ISSN 02880911
,
真宗連合準曾研究紀要
一一第二十九輯一一
昭 和 59揮 12月車
雪
(
.隻詩主宰壱当戸屋書急虐ヨ
r
真
にb刀ミ
研
占古ヨE7u
第
二
十
九
輯
真
宗
連
合
学
会
真
ヒb 刀"" 第二十九輯目
次
研
りh 7lJ戦
国
|期
由
主
主宰
主 院
吋の
∼
向
極楽と浄土について
ーふ,,・ 石法然浄土教における生死の問題・
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. .
・ ・ ・ ・
・ 川
﹁尊号真像銘文﹄広本撰述の意趣
真
宗
教
学
者
に
お
け
る
歴
史
と
責
任
:
:
・
:
:
:
・
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
・ ・ ・ ・
龍
||教学者の戦争責任をめぐってl
l
l
親驚における神祇の﹁不拝﹂と﹁不捨﹂について
田
本
願
成
就
と
し
て
の
願
生
彼
国
:
:
:
:
:
:
j
i
− − :
: −
j
i
− −
: :
: 藤
本 昌 之 ︵ 一 ︶ 林 信 受 ︵ 一 六 ︶ 添 泰 門 川 徹 渓 代 俊 撮 明 信 ︵ 二 九 ︶ 真︵四一ニ︶ 章 雄 ︵ 七 六 ︶ 孝 ︵ 九 四 ︶ 信 ︵ 一 室 ︶歎異抄第四章の背景
吾 妻 ミm:現
代
に
生
き
る
了
源
の
遺
教
・
:
:
j
i
− − :
: :
j
i
− − :
j
i
− −
: :
・ 竹
親驚聖人における太子信仰の特質
・ ・ ・
・ ・ ・
・ ・ 武
真宗声明について
||特に聖人在世と覚存時代を中心にll
竹
八記念講演﹀
真
宗
に
お
け
る
安
心
問
題
−
−
ji
− − :
ji
− −
j
i
− −
: :
: :
・
ji
− − :
寺
初期真宗と仏光寺
千
学 会 葉 山 勝 薗 田 賢 内 淳 倉 葉 乗 海公一回﹀ 日 Eヨ 丸︵一毛︶−
Z 胃 ハ 一 四 回 ︶ 有 ︵ 一 豆 七 ﹀ 裏 ︵ 一 合 一 ﹀ 隆 ︵ 一 九 七 ︶報
〈〉 寸コ '-" 新 会 員 紹介
f「 1 \ーノ戦国期真宗寺院の一動向
||聞名寺と時衆||本
回 目 之 ︵ 大 谷 大 学 ﹀ は じ め に 富山県婦負郡八尾町聞名寺は、覚如弟子願智坊覚淳の開基と伝える。覚淳は美濃国各務郡平馬に住し、永承と名の る天台僧であったが、覚如に帰依し名を改めた。その後飛騨国高原郷に移り、嘉暦元年には覚如から﹃執持紗﹄を下 付され向。応仁年中越中へ進出したが、明応年間飛騨に戻り茂住銀山に聞名寺を建立し、再び越中へ進出した。各地 ① を移動の後、天文二十年八尾に寺基を置いたという。 寺伝は史料的に証明される所であり、照蓮寺と共に飛騨における真宗の古利として、飛騨・美濃・越中に門末を擁 ③ する大坊主であった。ところが近年越中進出時期について疑問が投ぜられ、また戦国期に時衆と関係を有していた事 も指摘され、聞名寺史の再考が必要となった。 初期真宗に時衆が投影している事や、室町中期以降本願寺門流が飛躍的な発展を遂げた背景に、時衆の吸収があっ ⑤ た事が指摘されており、時衆から真宗へという動向は、室町中期以降の宗教界の潮流であった。時衆から真宗へとい 戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向戦国期真宗寺院の一動向 う動きであれば逆向として理解できよう。だが開名寺は濫鱒より本願寺門流であり、大坊主分として君臨しているま さ に そ の 時 期 に 時 衆 と し て 確 認 で き 、 いずれとも理解できない面を持っている。そこで本論では聞名寺と時衆との関 わりを分析すると共に、今一度真宗と時衆との関係を検討してみたい。
聞
名
寺
と
時
衆
⑤ ﹃ 熊 野 本 地 ﹄ 三 巻 と い う 、 時 衆 系 の 絵 巻 が 伝 来 す る 。 しかも寄進などによって外部から搬入されたものではない事は、﹃藤沢山過去帳﹄﹁門末僧侶﹂に﹁覚阿弥陀仏締判関 山崎詮四﹂、同﹁結縁衆﹂に其阿弥陀仏以下、乗阿弥陀仏、明一房、六親春属が記載されていゐ事から疑う余地はない。 覚阿︵以下略す︶のみ時衆と記され、その両親と思われる乗阿・明一房及び春属が結縁衆である事、覚阿の没年が永 聞名寺には桃山期のものと推される﹁融通念仏縁起﹄二巻、 禄三年である事より、少くとも間名寺と時衆との関係は十六世紀前半から中頃と推定できる。これは両絵巻の推定年 代 と も ほ ぼ 合 致 す る 。 ③ 聞名寺の由緒室百からは時衆に関する直接の記載はないが、久保尚文氏は慶長七年の年記を持つ書上控に着目し、第 五条の﹁覚宗代ニ相煩﹂の相煩が、間名寺の時衆化を示すものと指摘された。慶長七年時の住職が覚照である事から 逆算して、覚宗は乗阿に、覚阿は覚宗の子︵玄宗父︶に比定できるからであり、時衆となった結果、覚阿は閉戸され、 ⑨ 歴代からはずされたのであるという。 と こ ろ で ﹃ 時 衆 末 寺 帳 ﹄ ﹁ 遊 行 派 末 寺 帳 ﹂ 飛 騨 の 頃 に 、 開 名 寺 大 野 青 林 寺 吉 田 ⑮ と記載されており、時衆聞名寺は飛騨国大野にあった事が確認される。 ﹁ 越 中 国 桐 山 八 尾 聞 名 寺 由 来 ﹂ は 文 亀 二 年 、高原郷茂住に聞名寺建立を記すが、大野の地に寺基を置いた記載はなく、 また大野の地を特定する事もできない。だ がこの事により、時衆聞名寺は真宗聞名寺と別である事が判明し、戦国期に本願寺大坊主として君臨する一方、時衆 史料に検出できる理由も説明できる。聞名寺は覚宗・玄宗系の真宗系聞名寺と、覚阿の時衆系聞名寺に分裂していた の で あ る 。 覚阿時衆化の時期を示唆するものとしては、 ⑪ ﹃天文御日記﹄の記載、及び大谷派高山別院照蓮寺蔵の下問蓮応書状 が あ げ ら れ る 。 ﹁日記﹂には聞名寺が天文十年以降、十三、十五、十七、十八、二十、二十二年の都合七回、番役を勤仕した事が 見 え る 。 十 、 十 五 、 二 十 二 年 ﹁ 聞 名 寺 ﹂ 、 十 三 年 ﹁ 聞 名 寺 代 口 口 ﹂ 、 十 七 年 ﹁ 聞 名 寺 代 輔 一 帯 ﹂ 、 十 八 年 ﹁ 聞 名 寺 代 餓 酔 一 端 畑﹂、二十年﹁開名寺代替灯﹂と、番役の負担者が記されている。この番役の直接負担者を﹁書上控﹂第一二、五条と照 合すると、聞名寺の代理が勤仕したのは﹁覚宗代﹂の煩︵覚阿時衆化︶により、幼い玄宗が﹁一御門徒衆﹂に取り立 てられ、継職した時期ではないかと考えられる。覚宗の跡は玄宗が幼い為教忍が名代を勤めているが、玄宗が継職し てからも、番役は若い玄宗に代って普乗・西明、或いは養子覚玄が行ったのであろう。玄宗は早世するが、それは天 文二十年以降二十二年迄の事と推定でき、二十二年の番の勤仕は、住職として覚玄が勤めたものと理解できる。十五 年は聞名寺住職が勤仕したとなっており、この時迄覚宗が住持職にあったとすれば、覚阿の時宗化の最下限を天文十 七 年 と 考 え る 事 が で き よ う 。 照蓮寺宛下関蓮応書偽は天文元年発給と推定されるが、猶々書に﹁猶々此由覚宗之御新発意方:::﹂と認められて おり、覚宗は聞名寺覚宗に比定でき、御新発意は覚阿を指すと考えられる。蓮応が照蓮寺を介して覚阿に伝言を依頼 している事は、覚阿はいまだ時衆ではない事を意味し、覚阿の時衆化は天文元年以降、十七年迄と考える事ができる。 戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向
戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向 四 したがって時衆大野聞名寺成立はこの間以降の事である。 ところで当時越中では射水郡放生津を中心として時衆が栄ていたが、これは守護代神保氏の庇護によるものであっ た。十六世紀には報土寺不外が二十四代遊行上人位に就任したが、永正十七年神保慶宗が長尾為景と戦い自死すると、 放生津を中心とした時衆は衰退を余儀なくされた。やがて天文年間慶親によって婦負郡富山に神保家が再興されると、 報土寺等も富山に移ったが、元亀年間神保氏が誠亡するに及んで、越中時衆はその姿を消し旬。 聞名寺は婦負郡を中心に布教しており、覚阿が時衆化した時期は天文年間の事であった。これは放生津を中心とし た時衆が婦負郡に進出した時期と符合しており、越中において教線拡張による時衆との競合・接触が、覚阿の時衆化 の 誘 因 と な っ た と 考 え ら れ る 。 尚覚阿の時衆化により大野間名寺が成立するが、時衆系史料のみに散見し、江戸時代中期に編纂の﹃飛州志﹄にす ら記載されていない。これは天文年聞から、覚阿が没する迄の短期間しか存続しなかった為、伝承としても残らなか っ た 事 と 、 聞 名 寺 自 身 、 覚阿に関する由緒を抹消した事によるものと思われる。 そ し て ﹃ 熊 野 本 地 ﹄ ﹃ 融 通 念 仏 縁 起﹄は八尾聞名寺に移管され、伝来したものであろう。 時衆と融通念仏 戦国期に至って聞名寺が時衆と関係を有した背景に、越中婦負郡の進出があった。越中は時衆の基盤の一つである が、立山信仰・善光寺信仰・熊野信仰という、浄土信仰圏である事によりもたらされたものである。 立山は古代の山岳崇拝から発展し、平安時代以降地蔵・観音・阿弥陀信仰を有する霊山であった。この様な霊場と しては、善光寺・羽黒山・熊野・白山等があげられる。熊野は十一世紀初頭に三所権現の成立を見ておい弥陀・薬
師・観音を木地とする浄土信仰のメッカであり、熊野修験者によって各地に弘通した。羽黒山も八世紀末に熊野社を ⑮ 勧請して以来、熊野と密接な関わりを持っており、北陸道を利用して羽黒の修験者は熊野へ盛んに往来していた。普 光寺信仰も鎌倉時代初期より、勧進聖の活躍で関東・北陸甲信越を中心に信仰圏を有していた。 これらの信仰は阿弥陀如来を本地とする事で交流しており、越中はこれらの信仰閤に属していた。この様な越中の 宗教的土壌は熊野・羽黒の修験者・善光寺勧進聖に加え、熊野権現の示現により開宗したとする時衆の進出をもたら し た の で あ る 。 ⑮ 一遍は熊野権現から﹁融通念仏をすすむる聖﹂と言われたと伝え、時衆は融通念仏を勧進する聖であった。ところ で勧進にあたって配布した賦算は 一般的には熊野成道以降とされるが、既に熊野参詣以前に行っている。 一 遍 は 高 野に参詣した時、弘法大師の六字名号印判に興味を示しているが、賦算の版木と極めて類似しており、影響が考えら れ る 。 一遍は、高野聖が盛んに訪れ勧進を行っている四天王寺、磯長太子廟、善光寺等へ、熊野・高野以前に参詣し て い る 事 か ら も 、 一遍と高野聖の交渉を想定できる。賦算は融通念仏の名帳から派生したものであろうが、高野聖が 独自に行っていたとすれば、高野聖と融通念仏との関係を考えねばならない。 高野への念仏導入は覚鍵によってなされ、以来加持祈需を含む真言念仏が行なわれていたが、重源・明遍に至って ⑫ 専 修 的 な 様 相 を 帯 び て く る 。 ⑮ 重源は法然の大原談義に加わり、弟子となったとして門下の九品寺義に列せられている。法然門下であるという事 ⑮ は疑はしいが、阿弥号を称し、不断念仏を勧進している点から、融通念仏の勧進聖として把握できる。 ⑮ 一方蓮華谷高野聖の祖として著名な明遍も、法然門下に加えられ、空阿と称したとする。だが重源同様阿弥号は融 通念仏的なものであり、高野聖は融通念仏を勧進する聖であった。 また明遍は善光寺参詣の途上四天王寺に立ち寄っ 戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向 五
戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向 ム ノ、 @ た所、法然が来ており念仏を感得したという話を伝えている。この話は史実と考えられないが、善光寺・四天王寺等 は勧進聖が集住する地であり、高野聖・浄土宗門下・善光寺聖が交流していたものとして解釈できる。融通念仏は宗 派・教義に拘束される事なく、浄土系信仰を有する所に弘通するからであ旬。 一遍は良忍の系譜をひく融通念仏を勧進したが、直接の法系は浄土宗西山義であり、 ﹃ 法 水 分 流 記 ﹄ に は 、 法 然 証空・浄音・聖達・一遍と記されている。 証空は承元の法難後慈円のもとに入り、天台宗の別所が形式されていた京都西山に入山する。やがて慈円から往生 @ 院を譲られ不断念仏を再興しているが、融通念仏的なものである。この外善光寺へ参詣する途中十一か寺を建立し、 憂茶羅と不断念仏を置いた事。当麻寺に参詣し、当麻受茶羅が普導の二阿警に通ずると感じた為、これを模写し、善 ⑬ 光寺・宇都宮など諸寺、諸社に安置した事が見える。この事から証空は融通念仏を修すると共に、曇茶羅依用という 観想的な面を持っていた事が知られる。 一遍も当麻寺・善光寺へ参詣し、然も善光寺では二河警に基づく弥陀・釈迦二尊像を図画するな尚、 その行動には 証 空 と の 共 通 点 が 多 い 。 一遍の融通念仏的な性格も、天台色の濃い西山義から受け嗣いだと考えられる。 一 遍 も 勧 進 にあたっては画像を用いているが、視覚に訴える方法は勧進の有効な手段であり、観想的な天台念仏の系統をひく、 西 山 義 の 影 響 で あ ろ う 。 時衆は浄土信仰と融通念仏という共通項によって高野聖・浄土宗門下と交流しており、その場所として善光寺・四 天 王 寺 な ど が 存 在 し た の で あ る 。
真宗と融通念仏
③ 初期真宗における時衆の影響としては、上人号、知識帰命、踊念仏、名帳、絵系図等があげられ、諸門流に及んで い る が 、 わけても荒木門流の系統に顕著である。 荒木門流とそこから派生した仏光寺門流は、光明口聞を編み出し、これを用いて絵解・唱導を行い念仏を勧進した。 これは一種の憂茶羅であり、観想的なものである。画中中尊の九字︵八字︶名号をはさんで釈迦・弥陀二尊像が描か れ て い る が 、 善導の二河警に依拠するものと考えられ、 真宗では釈、迦に対して特に讃仰しない所から、他宗則ち時 衆・浄土宗・或いは善光寺阿弥陀信仰の影響を想定できよう。 この他光明品中で注目すべきは和朝先徳の連座像である。真宗に至る源信、法然と日本浄土教の先徳を示し、親驚 以下門流の先徳が措かれている。ところがこの先徳中に法然門下の信空・聖覚も描き加えられており、少くとも荒木 門流においては、何らかの形で法灯を受けた先師と仰いでいたのである。だが荒木門流に影響を与え、時衆と関係が 深い筈の証空は含まれていない。これは別の理由によるものであろうか。 信空・聖覚を先徳とした理由として、 @ ﹁弁述名体紗﹄は親驚との安心一撲をあげている。これは﹁本願寺聖人親驚 伝絵﹄上巻に見える信行同座において、信不退に聖覚・信空・親驚が、連座した事を意味するとも考えられる。だが 信不退には法力も連座したといい、信を重視するにもかかわらず一念義の幸西をも加えていない事から、信不退以外 に 理 由 を 求 め な け れ ば な ら な い 。 信空は法然門弟の最年長者の上足であるが、法然に帰依する以前は、叡空の弟子として真言大乗等を修していたと @ 伝え、天的色彩を濃く持っていた。叡空は融通念仏の創唱者良忍の弟子であり、叡空を介して融通念仏の系譜を受け 嗣 い で い た と 考 え ら れ る 。 @ 聖覚も安居院に住する天台の唱導者から、法然門下に入ったと伝えられるが、 ﹃選択本願念仏集﹄を釈して﹃唯信 戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向 七
戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向 /¥ 紗﹄を著している。親驚は﹃尊号真像銘文﹄に引用し、書写して門徒にも勧めた為、真宗門徒にかなり流布した。だ が親驚は聖覚と法然の教義解釈に全く同意したというのではなく、 ﹃唯信紗文意﹄によって解釈の相違点を明にして いる。親驚が﹃唯信鈴﹄を評価したのは、法然の教義理解に簡便であり、平易な内容の談義本としての利用価値の面 @ か ら と 考 え ら れ る 。 ﹃法然上人絵伝﹄には、聖覚が建保三年、真如堂の法然三回忌に道俗を集めて融通念仏を勧めた事が記されている。 更に上野国国府の明円という道場主は、遊行聖を留めて念仏を興行していたが、ある夜夢に聖覚という僧が現われ、 @ 念仏に結縁する事を約した。それで素姓を訪ねた所、元久二年に没した法然の弟子であったという話も載せている。 こうしてみると聖覚は融通念仏を勧進する聖であり、明円の夢告は聖覚の関東における影響を意味するものとして 理 解 で き る 。 @ それも常陸国下妻光明寺開基と伝える明空門弟と考えられる。明空は三浦 @ 義村の八男胤村といい、荒木門流として、光明品の先徳連座像に連ねられている。聖覚が荒木門流と関係を有してお ところで道場主明円であるが真宗門徒、 れば、明空を介した聖覚と明円との関係に発展させても誤りではないだろう。 ただ常陸下妻の明空弟子を、上野田国 府住の明円に比定できるかという点があるが、荒木門流は回国性を有する為問題はないと思われる。 以上聖覚・信空も融通念仏と関わりをもっており、この点において荒木門流は先徳に加えたと考えられる。 時衆的要素、則ち融通念仏的なものは、仏光寺、大町専修寺といった荒木系の門流に指摘できるが、親驚門弟の重 鎮高田の真仏にも勧進聖的性格を見る事ができる。 @ 下野高田へ真仏は親驚に帰依する以前より法名を持つ、善光寺如来安置の如来堂守であった。当然善光寺聖と共に 高野聖との関係は当初より持っていた。
@ ところで先述した高野聖明遍には、常陸国真壁に住する敬仏房という弟子がいる。真壁は真仏の生地でもあり、下 野国高田とはわずかの行程である。しかも敬仏・真仏という法名の類似から、真仏は敬仏と同門の念仏聖ではないか @ と 考 え ら れ る 。 また真仏の養子顕智も﹃コ一河念仏相承日記﹄に﹁顕智聖﹂・﹁念仏ヲ勧進﹂と見え、関東と京都を幾度と往復し、三 @ 河や北陸地方に念仏を勧進している事などから、勧進聖として把握できる。 これ迄見て来た様に天台・真言宗の念仏を問わず、高野聖・善光寺聖・時衆・浄土宗門流・真宗門流は、融通念仏 を紐帯として交流し、或いは融合していた。融通念仏は教義・宗派に拘束されないし、念仏の合唱唱和であり、浄土 信仰のある地には弘通していた。そして如来堂・太子堂それに薬師堂という在地の諸堂は、勧進の場として念仏聖集 @ 住 し 交 流 す る 場 で あ っ た 。 @ 関東の二十四輩寺院、それに初期真宗寺院の多くは、鎌倉・室町期に製作された太子木像を安置している。親驚が 聖徳太子を讃仰した為、初期真宗門流が太子像を造立・安置したと解するより、在地に存在する太子堂を利用し、真 宗が弘通した結果と見るべきである。 こ の 様 な 例 を あ げ れ ば 、 親 麟 滞 在 関 時 代 居 住 の 常 陸 国 稲 田 草 庵 、 三 河 国 桑 子 柳 堂 ︵ 妙 源 寺 ︶ 、 越後国高田浄興寺等が あ る 。 太子堂以外には、薬師堂・昆沙門堂が利用されている。 二十四輩寺院の一つである常陸国谷河原西光寺は唯円開基と伝えるが、唯円念持仏とする薬師如来木像を所蔵する。 また荒木門流で、明光開基の相模国野比最宝寺、源誓開基の甲斐国等々力万福寺は太子堂・薬師堂を兼備す旬。特に @ 僧源誓﹂と見える様に、薬師寺の別当職にあった。 源誓は﹃親驚伝絵詞﹄奥書に﹁願主相模国大遅本郷薬師堂別当 戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向 九
戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向
。
ま た 三 河 国 の 真 宗 の 発 祥 は 、 ﹃三河念仏相承日記﹄によると、矢作の薬師寺からである。 毘沙門堂から出発したものとしては、近江国木辺錦織寺をあげる事ができる。天安堂と称する見沙門堂には、鞍馬 寺の毘沙門天と同木で伝教大師作と伝える毘沙門天を安置する。鞍馬寺の毘沙門天は良忍が融通念仏を創唱した時、 @ 最初に名帳に名を記したといい、勧進聖・高野聖から融通念仏の守護神として崇敬されていた。更に本尊の阿弥陀如 来は、親驚が霞ヶ浦からひき上げをものを、笈に背負い運んできたと伝えており、錦織寺の濫鰭にも勧進聖の姿を窺 う 事 が で き る 。 以上の様な融通念仏・勧進聖との関係は、本願寺門流にも指摘できる。越中国井波瑞泉寺は縛如が創建したのであ @ るが、縛如の勧進状には﹁敬弥陀三尊像﹂の文言があり、善光寺阿弥陀信仰との関わりを示し、また境内には太子堂 をも備えている。然も蓮如代文明期に至る迄時衆が同居しており、阿弥陀信仰を有する諸門流の共有坊舎であっ旬。 更に本願寺は存如の代まで六時礼讃を修し、蓮如は善如・縛如代に行われていた天台の風儀を改めたと伝え匂。本 願寺が青蓮院の末寺であった事にもよるが、 いまだ本願寺として独自の立場を確立しておらず、 いわゆる雑行雑修を 行っていたのである。本願寺が実際に諸宗の行を廃し、本願寺門流こそが親驚の教義に基づくものであるという事を、 意識し、志向し確立させていくのは蓮如以降の事である。 ⑮ 蓮如は仏法を繁盛させる為、法義にもとさつけたい三人として坊主・年老・老をあげている。坊主の解釈については @ 諸説あるが、太子堂・薬師堂等の村堂の坊主として理解すべきである。融通念仏を勧進する聖や、或いは太子堂、薬 師堂に止住し雑行雑修とも言うべき融通念仏を修している真宗門侶に、雑行雑修を捨てさせ、真実の信をとらせる。 これは本願寺門徒の質的向上をはかるものであると共に、勧進聖や太子堂・薬師堂などに結縁している民衆を本願寺 門徒化し量的拡大をはかるものであった。本願寺系寺院の中には天台・真言寺院からの転宗を説くものであるが、こ@ の様な経歴をたどったものが含まれていると考えられる。 蓮如一代で本願寺門流が北陸一帯を門徒化し、 一大勢力を築き上げたというのも、先行する浄土系信仰を利用し布 教 し た 為 で あ る 。 一般に真宗が弘通した地域には、先行する浄土系信仰が指摘でき、美濃・飛騨・北陸地方は白山・ 立山信仰、越後には妙義山信仰があり、甲信越・関東地方には善光寺信仰、紀伊は熊野信仰との関わりを想定できよ う お わ り に 聞名寺と開基を同じく覚淳とする神岡町常蓮寺は、太子木像を安置し、覚淳は既に存在した太子堂の住持となった @ と伝える。とすれば常蓮寺と共に、聞名寺はその濫鱒において既に勧進聖︵時衆︶と関わりを持っていた事も予想で きる。蓮如以前においては、時衆との共存も見受けられるから、覚阿の時衆化も覚淳以来の関わりの延長に考えられ な く も な い 。 だが覚阿の時衆化はこの様には理解できない面をもっている。覚阿の時衆化が共存状態の中から生じたのであれば、 聞名寺世代から覚阿のみ抹消される事はないからである。また真宗系の茂住・八尾間名寺と異なる時衆大野間名寺が 存在する事もない。同寺蔵の両絵巻の推定年代も戦国期である事は、覚阿の時衆化によりもたらされた事を意味する。 聞名寺も濫鰭以来時衆・勧進聖との関係を有していたが、蓮如以降本願寺の威儀が正され、教団化の過程の中で時 衆との関わりは払拭されていった。だが天文期の越中進出によって再度時衆と関わりをもち、覚阿の時衆化が行なわ れた。しかし宗主証如の代であり、本願寺教団の確立によって時衆との共存は認められる所ではなく、覚宗は覚阿を 義絶しし、本願寺への書出には事実を隠し報告した。以上の様に断絶したものとして考えるべきであろう。 戦 国 期 真 宗 寺 院 の 一 動 向
