漱石のイギリス : 私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。(「将来の文章」(1))
全文
(2) 淑石の イギリ. なかったのだろうか.明治時代にあっては. (特に官命による)洋行と. ヽ. ヽ. 一二. 学位援輿相成侯俵同刻までに通常服云々』。是を見ると'前以て文部. と言い、有難いものを-れ. ヽ. ヽ. ヽ. イギリス留学中に妻夏目鏡子にあてた書簡で、淑石はこう書いている0. らと知らせてきた様に聞えるでせう(ll)」. ヽ. 「先達御梅さんの手紙にほ博士になつて早-御節りなさいとあつた。. てやるのだから黙って受け取るのが当然と言わんばかりの官僚の権威. ヽ. 博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷、博士なんか. 主義に一矢を報いている。. また、それからはぼ一ケ月後、二月二四日発行の東京朝日新聞紙上. ヽ. を有難〔が〕る様ではだめだ。御前はおれの女房だから其位な見識は これは妻にあてて書かれた書簡. ヽ. 持って居らな-てはいけないよ(cO)」. で'淑石ほ'「博士問題の成行」と題する談話を発表、学位を断わる. ヽ. であるため'淑石の内奥の感情が極めて直哉に吐露されている。おそ. ことができないのに、問題があった場合には学位を取り上げることが. 出来るようになっている当時の学位令を槍玉に上げ、「丸で器械とし. 「夫ぢや学位をやるぞ'へい、. ヽ. ら-彼ほ同じように、「官命にょる留学など馬鹿々々敷」 と言いたか ったのだ。だが彼は立場上そういう大人気ない発言をすることほでき. て人から取扱はれる様な菊がします」. ヽ. なかった。だから、「余ほ特に洋行の希望を抱かず」というあいまい. れてゐるかの観があります(cull)」と述べている.さらに注目しておい. ヽ. だらうと思ひます」(傍点平野). 石が'大正三年学習院で行なうことになる. 発表していて、文名も確立していたo. 「留学事件」当時はまだ地方高. は猫である』 『坊ちやん』 『草枕』『虞美人草』『三四郎』『門』などを. 似ている。そして、彼はすでに'目ぼしい作品だけをあげても『吾輩. う有名な講演で表明された個人本位の立場という考え方と極めてよく. 「私の個人主義(S)」とい. 勢から察すると'是から先も私と同様に学位を断る人が大分出て来る と言っていることである。これは、淑. ヽ. 学位を取上げるぞ、へい'と云ふ丈で、此方は丸で玩具同様に見倣さ. ヽ. てよいのは、同じ所で、「博士を節する私は、先例に照して見たら襲. ヽ. な言葉になって出たものと思われる。. 既に交渉済になつて'私が承知し切って居る事を、愈明日執行するか. 部省による博士号授与を断固拒否することになるのだが、官命による. なさい。前文句無しの打突け書で突然『二十一日午前十時同省に於て. いきなhソ. する不快感が遠慮なく表明されている、即ち彼は、「此通知状を御覧. 時には、留学事件の場合とちがって'官命を押しっけられることに対. ヽ. 省が私に学位を呉れるとか、私が学位を貰ふとか言ふ相談があつて、. ヽ. 留学の拒否は、その前ぶれにすぎなかった、と言ってもよいだろう0. いうものが、どれほどに、人間の権威を高めるものであるかは、今か ら思えば、想像に絶するものがあった.後に淑石は帝大を辞任し、文. ヽ. 人かも知れませんが、段々個人々々の自覚が日塘に襲展する人文の趨. ヽ. いずれにしても、「借先般来御配慮被下僕留学事件愈決定。本日校 (傍点平野)という. ヽ. 長より尉令拝受の運に至侯。罪才浅草の身にて、誤つて選にあたり侯 事、全-校長始め先生の御毒力と深-感謝致侯(9)」. ことになって淑石はイギリス留学を決意するのであるが、ここで彼は、. (明治四四年二月二四日)紙上に、「博士問題」. 「留学事件」という言葉を使っている。後に彼は、博士号授与を拒否 した時'東京朝日新聞. ヽ. ヽ. と題する談話を発表していて、「たゞ私に学位が欲しくないと云ふ事. ヽ. ヽ. ヽ. と害いて、留学を断わった ヽ. ヽ. ヽ. 案があつた丈です(10)」という極めて素っ気ない理由をあげている。 これは'「余は特に洋行の希望を抱かず」. ヽ. ヽ. ヽ. 理由としているのと極めてよく似ているのである。ただ'博士問題の. ヽ. ヽ. ス.
(3) ヽ. 等学校の新米教授である上に'自信喪失状態に陥っていて、不愉快な 気分を味わいながらも、官命を拒否するだけの'社会的、精神的な自 ヽ. 石の謡が下手くそだと言って冷評を加える。すると淋石は'それは寛. 待している。その席で'激石は虚子と共に謡を歌うのだが、寅彦は淑. 『淋石と私』(高浜虚子)の中から、江藤氏が引用している長い文章に よれば(14)、淑石ほ、虚子と寅彦を「留別の意味で」西洋料理店に招. 高浜虚子は洋行決定後の淑石の得意満面の姿を描き出している。. っていたとは考えられない。. 己確立ができていなかったのである。だから淑石が洋行そのものを嫌. ヽ. てのひら. と言ったあと、「美しいペ-パ-の張つてある小さな錐の中から白い 粉を取出して、それを掌にこすりつけて両手を擦り合わした」ので あぶらて. ある。虚子が不思議に思って'それは何かとたずねると、淑石は、自 分は膏手なので、膏を取るための粉だと言う。「西洋に行-とそんな ものが必要なのですか」とさらに虚子がたずねると、淑石は、「貴婦. たあと、さらに、「指で鶏の骨をつまんで」、鶏に「むしやぶりつい た」のである。虚子は驚いて、「鶏はそんな風にして食っていゝので. すか」とたずねると'淑石は、「鶏は手で食っていゝことになつてゐ. ヽ. ますよ。君のやうにさうナイフやフオ-クでかちや-\やつたところ と書いているが'描写する側の. 若年から英語を学び、大学で英文学を専攻した人間が'その現地を実. 際の目で確かめることのできる棟会に胸のときめ-思いがするのは、 自然の情である。官命による洋行には不快を感じた、だがそれを昂然. と拒否するだけの自己確立が当時の淑石にはできていなかった上に、. といったようなち. 準備をはじめることになったのである。留学費用は年額一八〇〇円だ ったが'留守家族手当は'年額三〇〇円というわずかなものであった0. 薦メ浦二年間英国へ留学ヲ命ズ」とい-辞令が下-、同年七月熊本か ら東京へ移り'妻子は、鏡子の実家中根家へあづけて、淑石は留学の. かくして、明治三三年五月十二日付で'文部省から、「英語研究ノ. である.. のからおよそ程遠い'みじめなものになるのだが、それは叉別の問題. ただし'淑石の留学生活が、「貴婦人と握手する」. 当時の激石にとって、紙-ず程度の価値しか持たなかったのである。. 的権威の押しっけがましさが不快であった上に、博士号そのものが'. 洋行そのものには抗し難い魅力があった。博士問題の場合には、官僚. ヽ. ヽ. で鶏の肉は容易に骨から離れやしない」と言う。虚子は、このあと、 「此新洋行者の知識に敬意を表した」. ヽ. ヽ. 虚子に羨望の念がはたらいて描写が誇張されていることを割引しても、. ヽ. ヽ. 人と握手などする時には膏手では困りますからね」(傍点平野)と答え. ヽ. ヽ. ヽ. 彦に耳がないからだと1蹴したあと、「僕も洋行することになるのだ ん. ったら、詫なんか梧古せずに併蘭西語でも習って置いたらよかつた」. ら. やはり'淑石は、洋行そのものにはうれしさを感じていたのである。 歌石のイギリ. 明治三三年九月八日横浜を出帆したプロイセソ号は、神戸'長崎、. 上海'香港'シンガポ-ル、ペナン'コロンボ、アデン、スエズ、ポ -トサイド'ナポリ、ジェノアを経由して、l O月二1日、パリに到. 着している。パリでは万国博覧会を見物し、ル-グル美術館などを訪. 問、十月二十八日パリをたち、ロンドンに到着した。. 淑石にとってこの船旅は生理的苦痛を伴なった。早-も九月八日に. 「夜下痢ス。晩餐を契セズ(-5)」と日記に書きつけている。さらにこれ. に船酔いが加わる。九月十六日には'「船の動痛烈シク㌣ア、終日船. 一三. す. ス. 2. ふ.
