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1920-1930年代中国上海におけるミッション系女子教育―中西女塾の分析を中心に― [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)19201920-1930 年代中国上海における 年代中国上海におけるミッション におけるミッション系女子教育 ミッション系女子教育 -中西女塾の 中西女塾の分析を 分析を中心に 中心に- キーワード:20 世紀上海,ミッション,女子教育,愛国運動,奉仕活動. 教育システム 教育システム専攻 システム専攻 劉 霖 1.目次 序章. る。一方で、ミッションスクールは、比較的富裕な階層出 身の子弟に、近代的知識を授けたが、いずれも中国の実生. 第一節 問題の所在. 活とかけ離れ、結局、民族の危機に対応できる人材を養成. 第二節 本論文の構成. することができなかったとその教育の限界が論じられてい. 第一章 中西女塾の設立と運営 第一節 設立の経緯 第二節 中西女塾の「章程」 1)学校生活に関する規則 2)授業の形式 第二章 中西女塾の学生による学校内外での活動. た。これまで中国教育史におけるミッションスクールの役 割を「評価」する論考があるにもかかわらず、ミッション スクールが何を行ったかという中身の検討や研究が十分に なされてきたとはいえない。 女子教育については、女子教育の遅れの中でミッション 系女学校は開拓者、主導者としてその発展に大きな意義を. 第一節 『墨梯』からみる音楽と体育活動. 持ったと評価されていた。本論文の研究対象である中西女. 第二節 多様な組織と団体. 塾については、上流家庭の女性を対象とし、上海で最も施. 1)文芸会と研究会. 設の整備された女学校として、医学界、教育界、慈善事業. 2)奉仕活動の奨励と愛国運動への圧力. など活動する女性を多く育てたと女子教育の発展に果たし. 第三章 『墨梯』における社会問題に対する主張. た役割が論じられた。だが女子教育を振興しようとするミ. 第一節 愛国運動に関する主張. ッション側の働きが着目されているにもかかわらず、ミッ. 第二節 女性の社会進出に関する議論. ション系女学校で教育を受けた中国人女性がその教育に対. 1)政治参加に対する見解. する対応、学校内外での活動、さらにそれに対する学校側. 2)職業教育の必要性. の反応について検討されていなかった。ミッション系女学. 終章. 校で学ぶ学生の学校での実態を明らかにするために、女学 生による活動とそれに対する学校側の反応を見る必要があ. 2.概要 序章〉 〈序章 〉 本論文は、1920 年代から、1930 年代の中国上海におい て、中西女塾の学生が学校内外で行った活動と学校側の対. る。 そこで、本論文では宣教師によって設立、運営された中 西女塾に着目することによって、ミッション系女学校の運 営と女学生の活動を分析することとした。. 応を分析するものである。ミッションスクールがどのよう. 史料としては、学校の規則やカリキュラム等が掲載され. な女性の育成を目指し、そして中国人女性がどのようにそ. ている『中西女塾章程』 、二代目の中国人校長が書いた回想. れを受容したのかを明らかにすることが課題である。. 録「我所知道的中西女中」と 1920-30 年代女塾の学生たち. 従来のミッションスクールに関する研究では、 「文化侵 略」の先兵としての役割について重点的に論じられてきた。. が刊行した『墨梯』を中心に用いる。. しかしながら、そのようなナショナリズムのみに着目した. 〈第一章〉 第一章〉中西女塾の 中西女塾の設立と 設立と運営 第一章では、中西女塾の設立経緯と運営について検討し、. 研究のあり方に対して、近年、問題提起がなされている。. 英語を重視しながら、音楽、体育、物理化学など西洋の知. 佐藤尚子が指摘するように、 「奴隷化教育」という言葉だけ. 識を女学生に教えていたことを明らかにした。. では、教育史上におけるミッションスクールの位置付けと. 中西女塾は、宣教師アレン(漢名:林楽知)とローラ・. それが果たした役割を十分に説明することはできない。ミ. ヘイグッド(漢名:海淑徳)によって設立された。1860 年. ッションスクールは、西洋文明の媒介者として、医学、農. 中国に入ったアレンは上海で教会を設立し伝道活動をし始. 業教育だけではなく、女子教育など多くの分野で教育活動. めた。伝道事業、特に教育伝道のため林華書院と中西書院. を展開し、近代中国の建設に大きな役割を果たしたのであ. を設立した。また、伝道の発展を目的として『中国教会新.

