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目次 はじめに 1 倭人は何処からきたか 2 古事記 日本書紀による日本の創生 3 天孫降臨とは 4 出雲国譲り神話とは 5 邪馬台国は何処か 6 当時の大和の状況 7 神武東征はあったか 8 箸墓は誰の墓か祟仁天皇は何処から来たか 9 前方後円墳は何を意味するか 10 景行天皇の時代 11 仲哀天

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1 00 表紙

倭国通史

仰天の古代史

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2 目次 はじめに 1、倭人は何処からきたか 2、古事記、日本書紀による日本の創生 3、天孫降臨とは 4、出雲国譲り神話とは 5、邪馬台国は何処か 6、当時の大和の状況 7、神武東征はあったか 8、箸墓は誰の墓か 祟仁天皇は何処から来たか 9、前方後円墳は何を意味するか 10、景行天皇の時代 11、仲哀天皇と神功皇后 12、応神天皇、仁徳天皇の時代 13、九州王朝はあったか 14、継体天皇と磐井の乱 15、蘇我氏は何処から来たか 16、大化の改新 17、白村江の戦い、敗れたのは九州王朝、唐の戦後処理 18、壬申の乱 19、日本国誕生

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3 はじめに 我々日本人が住むこの日本は、およそ1300 年前までは倭人と呼ばれる人たちが住む倭国と いう国であったと中国の歴史書には書かれている。我々日本人自身による歴史書はやはり ほぼ1300 年前に書かれた古事記、日本書紀による他はない。今から約 2000 年前、西暦 0 年頃の日本の本当の姿がいかなるものであったか、これを知るには中国の歴史書によるか、 日本の歴史書によるか、或いは、多くの考古学的発見によるか、これらを総合的に判断して 決めるか。難しい問題だが、「何に、どの位重点を置くか」によって、見えてくる姿は大き く変わってくる。2000 年前の日本には勿論文字は無く、伝承によって伝えられる話を書き とめたという、奈良時代に書かれた古事記はまさに驚異的な書物と言うほかは無く、現代の 我々が500 年前、つまり西暦 1500 年ころの、室町時代の後期から戦国時代にかけての出来 事を伝承のみによって語るという、ありえないことをなしているのである。当時、今から 2000 年以上前の中国は、始めて中国全土を統一した秦の興亡の後を継いだ漢の時代に入っ ていた。中国は文字の国と言われるだけあって、各王朝の正しい歴史を後世に残す、正史を 作る作業が次代の王朝により進められていた。 当時の倭国の状況を伝える初めての書物は、漢書の「楽浪海中倭人有、分れて百余国をなす」 というもので、これは当時の倭国の状況をほぼ正確に伝えていると言えよう。 本書では、この時代、つまり西暦0 年頃より奈良時代に至る、およそ 700 年間を対象に、 「倭国」即ち日本の歴史を著者なりの視点で描いてみたいと思う。勿論多くの先人がこの分 野で多くの著書をなしている。その道の専門家から、趣味として古代史を語る素人に至るま でその数は膨大なものである。その事は逆にいえば万人を納得させる、決定的な古代史の著 書がまだないということである。最近「倭国通史」(高橋通)なる著書が出版された。著者 の書きたかったのは、まさにこれで「先を越された」と思ったのであるが、読んでみると、 著者が考えていることとはかなり違っていて、ここはやはり「著者の考えていることを世に 問うてみよう」と著したのが本書である。著者は古代史の専門家でもなく、研究者でもない、 一介の市井の読書人である。古代史に関する多くの本を読み、専門家の講演を聞いてはきた が、実際に発掘に携わったこともなく、その跡を見て歩く程度で、古代史に関する知識は何 ほどのものでもない。しかし多くの書物を読んでみると「成程」と納得させる部分と「これ はどうか」と疑問に思う部分が交錯して、多くの書物で一気通貫に納得させるものは少ない。 著者は多くの本の「成程」と納得させる部分のみを取り出して、それを繋ぎ合せて通史に仕 上げた。従って多くの著書の「いいとこどり」をしているだけで、著者自身のオリジナルは ほんの僅かに過ぎないことを、最初にお断りしておく。しかし古代史を通史として考える時、 或る時期のみの状態を示す、文献、または考古学上の発見を、未だ明らかにされていない時 代を超えて、如何に繋ぎ合せて連続した歴史の流れを作るか。この想像力こそが歴史の真実 に迫る道ではないだろうか。アカデミックの世界の人は、それを「下らない妄想」として一 顧だにしない。確かに「妄想」かも知れないが、そうした妄想に新たな考古学的な発見を加

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4 えながら、一歩一歩歴史の真実に近づいていくことこそが、古代史を語る者の夢であり、な さねばならぬ姿であろう。アカデミックの世界の人も、前方後円墳は大和を中心とした出雲、 吉備、北九州の前方後円墳国家連合が葬送儀礼を中心に協議した結果として、墳墓の形式、 大小にその支配関係をみることができる、としている。果たして前方後円墳国家連合なるも のが存在しただろうか。3~4 世紀といえば朝鮮半島から次々と新しい勢力が進出してきて、 自らの基盤を確立しようと躍起になっている弱肉強食の時代に、文字も無く、遠く離れて往 来もままならないうえ、言葉も通じない人たちが集って墓の形を協議することなどあり得 るだろうか。最近、司法の場で専門の裁判官だけの判断では、あまりに世間の常識からかけ 離れすぎる、として裁判員制度が取り入れられた。「同じようなことが考古学、文献古代史 の世界にも言える」といえば専門家に対してあまりにも失礼だろうか。最近では素人という のは失礼かもしれない考古学とは全く別の分野の専門家の人たちが、古代史に関して多く の斬新な考え方をもった本を著している。これらの著作は、恐らく古代史に関わる多くの専 門家の方の目にも触れられていることと思うが、考古学の専門分野の方からの反論は一向 に目にしない。願わくば、これらの考古学の専門分野以外の方のすばらしい推論に対し、真 摯な反論で日本の古代史をより真実に近いものに近付けてくれる事を切に願っている。 日本の古代史を語る時、やはりそのベースとなるのは古事記・日本書紀で、その上に中国の 歴史書、金石文、考古学上の発見を重ね合わせて、更に最近目にした考古学の専門以外の方 のすばらしい本を参考に倭国通史を書きあげてみた。日本書紀の記述は、そのスポンサーで ある藤原不比等の意向が反映され、真実からは程遠いものになっている、との説がある。確 かにその通りで、そのまま鵜呑みにはできないが、かといって全てを否定するものではない。 国家形成の大筋はやはりこれに頼らざるを得ない。さて、どのような読み物のなったか、ご 笑覧いただければ幸いである。