(4) ヽ. 激石のイギリ. ノ中二凡董集卜召波集ガアツタカラ'少シ讃マウト思フタガ讃メヌ。. がすでに船旅中に始まるのである。九月十二日の日記には、「カバン. 石がイギリス留学中終始感ずることになる文化的落差からくる異和感. 理的苦痛から始まったということは注目しておいてよい。さらに、淑. のように'下痢と船酔いに関する記述が多い。淑石の洋行はまず、生. ルノ、、二lテ退却ス(1)」と書いている。船中で書かれた日記にほ、こ. 室ニアリ。午後勇ヲ鼓シテ食卓二就キシモ、途ニス-プヲ半分飲、,、タ. ス. 『留学日. で'淑石がどのような議論をしたのかほ. たのかもしれない。そしてそういう雰囲気に抵抗するかのように彼は. 「断片(a)」. あらゆる横合を最大限に利用して、われわれを改宗させようとする」. 態度である。「彼らは、われわれを無邪菊にも偶像崇拝者と見なしてI. 淑石がまず第一に腹を立てたのは'宣教師たちの押しっけがましい. 善かれた英文の. 周囲ガ西洋人クサクテ到底俳句杯味フ飴地ハナイ(17)」(傍点平野)「横. これを見てもわかるのである。. 十月十四日にちょっとした珍事があって'激石は船中でノット夫人 (Mrs・Nott)に再会している。ノット夫人というのは'激石が熊本 で知りあった「英国の老婦人(聖」である。十月五日には'彼女の一. 等船室に淑石は招かれているが'同日の日記には、「女子ハ音調低ク 且一種ノ早口ニテ'日本人卜云フ容赦ナク、聴取ニク、シテ閉口ナリ0 無暗ナ挨拶ヲスレ..'t危険ナリ(聖」と書いていて、ロンドンに着いて からも彼は'現地で話される英語のわからなさにさんざん悩まされる のである。(「倉話は一口話より出来ない.『ロンドン』兄の言語はワ カラナイ'閉口」(SV)これは、ほとんど書物を中心として英語を学ん. 「彼らは自分たちが偶像破壊者であること杏. 像拝崇ではないかと激石は言う.次に彼が問題にしているのは、「キ リスト教こそ世界で唯1の真の宗教である」という宣教師たちの唯我. のである」しかしこのような原理に立つ以上、キリスト教も一種の偶. 全面的に確信しているが'同時に、キリストは紳の化身だと言っては ばからないのだ.紳はキリストを通してのみ彼らにとつて意味を持つ. 原理を問題にしているo. a)one)と彼は冷たくつき放した上で、キリスト教の根本. と彼は書いている。そういう宣教師たちの態度を'「はうつておけ」. (Letthem. ている。淑石の留学生活が容易ならざるものになるであろうことは、. 船中でいくつかの俳句をつくっている。早-も周囲からおしよせて来. に取り囲まれ、俳想も浮ばな-なっていた激石の自己防衛反応であっ. く、愉快なり(S3)」. 誌』には十月十二日日付で'「夏日氏耶蘇宣教師と語り大に其鼻を挫 と記されているが、これは'西洋人くさい雰囲気. たちと'キリスト教論議を行なうことになる。芳賀矢一の. こういう状況のなかで、淑石は、上海から乗船した英米人の宣教師. がまた淑石の神経症を助長させた要因であることは否めない。. できた者にはいわば当然のことであるのだが'英語の聴取能力の不足. 一四. 寅ヲ出帆シテ見ルト、右モ左モ我々同行者ヲ除クノ外ハ皆異人バカリ. ヽ. て'うっかりしているとその中にのみこまれてしまいそうな<西洋>. ヽ. デアル(co-)」と善かれている。これは、留学二年目に淑石を極度の神. ヽ. に対して'淑石は必死で自己同定を試みたと言ってもよいだろう。こ. ヽ. 経症に陥しいれることになる、カルチャア・ショックの前ぶれである. ヽ. のキリスト教論議は'船中の日記では触れられていないが'船旋中に. ヽ. と言ってよいだろう。九月十三日には、「夢二入ル者ハ故郷ノ人、故. ヽ. ぼ推測できる。. ヽ. 郷ノ家。醒ムレバ西洋人ヲ見、蒼海ヲ見ル。境遇夢ト調和ザル「多 シ(e3)」とあり、.横浜出帆後わずか六日目にして、望郷の念にかられ. ヽ.
(5) 独尊的態度である。「私はキリスト教に対して何ら恨みを持つ者では. し'こういうことに一番よく気づいていたのは淑石自身であった。ノ. に-らべれば'淑石のそれは劣ったものであったと言わざるをえない. まで英語をしゃべって暮していた'新渡戸稲造や、内村鑑三の英語力. ット夫人を叙した英文の中で、淑石は、自分を「英語の初心者(g3)」. ないoそれどころか、キリスト教は偉大な宗教であると固く信ずるし、 平野注)が偶像崇拝者であると. それを信仰することの出来る人々は、それによつて救われることは確 かである.一方、彼ら(4且教師たち. ができるのだ。宗教というものは結局のところ、信仰の問題なのであ. のではないにしても、自分たちなりの崇拝方法で救いを見い出すこと. クスの強い人であったことを割引きしても、これは厳正な自己判断と. ている。淑石が'自分のアバタ面を終始気にしていたほどコンプレッ. 午(聖」(Whatanassofano)dboy). と規定し、彼女の早口の英語についていけない自分が「間抜けの老少. って'議論したり'道理を求めたりすべき問題ではない」信仰という. はそれを無と呼ぶ'というのもそれは、細腰的なものであるから相封. ろうが、仏教であろうが、どんなものでも構わないと淑石は言う。そ して、淑石自身の神は、「異に何物かであるようなあの無であり、私. に陥ることになるカルチャア・ショックに、言語的要因がかなり強く. いて云々する資格のない私が'淑石の英語力にこだわるのは'彼が後. 穏やかでやさしい彼女の性情を示すものであり、私の知る限り'彼女 こそ'あらゆる母のうちで最も愛情に富める母なのである(27)」. 笑を示して-れる人にはほとんど出合つたことがない。彼女の微笑は. 面微笑をうかべる。私の知る限り'ヨ-ロツパの女性でこのような微. やさしいノット夫人には無血開城している。「彼女は、私を見ると満. 宣教師たちの唯我独尊的な態度に昂然と反旗をひるがえした淑石も. 働いていたと見るからである。. このように、激石における∧西洋∨と∧日本>の対立はすでに航海中 にはじまっていたのである。. ちなみに、淑石の語学力についてほ誰もがほめているのだが'私は それは俗見にすぎないと思っている。淑石の英語力は日本の知識社会 で高-評価される種類のものであって、イギリスに行って何不自由な く暮せるといった実践性をそなえたようなものではなかったのである0. 石は書いている。ノット夫人は船旅中毎日淑石に三〇分間英語を教え. が書く種類の英文なのであって'実はその本質は英語ではな-'英語. た英文も、仔細に検討してみれば'これはいわゆる日本の大学の秀才. 石は、やさしい人間には敏感に反応する。ノット夫人のような人を前. 書いている。古道具屋の里子に出され、つらい幼年時代をおくった激. の申し出を受けいれ、この横合を最大限に利用する旨給した(警」と. てくれると申し出る.これに対して、彼は、「私は感謝の菊持で彼女. を装った日本語であることがすぐにわかるのである。だから、札幌農. にした時だけは'西洋とか'日本とかの文化的落差は、彼の眼前から 淑石のイギリ. 一五. 学校で、アメリカ人教師の指導を受けながら'ほぼ日常生活において. 「達意」という形容詞をつけて1般には評価されている'淑石が書い. と淑. はここで、禅宗的な宗教観を開陳していることは注意しておいてよい0. 性を含む名節によつて名づけることができないからである」即ち淑石. に見えたにちがいないと書い. ものがある限り'宗教は'キリスト教であろうが、マホメット教であ. 言うべきである。勿論私は、淑石自身の能力を問題にしているのでは ない。彼が育った文化的言語的環境の問題である。他人の語学力につ. 呼んでいる人々だつて、信仰がある限り、キリスト教はどに大きなも. -. ス.
