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根岸官衙遺跡群

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Academic year: 2021

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  根岸官衙遺跡群     根 岸 官 衙 遺 跡 群 は、 古 代 の 郡 役 所 で あ る 根 岸 遺 跡 と、 そ の 関 連 寺 院 の夏井廃寺跡からなる国の史跡です。   根 岸 遺 跡 ︵福島県いわき市平下大越字根岸、藤間字トウボウジほか︶       奈良 ・ 平安時代の陸奥国磐城郡の郡役所跡です。 役所の政庁と正倉、 豪族居宅、古代集落などが発見されました。   夏 井 廃 寺 跡 ︵福島県いわき市下大越字石田ほか︶       根 岸 遺 跡 に 臨 接 す る 古 代 寺 院 で す。 塔・ 金 堂・ 講 堂 の 主 要 な 建 物 跡 や、 溝・ 土 塁 な ど の 区 画 施 設 が 発 見 さ れ ま し た。 こ れ に よ っ て、 寺院の伽 が 藍 ら ん 配 は い 置 ち が明らかとなりました。

根岸官衙遺跡群

古代磐城郡の役所と寺院

国史跡

根岸官衙遺跡群

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海から見た根岸官衙遺跡群 夏井廃寺跡の調査(昭和41年) 石城評と多珂評 夏井川 ● 石 城 評  多 珂 評 宮城県 福島県 茨城県 根岸官衙遺跡群 居宅 根岸遺跡 正倉 正倉 郡庁 夏井廃寺跡 甲塚古墳 滑津川

自然に恵まれた土地

  根 岸 ぎ し 官 か ん 衙 が 遺 い 跡 せ き 群 ぐ ん の北側には夏 な つ 井 い 川 が わ 、南側には 滑 な め 津 川 が わ が流れ、これらの川によって作られた広 い平野では農業が盛んに行われています。東側 には太平洋が広がり、黒潮と親潮がぶつかる潮 し お 目 の海は豊かな漁場となっています。また、阿 武隈山系から延びる丘陵は様々な山の幸をもた らしてくれます。   この川と海と山の自然に恵まれた場所で、古 代の役所と寺院のあとが見つかりました。

『いわき』の始まり

  今 か ら 約 千 三 百 年 前 に 書 か れ た『 常 ひ た ち の く に 陸 国 風 ふ 土 』 に は、 「 白 は く 雉 四( 六 五 三 ) 年、 多 た が の こ く 珂 国 造 ぞ う 石 い わ き の 城直 あたい 美 み 夜 や 部 べ と石 い わ き の 城評 ひょうぞうべの 造部志 し 許 こ 赤 あ か という人が申 し出て、助 す け 川 が わ (茨城県日立市助川あたり)から 苦 村(福島県双葉郡大熊町あたり)まであっ た多珂国造の国を多 た が の こ お り 珂評と石 いわきのこおり 城評にわけた」と 書かれています。   この時に根岸に役所が置かれ、この地が石 い わ 城 き と呼ばれました。

最初の発掘調査

  夏 な つ 井 廃 は い 寺 跡 あ と は、水田の中に高まりと礎 そ 石 せ き があ り、瓦 かわら もたくさん見つかっているため、江戸時 代から寺院のあとと考えられていました。昭和 三 十 三 年 に は、 そ の 高 ま り が「 夏 井 廃 寺 塔 と う 跡 あ と 」 として福島県指定史跡となりました。   昭和三十九年に旧平 たいら 市 など根岸官衙遺跡群を ふくむ地域一帯が新 し ん 産 さ ん 業 ぎょう 都 指定となり、開発 で 遺 跡 が 壊 さ れ て し ま う 心 配 が 出 て 来 ま し た。 そのため、昭和四十一年に福島県教育委員会に よって最初の発掘調査がおこなわれました。

  「いわき」誕生の地

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倉庫の礎石(上)と柱の基礎(下)          (昭和 48 年) 現地に立てられている案内板

