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Vol.67 , No.2(2019)052張 文良「普寂の『大乗起信論』観」

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Academic year: 2021

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普寂の『大乗起信論』観

張   文 良

はじめに

江戸時代の僧である普寂(1707–1781)は,一生涯,中国浄土宗の善導(613–681) と南山律宗の創始者である道宣(596–667)を尊んだため,一般に「浄土律僧」1) と称されている.実は,その晩年,彼は主に華厳宗の研究に精力を注いでいた. 1763年から1781年までの間,江戸時代の高名な浄土宗の寺院である増上寺で, 法蔵(643–712)の『五教章』,『探玄記』,『大乗起信論義記』(以下,『義記』と略す) などを講じ,さらに,『華厳五教章衍秘鈔』(五巻),『探玄記発揮鈔』(十巻),『大 乗起信論義記要決』(三巻.以下,『要決』と略す)などを著し,法蔵の立場に立っ て華厳思想を新たに解釈すると同時に,法蔵以後の中国,日本の華厳宗思想家の 思想を再評価しようと試みた.江戸時代には,普寂にやや先行して活躍した華厳 宗の僧侶である鳳潭(1659–1738)という人物がいる.鳳潭も法蔵の『義記』に対 して,『大乗起信論幻虎録』(以下,『幻虎録』と略す)という注釈書を 述している. 注目すべきは,普寂の『要決』において,鳳潭と彼の『幻虎録』がまさに批判対 象の一つであることである.鳳潭と普寂は,江戸仏教の代表的な学者であるた め,『要決』の思想的立場と,普寂の鳳潭に対する批判を考察することで,我々 は,江戸時代の仏教学者たちが,どのように法蔵の『義記』を理解していたのか を把握することができるばかりでなく,普寂と鳳潭の『義記』に対する異なる立 場を比較することによって,華厳思想が日本において展開した複雑な様式につい ても認識することができるであろう.以下に,『要決』の内容を中心に,普寂の 『大乗起信論』観を考察したい. 1

.法蔵の『義記』の思想史的位置づけについて

法蔵の『義記』の原本は,唐末,すでに中国で散逸してしまった.そのため, 唐末以降の中国では,宗密(780–841)の『大乗起信論疏』が流行していた.『大

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乗起信論疏』において,宗密は全体的には法蔵の思想を継承しながらも,法蔵の 立場を修正している箇所もある.例えば,法蔵は『大乗起信論』(以下,『起信論』 と略す)の位置づけを,一切衆生に仏性があるとする思想を宣揚している「大乗 終教」としているが,宗密は,『起信論』を「大乗終教」と位置づけながらも, 同時に,「頓教」も兼ね備えたものであると説明している.さらに,宗密は法蔵 の『義記』において説かれる「四宗」説(随相法執宗,真空無相宗,唯識法相宗,如 来蔵縁起宗)に基づき「五宗」説(随相法執宗,真空無相宗,唯識法相宗,如来蔵縁起 宗,円融具徳宗)を提示し,「五宗」を「五教」(小乗教,大乗始教,大乗終教,頓教, 円教)に対応させている.「五宗」説において,『起信論』は「如来蔵縁起宗」に 所属し,『華厳経』は「円融具徳宗」に所属している.このことから,宗密は 「大乗終教」と「如来蔵縁起宗」とを等しくするだけではなく,「如来蔵縁起宗」 と「円融具徳宗」との対応関係についても明らかにしているのである. 『要決』において,普寂は法蔵の『義記』を「学海の津梁,教黌の模範」2)であ ると評価する.つまり,『義記』は『起信論』を学ぶ手引きの本であり,衆生を 教育するときの教科書であるという.一方,宗密の『疏』に対して,普寂は批判 の立場を採っている.「むりやり 合わせして『義記』の原意を混乱させ,『義記』 の原文を改めて元々の文脈を傷つけてしまった」3)という.つまり,宗密は正し く法蔵の『義記』の思想を把握しておらず,『疏』において法蔵の『義記』の思 想を歪曲してしまったと主張する. 「円教」と「終教」の関係について,普寂は,「円教」であれ「終教」であれ, いずれも如来蔵思想に立脚したものであり,両者は互いに絡み合い,切り分ける ことができない同一のものである,という.言語と名相を超えた角度からみれ ば,「円教」は「終教」であり,「終教」が成り立つならば,「円教」が成立する ことを意味するのである.いわば,普寂は「終教」と「円教」の一体性という点 から宗密の説を批判するのである4) 2

.「五教」説への再解釈

華厳宗の「五教」説は,そのひな形が華厳宗の二祖とされる智儼(602–668)5) の著作に現れ,三祖とされる法蔵に至って体系化がなされた.普寂は『要決』に おいて『起信論』に対する位置づけに関連して,法蔵の「五教」に対する新しい 解釈を提示した.例えば,「終教」,「頓教」,「円教」の内実とその相互関係につ いて以下のように述べている.