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5 01.倭人は何処から来たか 日本列島に人が住み始めたのは旧石器時代と言われ、北方から氷河期に結氷した海の氷原 を渡って北海道方面に来たツングース系の人たち、大陸から直接または朝鮮半島経由でき た人たち、南方の島嶼部から島伝いにきた人たちが日本列島に定住し、混血しながら所謂縄 文人を形成していったと考えられる。北方から来た人たちは主に狩猟、漁猟・採取生活をし、 大陸・半島から来た人たちは採取(農業)・狩猟・漁猟生活、南方から来た人たちは漁猟を 主な生業にしていたと考えられ、これらの人たちは平和な生活を送りながら次第に混血し 縄文人を形成していった。 BC700 年の頃から中国大陸の動乱の影響を避けて、多くの人たちが直接または朝鮮半島経 由で日本列島に流れ着くようになった。所謂弥生時代の始まりである。当時中国は春秋戦国 時代で周の権威が衰えて小国が乱立し、やがて戦国七雄の時代となり、そのなかで呉が BC473 年滅亡した。揚子江下流域を生活圏とする呉の民は稲作を生業とする人たちで、北 方の小麦を主食とする漢民族とは生活様式が異なっていたこと、又呉を滅ぼした越とは同 族でありながら反目していたことから、彼らをして海に逃れ、新天地を求めさせたと考えら れる。彼らは東の海の彼方には「蓬莱の国がある」との言い伝えを信じ、小集団で海へ漕ぎ 出し、或るものは海流に乗って朝鮮半島へたどり着き、或るものは直接九州沿岸にたどり着 いた。その典型的な例として呉の民ではないが、秦の時代に不老長寿を願う始皇帝を騙して、 不老長寿の仙薬を求めて、3000 人の童男童女と共に東に向った徐福の話は有名である。徐 福伝説は日本各地にあるが、中でも佐賀県の有明海沿岸地方では、日本では和船を漕ぐ櫓は 普通左舷で漕ぐのに対し、中国と同じく右舷で漕ぐことから、徐福の末裔とも言われている。 中国からの渡来人は当時日本列島に住む縄文人が持たない、青銅器を持っており、少数で流 れ着いたものも青銅器製の武器に加え、文字をはじめその高い文化が縄文人に友好的に受 け入れられ、或いはその強力な武器によって縄文人の村を占領し服従させ、縄文人を使い田 を開発し稲作を普及させながら、その生活圏を拡大していった。これらの人たちを弥生人と 呼んでいる。弥生人が北九州で徐々に生活圏を拡大していった状況は、弥生遺跡として有名 な唐津の菜畑遺跡(日本最古の稲作遺跡として有名)を始め宇木汲田遺跡など多くの遺跡に みることができる。 呉の民を始めとして大陸または朝鮮半島から戦乱をさけ日本列島にたどり着いたものは多 く、次々に縄文人の村を制圧し、その結果北部九州に多くの小国が乱立する状態が出現した。 この状態が漢書に謂う「楽浪海中倭人あり。分れて百余国をなす。歳時をもって来たり献見 すという」の状態と考えられる。 朝鮮半島の状況は、伝説の王国、商の王族箕子が建てた箕子朝鮮があったが、衛満により滅 ぼされ、その衛氏朝鮮も前漢により滅ぼされた(BC108 年)。前漢は楽浪郡など四郡を置い たが、漢の権威が衰えるにつれて、公孫氏が遼東から楽浪一帯を支配するようになった。半 島南部は古朝鮮、所謂原三国時代と呼ばれ、馬韓、弁韓、辰韓、と呼ばれる小国の分立する

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6 状態であった。 朝鮮半島にはどういう人たちが住んでいたか。北部の旧満州には扶余、高句麗系の人たちが 住む一方、満州の北方、東部シベリア地帯に住んでいたツングース系の人々が、寒冷化のた め食糧の確保が難しくなり、南下を余儀なくされた。彼らは寒冷な地方を生きるうち、その 厳しい自然環境に適応した身体的特徴を備えるようになり、目は細く一重瞼で、鼻筋が通っ て細長くなったのも、冷たい空気を暖めて胸に送り込むためで、顔は細長くのっぺりした北 方ツングース系の人たちで半島北部から東海岸沿いに居住するようになった。濊、沃沮、と 呼ばれる人たちである。 半島南西部の馬韓地域は農耕に適した気候風土であり、中国大陸から南下してきた農耕民 が生活圏としていたが、呉の民は恐らく山東半島から海をわたり、この地域に生活圏として 足場を築いていったと考えられる。南部の中西部の弁韓、辰韓地域は太白山脈、小白山脈に 囲まれ、さらに両山脈の支脈が縦横に走り、平地は少なく、その中央を流れる洛東江は海抜 が極めて低く、その傾斜度は河口から120 キロ上流の威安で海抜 8m、300 キロ上流の安東 でさえ海抜80mであったため、弁韓地方の小国は洪水を避け、水位より 10m以上高い所に 居住し、山に囲まれた谷あいでそれぞれ別々に部落国家を形成した。(井上秀夫「古代朝鮮」)。 日本の淀川の場合、河口から75 キロ上流の琵琶湖の水位が海抜 85mであるのに比べても、 如何に緩やかであるかが分る。その結果、1~2世紀にかけての朝鮮南部は三韓以前の状態 で、馬韓地域は農業国であり五十二の小国が集まっていて、その中から4世紀に伯済国が統 一して百済となる。弁韓、辰韓の地は魏史に弁辰合わせて二十四国と表現されているように、 雑居している状態で、洛東江流域は後の加耶と呼ばれる小国が乱立した状態であった。辰韓 の地は後の新羅で、まだ国家として統一されたものではなく、また民族的にも前二者とは違 っていた可能性が強い。2世紀に入ると、後漢王朝の弱体化の影響で、楽浪郡などの郡の支 配が弱まり、北の高句麗、扶余が南下した影響で、三韓の地にいた人たちの一部が海に押し 出されて壱岐、対馬、北九州に押し寄せてきた。 その中の一つグループが天孫族であり、それ以前にも以後にも次々といろいろな人たちが 海を渡ってきたが、日本統一の勝ち抜き戦で、他の勢力を或いは破り、或いは統合しながら 最後に残ったのが天孫族であった。 では、日本を統一していったとされる天孫族とはどういう人たちであったか。澤田洋太郎は 彼らは加耶地域にいた小国家の一族で、その出自は「北方騎馬民族の扶余の系統に属する」 としている(「伽耶は日本のルーツ」澤田洋太郎)。高句麗、百済も扶余系で日輪信仰を持っ ていた。 朝鮮半島南部、壱岐、対馬にはもともと呉の系統の海洋民族、倭人と呼ばれる人たちが住む 地域であった。このように朝鮮南部(特に後に「浦上八国」と言われた晉州と金海の中間の 海岸地帯)、壱岐、対馬、北部九州には主に呉の系統の海人族が支配する小国が乱立する状 態であった。中国の歴史書「魏略」の中に、倭人の「旧語を聞くに、自ら太伯の後という」 とある。「史記」では呉の太伯は「周の大王の長男の太伯が弟に政権を委ね、自らは荊蛮の

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7 地に落ち延び、呉の王となった」とある。「魏略」は陳寿が魏志倭人伝を書く際に、下敷き にした箇所があるされている中で、「倭人の先祖太伯だ」とする伝承が強調されていること は、前記の北部九州地方は呉系の海洋民族が支配的だったことの証といえなくもない。 ここで「倭人」とはどんな人たちであったか、定義しておかねばならない。中国から見て倭 という国はまだなく、倭人とは「北部九州から壱岐対馬、朝鮮半島南部にかけて多くの部落 単位の小国を作って住む人たち」位に漠然と認識していたのではないか。では「どんな人た ちが住んでいたか」というと、これまで述べてきたように、日本列島に元々住んでいた縄文 人を、BC700 年頃から大陸、朝鮮半島から少しずつ、断続的に渡って行きた人たちが、新 しい技術、即ち金属精錬、稲作等の技術、国家形成的階級思想をもって、徐々に同化、支配 していった結果、渡来人(弥生人)を支配者にいだく多くの縄文人の小国が分立した状態で、 中でも呉の系統の支配者をいだくものが多い状態をいう。 中国大陸では越がBC334 年に楚に滅ぼされ、多くの民は南に逃れたが、一部海に逃れた者 もいると思われる。九州に流れ着いたものは北部には呉の系統の人たちがいるのを嫌って 南に行き後の狗名国となったという説もある。更に一部は黒潮に乗って東に行き、大阪湾に 入った。この人たちが漢書にいう東鯷国であるという。(古田武彦説)漢書・呉地の項には 「会稽海外東鯷人有、分れて二十余国を為す、歳時を以て来たり献見すと言う」。これは前 出の漢書・燕地の項の「楽浪海中倭人有、分れて百余国を為す、歳時を以て来たり献見すと 言う」と対をなしていて、しかも漢書・地理志中「歳時献見」の記事があるのは、この二国 だけであることから従来見捨てられてきたこの東鯷国の実在性はかなり高いと言えよう。 東鯷国がヤマトに存在したとすれば、しかも漢書・後漢書に記載されていながら三国志には 記載がないことから、BC2世紀~AD3世紀に存在し、しかも AD3世紀には滅んでいたと 考えられる。ということは、弥生時代中・後期に存在した唐戸・鍵遺跡あたりがあてはまり そうな気がする。 北部九州に住む倭人は楽浪郡、後には帯方郡に朝貢していた。多くの小国が朝貢する中で、 後漢の建武中元2 年(57 年)倭奴国が朝貢し、光武帝は印綬を下賜しその労を多とした。 これが有名な「漢倭奴国王」の金印である。後漢朝は当時倭国の領域を北は朝鮮半島南部か ら南は九州北部と見ていた。前述の如く、北部九州には呉の系統の民が縄文人の村を制圧し た小国が乱立していて、その中の一つの倭奴国が帯方郡に朝貢し漢より金印を授与された。 後漢の安帝永初元年(107 年)倭国王師升は生口 160 人を献上している。生口 160 人を運 んだこの時代の航海はどのようなものであっただろうか。後述の魏志倭人伝では対馬の民 は「南北に舟乗って出て米を買っている」とのべている。 「古代史の謎は海路で解ける」(長野正孝)によると、当時の倭人の舟は所謂「くりぬき舟」 で漕ぎ手が10 人程で日中のみ陸地を見ながら航行するやり方であった。一日の航行距離は 非常に条件がよくて、最大で50 キロ程度と考えられるとのことで、これは丁度朝鮮半島南 部から対馬までの距離に相当する。半島南部の金海のできるだけ西側の海岸、前述の浦上八 国の辺りから出航して対馬海流を横切って南に漕ぎ、対馬西岸の佐護または伊奈または木