(6) イ附ギリ 8ic. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 1. 1. 1. 1. 1. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 一六. ヽ. vou)evardニ至リテ繁華ノ様ヲ目撃ス.其状態ハ夏夜ノ銀座ノ景色 ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. (十月二十≡日)(傍点平野)はじめてヨ-ロッパ. 酔いに苦しめられている。日記にはイギリスに対する第1印象が記さ. 伝わってくるではないか。そして十月二十八日にはパリを出発し'い よいよロンドンに到着するのだが、英仏海峡を渡る船上で彼は再び船. に接した、極東の後進国からの留学生淑石の驚ろきが手に取るように. ハ驚クべキモノナ-」. ヽ. ヲ五十倍位立派ニシタル老ナリ」(十月二十二日)「巴理ノ繁華卜堕落. ヽ ヽ. 淑石の. めて見るヨ-ロッパの印象を淑石は次のように記している。 「Nap)esニ上陸シテcathedra)sヲニッmuseum及ArcadeRoyal. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 下宿を探したりといった雑事に忙殺されていたのにちがいない。. ジュノアからパリを経てロンドンへ到る施行は、ヨ-ロッパに釆て. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 五人離々ニナリテ漸ク乗込。. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. へバ併語ニテ君ハ何モ置テ行カヌ故、此:座シタルナリト威張ツテ入. ヽ. ヽ. ヽ. 老来り次ノ部屋ヲ指シ蓮リニ分ラヌーヲ兎角申ス故'.ノゾキ見レバ八. レズ。己ヲヘズ藤代氏ノ庸ノ虚二至り廊下二庁立スルニ、車掌ノ如キ. ヽ. (傍点平野)と彼. ヽ、,ヽ. ヽ. 「四時三十分頃旋屋ノ番頭二途られて海草二乗る。何. ヽ. ヽ. ヽ. リ」(傍点平野). 庶. ヽ. ヽ. シテウロ々スル「多'時漸. ヽ. ヽ. 泊。以大利ノ小都合ナルニモ閲セズ頗ル立派ニテ日本杯ノ比ニアラ. ヽ. ヽ. ヽ. 虚もOCC亡piedと云. ・ト,. ロトシテ余ガ顔ヲ見ル。此健裁. ヽ. ヽ. (傍点平野) とあり、巴里については次のように記述されている。. 就中余ハ最後迄赤帽 ク毛唐人の内二割込ム. ヽ. 「『パリス』ニ来テ見レバ其繁聾ナル「是亦到底筆紙ノ及ブ所二無之。. ヽ. ヽ. Modane迄至ル。裁所ニテ荷物ヲ検査シテ併ノ国境二入ルト云. ママ. ヽ. o. ヽ. ヽ. ヽ. 就中道路家屋等ノ宏大ナル「馬車電気鎖道地下繊道等ノ網ノ如クナル. ヽ. ヽ. フ故、此虚二至り見ルニ手荷物ヲ持チテ下リルート心得テ串ヲ飛ビ出. ヽ. ヽ. ヽ. 文一カ00年の巴里万国. 、テ、ヲ. ヽ. ヽ. セバ豊計ランヤデ検査官ガ車中二束リテ検査ス上京フ。倉皇引キ返セ. ヽ. バ知ラヌ奴ガ我物嶺二自分ノ席を占メテ居ル故、我席ナリト英語デ云. ヽ. 有様'塞二世界ノ大都二御座候」(傍点平野). 管,マ、三. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ′ヽ ヽ. ヽ. 五日見ニモ、大勢ヲ知ルガ積ノ山カト存侯」(傍点平野)さらに巴里屯. 、レ、ノレ ロキ. ヽ. ヽ. ヽ. ヨ,サ、入 ヽ. ヽ. ヽ. キ、-、き亘 ヽ ヽ. ヽ ヽ. ニ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. o引、ヒ ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ついての印象を淑石は日記(盟) で次のように記している。「Grand. i;1C. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. :テ ヽ. ヽ. 初めての陸上操行でもあったため、淑石は疲労困癒したらしい。「午. ヽ. 々タル芝原ノ見事ナル、固ヨリ日本ノ此ニアラズ(EB)」. ヽ. 前八時半ノ海草ニテGenoaヲ出襲ス.旋宿ノ馬車ニテ停車場二馳付. ヽ. は書いているが'十月二十三日付で、妻夏目鏡子あてに、巴里から発. ヽ. タルハ立派ナリシガ場内モァ委細方角分ラズウ口々スル横河二笑止ナ. ヽ. すでに十月一日にコロンボに寄港した時、「道路ノ整ヘル樹木ノ胃. (傍点平野). ル大理石ノ彫刻無数陳列セリ.且Pompeyノ襲掘物非常二多シ. ヽ. る旋行で疲れ切っていた上に'公使館へ行ったり'友人を訪ねたり、. ヽ. れていない。おそら-淑石は'ジュノアからパリを経てロンドンに到. ヽ. ハ西洋二束テ始メテ上陸セル地故、夫程驚キクリ(gi)」. ヽ. Roy巴Pa-aceモ頗ル美ナリ。道路ハ皆石ヲ以テ敷キッメタリ。此地. sic. Pa-aceヲ見物ス。寺院ハ頗ル杜厳ニテ、立派ナル博物館ニハ有名ナ. ヽ ヽ. ヽ ヽ ヽ. 消えてなくなるのである。. ス. かくして、プロイセソ号は、明治三三年十月八∼zz(ナポリに着く。始. 3. 信された書簡(a) を見ると、「Genoaニテ船ヲ棄テ、上陸、其地ニ1. ヽ ヽ ヽ ヽ. 原. ヽ. ヽ. 博の印象を次のように記している。「今日ハ博覧合ヲ見物致侯ガ大任. ヽ. 掛ニテ何ガ何ヤラ1向方角サへ分り衆院.名高キ『エフエル』塔ノ上ニ ヽ. 登リテ四方ヲ見渡シ申侯。是ハ三官メ-トルノ高サニテ人間ヲ箱二入 レテ綱保ニ〔テ〕 ツルシ上ゲツルシ下ス仕掛二侯。博覧合ハ十日や十 ヽ. ヨ,荘,得 ・然、ズ. ヽ. ヽ. 原. ズ」ヽ ヽ.
(7) ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 人定員ノ虞二一ノ空席アリ。是幸ヒト座ヲ占ムレバ同席ノ一行六人連 ノ奴原連リニテ何か吾ヲ馬ル様子ナ-。然此方モ負ヌ菊ニテ馬耳東風 卜聞キ流ス。カクシテ東方自ム頃迄ハヤリ通シ八時頃漸ク 『パリス』 ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 月二十1日 ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 『マゴマ ヽ. (昨朝) 到着.海草杯ノ薙杏混雑.馴レヌ我々ハ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ゴ』 ヽ. ヽ. 宜敷侯」と善かれている。. 「南亜ヨリ蹄ル義. るだけで日記には何も書かれていない。ロンドンに来ても依然淑石は. 「方角モ何モ分ラズ」であったのだが、ここにある. 勇兵」といーぅのは'当時長期化の様相を見せていたボ-ア戦争からの. 帰還兵であったと思われる。これも雑沓が彼を「困却」させた限りに. おいて、注意を引いたのであろう。一体に淑石の方向音痴は相当なも. ので、日記には道に迷ったという記述がよく見られる。そのくせ彼が. 地図を買ったような気配はない。日本の都会を歩-のと同じやり方で. も淑石にはあまり新しい環境への適応能力がなかったものと思われる0. 行動している。道に迷うのも当然である。こういうことから判断して. ロンドンに着いた瀬石は'76GowerStreetに下宿を見つけ、十1. 月1日'ケンプ-ッジに大学の様子を見に行っているが、ケンブリッ. ジ大学の生活にはかなりの経費がかかることを発見'ロンドン大学で. 勉学することに決め'十二月までケア教授の講議に通っている。十一. 月十二日には早-も第一回目の転居(彼はロンドン滞在中全部で五回. 転居している).十一月二十二日には、ケア教授に紹介されたシェイ. クスピア学者のクレイグ先生と会い'週1回'1時間五シリングで個. 人教授をしてもらうことになった。淑石は'翌年の十月頃まで'毎週. かくして年は明けるのだが'その間にも、書簡を見ると'「倫敦も今. 火曜規則正し-クレイグ宅に通っている。十二月になって再び転居。. の'「我々はポットデの田舎者のアンボンタンの山家猿のチソテクリ. ろう。. すでに述べたとうり、ロンドンの第一印象は'十月二十九日付の日 と記されている以外は身辺雑事の短い記述があ. 記に、「方角モ何モ分ラズ且南亜ヨリ厨ル義勇兵歓迎ノ為メ非常ノ雅 杏ニテ困却セリ(gB)」. 淑石のイギリ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 侯(37)」(傍点平野)と相変らず道に迷っている。そして、同じ手紙には、. ヽ. ヽ. 張英国の事情杯は分り中間敷侯。頚念に候(PV」. と苦いて留学費の少. ぐしからず。西洋人と交際杯ほ時と金による. 「金ガ菊がヒケル程入侯.留学費でどうしてやるかが問題に侯」 り、立花銑三郎あてへの絵葉書にも'「時と金なき蔑め何れもはか. ヽ. とあ. ヽ. 一七. だ(t%)」という自噴的な感想はこの旅行中に肱胎していたと言えるだ. 日出で見たれども見督がつかず'二十返位道を聞て漸く寓居に還り ヽ. ソの土菊色の不可思議ナ人間デアルカラ西洋人から馬鹿にされるほ尤. なものであったらしい。明治三十四年になって書かれる「断片」. いずれにしても淑石一行の赤毛布ぶりは右の引用文で見る限り相当 の中. には'まだロンドンにも着かないうちから、「穣クテモ日本ガ菊楽デ. と書いて'早くも経済的な困惑を訴えている。そして同じ手紙の追伸. 三度三度外へ出テ認メ侯。夫デモ1日ノ費用七八圃ヲ下ラズ存侯(A)」. 『タドリ』ツキ侯が目付ものに侯」 (傍点平野) とあり、又、「素人屋 (宿屋ハ高クテ居ラレズ) ノ三階ヲ借り一週間滞在ノ積二供。食事ハ. ヽ. シテ途方二呉レル許リナリ。金ノカニ頼リテ夢中ニ『パリス』追. 原. リ(R)」 (以上十月二十日付日記、傍点平野)十月二十三日付でパリか ら発信された妻鏡子あての書簡を再び見てみると、「--『パリス』二. 力云フ。親切ナル人ニテ馬車ヲ雇ヒ呉レテ正木氏ノ宿迄迭り屑シタ. 原. 査如キ老ヲ掃へテ藤代氏船中1〓ア一夜造りに強強シタル俳語ニテ何. に着ス。停車場ヲ出デ、見レバ丸デ西モ東モ分ラズ恐縮の髄ナリ。巡. ヽ. 原. ヽ ヽ. ス. ヽ. ヽ.
