷人社」が組織され,雑誌≪新郷人≫ が創刊された。発起人には茅盾を中心に,沈滞民,茅盾の妻孔徳祉,従兄弟で慮学博の 息子である虞樹森,李達の義兄の王台先,青鎖医院産科医師の沈心存,母校植材高等小 学校教師で新郷入社の幹事主任の徐仲英,中華書局編集員で桐郷人の粛覚先等がいた。 彼らの結社の目的は,新思想の宣伝と地元の旧勢力批判にあり,投稿規約には,白話文 に限ること,またいらぬトラブルを避けるためであろう,政治に言及した論文は受けつ けないとある。その影響は烏青鎮一帯に限られていたものの,例えば桐郷県のある反動 的な小学校校長を辞職に追い込むなど多少の影響力をもった社会団体だったとみられる。 雑誌≪新郷人≫は今では第二号のみ残存し,この団体の組織状況,また雑誌の発行状況 とその内容等,具体的なことは殆どわかっていないく5'。しかし,生存している当事者の 回想等によれば,二十二年春に桐郷県嘉輿南潮で大会を開いて新郷人社の改組拡大を決 定し,社名を桐郷青年社,雑誌名を≪新桐郷≫に変更,新規加入した者に茅盾の義弟孔 男境や揚朗垣,金仲華等がおり,社員は十数名から五十名余りに増加している。雑誌の 編集は茅盾が継続して担当したが,この時点で彼は同社の主要ポストを退き,地元の粛 覚生兄弟に任務を引渡している。桐郷青年社は二十三年夏には桐郷県城梧鎮崇実小学校 において桐郷県小学校教師夏季講習会を開き,そこで沈滞民はマルクス主義の紹介と宣 伝をしたと言われている。しかし,既に共産党に入党していた沈兄弟と揚朗垣等との間 に思想的対立が生じたらしく,二十四年の江漸黄塵戦争勃発を機に桐郷青年社は活動を 停止し,自然消滅している。 ≪新郷人≫第二号(1919-10発行。遅延の可能性あり)には,沈滞民のものとして,小 説「呆子」,. 「阿文和他的梯梯」,翻訳「旦那得約翰」,科学知識紹介文「続. 発動機」の 計4本が確認される。うち二篇の小説は,同じころ≪学燈≫九月二十二日に発表した「堵 角里的人」とあわせて沈滞民の処女作と考えてよいだろう。. 「呆子」は,父親が貧農に借. 金の返済を迫るのを目撃した青年が,その借用書を破り捨てたために,父親から罵られ て家を追い出される。彼は家にあるものは何も持たずに胸を張って家を出,. 「僕には二本. の腕がある。働いて,汚れなく生きていくことができる」と父親に宣言する,当時流行 した労働神聖の思潮,虐げられる者への同情を綴った作品である。また, 「阿文和他的梯 婦」は五歳の農民の息子阿文とその姉の話.阿文は父母の寵愛を一身に集めていたが, 三歳年上の姉のほうは極端に冷たく扱われていた。阿文はこの姉が大好きでどこに行く にもついてまわり,姉の姿が見えないと面白くなかった。阿文が八歳の時,十-歳にな. った姉は五十元の金で嫁に売られていったが,それを知らずに阿文は毎日姉の帰りを待 っていた,という男尊女卑の風潮と売買婚を批判した作品で,前者が三真半,後者が二 「堵角里的人」は,人通りもまばらな大雪の降りしき. 頁程の大変短い小説である。また,. る日に塀の隅に身を寄せ合って物乞いをする寡婦と二人の子供の話。人力車夫だった夫.
(4) 96. 白. 水. 紀. 子. を病気で無くし貧窮のどん底にあえぐ彼らが,寒さと飢えに苦しみながら,何の施しも. 得られないまま日が草れていく様子を描いたもので,上の二篇と同じく習作の域を出な いが,この頃の沈滞民の関心の所在をよく物語っている。彼の文学も,五四の新文学と 同じく,その出発点から民衆の置かれた現実に強い関心と同情を持ち,それを重要な主 題にしたものだ'1たo彼は茅盾より九年早く創作を始めたことになるが,残念ながらそ の後は詩作に限られ,本格的な小説はついに書かれることはなかった。 ≪新郷人≫二号は,計十三篇の文章のうち,茅盾のものと考えられるものが六本,汰 滞民が四本と,沈兄弟の活躍をこれからも確認できるが,沈滞民の新郷入社との関わり は,雑誌への投稿を主としたもので,雑誌の編集をし,資金の供出もした茅盾ほどには ≪南京学生達合 強くなかったと考えられる。しかし,郷里の文化活動に参加した時期は, 食日刊≫の編集に携り,少年中国学会に入会した時期と重なり,五四の波は確実に彼の. 生活に大きな変化をもたらしていた。 沈滞民は翌二十年一月から少年中国学会の機関誌≪少年世界≫の発行業務に関わるこ とになった。少年中国学会の機関誌≪少年中国≫が主として哲学,文学,純粋科学に関 する文章を掲載していたため,労働者,農民の会員の需要を満たせないという不満の声 があがり,そこで二十年一月より,別に雑誌を出すことになる.それが≪少年世界≫だ った。編集は南京分合の会員が順番に担当したが,校正と出版事務は沈滞民と張聞天の 二人が受け持った。内容は,国内外の各種社会活動に関する報道と実地調査が中心で, 沈滞氏自身もこの雑誌の一巻四号(20-4)に「学校調査 河海工程専門学校」,また一巻 七号(20-7)には評論「婦女主義的発展」を書いている。二人はこの仕事を七月まで続 け,七月時点で発行部数は五千部,印刷発行は上海の亜末書局と記録されている。この 雑誌は計十二号を出して二十年十二月に停刊したく6〉。 こうして,社会活動が活発になるにつれて,沈滞民は次第に河海工程専門学校での授 業に興味をなくし,この頃には殆ど学校にいかなくなったようである。そして彼らの活 動が南京当局の注意を惹くようになり,南京督軍暑が校長に沈滞民,張聞天らの退学処 分を要求する事件が起こっている。この時は校長が彼らの保護に全力を尽くし,彼らが しばらく学校を離れ,身を隠すことで事なきを得たがく7',この事件は彼らの退学-の意 思を促す原因の一つになったのではないかと思われる.そしてついに二十年の春,彼ら は上海に出る決意をする。張聞天には,親のとり決めた結婚に反発して家と絶縁すると いう個人的な事情もありく8〉,この年の春節を彼は烏鎮の沈滞民の家で過ごしてから,二 人一緒に上海に出,華山路の南洋公学(交通大学の前身)向かいにある察鍔の旧宅「松 圃」で小組織の生活を始めたのだった。そもそも小組織とは,少年中国学会の主要メン バーである王光祈,左舜生らによって提唱された「工読主義」に基づく共同生活をいい, 封建的宗法に束縛された家庭から脱出し,独立した人間,働く人間となって理想の小社 「新しき村運動」やト 合を作り,それを単位として社会改造を行おうというものである。 ルストイの汎労働主義が若者の心を捉えていた時代だった。茅盾も小組織に関心を持ち ≪学燈≫紙上でのこの議論に加わったが,沈滞民は実際にこれを行動に移したのである。.