(2) 報』 (後に『萬國公報』と改称)の刊行にも努めていた。雑. を設けた。一方で、女子教育に対する関心と仕事する女性. 誌で女性に関する記事を掲載し、纏足廃止と女子教育の推. の増加とともに、妻が教育をうけることを望んでいる男性. 進を呼びかけているアレンが、女子教育を振興するために. と、勉強したいと考える中国人女性が増えてきた。女塾は. 女学校の設立を発足したのである。アレンは上流階級の女. このような学齢を超えている中国人女性のために特別クラ. 性に、中国の知識だけではなく、西洋の言語、学問、科学. スを作り、予科と正科と異なる授業を教えていた。. なども教えるべきと考え、中西女塾を設立した。女塾の設. 授業について、信仰は自由であり強制しないと明記して. 立当初には、入学者は少なく、ほとんどが上海出身で、且. いるにもかかわらず、聖書を必修科目として勉強しなけれ. つ教会関係者の娘が多かった。縁談がうまく進むことや、. ばならなかった。教師が中国に来た目的は伝道のためであ. 家庭の収入の一部を稼げるようになるよう、娘を学校に入. り、それを達成するために、聖書の授業は教師一人ではな. れて勉強させることが必要であると多くの親が認識するよ. く、校長と教師全員が担当していた。聖書をカリキュラム. うになった 20 年代前後から、徐々に中国各地にいる名門家. に入れていることから、女塾はできる限りキリスト教精神. 庭の娘も女塾に入学するようになり、学生の数が増加して. を女学生に浸透させようとしたことがうかがえる。国語が. いた。その中で、ただ娘に良い縁談を持ち込むことを願い、. 立国の根底でもあるとして、国語を必修科目と定め、英語. さまざまな方法を使って成績が悪い娘を女塾に入学させよ. のみを専攻しようとする学生の入学を許可しないと規定し. うとした父親がいた。女塾は上海のみならず、各地におい. ていた。しかしながら、予科では一、二年の聖書の授業と. て上流階級の間で、高く支持されていたことが分かる。女. 国語を中国語で教える以外、他の授業は全部英語で教えて. 塾の建設については、校舎拡張の際にアメリカ監理教会の. おり、正科の場合、国語以外の授業は全て英語で行ってい. 宣教本部から大量の資金を受けており、学校の運営には母. た。国語の必要性を主張するにもかかわらず、英語教育が. 体である宣教本部が影響を持っていたと考えられる。. 重視され、学生が国語を勉強する機会は極めて少なかった. 女塾は学生を「管理」するため、さまざまな規則を作っ. と見られる。学生が刊行した『墨梯』の記事が中国語と英. ていた。入学手続きは、保護者がいる場合に可能であった。. 語で書かれていることからも、彼女らの英語能力の高さと. 学生が入学する際には校医の健康診断を受けなければなら. 女塾による英語教育の浸透の程度が分かる。英語の授業で. なかった。在学中に、手紙の往来はできる限り控えなけれ. は、英文法、修辞学、英米の文学史などを勉強するほかに、. ばならず、疑わしい点があると、校長はその手紙をチェッ. 年に 5-10 冊の欧米の古典、名著などを読まなければならな. クする権利があると規定された。また、家族以外の男性と. かった。読書により、学生の英語力が向上することはもち. の手紙のやりとりが発見されるや否や、すぐに退学しなけ. ろん、欧米の文化、思想などを学生に浸透し、彼女らを欧. ればならなかった。寮については、服や寮の全ての物をき. 米化しようとする学校の目的もあったと思われる。. ちんと整えなければならず、整理整頓ができない学生は「過. 英語の授業と同じように、音楽と体育の授業も詳しく規. 失」として記録されていた。病気の見舞い以外に、親さえ. 定され、盛んに行われていた。女塾は外国から有名な音楽. も寮に入ることはできないなど訪問時間と場所は規定され. 