(8) のだが、一月二盲の日記を見ると、ロンドンの霧と太陽を叙した短い. かくして年が明け明治三十四年(一九〇一)をむかえることになる. ・4. 淑石のイギリ ないのを嘆いている。. 十1月二十日発信の、ベルリソに行った藤代禎輔への絵葉書(9i)で. (ロンドンの悪. ほ、「倫敦ノ天菊ノ悪〔イ〕ニハ閉口シタヨ」とあり、物価高と天気 の悪さが'淑石のロンドンに対する第一印象であった. 天候に彼ほ終始悩まされることになる)。続けて、「君等ハ大ゼイ寄ツ テ御全盛ダネ。僕ハ濁リボツチデ淋イヨ」と早-もロンドン生活の孤 独を訴え'「英語モ中々上手ニハナレナイ。第1先方ノ言フ事ガハツ キリ分ラナイ「ガアルカラナ」と、英語力の不足を嘆いている。それ でも淑石は'「毎日多少の括た学問をいたし供(S)」と、すでに立花銑 を見ると'. 三郎への絵葉書に書いている通り、持前の就い観察眼を働らかせてい たのである.十二月二十六日付の鏡子への長文の手紙(g). 「倫敦の繁昌は目撃せねば分り乗侯位馬車、鏡道、電鋳、地下繊、地 下電繊等妹の糸をはりたる如くにて'なれぬものは慶ば迷ひ途方もな き虞へつれて行れ有之侯。陵呑に侯」 「倫敦の中央にては日本人杯杏 珍らしそうに願りみるもの一人も無之、皆非常に自身の事のみに急が. しき有様に供。さすが世界の大都合丈有之侯」と世紀末ロンドンの様 相を伝えたあと、「常地のもの1般に公徳に富み侯は感心の至り。海 事杯にても席なくて仔立して居れば下等な人足の様なものでも庸を分 つて譲り申侯」と書き、イギリス人の紳士ぶりに感心している。同時 に淑石は、日本人の公徳心の欠如を痛烈に批判して、「日本では1人 で二人前の庸を領して大得意なる愚物も有之供」 「日本で小利口な物 どもが荷車を只乗つたとか'1鏡だして繊道馬車を二匠乗つたとか、 縁日で植木をごまかしたとか'不徳な事をして得意がる馬鹿物樺山有 之供」と書いている。. さらに淑石の帰国後に書かれたものを見ると。. 「芝居は修業の為に時々行くが茸に立派で魂治る許りだ(5)」. の品性に感化を及ぼしつつあるか(S9)」. 「比国の文学美術がいかに盛大で、其盛大な文学美術が如何に国民. ものは1人も居らん(g)」. 「一般に人気が善い。我輩杯を描へて悪口をついたり罵つたりする. モ、悪口セヌハ感心ナリ(44)」. 「町を散歩シテモ公園二行ツテモ、穣ヒゴロ付見夕様ナ者二遇ツテ. 帳の必要ナシ(g)」. シラフ。英国ノ戸籍詞ハ毎年四月三度アルノ、,、ナリ。放行シテモ宿. 「英国人ハ国民ヲ正直ナル人トシテ取扱ヒ、大陸人ハ盗賊トシテア. みると'. ものの方がはるかに多いのだが'肯定的な見解の方を続けて列挙して. 的に見ると激石の'イギリス及びイギリス人に対する見解ほ否定的な. されながらも、じつとイギリス人を観察していたことが伺える。全体. 上が経過した。彼はこの間悪天供と物価高と方角のわからなさに悩ま. 言葉が書きつけられている。淑石がイギリスに到着して以来ニケ月以. ルガ如シ/何レガ自慢スル償値アリヤ試ミニ思へ(g)」という有名な. ノ如ク面倒クサガラズ/彼等ハ英国ヲ自慢ス、本邦人ノ日本ヲ自慢ス. 平野注)人二庸 (イギリス人は 文章のあとに'いきなり、「彼等ハ ヲ譲ル'本邦人ノ如ク我儀ナラズ/彼等ハ己ノ檀利ヲ主張ス、本邦人. -. ス.
(9) るか、如何に一般の人間が鷹揚であるか、色々目につ-と同時に色々. ヽ. 「外囲の巡査、倫敦の巡査などは、市民との関係甚だしつ-りとし. ヽ. 療に障る事が持ち上つて-るo時には英書利がいやになつて早-日本. ヽ. て居る。恰も友人関係である。物を問ふにも敦へるにも'甚だ町嘩で. ヽ. 様な色々な不平が持ち上つてくる(3)」. たのは'明治三五年一月三〇日'ロンドンで調印された日英同盟協約. をめぐる日本人の空さわぎであった。同年三月十五日付の中根重1あ. ヽ. ての書簡で'淑石ほ次のように書いている。「此同盟事件の後本国に. ヽ. ヽ. ヽ. 組を取結びたる害しさの飴り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものに. ヽ. ては非常に騒ぎ居候よし。斯の如き事に騒ぎ侯は恰も貴人が富家と線. ヽ. 民を堕落の淵に誘ひつ1あるかを知らざる程近親限であるか杯といふ とりわけ淑石の神経を刺激し. に空虚であるか、彼等が如何に現在の日本に満足して己等が1般の国. 菊な頚をして得意であるか、彼等が如何に浮華であるか、彼等が如何. に於て非常に欽乏して居るといふ事が菊にかゝる。其紳士が如何に平. もの」についてこう書いている。「日本の紳士が徳育、慣育'美育の鮎. をさすのだろうか。たとえば右の文のすぐあとで、「日本の紳士なる. 「たのもし-ない情けない」「日本紅合の有様」とはどのような事態. い情けない様な菊持になる(EB)」 (傍点平野). ヽ. へ蹄り度なる。すると叉日本の紅脅の有様が日に浮んでたのもしくな. ヽ. ヽ. ヽ. 役人面をしない(g)」. ヽ. ヽ. ヽ. 「西洋人といふものは大襲人道を重んずる(O'1)」. ヽ. ヽ. ヽ. 「英国といふ園は大襲自由を尊ぶ園であります.それ程自由を愛す. ヽ. ヽ. ヽ. る園でありながら、叉英書利権ど秩序の調つた園はありません(S!)」. ヽ. ヽ. ヽ. そしてついには'「公平な虚が向ふの方がどうしても立派だ。何と. ヽ. ヽ. なく自分が肩身の狭い心持ちがする(G3)」ということになり、「裏ノ草. ヽ. ヽ. 原二鶴程ナ鳥ガ夢多降リテ餌ヲ探シテ居ルカラ下女二名ヲ尋ネタラ、. ヽ. ヽ. 雀ダト云ツタo倫敦ハ雀迄が大キイ(cqLL,)」(傍点平野)といった感想をも らすに致るのである。ヨ-ロッパ大都市の繁栄ぶりにもまして、淑石. ヽ. ヽ. に強い印象をあたえたものは'イギリス国民の民度の高さであった。. ヽ. ヽ. 勿論その背景には日本国民の民度の低さが踏まえられている。全体に. ヽ. ヽ. ある国の民度の高低といったようなものほその国を実際に訪れてみな. ヽ. ヽ. いとわからない。淑石がイギリスに来る以前に書かれた日記書簡の類 を調べてみても、イギ-ス人の民度を問題にしたような条りはどこに も見あたらないのである。どれほど書物を読んでみても'それによっ. て形成される外国像は所せんは「観念」であるにすぎない。貴婦人と 握手するために、あぶらを消す白粉などを手に塗って得意然としてい. た頃の淑石も、西欧をただ「観念」として眺めていたのである。 彼我の文化的落差に淑石は強い衝撃を受けた。日記に何気な-書か れている、「倫敦ハ雀迄ガ大キイ」という余りも、そういう彼の心理 状態を考慮に入れると意味を持ってくる。そして、『倫敦消息』には 当時の淑石の心境が的確に記されている。「英閑には武士という語は. ヽ. ヽ. ヽ. 侯ほん。固より今日国際上の事は道義よりも利益を主に致し居供へば、. 前者の襲達せる個人の例を以て日英間の事を喰へんは妥常ならざるや (傍点平野). ここで淑石が撃っているものは、日本. の観も有之べくと存供へども'此位の事に満足致し侯様にては甚だ心 元なく被存侯(EB)」. 人の主体性と自覚の欠如である。英国民と日本国民の民度の落差は'. い-らしゃ-にさわっても'事実であったから仕方がない。淑石が耐. え難く思ったのは自分の国が三等国であるという事実を無視して無闇. に一等国にこびへつらい、1等国気分になっている'総体としての日. 一九. ないが紳士と〔いふ〕言があつて、其紳士は如何なる意味をもつて居 淑石のイギリ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ ヽ. ス. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ ヽ.