(5) 97. 沈滞民研究一五四時代. ≪婦女雑誌≫に載せた論文「世界婦女参政運動考」やモーパッサン「娼妓与貞操」の訳, 茅盾との共訳「女子的覚悟」,. ≪少年世界≫に載せた評論「婦女主義的発展」など,この. ころ彼に婦人問題に関するものが続くのはく9),小組織の問題が多く婦人の解放問題と合 わせて論じられた当時の状況を反映している。 二十年二、三月頃,沈i畢民は茅盾に手紙を書き,勉学を続ける意思のなくなったこと を訴えた。茅盾は政治活動は学校を卒業してからでも遅くないからと退学に同意せず, 母にもその手紙を見せ,彼女からも思い留まるよう手紙を書いた,と当時を回想してい る。ところが,五月の末,茅盾が商務印署館から帰宅すると,沈滞民がそこにおり,河 海工程専門学校を退学したこと,日本に留学するつもりであることを知らされる。母も 同意したのだという。「世の中がこんなに変化するとはあの世の夫も予想だにしなかった でしょう。きっとあの人も私のすることを許してくれるはずです」彼女はこう言うと, 働きながらでは勉学に集中できないだろうと,更に沈滞民の結婚費用のために取ってお いた一千元を留学費用にあてようと提案した。彼の日本行きの目的は日本語の習得のた めだった。社会主義関係の書籍が中国では英語よりも日本語で書かれたもののほうが種 類も多いうえに入手し易かったからである。この時,彼の目標は社会主義の研究に絞ら れていたく10〉。. だが,沈滞民がこの当時胸に描いていた社会主義とは具体的に何を指すのだろうか。 中国で後にマルキストとよばれるようになる人達の多くが,マルスク主義,アナーキズ ム,ギルド社会主義,サンディカリズムなどの様々な社会主義の思想に出合い,模索し, 選択して自己の思想を築いていったように,沈滞民もその例外ではなかった。ちょうど 彼が上海に出てきた二十年春は陳独秀が上海に南下し,中国で最初の共産主義グループ である上海共産主義小組が結成(20年6-8月)された時期にあたる。茅盾は彼らとの 交流を通してそれまで強く惹かれていたアナキズムの限界を認識し始め,十月頃共産主. 義小組に入っている。渡目前に沈滞民が茅盾と仕上げた共訳『社会主義運動』. (二十年六. 月出版)く11)は,ラムゼイ・マクドナルドの『TheSocialMovement』の翻訳であり,本 書はマクドナルドの支持するベルンシュタインの修正派社会主義にのっとって書かれた もので,マルクス主義を「経済決定論」. 「少数独裁主義」と批判して,自説の自由平等論. を論じたものだった。そして沈滞民がその編集に関わった≪少年世界≫に紹介されたソ 連関係の文章も,すべて欧米の雑誌からの翻訳で,必ずしもボルシェビキ支持のもので はなかったのであるo. 沈着華氏の渡日直前の思想状況も,まだマルクス主義一つに絞れな. いかなり未分化の状態だったと見るほうがいいように思われる。 ≡.日本留学 二十年七月,沈i華氏は張聞天とともに日本に渡った。. ≪少年中国≫二巻二期「少年中国. 学会会員消息」 (1920-8-15)によると, 「上海方面の会員沈滞民,張聞天の二人はすでに, 七月十四日日本に留学に赴き,現在日本東京小石川区大塚蓮町24番地桧葉館に身を寄せ ている」とある。この場所は現在では文京区大塚三丁目窪町にあたるが,もう松葉館な.
(6) 98. 白. 水. 紀. 子. る建物は残っていない。二人はここから日本での生活を始め,日本語学校に通った。授 業はかなり--ドなものだったらしいが,学校名など具体的なことは分かっていない。 彼の日本語学習の成果を示すものとしては,わずかに二十五年の五・三○運動の時に日 本の新聞報道を紹介した一連の記事が今日確認されるだけである。 沈淳民は日本滞在中にも,丸善で買い求めた洋書から文学作品を翻訳あるいはそれに 基づいた批評文等を書いては,茅盾串ゞ半革新に乗り出した≪小説月報≫などに送り,莱 京での生活費の足しにした。アルツイパーシェフの『サーニン』を論じた「阿采巴希甫 与『沙寧』」く12〉,アンドレ-エフの『隣人の愛』の訳く13),同じくアンドレ-エフの作品で 茅盾との共訳「七十被塩死的人」く14)がそれに相当する。死刑を宣告された五人のテロリス トと人殺しの百姓及び強盗の,獄中での生活を特に心理的側面から追究した『七人の絞 死刑囚』は,アンドレ-エフが実際にあった事件を素材にした,数少ない写実的手法に よる作品であり,彼の最高傑作といわれている。もう一つの『隣人の愛』は,高く奪え る岩壁の上から飛び下りようとする男とそれを見物にやってくる人々を風刺的に描いた 戯曲で,この作品も,死の問題をテーマに生の醜惑と人間の力の弱さを描きつづけた一 連の象徴的な作品とは一味違う作品であるo. 当時日本ではアンドレ-エフはロシアの代. 表的作家の一人と考えられ,かなりの翻訳が出ており,沈滞民の翻訳作業も当時の日本 の雰囲気による影響は十分に考えられるが,実は彼のアンドレ-エフ-の関心は,渡日 前からすでにみられ,これらは論文「恩徳列夫文学思想概論」 (1920-5,6)く15)や『ラザラ ス』の訳「藍渉勤司」. (1920-5)く16〉の継続であった。中国におけるアンドレ-エフ受容に. 夏目軟石と魯迅』く17)に詳しく,藤井氏によると「アン ついては,藤井省三『ロシアの影 ドレ-エフが本格的に中国人読者に受け入れられるのは--・一九二○年代に入ってから (一九ニー年)を出版 である。魯迅が再びアンドレ-エフ翻訳の筆を執って『霜の中-』 したのを皮切りに,その後の数年間に単行本だけでも七,八点出版されており--辛亥 革命の挫折と,五四新文化運動の退潮とを経験した中国の若い知識人は,ようやく二○ 世紀初頭のロシア知識人の苦悩する魂に共感を抱き始めたと言えよう」とある。沈滞民 はこの流れの最前列に属するようにみえるが,アンドレ-エフの小説は,二十世紀初頭, 時に一九○五年の革命の崩壊後のロシアインテリゲンチャの気分を反映して,あまりに も暗い.沈滞民はなぜアンドレ-エフに,またそのどこに興味をもったのだろうか. 沈滞民の場合はアンドレ-エフとの出合いが比較的早かったからだろうか,五四退潮 期の青年が抱えた苦悩をベ-スにではなく,むしろ五四文化革命の精神的高揚を背景に アンドレ-エフを読む,というおもしろい読み方をしている。この年の初めに書かれた 「論自殺」 (≪学燈≫20-1-2)には,早くも五四退潮期に通じる青年たちの精神的苦悩をと りあげており,アンドレ-エフの「絶望的懐疑」に共感を抱いてはいるが,しかし彼の 視線はむしろそのような時代の閉塞状態におかれたアンドレ-エフの飽くなき探求精神 に向けられている。アンドレ-エフの中に「積極的側面」を見出そうとする読みは,当 時のヨーロッパでも日本でも,また中国においても特異なものだった(18)0 「恩特列夫文学思想概論」は彼の最初の文芸批評である。. 「ロシアほど,文学が生活の.