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世有 解『華厳五教章』者,妄誇耀「円教」, 轢前教.輒謂此『論』是終教, 視之, 棄擲之.殊不知「終」「頓」「円」教,並以如來蔵心出障顯現分位為其理原.……所以『華 厳』・『大品』・『大集』・『無量義』・『法華』・『涅槃』等方等深経,並以空・不空如來蔵心為 法門大體6) これによれば,宗密や鳳潭を含む華厳思想家たちは,いずれも「円教」と「終 教」が相違するという立場から,『起信論』を「終教」と判定しているが,この ような判定は,価値的な面からみれば,『起信論』を否定することである.つま り,『起信論』の教義はまだ最も究極的で,最も円満な教義ではないと思い込ん でいるのである.普寂は,このような認識は法蔵の「五教」説への誤解であると 主張する.普寂によれば,「終教」であれ「円教」であれ,いずれも如来蔵心に 立脚する教義であるという.たとえば,法蔵は『華厳経』を「円教」に配当し, 『涅槃経』を「終教」に配当させるが,普寂は,この二つの経典はいずれも空如 来蔵と不空如来蔵の道理を解釈するものであると主張している.普寂の「終教」 と「円教」に対する理解は,法蔵とのそれとは明らかに異なるのである. 「終教」と「円教」に対する理解だけではなく,普寂はさらに「小乗教」,「大 乗始教」,「頓教」に対しても,如来蔵説と関連付けて新たな解釈を提示してい る.普寂によれば,「五教」はいずれも衆生二執(我執・法執),二障(煩悩障・所 知障),二死(分段生死・変易生死)を対治し,衆生に本来備わる如来蔵を開いてあ らわす教義である.具体的にいえば,「小乗教」は衆生の「我執」・「煩悩障」・ 「分段生死」を対治する.「始教」は衆生二執・二障の粗分を対治し,六波羅蜜を 修行する.「終教」は菩 初地から七地までの境地を表す.この境地に至ると, 二執・二障の粗分はすでに滅ぶが,細惑の習気が残るので,六波羅蜜の修行を通 じて,分段生死や変易生死を対治する.「頓教」は七地と八地と間の境地を表す. この境地では,細惑と習気は永く現行せず,相と想はいずれも絶するのである. 「円教」は菩 八地以上の境地を表すものである.この境地では,すべての粗い 煩悩と細かい煩悩をすべて対治して,自在・無碍となる7) 法蔵の「五教」説と「四宗」説との関係についても,普寂は新しい解釈を行っ ている.すなわち,「五教」説は「別教門」に焦点をあわせて展開され,五教と の間の相違(三乗か一乗か,権教か実教か)を強調しているとし,「四宗」説は「同 教門」に焦点をあわせて展開され,「終教」・「頓教」・「円教」の「実教」として の統一性を強調しているとする.普寂は,また「実教」としての「終教」・「頓 教」・「円教」という三教を「如来蔵教」とも称している.如来蔵思想によって

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「五教」の統一を追求する意図を窺わせる. 3

.『起信論』の「三細六粗」に対する解釈

『起信論』の主題は,真如と無明の間の相互の熏習を通じて,衆生の無明が如 何に生じるのか,さらには,衆生が如何に無明を克服し,本来備える覚性を回復 するのかを検討することである.『起信論』の染浄互熏の説によれば,「染法」と しての根本無明は「浄法」としての本覚に作用し,「動念」としての四相(生, 住,異,滅)を生ずる.「四相」には,煩悩法としての「三細六粗」が含まれる. 『起信論』の「四相」と「三細六粗」について,新羅の元暁と法蔵はいずれも 「旧訳唯識」の説を引用して,その内容を解説している.ただし,両者の間には 際だった相違がある.すなわち,それを解釈する際に,「第七識」という概念が あるかどうかという点である.元暁は「新訳唯識」も取り入れ,『起信論』の 「住相」は「第七識」そのものであるとする.一方,法蔵は「阿梨耶識」と「分 別事識」によって「四相」を解釈することができるので,「第七識」を導入する 必要がないと主張している8).「末那識」を導入するかしないかは,法蔵と元暁 との立場の相違を表している.法蔵は「旧訳唯識」の本識,分別事識のカテゴ リーによって「三細六粗」の染汚法を理解するが,これは,元暁が積極的に「新 訳唯識」の八識説を取り入れる立場と異なっているのである. 注目に値するのは,浄影寺慧遠も『起信論疏』の中で「四相」を解釈する際 に,「第七識」を導入していたことである.ただし,浄影寺慧遠が「三細」と 「六粗」の中の「智相」・「相続相」を「第七識」と見なしている点は,元暁の 「第七識」に対する理解と相違している.普寂は法蔵の『義記』,元暁の『疏』, 浄影寺慧遠の『疏』との相違を比較して,「影曉二疏,與今碩異.三疏各有道理, 不可執一,敢辨是非也」と述べている9).普寂は,浄影寺慧遠の『疏』と元暁の 『疏』における議論と法蔵の『義記』との間には,大きな隔たりが存在すること を認識しつつも,決して法蔵の立場に立って他の二つの説を批判するわけではな く,三つの説にはそれぞれ道理があるとしている.このことからわかるように, 普寂は澄観や宗密などの華厳思想家を批判し,法蔵の思想に戻れと主張している が,彼は完全に『義記』の説を判断基準としているのではなく,それぞれの『起 信論』注釈書の価値を認める立場を取っているのである. また,『起信論』の中の「五意」に対して,浄影寺慧遠はこれを「第七識」と 見なすが,法蔵は「五意」を「本識」,すなわち「阿黎耶識」に所属させている.