(10) 淑石のイギリ. 本人の態度であった。 「日本が寓事二於テ西洋ヲ崇拝スルハ患ナリ」と彼は「断片」に書 いている。叉、日記には、日本は、「只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ. 治化スルニ畷ナキナリ.文学モ政治モ商業モ皆然ラン。日本ハ真二日 ガ醒メネバダメダ(57)」と善かれている。 かくして、当初はまず、日本人の全般的な民度の低さが気になった. のだが、次第に彼は、イギリスという世界の大国にこびへつらい、そ れを模倣する、日本人の卑屈さ'創造性の欠如に腹がたつようになっ ていったのであるo「日本人は創造力を軟ける国民なりQ維新前の日本 人は只管支部を模倣して喜びたり。維新後の日本人ほ又専一に西洋を 模擬せんとするなり。憐れなる日本人は専一に西洋人を模擬せんとし て、経済の鮎に於て便利の鮎に於て叉婆作後に起る過去を慕ふの念に 於て、途に悉く西洋化する能はぎるを知りぬ--(中略)--日本服に. 将来と云ふ問題がしきりに頭の中に起る(0'LD)」と彼は書くのである。. 日本ノ前途ヲ考フ(EB)」「色々な事を見たり聞たりするにつけて日本の. ここに淑石のジレンマがあったQそして、「夜下宿ノ三階ニテック∧㌔. 二〇. 日本の姿に淑石の心ほ痛んだ.だが日本が移入に狂奔してい. 異質の文化を、「只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ消化スルニ暇ナ 辛(S)」. る西欧文化なるものは、はたして、それほど価値のあるものなのだろ. うかという疑問が彼にはきざしてくる。最初はやたらと感心させられ. たイギリス国民も、時がたつにつれて、彼の前にその欠点をさらけ出. してくる。明治三十四年1月十二日付の日記で'彼ほこう書いていかo. 「西洋人卜見テ妄リニ信仰スべカラズ、文芸-ニ恐ルべカラズ(61)」こ. れはイギリス人と言えどもイギリス文学については無知な者が多いこ. せんとして合する能はぎるの有様なり(節)」と彼ほ「断片」に苔-。こ. ぎる可らず。美術に文畢に道徳に工商業に東西の分子入り乱れて、合. いなかったのである。また、クレイグ先生にメレディスのことを質問. た淑石にして、イギリスに来る以前はこの程度の外国認識しか持って. 然と言えばあまりにも当然のことである。当時第一級の知識人であっ. とに気づいた驚ろきを記したあとに述べられている感想なのだが、当. こで激石は文化移入の根本的な問題につき当っている。即ち東西文化. すると、彼は「少しも知らないo. inte))ectヲ信ズべカラズ(a)」と書-のである。. ここでは、「英語の書物を悉-讃まねばならぬ讃はない、耽るに及ば. 色々言讃をした(cqtD)」 のであるが、. の異質性である。異質の文化を竹に木をつぐように移入していたのが、. ぬ事だ(SH」と、余裕をもって記している.そして、「断片」に、「妄 リニ西洋ノ. は好んで西洋の文化を移入していたわけではなかった。西洋文化を移. 云ハル、ヲ名響トスべキナリ(57)」. ス人のある側面が実にこっけいに、そして下品にさえ映るのである。. う言葉をつけ加えてもよいであろう。彼の「儒教的」感覚にほイギリ. ら倫敦杯にはむかない(LDw)」と書いているが、ここに、「儒教的」とい. 淑石ほ、寺田寛彦への書簡で、「僕の趣味は頗る東洋的語句的だか. 入して国を「近代化」することに日本の存亡がかかっていたのである.. 国民ナ---(中略)--心アル人ハ日本人卜呼パル、ヨリモ支那人卜 と極論している。だが明治の日本. んでいた中国人と比較して'「支那人ハ日本人ヨリモ造カニ名著アル. 明治の日本であったが、それはただ自らを醜-するだけである、とい うことに彼は気がついた。そして、外国文化の移入を頑固なまでに拒. 帽子は先づ調和せられたりと云はん.洋服に足駄は途に不調法と云は. 5. ス.
(11) ヽ. 程気になっていたのか'「断片」にも、「西洋人ほ往来でkiss 男女妙な真似をする(節)」と書きつけている.. ヽ. 日本にはそんなのはない(otl)」. と結論するのであるo. と皮肉たっ. 日本人二勝ルトモ その他淑石の、東洋的発句. 「西洋人ハ・執濃. 分ル。建築及飾粧ヲ見テモ分ル。夫婦間ノ接吻や抱キ合フノヲ見テモ. イ「ガスキダ.華麗ナ「ガスキダ。芝居ヲ観テモ分ル.食物ヲ見テモ. 「嘗地のものは天菊を菊にかけない.禽獣に近い(7)」. 的そして儒教的な感覚に映った、イギリス人の種々相をあげてみると、. 劣ルべカラズ(E!)」. イの虞ガアル(71)」と書いて、「英国ノ不品行ナルヾ. 「英国デ女ノ酔漢ヲ見ルハ珍ラシクナイ.Pub)icHouse杯ハ女デーパ. ぷりに書いている。そして、日本では珍らしい女の酔漢に驚ろき'. 居る。其心掛丈ほ感心だ0. 国の兆なりと云ヘリ(田)」 「英国の或女ハ自分共ハ男子ヨリ飴程純潔ダ ト思ツテ居る。従って男子を純潔ならしむるほ姉人の義務だと心得て. が'イギリスの女性に対しても'「或人ハ英国ノ女ノ背ノ高を見て亡. と尾到しているのである。また、全般的に淑石の女性観は辛妹なのだ. -回想しているクレイグ先生を'この時ばかりは'「卑シキ奴ナリ(髄)」. まず考えられないことだ。淑石は後に、『永日小品』の中でなつかし. 払ってくれと言われて淑石は驚ろく。日本人の儒教的な金銭感覚では. ある日'クレイグ宅で、彼に英文の添剛を依頼すると'余文の金を. シタリ、. たとえば'日記にほ、「男女ノ封此所彼所ニbenchニ腰ヲカケクリ シタリ。妙ナ国柄ナリ(i)」. 草原二坐シタリ.中ニハ抱合ツテkiss. ヽ. (傍点平野) と害いてい各が、この西洋では極-あたりまえの風習が余. ヽ. 分ル(E)」o「西洋人は感情を支配する事を知らぬ.日本人は之を知る.. 程ツマラナイ老はない。内の猫が何疋子を生んだとか御隣りの犬がよ -吠えるとか、常然の事をさも面白さうに仰せられる(E=)」 という具 合になる。. とりわけ淑石の日を引いたのは、繁栄の絶頂にあった当時のイギリ. ス資本主義が一方では恐るべき貧困を生み出していることであった。. 「欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致侯.此不平. 均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめ、若くは無教育に終 らしめ却つて平凡なる金持をして愚なる主張を賓行せしめる懐なくや. と彼は中根重一への書簡に書いている。そして、マルク. スと淑石という組合わせはいささか唐突な感じがするのだが、「カ-. ルマルクスの所論の如きは単に純粋の理窟としても訣鮎有之べくとは. 存侯へども'今日の世界に此詮の出づるは普然の事と存侯(乃)」と書 -。これはかつて、『倫敦消息』で、「此園の物質的開化がどの位進歩. して--」云々と書いた頃の淑石の見解とは全-道になっている。. 激石は、イギリスの「物質的開化」、イギリス人の国民性に感心し. ながらも'イギリスでの生活がどうしても肌に合わなかったのである。. 彼自身が'「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり(釦)」 と後に回想しているが'留学生活の中でおしよせてくる、日本にいる. 時とは勝手のちがう状況がことごとく彼の痛にさわるらしかった。. (この点でドイツ生活を満興した森鴎外とは対照的であった。) 「此倫 敦のコックネ-と僻する言語に至つては我輩には到底分らない(臥)」 と言うがごとき言語的障壁'「やかまし-つていや(a)」な「馬車電鋳. 地下繊高来城道(83)」が引きおこす喧騒'「空菊が臭い'汽車が揺れる、. 只でも吐きそうだ。まことに不愉快極まる(a)」「倫敦ノ町ヲ散歩シテ. 二」. 試・,,ニ吠ヲ吐キテ見ヨ。異黒ナル塊リノ出ルニ驚クべシ(t8)」と言う. 原. ヽ. 西洋人は自慢する事を慣らない。日本人は謙遜する(75)」「西洋ハ寓事. と存侯(oote)」. ヽ. 大袈裟ダ'水マキ、引越串'家、qエフ-(Ee)」T此地ノ.Sma))talks 激石のイギリ. ス.