長者平の伝説

  根 岸 遺 跡 の 周 辺 は「 長 ちょう 者 じゃ 平 だいら 」 と い う 俗 称 で 呼 ば れ て い て、 昔 長 者 が 住 ん で い た と い う 伝 説 が あります。   地元の渡邊行郎さんの話     八 幡 太 郎 義 家 が 豊 間 か ら 三 和 方 面 へ 向 か う 途 中 長 者 平 の 館 に 来 て 一 泊 し、 「 明 朝 ま で に 蓑 二 百 枚・ 草 鞋 二 百 足 を 作 っ て く れ 」 と 依 頼 し た。 館 主は従順にこれを指定の時間までに提出した。     と こ ろ が、 義 家 側 は「 短 時 間 に こ れ 程 の 品 数 を 整 え る こ と の で き る の は 勢 力 強 大 の 証 拠 で あ る。 こ れ を 後 に 残 し て 前 に 進 め ば 追 討 さ れ る 危 険 性 が 大 で あ る 」 と 判 断 し た。 そ こ で、 義 家 側 は 去 っ た ふ り を し て 引 き 返 し、 館 を 焼 き 討 ち に した。     当 然 な が ら 館 主 等 は 殺 さ れ た が、 一 部 の 者 は 辛 う じ て 逃 げ 出 し て 平 下 神 谷 字 六 十 枚 に 身 を 潜 め た。 義 家 に よ っ て 焼 き 討 ち さ れ た こ の 時、 館 は三日三晩焼け続けたという。   だ か ら 今 で も こ こ で 焼 米 が 出 る の は 長 者 の 米 倉があったからだそうです。   「 長 者 伝 説 」 は 菊 多 郡 の 役 所 で あ る 郡 遺 跡 に も残っています。 根岸官衙遺跡群のここが重要! ①郡(評)ができた年代がわかっている。 ②郡(評)を作った人の名前がわかっている。 ③役所の主要な建物が見つかっている。 ④役所の主要な建物の移り変わりがわかっている。 ⑤役所といっしょに寺院が見つかっている。 ⑥役所を作った豪族の屋敷が見つかっている。

倉庫の発見

  昭和四十八年、根岸遺跡近くの台地の上で工 事をしていた時、古代の倉庫のあとが見つかり ました。倉庫のそれぞれの柱は、一辺約二メー ト ル、 深 さ 約 一 ・ 八 メ ー ト ル の 基 礎 工 事 を し た 上に、 礎石という土台の石を置いたものでした。   この倉庫の発見により、根岸遺跡が古代の役 所であることが確実となりました。その後、昭 和六十三年に別の場所でも倉庫のあとが発見さ れ、役所の建物は台地全体に広がっていること がわかりました。

範囲確認調査の成果

  昭和六〇年代に入って、根岸官衙遺跡群の周 辺 で も ゴ ル フ 場 開 発 の 計 画 が 持 ち 上 が り ま し た。そこで、この貴重な遺跡が開発で壊されて しまわないように、地元の方々のご理解とご協 力をいただきながら、遺跡の範囲を確認するた めの発掘調査が始まりました。   その結果、古代の役所や寺院などの建物のあ とや役所に関係する遺 い 物 ぶつ など、貴重な資料がた く さ ん発見されました 。それは 、古代の地方の 政 治 が わ か る 重 要 な 資 料 と し て 全 国 的 に も 注 目 さ れ ま し た 。

国史跡指定へ

  発掘調査の成果は、毎年説明会を開催して多 く の 市 民 の 方 に 見 て い た だ き ま し た。 次 第 に、 この貴重な遺跡を いつまでも保存し ようという動きが 広まり、平成十七 年に根岸遺跡と夏 井廃寺跡の二つの 遺 跡 を 合 わ せ て 「根岸官衙遺跡群」 として国 くに 史 跡 せき に指 定されました。