(7) 99. 沈滞民研究一五四時代. 一部となり,人民の意見や人の精神的物質的情況を忠実に反映し,文学を重視している 国はない」というロシア文学に対する高い評価を前提として書かれたもので,アンドレ -エフをゴーリキーのあと現在に至るロシア文学の特質を代表する作家であると位置づ けている。アンドレ-エフは「当時の"少年ロシ7"の失望と疑惑と困難を」そしてそ れに対する「彼自身の観念と渇望を訴える」. 「時代が生んだ寵児であり」,非現実的な空. 想を描くエドガ-・アラン・ポーよりも,むしろドストエフスキ-に近いと彼は言う. アンドレ-エフの作品の根底には「人の精神は一切に勝ち,外界の恵の勢力が生んだ 『人の一生』はその信仰が姿を隠しているために. 不十分な所を補う」という信仰があり, 全体的に暗いイメージを与えるが,. 『星の世界-』になるとこの信仰が表に現れ,ちょう. ど『ラザラス』の中のアウグスタスのように,彼は超人の権威を奮い起こし, の影響に抵抗することができた。そして, とげた,と沈湊民は分析する。. 「死の注視」. 『アナテマ』においてこの思想はさらに発展を. 戯曲『アナテマ』は,悪魔アナテマが貧乏なユダヤ人ダヴイッドを大金持ちにしてそ の生き方を問う話。ダヴイッドは金銭を惜しまず貧しい人々を助けたので,彼の善行は 広く世に伝わり,彼は病を治す奇術が使えるとまで噂されて人々の崇拝をうけるが,や がて彼が金を使い果たすと,人々は掌を返すように彼をペテン師だと罵り,打ち殺して しまう。この作品は一般に,人の世の残酷さ,愛の虚しさを描いたものとして,また日 本語版の訳者伊藤六郎氏の言によれば「智の悲劇」. 「思想の破壊より起こる悲劇」く19)とし. て読まれているが,沈滞民は次のように解釈する。すなわち,アナテマは悪魔という設 定だが,人を脅かす恐ろしい悪魔ではなく,文学上の新しい創造,サタンの系譜をくむ 考察する悪魔,科学者である。ただアナテマは感覚と心をもたず,理性でしか全てを観 察できないために,結局真玉里を見出せず,信仰の道を感得することができなかったが, それでもアナテマの真理を求める情熱は高く評価すべきであり,アンドレーエフが一時 的ではあるが,ダヴイッドの「精神は不滅である」と結論を出しているのは,彼の思想 的発展である,と沈滞民は読むのである。作中の門護の男の「ダヴイッドは不死を得た のだ.不滅の焔の中に死せざるの生を送っているのだ」という言葉,またこの男がアナ テマに対して「数の内に不滅の,量の間にも尺度の内にも生きるが,生命に対しては、生 きられない不幸な奴よ」と言う最後の場面を彼はその根拠にしている0 このような『アナテマ』の読みは,実は茅盾と共通のもので,この論文が発表された 同じ五月に茅盾は論文訳「安得烈夫」く20〉を書いていた。彼は著者のオルジンが『アナテマ』 を他の作品と同じ流れで捉え,アンドレ-エフの失望の声が響いていると解釈した部分 に対して,. 「著者はこう言っているが,′訳者の考えと些か異なる」と訳注をつけて反論し,. 『アナテマ』はアンドレ-エフの作品の中で,意気消沈した雰囲気が比較的少なく,いわ ば新理想主義の域に入っており,以前の作品『星の世界-』. 『サーヴァ』『人の一生』は. 生の意義を問いかけるぢけで答えを得られなかったが,『アナテマ』で暫定的ではあるが その答えを得ている,と指摘する。人の精神が「不滅であるか否かだけを開い,現世に おける生活の価値は問わない。これはアンドレ-エフの人生の問題に対する暫時の答え.
(8) 100. 白. 水. 紀. 子. である。それゆえ,私は『アナテマ』はアンドレ-エフの思想発展の最高点だと思う」 と述べ,茅盾は沈着華氏と非常によく似た読み方をしていたのだった。 このようにみてくると,沈滞民が『ラザラス』. 『隣人の愛』を翻訳し,茅盾と共に『七. 人の絞死刑囚』を訳したのは,何よりもアンドレ-エフの文学から人生の「真理を追究 する情熱」 「精神の不滅」を読み取ったからであり,醜悪な人生に絶望したアンドレ-エ フに精神的な共鳴を覚えるという一般的な読み方とは違うことがわかる。七十年代には いり, 『悪魔の日記』の訳者である小平武氏がこの作品の積極性を読み取り, 「そこにあ るのは確かに絶望的な人間の状態であるにもかかわらず,なおかつそれだからこそ生き なければならないことを要求されているような,実存主義的な読みかえを可能にする積 極性があると思えてならない」く21)と,アンドレ-エフ最後の作品となった『悪魔の日記』 を高く評価しているが,沈滞民と茅盾はこれとはまた違った視点から『アナテマ』に積 極性を読み取っており,これは二十年代にあってはきわめて稀な,一つの興味深いアン ドレ-エフ論の提出だった。. さて,沈滞民が東京でアンドレーエフの文学を通して,絶望的な人生に一筋の光明を 模索していたころ,彼は日本留学中の田漠や鄭白奇らと親しく交際するようになり,茅 盾とは違ったタイプの知識人を知るようになる。渡日彼の沈滞民と張聞天の二人の郵便 物はすべて田漠宛にという記載があるようにく22〉,日本での彼らの生活を陰で支えたのが 田漠ら少年中国学会の会員だった。田漠の「『霊光』序言」く23〉には彼が沈滞民,張聞天, 鄭白奇ら六人と二十年八月三十一日,夜を徹して愉快に語り明かした,という記述がみ える。田漠は少年中国学会の準備段階からの会員で,東京本郷区君荷谷の中華学舎に住 み,この年の四月に東京高等師範学校文科第三部(英語)に入学したばかりだった。こ の頃の田漠は「新浪漫主義」に傾倒しメーテルリンクの『青い鳥』や-ウプトマン『沈 鐘』など多くの象徴主義の劇や映画を見たり,すこし後にはドイツ表現主義にも関心を 示していた。そして沈滞民らが日本にいた時期に「霊光」をはじめネオ・ロマンティッ ク劇といわれている処女作「環蛾堺与蓄蔵」. (Violin. and Rose)や「吻uP?F店之一夜」を 書くなど, 「『霊光』序言」の中の田漠自身の言葉を使えば「九月一日から現在の十一月. 中旬までのこのニヶ月余りの間は,私が創作に励んだ時代,私が自分の本当の使命を果 たした時代とも言える」彼の創作意欲が非常に高まった時にあたる。彼は厨川白村の文 学観に強い影響を受け,文学を通じて個性の完成と社会の改造を図り,霊肉一致の理想 世界の建設を夢見ていた。 このような田漠の文学観に沈滞民や張聞天が影響を受けないはずはなかった。例えば, それは帰国後に彼らが手がけた,オスカー・ワイルドの『獄中記』の翻訳となってあら われている。この件に関してはまた後で述べることにしたいが,田漠は彼らの滞日中に ワイルドの「サロメ」の翻訳を完成させく24〉,沈滞民らが二十二年にワイルドの『獄中記』 を出版すると,同書のために序文を書き送っている。またこの時期,沈滞民は田漠らと 「第三国際議案及び宣言」などコミンテルンの ロシア十月革命と革命後の情況を研究し, 文献の学習と討論を行ったと言われているく25〉。.