(12) 淑石のイギリ.ス と言うがど. という電報を打ったのはこの直後であ. 「神経病カト怪マル」という言葉があらわれた明治三十四年七月前. ったらしい。. 文部省あてに、「夏目狂セリ」. 方から服装から寓事窮窟で行かぬ(S5)」と言うがごとき勝手のちがう. 「少しの我慢だ、我慢しろ. なって行ったのだが、「西洋ノ紅脅ハ愚ナ物ダ。コソナ窮窟ナ紅合ヲ l髄ダレガ作ツタノダ(静)」. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. は望めないので、「下宿龍城主義」を取ることにしたと述べ'「戸や障. ってくる三度目の下宿に困惑して 子のスキからピユ-i風が這入」. いる二二月九日付'鏡子宛の書簡(S)では、「其後閑から便があるかと. 思っても一向ない」と書き、鏡子に手紙を要求し'「早く日本に蘇り. たい」と結んでいる。四月二十五日ロンドン市内のTootingに四度. 目の転居。Tootingとこの下宿については、「聞シニ劣ルイヤナ虚デ. ロンドンに到着したのは明治三十三年十月二十八日であったから'そ. という言葉が日記にあらわれるのは、明治三十四年七月一目である。. 学の助教授で、理学者の池田菊苗(淑石より三歳年長). と書き'住居に対する不満でいら立っている。五月五日の日記には、. リ」(四月二十六日、日記)、「叉移り度ナツタ」(四月二十七日、日記). イヤナ家ナリ」、「朝TootingStation附近ヲ散歩ス。ツマラヌ虚ナ. の時からほぼ八ケ月が経過したことになる。明治三十四年三月二十九 った旨の記 日の日記には、胃腸薬の 「カルルス.,(-ドl瓶ヲ買(Su」. イツからやってきて、淋石と同じ下宿に住むことになった。この池田. のことで、ド. 「朝地田民衆ル(S;)」とあるが、池田氏とは、当時東京帝国大学理科大. 述が見えるoおそら-ロンドン生活のいらいらが淑石の胃の神経を狂. 菊苗については、「夜十時過迄池田氏卜話ス」(五月六日'日記)、「池. 田氏卜英文学ノ話ヲナス。同氏ハ頗ル多讃ノ人ナリ」芸月九日、日. 記)、「池田氏卜世界観の話、稗畢ノ話杯ス。氏ヨリ哲学上ノ話ヲ聞 ク」(五月十五日、日記)とあるとうり'教石は彼からかなり深い精. したまま、ただ泣きくれているというのである。淑石に同情した晩翠 は十日捻ど淑石のそばについてやるのだが、その結果淑石がやはり異. 常であるという判断に達した。晩翠の話を聞いた岡倉由三郎が日本の. 善かれている。. 翠であったらしい(a;)。晩翠が'淑石の下宿のおかみである',,、ス・ リ-ルに問いただしてみると'驚ろくべき答がかえってきた。彼女に. ヽ. よれば'淑石は、部屋に閉じこもったきりで、灯りもつけずまっ暗に. ヽ. 神的影響を受けたらしい。ベルリソへ行った藤代禎輔宛の書簡にも、 「目下は池田菊酉氏と同宿だ。同氏は頗る博学な色々の事に興味を有 して居る人だ.且つ頗る見識のある立派な品性を有して居る(S;)」と. ヽ. 本人は、当時やはり英文学研究のためロンドンに滞在していた土井晩. わしていたのにちがいない。淑石の異常な状態に気がついた最初の日. (傍点平野). をいつて寝て仕舞ふ(鮒)」「もう英国も厭になり侯(91)」等と書くことで 欝慣を晴らす以外に方法はなかった。 ヽ. そして'「近頃非常二不愉快ナリ.神経病カト怪マル(SO」. ヽ. 狩野、大塚'菅'山川宛の書簡では、二年程度英語を勉強しても上達. 後の淑石の内面をもう少したどってみることにしよう。二月九日付のI. 「西洋は家の立て. がごとき大都会ロンドンの公害、「西洋食にほ厭々致侯」 ときイギリスの食事のまずさ'「菊骨が折れる(86)」. 二二. 生活習慣'「吾輩は日本に居っても交際は嫌いだ。まして西洋へ来て こう. いったものが積み重なっていくにつれて、淑石は次第におおらさを失. うがごとき'彼自身の非社交的な性格に起因する孤独な生活. 無群青なる英語でもつて窮窟な交際をやるのは尤も厭ひだ(お)」と言. -、と濁り言 -. 原.
(13) ヽ. おそらく池田の影響かと思われるが'この頃の淑石には'再び英文 学への疑問がわき上ってくる。同じ'藤代宛書簡の最後には、「近頃 は英聾者なんてものになるのは馬鹿らしい様な感じがする。何か人の. 鳥や園の為に出来そうなものだとボンヤリ考へて居る」(傍点平野) 書かれているし'この頃記されたと思われる「断片」には、「我輩は といった自噺的な言葉が見える。さ. らに、九月十二日付寺田寅彦宛書簡(guでは、「英文学なんかは橡の下. にほ『文学論』 の構想がかなり熟してきたらしく、「目下日夜讃書と ノ-トをとると自己の考を少し宛か-のとを商買に致供。同じ書を著. はすなら西洋人の糟粕では詰らない。人に見せても1通はづかしから. ぬ老をと存じ励精致居候」 (傍点平野) と自己の努力ぶりを開陳し、. り人生を如何に解樺すべきやの問題に移り'夫より人生の意義目的及. 「小生の考にては『世界を如何に観るべきや』と云論より始めて、夫よ. び其活力の弊化を論じ、次に開化の如何なる老なるをや論じ、開化を構. 造する諸原索を解剖し'其聯合して襲展する方向よりして文垂の開花. に及す影響及其何物なるかを論ずる積りにて侯。斯様な大き〔な〕事故. 出来まいか。狩野君から上田君に話して箕ひたい」と書き'フランス. 淑石は'「四ケ月か五ケ月でいt・^が留学延期をして併蘭西に行く事は. 九日付の、すでに引用した、狩野'大塚、菅、山川宛の長い書簡で(S)I. 二日付の書簡では'「其許の手紙にはそれやこれやにて音信を忘たり 『それやこれや』とは何の言辞やら頓と合鮎不参侯(S)」 云々とあれど と言い、妻の筆不精に怒りを爆発させている。また明治三十四年二月. 侯(S)」と、妻から便りのないのをいぶかり'ついに明治三十五年二月. で、「其許よりほ一向書信無之、或は公使館追に滞停致し居るやと存. 再び明治三十四年にもどってみると、八月十日付、夏目鏡宛の書簡. にすぎなかったという事情も考慮に入れてよいであろう。. 名を世に知られていたのに'淑石自身は未だ全-無名の高等学校教師. せりを見ることもできる。淑石の後輩にあたる高山樗牛はすでにその. をすぎていながら、未だに何らの学的業績もあげていなかった彼のあ. としている瀕石の姿を見ることができるし、また、当時すでに三〇歳. (傍点平野) と書く。ここにほ、英文学研究の空虚さを必死でうめよう. 哲学にも歴史にも政治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致侯」. ヽ. 解ると英語を覚るのである(翌」. Tooting. ヽ. の力持。日本へ蘇っても英書利に居ってもあたまの上がる淑は無之 侯」「僕も何か科学がやり度なつた」とあり、カ月二十二日付'夏目. 鏡子宛書簡(5)にも'「近頃は文学書は嫌になり供.科挙上の書物を讃. Leale. ヽ. ヽ. の下宿に. ヽ. ヽ. み居候。常地にて材料を集め蹄朝後1奄の著書を致す積り」という言 葉が見える。. Commonの. ヽ. ヽ. 話は前後するが、六月二六日には、話ばかりしておたがいに勉強し Chase.Clapham. ないので、池田ほケンシソトンに移り、淋石も七月二〇日 から8)The. ヽ. ヽ. 執った。これは、ロンドンでの、淑石の五度目にして最後の転居であ った。これ以後は、翌明治三十五年十二月に帰国の途につ-まで、彼. ヽ. ヽ. はこのミス・リ-ルの下宿に日夜こもり、『文学論』執筆のための読. ヽ. ヽ. 『文学論』をさしていたのであり、「科学上の書物」とは、. ヽ. ヽ. 書ノ-トづくりに没頭することになる.「l奄の著書を致す積り」 は、この. ヽ. ヽ. 心理学'哲学'生物学等々の書物を読んでいたことをさしているので. ヽ. ヽ. ある。だが、帰国後東京帝大で淑石が行なうことになる英文学の講議. ヽ. ヽ. は、「理屈っぽい」という理由で、皮肉にも学生の不評をかうことに. ヽ. 二三. なるのである。. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. 明治三五年三月十五日付の中根重一宛の書簡(101) を見ると、この頃. ヽ. ヽ. 淑石のイギリ. ヽ. ヽ. ス. ヽ. ヽ. Miss. と と. ヽ. ヽ.