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8 坂に着く。この時目標にしたのが棉津見神が鎮座する伊豆山(木坂)で、ここに綿津見神社 (海神神社)があるのも、古代倭人の航海の安全を祈願する気持ちが強く、卜占により航海 の安否を占い、この卜占が古代の神社信仰と結び付き、伊豆山の地に棉津見神社を鎮座させ たことと理解できる。対馬を旅行した時、浅茅湾と東海岸を結ぶ狭い入り江の奥に大船越、 小船越の遺跡があるのを見学したが、其の時は「海は繋がっているのに、何故わざわざ此処 で舟を引き上げて苦労して陸地を越すのか」と疑問に思った。しかし対馬の西海岸の浅茅湾 の入り口から、西海岸沿いに一気に壱岐まで行くには遠く、かといって下対馬の西岸には、 船が風待する良い港が無いことから、船越から陸地を船を曳いて東海岸に出て、厳原で風待 ちをして壱岐に渡ったとすれば、大船越、小船越があることが理解できる。それにしても、 160 人の生口をどうやって運んだのだろうか。10 人で漕ぐくりぬき舟の漕ぎ手の 8 人まで を生口にしたとしても(残る2 人は監督)20艘の船が必要になる。当時の倭奴国はそれを まかなうことができる程大きな経済力を持っていたことになる。ではその生口は何処で得 たのだろうか。一般的には弥生時代は比較的平和で、後から来た弥生人は土着の縄文人と平 和裏に共存したことになっている。しかし生口を運ぶために20艘の舟を自力で造る労働 力、または調達できる財力(その裏には更に数倍の舟を持っていた)を持つということは、 可なりの権力の集中が進み、労働力の集約化が進んだ結果と言わざるを得ない。戦いに敗れ た村、征服された土着の縄文人たちが奴隷的に稲作、その他の労働に従事させられた結果、 それほどまでの富の集約が進んでいたと考えてよいだろう。この時代、村の環濠化が進んだ のもこの状況に対応するため村全体を防御する必要があったためと考えられる。それだけ ではなく経済力のある国(国と言っていいか)は意識的に人狩りをしたのではないか。塩野 七生の「ローマ亡き後の地中海世界」を読んだ時、はたと思ったのは、西ローマ帝国の滅亡 後イスラム教徒がアフリカ北岸に進出したが、彼らは海賊をする以外生業がなく、地中海北 岸のイタリア、スペインの沿岸都市を荒らしまくった。荒らされる側の都市はこれに対抗す るため、近くに塔を作り、海賊がくれば一時的に全住民が避難する。海賊側もそこに定住す る意図はなく、獲るものをとってしまえば引き上げる。この構図が瀬戸内沿岸の高地性集落 にも当てはまるのではないか。つまり北部九州の有力な勢力は、朝鮮半島との交易で鉄を得 るためにも、朝貢の貢ぎ物にするためにも、より多くの奴隷を確保する必要があった。その ために積極的に瀬戸内海に進出して弱小部落を襲い、食物だけでなく壮年の男女を拉致し たのではないか。これに対抗するために「高地性集落が生まれた」と考えれば納得できる。 森浩一「日本神話の考古学」のなかで、高地性遺跡(氏は集落と呼ばず遺跡といっている) は弥生時代の中期と後期(BC1 世紀~AD3 世紀)にかけて集中して現れ、戦闘の際の『逃 げこみ場所』としての役割を果たした」として、環壕集落と共にこの時代が一般的に言われ ているように平和な時代というより、戦乱が繰り返されていた証ではないかと見ている。 この時代の解明されていないものの一つに「神籠石」がある。これは久留米市の背後にある 高良神社を取り囲むように斜面に石列が取り囲んでいることから、神域を区別するための 神籠石とする説と、朝鮮式山城とする説が対立している。近年発掘によって巨大な山城であ

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9 ることが判明したとされる築城年代のはっきりしない「神籠石」は13 か所あり、雷山、鹿 毛馬、杷木、高良山、女山、帯隈山、おつぼ山、御所ヶ谷、石城山、鬼ノ城、大廻小廻山、 永納山、讃岐城山である。「誰が、何時、何のために」これを築いたのか。「渡来文化のうね り・古代の朝鮮と日本」(李進煕)では、渡来人たちが土着の人たちと耕地の問題で争いを 生じないように「朝鮮半島の習俗に従って造った朝鮮式山城」としている。渡来人たちは近 隣との軋轢がある時、緊急の「逃げ込み城」として食糧を確保し、水源を備えている山城を 築いたとする。しかし、巨大な山城を築ける財力のある集団が近隣の小国に負けて逃げ込む 山城が必要であるとは考えられず、説得力に欠ける。「銅鐸民族の悲劇(臼井篤伸)」では驚 異的な説を唱えている。即ち前記のようにして集めた「女奴隷の強制収容設備」だろう、と している。魏志倭人伝にも記されているように、卑弥呼の宮殿には婢1000 人を侍らしてい たし、中国皇帝への貢物として女奴隷は貴重なものであった。神籠石の遺跡の名の中に「女 山(ぞやま)」、「おつぼ山」などの名が残り、女山神籠石の中に産女谷、粥餅谷など生活空 間を想起させる地名が残されていることからも女性を収容した設備であることが連想され る。北九州の神籠石は環壕集落の傍に発見されていて、征服した環壕集落の女性を収容する 設備で、朝鮮半島からの渡来人は主に男性であったことから、女性の需要はいつに時代も変 わらなかったのではないか。 朝鮮半島に住む倭人以外の民は、中国の技術を取り入れ、竜骨を持つ構造船を建造し帆走す るようになっていた。しかしこの構造船の帆走では多くの人を乗せて何日も陸地に寄らな いで航海することは可能だが、対馬海流を横断することはできなかった。従って彼らは壱岐 対馬には寄港できず、山陰の出雲ないしは敦賀方面まで流されながら航海し、流れ着いたと ころに上陸した。出雲に上陸した人たちは主に朝鮮半島の北方系の濊、貊、後の新羅系の人 たちで高句麗系の文化を持っていた。彼らが高句麗系の四隅突出墳墓を作り、日本で初めて 砂鉄からの製鉄をし、それによって山の木が切り倒され、水篩による砂鉄の分離で大量の土 砂が下流に流され、川の氾濫と土砂による河口の埋め立てを促進した。これらが後述する出 雲国引き神話の元となっていると考えられる。日本における製鉄の開始は遺跡の状況から、 6 世紀以降と考えられていることからすれば、3 世紀、4 世紀の時期に出雲で製鉄がおこな われたとは考えにくいのではあるが、早い時期に出雲で製鉄に類したことが始まっていな かったとも云えないのではないか。 さて、前述の天孫族の一部は朝鮮半島南部に住む倭人の海人族の安曇族の助けを借りて対 馬に進出した。しかし対馬は魏志倭人伝にもあるように、山ばかりで平地は少なく、農耕に も適していないことから、新天地を求める必要があり更に南の北部九州を目指した。 澤田洋太郎は、天孫族は海人の宗像族の助けを借りたことから、宗像近辺に上陸したとして いる。しかし天孫降臨、つまり天孫族の日本列島への進出が2世紀初めであったとすると、 倭人の航海技術(くり舟)で対馬から宗像に直接、壱岐に寄港せず渡れたかどうか疑問が残 る。ここはやはり壱岐経由で最短距離で行けて、しかも北部九州で勢力を持つ奴国の影響の 少ない末蘆(松浦)に上陸したと考えるのが妥当ではないか。