(9) 沈滞民研究一五四時代. 101. この年の恐らく十一月末か十二月の初め,田漠のもとに北京から-通の手紙が届いた。 鄭振鐸から文学研究会に郭沫若と一緒に入らないかという誘いの手紙である。北京の鄭 振鐸を中心とするグループが上海の商務印書館と協議し,同館発行の≪小説月報≫を彼 らの作品の発表の場とする約束をかわし,その母体として文学研究会を発足させること になったのである。この雑誌の主編はすでに半革新を手掛けていた茅盾に決まっていた。. 中国で初めての新文学団体が中国で誕生しようとしていたのである。だが,この時日本 でも留学生を中心に,後に文学研究会と激しい論争を展開するようになる創造社結成の 動きがあった。それまでにも郭沫若,張資平,成岱吾,郁達夫,田漠らは度々彼ら自身 の雑誌を刊行しようと計画して果たせず,この頃も出版社探しに躍起になっていた時だ. ったく26'。しかし,由漠(寿昌)は鄭振鐸の手紙を彼一人の一存で握りつぶしたのである。 成伐吾によると,. 「東京にいた時,ある日,田寿昌のところで文学研究会の一人が(郭紹. 虞君?薬餌釣君?沈滞民君?或いは他の誰かだったのか,忘れてしまったが)寿昌に宛 てた二通の手紙を見たのを覚えている.. -通は彼から郭沫若を誘って一緒に文学研究会 に入会するよう求めたもの,もう一過は何故返事をよこさないのかと彼を叱ったものだ った。彼を叱る手紙は,大変厳しいもので,寿昌はその手紙のために,あまりいい気が. していなかったようだった」〈27〉とある.-通日の手紙は鄭振鐸が出したというのが定説に なっているが,二通日の非難の手紙は誰が出したのか不明のままである。想像をたくま しくすれば,沈滞民が帰国後に事情を知ってすぐに問いただす手紙を書いたとしてもお かしくないところである。とまれ,成伐吾は二十一年四月に郭沫若とともに帰国した折 り,この件を郭に知らせたが,彼は四月八日に鄭振鐸,茅盾等から上海の半取囲に招か れて再び文学研究会への入会を誘われた際,田漠のしたことの非を認めならがも,入会 すれば田漢を裏切ることになると辞退し,外部からの協力を約束して分かれたく28〉。彼ら が文学研究会に参加しなかったのは,鄭振鐸からの誘いの手紙が創造社の人的基盤がほ ぼ固まった頃に届いたということもあったのだろうが,かりに当時,田漠と鄭振鐸の間 だけでなく,田漠一沈滞民一茅盾のラインが出来上がっていたならば,少なくとも 後に彼らの間に起こった「非文学的」なやりとりは避けられたかもしれなかった。なぜ なら,周知のように文学研究会の会員は全体としてロシア文学-の関心が強かったが, 田漠もロシア文学には関心を持っていた一人であり,彼が雑誌≪民鐸≫に「俄羅斯文学 思潮一瞥」を連載していた時に,鄭振鐸が田漠に手紙を書いて(20年6月頃)ロシア文 学関係の資料を紹介してくれるよう頼んだこともあったのだ。それにたとえば鄭振鐸は タゴールに,また茅盾はロマン・ロランなど当時新浪漫主義とよばれていた作家に関心 を示すなど,彼らの間に一致した文学主張があったわけではなく,文学研究会はむしろ 多様な文学的手法の展開を可能にする「人生のための文学」という極めて倫理的な標識 のもとに集まった緩やかな団体だった。後に文学研究会は文学効用論派,創造社は芸術 派とよばれるようになるが,こうした分け方自体が有効でないことは度々指摘されてい る通りであり,. 「文壇を牛耳っている」という創造社の側からの批判は,多分に感情的な. ものが原因している。歴史にイフはないのだが,当時田漠の一番近いところに沈滞民が.
(10) 102. 白. 水. 紀. 子. いたことを思うと多少残念な思いが残る。 四.文学研究会入会. 沈滞民は二十一年一月,張聞天とともに帰国したく29'。. ≪小説月報≫十二巻一号は全面革. 新号として文学研究会の成立を高らかに宣言し,彼の前述の翻訳「隣人之愛」もこの革 新第一号を飾っていた。沈洋民が文学研究会に入った正確な時期は分からないが,恐ら く帰国後間もか一頃だったと推定される。二十一年三月三日の鄭振鐸の周作人宛手紙に 「我々の合は,現在すでに四十八人の会員がおります」く30'とあり,会員名簿では四十五番 目に名前があること,また六月の文学研究会読書会小説組の中に彼の名前がみられるこ とからの推定であるく31)0 帰国した沈滞民は文学研究会の仕事に精を出す一方,三月二十七日に上海竜華で開か れた少年中国学会上海分合の成立準備会に張聞天とともに出席し,上海分会会員になる など,少年中国学会の活動を再開した。そしてこの後,杭州-赴いた張と別れ,数学の 教師として安徽省蕪朝市の蕪湖第五中に赴任し,五月にはそこの進歩的教師とともに蕪 湖学社を組織し≪蕪湖≫半月刊を創刊したく32)。沈滞民の蕪湖行きは藩光慈の紹介による もので,帰国後まもなくして入った上海共産主義小組の活動を通して清光慈と知り合っ たのであるく33)。清光慈は沈滞民より-歳年下で,沈が河海工程専門学校に入学した同じ 年の一九-七年に蕪湖第五中に入学している。席光慈は,先ずそこでアナーキズムの秘 密組織「安社」を組織し,沈津民らが五四運動に呼応して「南京学生達合食」を組織し た時には,彼のほうも「蕪湖市学生達合食」を組織するなど,学生運動の中心人物とし て活躍していた。彼の在籍する蕪湖第五中の前身は,清末の暁江中学で,章士別,陳独 秀,蘇旦殊らが教員を務めたことのある有名な学校だった。清光慈の在学当時の校長は 日本留学生で教育界で信望の厚かった劉希平,国語教師には高語苧がいた。清光慈は卒 業目前の二○年春,上海に出て陳独秀等と連絡をとり,上海共産主義小組の指導のもと で成立した社会主義青年団が創設した「外国語学校」に入学した。ここまでの蒋光慈の 足取りは沈淳民と非常によく似ていることに驚かされる。さきに清光慈と沈との出合い を,沈滞民の帰国直後だと書いたが,あるいはその前年の二○年春,沈淳民が張聞天と ともに上海に出てきた頃だった可能性もある。 沈滞民が席光慈に紹介されてこの伝統ある蕪湖第五中に赴任した時,校長の劉希平は 軍閥の圧力で学校を追われ,高語竿はすでに学校を辞めていた。しかし,高は蕪湖に留 まっていたので,沈滞民ら教師-五名が蕪湖学社を組織した時にはこれに参加すること ができた。蕪湖学社の結成の「宣言」には,社会改造の方法として,まず青年の思想を 改造すること,それにはまず彼らの思考能九 研究への興味,慎重なる態度を養わねば ならない,と教育の重要性をうたっている。断片的な資料しか残されていない中での判 断は難しいが, ≪蕪湖≫一号(二一年五月-五日)に掲載された通信「惇代英敦津民語竿」 によると,沈滞民が当時,. 「教育問題は,まさに他のあらゆる問題と同様,全ての社会問. 題をきちんと改造してからでないと,解決は得られない」と考えていたことが伺われる。.