戦国期真宗寺院の一動向 ① 註 ② ﹁ 越 中 国 桐 山 八 尾 関 名 寺 由 来 ﹂ 研 究 ﹄ 所 収 ︶ 。 ﹃ 執 持 紗 ﹄ 奥 書 、 前 掲 本 所 収 。 本云、嘉暦元歳丙寅九月五日、拭老眼染禿筆。是偏為利 益 衆 生 也 。 釈 宗 昭 世 十 先年如此予染筆、与飛騨願智坊吃。而今年暦応三歳蹴十 月 十 五 日 、 陪 身 此 書 上 洛 中 、 一 日 逗 留 十 七 日 下 園 、 品 川 於 灯 火 馳 老 筆 留 之 、 為 利 益 也 。 宗 昭 叱 十 現在開名寺及び願智坊旧跡と伝える吉城郡神岡町常蓮寺 には、江戸時代の写本が蔵せられている。また﹃慕帰絵 詞﹄第十巻に、﹃執持紗﹄を願智坊永承に下附した事が 見 え る 。 美濃における末寺は、旧方県郡︵岐阜市︶に多い。﹁美 濃 国 寺 院 明 細 帳 ﹂ ︵ 岐 阜 県 歴 史 資 料 館 蔵 ︶ 参 照 。 岡村守彦﹃飛騨史稿中世編﹄寺伝を古くする為、越中進 出 以 降 の 年 次 は 一 千 支 繰 り 上 げ た と 推 定 し て い る 。 宮 崎 円 遵 ﹁ 初 期 真 宗 と 時 衆 ﹂ ・ ﹁ 真 仏 報 恩 塔 の 造 立 と そ の 背 景 ﹂ ︵ ﹃ 初 期 真 宗 の 研 究 ﹄ 所 収 。 尚 そ の 外 の 論 文 中 に も 随所で指摘されている︶。赤松俊秀﹁一遍上人の時宗に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 鎌 倉 仏 教 の 研 究 ﹄ 所 収 ︶ 。 伊 藤 曙 覧 ﹁ 八 尾 関 名 寺 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 富 山 史 檀 ﹄ 目 立 方 ︶ 橘 俊 道 編 ﹃ 藤 沢 山 過 去 帳 鮒 鯨 糊 侶 ﹄ ﹁ 門 末 僧 侶 ﹂ ︵ 前 略 ﹀ ︵ 笠 原 一 男 ﹃ 一 向 一 撲 の ③ ④ ⑤ ⑦ ⑥ 覚 阿 弥 陀 仏 矧 酬 明 一 回 時 一 一 百 ︵ 中 略 ﹀ 其阿弥陀仏︵裏・飛騨関名寺正月十八日︶ ﹁ 結 縁 衆 ﹂ 乗 阿 弥 陀 仏 師 雄 一 寺 老 父 ︵ 裏 ・ 三 月 十 二 日 ︶ 明 二 一 向 上 老 母 ︵ 裏 ・ 五 月 三 日 ︶ ︵ 中 略 ﹀ 六 親 春 属 類 ︵ 裏 ・ 飛 騨 関 名 寺 ︶ ﹁ 慶 長 七 年 書 上 ﹂ 控 ︵ 笠 原 一 男 前 掲 本 所 収 ︶ 。 乍恐一書申上候 一 、 開 名 寺 家 之 義 、 覚 如 上 人 様 御 代 よ り 始 り 申 候 。 て 聞 名 寺 代 々 法 名 之 事 、 覚 善 晴 恥 一 棚 畑 一 坊 ・ 覚 定 ・ 覚 宗 担 税 特 岬 叶 ・ 教 忍 ・ 玄 宗 ・ 覚 玄 ・ 覚 照 以 下 。 一 、 願 智 坊 代 − 一 し う ぢ せ う 御 め ん 。 一、覚定代ュ寺がう御めん、則覚如様御筆がくおくたさ れ 候 、 い ま に ち ゃ う た い 仕 候 。 一、覚宗代ニ相煩、教忍名代仕候也、是ハ同宿也、覚宗 子 も 御 座 候 へ と も 是 も へ い こ 仕 侯 而 、 二 代 相 過 申 、 玄宗と申ハ則覚宗孫にて御座候、開名寺一御門徒衆 申合、玄宗をとりたて申候、玄宗も芳年にて相果申 候問、そしよう不申上候、右之子細ニよりて、開名 寺 教 忍 代 よ り 坊 主 衆 な み に 罷 成 り 申 候 、 此 等 之 通 、 被聞召分、如前代之被仰付候様に御被露奉願候、以 上 ③ 慶長七年拾月九日 開名寺
控である為宛所を欠くが、西本願寺へ提出したものと 思 わ れ 、 住 職 は 覚 照 で あ ろ う 。 久保尚文﹁持越中関係時宗史料| l 藤沢山過去帳| l ・ 付 論 | | 八 尾 関 名 寺 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ か ん と り い ﹄ 5 号 ︶ 。 ﹁ 相 煩 ﹂ は 病 気 と 解 釈 す る 事 も で き る が 、 ﹃ 藤 沢 山 過 去 帳 ﹄ の 記 載 か ら 、 時 衆 化 と 考 え る べ き で あ ろ う 。 ﹁ 書 上 ﹂ が西本願寺へ提出されるものであれば、寺伝に不都合と なるべき事は記載する筈はない。党如より﹃執持紗﹄や 直筆の寺号額を下付された事等、木願寺との関係を強調 し て い る 点 か ら も 察 す る 事 が で き よ う 。 飛騨で大野と言えば大野郡、吉城郡古川町大野を挙げる 事ができる。だが共に関名寺、或いは時衆寺院の寺蹟は 検出できない。ただ古川町には関名寺末寺が散在してお り、古川町大野かもしれない。尚青林寺は神岡町常蓮寺 と考えられる。常蓮寺の前身である太子堂は、覚淳が止 住した旧跡と伝える。什物に﹁延慶二年四月下旬、越中 国薗揚回、阿弥陀寺常住物﹂と印刻した青銅製の証鼓が あ り 、 時 衆 時 代 に 伝 来 し た も の と 思 わ れ る 。 ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 三 巻 ﹁ 一 向 一 撲 ﹂ 所 収 。 猶 々 、 此 由 覚 宗 之 御 新 発 意 方 、 善 宗 之 御 方 へ も 申 度 候 。 京 都 言 語 道 断 之 次 第 ニ 成 行 候 、 難 然 、 此 方 無 事 御 座 侠 問 、 可 御 心 安 候 、 随 而 筑 前 就 作 事 之 儀 、 委 曲 此 仁 可 被 申 候 、 恐々謹言 五 月 廿 九 日 照 蓮 寺 御 房 ⑨ ⑬ ⑫ ⑪ 蓮 応 ︵ 花 押 ︶ 戦国期真宗寺院の一動向 ⑬ 進 之 侯 天 文 元 年 六 月 、 証 如 は 細 川 晴 元 の 要 請 に よ り 畠 山 義 宣 ・ 三好元長を攻撃するが、直前の緊迫した状況を示すもの と 解 す る 。 尚 文 中 の 筑 前 は 蓮 応 の 子 下 問 頼 秀 で あ る 。 久 保 尚 文 ﹁ 越 中 一 向 一 撲 の 形 成 過 程 ﹂ ︵ ﹃ 越 中 中 世 史 の 研 究 ﹄ ︶ 所 収 。 家 永 三 郎 監 修 ﹃ 日 本 仏 教 史 ﹄ I 古代編 久保尚文﹁室町時代宗教社会史の考察﹂前掲本所収。関 東における熊野修験の先達八槻氏が、集団を率いて往還 した事。また﹃義経記﹄に、頼朝の追討を受けた義経主 従が山伏に紛して奥州へ落ち往く時、熊野・羽黒の修験 者と称している事も、北陸路が修験者の往来の盛んであ っ た 事 を 物 語 る 。 ﹃一遍聖絵﹄第三段、五来重﹁一遍上人と融通念仏﹂ ︵ ﹃ 大 谷 学 報 ﹄
H
U
l
l
v
﹁ 一 遍 と 高 野 ・ 熊 野 お よ び 踊 念 仏 ﹂ ︵ ﹃ 日 本 絵 巻 物 全 集 ﹄ 別 巻 二 、 ご 遍 聖 絵 ﹂ ︶ 五 来 重 ﹃ 高 野 聖 ﹄ ﹃ 法 水 分 流 記 ﹄ 大 谷 大 学 図 書 館 蔵 写 本 。 田 村 園 澄 ﹃ 法 然 上 人 伝 の 研 究 ﹄ 、 ﹃ 法 然 上 人 絵 伝 ﹄ 第 四 十 五 。 ﹃ 法 然 上 人 絵 伝 ﹄ 第 十 六 巻 ︵ ﹃ 日 本 絵 巻 物 全 集 ﹄ 別 巻 2 ︶ 五 来 重 ﹁ 一 遍 と 高 野 ・ 熊 野 お よ び 踊 念 仏 ﹂ 、 ﹁ 一 遍 上 人 と 融 通 念 仏 ﹂ 前 掲 。 菊池勇次郎﹁西山派の成立l
l