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以上が、現代の日本の国家成立の夜明けの段階で、1~2 世紀にかけての北部九州の状態で あった。

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11 02、古事記・日本書紀による日本の創生 古事記・日本書紀では日本の創生について、「天地が初めて発けた時、まだ国若くして、浮 いている油のように、クラゲのように漂っている時、天つ神はイザナギ、イザナミの二柱の 神に『この漂える国を修め理り固め成せ』と命じて天の沼矛を賜わった。二柱の神は天の浮 橋に立って、その沼矛を下してかき回して引き上げると、その矛の先より滴り落ちる塩が重 なり積もって島となった。その島がオノコロ島である。」と表現している。この表現は海洋 民族の製塩の状態を表すものであり、日本書記では日本人の祖先は海洋民族であることを 意識して「天の矛を使ってオノコロ島などの洲を作った」と表現したと考える。 オノコロ島を造った後、イザナギ、イザナミの二神は結婚し、国の元となる大八島を作る。 作った島(洲)は、(大日本)豊秋津洲、淡路洲、伊予二名洲、筑紫洲、隠岐三子洲、佐渡 洲、越洲、吉備子洲の八つの洲を大八洲としている。これらの説話から先ず「広矛」を使っ たことから「広矛」族、即ち北部九州系の説話であり、銅鐸系の説話ではないことが分る。 つまり発生が大和でないことが窺える。さてこれら八つの洲について、先ず最初の大日本豊 秋津洲について、大日本豊秋津洲の「大日本」は古い表現にはなく、ただの「豊秋津洲」だ ったと考えられる。「豊秋津洲」を大和盆地、もしくは大阪湾と考えると全ての洲の東端が 大和であり、大和から始まって勢力圏を西に伸ばしたことになる。では「初めに何処から大 和に来たのか」。先代旧事本紀がいうニギハヤヒのように「天の鳥船」に乗って大和に舞い 降りるわけにはいかない。そう考えると、朝鮮南部、壱岐対馬、北部九州から出発して東に 勢力を伸ばした人たちの説話を表していると考えるのが妥当であろう。 それでは最初に作ったオノコロ島は何処か。日本全国各地に「我こそはオノコロ島」という 地域は数多くあるが、なかでも淡路島の沼島の上立神岩は有名である。しかし前述のように 淡路島もまたこの勢力圏の東端であり、ここが発祥の地というわけにはいかない。従って西 の朝鮮半島南部の島か、壱岐、対馬を当てるのが妥当と考えられる。 イザナギ、イザナミの二神は大八洲を産んだ後、多くの神々を創成する。特に自然に宿る神、 生活必需品に宿る神を産むが火の神を産んだ時、その火に焼かれてイザナミは亡くなって しまう。イザナギは嘆き悲しんで、黄泉の国(出雲)にイザナミに会いに行くが、そこで見 てはいけない「イザナミの身体に蛆のわく」姿を見て、恐れおののいて逃げ帰る。逃げ帰っ た先が「筑紫の日向のアワキガハラ」で、そこで穢れを落とすために禊をする。左眼を洗う 時、成れる神の名は「天照大御神」。右眼を洗う時、成れる神の名は「月読神」。鼻を洗う時、 成れる神の名は「スサノオ命」。この時イザナギは「我はこうして尊い三柱の子を産んだ」 と喜び、天照大御神に珠を渡して「汝は高天原を治め」といい、月読命に「汝は夜の食国を 治め」といい、スサノオ命には「汝は海原を治め」と依頼された。 しかしスサノオは大きくなるまで、大声で泣いてばかりいるので天照大御神は「何故、依頼 された国を治めないで泣いてばかりいるか」と尋ねると、スサノオは「自分は母に会いに根 の国に行きたいから泣いている」と答えた。そこでイザナギは大いに怒って「それではお前

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12 はこの国に住んではいけない」と言って高天原から追放なさった。そこでスサノオは天照大 御神に別れの挨拶をしに行く、と言って天上に上る時、天地が大鳴動した。天照大御神は大 いに驚いて、「我が弟が上ってくるのは、善い心を持ってではなく、我が国(高天原)を奪 うために違いない」といって武装して、戦闘態勢を整えて待った。しかしスサノオは「ただ 別れを云いに来ただけだ」と弁解するが天照大御は「どうして、それが証明できるか」と迫 ったので、「誓(うけい)して(黒白を占って)子を産もう」と言った。そこで二人はそれ ぞれの持ち物を出し合って、占いをすることになり、先ず天照大御神がスサノオの剣を三段 に折って、天の真名井の水を吹き付けて三柱の姫を産んだ。次にスサノオが天照大御神の珠 から五柱の男神を産んだ。この結果スサノオは勝利宣言をして、天照大御神の国の「田の畔 を壊し、溝を埋め、神殿に糞を撒き散らし、更に天照大御神が止めないのをいいことに、機 織小屋に斑馬を逆剥して放り込み、驚いた機織女が死ぬ」ことがあった。そこで天照大御神 は畏れて天の石屋戸に籠ってしまった。 その結果、高天原は真っ暗になりいろいろな悪いことが起こった。そこで八百萬の神は天の 安の河原に集まって、いろいろ相談し、最後にはアメノウズメノ命が裸踊りをするのを見て、 神々が大笑いするのを聞いた天照大御神が「何事か」と岩戸を少し開けた時、隠れていた力 持ちのアメノタジカラオノ神が天照大御神を引き出したので、もとの明るさが戻った。そし て神々は相談して悪事をなしたスサノオの鬚を切り、手足の爪を剥がして高天原から追放 した。 以上が古事記、日本書紀が伝える天地創造の神話であるが、さて、ではこの高天原は何処な のか。これまた議論百出していろいろな説があるが、ここでは前出のオノコロ島と同じよう に朝鮮南部または対馬または壱岐島と考えるのが妥当であろう。司馬遼太郎の「街道をゆ く・壱岐対馬」によると対馬には阿麻氐留(あまてる)神社、高御産巣日神を始め、ほかに も古事記に出てくる高天原の神々の多くが対島の山河に鎮まっている。このことは先に述 べた木坂の伊豆山の綿津見神社が航海の安否を占う卜占と結び付いているように、対馬卜 部が対馬の山で祀っていた「天」を象徴する神々が対馬にはいるということで、天孫族の原 郷の高天原が対馬と考えてもよいのではないか。澤田洋太郎は天孫族の原郷である朝鮮南 部、加耶の地を当てている。捨てがたい説であり、半分「そうだろうな」と思うところだが、 ここでは、その原郷を追われてやっとたどり着いた対馬が高天原だとしておこう。 スサノオは高天原(対馬)を追われて、海に出て対馬海流に流されて西に漂い、流れ着いた 先が出雲の近くと考えられる。事実かどうかは別にしてこうして後述の出雲神話が始まる。 天照大御神は「豊葦原の水穂国は我が子、正勝我勝速日天忍穂耳命が治める国である」とい われて、天下らせた。しかし天忍穂耳命は天の浮橋から覗くと「水穂国は騒がしい」ので「自 分の代わりに誰かを行かせて下さい」とお願いして、アメノホヒノ命が天下るが、3年復命 せず、次に天若日子が天下るが8年復命せず、その後もいろいろあって最後に建御雷神が天 下り平定する。これが「出雲国譲り神話」である。 そこで天照大御神は天忍穂耳に「豊葦原の水穂国は平和になったから、天下って治めよ」と

