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佛教学研究 第62・63号 017森安, 孝夫「西ウイグル仏教のクロノロジー : ベゼクリクのグリュンヴェーデル編号第8窟(新編号第18窟)の壁画年代再考」

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(1)

西ウイグル仏教のクロノロジー

一一ベゼクリクのグリュンヴェーデル編号第

8窟

(新編号第

1

8

窟)の壁画年代再考一一

森 安 孝 夫

京都と東京に離れてはいたが,共に大学院生であった時代からの学問的交 友が 30年以上に及んだ百済康義教授が逝去されてから,早くも 3年になる。 シルクロード地域に花開いたウイグル仏教文化とその歴史の復元をめざすと いう点で、は,百済教授と私はまさに同志であり,互いに刺激し合って研究を 進展させてきた。彼を失ったことは,私個人にとってだけでなく,世界のシ ルクロード史学界や仏教学界にとって大きな損失である。残された我々の義 務は,彼の遺志を継いで斯学を発展させることと後進の育成である。 はじめに 第 1節 ベゼクリク第 8窟壁画に見える寄進者たち 第 2節 ベゼクリク第 8窟重修の理由と時期 第3節 シャジン=アイグチという称号の出現 第4節 目世紀の西ウイグル仏教界の最高位者「都統」 第 5節 西ウイグル仏教におけるトカラ人高僧 第 6節 西ウイグル仏教に占める北庭の位置 第 7節 ウイグル仏教美術の年代論一一ラッセルスミス説への反批判一一ー

は じ め に

まず最初に,ウイグル仏教史ないしマニ教史のクロノロジーに関する私の これまでの研究による主張点を,箇条書きにして列挙する。

1

(2)

-西ウイグル仏教のクロノロジー -テーゼ1)西ウイグル王国初期(9世紀中葉一10世紀)に支配層であるウイグ ル人の間で、優勢だった宗教はマニ教である。ただしウイグルのマニ教はモンゴ ル時代まで生き残ったのではなく,

1

1

世紀後半頃に仏教に圧倒されてほぽ消滅 しfこ。 [テーゼ1:森安 1991,第3章 (pp.127-174); Moriyasu 2000c, pp. 342 -347; Moriyasu 2003b, pp. 063-100; Moriyasu 2004d, chapter 3 (pp. 149 -209)J .テーゼ2)西ウイグル王国初期に仏教を支えたのは,それ以前から東部天山地 方に居住していたトカラ人・漢人その他(多分,少数のソグド人やトルコ人も 含まれよう)の多言語話者の仏教徒であり,最初期のウイグル語仏典を生み出 したのは彼らである。 .テーゼ3)ウイグル仏教の実質的な開始は10世紀終わり頃であるが,モンゴロ イドでトルコ (Turk=テュルク)系ウイグル語話者であるウイグル人の大部 分が仏教に改宗し,ウイグル仏教が繁栄するのは

1

1

世紀に入ってからである。 ただし, 9世紀末-10世紀中葉からトカラ人・漢人・ソグド人仏教徒によって ウイグノレ語仏教文献が作られ始めたり,ウイグル人を含むトルコ人のごく一部 が仏教に改宗していた可能性については,これを否定しない。 [テーゼ2&3:森安 1985,pp. 32・37,51-62;森安 1989,第七節 (pp. 19 -21);森安 1991,pp. 147-160; Moriyasu 2003b, pp. 096-099;森安 2004c, pp. 709, 712・713;Moriyasu 2004d, pp. 174-192J ・テーゼ4)初期のウイグル語仏教文献は,先行するウイグル語マニ教文献の強 い影響を受けて成立した。 .テーゼ5)古トルコ仏教とウイグル仏教は本来はまったく別の概念であるが, 現存の古トルコ語仏典は全て西ウイグル時代になってから成立したウイグル仏 典である。トルコ仏教の源流と最古のトルコ語仏典の出現に関しては,「ソグ ド仮説」を捨てて「トカラ仮説」を採るべきである。私の立場からは,古トル コ語仏典とウイグル仏典はほとんど同義となる。

