ニ惰
求一
但自
行中
孝養
ム也
応レ
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﹃真
聖全
﹄巻
一・
五五
O
頁 ︶と表わしている︒すなわち︑中下品の人とは︑曽て出世間の法としての仏法を見聞したことのない人であり︑見聞な きが故に︑今現に仏法を希い求めるということを了解していない人である︒そして︑
そこに世間の善であるところの
父母孝養を行なっているだけにすぎない人である︒
とこ
ろで
︑
﹃観無量寿経﹄に顕わされる九口問とは︑単に各別の業縁を生きる人間の修善とその往生を類別して示し たということではなく︑あくまでも︑仏自開の教えとして︑覚者から未覚者としての人聞が教えられるべき事柄とし て
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誠心
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真聖
全﹄
巻一
・六
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頁 ︶と説き始められるように︑自己の願生ということ自体を至誠心をもって徹底せよという仏陀からの呼びかけである︒
そして︑その呼びかけに応答して人聞が誠を至すということを徹底して実践してゆくということにおいて初めて露わ にされてゆくところの︑至誠心を徹底してゆけない自己存在の姿こそ九品の教えが明らかにしようとする事柄なので ある︒それ故に︑上上品から下下品へと向下的に説かれてゆく九品とは︑仏陀によって人聞が自己存在を教えられて
ゆくその自覚の深まりを表わすものに他ならないのである︒
そして︑中下品とは︑仏法を修学し︑浄土を願求して来たところの自己存在が︑自己が見聞して来たことは本当に 仏法であるのか︑今自分が求めている事柄は本当に仏法であるのか︑ということを問い返された存在である︒世間の
善と同質のことを行なっているにすぎないのではないかと問い返された存在である︒そして︑その聞いの前で︑
﹁首 国
て仏法を見聞せず︑亦悌求を解らず﹂としかいいようがない自分を見い出したところの存在である︒すなわち︑
ヵ
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て一度も仏法に値過したことがなく︑また︑仏法を希い求めるということも知らないのが自分であると分ったのが中
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仏法を見聞せずという自覚は︑
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﹃真
聖全
﹄巻
一・
六回
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六 五 一 良
︶ と表わされるごとく︑仏法を段犯し︑仏法に背反してゆく造罪の自己存在の発見へと徹底して深められてゆくのであ
本願
成就
とし
ての
願生
彼国
一 O
九本願
成就
とし
ての
願生
彼国
二 O
そして︑下下品の機とは︑仏法に背反している自己を知るが故に︑仏法によって救済されるべき術の断たれたとこ る ︒
ろの自己存在を知るものである︒すなわち︑救済の縁なき身を真に苦悩しているのが下下品の存在である︒そして︑
その苦に逼められて仏を念ずるということも成り立たなくなったという苦悩の深みにおいて︑
ズ 作 品 ユ ス ト
汝若
不レ
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︑応
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︵﹃
真聖
全﹄
巻一
・六
五頁
﹀
という教言が聞き取られてゆくのである︒そして︑かくのごとく﹁ただ念仏﹂︵﹃歎具抄﹄︶の教言に領き得た存在とは︑
シ 下 ハ ノ ト テ ヲ シ 下 へ ル ノ ト
不下
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余行
一為
中往
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願
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念仏
一為
一一
往生
本願
一︵
﹃真
聖全
﹄巻
一・
九四
O
頁 ︶と表わされるところの本願の如来と値遇した存在であるといえよう︒そしてそれは︑救済の有無ということに対する
執着を越えて︑如来に遇いつつ生きてゆくという新しい生を生きる存在の誕生である︒
このように尋ねて来るならば︑仏法を見聞するということは︑自己の依って立つべき立脚地︑すなわち畢寛依とし