(11) 沈滞民研究一五四時代. 103. 蕪湖学社を結成するにあたって,彼にはその前提として社会の改造が念蕗にあったこと がわかる。この手紙の中で障は沈の意見に賛成だと述べ,さらに自分達で学校を創ろう と主張しているが,沈は翌月の≪覚悟≫六月九日にこれに呼応して「自己去斯学校」と いう文章を書いて具体的な構想を述べ,教育改革にも関心を示した。雑誌≪蕪湖≫は四 号(六月三一日)までしか残存しておらず,この組織がいつまで存続したのか分かって (エレン・ケイ) いない。彼は創刊号に評論「談談中国国民性」,翻訳「恋愛的自由権」 を書いている。 ≪婦女雑誌≫ スウェーデンの母権保護論者エレン・ケイについて,沈滞民はこの後も 『児童の世紀』『婦人運動』『恋 ≪婦女評論≫等でよくケイの著作を引用,紹介している。 愛と結婚』 『恋愛と道徳』など彼女の著作は各国語に翻訳されており,日本では一九-八 年に与謝野晶子,平塚らいてふ,山川菊栄の間でおこった「母性保護論争」でケイの名 前は一躍有名になり,厨川白村はケイの恋愛論を恋愛至上主義と理解して紹介し,当時 日本で大きな反響を呼びおこしていた。このような日本でのエレン・ケイの紹介及び研 究は中国-も紹介されたが,外国でのケイに関する研究論文のうち,中国に紹介された ものの殆どが日本のそれで,中国でのケイ評価は日本の影響が極めて強い。それまで名 前程度の紹介だったものを,中国に系統立てて本格的に紹介したのは,茅盾が二○年三 月 ≪婦女雑誌≫に「愛情与結婚」と題して『恋愛と結婚』の提要訳を発表したのが始ま. りであり,彼はその後もケイの母性論に関する評論やケイの三大著作の紹介など,ケイ の紹介に精力的に取り組み, ≪婦女雑誌≫七巻二号(二一年二月)ではエレン・ケイ特集を 組んでいるが,沈滞民がケイに関心を示したのは茅盾のこのような動きと無縁ではない。 そしてさらに,日本滞在中の田漠の厨川-の傾倒も恐らく彼がケイに関心を抱くきっか けを作ったのではないかと考えられる。沈津民は経済改革の基礎のうえに婦人の其の解 放があると早くから主張していたが,その彼がケイの著作にもこのような視点を適用し て,ケイの主張の現実社会での限界を指摘するようになるのは,四年後の二五年になっ てからでありく34〉, 「霊肉一致」の新道徳を説くケイの「生命哲学」は強く沈滞民を魅了し 続けたのだった。 二十一年七月,南京で少年中国学会南京大会が開かれた。出席者ニセ名の中に沈淳民 の名前がみえる。会員の間で思想分化が激しくなり,会の分裂が予期されるなかでの大 会だった。大会後, ≪少年中国≫三巻二期(九月一日)紙上で特集「少年中国学会問題」 が組まれると,彼はこれに意見を寄せている。主義が統一されていない以上,会の分裂 は必至であり,今日はその分裂の準備段階である,という内容のもので,即時解散には 賛成していないが,即刻一つの主義を打ち出すべきだと主張している郡中夏等北京会員 「人格」を第一条件に,人 と同じように,彼の言う主義とはマルクス主義を指していた。 格さえよければ様々な主義主張を容認し合おうと主張した張聞天と較べると,二人の社 会問題に対するアプローチの仕方に違いがはっきり見えてきた時期でもあった。このこ ろ張はタゴールに傾倒し, 「無抵抗主義」と「愛」と「人格」を巡って≪覚悟≫紙上で茅 盾および陳望道と論争をおこない,茅盾らがマルクス主義の立場から彼に反論を加えて.
(12) 104. いた.そして沈滞民も,. 白. 水. 紀. 子. 「ニーチェの超人主義や,トルストイの無抵抗主義,それに無政. 府主義は,みな勿論悪くはか-が,実際問題になるとやはり物質の問題が残る」と指摘 し,唯物史観に基づいたマルクス主義は少なくとも多くの解決方法を提供することがで きる,とマルクス主義-の信奉を次第に明からにしつつあったく35)0 一方,兄の茅盾は沈滞民の将来を心配して,彼にドイツ語の勉強を勧めていた。周作 「ドイツにおける外国文学の紹介は,どの国のものでもイギリスやアメ. 人宛ての手紙に,. リカより多いようです。私はぜひドイツ語を学びたいと思っているのですが,仕事がき つくて,これまでたびたび挑戦してきたもののうまくいきませんでした。弟が後半年, 上海の同済大学の独文預科に入って,一年間ドイツ語を勉強することになっています。 一年で使えるようになるらしいとのことですが,その時になってみないとわかりません ね。」 (ニー年七月五日)く36'とある。しかし,翌月の手紙には,同済大学独文預科は本科の 物理学科等-の進学を前提にしたもので,ドイツ語を専門に勉強するものでないことが わかったので諦め,北京大学の独文学科の聴講生はどうだろうかと,周作人に詳しい状 況を問い合わせている(八月三日)o. そして追って十一日の手紙には,沈滞民はドイツ語. の学習経験はゼロなので,独文学科の聴講は無理だろう,まず英文学科に入ってからそ の後独文学科の聴講をしたほうがいいように思うが,このことを先に顧孟余先生に相談 したほうがいいでしょうか,と尋ねている。河海工程専門学校を退学していたので卒業 証書がなく,北京大学入学も無理ではないかと不安を覗かせているが,とにかく後半年 は学校に入れて,強制的に勉強させねばならないと兄らしい配慮を書き記していた。し かし,現実にはやはり資格が足りず,北京大学進学は果たせなかった。 五.上海での活動 蕪湖から沈滞民が上海に戻ってきたのは,ちょうど茅盾が彼の進学問題を心配してい た頃だったoそもそも蕪湖行きの目的が就職のためというよりも,下火になりかけてしミ た蕪湖の革新運動の立て直しにあり,また後半期から進学の話が持ち上がっていること からも蕪湖行きは最初から短期の予定だったのだろう。 上海に戻った沈滞民は,. ≪小説月報≫十二巻号外の「俄国文学研究」特集(21-9)と翌. 月の「被損害民族的文学号」特集(十二巻十号)に全力を挙げて取り組んだ。. 「俄国文学 研究」は鄭振鐸,茅盾をはじめ魯迅,周健人兄弟や張聞天,それに当時モスクワにいた 畢秋白も原稿を寄せた,文学研究会が初めて企画した得意の特集第一号だった。沈滞民 は翻訳を五本,評論二本,及び茅盾と共同で人名録を作成する等,大活躍をしている。 また「被損害民族的文学号」の方も,掲載された文章計二十本のうち,沈沢民と茅盾が その半分の十本,魯迅と周作人が九本と,上海サイドでは孤軍奮闘の茅盾に協力した。 二十一年十一月に鄭振鐸が周作人に宛てた手紙には,当時文学小叢書発行の話が持ち上 がっていたが人が集まらず,困った鄭振鐸が「北京のほうで何人か探せないでしょうか。 上海には雁泳(茅盾),愈之,揮民と私しかおりません--」く37'と周に相談を持ちかけて いる。沈滞民が文学研究会の中心メンバーに数えられていることがわかる。事実,八月.
(13) 105. 沈滞民研究一五四時代. に発表された文学研究会叢書目録く38'にも,共訳も含めて五冊も沈滞民の名前が上がって おり,実際にはこの計画は一部しか実現しなかったものの,当時の彼の研究会内での位. 置を知ることが出来る。二十五年のソ連行きにより文学研究会との関係は自然に薄れて いったが,それまでの五年間に彼は文学研究会叢書,小説月報叢刊として,共訳を含め ると,翻訳を八冊手掛けている。また,この間に発表した文章の数は今日確認できるだ ≪覚悟≫≪婦女評論≫等の雑誌掲載分をあわせると,おおよそ評論七十篇,翻訳六. けでも,. 十篇,詩と散文が十篇あり,評論文と翻訳が大半を占めている。そして,沈滞民にとっ て文学研究会入会は,すでに入党していた茅盾の影響下,社会改革と文学の関係を彼な りに体得する貴重な機会になった。二十一年末の≪少年中国学会会員終身志業調査表≫く39' に,沈滞民は一生研究を続けたい学術として「文学(余力を以て美術)」と記入したので ある。そして生涯従事したい事業を具体的に「文学研究,西洋文学の紹介,中国文学の 創造」と記し,今現時点から売文生活を始めたいと書いたのだった。年末,沈滞民は茅 盾の紹介により中国共産党への入党を果たした。 一方,二十一年八月に杭州から上海に戻ってきた張聞天は,中華書局の「新文化叢書」 の編集に携わるようになり,年末ころから≪小説月報≫へ投稿を始める。そして,少年 中国学会のアメリカ在住会員と国民雑誌社,丙辰学社が合同で組織した団体「アメリカ 中国文化同盟」発行の華僑紙≪大同報≫の編集者として,二十二年八月に渡米するが(二 十四年一月帰国),この間にも≪小説月報≫-の投稿は続き,また文学研究会叢書から四 冊の著訳書を出している。彼は会員名簿から名前は落ちているものの,以上のような関 わりから一般に文学研究会の会員にみられているが,しかし,張のこの頃の文学観をみ ると,むしろ創造社のそれに近く,交友関係も,前述のように田漠との交流の他,渡米 直前の夏には,日本から夏休みに帰国した郭沫若や郁達夫に会うために彼らが≪創造≫ 季刊を編集していた民厚南里に頻繁に出入りしく40',このころゲーテを論じた長文の「寄 (23-2) 循的浮士徳」を書いている。また渡米後には郁達夫に当てた手紙が≪創造季刊≫ に掲載されたり,処女作「青春的夢」の初稿を成伐吾に送り,また翻訳「波斯新詩人Gibran 的散文詩」を≪創造週報≫に発表するなどく41',当時対立が激しかったグループの双方と 親しい関係を築いていた。以下,文学を自身の人生の事業と定めた沈滞民のこの頃の文 学認識がどのようなものであったのか,張聞天との共同作業となったワイルドの『獄中 記』の翻訳を通して考えてみたい。 『獄中記』は二十二年十二月,張聞天・珪酸泉・沈沢民の共訳で商務印書館から文学研 究会叢書十七として出版された。二十二年六月二日付けの田漠の「序文」,二十二年四月 付け張聞天・珪酸泉による「王爾徳介紹」 RobertRoss. (全十三章,うち江複泉は十-十二章を執筆),. 「序文」,張聞天・注壊泉共訳「獄中記」,沈滞民訳「莱頓監獄之歌」,一九. 二二年六月付け沈滞民「弁言」,および扉の沈滞民訳「Helas」の詩で構成されていたく42'。 「王爾徳介紹」および「獄中記」はすでに二二年四月から五月にかけて≪覚悟≫に連載さ れていたもので,叢書収録に際して前者には少し手が加えられている。 ワイルド(-八五四-一九00)は芸術至上主義的立場から,現実は単なる素材に過.