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陸 奥 国 出 羽 国 越 後 国 下 野 国 上 野 国 常陸国 根 岸 官 衙 遺 跡 群 磐城郡 多賀城 磐城郡と周辺の郡(9世紀頃) 古代の東北地方 ● 宇多郡 行方郡 標葉郡 菊多郡 白河郡 安積郡 安達郡 信夫郡 磐城郡 根岸官衙遺跡群 4 世 紀 中 頃   大 和 政 権 が 日 本 を 統 一 す る 4 世 紀 後 半   大 和 政 権 の 影 響 が い わ き に も お よ ぶ 6 世 紀 後 半   い わ き は 多 珂 国 造 の 国 に 含 ま れ る   飛 鳥 時 代 六 四 五 年   大 化 の 改 新 が 始 ま る 六 四 六 年   国 評 里 制 が 始 ま る 六 五 三 年   石 城 評 が で き る 七 〇 一 年   大 宝 律 令 が で き る   国 郡 里 制 が 始 ま る   奈 良 時 代 七 一 〇 年   都 を 奈 良 の 平 城 京 に 移 す 七 一 七 年   国 郡 郷 里 制 が 始 ま る 七 一 八 年   石 城 国 が で き る   菊 多 郡 が で き る 七 一 九 年   石 城 国 内 に 駅 家 十 ヵ 所 が 置 か れ る 七 二 四 年   多 賀 城 に 陸 奥 国 の 役 所 が で き る           こ の 頃 石 城 国 が 廃 止 さ れ る 七 三 九 年   国 郡 郷 制 が 始 ま る 七 四 三 年   墾 田 永 年 私 財 法 を 定 め る           こ の 頃 「 磐 城 」 の 字 に な る 七 六 九 年   丈 部 山 際 が 於 保 磐 城 臣 の 姓 を も ら う   平 安 時 代 七 九 四 年   都 を 京 都 の 平 安 京 に 移 す 八 〇 一 年   坂 上 田 村 麻 呂 が 蝦 夷 征 伐 を す る           こ の 頃 徳 一 が い わ き に 多 く の 寺 を 開 く 八 一 一 年   磐 城 郡 ・ 菊 多 郡 の 駅 が 廃 止 さ れ る 八 四 〇 年   磐 城 臣 雄 公 外 従 五 位 下 の 位 を も ら う 八 四 四 年   磐 城 臣 雄 公 と そ の 一 族 が 阿 部 磐 城 臣 の           姓 を も ら う 八 六 六 年   菊 多 剗 で 鹿 島 神 宮 使 の 入 国 を 拒 否 す る 八 六 九 年   陸 奥 国 大 地 震 九 三 一 ~ 九 三 八   和 名 類 聚 抄 が で き る 十 一 世 紀   次 第 に 武 士 の 力 が 強 く な っ て く る 1000 900 9世紀 800 700 600 500 豪族居宅 (7世紀前半~8世紀中葉) 正倉 (7世紀後半~9世紀以降) 郡庁 (7世紀後半~8世紀後半以降) 夏井廃寺跡 (7世紀末~10世紀前半) 古 代 い わ き の 出 来 事 7世紀 8世紀

飛鳥・奈良時代の日本

  大 たい 化 元( 六 四 五 ) 年、 「 大 たい 化 の 改 かい 新 しん 」 と い う 大きな政治の変化がありました。それまでは各 地の豪 ごう 族 ぞく がその地方を支配していましたが、改 新後は全国を国 くに ・評 こおり ・里 り に分け、国や評には役 所を作り、すべてを中央の大和政権が支配する ようになりました。いわき市の大部分は白 はく 雉 四 ( 六 五 三 ) 年 に 石 いわきのこおり 城 評 と な り、 陸 奥 国 に 含 ま れ ました。   大 たい 宝 ほう 元(七〇一)年に大 たい 宝 ほう 律 りつ 令 りょう という法律が 定められ、人々はその法律に従って生活するよ うになりました。この時代のことを 「律 りつ 令 りょう 時代」 とも言います。