西 山 往 生 院 の 展 開 | | ﹂ ︵ ﹃ 歴 史 地 理 ﹄ 邸 巻 三 ・ 四 合 併 号 ︶ ⑮ ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ ⑪ @ @ ②戦国期真宗寺院の一動向 @ ﹃ 法 然 上 人 絵 伝 ﹄ 第 四 七 巻 、 石 田 茂 作 ﹁ 光 明 木 尊 の 発 生 と 衰 退 ﹂ ︵ 宮 崎 円 遵 博 士 還 暦 記 念 会 編 ﹃ 真 宗 史 の 研 究 ﹄ ︶ ﹃ 一 遍 聖 絵 ﹄ 第 一 巻 上人号は﹃真仏上人因縁﹄に見える。これは荒木門流で 作成されたものである。知識帰命は武蔵麻布了海著述の ﹃ 還 相 廻 向 問 書 ﹄ ﹃ 他 力 信 心 開 室 田 ﹄ に 見 え る 。 踊 念 仏 は 大 町 専 修 寺 門 流 に 見 ら れ る が 、 高 田 門 流 の 系 譜 を ひ く 、 和 田 門 流 か ら 派 生 し た も の で あ り 、 ﹃ 愚 暗 記 ﹄ に 見 え る 。 絵系図は荒木系・仏光寺系で使用され、備後宝田院・仏 光寺等に所蔵。以上宮崎園遵﹃初期真宗の研究﹄所収論 文 参 照 。 ﹃ 弁 述 名 体 紗 ﹄ は 、 存 覚 作 の 光 明 口 問 解 説 書 で あ る 。 ﹃ 本 願 寺 聖 人 慨 伝 絵 ﹄ は 覚 如 作 で あ る 。 こ の 重 要 な 意 図 の 一 つ に は 、 法 然 の 真 意 を 伝 承 す る の は 親 輔 別 で あ る ︵ ﹃ 本 願寺聖人鯛伝絵私記﹄宮崎園遵︶ことを明らかにする事 であった。従って信行同座もこの事を表現するものであ る。しかし信行両座は史料的に確める事はできない。ま た信行同座に聖覚・信空が、親驚と共に信不退に列した と す る が 、 ﹁ 伝 絵 ﹂ 作 成 以 前 に 光 明 品 が 作 成 さ れ て お り 、 む し ろ 荒 木 門 流 の 伝 承 を 取 り 込 ん だ も の か も し れ な い 。 ﹃ 浄 土 伝 灯 録 ﹄ 田 村 園 澄 前 掲 本 参 照 。 ﹃ 法 然 上 人 絵 伝 ﹄ 第 十 七 巻 松 野 純 孝 ﹁ 源 空 ・ 聖 覚 ・ 親 鷺 ﹂ ︵ ﹃ 親 驚 ﹄ ︶ 聖 覚 と 親 驚 の 相 違 点 を 、 ﹃ 唯 信 紗 ﹄ を 用 い て 詳 し く 論 じ て あ る 。 ﹃ 法 然 上 人 絵 伝 ﹄ 第 四 十 七 巻 ② @ ② @ ⑧ ② @ 四 @ 下妻光明寺蔵﹃親驚聖人門侶交名帳﹄山田文昭﹃真宗史 の 研 究 ﹄ 所 収 。 会津加藤佐蔵氏蔵光明品︵日下無倫﹃真宗史の研究﹄所 収 ﹀ こ れ は も と 松 本 正 行 寺 に 伝 来 し た も の で あ る 。 荒 木 系 、 仏 光 寺 系 の 門 流 で は 、 前 に 浄 土 三 一 部 経 折 本 を 置 いた経机があり、椅子に座した右向の先徳像を所蔵して いる。犬阪光用寺蔵了源、広島宝田院蔵明光、京都高林 院蔵禅源、京都大善院蔵明信等の像であるが、問一画法 の明空像が奈良国立博物館に蔵ぜられている︵旧滋賀仏 心寺蔵︶。この外本願寺派堅田本福寺には、同一画像で 首に帽子をした親驚像が蔵せられている。これは法住が 渋谷仏光寺へ参詣していたという﹃本福寺跡書﹄の記載 を裏づけるものであろう。また﹃大日本史料﹄第三編三 十 二 、 天 永 二 年 十 一 月 二 日 ﹁ 山 州 名 跡 士 山 ﹂ に 、 京 都 禅 林 寺 蔵永観画像が掲載されているが、やはり前掲の画像と同 様 の 画 像 で あ る 。 寺 伝 で は 永 観 画 像 と す る が 銘 は な い 。 禅林寺は鎌倉期に浄土宗西山派に転じており、この絵の 伝来を示唆してくれる︵大谷大学特別研修員藤原正己民 の 御 教 示 に よ る ︶ 。 平 松 令 三 ﹁ 高 田 の 歴 史 ガ イ ド | | 真 仏 上 人 伝 の 問 題 点 ﹂ ︵ ﹃ 高 田 学 報 ﹄ 臼 ︶ 。 ﹃ 沙 石 集 ﹄ 巻 十 一 ︵ ﹃ 岩 波 日 本 古 典 文 学 大 系 ﹄ 剖 ﹀ 。 ﹁ 十 、 妄 執 ニ ヨ リ テ 魔 道 ニ 落 タ ル 事 。 ﹂ ﹃ 法 水 分 流 記 ﹄ 。 五 来 重 ﹃ 高 野 聖 ﹄ 。 平 松 令 コ 一 ﹁ 高 田 専 修 寺 の 草 創 と 念 仏 聖 ﹂ ︵ 赤 松 俊 秀 教 授 退 官 記 念 会 編 ﹃ 国 史 論 集 ﹄ ﹀ 。 @ @ @ ③
⑧ 守 口 崎 国 遵 ﹁ 親 驚 聖 人 と 関 東 の 門 弟 | | 聖 人 の 在 関 時 代 を 中 心 と し て | | ﹂ ︵ ﹃ 龍 谷 教 学 ﹄ げ 号 ︶ 。 鎌倉から室町期には善光寺如来、嵯峨清涼寺の釈迦如 来 、 因 幡 堂 の 薬 師 如 来 が 、 三 国 伝 来 の コ 一 如 来 と し て 崇 敬 を 集 め て い た 。 ︵ ﹃ 塵 添 培 糞 紗 ﹄ ﹃ 大 日 本 仏 教 全 書 ﹄ 問 ︶ また善光寺如来と聖徳太子が手紙の往還をした話も記さ れ、善光寺信仰と太子信仰との関係を示す。因幡薬師へ は一遍も参詣しており、薬師信仰と勧進聖との関係も確 認できるが、これは熊野信仰の三所権現との関わりであ ろ う 。 山 田 文 昭 ﹃ 真 宗 史 の 研 究 ﹄ 祖 蹟 採 訪 史 料 参 照 。 最宝寺の太子堂・薬師堂は、それぞれ明応四年十二月六 日付治部少輔︵京極高詮︶、応永十一年四月三日付沙弥 ︵伊勢常識︶の寄進状に見える。相田三郎﹁野比の古利 最 宝 寺 の 古 文 書 ︵ 三 浦 半 島 見 学 記 ︶ ﹂ 、 ︵ ﹃ 相 回 二 郎 著 作 集 ﹄ 二 巻 ︶ 所 収 。 小山正文﹁関東門徒の真宗絵伝| l i 甲斐国万福寺旧蔵絵 伝 を 探 る | | t ﹂ ︵ ﹃ 高 田 学 報 ﹄ 印 号 ︶ 。 ﹃ 真 宗 木 辺 派 本 山 錦 織 寺 物 語 ﹄ 、 ﹃ 一 一 遍 聖 絵 ﹄ 第 三 巻 、 五 来 重 ﹁ 一 遍 上 人 と 融 通 念 仏 ﹂ 前 掲 。 ﹁ 沙 門 奏 雲 勧 進 状 ﹂ ︿ 福 間 光 超 ・ 大 桑 斉 編 ﹃ 真 宗 教 団 史 ﹄ ︶ 。 金 龍 静 ﹁ 越 中 一 向 宗 教 団 の 成 立 と 構 造 ︵ ﹃ 仏 教 史 学 研 究 ﹄ お 巻 第 1 号 ︶ 。 ﹃蓮如上人仰条々﹄四十七︵﹃真宗史料集成﹄第二巻蓮 如 と そ の 教 団 ︶ 所 収 。 @ ⑧ ⑧ ⑮ @ @ @ ⑭ 戦国期真宗寺院の一動向 ⑮ @ ﹃ 栄 玄 関 書 ﹄ 六 、 前 掲 本 所 収 。 井上鋭夫氏は、入山修行と加持祈祷によって農民の信仰 を 得 、 指 導 し て い た 験 者 に 比 定 し て い る 。 ︵ ﹁ 中 世 鉱 業 と 太 子 信 仰 ﹂ ﹃ 山 の 民 ・ 川 の 民 ﹄ ︶ 。 峰 岸 純 夫 氏 は 真 宗 門 徒 の 坊 主 ︵ 寺 や 道 場 主 ︶ と す る 。 ︵ ﹁ 一 向 一 挨 ﹂ ﹃ 離 脱 日 本 歴 史﹄8巻、中世 4 所収︶。北西弘氏は、真宗坊主が大杯 におぼれ法義に疎かった為、この様な坊主にまず真実の 信 心 を 得 さ せ る 事 を 願 っ た 、 蓮 如 の 純 宗 教 的 な 立 場 を 一 示 す も の と い う 。 ︵ ﹁ 一 向 一 授 と そ の 意 識 ﹂ ﹃ 一 向 一 授 の 研 究 ﹄ ︶ 。 岐阜市大門町願正坊は、日輸の中に六字名号を書いた ﹁日の丸名号﹂を所蔵する。ところで高野山蓮華谷上之 坊東根院にも日の丸名号があり、高野聖が勧進に用いた という。真言念仏は大日如来と阿弥陀如来を同体とみな す為、日輸の中に阿弥陀如来座像を表現した紅破璃阿弥 陀を描き、さらにこれを日輪中の六字名号で表現したと い う 。 ︵ 五 来 重 前 掲 本 参 照 ︶ 。 願 正 坊 は 河 野 九 門 徒 の 一 っ と伝え、他宗からの転派を言わないが、高野聖や真言系 念仏との関係を有していたものが、真言宗からの転派を 称 し た と 言 え よ う 。 ﹃ 飛 州 志 ﹄ 巻 第 五 、 寺 院 部 ﹁ 太 子 堂 常 蓮 寺 ﹂ ﹁ ︵ 前 略 ︶ 本 願寺覚如︵中略︶上人ノ弟子願智坊覚淳ト云フ者アリ正 和 年 中 此 地 − 一 来 リ 始 テ 太 子 堂 ノ 住 持 ト ナ レ リ ︵ 後 略 ﹀ ﹂ 。 ⑫ ⑬ 一 五
極 楽 と 浄 土 に つ い て 一 六
極
楽
と
浄
土
に
つ
い
て
若
林
f
I=ヨFt.. ・ 1r=tん 大 谷~受2
問 題 提 起 今研究題目に極楽と浄土の両名を挙げた。当今の信仰は極楽と浄土を同一同所と人達は信じている。この信仰は一 般仏教即ち釈迦教の考えである。然し当論文は極楽と浄土は相違していると論じたい。即ち釈迦教に対して弥陀法で ある。即ち極楽は死後、浄土は現生の命のある聞の事であり、而して極楽へ参る仏道なりと経論釈で論じたいのであ る 。 極楽と浄土の相違点 ﹃ 観 経 疏 ﹄ ︵ 定 善 義 叩l