ての如来︑が明らかとなるということであり︑如来に帰命するということが自己においておこるということに他ならな
L
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そして︑そのような畢寛依が明瞭となったというところに聞かれてくる事柄が︑願生ということではなかろうか︒
2
願 生 に 宗 有 り
天親の﹃浄土論﹄は︑偲煩と長行より構成されているが︑その題号が﹁無量寿経優婆提舎願生傷﹂と表わされてい
るよ
うに
︑ その全体をもって浄土への願生の心を表白するものであるといえる︒そして︑天親の表白する願生とは如
何なる事柄に起因するのかということについて︑曇驚は﹃浄土論註﹄において︑
ズ ノ 品 ヨ ノ 晶 へ
− 一 ズ ト
天親菩薩︑在ニ釈迦如来像法之中﹁順ニ釈迦如来経教﹁所以願レ生︒願生有レ宗︿﹃真聖全﹄巻了二八一頁﹀
と述べて︑釈尊の教言との値遇・随順ということでもって明らかにしている︒すなわち︑天親の表白するところの願
生とは︑遇教においてたまわった明瞭な宗・畢寛依を有するところの願生なのである︒それ故にそれは︑宗なき願生
に選ばれるところの事柄である︒宗を有する願生とは︑畢覧依たる如来に帰命するということによって聞かれた願生
であるが故に︑徹底して帰命ということに摂め尽くされてゆく事柄である︒天親の﹁願生安楽園﹂という表白を︑曇
驚は作願門に配当するのであるが︑そこにおいても︑
﹁願生安楽園﹂者︑此一句是作願門︑天親菩薩帰命之意也︒
︵﹃
真聖
全﹄
巻一
・二
八三
頁︶
と述べて︑願生を帰命でもって押え直している︒つまり︑曇驚は︑願生ということの決定的な一点を︑帰命・宗の有
無ということで明らかにしてゆくのである︒
そし
て︑
﹁宗有り﹂ということで願生が確かめられてゆくということは︑得生に始まるところの願生を明らかにし
てゆくものであるといえよう︒何故ならば︑往生を得るということが︑人聞に如来及び浄土が開示され︑明瞭になる
ということであると言えるならば︑徹底して稜土を生きる人聞にとってその浄土の開示ということは︑穣土を生き尽
くさしめてゆく根拠として︑畢寛の依処として︑すなわち﹁宗﹂として如来及び浄土が明瞭となるということに他な
らないからである︒それ故に︑得生の事実こそが始めて宗を有する願生を聞いてゆくのであるといえよう︒
天親は﹁願生偶﹂において︑仏土・仏・菩薩の三厳二十九種の荘厳功徳成就を表わしてゆくのであるが︑それは︑
天親の宗としての如来及び浄土を表白するものであり︑それ故に︑天親の生きる穣土の最中に開示された如来及び浄
土に他ならない︒つまり︑その如来及び浄土とは︑
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真聖
全﹄
巻一
・一
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そして煩悩成就せる凡夫人の生死の直中に作用して︑その迷いの生死を越え
さしめてゆくはたらきに他ならない︒それ故に︑﹁願生傷﹂に表わされる三厳二十九種荘厳功徳成就とは︑稜土を生
きる天親の身に作用するところの浄土の功徳を讃嘆したものであり︑それは全く得生の表白であるといえよう︒
しかし︑その後土の最中に作用する浄土を天親は︑
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世界
相一
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一過
三界
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︵﹃
真聖
全﹄
巻一
・二
九六
頁︶
と述べて︑彼岸の世界であると表わしている︒何故ならば︑浄土は迷いの生死の中に作用しながらも︑生死に埋没せ
ず︑人聞をしてよく迷いの生死を越えさしめてゆくからである︒そこには積土と浄土の分限への明瞭な額きがある︒
それ故に︑往生を得るということは︑此岸と彼岸の分限を明らかに知らされるということである︒そして︑彼岸が彼
岸として明瞭になり︑此岸が此岸として明瞭になるというところに﹁彼の固に生まれんと願ず﹂という︑真の意味に
おける願生が始まるのであるといえよう︒それ故に︑分限を明らかにするところの得生こそ願生を聞いてゆくのであ
り︑そして︑その願生ということにおいてこそ︑彼国としての浄土が明瞭に開示成就されて在るのである︒
以上のように︑願生ということは︑得生ということによって解消してしまうというような︑得生の前段階としてあ
る事柄ではなく︑むしろ逆に︑念仏に出会い往生を得るという得生こそが真に願生を聞いてゆくのである︒そして︑
念仏において人間のうえに︑﹁彼国﹂を﹁願生﹂するということが現実するということこそ︑浄土荘厳・名号の廻施