石城評から磐城郡へ

  その後、政治の仕組みが何度か変わり、大宝 元(七〇一)年に評が郡へ、 天平十一(七三九) 年 に 里 が 郷 ごう に 名 前 が 変 わ り ま し た。 養 よう 老 ろう 二 ( 七 一 八 ) 年 に は 石 いわきのくに 城 国 が 作 ら れ て 石 城 国 石 城 郡となりますが、すぐに廃止されてまた陸奥国 石城郡に戻されています。   なお、石城に代わって磐城の字が使われるよ うになるのは、八世紀の中頃のようです。

古代の役所の様子

  古 代 の 役 所 に は、 郡 ぐん 庁 ちょう ・ 正 しょう 倉 そう ・ 館 たち ( 宿 しゅく 舎 しゃ )・ 厨 くりや (給 きゅう 食 しょく 施 し 設 せつ )などの様々な役割の建物が建っ ていました。これらの建物は塀 へい や溝 みぞ などで区 く 画 かく されていることが多かったようです。   根岸遺跡からは、郡庁と正倉が発見されてい ます。郡庁と正倉のある台地に立つと夏井川や 太平洋が一望できます。

 

根岸官衙遺跡群とその時代

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郡庁の正殿のあと 荷札木簡と赤外線写真 「飯野郷」 郡庁のイメージ(8世紀前半頃)

郷の名前

  国 は 現 在 の 都 道 府 県、 郡 は 市 町 村、 郷 は 行 政 区 に あ た り ま す。 平 安 時 代 に 書 か れ た『 和 わ 名 みょう 類 る い 聚 じ ゅ 抄 しょう 』 に よ る と、 磐 城 郡 内 に は 蒲 か ま 津 つ ・ 丸 わ に 部 べ ・ 神 か 城 じ ろ ・ 荒 あ ら 河 か わ ・ 和 わ ・ 磐 い わ 城 き ・ 飯 い い 野 ・ 小 お 高 だ か ・ 片 か た 依 よ り ・ 白 は く 田 た ・玉 た ま 造 つくり ・楢 な ら 葉 は の十二の郷がありました。   根 岸 官 衙 遺 跡 群 が あ る 地 域 は、 磐 城 郡 磐 城 郷 に あ た り、 ま さ し く 磐 城 郡 の 中 心 地 だ っ た こ と がわかります。   こ れ ら の 郷 か ら は、 税 金 の 米 が 役 所 の 正 倉 に 運 ば れ て 来 ま し た。 正 倉 の 北 群 と 南 群 の 間 の 沼 地 に は 生 活 に 使 わ れ て い た 道 具 な ど が た く さ ん 捨 て ら れ て い ま し た が、 そ の 中 に は 米 を 正 倉 に 運 ん だ 時 の 荷 に 札 ふ だ 木 も っ 簡 か ん も あ り ま し た。 荷 札 木 簡 は 薄 い 木 に 墨 で 文 字 を 書 い た も の で す。 左 の 写 真 の よ う に、 赤 外 線 写 真 で 見 て み る と「 飯 い い 野 の 郷 」 の文字が読みとれます。

郡庁

郡役所の中心

  郡 ぐん 庁 ちょう は、政治を行う中心の建物です。根岸遺 跡では、正 せい 殿 でん ・東 ひがし 脇 わき 殿 でん ・西 にし 脇 わき 殿 でん の三つの建物が 中 央 の 広 場 を 囲 む よ う に 建 て ら れ て い ま し た。 広場は、 儀 式 しき や客をもてなす時につかわれます。   郡庁の建物はどれも掘 ほっ 立 たて 柱 ばしら 建 たて 物 もの で、屋根は板 いた 葺 きだったようです。郡庁のまわりは板 いた 塀 べい で囲 ま れ て い て 、 そ の 大 き さ は 東 西 が 約 六 五 メ ー ト ル で し た 。   最初は、七世紀後半頃に板塀と四方に庇 ひさし が付 いた堂々とした正殿が建てられ、八世紀前半頃 には東西の脇殿も建てられて、役所らしい形に なりました。その後、ほぼ同じ場所に何度か建 て替えられながら八世紀後半頃までは続いてい たようですが、九世紀頃にはどこか別の場所に 移動してしまいます。