(14) 106. 白. 水. 紀. 子. ぎず,芸術家はその材料から現実にはない嘘を美しく創造しなければならない,自然と いうのは極めて不完全なものであり,芸術とはそのような自然や人生の模倣ではなく, 人生こそ芸術を模倣するものだ,と主張して唯美主義的傾向の強い作品を描いたイギリ スの作家である。中国でこのころまでに出たワイルドの作品のまとまった訳としては, 「ウイングミア夫人の扇」 (「扇誤」藩家拘訳) 「サロメ」 (「渉楽美」田漢訳) 「ワイルド童 話集」 (「王爾徳童話集」種木天訳)があるが,沈滞民らが日本にいた一九二○年という 年は,矢口達編『ワイルド全集』全五巻(五十作品収録)が天佑社から刊行された年だ った。田漠がこの年に「サロメ」を訳し,また沈滞民らが帰国後にワイルドの作品の翻 訳をした背景に,当時の日本におけるワイルド熱を考慮する必要がある。張聞天らが訳 した「獄中記」は神近市子訳でこの全集に収められており,沈滞民訳の「レディング監 獄の歌」は,一九年に辻潤訳で『世界名著文庫』. (越山堂)に,また二○年には日夏秋之. 介訳でこの全集収められているのである。 「獄中記」 (-八九七年作,一九○五年公刊,一九○八年改定)は,ワイルドが当時英 国で有罪とされていた同性愛的行為のために捕らえられ,獄中から相手の男性アルフレ ツド・ダグラス(ポジ-)に宛てた手紙形式で書かれた作品である。彼を牢獄に追い込 み,破産させたポジ-への憎しみと愛着,怒りと憐れみが交差する,人間の弱さも強さ も洗いざらい書き綴ったこの書は,出版と同時に大きな反響を呼び起こした。これまで のワイルドの作品の中では異色の作品であり,出獄後,再び自己を立て直す希望に燃え ていたワイルドの気持ちがよく反映された作品でもあった。 「レディング監獄の歌」 学作品であり,. (-八九八年作,長詩)は,出獄後ワイルドが書いた唯一の文 『オスカー・ワイルドの生涯』の著者平井博氏によれば, 「この詩は彼の. 全著作のなかで・--独特の新傾向を示すもので,出獄後の彼の新しい形式,内容を示唆 するユニークなもの」く43〉であった. この作品は,ワイルドが収監されていたレディング監獄で妻を殺害した罪で死刑に処 せられた元近衛兵を題材としたもので,妻を深く愛するがゆえに,外で他に男を作った 妻を殺害し,潔く罪を認めて静かに死を待っている青年の姿は,監獄内の囚人の同情と 感動を呼びおこしたといわれているが,それをワイルドはバラッドという古代民謡に源 を発する素朴簡潔な詩形で見事に描ききったのである。この作品は発表と同時にセンセ ーションを巻き起こし大変な売れ行きを博した。それはこの作品で「ワイルドが,今日 まで全然とり扱い得なかった世界,すなわち彼が入獄して初めてしみじみと味わい得た 悲哀と憐偶の世界,涙と苦悩と死の世界を,単なる概念によってではなく彼自身の惨塘 たる体験を通じて,まざまざと描き出し得たればこそ」. (平井)であった。. このように沈滞民らが翻訳した二作品は,ワイルドの作品の中でも独特の位置を占め るものであり,それだけに当時多くの人々の注目を集めた作品だったが,彼らはこの翻 訳作業を通して,ワイルドの文学観をも着実に自分のものにしていったのである。張聞 天は六十六真に及ぶ長文「王爾徳介紹」く44'の中で,ワイルドが通俗的な道徳に対して,作 品だけでなく実生活においてもレジスタンスの声をあげ,それが社会批判として強烈な.
(15) 107. 沈滞民研究一五四時代. インパトを与えたことを指摘し,庸俗な世間が言うようにワイルドは決して卑劣な,刺 己的人間ではないと,ワイルドを高く評価している。しかしこれは文学の効用論を基準 にした評価ではなく,彼が言っているのはむしろ文学の潜在的感化のことであり,. 「人生. 派」と「芸術派」は「互いに相対的なもので,どちらが良くてどちらが悪いとかの意味 はない」という認識に基づいた批評だった。そして前述のように,文学の生命は真情に あるとするタゴールの芸術観に傾倒していた彼は,ワイルドの芸術至上主義的見解をよ く表している,有名な警句「芸術家とは美しいものの創造者のことである」や「およそ 道徳的な本とか,不道徳な本などというものはない。よく書かれたか,もしくはまずく 書かれたか,それだけである」. (アメ1)カでの講演,および『ドリアン・グレーの肖像』. の序文)を引用してワイルドの芸術観に強く共鳴している。この文章は張聞天という適 任者に巡りあったことによって,当時としてはたい-ん質の高いワイルド論になってい る。彼は『獄中記』の翻訳を終えると渡米するが,ワイルドの文学観の影響は彼がアメ リカで書いた文章にも持続している。 また,共訳者の珪酸泉は,陳望通らと大江書舗を起こし,後に≪現代≫の編集者とし ても知られるが,二○年代初は主として英語および日本語をテキストに≪覚悟≫紙上に 多くの文学関係の翻訳を手がけていた。彼は張に同行して民厚南里に郭沫苦らを訪ねて 行ったり,張の渡米後も手紙のやりとりをするなど,当.時の張聞天の親しい友人の一人 だった。その彼が≪文学旬刊≫ Nα55 (1922-ll-1)に「『中国文学史研究会』底提議」を 書いて,様々な文学団体の協力による「中国文学史研究会」の組織化を呼びかけ,. 「第三. 者の立場」から文学研究と創造社の対立の経緯に言及したところ,たちまち成伐吾が「創 造社与文学研究会」く45)を書いて反撃に出たために,団結どころか両者の感情的対立をさら に煽ってしまったが,実はこの文章は,. 「自然派や痕廃派は,ともにそれぞれ求めるとこ. ろがあり,高低の差などはない。文学は,良くできているか否かが問題なのであり,涜 派がどうだとか,道徳的かどうかとか,有効であるか否かとかは関係ないと思う」とあ るように,明らかにワイルドの言葉を意識して書かれたものだった。 このように,張聞天や江複泉には文学の社会効用論の弊害(当時周作人も「文芸的統 一」22-7を書いて批判している),そしてこれに常に付随して登場する題材決定論の弊害 を敏感に感じとり,ワイルドの「警句」がストレートに,強烈な印象をもって受け止め られていたようだったが,沈滞民にとってもワイルドの芸術観は決して表面的な影響に とどまるものではなかった。. 沈滞民はこれより一年前の二一年五月に「王爾徳評伝」く46)を書いていたが,この評伝は ワイルドを論じるというよりも,. 「人生のための文学」という大なたを振るってワイルド. の作品を一方的に断罪したものだった。 「まさにヨーロッパの文学が日を追って人生に接近している時,彼は芸術の為の芸術を 主張し,芸術を人生から分離させようとしている」という言葉で始まり,ワイルドの文 章の美しさは認めるが, 「彼の文章に表現されている享楽主義的傾向と芸術至上主義の偏 見,および世間の人心と文学の本質に対する影響については大いに議論の余地がある」.