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13 お命じになったが、天忍穂耳は子のニニギ命が生まれたので、ニニギ命に命じて代わりに天 下らせた。これが天孫降臨神話である。 この天孫降臨神話を歴史に即して解釈して見ると、2世紀の後漢末の混乱で楽浪郡の下に いた民が流民となって南下した影響で、三韓の地にいた人たちが海に押し出されて壱岐、対 馬、北九州に押し寄せてきた。特に辰韓、加耶の地にいた小王国の中の一つが、朝鮮半島南 部の海洋民族の倭人の協力で朝鮮半島を離れて南を目指し、先ず対馬に上陸した。それが後 に日本の歴史を造る天孫族であり、これを後に記紀でいう天孫降臨として「天上界(朝鮮半 島)から、地上界(対馬)に天下った」と表現している。魏志倭人伝は対馬の民は「南北に 舟に乗って出て米を買っている」とのべているように対馬には平地が少なく、稲作に適した 土地も極く少ないことからスサノオを追い払うだけだは立ち行かず、自らも又更なる新天 地を目指す必要があったが、北部九州には呉の系統の民が縄文人の村を制圧した小国が乱 立していて、その中には帯方郡に朝貢し漢より金印を授与された倭奴国などの強国が支配 し、容易に新勢力の進出を許さない状況だった。 以上のように、記紀の示す「天照大御神たちの高天原での協議の結果、いろいろあった末に ニニギを降下させる」話が「何らかの史実を反映しているかどうか」について、2 世紀前後 の北九州の状況が、鉄器の使用、古墳の形式の変化、即ち甕棺墓から支石墓への変化などに 見られる朝鮮半島からの影響が大なことから、半島からの新しい文化の移入と考えるのが 最も妥当だろう。そして文化の移入は人の移動と共に行われたとすれば、日本で弥生文化を 形成していた人たちの中に、半島からの新しい血を持った人たちが入って来て、魏志倭人伝 で云う、倭国大乱の状態をつくりだした。そしてその地は奈良盆地ではなく北九州であった ことは、容易に理解できる。何故なら、奈良盆地では2 世紀ではその生活様式の変化はみら れず、朝鮮半島から九州を飛ばしていきなり遠く離れた奈良盆地に文化の移入が行われた とは考えられないからである。 そして朝鮮半島から進出してきた多くの人たちの中で、最後まで勝ち進んだ人たちが天照 大御神を戴く天孫族であったとすれば、記紀の記述と考古学上の発見と整合性をもって説 明され、もしも天照大御神が実在したとすれば、それは2 世紀初め、AD100 年を過ぎた頃 の人と考えられる。 しかし、天照大御神は元々天孫族が祀る神であったかどうかは疑問が残る。天孫、もとを糺 せば天神が高山に天下りするというのは、ツングース系部族としては極く普通のことで、皇 室は古くは高皇産霊尊を最高神としていた。天孫降臨神話にもいくつかの異伝があり、「倭 国の謎・知られざる古代日本(相見英咲)」では日本書紀の異伝と古事記の降臨神話を古い 順に並べ替えた結果、古いものは降臨を命ずる神が高皇産霊尊一人である(神代紀 9 段本 文、第六の一書、第四の一書)のに対し、次には降臨を命ずる神は高皇産霊尊と天照大御神 となり(第二の一書、古事記)となり最も新しいと思われるものは天照大御神一人になって いる(第一の一書)。これは天孫族が倭王となった後、稲作農民が崇める日の神(女神・母 系社会のため)の信仰をとりいれて倭人社会を支配していった過程とみている。

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14 また溝口睦子「アマテラスの誕生」ではこのことをもっと明瞭に述べている。即ち、紀の天 孫降臨の条では「皇祖高皇産霊尊(たかみむすひ)は皇孫ニニギノミコトを立てて「葦原中 国の主とせんと欲す」とはっきりと掲げている。もしタカミムスヒがこのまま国家神であっ たとすれば、北方ユーラシアを起源とする北東アジア世界の高句麗、百済、新羅などの国と 同じ支配者起源説をなすものであり、これまで述べてきた朝鮮半島からの渡来者が日本列 島の支配者となっていく過程を肯定することとなる。しかし古事記では天照大御神が「豊葦 原瑞穂の国はアメノオシホミミ命の知らす国ぞ」として降臨させている。つまり天照大御神 を最高神としている。このことはどう考えたらよいのか。溝口は「天を基軸とする絶対神・ 至高神をもつ北方系の文化」が支配的な思想として創られようとしたものが、「海を基軸と する土着の多神教的文化」が支配的する思想に、どのようにして入れ替わっていったのか詳 しく説明している。詳しくは同書を見て頂くとして、要は記紀の神話は、はっきりと二元構 造をもっていて、紀の「神代上」と「神代下」がその二元構造に対する区分で、「神代上」 はイザナギ・イザナミの国生みにはじまり、オオクニヌシに終わる巻で、「イザナギ・イザ ナミ系」と呼ぶことができ、「神代下」はタカミムスヒを主神とする天孫降臨神話を中心と する「ムスヒ系建国神話」と呼ぶことができる。この二つの神話は下巻の初めに置かれた「国 譲り神話」によって結び付けられ、一つながりの物語になっている。しかしもともとこの二 つは、それぞれ別個に、関係なく作られた独立した神話だった。「神代上」は古くから伝承 された倭古来の神話・伝承を集成した神話体系であり、「神代下」は朝鮮半島から渡来の北 方系支配者の起源神話に範をとった建国神話である。ではどのようにしてヤマト王権の主 神は入れ替わったのか。溝口は詳しく説明しているが端的にいえば、「長い年月のたつうち に、地方豪族や民が信ずる多神教世界の中のアマテラスを国家神とする方が、支配体系の収 まりがよかった」ということに尽きるのではないか、としている。何れにしろ、記紀神話で は朝鮮半島からの渡来系の人たちが、土着の弥生系の人たちを支配し、別の言い方をすれば、 「協力を得て」国家形成をしていく様子が神話的に語られている、としている。

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15 03、天孫降臨とは Ⅰ~2世紀の北部九州の状況は、前述の如く大陸から流れ着いた主に呉系の民が縄文人の部 落を制圧し、多数の小国が分立する状態であった。朝鮮半島南部に鉄の製造技術が伝えられ、 それが古朝鮮三国の弁韓の地で生産されるようになると、魏志倭人伝によると「韓、濊、倭、 皆ほしいままにこれを求む」という状態であった。当時日本には金属といえば青銅性のもし かなく、鉄に比べて格段に性能は劣り、倭の各国は文字通り争って鉄を求めた。鉄は武器と しても、農機具としても勝れ、これにより米の生産性も格段に上昇した。その結果漢書では 「分れて百余国」をなしていたのが後漢書では「三十余国」に集約されている。この三十余 国の内で特に有力だった国は 107 年朝貢した師升の奴国と邪馬台国であった。邪馬台国に ついてはいろいろの説があるので後述する。 一方朝鮮半島では魏志韓伝では「桓帝、霊帝の末(146~220 年)韓・濊が強勢となり・・・ 多くの民が楽浪に流入し、建安年間(196~220 年)遼東の公孫氏は兵を挙げて漢の暗黙の 了承のもとに楽浪に進出し韓・濊を討伐したが楽浪の旧民は僅かしか見いだせない」状態で あった。この動乱の影響を受けて、半島南部から倭人、韓・濊の旧民、北方からの扶余系の 民、半島南部の加耶の地で小国家を形成していた人たちの一部は、玉突き状に押し出されて 北部九州に押し寄せた。魏志倭人伝に謂う倭国大乱の始まりである。朝鮮半島からの人たち の中で、天孫族と呼ばれる人たちは壱岐島から博多湾をめざすよりは松浦湾を目指す方が 近く、また博多地方は奴国の勢力が強く容易に上陸出来なかったことから、松浦湾(末蘆) に上陸し、そこから東は糸島地方に勢力を張る伊都国を避けて、東南、現在の松浦街道を通 り有明海沿岸に出た。このコースが天孫族が対馬から壱岐を経由して北部九州にたどり着 いたルートと考える。 「天孫族はどういう人たちか」これについては色々の説があるが、その伝承から太陽信仰を 持つ北方系の扶余系の人たちではないか。彼らは倭人の海洋系の民の助けを借り一旦対馬 に落ち着いた。しかし対馬は山ばかりで平地が少なく、住むには適切でない。そこで対馬を ベースに東へ(出雲地方)、南へ(北部九州)へ進出していった。高天原を対馬と考えるに は対馬はあまりに平地が少なく、むしろ壱岐と考えた方が納得しやすいが対馬に残るアマ テル神社や棉津見神社の伝承も捨てがたく、一応、対馬が高天原としておく。 菊池秀夫「邪馬台国と狗名国と鉄」によると対馬では鉄器を副葬する木棺墓が、北部九州よ り一足先に墓制の主流をなしていて、これは極めて重要な意味を持っている。北部九州の墓 制は、倭国大乱が終結する2 世紀末ころを転換期として、甕棺が木棺墓に入れ替わる。そし てこの木棺墓こそ北部九州の 3 世紀代、つまり卑弥呼在世期の墓制の主流である。従って 対馬に鉄製武器を豊富にだす木棺墓が出現し、その後北部九州では、倭国大乱を経て、首長 墓が対馬的な木棺墓に統一されていったと考えられる。 このことは、一旦対馬に落ち着いた勢力が邪馬台国の時代に北部九州に進出してきたこと を裏付ける。彼らは「既存の勢力との軋轢の少ない土地を選んで、末蘆から有明海側に抜け、