右﹀に﹁勢至観ノ中ニツイテ問答ヲ設ケテ臼ク、阿弥陀経ニ日クソノ国ノ衆生苦アルコトナ シ、但諸々ノ楽ヲ受ク故ニ極楽ト名付クト、何故ゾコノ経一一分身法ヲ説キテスナハチ苦ヲ度スルト云ヘルハ何ノ意カ アル。答へテ日ク、今苦楽ト云フは二種サリ、 一 ニ ハ 三 界 ノ 中 ノ 苦 楽 、 一一ニハ浄土ノ中ノ苦楽ナリ。三界ノ中ノ苦楽トイフハ、苦ハ三塗ノ苦等、楽トイフハ人天五欲等ノ楽ナリ、浄土ノ中ノ苦楽トイフハ、苦ハ則チ地前ヲ地上ニ望メ ρ 苦 ト ナ リ 、 地 上 ヲ 地 前 − 一 望 メ テ 楽 ト ナ ス 、 コノ例一ヲ挙グルニ知ンヌベシ﹂とあり、即ち極楽には苦なし、浄土に は苦ありとなる、尚この外に前文と類似の法語ありければ、大師は﹁コノ例一ヲ挙グル一一知ンヌベシト﹂申された。 一例を挙ぐれば ﹁ シ カ レ パ 無 明 煩 悩 ヲ 具 シ テ 安 養 浄 土 − 一 往 生 ス レ パ 、 スナハチ無上仏果ニ至ルト釈迦如来トキタマ ヘリ﹂と﹃末灯紗﹄に三回もある。なお浄土と極楽の相違について多数の文ある事を示唆された。また極楽は阿弥陀 仏の専用の土、浄土は三世諸仏の共用の土、 また浄土には苦楽の外に行がある、極楽には行が無いかくの如く相違す る の で あ る 。 さて更に浄土にもまた二種あり。即ち四智の仏の浄土と、 五智の仏の浄土とである。 四智とは大円鏡智、平等証智、 妙観察智、成所作智で、この四智は煩悩の断滅の低度に依って名づける智慧なれは弥陀法でない。煩悩が高度に釈迦 仏の様に断誠し切って仕舞へば、 そのまま成仏なれど其の道は、難行苦行で凡人の歩む道でない。即ち聖道の道であ る。次に五智は煩悩を断ぜずしての易行道である。名所﹂挙げれば仏智、不思議智、 不可称智、大乗広智、無倫無等最 上 証 智 の 五 で あ る 。 四智との違いを調べれば、煩悩を断じると、断ぜざるの別がある。依って仏にも二種ある。 四 智 の仏の浄土は煩悩断滅の境なれば、悟りの終点である。 五智の仏の浄土は仏道の入口である。即ち最初の仏智は万劫 世々の初事と申して、如来の智慧を賜わる事である。智慧とは法蔵因位の時、選択摂取して下さった清浄の行が仏智 で あ る 。 ﹃大経﹄の所説の通りである。残りの四智は最初に廻向された仏智の所生の功徳である。即ち﹁五念門﹂の 事で礼拝門が十八願で、以下四門は仏智所生の功徳である。これを自然の浄土という。この道は他力道であるが極楽 でない、浄土である。後に詳説するが、この五念門中に﹁浄土ニ入リオハリヌレバ﹂と申す法語が四回もある。然れ は五念門は仏道であって浄土である。その弥陀法は、 極 楽 と 浄 土 に つ い て 七
極 楽 と 浄 土 に つ い て }\
往生の後に仏道があるなり
﹃ 大 経 上 巻 ﹄ ﹁光明成就ノ文﹂に﹁モシ衆生アリテ、 ソノ光明ノ威神功徳ヲキキテ、 日夜ニ称説シテ至心不断ナレ ノ、、
ココロノ所願ニシタガイテ、 ソノ国ニ生ズルコトヲ得テ、 モロモロノ菩薩、声聞、大衆ノタメニトモニ歎誉シテ、 ソノ功徳ヲ称セラレン、 ソレシカウシテノチ仏道ヲウルトキニ至リテ、 アマネグ十方諸仏菩薩ノタメニ、 ソノ光明ヲ ホ メ ラ レ ン コ ト 、 マ タ イ マ ノ 如 ク ナ ラ ン ﹂ 。 この法文にも﹁ソノクニニ生ズルコトヲ得テ、 ノチ仏道ヲウルトキニ至 リテ﹂とある。真逆極楽へ生れて後に仏道を得るのであるまい。これ皆現生裟婆に居る聞の問題である。これが大乗 仏教である。最初﹁ソノ国ニ生ズルコトヲ得テ﹂は恐らく報土に生れたるならん。何故にとならば始めの称讃は菩薩 声 聞 大 衆 で あ る 。 次 ﹁ノチ仏道ヲウルトキニ至リテ﹂ は十方諸仏菩薩である。 正定棄の益は称讃する聖者は低い ﹁ノチ仏道ヲウルトキ﹂即ち滅度の益は位が高い。安楽仏国は位が低いのである。 ﹃ 和 讃 ﹄ に 安楽仏国ニ生ズルハ畢寛成仏ノ道路ニテ無上ノ方便ナリケレバ諸仏浄土ヲススメケリ。 ま た 、 安楽無量の大菩薩一生補処ニ至ルナリ。普賢ノ徳−一帰シテコソ積国ニカナラズ化スルナリ。 このニ首の和讃は安楽園に生れると云うは、 つまり成仏する仏道に上託する事で、諸仏はモット上位の浄土をすす められた。また安楽にも無量の仏土があって、大菩薩は次第に上位に進んで、 一生補処にまでのぼれば、普賢の徳と いう還相廻向が出来る様に成るという大略な意である。この﹃和讃﹄に依る限り安楽仏国は浄土の入口となる。それ から成仏の道路を五智の諸仏のすすめに依って昇進するのである。安楽仏国は一番下位であって報土の位なり。 報 ノ浄土ノ往生ハオオカラズトアラハセル﹂この﹃群疑論﹄の意は﹁化土﹂に比して報土の往生は少ないと仰せられたるなり。その外に﹁報土﹂を﹁浄土﹂と申しても良いと云う意もある。従って浄土と申す法語には報土、報仏報土、 安楽仏国、安楽仏土、真仏土、真報土、真仏真土、安養等、無量の報土の総称であると私は考える。故に﹁浄土ニハ 苦楽アリ、苦ハ則チ地前ヲ地上−一望メバ苦トナリ、地上ヲ地前ニ望メテ楽トス﹂浄土と極楽と同一同処と考えたくな い理由である。また釈尊の最初の御説法を四聖諦と申す、 四聖諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦である。この苦集滅道 の三番目が﹁滅諦﹂である。減諦は滅後でない、 その次に道諦と云う道がある。死後ならば道はない筈です。極楽は 死後である、浄土と云う仏道は生きている間である。然れば仏道は仏土であると確信し、 ﹃小経﹄の﹁十万億ノ仏土 ヲ過ギテ﹂の教説と合法対照して、愈々この念を深くする次第である。
浄土は現生なりと云う文証を集む
﹃浄土論﹄五念門の始め礼拝門に論主は、﹁身業ニ阿弥陀如来応正遍知ヲ礼拝ス、彼ノ国ニ生ズル意ヲスル故ナリ﹂ 近 門 と も 云 う 、 近門﹁入相ノ中ニ始メニ浄土ニ至ルハコレ近相ナリ﹂、 ま た ﹁ 大 乗 正 定 粟 − 一 入 ル ハ 、 阿持多羅三窺三菩提ニ近ズク ナ リ ﹂ 。 ま た ﹃ 六 要 六1
6
﹄に﹁コノ五念ノ行ニヨルガ故三一利成就シテ遂ニ阿縛菩提ノ果ヲ得ルナリ﹂。とまた﹁浄 土ニ生ジテ後五門ニ転入ス﹂とある。この礼拝門を曇驚大師は一一ニ願適証して十八願の至心信楽の願と申された。十八 願の行者なら最早や浄土に入り終って阿縛多羅三貌三菩提に近ずくなりとある。殊に﹃六要﹄は註して﹁浄土−一生ジ テ 後 五 門 ニ 転 入 ス ﹂ と あ る 。 五門に転入とは礼拝を始めとして、順次に讃嘆・作願・観察と完成しては前進するを転 入 す と 申 さ れ た と 、 ﹃入出二門侮﹄にあります。然れば浄土に先づ入って﹁一心五念﹂を行ずるが道であり仏道を通 過するのである。前記の﹁安楽仏国ニ生ズルハ畢寛成仏ノ道路ニテ﹂、 の 和 讃 と 同 一 の 趣 旨 で あ る 。 浄土は転語して 極 楽 と 浄 土 に つ い て 九極 楽 と 浄 土 に つ い て 二
O
仏 国 、 再 転 し て 仏 土 、 かくして仏土を転々する相が﹁十万億ノ仏土ヲ過キテ﹂であり、且つ現生であると理由つけて いる。唯、留意すべきは道徳面の小善根と混同しては大変である。この点を混同して誤れば基教も神道も、 そ の 他 の 宗 教 も 同 じ く 成 っ て 仕 舞 う 。 五念門は道徳でない。道徳はその時その時変って行く、 五念門は仏道であって幾百万劫 を経ても変貌がない﹁阿弥陀如来ノ因中ニ於テ凡夫往生ノ行ヲ定メタマヒシ﹂行にして、煩悩を断ぜずして得る念仏 の別行であるからです。その他の世善は大なり小なり煩悩を断ぜねば善に成らない、不断煩悩は真宗の旗印である。 真宗以外は世善を仰いで行くから煩悩を断ぜねば善に成らない。 五念門は煩悩に関係なく﹁二利成就して遂に阿持菩 提ノ果ヲウルナリ﹂。阿持菩提の果は還相の窮極なれど極楽でない。矢張り現生である。 四仏道とは因の五念円である 然るにこの五念門を当今は余り参考にせぬのは、この文の中に﹁浄土ニ入リヌレバ﹂と、申す法語が四回も連続あ る。浄土は死後だと言う先入観が邪魔をしてなおざりに過ぎているが、大乗教に限って浄土は死後ではなく生きて居 る聞の教えである。但し即身成仏や六根清浄の真言法華の浄土と全く異なる。前述したが、 四智と五智の二種の諸仏 と浄土を深く考慮するを要す。真言秘教は勿論四智なる事は一目瞭然なれども。法華一乗の六根清浄はこの五念門と 間違い易い。熱心なるご門徒の方々が五念門に親しみを覚えず、六根清浄の法華の教えに傾くは残念である。