[テーゼ4&5:森 安 1989;Moriyasu 1990+ Moriyasu 2003bJ

・テーゼ6)ベゼクリク千仏洞のいわゆるウイグル風仏教壁画の年代は10世紀終 わり頃を上限として,大部分は

11-12

世紀である。(もちろんモンゴル時代の 追加補修もある。) [テーゼ6:森安 1985,pp. 52-54, 61;森安 1991,pp. 30-34, 150 (n. 73);森 安 2000b,pp. 34-35; Moriyasu 2000c, pp. 341-342 & footnote 13; Mori -yasu 2003b, pp. 035・037;Moriyasu 2004, pp. 32-38, 178-179 (n. 73) J ・テーゼ7)10世紀において敦燈の河西帰義軍節度使政権(実質的には敦煙王 国)と西ウイグル王国との聞の交流はきわめて緊密であり,

1

1

世紀前半には西

(3)

ウイグルが敦a崖地方を支配した事実がある。 [テーゼ7:森安 1980,pp.331-335;森安 1985,p.36;森安 1987;Mori -yasu 2000a;森 安 2000b;Moriyasu 2000c, pp. 337-340, 348-352J ・テーゼ8)ウイグル文字の書体による時代判定は可能である。構書体はいつの 時代にもあるが,半構書体は古く (10-11世紀前後),草書体は新しい (13-14世紀のモンゴル時代とそれ以降)。 [テーゼ8:森安 1994,pp. 63・83;Moriyasu 2000c, p.345; Moriyasu 2003 a, pp. 461-462; Moriyasu 2003b, pp. 087司089;森安 2004a,pp. 7-15; Mori -yasu 2004b, pp. 228-229, 232-233, 235J 以上のテーゼにつき,改めて解説を加えると,次のようになろう。 古トルコ民族の聞に仏教が普及した時期や最古のトルコ語仏典が出現した 時期と担い手について,欧米にはいまだに突厭あるいは西突厭時代のソグド 人に遡ると想定する学者が少なくない。これを「ソグド仮説」という。しか し,私はそのような旧説に反駁し, トルコ民族に本格的に仏教を布教したの は突厭・西突厭・東ウイグル時代のソグド人ではなく,西ウイグル時代のト カラ人と漢人であるとし,これを「トカラ仮説」と名付けた[森安 1989; Moriyasu 1990 J。より正確には「シノ=トカラ仮説」とでもいうべきであ ったかもしれない。突厭時代にソグド人ないし漢人によって仏教が一時的に 流入したため,ごく基礎的な仏教関連用語がソグド語や漢語から古トルコ語 中に入って定着したことは,私もこれを認める[森安 1985,p.33, n. 31J。 しかし,パミール以東のトルコ民族の中で初めて本格的に仏教を信仰したの は突厭でも西突厭でも東ウイグルでもなく,西ウイグルなのである。 注意すべきは,西ウイグル王国仏教とウイグル仏教とは裁然と区別しなけ ればならないといつことである。仏教は西ウイグル王国(9 世紀中葉 ~13世 紀初頭)建国当初から盛んで、あったが,それを支えたのは前代以来の住民で あり,新王国の被支配層となったトカラ人・漢人たちであった。なかには少 数のソグド人やトルコ人も混じっていたかもしれない。しかし,王国の支配 階級を構成するモンゴロイドでトルコ系ウイグル語を話した狭義のウイグル 人と,元来はコーカソイドでイラン系ソグド語を話したソグド人とは,東ウ

3

(4)

-西ウイグル仏教のクロノロジー イグル帝国 (744-840年)後半期の状況を引き継ぎ,西ウイグル王国建国当 初はほとんどマニ教徒であったのである。彼ら支配層が大挙して仏教に改宗 していき,いわゆるウイグル仏教が成立するのはどんなに早くても10世紀後 半であり,本格的になるのは