家を招聘し、女学生たちの授業をさせていた。音楽の学位. た。寮での生活をうまく管理するために、品行も学力も共. を取るために、楽器試験のほかに、音楽の歴史や楽典、和. に優れている高学年の学生を助手として選び、寮を整理す. 声学などの課程も修了しなければならなかった。音調など. る責任を担わせていた。寮には電気照明や浴室が完備され. 基本的な音楽知識を初め、欧米で有名な音楽家の名曲まで、. ていた。寮の配置、食堂などは後に梁啓超ら中国人により. 音楽の授業内容は詳細に規定されていた。女塾は中国人の. 設立された中国女学堂のモデルともなっていた。寮費、学. 西洋音楽への関心が高まっており、この要望を答えるため. 費などを含むと、一年間に 200 元ほどの費用がかかり、同. に音楽の人材育成に努めていた。一方で、音楽を通じて西. じ年の上海労働者階級の生活費と比較すると、女塾の学費. 洋文化や思想を一緒に学生に浸透させることができると考. は労働者たちにとって到底払うことができなかった大金で. えられる。また音楽教師になる女学生が、女塾で学んだこ. あると言える。学生が休暇を取る際には父或いは兄の書い. とを他の中国人に教えることによって、西洋音楽と西洋文. た手紙が必要とされており、娘に無断で休暇を取らないよ. 化を中国で拡大しようという狙いがあったのだろう。体育. うと保護者に要求されていた。このような厳格な学校の「管. の授業について、授業の目的と目標を達するための方法な. 理」をめぐって学生と学校が対立することもあった。しか. どが規定されていた。学年により授業の内容も異なってい. し、保護者たちは学生側の意見ではなく学校側の規則を支. た。遊戯、体操など基本的な運動をはじめ、高学年に上が. 持していた。. るとバスケットボールや、テニス、バレーボールなどチー. 女塾は予科と正科の二学級に分け、それぞれ四年の課程. ムワークを重視する団体競技が行われていた。学校が設立.

(3) 当初はまだ纏足している女学生がいたものの、間もなく「放. ケットボールや、バレーボールなどのチームが作られ、ク. 足運動」が起き、家族の反対と社会からの異論があったに. ラスマッチのほかに学年試合や運動会が行われ、ほぼ学生. も拘わらず、学校の支持の下、女学生たちは大胆に「放足」. 全員が試合に参加していた。このような試合は校内だけで. した。1900 年の卒業生の中で纏足している学生は一人もお. はなく、他の学校との間でも行われて、女塾は良い成績を. らず、こうした状況は当時として珍しかったと言われてい. 取っていた。運動のほかに、学生に健康の重要性を認識さ. る。また、アメリカ宣教師が著した本を教科書として行わ. せるため、健康週キャンペーンも開催された。20 年代のミ. れていた歴史の授業、領収書の書き方、帳簿、家計簿の付. ッションスクールの学生の多くは健康状態が悪く、死亡率. け方など実用性の高い数学の授業、生物、化学、物理、天. が高かった。女塾のように、体育の授業内容を詳細に規定. 文学など実験や実習を重視する専門的授業も教えられてい. し、運動を重視し健康に関する知識を教えていたことは、. た。. ミッションスクールの中でも先進的であったと言える。ま. 女学生の社交と教養を向上させるため、女塾は広学会と いう学会を設立した。広学会の目的は、学生が流暢で上品 な英語を話し、西洋の習慣を身につけさせることであった。. た、卒業生の死亡率の低さからも、女塾の体育教育の成果 が見られる。 音楽と体育に関する活動のほかに、女学生は学生自治会、. 上海、海外から有名人を招聘し、学生に弁論会や音楽会な. 英文文芸会、国学文芸会などの研究会と社会奉仕を目的と. どを披露する特典があった。学生全員が会員となり、教職. する女青年会、女伝道会などの会も組織していた。学生た. 