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16 筑後川河口に落ち着いた」とする説がある。この天孫族の一団を後述の邪馬台国と見れば、 筑後川中流域に山門があり、発音が同じことから邪馬台国があったこととの整合性がよく、 有力な説となり得る。しかし、朝鮮半島から筑後川中流域に落ち着くには、その間の過程を 合理的に説明し得るものが必要である。記紀の天孫降臨神話を、ある種の伝承に基づくもの と考えれば、天孫降臨の苦労を伝える出雲神話はあるけれども、九州に降臨する話はない。 「出雲神話が九州降臨の話を投影している」と見るには、廻りくどく出雲の説話にしないで、 直接九州の説話にすればよいのに、と考える。天孫族を邪馬台国と見做すのであれば、魏志 倭人伝との整合性がとれなければならない。 末蘆に上陸した後、魏志倭人伝通りに東南に進みイト国に至る。残念ながら有明海北岸地に イト国に相当する遺跡は発見されていない。しかし発見されていないことは存在しなかっ たことと同義ではない。魏志倭人伝を忠実に読むと、この辺りにイト国は存在した筈なのだ が。更に有明海北岸沿いに東に進み、不弥国から南下して投馬国があったとされる、「肥後 (熊本)平野を通り八代から球磨川に沿って上流に逆上り、人吉から南の狗名国の勢力圏を 避け、狗名国勢力の北端を西に進み、宮崎県の西都市の辺りに落ち着いた。」この地が邪馬 台国と考えれば、魏志倭人伝との整合性はとれる。(後述の「邪馬台国は何処か」参照) 記紀の天孫降臨神話では、天照大御神は葦原中国を治めさすべくニニギを降臨させた。では 「葦原中国は何処か」記紀の物語の流れからすると、当然「出雲」ということになるが、こ れ以後の話では「出雲」という話は一切出てこない。降臨した先は「筑紫の日向の高千穂の クシフルタケ」となっている。では「それは何処か」となると、また議論百出であるが、何 れにしろ出雲ではなく九州ということになりそうである。ニニギは「此の地は韓国に向い笠 沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故此の地はいと善き地なり」 と言はれて、そこにすむ住むことになるのだが、その後の話からそこは海辺でなければなら ない。それが前記の西都市の辺りから日南海岸一帯とすれば、記紀の神話と一致する。しか し古事記ではニニギは「笠沙の御前」で美しい娘「木花サクヤ姫」に会い、その父の大山津 見神の許しを得て結婚する。一夜の契りで身ごもったのを疑ったニニギに対し姫は「我が子 が神の子でなければなら出産は幸くあらず、神の子であれば出産は全く生きたまえ」といっ て、出入り口のない大きな産屋をつくり、それに火をかけて焚き始めに産んだ子はホスセリ 命、次に火の盛んな時に生んだ子は火明命(ホアカリノミコト)、は次に生んだ子は彦火火 出見尊(ヒコホホデミノミコト)。(日本書紀・本文) ここで彦火火出見尊の兄の火明命について、尾張連等祖とされているが、丹波の籠神社に伝 わる国宝「海部氏勘注系図」によると、始祖彦火明命の九世孫に「日女命」・ヒミコの名が あり、さらに十一世に同じく「日女命」の名があることから、邪馬台国の卑弥呼とトヨのこ とであり、即ち邪馬台国は丹波にあったとの説がある。事実丹波は最近の発掘調査からも、 各種の先進的な遺物が発掘され、なによりも国宝に指定された系図に、それらしき名がある ことから一考に値する説である。(伴とし子) しかし、この説が成り立つためには後述の邪馬台国畿内説と同じく、魏志倭人伝の「不弥国

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17 から南、水行20 日」の南を東に読み替えなければならない。これを「読み替え」でなく合 理的に説明する証拠として、龍谷大学が所有する15 世紀に朝鮮で作られたとされる「混一 彊理歴代国都之図」では「日本列島が九州から南に延びる形」で描かれているのを、唯一の 根拠としている。しかし、これ以外には同様の資料は全く見つかっていないことから、果た して信じるに値する資料であるか疑わしい。 ホスセリ命は海幸彦で隼人の祖といわれ、彦火火出見命は山幸彦で、例の釣り針の交換から、 釣り針を失った山幸彦は塩土老翁の案内で海神の国に行き、豊玉姫を得て三年過ごすが、或 る時、元のことを思い出して嘆いている理由を姫が聞き、姫の父の海神が万事計らって送り 返し、釣り針を海幸彦に返すが海幸彦は許さない。山幸彦は海神に教えられた術を使って海 幸彦を懲らしめ海幸彦(ホスセリ)も服従することになる。この説話は天孫族(山幸彦)が 海神族(海幸彦)を支配下に置く事実の投影とみることができる。 海神の娘の豊玉姫は産み月になると「天神の子は海では産めない」といい、海辺に鵜の羽で 葺いた産屋を作り、その中で産むはずが、未だ葺き合えぬうちに産気づく。夫のホオリには 「中を見てはいけない」といって産屋に入るが、ホオリは「奇し」と思って中を覗くと姫は 八尋鮫になっているので、びっくりして逃げた。姫は恥ずかしく思って、海神の国に帰って 行った。というわけで生れた子の名は「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」(アマツヒコ ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)という。 しかし、豊玉姫は子を懐かしく思い、妹の玉依姫を遣す。ウガヤフキアエズノ命は、後にこ の叔母の玉依姫と結婚し四人の子をもうける。その名は、五瀬命、稲飯命、御毛入野命、神 倭伊波禮毘古命(神武天皇)である。 五瀬命は神武東征中に死亡し、二男の稲飯命は「新撰姓氏録」によると新良貴氏は稲飯命の 後なり、これ新羅に出ず、となっている。三男の三毛入野命は北九州香春町の「現人神社」 の拝殿に掲げられている説明に「新羅に渡り新羅王となり、帰国して都怒我阿羅斯等となる」 とある。兄二人が新羅人であるからには、弟の神武も新羅人である、とする説もある。(「新 羅の神々と古代日本」出羽弘明) このように、記紀の天孫降臨神話は「他愛のないお話」といってしまえば「それまで」だが、 その中には多くの伝承が含まれているのではないか。そしてその伝承は、部族にとって昔か ら言い伝えられた、ある種の事実に基づいているのではないか。というのは記紀の作者が現 代作家顔負けの話を「無」からつくりだしたとしたら、とんだもない天才ということになる。 例えば笠沙は鹿児島県の西海岸にあり、前述の天孫族の一部は八代で上陸しないで、さらに 南を目指し、「笠沙に上陸した者もいる」ことを表し、「鵜葺草葺不合」は宮崎県日南海岸の 鵜戸神宮を連想させる。 イワレヒコ(神武天皇)はこの後東征に出るのだが、神武は天照大御神から数えて4 代目と なる。この時代の一代は何年か、仮に現代より結婚が早かったとして15 歳で結婚したとす れば、天照大御神より60 年後の時代となり、2 世紀後半の人となる。