(14) 激石のイギリ. 妙な印象を与える。しかし勿論ロンドンに失望していたということも. 行を希望している。フランスと淑石といった取り合わせは何となく奇. ス. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. (明治三十九年三月『文章世界』) という短文には'「日本新聞に. る。たとえば、ずっと後になって書かれた「余が文章に神島せし書. あるが、淑石は以前からフランスという国に関心をもっていたのであ. ヽ. ヽ. なり強くのこっているし. (イギリス人が大陸に族行しょうとする時、. 「これから私はヨ-ロッパに行く」という表現をする人が現在でもい る)、イギリスを基体として形成される西欧観は一面的なものになら ざるをえないからである。明治三十四年九月二十二日付、夏目鏡子宛. 書簡(EO を再び見てみると'「近頃少々胃弱の菊味に侯」「外食を致す. ヽ. ヽ. 故猶閉口致侯」「只今本を讃んで居ると切角自分の考へた事がみんな 書いてあつた。忌々しい」等と書いたあと、「留学延期(併園へ)の件周 旋横み置侯虚、延期は文部省にてl切開き届けぬ由につき泣寝入に. 持が読みとれる。 その他、「断片」には、「骸骨ノ上ヲ粧フ花見かな(S)」. (これは鬼貫. ヽ. イギリスは本質的にはヨ-ロッパではないという考え方は現在でもか. 観は少しばかり異なったものになったかもしれないからである。また、. のは、淑石がもしフランスにかなり長く滞在したとすれば、彼の西欧. 行の希望はあっさりと断わられてしまった。残念なことにと私が言う. 持っていたことがわかるのである。だが残念なことに淑石のフランス. に入れても、淑石はフランスという国とその文化に並々ならぬ関心を. ス語ができないのを、あっちこっちでかなり気にしていることを考慮. 載つた繊長谷といふ人の 『巴里通信』を大壁面白いと思つた。其頃ひ ど-愛讃したものである(5)」 (傍点平野)と書いている.そしてフラン ヽ. (傍点平野) とあり、「泣寝入に侯」という言葉に淑石の残念な気. ヽ. 二四. おびてせまってくるのである。. れも当時の淑石の心理状態を考慮に入れてみる時、不気味な意味合を. よ(捕)」とかいった全く意味不明の言葉が書きつけられているが、こ. ガアルカイ/ア、有ルヨ、魚ガ居るか居ないか受合はないが鞄は僅か. してあらわれたと言うべきであろう。また同じ「断片」には、「○池. リス生活尼対する淑石の生理的、感覚的嫌悪が凝縮した形で、期せず. が書きつけられている。しかし「兵卒御免ネ-」という表現にはイギ. ない」といった、一見すると淑石のユ-モアとも取られかねない言葉. 陥っていた精神的困却を考慮に入れると不気味である)'「責平御免ネ -と云ひ度い「があるが是を英語に翻弄すると何と云つていゝか分ら. た俳句が書きつけられていたり(骸骨というイメ-ジほ、淑石が当時. の句「骸骨の上を粧て花見かな」をもじったものらしい(107))といっ. にあるよ(%J]とか、「『晃闇だ. な刺激を受けなくなってしまっていたのではないだろうか。ロンドン. な原因は'淑石はもはや英国という国とロンドン生活から何ら精神的. 日記を書く余裕もなかったのかもしれない。しかし何と言っても大き. ていたし'例のノ-ト作りと読書に大部分の時間を費していたため'. ひどく簡単になってしまっている。「神経病」の方はますます悪化し. のは、明治三十四年四月頃までで、それ以降は途切れるまで、記述が. 石は日記を書いていないのである。しかも比較的長い記述が見られる. いる。帰国は明治三十五年の十二月だから'はぼ一年にわたって、淑. 資来ル。文部、中央金庫へ受取ヲ出ス」という記述を最後に途切れて. ロンドン滞在中の淑石の日記は'明治三十四年十一月十三日'「学. 6. 籍」 ヽ ヽ. 侯」.
(15) 出せなぐなってしまっていた、と言ってよいのではないだろうか.. における己が生活とそこでの日々の感想を記録することに価値を見い. た.医者が'「部屋に閉じこもつてノ-トを前にして泣いている金之. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. と書いている。. 「甚だ困却致侯」という言葉の背後には淑石の怒りがこめられていた はずだ。当時、政府出張の役人や民間会社の出向社員などに-らべれ ば'自分の待遇はひどく悪いと淑石は考えていたからである。そうい った余裕のある連中が寄附をすればよいのであって淑石のような貧乏 留学生が五円という大金の寄附などをする義務はないはずだ'という のが彼の考えであったにちがいない。そして'すでに述べたように、. この同じ手紙の中で'彼は、この同盟をめぐっての日本人の空騒ぎぶ りを痛切に批判し、彼にしては珍らし-、経済問題社会問題を長々と 論じているのである. 一方淑石の「神経病」はいっこうに良-なるどころか'この年の秋 頃からは、部屋にこもって泣きくれているといった日々が続-ことに. なるのである。土井晩翠が淑石の異常を発見したのもこの時期であっ. したが、この間、文部省から. けていないので、この間'彼が何を考えていたのか'わからない。. 句を五句ほど作っている.帰国途上の長い航海でも、淑石は日記をつ. 友正岡子規の計報が帰国直前にとどいたが、これについて、淑石ほ俳. ドンを出発、帰国の途についたのであった。九月一日に死去した、親. 石は、藤代禎輔よりも二船お-れて、明治三十五年十二月五日、ロン. てて買った「書物の山の中に坐りこんでいた(a)」のである。結局淑. 代と同行することを頑として受けつけなかった。彼は、帰国旅費をあ. 渡ったのだが'淑石は、帰国日時の変更を船会社に申し出ていて、藤. いた藤代禎輔は、知らせを受けて、淑石を連れ帰るためにロンドンに. 護蹄朝スべキ旨俺達スべシ」という電報が送られていた。ベルリソに. 日本公使館を通じて岡倉由三郎宛に、「夏日精神に異常アリ。藤代へ保. スコットランドのピトロクリに旋行(114). かわらず'「速に物にならざるなり」と彼は書いている。一〇月には. せるまでにはいたらなかったのである。さんざん悪戦苦闘したにもか. すめられて、始めたものであったが'彼はついに'自転車をのりこな. とがわかる。後に 『自転車日記』という作品に善かれることになる、 自転車の椿古は'下宿の女主人,、、ス・リ-ルと、同宿の大塚武夫にす. 助を、やさしくさとして馬車に乗せて病院に連れて行っ(=・・)」 た、とい うような事態を考えても、淑石の精神状態はかなりのものであったこ. 「神経病」とはいえ'一方では読書とノ-ト作りはやっていたのだか ら'日記程度のものは書く意志さえあれば当然書けたはずである。後. 『文学論』序で回想しているところによると、「余が蒐めたるノ-は蝿頭の細字にて五六寸の高さに達したり(3)」という程の勉強ぶ りだったのである。 年が明けて明治三十五年になると、一月三〇日、日英同盟協約が調 印され、ロンドン在留日本人会なるものがおせっかいにも、林公使の. 労をねぎらうために募金活動を行ない、淑石も五円寄付させられてい る。五円といえば当時の淑石には大金であって、三月一五日付中根重 ヽ. 一宛書簡(111)で'「小生も五圃程寄附致侯。きりつめたる留学費中まゝ ヽ. 如斯臨時費の支出を命ぜられ甚だ困却致侯」(傍点平野). ヽ. 淑石のイギリ. 激石ほ、明治三十六月一月二十三日、神戸に到着した。そして帰国. したからといって'すべてが済んだわけではなかった。まことに、. 「深-cross・cu-tura-な体験を味わった老は、そのことによってかな. 二五. ヽ. ス. 7. に.