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普寂は浄影寺慧遠の説と法蔵の説を比較して次のように述べている. 『疏』意本・事二識之中,掩含末那.末那能汚染本識,執持有漏諸法,亦能與意識為依, 令執我法.「意」跨兩際,為傳送識故.今乃攝之「本」・「事」,不別立名.此雖與遠師頗有 徑庭,得意巧會,則兩理不違10) つまり,普寂によれば,浄影寺慧遠の説と法蔵の説は,表面上は異なるが,本 質的には相通じて,互いに助け合っているのである.なぜならば,「末那識」は 執持の作用がある「第七識」として,本来,法蔵がいう「本識」と「分別事識」 にわたっているからである.したがって,法蔵のように,これを「本識」の一部 と見なしてもいいし,浄影寺慧遠のように,これを「第七識」と見なしても構わ ないのである.普寂によれば,これは両者が異なる側面から真如と煩悩の関係を 説明しているためとされる. 4

.鳳潭の『義記』観との比較

鳳潭は華厳宗を復興することを目指したとされるが,彼の基本的な立場は「華 天一致」である.つまり,華厳宗の「円教」と天台宗の「円教」とは一致してい ると考えるのである.鳳潭のこの立場は,「無情仏性」という問題をめぐる議論に おいても表明されている.無情仏性の問題について,法蔵は明確な立場を表明し ているわけではないが,「仏性」と「法性」との相違については言及している11) 澄観に至ると,「仏性」はただ有情衆生のみにあり,無情には「仏性」ではなく 「法性」があるというようなニュアンスの説が見られるようになる. 鳳潭は『幻虎録』において,澄観と宗密の説を批判し,無情無仏性の説を「終 教」であり,「円教」の説ではないと主張している.鳳潭によれば,天台宗の 「一色一香,中道に非ざるもの無し」と華厳宗の「事事無碍」こそが,最も究極 的な教義とされる. 普寂は『要決』において,澄観の『演義鈔』の説と法蔵の『探玄記』の説を引 用しながら,法蔵も,澄観も無情に仏性があることを主張するとしている.そし て,鳳潭の『幻虎録』の説に対して,次のように批判している. 幻虎全不領『探玄』旨,偏執四明所談無情仏性.頻彈涼・密,而其所誇耀,恰似於婆 ・ 霰尼之見,豈可不懼哉12) 普寂は,鳳潭が四明知礼の無情仏性説に基づいて,澄観と宗密の説を批判する