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〈参考〉復元された正倉 (提供:福島県埋蔵文化財センター白河館) 豪族の屋敷あと 豪族の屋敷のイメージ 掘立柱建物 側柱建物 礎石 礎石建物 根石 礎石 すえつけ穴 礎板 高床式の総柱建物 地業 正倉のイメージ(8世紀後半頃) 柱をかためた様子 正倉の礎石

柱のあれこれ

  建 物 の 柱 の 建 て 方 に は、 掘 立 柱 建 物 と 礎 石 建 物 が あ り ま す。 掘 立 柱 建 物 は、 地 面 に 穴 を 掘 っ て 柱 を 直 接 埋 め る 方 法 で、 古 代 で は よ く 使 わ れ る 方 法 で す。 礎 石 建 物 は 礎 石 と い う 土 台 石 の 上 に柱を建てる方法で、 重い建物に適しています。   ま た、 建 物 の 柱 の 並 び 方 に は、 側 がわ 柱 ばしら 建 物 と 総 そう 柱 ばしら 建 物 が あ り ま す。 側 柱 建 物 は 建 物 の 周 囲 だ け 柱 を 建 て る 方 法 で、 総 柱 建 物 は 床 を 支 え る 柱 が あ る 建 物 で す。 総 柱 建 物 の 方 が 重 さ に 耐 え る こ とができます。   根 岸 官 衙 遺 跡 群 で は、 郡 庁 や 初 期 の 正 倉 は 側 柱 の 掘 立 柱 建 物 が 使 わ れ て い ま す。 豪 族 の 屋 敷 も掘立柱建物ですが、 四面に庇 ひさし が付いています。 そ の 後 の 正 倉 や 夏 井 廃 寺 跡 の 瓦 葺 き の 建 物 は 総 柱 の 礎 石 建 物 が 使 わ れ て い ま す。 正 倉 は 湿 気 を 避けるため高床式だったと考えられます。

正倉

―米を納める倉庫

  大化の改新によって土地はすべて大 やまと 和政 せい 権 けん の ものになり、朝 ちょう 廷 てい が人々に田を貸し与えて米を 税として集めるようになりました。正 しょう 倉 そう はその 集めた米を納めておく場所です。 根岸遺跡では、 北群と南群の2カ所に分けて正倉が建てられて いました。   正倉は、郡庁と同じく七世紀後半頃から建て られ始めます。最初の頃は掘 ほっ 立 たて 柱 ばしら 建 たて 物 もの が多かっ たのが、八世紀後半頃には頑 がん 丈 じょう な礎 そ 石 せき 建 たて 物 もの に変 わります。礎石建物は、さらに地 ち 業 ぎょう という基礎 工事をしてから建てられていました。   正倉群の間の沼地から見つかった荷 に 札 ふだ 木 もっ 簡 かん に は飯 いい 野 郷 ごう や玉 たま 造 つくり 郷 ごう などの郷名が書いてあり、郡 内各地から税の米がここに集められたことがわ かります。

豪族居宅

有力者の屋敷

  郡庁と同じ台地の上で、七世紀前半から八世 紀中頃の豪 ごう 族 ぞく の屋 や 敷 しき が見つかりました。屋敷は 三回建て替えられていて、徐々に大きな屋敷に なっていったことがわかりました。   郡 の 役 人 は 地 元 の 豪 族 か ら 採 用 さ れ た の で、 この屋敷に住んでいた豪族は磐 いわ 城 き 郡 ぐん の偉い役人 だったと考えられます。