法華一 乗と大乗無上を同視する欠点より生やすと考えられる。とに角煩悩を断ぜずしてと、煩悩を押へる六根清浄とを深く吟 味する必要を感ず。何故ならば両方共に、 度当論の主張を操り返せば、極楽は死後である。浄土は大乗教に限って現生の中である。市してその浄土とは仏道の ﹁仏道﹂であるからです。極楽へ参り得る仏道は因の五念円である。今一 事である。その仏道とは五念門のことであると述べて来た。然れば五念門は何れも生存中であると申したい。礼拝門の十八願は勿論の事、讃嘆、作願、観察の三も、難思議往生と申して十一願に配当されている。最後の廻向門も生き ている聞の事と思っている。近時往相廻向の先に還相廻向を配して、 一度死して浄土から還って来るのを還相廻向と 解釈して、大変混雑している学説もあるが。これは一般仏教の立場で、大乗教︿弥陀法﹀を覗くから混雑な事になる なり一度死ななくとも、十八願の正定の益、十一願の誠度の益の仏道をまじめに信行した人が、後輩を誘導する人を 還相廻向と申すなりと、私は思っている。何か不思議な如来の加被力を欲するなら、還相廻向より発願廻向の法語と し て 穏 当 で あ る と 思 う 。 両法語ともに廻向ですが大違いである。 衆生の助かる理は発願廻向にある、 その発願即ち ﹁如来日ニ発願シテ衆生ノ行ヲ廻施スル﹂と言う衆生の行を使用せしめらるるを還相廻向と申すのです。 浄土が仏道であり市かも現生なりと、説明なく納得出来るのは五念円である。 第一近門には﹁入相ノ中ニ始メテ浄土ニ至ルハ近相ナリ大乗正定褒−一入ルハ阿蒋多羅三窺三菩提ニ近スクナリ﹂近 門とは礼拝門の功徳なり、従って十八願で浄土に入るなり﹃真仏土巻﹄に日く、 ﹁弥陀ハサダメテ報仏ナリ彼ノ仏オ ヨ ピ 土 、 スデニ報トイワバ﹂とあれば、十八願の即得往生は報土に往生するなれど。近門よりすれば﹁始メテ浄土ニ 入ルナリ﹂と心得らる。されば浄土とは報土、報仏土、真土の総称である。 第 二 大 会 衆 門 に は ﹁ 浄 土 一 一 入 リ オ ワ レ パ 即 チ 如 来 ノ 大 会 衆 ノ 数 − 一 入 ル ﹂ 、 ﹃ 正 信 侮 ﹄ に は ﹁ 功 徳 大 宝 海 − 一 一 帰 入 ス レ バ 必 ズ 大 会 衆 ノ 数 − 一 入 ル ﹂ 、 こ の 意 は 死 ん で か ら で な い 、 呑月院の﹃論註講義﹄からすれば、 ﹂ の 二 門 は 正 定 家 の 益 と 成っている。また次の三 J 四は滅度の益とある、そうしてこの正定と滅度の二益を十一願なりと教えてある。拙論に 言う、浄土は仏道にして、現生に有るなりとする論説の基盤は、 五 念 門 に 根 が あ る の で す 。 第三宅門﹁大会衆ノ数ニ入リオワリヌレパ修行安心ノ宅−一イタルベシ﹂とある。 ﹃ 正 信 用 閣 ﹄ に は ﹁ 蓮 華 蔵 世 界 − 一 イ タリウレバ﹂とある。さて死んでから﹁修行安心ノ宅ニ入ツタリ、蓮華蔵世界に入って修行する事はありえない。こ 極 楽 と 浄 土 に つ い て
極 楽 と 浄 土 に つ い て れ皆、生きている在存中に仏道を通る事である。勿論弥陀法の大乗法の事である。 ﹁弥陀界ニ願入シテ、帰依シ合掌 シ 礼 シ 奉 レ ﹂ ﹃十四行傷﹄の実行である。この実行者を﹁果得浬撰者﹂と一百九ノ果浬撲を得たる人といえりと満足せり。 第四屋門﹁宅一一入リオワリパ正ニ修行所居ノ屋寓−一イタルナルベシ﹂、﹃正信侮﹄には﹁真如法性ノ身ヲ証セン﹂と あ る 。 ﹁宅門屋門﹂に各々修行とあるが、死んで極楽へ参ってから修行なぞ有る筈がない。 第五門に至って﹁修行成就シオワリヌレバ、正ニ教化地ニイタルベシ﹂と。修行或は修行成就とは死んだ後でない、 揃って現生の事件である。 五以上は﹃論註と証巻﹄に示す五念円である。なお一歩前進して、 ﹃浄土論﹄に示す春摩陀、昆婆舎那を修行して、 柔軟心を成就した五念門の菩薩の日常を記して、浄土は仏道なる事を試みます。 ﹁菩薩ノ巧方便廻向トハ礼拝等ノ五種ノ修行ヲ以テ集ムルトコロノ一切ノ功徳善根ハ自身住持ノ楽ヲ求メズ、 切 衆生ノ苦ヲ抜カント欲スルガ故ニ、 一切衆生ヲ摂取シテトモニ同ジク、 カノ安楽仏国ニ生ゼント作願ス、 コレヲ菩薩 ノ巧方便廻向成就ト名ツク﹂。この﹁礼拝等ノ方便廻向ノ文﹂等は、 一般仏教の信仰にては解読困難である。 されど 宗祖は﹃浄土論並論註﹄を信じて、自ら親驚とお名乗り遊ばされた位だから、門徒に了解易からしめられた。 ﹁ 即 チ 廻 向 ノ 名 義 ヲ 釈 セ パ 、 イワグオノレガ一切ノ功徳ヲモツテ、 一 切 衆 生 − 一 施 与 シ テ ト モ ニ 仏 道 − 一 向 ハ シ メ タ マ ヘ リ ﹂ 。 また﹁コノナカニ方便トイフハ日グ作願シテ、 一切衆生ヲ摂取シテ共ニオナジク安楽仏国ニ生ゼシム、彼ノ仏国ハ即 チ畢寛成仏ノ道路ナリ無上ノ方便ナリ﹂。とこの文の中に仏道、仏国、道路、 方便等、何れも浄土は仏道なりとの証 と な る な り 。 以上項を分けて、初頭の﹁研究題目﹂に答えてみました。
五
浄土の三部経と華厳経 ﹃ 御 本 書 教 行 信 証 ﹄ の 最 末 に 、 ﹃ 華 厳 経 ノ 侮 ニ イ フ ガ 如 シ 菩 薩 種 々 ノ 行 ヲ 修 行 ス ル ヲ 見 テ 、 品 畳 間 不 善 ノ 心 ヲ 起 ス ト ア レドモ菩薩ミナ摂取セシムト﹂。宗祖は何を意図してか、﹃御本書﹄の最末の押えとしてこの引文をなしたるやと。激 しく批判した人が居ますが、実にこの法語は読解困難でもあるが、宗祖には実に大きな深いお考えの上に、その片鱗 を表わされた、最末の文と思われる。 仰々﹃華厳経﹄は﹃大経上下﹄二巻の三十五倍もある長文で、仏成道直後に数日間のお説法であると承っている。 ﹃浄土三部経﹄中で判断に苦しむ所は当経に依ると承る。例えば﹃観経﹄の意提希夫人の入信された﹁無生法忍﹂は 得処があらわれていない、善導は﹃序多義﹄に﹁玄−一談ジテ未ダ得処ヲ標サザルコトハ﹂と﹃観経﹄の末談所を﹃華 厳経﹄の説を引用して ﹁此レ多ク是レ十信中ノ忍ナリ解行己上ノ忍ニハアラザルナリ﹂と説かれた。 ﹁ 十 信 ﹂ と は ﹃華厳経﹄に説く害薩の五十一位の最下位の忍である。仏の初転法輪は前引の﹁四聖諦﹂を説かれ、次に十信を説か れ、次第三会には﹁十住﹂を説かれ、第四会には﹁十行﹂を第五会には﹁十廻向﹂を第六会には﹁十地﹂を説かれて あ る 。 また天親菩薩の﹃十地輪﹄は四十位!五十位を論釈遊ばされ、龍樹菩薩は﹃十住毘婆沙論﹄を顕わされ、前記 十地論と並んで経論釈として﹃三部経﹄に次ぐ、最重要である。この二論は﹃華厳経﹄の説を主幹として論ぜられた。 ﹃御本書﹄の最末の文﹁華厳経ノ侮一一イフガ如シ﹂は場所柄余りに突飛に似たれども、決して決して突飛でない。親 驚信仰の窮極中心を華厳経の侮文を以て、表示されたものと理解する。以下悉く同経の説である。 善導独明仏正意の︵七文玄義十三要義︶中に、 ﹁章提希ノ無生法忍ノ解﹂について、善導と諸師︵嘉詳天台浄慧︶と の聞に詩論がある。即ち善導は前記の如く﹁コレ多グ是レ十信中ノ忍ナリ解行己上一一アラズ﹂と言う。諸師は﹁初歓 極 楽 と 浄 土 に つ い て一
一
一
一
一