員や卒業生は名誉メンバーとして参加することができた。. ちは学校教育を受けていない子どもたちのために、女塾の. 学生の才能などを感じさせるため、毎年保護者、親族など. 近くに農村義務学校を運営していた。女青年会、女伝道会. を招待する大きな会を 4、5 回開催すると規定していた。こ. などの会は農村学校にお金を寄付し、運営をサポートして. うして学生に保護者、親族の前で披露させることによって、. いた。女学生の一部は授業を行い、子どもたちに英語、歌. 好評を得て、学校をより広くアピールすることが意図され. 唱、聖書などの基本的な教育を教えていた。クリスマスに. たと考えられる。. は、教師と学生が孤児院や盲人学校などの施設にお金や服. 〈第二章〉 第二章〉中西女塾の 中西女塾の学生による 学生による学校内外 による学校内外での 学校内外での活動 での活動. を寄付したり、ハンセン病患者のため募金したりしていた。. 第二章では、女学生たちが学校の内外で行った活動と学 校側の対応について検討した。. また、寮の規則を違反し、高級な服装を学校に持ち込んだ ことが発見されると、全てお金に変えて寄付するなど、女. 女塾の整えられている音楽教育の環境の下で、女学生た. 塾は社会奉仕活動を重視していたことが分かる。学生たち. ちは音楽の勉強に励んでいた。彼女らが音楽はただ人を喜. は社会奉仕活動に参加する一方で、五・四運動の際には講. ばせる娯楽ではなく、国家と文明と関わり、 「精神教育」の. 演や募金を行って愛国団を組織し、外国製品の不買運動や. 役割を持っていると考えていた。音楽団、楽団が組織され、. 反日ボイコット運動などにも参加していた。学校は学生の. ピアノ独奏会、声楽コンテスト、総合音楽会などが毎年開. こうした愛国運動に対して、授業量を増やし、校外との球. かれていた。卒業生によるピアノ独奏会では、バッハ、シ. 技などの試合を休止させ、また保護者の協力を求めて休校. ューベルト、スコット、モーツァルトなどの名曲が披露さ. 処置を取るなどの方法を用いて、阻止しようとしていたの. れていた。毎年行われているコンサートで、ピアノ演奏の. である。. ほかに、合唱、舞踏なども披露されていた。また、学年ご. 女塾はクリスマスやハロウィーンなど欧米の祝日を重視. とに「級歌」が女学生によって作られていた。国際的な音. し、それをカレンダーの中に記入していた。しかしながら、. 楽コンテストで女塾の学生が皆良い点数を取った。その中. 中国伝統の行事では、学生に国旗を拝礼させ国歌を歌わせ、. でもある学生は東洋人の中で最高点数を取り、ロンドンの. 学生代表に国慶に対する希望を講演させるなどをしていた。. 音楽学校の一年間コースを取得していた。女塾には高い音. このように、女塾は学生に行事をさせることを通じて中国. 楽能力を持つ学生がいたことが分かった。音楽と同じよう. の伝統文化も尊重しようとしていたことがうかがえる。. に、女塾の学生は体育運動、体の健康作りなどにも積極的. 〈第三章〉 『墨梯 三章〉 『墨梯』 墨梯』における社会問題 における社会問題に 社会問題に対する主張 する主張. に参加していた。20 世紀初頭の中国において、教員の不足 や設備の未整備、纏足などの原因で、政府の学校にしても、. 第三章では、女学生が書いた文章を分析し、彼女らが中 国の社会問題に関する主張を検討した。. ミッションスクールにしても、体育の授業特に女学校で実. 女学生は愛国についてさまざまな文章を書いて、自らの. 施するのはかなり困難で、わずかな学校しか実施していな. 主張を表明しようとしていた。外国製品に抵抗し愛国運動. かった。しかしながら、女塾の女学生たちは「放足」によ. に参加しようと提唱されている一方で、勉学に励むことこ. って、球技運動を参加できるようになり、各クラスでバス. そが学生の愛国行為であり、時間を無駄にする愛国運動に.