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18 04、出雲国譲り神話とは 弥生時代、呉を始め多くの難民が大陸、朝鮮半島から北部九州に流れ着いた時、一部の人た ちは対馬海流に乗って更に東に流れて出雲地方に上陸した。彼らは先進的な青銅の技術を 持っていたが相対的に人数も少なく、先住の縄文人を圧倒できるだけの力がなく、其の結果 共同で平和裏に村を運営することになった。稲作の先進的技術と天文、呪術、金属精錬の技 術を持つことから、先住の縄文人の尊敬を集め村のリーダー的地位を得るようになった。こ れが「大国主」伝説を産む基となったと考える。 1~2 世紀にかけて朝鮮半島東岸に住む濊・など高句麗系の住民が大型の帆を張る構造船で 北から南下するリマン海流の支流、北朝鮮海流にのり南下し半島南部で対馬海流にのって 西に向かい、山陰地方に流れ着いた。出雲地方に流れ着いた彼らは先進の鉄を持っていたこ とから、先住の平和に暮らす縄文人と呉系の民の暮らす村々を次々に制圧し、高句麗系の四 隅突出墳墓の文化を持つ、特殊な文化圏を築いた。彼らは鉄を作るために山間部に入り、先 住の民を使って斐伊川上流で木を伐採し、川で砂鉄を篩い、炉で鉄を生産した。その結果山 は荒れ、川は氾濫し下流では土砂が堆積し、宍道湖を埋めていった。この状態が「出雲国引 き神話」を生み、「テナズチ、アシナズチ」が高句麗系の民である「ヤマタノオロチ」に苦 しめられる神話を産んだ。虐げられた先住の民の一部は出雲を離れ南下し最終的に大和盆 地にたどりつき、先住の東鯷人(前述)の住む地域を避け、東側の三輪山ふもとに落ち着き 出雲の庄を作った。これが大国主が三輪山の麓一帯を出雲族として治めていた話と一致す る。彼らは稲作の民である蛇神族で、稲作に欠かせない雨を呼ぶ竜を尊び、蛇がドクロを巻 いた姿の美しい三角垂の形の三輪山をこよなく尊んだ。 2 世紀に入ると、半島の動乱から玉突き状に押し出された天孫系の一族のなかに、北部九州 の人たち(物部族)と共に和船ではなく、半島で実用化されていた大型の準構造船「天の鳥 船」にのって大和盆地に入って来た人たちがいた。ニギハヤヒ(饒速日)に率いられた一団 である。彼らは恐らく瀬戸内海経路で移動したと考えられるが、前述の「古代史の謎は海路 で解ける」によれば、瀬戸内海を船団を組んで移動するには、一日の工程20~40 キロ毎に 停泊できる港町が必要で、(当時のくり舟では昼間の陸地を見ながらの航行しかできない) さらに瀬戸内の複雑な潮の流れから、風待ち、潮待ちで何日も逗留しなければならない時も あることから、大型の準構造線といえども風待ち、潮待ちの港が必要である。しかし瀬戸内 沿岸の当時の遺跡からはこれらに相当するものは見つかっていない。あるいは彼らこそが 記の神武東征でいう「筑紫の岡田の宮で1 年、安芸のタギリ宮で 7 年、吉備の高島宮で 3 年」と十分な準備をしながら瀬戸内海を東に大阪湾に向かった一団であったかも知れない。 そうでないとすれば、彼らの移動はやはり山陰海岸を対馬海流にのって東に行き、出雲又は 丹波又は敦賀辺りに上陸したか。もし出雲に上陸していたら、高句麗系の民と一戦交えたか。 そしてその話が出雲国譲り神話の基となったか。或いはこの出雲国譲り神話は、この後同じ ようにやって来たニニギの話に譲って、ニギハヤヒの一団もまた、先住の出雲族と同じよう

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19 に戦いを避け陸路南の大和盆地をめざしたか(とすれば、「天の鳥船」に乗って哮峰/イカ ルノミネに降臨し話と合わない)。何れとも判断しかねるが、ここではニギハヤヒの一団は 瀬戸内海を東進し「出雲には寄らなかった」としておこう。 次に出雲へ来たと思われる人たちは高天原を追われたスサノオで、前述のごとく記紀神話 によると、イザナギ、イザナミの生んだ3 貴神、天照大神、月読神、スサノオである。スサ ノオは乱暴で、大きくなっても「亡き母のいる根の国に行きたい」と泣くばかりだったので、 怒った父神イザナギに追い出された。そこで姉アマテラスに別れを告げに戻った時「心の清 さ」を占うウケイに勝って、乱暴を重ねた。田の畔を壊し、溝を埋め、新穀を食べる御殿に 糞を撒き散らし、姉が機織りをしていた建物の屋根を壊し、逆剥した馬を投げ込んだりした。 怒りを抑えかねた姉アマテラスは「天の岩屋戸」に身を隠したので高天原は暗黒の世界とな り、そのため困った神々は色々と工夫をこらし、互いに力を合わせて、ようやくアマテラス を岩屋から引き出すことができた。怒りにふれた神々は衆議によってスサノオを高天原か ら追放した。 惨めな姿で高天原から追放されたスサノオは出雲の斐の川の上流に降りたち、そこで上流 から箸が流れてくるのを見て、川上に人が住んでいることを知り、川をさかのぼると国つ神 の大山津見の神の子のアシナズチ、テナズチに会い、この夫婦が訴えるには「もと8 人の娘 がいたが、高志の八股の大蛇が毎年やって来て食べるので、クシナダヒメ一人になった。今 年も大蛇が来る季節になった。」と泣いた。そこで一計を案じたスサノオは、八つの酒樽を 用意しやって来た大蛇に飲ませて酔いつぶし、刀でこれを退治した。この高志の八股の大蛇 とは、前述の半島から来た高句麗系の人たちのことで、彼らが鉄作りのため先住の弥生系の 民を虐げた状況を表している。 この後スサノオはクシナダヒメと結婚し須賀の地に宮を造った。この須佐の地は出雲風土 記でいう飯石郡、須佐郷と考えるのが妥当であろう。ところで、この須佐の地を訪れてみる と分ることだが、四隅突出墳墓のある出雲市近辺からは遥かに離れた辺鄙なところで、有名 な荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡とも谷違いである。スサノオの須佐神社が「こんな辺鄙な離れ た地に何故」と思ったものだが、考えてみれば始めに進出できたのは、「辺鄙なとこでしか なかった」ということか。 テナズチ、アシナズチの話は高句麗系の征服民が鉄を造るために、呉系の弥生人の部落を圧 制の基に強いた事実の証であり、スサノオがこれに対して一矢を報いていく過程ではない か。古事記では大国主は、高天原を追われたスサノオが出雲の肥の川の上流で「ヤマタノオ ロチ」に苦しめられる「テナズチ、アシナズチ」を助ける話に始まって、この地で多くの娘 と交わり子をもうけ、その子の一人として生まれたとある。大国主は異母兄弟の迫害に苦し められるがヤガミ姫とスサノオの娘のスセリ姫の力を借りて、何とか難局を切り抜け、スサ ノオに認められて出雲を治めることになる。 大国主は少彦名命と力を合わせて国造りに励むが「国造りで、まだ成さざるところあり」と いいながら、少彦名命は常世の国にいってしまう。そこで大国主は「自分一人では、どうし