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のは筋が通っていないと指摘し,その原因として,鳳潭が法蔵の『探玄記』の思 想を完全に理解せず,逆に天台宗の「円教」を最も究極的な教義と見なしている ことを挙げている.普寂は,鳳潭が主張する無情仏性説は,『楞厳経』に出る外 道の師である婆 や霰尼の主張,つまり,十方の草木も有情であり,人間と異な らないという説と近いものであり,このような見解は,まったく華厳宗の教義に 符合していないと批判するのである. また,『起信論』の「相大」を解釈する際に,法蔵は「相大」を「不空如来蔵」 とし,衆生が本来備える如来蔵は一切の善の功徳をそなえ,一切の染汚法と相応 しないと主張している.しかし,鳳潭は『幻虎録』において,もし衆生の本性上 にただ善の功徳だけを備え,同時に性悪を備えていないとするならば,これは 「終教」の説であり,「円教」の説ではないと述べている.つまり,「円教」にお いては,衆生が一切の善の功徳を備えるだけではなく,同時に性悪を備えている のである.「性悪」説は天台宗の独特な説である.鳳潭は天台宗の性悪説を取り 入れた上,それを華厳思想と結びつけようとするのである. 普寂は,仏教における「雑染法」には二種の用法があるとしている.第一に は,否定的意味で使われる雑染法であり,それは無明と遍計によって生じるもの で,凡夫衆生の分段生死と変易生死の根源であるとされる.第二には,肯定的意 味で使われる雑染法であり,大菩 と諸仏如来は衆生を救済するために現れる 「逆行法門」13)であるとされる.否定的意味での雑染法は衆生が生死流転し,解 脱できない根源であって,衆生が修行し,対治する対象となるものであるが,肯 定的意味での雑染法は大菩 たちの方便善巧である.両者の性格はまったく反対 のものであるといえる.普寂は,鳳潭の誤りは,二種の雑染法の性格を曖昧に し,衆生が対治すべき雑染法をも真如の働きと見なし,「性起」のカテゴリーに 所属させたことであるとしている.そのようにしてしまえば,「円教」において, 衆生は雑染法を対治する必要がなくなり,雑染法そのものが妙なるものになって しまう.普寂は次のような比喩でこの道理を説明している.つまり,偉大な医者 はヒ素を用いて病者を治療することもできるが,ヒ素そのものは決して体に良い ものではない.もしそれを良いものと思い込んで食べてしまえば,ただちに死ん でしまう,と.普寂は,鳳潭が『華厳経』の大菩 の「逆行法門」を見て,凡夫 衆生の雑染法も「性悪」として肯定しているが,これは馬鹿馬鹿しい理論上の空 論であって,現実には自分も他人も危険な方向に導いてしまうと批判している.

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1)普寂の生涯と思想についての最新の研究は,西村玲『近世仏教思想の独創――僧侶普 寂の思想と実践――』(トランスビュー,2008)である.西村玲は普寂の生涯を修学期 (28歳以前),遍歴修行期(28歳から57歳),講学著述期(57歳から75歳)に分けてい る.普寂は19歳の時に,桑名天承寺の听禎山禅師から『大乗起信論義記』の講義を聞い ている. 2)『要決』巻上「自序」第2頁.本稿で引用する『要決』は,すべて龍谷大学図書館所蔵 本(「写字台文庫」所蔵本,資料ID 20650002426, 20650002437, 20650002448)に基づく. 3)『要決』巻上「自序」第2頁. 4)『要決』巻上「自序」第4頁:「蓋円之與終,一如來蔵,而輔車相依,唇齒相助,何妄 軒輊.然,円也,迥 筌蹄(原文作「諦」)無已,則終乎.終立而円成.終也者,其為 円之本歟.是寂所以為円揭終而救彼弊也」. 5)智儼の『孔目章』には「依教有五位差別不同」という説がある.智儼が説く五教は小 乗教,初教,熟教,頓教,円教である.智儼が説く「五教」の名称と法蔵が説く「五教」 説とは相違しているが,内容的には関連している. 6)『要決』巻上,第5頁. 7)関連する内容については,『要決』巻上,第6頁–第7頁を参照. 8)『義記』巻2(『大正蔵』第44巻,263頁上):「問.三細屬賴耶,六粗屬意識,何故不説 末那識耶.答.有二義意.一,前既説賴耶,末那必執相応,故不別説.如『瑜伽』云, 賴耶識起,必二識相応故.又,由意識緣外境時,必内依末那為染汚根,方得生起,是故 次説六粗,必内依末那故,亦不別説.二,以義不便故,略不説之.不便相者,以無明住 地動本淨心,令起和合成梨耶.末那既無此義,故前三細中略不説.又,由外境牽起事 識,末那無緣外境義故,六粗中亦略不説.亦可計内為我屬前三細,計外為我所,屬後六 粗,故略不論也」. 9)『要決』巻中,第54頁. 10)『要決』巻中,第58頁. 11)『義記』巻上(『大正蔵』第44巻,274頁下):「法性者,明此真體普遍義.謂非直與前 仏寶為體,亦乃通與一切法為性.即顕真如遍於染浄,通情非情,深廣之義.『論』云, 在衆生數中,名為仏性.在非衆生數中,名為法性」. 12)『要決』巻中,第5頁–第6頁. 13)『華厳経』の「入法界品」には,善財童子が五十三位の善知識に参学するという物語が ある.すなわち「五十三参」である.その五十三の善知識の中の第十七番目の善知識で ある無厭足王,第二十番目である遍行外道,第二十五番目である婆須蜜多女は,表面上 はそれぞれ嗔・痴・貪を象徴するが,実は,彼らが実践するのは,いずれも衆生を救済 する「逆行法門」であるとされる. (本論文は中国人民大学研究プロジェクト「大乗起信論の思想史研究」の研究成果の一部で ある) (中国人民大学仏教と宗教理論研究所教授,文学博士)

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