(16) ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 欺石のイギリ. ヽ. 石の、明治の文明開化に対する'帰国後に新たに感じた感想と考えて ヽ. らず傷つかざるを得(=)」ないのであって'淑石の西欧体験は生涯彼. ヽ. よいだろう。このような「千襲寓化錯綜して現今の様に混乱した開化 ヽ. に重-のしかかるのである。「蹄朝後の三年有年も亦不愉快の三年有. ヽ. イギリスにいた時と. ヽ. 半なり(1)」と彼は『文学論』序に書いているo. ヽ. という不思議な現象(g3,.)」 (傍点平野)は'何も'東京市街の破壊と建設 という外形的な事物のみに現われているばかりではな-、日本人の内. ヽ. (傍点平野)のであっ. て、本質的なものを見失ない、ただ右往左往しているだけなのだ。. れた三宮年の活動を四十年で繰り返している(5)」. 面をもむしばんでいたのである。「明治の思想は西洋の歴史にあらわ. ヽ. はちがう新たな不快感が始まるのである。続けて'彼は、「去れども. 余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得 ず」と書-。日本の状況がいくら不快であっても'今度は脱出するこ とは不可能である。 激石は帰国してあらためて日本という国を眺めた時、おそらく深い 絶望にとらわれたのである。正確に言えば日本そのものにではなく、 日本の「開化」に深く絶望したのである。たとえば、『三四郎』とい. ヽ. (傍点平野). のを見る。. 広田先生の日本批判ほさらに辛妹だ。三四郎は、浜松駅で車窓からI. 「西洋人が四五人列車の前を行ったり来たりしている(9)」. そして、「こういう派手なきれいな西洋人は珍らしいばかりではない0. すこぶる上等に見える。三四郎は1生懸命みとれていた.これではい. ばるのももっともだと思った.自分が西洋へ行って'こんな人の中へ. のである。. (広田先生)も、. 「今行き過ぎた、西洋の夫姉をちよいと見て、『ああ美しい』」と言う. だけではなかった。汽車の中で知り合った「例の男」. 外人コンプレックスが投影されている。そう感じていたのは、三四郎. という条りには'留学中、イギリス人に囲まれて感じていた、淑石の. はいったらさだめし肩身の狭い事だろうとまで考えた(望」. ヽ. う小説をとりあげてみよう。この小説の舞台は'日露戦争終結後の東. ヽ. ヽ. 京に設定されている。即ち、明治四十一年頃の東京は、主人公三四郎 の限を通して'次のように描写されている。 「最も驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないという事 であった。しかしどこをどう歩いても'材木がほうり出してある'石. が積んである、新しい家が往来から二三間引っ込んでいる、古い蔵が 年分取り-ずされて、心細-前のほうに項っている.すべて物が破壊 されつつあるように見える。そうしてすべての物がまた同時に建設さ (傍点平野). ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. れつつあるように見える(cos)」. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 「どうも西洋人は美しいですね」と言った。. ヽ. ヽ. このような混乱状態に三四郎はついていけない.自分ほ現実世界に. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. 二六. ヽ. ヽ. ヽ. 三四郎は別段の答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。する. ヽ. 接触していないと感ずる.そして'「世界はかように動揺する.自分. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. 「お互いは哀れだなあ」と言いだした。「こんな頚をして'こんなに. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. 弱っていては、いくら日露戦後に勝って、一等国になってもだめで. ヽ. ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ. と髭の男(広田先生1平野注). すね。もつとも建物を見ても'庭園を見ても'いずれも顔相魔のと. ヽ. ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ. は、. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. はこの動播を見ている。けれどもそれに加わる事はできない.自分の. ヽ. ヽ. ス ヽ. 世界と、現賓の世界ほ一つ平面に並んでおりながら、どこも接解して ヽ. いない.そうして現賓の世界は、かように動揺して、自分を置き去り ヽ. ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ ヽ ヽ. にして行ってしまう(3)」 (傍点平野)という三四郎の感想はそのまま淑. ヽ. ヽ ヽ ヽ ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ ヽ. ヽ.
(17) ヽ ヽ. これは、永井荷風も顔まけするはどの痛烈な文明批判である。日本. い」と言ってまたにやにや笑っている(a).(傍点平野). ものなんだからしかたがない。われわれがこしらえたものじやな. るものは何もない。ところがその富士山は天然自然に青からあった. ないでしよう。-・・・あれが日本1の名物だ.あれよりほかに自慢す. 展覧会とかいった'バタ-さいものに囲まれ、彼はそういういった環. 建物とか、青ペンキ塗の洋館とか、『ハムレット』の上演とか、洋画. ではない'東京での三四郎の生活は'市電とか、ハイカラな煉瓦造の. た母の手紙とか、やはり母がお-って-れたひめいちの粕漬といりた ような伝統的なものを何とな-恥かしいと思っている。美禰子ばかり. ことほ伝統的日本といってもよい)出の三四郎は'田舎の噂話を書い. る。その性格も伝統的な日本の女とは異っている。一方田舎(という. ったふうに、その生活スタイルは徹底的に「洋風化」されたものであ. の香水を用い'教会に通い、洋室に住み、洋画家のモデルになるとい. にほ富士山しか自慢するものはないというのは'おそらく'帰国後の. 境にとけこめないでいる。そういう三四郎の異和感を代弁してくれる. あなたは東京が始めてなら'まだ富士山を見た事が. 淑石の実感であったのだろう。そして、三四郎は'「しかしこれから. すると国賊取り扱いにされる」と考えるのだが'そういった雰囲気は 何も熊本だけにあったのではな-'日露戦争勝利後の日本のいたると ころにあったのである。そして、文化とか文明とかいったものの本質. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. してからが、三四郎には、「いつ見ても神主のような頚に西洋人の鼻 をつけている」と映るのである。 ヽ. められた淑石の予見力をわれわれは、とっくりとかみしめてみるべき だろう。経済大国になったといってうかれている現在の日本にもこれ はあてはまるかもしれないからである。. 『三四郎』という小説は、主人公三四郎の、美禰子に対する淡い恋 心の発生、進展'消滅を軸として展開するのだが、三四郎と美禰子と の関係にある種の図式化をもちこむことができるように思える.即ち、. ヽ. いささか、バランスを失した考え方と映るo. 二七. 「先生ほ東京がきたない. とか、日本人が醜いとか言うが、洋行でもした事があるのか」と三四. て見ると寛にばかげている。けれどもだれも菊がつかない'平気でい る(望」というのが広田先生のなげきなのだが'それも'三四郎には、. こういった古い伝統的なものと'ハイカラなものとを'「二つ並べ. 点平野). 「時代錯誤だ.日本の物質界も精神界もこのとおりだQ--(S)」(傍. アナクロニズム. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 三四郎-日本'美禰子=西洋(文明開化). 淑石のイギリ. ス. 図式がそれであるo莫繭子は、サンドイッチを作り'ヘリオトロ-プ. という'いささか磯械的な. ヽ. 少し行-と古い寺の隣の杉林を切り倒して'きれいに地ならしを した上に'青ペンキ塗りの西洋館を建てている.鹿田先生は寺とペ. ヽ. ヽ. ヽ. を実見してきた淑石にとって、それが実に滑椿に映ったのだ。その後. ヽ. ヽ. ンキ塗りを等分に見ていた。. ヽ. ヽ. の日本の歴史を考えてみる時'この「亡びるね」という短い言葉にこ. ヽ. 四郎は'「熊本でこんなことを口に出せば'すぐなぐられる。わる-. は日本もだんだん蒙展するでしよう」と言って'日本を弁護するのだ. -. かのように、広田先生は痛烈な文明開化批判を放つ。その広田先生に. ころだが、. ヽ. が、男はただ'「亡びるね」とひとこと言って沈黙するのである。三. ヽ.
関連したドキュメント
Dans cette partie nous apportons quelques pr´ ecisions concernant l’algorithme de d´ eveloppement d’un nombre et nous donnons quelques exemples de d´eveloppement de
Il est alors possible d’appliquer les r´esultats d’alg`ebre commutative du premier paragraphe : par exemple reconstruire l’accouplement de Cassels et la hauteur p-adique pour
On commence par d´ emontrer que tous les id´ eaux premiers du th´ eor` eme sont D-stables ; ceci ne pose aucun probl` eme, mais nous donnerons plusieurs mani` eres de le faire, tout
Le r´ esultat d’Aomoto s’exprime en fait plus agr´eablement en utilisant des polynˆ omes de Jacobi unitaires, not´ es P n (α,β) (x), cf. Ce sont les polynˆ omes
Cotton et Dooley montrent alors que le calcul symbolique introduit sur une orbite coadjointe associ´ ee ` a une repr´ esentation g´ en´ erique de R 2 × SO(2) s’interpr` ete
Pour tout type de poly` edre euclidien pair pos- sible, nous construisons (section 5.4) un complexe poly´ edral pair CAT( − 1), dont les cellules maximales sont de ce type, et dont
[r]
• View reference designs, design notes, and other material supporting the design of highly efficient power supplies