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Vol.66 , No.2(2018)065奥野 自然「無表とtivraについて――『倶舎論』業品を中心に――」

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(1)

印度學佛敎學硏究第66巻第2号 平成30年3月 (108) ― 867 ―

無表と

tīvra

について

―『倶舎論』業品を中心に―

奥 野 自 然

はじめに

『倶舎論』(Abhidharmakośa-bhāṣya: AKBh)業品の研究においては,業道と無表の関 係について,猛利な(tīvra)纒・殷重な信によって表業を起こした際に無表は生 じる1)という点が示されている.筆者はその文脈から,強さを表す意味を持つ tīvraという形容詞に着目した.この語は後述のように無表が発生する契機を示 す一つのキーワードのように思えるが,この点については未だ十分に解明されて いない.そこで,本稿ではtīvraが無表の発生に対してどのように関係するのか 考察する.また,この語が意味するところを探り,それが形容する語に対してど のような意味付けをするのかを検討する. 1.

tīvra

と無表

AKBhでは善・不善の十業道のうち,意業道を除く身・語の七業道における一 連の行為について,加行・根本・後起の三段階に区切って説明を行っている2) しかし,表・無表を共に有する根本・後起に対し,加行には必ずしも無表が存在 するわけではない.以下に示すのは加行に無表が生じる条件であり,その説明に tīvraという語が関わっている. 【AKBh: 239.3–7】一方,諸々の予備行為〔である加行〕は表である(IV–68a).一方,業道 の諸々の予備行為〔である加行〕は必ず表を自性とするが,無表であることもあるだろ う,あるいは,ないことも〔あるだろう〕(IV–68b).もし〔ある人が〕,猛利な(tīvra)纒 (paryavasthāna)あるいは淳一味(ghanarasa)である浄信(prasāda)によって,加行を始めるな らば,無表があることもあるだろう.そうでなければ〔無表は〕ないだろう.(下線部筆者)

上記によれば,浄信が淳一味であることや,纒が猛利(tīvra)であることが, 無表を生じるための何らかの基準となっているように思われる.同様の例とし て,表・無表の具有についての四句分別が語られる箇所を以下に確認したい3)

(2)

(109) 無表とtīvraについて(奥 野) ― 866 ― AKV(Abhidharmakośa-vyākhyā)によると,意思の様態が無表を具有する基準となっ ているようであり,AKVはその意思の解釈に形容詞tīvraを持ち込んでいる. 【AKV: 373.7–374.3】表のみを具有するのは,中に住して弱い(mṛdu)意思を持つ者が〔業 を〕行う時である(IV–25ab).…弱い(mṛdu)意思という語は,猛利な(tīvra)意思を除

外するためである.なぜなら,猛利な(tīvra)意思によって表〔業〕を行うならば,無表 〔業〕を等起してしまうことになるからである.…第三〔句〕は,律儀と不律儀と中に住す る者達が,猛利な(tīvra)意思によって善・不善をなす場合である.(下線部筆者) AKBhには処中(非律儀非不律儀)に住する者は弱い(mṛdu)意思によって基本 的には表のみを具有すると示されるが,AKVはその理由として,tīvraを対義語 に用いて「猛利な(tīvra)意思によれば無表が生じるから」と解釈し,同様の解 釈を律儀・不律儀の者の例にも充当している.さらにもう一例,AKVの解釈に 形容詞tīvraが用いられている. 【AKV: 385.20–24】〔福〕田と執持と真剣な努力によるというなかで,…あるいはそのよう な真剣な〔努力〕によってとは,猛利な(tīvra)煩悩によって,また,猛利な(tīvra)浄信 によって,という意味である.(下線部筆者) ここは,非律儀非不律儀の者が無表を獲得する条件を述べる箇所であるが, AKBhでは①福田②執持③真剣な努力という三種の条件が必要であるとされてい る4).このうち③は,上記のAKVの記述により,猛利なtīvra煩悩・浄信に よって無表が得られることをいうものであると理解される. 2.

 定業における

tīvra これまで「tīvraな煩悩・浄信」が無表を生じる条件となる例を見てきたが,興 味深いことに同様の表現は,業と異熟との関係を語る場面でも用いられている. それが以下の定業の解説である5) 【AKBh: 231.21–232.4】猛利な(tīvra)煩悩と浄信とによってなされたことと,途絶えない で〔なされた〕ことと,徳田に対して〔なされたこと〕と,両親を殺害する〔こと〕は, 定〔業〕である(IV–54).…また,両親とは母と父とである.そして,彼らを殺害する業 の場合,どんな場合でもそれは定〔業〕となるが,他はそうではない. 【AKV: 394.7–8】他はそうではないとは,およそこれと反対のもの,〔すなわち〕軽微な煩 悩と浄信とによってなされた〔業〕等と〔いうことである〕.(下線部筆者)

(3)

(110) 無表とtīvraについて(奥 野) ― 865 ― AKBhでは定業の条件に,猛利な(tīvra)煩悩・浄信によってなされた業を挙 げており,AKVによれば,対する軽微な(manda)煩悩・浄信は定業の条件にな りえないという.つまり,猛利な(tīvra)煩悩・浄信は無表を生じる要因となる だけでなく,異熟を決定づける重要な要素ともなっているといえるだろう. 3.