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〈参考〉多賀廃寺跡模型(提供:東北歴史博物館) 梅ノ作瓦窯跡と瓦 上空から見た夏井廃寺跡 塔の基壇と柱の基礎 磐城郡内の生産遺跡 ①梅ノ作瓦窯跡(瓦作り) ②大久保F遺跡(土師器作り) ③タタラ山遺跡(製鉄) ④大猿田遺跡(木の加工) ⑤番匠地遺跡(鍛冶・鋳物) ⑥清水遺跡(製鉄) ⑦滝ノ作遺跡(製鉄) ⑧植田郷B遺跡(鍛冶)

夏井廃寺跡の瓦はどこから?

  夏 井 廃 寺 跡 の 屋 根 瓦 の 多 く は、 市 内 小 川 町 の 梅 うめ ノ 作 さく 瓦 かわら 窯 かま 跡 あと で 焼 か れ た も の で す。 瓦 は 夏 井 川 を 利 用 し て 運 ば れ て 来 ま し た。 そ の 他 に も、 川 を 利 用 し て 様 々 な も の が 役 所 に 運 ば れ て い ま し た。 こ の よ う な 水 運 に 適 し た 場 所 を 選 ん で 役 所 を建てたのでしょう。 太平洋 滑津川 夏井川 ① ② ⑤ ⑥⑦ ⑧ ③ ④ 夏井廃寺跡 根岸遺跡● ● 田 川 井 仁

夏井廃寺跡

  六 世 紀 に 大 陸 か ら 日 本 に 仏 教 が 伝 わ っ て か ら、 各 地 に 寺 院 が 建 こん 立 りゅう さ れ る よ う に な り ま す。 夏 なつ 井 廃 はい 寺 じ 跡 あと が建立された頃は、仏教で平 へい 穏 おん な国 を 作 ろ う と い う 考 え が 広 ま っ て い ま し た 。 そ の た め 、 役 所 の 近 く に 寺 院 が 建 て ら れ る こ と も 多 か っ た よ う で す 。   いわき地方でも、七世紀の終わり頃には夏井 廃寺跡の建立が始まりました。廃 はい 寺 じ とは、無く なってしまった寺という意味で、寺院の正式な 名前がわからないので旧村名をとって「夏井廃 寺跡」と呼ばれています。   発掘調査では、溝や土 ど 塁 るい などで囲まれた中に 塔 とう ・ 金 こん 堂 どう ・ 講 こう 堂 どう の建物のあとが見つかりました。 これらの建物は基 き 壇 だん という土 ど 盛 も りの上に建てら れていて、屋根は瓦 かわら 葺 ぶ きでした。また、儀式に 使う幡 はた を立てるため の太い柱も見つかり ました。全国でもあ まり見つかっていな いため、貴重な発見 となりました。   夏井廃寺跡の建物 の並び方は、陸 むつの 奥国 くに の役所の多 た 賀 が 城 じょう にあ る多 た 賀 が 城 じょう 廃 はい 寺 じ 跡 あと に似 ていると言われてい ます。寺院は十世紀 前半頃にすたれてし まったようです。 講堂 金堂 塔 溝 土塁 夏井廃寺跡の瓦の文様  夏井廃寺跡から出土した 軒先瓦の文様の拓本  蓮の花を表現しています

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廃棄場 郡庁 2008 年 3 月 28 日発行      発 行 いわき市教育委員会          福島県いわき市平字堂根町 4 番地の 8    ℡ 0246-22-7544      編 集 財団法人いわき市教育文化事業団          福島県いわき市常磐藤原町手這 50 番地の1 ℡ 0246-43-0391 国史跡

 根 岸 官 衙 遺 跡 群

 古代磐城郡の役所と寺院 (イラスト 猪狩みち子)

根岸官衙遺跡群 全体図

参照

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