(4) 参加するべきではないという反論もあった。欧米製の映画. て、学生は異なる意見を交わしていたことも明らかとなっ. などの外国製品に夢中になっている中国人を批判する一方. た。. で、国産ものの不足を認識し、緊急に改良するべきとも論. 学生は卒業生の仕事や住所、家族写真などの最新情報を. じられていた。また、外国から関税自主権を取り戻したり、. 掲載する卒業生の名簿を作っていた。名簿を見ていくと卒. 無駄な浪費を抑え貯金したり、 「国家富強」のための具体策. 業生の中には進学して教師になった者が多かったが、音楽. が論じられていた。さらに、欧米の中国に対する不平等待. を学び音楽教師となった者は少なかったことが分かる。ま. 遇を批判し、怒りを表しながら中国が貧弱であるから不平. た、子どもを抱き、夫が寄り添う家族写真が多く掲載され. 等に待遇されと認識し、国の富強を提唱している女学生も. ていた。保護者が望んだように良い縁談を受けて家庭を持. いた。. ち、子どもを育てている女性の姿が映し出されているよう. 女学生たちは愛国運動のほかに、女性の社会進出に関す. であった。20 世紀初頭の卒業者は、娘も女塾に通わせ、親. る問題に対しても異なる意見を述べていた。中国人女性の. 子二代にわたって女塾で生活を経験している場合もあった。. 能力が低いと認識した上で、経験を積むことにより能力を. 卒業生は欧米に留学したり、子どもの病気の予防に関する. 高められるとして婦人参政権が提唱されていた。これに対. 本を書いたり、社会奉仕活動したり、子育てしたり、従来. して、婦女参政権は簡単なことではない、男性と比較する. の纏足の女性とは異なる、新しい中国人女性の姿を体現す. より慎重に進めなければならないと反論していた学生もい. る存在であったと言える。. た。さらに政治参加と家庭との関係を論じ、間接的に家庭. 本論文では、学校の「管理」と女学生の活動を明らかに. への責任を果たすことが、直接的に政治参加することと同. したが、宣教本部との関係については十分に検討できなか. じで、中国人女性の政治参加を否定していた。職業教育に. った。校舎の拡張に多くの資金を寄付したアメリカ宣教本. ついては、女性解放と教育との関係を論じ、中国人女性を. 部に着目することによって、宣教本部と女塾の関係を明ら. 男性から解放させるために女性に職業訓練を行わなければ. かにすることができると考える。今後の研究では、アメリ. ならないと主張していた。また、男性と平等な権利を行使. カ監理教会の宣教本部が女塾の運営に関わっていたことを. するため、女性は職業教育をうけて職業に就き国家に義務. 更に検討したい。. を果たさなければならないと権利と義務という面から、女 性に対する職業教育の必要性を強調している女学生がいた。. 3.主要引用文献. こうして、社会問題と女性の社会進出に対する賛否につい. ・Christian Education in China- A Study made by an. て、学生たちはさまざまな意見を述べ、議論していたこと. Educational Commission Representing the Mission. が分かった。. Boards and Societies-Conducting Work in China,. 〈終章〉 終章〉. Committee of Reference and Counsel of the Foreign. 本論文では、ミッション系女学校が行った女性教育. Missions Conference of North America, 1922.. について明らかにした。中国各地の名家の娘は女塾に入学. ・ 『墨梯』1926-1938 年. し、学生と女塾が対立したとき、保護者が学校側に理解を. ・ 『中西女塾章程』1920-1923 年. 示し、問題を収束したから、女塾は上流階級に認められて いたことが分かった。女塾は英語を重視し、音楽、体育、. 4.主要参考文献. 物理化学など西洋の知識を教えていたことが明らかとなっ. ・佐藤尚子『中国ミッションスクールの研究-増補改訂 米. た。 女塾は厳格な管理と優れた学校教育の下で多くの人材を. 中教育交流史研究序説-』龍渓書舎、2010 年 ・榎本泰子『上海 多国籍都市の百年』中央公論新社、2009. 育成し、近代女子教育の発展、また学生の愛国精神の育成. 年. に大きな役割を果たしたと論じていた。だが学生の活動と. ・高橋孝助、古厩忠夫編『上海史 巨大都市の形成と人々. 学校側の反応をより詳細に見ると、学校側は学生の愛国運 動を援助するというより様々な方法を用いて、愛国運動を 阻止しようとしていたことが明らかとなった。愛国運動に 圧力をかける一方で、農村義務学校の運営や孤児院などの 施設、ハンセン病治療のための寄付など学生による社会奉 仕活動に対して、女塾は賛同を示していたのである。さら に、学生は愛国運動や女性の社会進出などの問題をめぐっ. の営み』東方書店、1995 年 ・熊月之主編『上海通史』第 9 巻 民国社会 上海人民出 版社、1999 年 ・熊月之主編『上海通史』第 10 巻 民国文化 上海人民出 版社、1999 年 ・上海文史史料委員会編『解放前上海的学校』上海人民出 版社、1988 年.

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