tīvra

について

ここでtīvraの意味について改めて考えたい.まず,辞書的な意味としては,

strong, pungent, sharp などが挙げられる.また『阿毘達磨倶舎論索引』によれ

ば,真諦訳では「猛利・染住・重・極重・重品」,玄奘訳では「猛利・数行・ 重・淳」と訳されており,「強い」という意味があるのは確かであろう.しかし, 両漢訳の訳例は種々に訳し分けられており,単なる「強さ」を示す以上の意味が 予想される.そこで,tīvraの意味が最も理解しやすいように思われる三障の解 説に見られる用例を検討する. 【AKBh: 259.4–12】世尊によって三障が説かれた.業障と煩悩障と異熟障とである.…無間 業とtīvraな煩悩と悪趣と倶盧の者と無想有情とが三障であると考えられる(IV–96).… 煩悩障は,tīvraな煩悩の状態である.実に,煩悩は二種である.反復性(abhīkṣṇa)をも つtīvraな〔煩悩〕と,〔勢力が〕上位(adhimātra)であるtīkṣṇaな〔煩悩〕である.その 〔二つの〕中でtīvraな〔煩悩である〕ものが障(āvaraṇa)である.…実に,偶発的な (kādācitka)煩悩は勢力が上位であっても,除去することが可能である.一方,恒常的 (ājasrika)な〔煩悩〕は,〔勢力が〕軽微(mandaka)であっても〔除去することができ〕な い.なぜなら,煩悩が恒常的である場合,それの除去へ向かうための時を得ないからであ る.(下線部筆者) tīvraとtīkṣṇa6)という二つの形容詞は同種の言葉ではあるが,上記よりその違 いを以下のように理解できる.すなわち,tīvraは猛利でありながらtīkṣṇaと比較 すると軽微(mandaka)である.また,tīkṣṇaがkādācitka(偶発的)と対応するのに 対し,tīvraはājasrika(恒常的)やabhīkṣṇa(反復性)と対応する.つまり,

tīvra-kleśaは反復性があり恒常的であることを特徴とする煩悩であるのに対し,tīkṣṇ a-kleśaは勢力がtīvraより上位であるが偶発的であることを特徴とする煩悩である と整理できるだろう.さらにtīkṣṇaな煩悩が障の基準となりえない理由は,tīvra とは異なり,持続性がないため簡単に除去できるからであるという7).以上から 考えて,tīvra-kleśaの反復性・恒常性・除去しがたいという性質が,無表という 習慣性を有する業の発生条件と見なされたといえよう.

(4)

(111) 無表とtīvraについて(奥 野) ― 864 ―

おわりに

以下に,tīvraという形容詞についてこれまで確認できたことをまとめる. (1)煩悩 ・ 浄信 ・ 意思がtīvraならば,無表を発生させる起因となる. (2) tīvraな煩悩・浄信は,それを起因とする業が定業となる役割を果たす. (3) tīvraの強さには,反復性があって恒常的であることが含意されている. (4) 無表の文脈で用いられたtīvraは,tīvraの反復性と,無表のもつ習慣性とを 結びつけていると考えることができる. 以上をふまえ,今後はAKBh全体における他の用例も検討していくことで確 固たる結論に導きたい. 1)三友[1977: 189]を参照.また,先行訳である舟橋[1987: 313]はtīvraの訳を「猛利」 としており,清水[2017: 37]は「非常に強い ・ 強力」などと訳している.  2)加行・ 根本・後起の具体的な内容はAKBh: 239.11–18参照.  3)AKBh: 211.11–14で示されるの は第二句までであり,第三句・第四句はAKV: 374.2–5から知られる.  4)【AKBh: 222.11–14】一方,残りの無表を獲得することは,〔福〕田と執持と真剣な努力による(IV– 37cd).…〔あるいは〕その者に無表が生ずるようなそのような真剣さで,善・不善の所作 をしようと努めるのである.  5)Cf. AKBh: 229.17–22.   6)(真諦訳)利・最利・極 利・強利・瞼利・赤利.(玄奘訳)利・猛利・瞼利・銛利・最明利.(Monier Williams, A

San-skrit-English Dictionary, 448) sharp, pungent, zealous, vehement など.  7)賢聖品33偈によ れば,微細な煩悩であるほど断ずるのが困難である.Cf. AKBh: 355.1–19.

〈略号表記〉

AKBh Abhidharmakośa-bhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research In-stitute, 1967.

AKV Sphuṭārthā Abhidharmakośa-vyākhyā, the Work of Yaśomitra. Ed. Unrai Wogiwara. Tokyo: Seigo Kenkyūkai, 1936. 玄奘訳: 玄奘訳『阿毘達磨倶舎論』(T no. 1558). 真諦訳: 真諦訳『阿毘達磨倶舎釈論』(T no. 1559). 〈参考文献〉 清水俊史 2017「説一切有部における非律儀非不律儀の構造」『仏教大学仏教学会紀要』22: 29–48. 平川彰 1973『阿毘達磨倶舎論索引』大蔵出版. 舟橋一哉 1987『倶舎論の原典解明―業品―』法蔵館. 三友健容 1977「アビダルマ仏教における無表業論の展開(三)」『法華文化研究』3: 179–193. 〈キーワード〉 『倶舎論』,無表業,avijñapti,tīvra,業 (龍谷大学大学院)

参照

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