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20 てこの国を治められようか。誰か自分といっしょにこの国を造るだろうか。」と言った時、 海を照らして来る神が云うには、「自分をよく祀れば、いっしょに国を造ろう。そうしなけ れば国を造るのは難しい。」と言い、そこで、大国主が「汝は誰か」と尋ねると、その神は 「吾は汝の幸魂・奇魂なり」と答え、「では、何処に祀るのか」と聞けば、その神は「吾を 日本国の三諸山の上に祀れ」と言った。これが三諸山(三輪山)に鎮座する大三輪神社の神、 ということになっている。大国主はほかにも大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神など多く の名前をもち、各地に伝承する大国主伝説を一つにまとめたものと考えられるが、大国主は もともと三輪山の麓を治めていた神ということになる。 ところで、出雲の語源・由来については現在二つの説が並立しているそうで、「八雲立つ、 出雲」の枕詞にある如く、文字通り雲が絶えず沸き起こる自然現象を素直に表現したという ものと、もう一つ水野祐が唱えた「厳藻(いずも)」説で、斐伊川下流低湿地に形成された 淵に生える天然の藻を神聖視する信仰からきている、とのことである。 古事記には多くの出雲神話がのっているが、その一つ「出雲国引き神話」は、単純に斐伊川 上流での製鉄作業の影響で大量の土砂が流れ出し、下流域を埋めて行った結果、本来日本海 と繋がっていた宍道湖が陸封され斐伊川河口域に出雲平野が出現し、島根半島が陸続きに なった現象を伝承化したものと考える。 「出雲国風土記」の意宇郡条にはこの郡名の由来を説明した個性的な神話が記載されてい る。いわゆる国引き神話で、この国引きの主人公が「八束水臣津野命」である。彼は非常な 巨人で「出雲の国は始め小さく作ったので、近くで余っている所を引き寄せて縫い合わせよ う」として朝鮮半島の新羅の一部、隠岐の島の一部などを引き寄せたとしている。しかしこ の話は記紀には見えず、出雲風土記のみに記されているところから、意宇の地を支配してい た出雲国造が、意宇の地を権威づけるために風土記編纂時に作り込んだとも考えられる。八 束水臣津野伊命は古事記の神代巻に一度だけその名を記された神で、スサノオから四代目、 大国主の祖父に当ることになっている。(前田春人「古代出雲」)つまり大国主以前に出雲の 国造りに関わったことになる。門脇禎二「出雲古代史」によると、出雲風土記だけに伝えら れる国引き神話は、5 世紀から 6 世紀にかけて意宇を中心に力強く進んだ国造りを風土記に 書きこんだ、としている。いろいろ総合すると八束水臣津野命は風土記作成時に書きこまれ た伝説の巨人と考えられる。 さて、ハイライトは「出雲の国譲り神話」である。高天原から派遣された天孫系の神々によ る「葦原中国の平定(出雲の国譲り)」はどの時代に入れられるのだろうか。 記紀によると、最初に派遣されたアメノホヒノミコトは 3 年たっても復命せず、高天原の 神々は相談してアメノワカヒコを派遣する。しかしアメノワカヒコも大国主娘の下照姫と 結婚して8 年復命しない。神々はまた相談して「雉」を様子見に遣わすが矢で射殺され、高 天原に帰ってくる。神は怒って「アメノワカヒコに邪心があるのなら、この矢が当たれ」と 射かえすとアメノワカヒコはこれに当って死んだ。そこで今度は建御雷神を遣わす。建御雷 神は伊那佐の浜に降りたち、大国主に向って「葦原中国は天照大御神の子が治める国だ。汝

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21 の心はどうか」と尋ねた。大国主は「自分が答える代わりに、息子の言代主に答えさせよう」 といって言代主を呼びにやり、帰って来た言代主は「この国は天つ神の御子に奉ろう」と言 って自分は海の彼方に去った。そこで建御雷神は大国主に「子の言代主はこう云っているが、 どうか」と尋ねると「もう一人の子の建御名方に聞かねばならぬ」と言う。直ぐに建御名方 は来て「誰だ、我が国に来てこそこそ話しているのは。力比べで決着をつけよう」とするが、 負けて信濃の諏訪の地まで追いつめられて、殺されそうになった時「父の大国主の云う通り、 蘆原中国は天つ神の御子に奉る」といって国譲りに同意する。そこで大国主は出雲のタギシ の浜に自分の住む宮殿を造ってもらうことを条件に国譲りをする。 このことが記紀神代編に出雲国譲り神話として記されているが、何らかの歴史的事実を反 映しているとは考え難い。前述のごとく大陸からの渡来系の人がもつ、タカミムスヒを主神 とする天孫降臨神話と、イザナギ・イザナミ、アマテラス、オオクニヌシ系の倭古来の伝承 された神話体系を結びつけるために、記紀創作者が創作した苦心の作と見做すことができ る。 では、大和朝廷と出雲の関わりはどのようなものだろうか。祟仁紀60 年条の「祟仁が出雲 の神宝を見たい」といい、タケモロスミを派遣して献上命令を伝えるが、これを拒んでいた イズモフルネが筑紫に行き不在中に、弟のイイフルネが兄に無断で神宝を大和に献上した が、帰国したイズモフルネは怒って弟のイイフルネを謀殺する。また景行紀にみえる、ヤマ トタケルが熊襲退治の帰途、出雲に寄りイズモタケルを謀殺する事件。これらは記紀の国譲 り神話の言代主は不在で建御名方は建御雷神と争って敗れ、諏訪に蟄居し、帰って来た言代 主は服従、両神の父大国主は服従して国譲りをする。これらは大和朝廷と出雲の接触、征服 の段階を表すもので、結局大和朝廷による出雲の征服が神代ではなく、恐らく祟神紀に行わ れたこと示しているのだろう。(門脇禎二「出雲古代史」)祟神はハツクニシラススメラミコ トとして実質初代天皇と考えられ、四道将軍を派遣し国の拡大を図ったなかの一つとして、 出雲の平定が位置づけられたと考えられる。

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22 05、邪馬台国はどこか 前節までの説明で、北部九州には主に呉系の民の小国三十余国が乱立し、なかでも奴国が有 力であったこと。対馬には朝鮮半島から押し出された扶余系の天孫族が海族の倭人ととも に高天原というベースキャンプを置いたこと。更にこのベースキャンプをもとに、南へ、東 へと進出の機会を狙い、一部は北部九州の、中でも奴国の影響が比較的に少ない末蘆(松浦) に上陸し、南東の有明海方面に進出していったこと。出雲方面は先ず、呉系の民が上陸した が、人数が少なかったことから北部九州と違って、先住の縄文人と平和に暮らしていたが、 朝鮮半島東岸から来た、鉄を持つ高句麗系の民に圧倒され、其の下で奴隷的生活を余儀なく されたが、一部は南に逃れ、大和盆地の東、三輪山の麓に落ち着いたこと等を説明した。 さて、邪馬台国である。魏志倭人伝は陳寿(233~297)が撰述し当時の倭国の様子を知る唯 一と言っていい資料として、多くの人により色々に解釈されている。というのは魏志倭人伝 には疑問点が多く、その矛盾した情報から、読む人により様々な解釈が生まれるからである。 或る人は魏志倭人伝は中国の正史であり、いい加減なものであるははずなく、特に漢時代の 正史は、張謇の旅した西域の記述が充実しているのに対抗して、陳寿は東の夷の記述に力を 入れた結果の力作である。とする一方、或る人は中国の史書は中華の記録には力をいれる割 には、周辺諸国の記述はいい加減なものが多く信用するに足りない。元々そういった曖昧な 記述を「ああでもない、こうでもない」と議論すること自体無意味である、とまで言う人も いる。その情報の矛盾を整理すると主に次の二点に絞られる。 ① 不弥国から邪馬台国まで投馬国を経由して「水行 30 日、陸行1月」という日程を基準 とした情報 ② 郡より女王国に至る 12,000 余里。という里数による情報 この二つの矛盾する情報が併存し、これを苦心惨憺して整合させる為何らかの理由をつけ て一方を無視するか、改変するかしか論理一貫して整合させる方法がなかった。これまで唯 一合理的に説明したのは大和岩男等の「卑弥呼の女王国が東遷して台与の邪馬台国となっ た」という「時代の異なる二つの邪馬台国説」位である。上記①では不弥国から南へ水行30 日、陸行1 月行くと、遥かに九州の南の海上にでてしまうので、「南」を「東」に読み替え て邪馬台国畿内説の根拠とする。②では邪馬台国九州説の根拠となるが、郡より女王国まで の12,000 里から郡より不弥国までの合計 10,700 里を引いた 1,300 里を行くのに、とても 「水行30 日、陸行 1 月」はかからない、という矛盾をかかえる。 最近、この矛盾を解く決定的な本が出版された。「日本古代史を科学する」(中田力)である。 彼は医者であり古代史は専門外の領域のようだが、その鋭い観察眼から導きだされる結論 は古代史の専門家も「目から鱗(うろこ)」のはずだが、これまで専門家からの際立った反 論は目にしていない。彼の推論の大前提は「魏志倭人伝は正しい」としているが、多くの専 門家が「一部正しく、一部間違っている」として、「いいとこどり」をしているのに比べれ ば、遥かに論理的である。

参照

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