1

1

世紀に入ってからである。 敦燈地方に存在したいわゆる沙州ウイグルは,あくまで西ウイグルの一部 に過ぎない。沙州ウイグルは独立勢力であり,後には甘州ウイグルもこれに 合流して沙州ウイグル王国という独立政権が樹立されたという,中国人研究 者の見方は成り立たない。 ウイグル文字の書体の区別と書体による時代判定に関して,私が独自の見 解を発展させてきた軌跡については, Moriyasu 2000c, p.345; Moriyasu 2003a, pp.461-462;森安 2004a,p.8 & footnotes 34-36を参照されたい。 「棺書・半槽書・半草書・草書」という

4

つの書体に関する定義は,日本語 では森安 1994,pp.63・83が最も詳しいが,その後さらに補正を加えている ので,現時点では英語版の Moriyasu2003aも必ず参照していただきたい。 さらに 4つの書体の具体例一覧表は Moriyasu2003b, pp.088・089&

Mori-yasu 2004b, pp.232・233にある。当然ながら書体の判定は相対的なもので ある。なぜなら書体には個人差もあり,「半棺書体」の判定基準を誰からも 異論が出ないように定義するのは困難だからである。私自身の中でも「ぶ れ」てきたし[森安 1994,p.67, n. 5J,また当初から自信の持てないもの に対しては,「半草書体」というグレーゾーンを設けてきた。半草書体とい うのは,あくまで臨時に設けたもので,将来的には半棺書体と草書体に分離 吸収される可能性がある。

1

ベゼクリク第

8

窟壁画に見える寄進者たち

地 獄 図 が あ っ た こ と で 有 名 な ベ ゼ ク リ ク の グ リ ュ ン ヴ ェ ー デ ル Grunwedel編号第 8窟(現地最新編号第四窟)の主室内部を飾ったウイグ ル仏教壁画は,今ではほとんどが剥ぎ取られたり,破壊されてしまった。そ

(5)

れを復元する手段として残されている図像資料は,次の通りである:

Le

Coq

BSA IV

T

a

f

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1

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の大判のカラー写真

2

枚と大判のモノクロ写 真

2

枚 ;

Le Coq

BSA V

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のカラー写真

2

枚 ;

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ABK

F

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1

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3

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のモノクロ写真

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枚,

F

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5

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1

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のスケッチ数 枚 ;

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XIX

XXIII

の大判写真

2

枚(カラーは

XXIII

のみ); rr'新彊石窟OD

p

l

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1

のカラー写真

5

枚 ; 『中国壁画全集OD

p

l

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.

6

4

6

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9

9

1

0

1

のカラー写真

5

枚。このようにばらば らになった図像を元通りに再構成するためには,

Grunwedel

ABK

p

p

.

2

5

3

-

2

5

9

の記述が必須で、あるが,併せて

LeCoq

BSA

の各図版に付された 解説も参照する価値がある。

.

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.

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一 ※左図は元の右図の主室部 を拡大・修正

F

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1 Grunwede

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C

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まず,

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Le Coq

BSA IV

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BSA V

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2

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にある第

8

窟全体の平面図を御覧いただきたい

[本稿

F

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g

.

1

J

。この図では上が西であり,右が北である。本稿ではこれに 従って,主室の壁面を次のように呼ぶ。ただし,壁の一部を示すアルファベ ット記号の C (大文字シー)と C' (大文字シーダッシュ)は,グリュンヴ

(6)

-西ウイグル仏教のクロノロジー ェーデノレ自身が誤って本文の説明と逆になっているので,ここでは修正して おく。前室から主室への入り口に当たる短い廊下を南道というが,涌道に立 って奥(西)を向いた状態で,すぐ右手にあるのが袖壁

A

,同じく左手にあ るのが袖壁

a

である。袖壁は王室の中心柱前面に当たる正壁と向き合って いる。主室の側壁のうち北側の壁を手前から奥に

B

C

E

,南側の壁を手前 から奥にb,

c

e

と区分する。袖壁と向き合って正面に見えるのが中心柱前 面の正壁と本尊台座

D

,正壁の右側で北側壁

C

と向き合うのが

C

'

,正壁の 左側で南側壁

c

と向き合うのが

c

'

である。側壁のうち C.

c

は中心柱との聞 に回廊を形成するが,中心柱の裏側を f,それと向き合う最奥壁を

F

とする。 正壁は破損が激しいが,鹿が描かれている [cf.