極 楽 と 浄 土 に つ い て 二 四 喜地ナリ﹂と争った。初歓喜地とは菩薩の四十一位にして﹁菩薩コノ地ニ住スレパ諸仏ト仏法ト菩薩行等ヲ念ジテ歓 喜ヲ生ズ﹂と。故に章提の無生法忍は歓喜地であると諸師は募った。善導は弥陀法の体験者なれば、初一念はよろこ び少ない事を知っていられたから下位の﹁十信ノ忍ナリ﹂と争うた。宗祖も三一願転入の文に於て﹁愛ニ久シク願海−一 入リテ深ク仏思ヲ知レリ﹂と、久しく願海の深遠なるお慈悲に育てられて、 よろこびが出たと申されている。章提希 は世尊の生き仏とは申せ、今始めて摂取の光明に偶って、得生の行を聞いたとてよろこばれる筈がない。善導と諸師 の 詩 論 即 ち ﹁ 十 信 中 ノ 忍 ナ リ ﹂ と 、 ﹁初歓喜地﹂の四十一位を吟味して、善導と同じきを欣求せん。 次に﹃大経﹄の序分に﹁皆遵普賢大士之徳﹂と申す経句がある。大経の対告衆は一万二千人であった。この一万二 千人の仏弟子達は、皆普賢菩薩の教えを聞いて信じていたと申すのである。普賢と申せば文珠に善財章子を加えて、 華 厳 経 の 三 聖 で あ る 。 五十三人の善知識の最上位の菩薩です。処が大経所説の場合は自分の弟子ばかり一万二千人を 引きつれて、仏のお説法を承っている。経名は異っても両経は中味は同じでないかと疑問を生ず。 ま た ﹁ 四 十 八 願 ﹂ においては二十三願還相廻向の主人公である。還相廻向の左訓に﹁フゲンノフルマイヲセサセテ衆生利益セサセント 廻向シマシマスココロナリ﹂とある。 一万二千人の弥陀法の信者を作った普賢菩薩の﹁フルマイヲセサセテ﹂即ち法 の伝法者の真似を﹁セサセテ﹂ですから、末代の知識を指している。 然るに還相廻向とは一旦死した後、生れ来て早逝する嬰児を還相廻向とするが如きは、当を得ない。勿論無常の知 識ではあるが、往生の知識ではない。 ﹃無量寿経﹄所説の原点にかえって、大乗の不体失往生とはどんな事、仏道と は ど ん な 道 、 ﹁一切衆生ヲ教化シテトモニ仏道ニムカハシメタマヘリ﹂と仏道なぞ知らぬ人達に、 ﹁ 仏 道 ﹂ の 所 在 を 教え知らしめて入口を示すなり。 また﹁モシハ往モシハ還ミナ衆生ヲ抜キテ生死海ヲワタサンガタメナリ﹂とある。 幼少な童子に﹁衆生ヲ抜キテ生死海ヲワタス﹂など、 そんな派手な事は出来ない、善財も前世よりの宿縁の強きにも
依るが文珠、普賢の様な老練の指導者が是非必要なのが、他力教の相であると思う。死んでからなど稚戯に等しい、 教法に足踏して前進がないのは往生と成仏を同時とする誤解より生ずると考えらる。 . . . 唱 J
、
論 者 の 宇 宙 観 生死海、生死の迷界とは涯しない宇宙の事である。或る宗教ではこの宇宙を天地創造の神がお作りに成ったと立案 して、現今でも一宗の基盤にしているが、論者はこの説を信じない。その故は神とも敬まれる方がいまして創意工夫 して創造されたとしては、余りに粗雑な恥しい天地宇宙である。恥しいとは宇宙は弱肉強食の姿を剥き出しにしてい る故だ。余りに強い者勝ちだ、遠慮なく弱い方を食い潰して、そして自分が大きくなる。空に輝く星を始め、小さな 試験管の中まで科学が進歩すればする程、強い者勝ちである事がいよいよ立証されて来た。歌や俳句は人間の都合の よい部分のみ摘み出して、天地自然は慈悲の現れと謡歌しているが滑稽至極だ。宗祖は十悪の四番目の奇語を説明し て 、 ﹁奇語トハウタハイグヲイフ﹂と仰せられているが全くだ。 ﹁十方衆生﹂と呼びかけ玉う阿弥陀仏の慈悲に比較 して、天地自然宇宙の慈悲のいかに貧乏らしい事が、天地創造の神が若し、 い ま す な ら 、 その神は慈悲心の欠けた神 様 だ 。 一切新羅万象に斗争を教うる神だ、この様な事を教うる神を信ずる人聞にも要心がいる。自分の都合の良いこ とを神の名において実行する人だ。 かくの如き天地自然の中に生きている人間なれば、我れ勝の気持のあるのは順序である。人間も宇宙の一部である 事実を知らねばならぬ。人間程勝手な者はない、自分同志で精一杯争うて相手を庇つけ、その掲句万物の霊長という 名実を考案して、弱い生物を喰い荒し、弱者の犠牲の許に、仏の作り玉うた様な極楽を出現せんと考える倣慢不理解 な聖人もいられる。我れも宇宙の一部との考えがあれば、これは不可能な相談だと中止する筈だ。宇宙は悉く弱肉強 極 楽 と 浄 土 に つ い て 二 五極 楽 と 浄 土 に つ い て 一 一 六 食の相だ、見た通り何遍見なおしても、この見当は違わぬ。それを見損うて宇宙は弱肉強食の相でも、これを眺むる 自分が仏心の無我になって、宇宙を極楽と見直して人生を暮したいと発願する人あれども、この志は立派だが永続き はせぬ。坂に亭を押す如しの警の如く 一寸の油断で基の原点に返って仕まう。況んや煩悩の断滅など思いも寄らぬ 戯言である。従って身や心に極楽や成仏は出来ぬ相談である。 宗祖は﹁自性唯心﹂を笑った所に、真実性があり科学的である。
七
宇 宙 観 の 二 種 或る人、私に尋ねて日く、或る宗教では天地創造の神を設けて、この不可思議な天地を神が作ったと宗教的に説明 しているが、仏教殊に真宗にては阿弥陀仏が、この宇宙全体を造られたと解釈してよろしいかと質問する。 答、成程宗教に依っては天地創造の神を設けて、宇宙万物を作られたと信仰の基盤にしているが、この説には随分 の 難 が あ る 。 真宗に於ては阿弥陀仏が天地宇宙を作られたとはせぬ。宇宙一切は行業果報の因縁生であると説くのである。この 両説の何れが正しいかは信ずる人によって決定せられる。論者は天地創造の神なぞいませぬと思っている。その証拠 は宇宙は神の創造としては、余りに粗末すぎる貧弱すぎる、若し神と申さるる方が思う存分、自由勝手に創作された とすれば、もっと立派な天地が完成される筈と思う。こんな弱肉強食斗争のたえまのない、人間本位の差別のある天 地自然を作られる筈がない。然るに宇宙は厳然として実在するのは、 それは何ぞ神以外の理法に依って、作られたも の で あ る か ら で あ る 。 仏教では今日の宇宙説を須弥山説で説いている。阿弥陀仏は須弥山を作らない、従って字宙も作らない事になる。﹃大経﹄によると須弥山は﹁行業果報不可思議﹂と申して因縁生であると説かれている。人は人、馬は馬、犬は犬そ れぞれの因縁生に依って現われている。 生物以外の無機物に至るまで、 即ち山は山、水は水、星は星各々が自分の ﹁行業ノ地ニ住ス﹂と説かれている。大は大、小は小集合する行業のあるものは集って山の形をつくり、散るべき行 業因縁のあるものは、風或は水に依って形を変えて行く、即ち須弥山は因縁所生のものであると説かれている。顧み れば我等人間も宇宙の一部である以上、自分の因縁に依って身も心も生滅して行くなり。 ここに於て以上の両説を考うるに、 一方は神と申す自分以外の力に依って造られたとする。 一方は否々自分の行業 果報の因縁であると申す。この差、隙間より人生の禍福、昨り等の諸問題が発生すると思われる。とに角、神の創造 と信ずる人達は、自分の都合の好い時は感謝一杯であるが大風、大雨、地震、難病、大火事、戦争等の場合、こまる のは神の神聖さである。神は俄かに悪魔の汚名の憂目をまぬかれぬ。こんな難のある無理な説を信ずる文明人にも要 心がいる。察するにお互に好い時はお陰様一杯であっても、都合の悪い時は神の名において、相手を屈服折伏する魂 胆 と 考 え ら れ る 。 これに換る仏説は実に我等を納得させる。即ち因綾生だとの仏説によれば、創造の神を恨む理由も立たず、苦しい 時は自分の前業を恨むより外に方法がない。苦しければ苦しいだけ今の内に未来の悪業を招かぬ様、注意するより外 に逃れ場がない事に成る。神が造ったか、或は自分が作ったかの両説より現世俳需が生れると思われる。 む す び 阿弥陀仏は須弥山を作らず、従って宇宙を造らぬ道理となる。その代りに極楽を作られた。その極楽は﹁無有衆等 但受諸楽﹂の極楽故、相対の須弥山である宇宙には置場がないので宇宙以外に、完成遊ばされた。﹃安楽集﹄には﹁極 極 楽 と 浄 土 に つ い て 二 七
極 楽 と 浄 土 に つ い て 二 八 楽 ハ 一 二 界 ノ 摂 ニ ア ラ ズ ﹂ と 明 記 さ れ て い る 。 ﹁唯心ノ弥陀己伊ノ浄土﹂は呉安心の張本である。と同時に﹁聖浄ノ分 岐 点 ﹂ で あ る 。 ここに特に留意すべきは、三界には極楽はないが仏道がある事だ。即ち生死海である宇宙人間界には極楽はないが、 極楽へ参る道があるのである。その仏道は浄土の名の許に鮮明にあらわれている。極楽と浄土を同一同所と信じては よくない。研究題目にもある如く極楽は宇宙外にある。浄土の仏道は宇宙と言う。 シャバにあると信じている。即ち 五 念 門 が 浄 土 で あ り 仏 道 で あ る 、 ﹃華厳経﹄所説の五十一位は仏道の物指である。至心信楽の願因より必至滅度の願 果の願因と願果の聞が仏道である。この間を五念門と言う。その最後の廻向門に至って、 ﹁修行成就シオワツテ﹂も 教化地であって極楽ではない。仏道であって極楽ではない。宗祖はかくの如き﹁浄土論並論註﹄を信じて親驚とお名 乗 り 遊 ば さ れ ま し た 。