(16) 108. といい,. 白. 水. 紀. 子. 「ワイルドの人生観はすでに彼自身の人生において完全に演じられ,享楽主義の. 結果は霊魂の堕落であり,唯美主義の実際は夢の中の虚しい花にすぎなかった」と彼の 美人生と作品を重ねて論じている。そしてワイルドがもし彼の「利己主義」を改め,. 「自. 己の欲望を捨て,周囲の人々に同情を与えておれば,また芸術人生の幻想に濁れなけれ ば,人生がどうしてあのように虚しく残酷であることがありえただろうか。自分の人生 の側面しか見なかったために,全世界が意義を失ったのだ」と極めて一面的な評価が続 く。同情が欠乏したために彼は「人生のため」の芸術家になることができなかった,と 彼はいうのであるoそれゆえ彼には『獄中記』が「奇妙な讃しげな魂の記録である.柄 的で,哀れで,だがまた儀悔と自己の罪の粉飾と自己弁護の奇妙な混合物である。真心 からの慨悔なのか,庇理屈をこねた抗弁なのか,わけがわからない」のは当然であった。 ではなぜ沈滞民はこの後も,翻訳集『獄中記』に「レディング監獄の歌」を訳し,さ らに訳詩「印象」を≪覚悟≫. (22-6)に発表するなどワイルドに関わりつづけたのだろう. か。この翻訳集に収められている沈滞民の訳詩序文が手元にないために,彼の心境は測 りがたいが,たとえばこの頃, いる。. 「文学者底人格」. (≪覚悟≫22-7-23)で次のように述べて 「頭廃派であろうと,人道主義派であろうと,世間で道徳的だとか不道徳的だとか. 批評するが--文学者は,忠実に自分の良心が言いたいことを言っているのである」√っ まり「科学者がただ真理を追究する事を知り,真理以外の一切の権威を知らないように, 文学者は心に感じるものを偽りなく表現すること,これ以外の一切の権威を知らない。」 それゆえ「我々は道徳的か否かというばかげた批評を捨て去るよう主張する。批評は作 品を解釈する義務を有するが,作品を裁断する権利はない」と言い,. 「道徳上同情的には なれない作家でも擁護する。なぜなら芸術上,彼は完全な人格を有しているからだ」と 述べている。かつてワイルドの作品を彼の実生活と重ねて論じ,. 「享楽主義」だと批判し た批評態度とは大きな違いがみてとれる。芸術の独立性を重視し,作品に作家の真情が いかに偽りなく表現されているか,それだけを問おうとする柔軟な姿勢がここにはある。 彼のこの文章はタイトルにみられるように, 「芸術は人格を表現するものである」という タゴールの芸術観を意識して書かれたのだろうか。前年には張聞天が茅盾や陳望通らと タゴールの無抵抗主義,餐,人格をめぐって小さな論争をおこしており,またこの年(二 十二年)二月には鄭振鐸が≪小説月報≫に「太尤爾的芸術観」を発表して,タゴールに 対する傾倒を外に表明し始めた時にあたるからだ。だが,沈滞民のこの発言を,張聞天 や鄭振鐸の影響をうけて「人生のため」の文学から「芸術のため」の文学-転換したも のとみるのはやはり早急すぎる。なぜならこの文章の冒頚に「文学者は民衆の口であり, 良心の忠実な下僕である」という沈滞民の一貫した「平民の文学」の主張がみえること と,また二年後に彼が書いた革命文学論-の洩れで考えると,彼がここで描く.文学像は, 革命の立場に立つ作家の偽りのない叫びを表現したもの,と解釈したほうがいいように 思われるからである。つまり民衆から離れたところで書かれたものは革命文学ではない, 「革命文学とは,銃や爆弾といった名詞をたくさん並べたものでも,小説月報が標語とし て掲げる血と涙のようなものでも,創造社の諸先生がたがいつも吐露している恨みや情.
(17) 109. 沈滞民研究一五四時代. 感を描いたものでもない」,問題は作家の「気概」. 「立脚点」であるという彼の革命文学. 請(24-4)く47'には,この「文学者底人格」でいうところの,文学は外から何かを加えて作 り上げるものではなく,作家の真情を表現するものであるという,極めて当たり前の, だがしばしば忘れられがちな大前提が継続して存在することに気づかされるからある。 「血と涙 それゆえ「文学者底人格」の価値は,技巧上の主義や流派に対する拘りを捨て, 「平. の文学」ふうの文学効用論の否定ぎりぎりまで突き進んだところにあると考えたい。 民の文学」を主張し,なおかつ文学効用論に疑問を抱いた彼は,芸術の対象よりも,そ の対象をとらえる人間の思想こそが問題であり,芸術存在の本質だと考えたのである。 彼がワイルドの徹底した,過激な芸術至上主義を通して,文学の原点にたち返り,これ をバネに一気に革命文学へと突き進んでいった,とすると,沈滞民のワイルド受容は実 に特異なパターンだったといえる。 沈滞民がワイルドから得たもの,それは恐らく張聞天や江壊泉と同じものではなかっ ただろうが,彼らの文学的晴好と創造社との交流が,絶えず沈滞民の芸術認識に新鮮な 刺激を与えていたことは忘れてはならないだろう。注綾泉の先の文章の中に,沈滞民が 注の提議した「中国文学史研究会」に賛同し,その中の中国詩歌史組に参加を希望して 「芸術派」という拘りを捨てて,様々な いるという記載がみえるが,彼もまた「人生派」 文学団体・流派の協力を現実的課題として考え始めたのだった。 六.春雷文学社の設立. 一方,沈滞民の党活動のほうも文学活動と平行して次第に本格化し,彼は多忙な日々 を送るようになった。たとえば早くも二十一年八月,党の支持を得て創刊された≪婦女 評論≫の社友となりく48)(≪婦女評論≫紙上で使われた「希真」 「鳩虚」のペンネームはこ れまで茅盾のものと考えられてきたが,実はこれらの多くが沈滞民のものであることが わかりく49),沈滞民の思想全体において,その婦人論が大きな意味をもってくる可能性が でてきた),また二十二年からやはり党が創立した平民女学校でも教鞭をとりく50),さらに 二十三年一月には豊子惜が校長を務める漸江上虞春嘩中学での講演に参加しているく51)0 そして七月八日,上海党員全体大会が開かれ,それまでの上海地方執行委員合を拡大し て上海市以外に江蘇,漸江両省まで管轄する上海地方兼区執行委員会が成立すると,全 上海党員は四つのグループに分けられ,沈滞民は茅盾とともに商務印書館組の第二組に 組み込まれているく52)。その後彼は党の派遣で南京建業大学に行きく53〉,そこで教鞭をとる かたわら,九月一七日の執行委員合第十三回会議の決定により,謝遠足と二人で南京党 小組の組織化にあたった。この時期,沈滞民は社会主義青年団江漸暁兼上海地方執行委 員会委員に選ばれ,学生の社会活動も支援している。彼は各方面の団結を重視し,街頭 演説の際には,スローガンは高すぎないように,行動は政治色が濃くなり過ぎないよう に主張したという〈54〉。そして,二十四年一月の中国国民党-全大会によって正式に国共 合作がスタートすると,彼は茅盾とともに個人の資格で国民党に入党した。改組後の国 民党は江蘇,漸江,安徽,江西の四省の党務を管理する上海執行部を発足させ,沈滞民.