ABK

, p.

2

5

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F

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.

5

3

3

a

ニ『新彊石窟dJ

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3

9

J

ので,半円形の台座の上にあった本尊は,べナレ スの鹿野園で説法する仏陀の座像であったのだろうという

[ABK

p

.

2

5

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J

。 北側壁

B

の大画面

[BSAIV

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=ABK

F

i

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.

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3

5

J

の下方中央には 礼拝する姿の長者・須菩提が描かれ,反対側の南側壁

b

の大画面

[BSA

しじようζう

IV

T

a

f

e

l

17=ABK

F

i

g

.

5

3

4

J

には蛾盛光仏変相図が描かれている。北側 壁

B

に隣接する北側壁

C

にあるのが有名な地獄図

[BSAIV

T

a

f

e

l

1

9

J

で あり,ちょうどそれと対象の位置に当たる南側壁

c

には地蔵の肖像がある。 いうまでもなく地獄における救済者が地蔵であるから,この配置には意味が ある。 そして正面中央にあった本尊がよく見える位置にある 2つの袖壁 A,

a

の 中央にはそれぞれ大きな仏陀が描かれている

[ABK

F

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g

s

.

5

3

1

& 5

3

2

J

。こ れも誓願図かどうかは判断に苦しむが,特に注目されるのが,仏陀の前で脆 いている人物と,それらの下方に並んで、いる供養人(寄進者)の群像である

[BSA V

T

a

f

e

l

2

2

a&bJ

。幸い,これらの供養人には題銘の付いているも のが多く,これらは西ウイグル仏教史解明のための重要な鍵となるので,本 稿で取り上げることにする。西ウイグル王国の構成員にはウイグル人だけで なく,多数の漢人・トカラ人・ソグド人その他がいたはずでおあるが,本窟の 供養人たちがモンゴロイドでウイグル語を母語とする狭義のウイグノレ人であ

(7)

ることは,その容貌や服装,そしてそれぞれに付された題銘などからまず疑 いないところであろう。 グリュンヴェーデルによれば,第

8

窟には二度の大改修の痕跡が見られ, 壁画も 3期に分けられるという。そしてそこにある誓願図は第 2期のもので, それが第

3

期に場所を移し替えられて生き残ったといっ。しかし,

ABK

に も

BSA

にも第

8

窟出土の誓願図が掲載されていないので不思議に思ってい たところ,それは現地に部分的に残っているらしく,その写真が『新彊石 窟Jl

p

l

s

.

4

0

-

4

1

として発表されていることを,龍谷大学大学院生の森下知美 氏の教示によって知り得た。そして彼女とともに

ABK

の記述を再検討した 結果,側壁Cと側壁C'の表示が逆であることを発見したのである。それゆ え,

2

枚の誓願図の位置について,

ABK

p

.

2

5

8

の中程にど,

C

'

とあるのが 正 し し そ れ よ り

7

行下と次頁

p

.

2

5

9

の上から

5

行目に共に

C

,C とあるの は間違いである。そして地獄図のある側壁Cに対して細い回廊を挟んで、向 き合っている正壁右側壁c'に描かれているのが,誓願図の中でも特徴的な 燃燈仏授記である。 ベゼクリク千仏洞は,岩壁をくり抜いた本当の石窟を主体とする南半部と, 岩壁の前部に日干しレンガで建造された部分が主体をなす北半部とに分かれ る。第 8窟は隣接する第 9窟とともにベゼクリク千仏洞北半部のほぼ中央に 位置し, しかも全体の中でも最大の規模を誇っており,最も重要な寺院の 1 つであることは疑いない。第 8窟最奥部にはキジル風の千仏や「ラテルネン デッケ」が描かれているから,起源は南半部と同様に古いものである。第 8 窟は各時代の有力者によって造営され,何度も大小の改修を重ねて,最後ま で生き延ぴたのであろう。

2

0

世紀初頭にドイツやイギリスの探検隊が発掘し, 本国に将来したそこからの壁画のうち,供養人の肖像を描いている袖壁 A,

a

は,最後の大改修時期(グリュンヴェーデルのいう第

3

期)のものである。 ではその時の供養人,すなわち改修費用を拠出した寄進者とは,誰であった のだろうか。石窟改修には巨額の資金が必要で、あるから,当然ながら王族・ 貴族・大商人ぐらいしか候補にはなりにくいはずで、ある。 7

(8)

-商ウイグル仏教のクロノロジー 実はその手がかりは,この袖壁

A

.