(18) 110. 白. 水. 紀. 子. はその宣伝指導幹事に施存続ともに選出された(宣伝部長江精衛,秘書惇代英)。また同 じ頃,中共上海地方兼区執行委員含も改組を行い,茅盾,施存続,徐自民,向響子とと もに五人の執行委員の一人に選ばれているく55〉。沈滞民はこうして徐々に党活動において ち,責任ある仕事を任されるようになっていった。 この国民革命の精神的高揚のなかで,後に「革命文学」論争に発展する新たな文学の 模索が始まった。そして沈滞民も ≪覚悟≫と≪中国青年≫を足場に,積極的に革命と文 学の関係を論じ始めたのである。. ≪覚悟≫は上海≪民国日報≫の副刊で,この新聞は一九. -五年に孫文の中華革命党(後の中国国民党)が反蓑世凱宣伝のために創刊したものだ ったが,二四年に国共合作が実現すると,改組彼の国民党の機関誌として共産党員がそ の編集や社説委員会の仕事に加わるようになり,沈滞民も≪覚悟≫の編集に携わるよう になっていたく56〉。その夏のこと,モスクワでの学習を終えた清光慈が北京経由で上海に やって釆た。尊秋白の紹介で,上海大学社会学系の教授として働くことになったのだ。 党の指導下にあるこの大学には惇代英や茅盾も講師として参加し,一説では沈滞氏自身 も講師として協力したといわれているく57)。席光慈は上海到着後, 「無産階級革命与文化」. ≪新青年≫や≪響導≫に. (24-8-1)などの論文を,そして文学研究会機関誌≪文学週報≫. (24-9-29)には詩「在戦争中」を,また≪覚悟≫には,詩「莫斯科」 表して,文学-の情熱を表現した。. (1118)を次々に、発. ≪覚悟≫を基盤に清光慈との間で春雷文学社結成の話. が持ち上がったのは,ちょうどこのような時だった。 発起人は清光慈,沈滞民,それに上海大学の学生王秋心,王懐心兄弟だった。王秋心, 懐心兄弟は翌年の内外綿紡績工場に始まる労働者のストライキ,メーデー,そして五・ 三○の統一行動の際には上海大学学生会の執行委員のメンバーに,懐心は全国学生総合 代表にもなった活動的な学生だったく58).沈滞民もこの頃, (24-4-28)や「文学与革命文学」. 「我m需要志様的文芸」. ≪覚悟≫. ≪同≫(24-ll-6)を書いて,国共合作の実現による,国. 民革命の機運の高まりを背景に生まれた革命文学に強い関心を抱いていた。こうして, 自分達の文学雑誌の発行を強く望んでいた清光慈を中心に,十一月十五日,. ≪覚悟≫紙上. に「春雷文学社小啓事」を載せて文学組織の結成を宣言し,毎週日曜日の≪覚悟≫を「文 学尊号」にすることになった。そして翌日十六日には春雷文学社編集による「文学尊号」 第一期を,また二十三日にはその第二期を出している.第一期掲載の席光慈の詩「我m 是些無産者(代宣言)」によると,彼らの結社の目的は,. 「我々の筆でもって貧しき者達. のために怒りを吐き,--・有産者の野蛮と悪劣さを呪い,全世界の悲惨な運命にある人々 と連合して,幸福な運命にあるあの人々の宝庫から,われわれが当然取るべき一切を奪 い返そう」というもので,文学主張というより,自分たちの姿勢を公に示したものだっ たoだが,第三期の発行予定日の十一月三十日に「文学尊号」は出ず,その二日後の≪覚 悟≫広告欄に「特別な事情により,暫時文学尊号を停刊せざるを得なくなりました。将 来機会があれば,本社は別の文学刊行物を出すつもりです」という「春雷文学社啓示」 が出た。停刊の特別の事情(原文「特別事故」)とは何か。胡従経氏は「軍閥の干渉によ る」とするく59)が,根拠は示されていない。蒋光慈の文学雑誌発行の夢は,結果としては.
(19) 沈滞民研究一五四時代. illiJ. 二十八年の雑誌≪太陽≫ まで待たねばならなかったが,革命文学を提唱した最初の文学 団体として中国文学史に特筆されるかもしれなかったこの春雷文学社の流産は,このこ ろ党活動よりも文学に強い興味を抱きはじめていた清光慈にとって,また文学研究会或 は≪小説月報≫に不満を抱き始めていた沈滞民にとっても,初めて自分で手掛けた文学 結社だっただけに,口惜しい思いを残した。 七.鹿びにかえて. 沈滞民の革命文学論および≪中国青年≫. との関わりについては,本稿の対象が五四時. 期にあることと,すでに与えられた紙幅を越えていることから,稿を改めるしかない。 革命文学論の源流の一つだといわれている≪中国青年≫に集まった人々の中で,最も文 学に関心を持ち,実際にその仕事をしてきたのが沈滞民であったことを考えると,彼の 革命文学論は書かれるべくして書かれたと言えようが,本稿で見てきたように彼の文学 観が,常に「文学青年」張聞天の影響を受けながら,二十二年という早い時期から文学 研究会と創造社の双方の動きを視野に入れた中で構築されていったものであるというこ とはおさえておきたいと思う。これまで五四時期の沈滞民については茅盾研究との関連 で触れられることがほとんどで,残念ながら革命文学論争前夜に至るまでの彼の歩みに ついては十分な研究がなされないままになっている。最近の張聞天研究や王明研究の進. 展と,ソヴイエト区に関する新たな資料の公開に伴い,沈滞民の後半生もおぼろげなが ら輪郭がみえてきた段階で,ひとまず五四時期から整理しておこうと思いたったのが本 稿執筆の動機である。これ以降,五・三○時期,モスクワ留学時期,郡像昧ソヴイエト 区の時期と続くその第一歩として本稿を位置づけたいと思う。. (一九九三年四月. 記). 注釈. 〔上〕(人民文学出版社198ト10)。以下,特に注記のないものはこれ く1)茅盾『我走過的道路』 によることが多い。 く2〉 孔男境『庸園集』 (創作書社1946-1) P.35 く3〉 程中原『張聞天与新文学運動』 (江蘇文芸出版社1987-8) P.15。以下,張聞天に関して特 く4〉. に注記のないものはこれによることが多い。 「少年中国学会」 『五四時期的社団』 〔-〕 (三聯書店1979-4)。以下,少年中国学会に関し ては,主としてこれによる。. く5〉. (6〉. 〈7〉 く8〉 〈9〉. ≪新郷人≫に関しては拙稿「雑誌≪新郷人≫紹介」 ≪中国文芸研究会会報≫ No.100 (199013) を参照されたい。なお,昨秋訪中した際に≪新郷人≫ 2号の複写が入手できたので, 「呆 子」等の作品紹介はこれによる。 前掲注く4) P.250及び『五四時期期刊介紹』第一集上冊(三聯書店1979-8) 「少年世界」 の項目参照。 鐘桂桧「茅盾和他的弟弟沈i畢民」 『茅盾与故郷』 (四川文芸出版社1991-8) P.36 P.270 『茅盾研究』一号(文化芸術出版社1984-6) 程中原「九重泉路尽交期」 滞民「世界女子参政運動考」 ≪婦女雑誌≫ 5 -12 直民(沈滞民)訳「家庭操作的婦女」 ≪同≫6-3. (1919-12) (1920-3) Margaret. G.Bondfield著.
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