.aの最下段に描かれている多数の供養 人(寄進者)像に付随するウイグル語銘文にある。なぜなら,そこにあるウ イグル銘文は草書ではなく,縦長の短冊状の枠の中に構書で丁寧に書かれて いるので,後のモンゴル時代に多くなる草書体の落書きではなく,壁画制作 時のものとみられるからである。 これらの供養人像とウイグル銘文は既に

BSAV

.

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a

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2

2

として出版さ れている。しかしその

T

a

f

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l2

2

はピントがかなりぽやけていて,そこから ウイグル銘文を読み取るのは至難の業である。ルコックが大部分の銘文につ いてテキスト転写をしてくれてはいるが,その「読み」には若干の不安があ る。ただ幸いなことに,寄進者の中心人物と思しき男性,すなわち

T

a

f

e

l

2

2

a

の中央にいて,壁画上方にある仏陀像の蓮華座を下から両手で支える人 物に付随する銘文だけは,鮮明な写真がルコックの別の出版物

LeCoq

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の中 にある。それによれば次のように読める。

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No. 1

本稿中の転写の凡例 ( ) =残画を無理なく復元; [ ] =破損個所を推定復 元;< >ニ書き忘れ,ないし習慣による脱落の復元;/ / /=破損部

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1

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「天神の思寵(ある者)シャジン=アイグチ三宝奴の生みの父たるノム チ=ビルゲ////////都統殿の肖像はこれである。」 シャジン=アイグチ

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戸必・とは,語義的には“

commandero

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"

であるが,実際にはウイグル仏教 界の最高指導者の称号である(第

3

節参照)。そのシャジン=アイグチが, この壁画制作時には

Sambodu

すなわち「三宝奴」という名前だ、ったことだ

(9)

けでなく,寄進者のリーダーがその三宝奴の実父の

Nom

B

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/

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Tutung

であったことが判明するのである。そうであれば,

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a

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2

2

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の下 段左方に居並ぶ女性群のリーダーで,やはり仏像の蓮華座を支える女性が,

Nom

B

i

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/

/

/

/

/

/

/

Tutung

の妻であり,三宝奴の実母である可能性が高く なろう。そういう視点で、その女性のすぐ脇にある銘文を見直せば,多分,次 のように復元できるであろう。

T

a

f

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l2

2

の銘文部分の状態はとても悪いの で,この復元はルコック自身が原物に就いて調べたはずの「読み」にある程 度の信頼を置いて行なわざるをえない。

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k

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u

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:

「天神の思寵(ある者)シヤジン=アイグチの生みの母たるキュセン=カ チャル=テングリムの肖像はこれである。」

さて,以上

2

つの銘文

No.I

&

No. I

I

と並んでh私が注目するもう

1

つの

銘文は,

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a

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2

2

b

の下段左方に居並ぶ女性群の間で,中央のリー 夕、一的存在から数えて 6番目と 7番目(最後尾から数えると 4番目と 5番 目)の

2

女性の中間に位置しているものである。これまた銘文写真の状態が 悪いので,ルコックの読みに依拠しつつ修正する。

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西ウイグル仏教のクロノロジー

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「天神の思寵(ある者)の受け取った寺院を荘厳するために,先頭になっ てきたキョルペット夫人セヴィネと共に。」 官頭の tangrim quti r天神の恩寵(を蒙った者)J という表現は,一般に 聖なる神格や人物を指すので,すぐには誰か特定できないが,本窟の袖壁

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a

に残る寄進者像全体は一度にまとめて描かれたものであるという前提 に立つなら,銘文

No.I

I

I

のそれを銘文

No.I

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No. I

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のそれと同じもの, すなわちシャジンニアイグチとみなすのがもっとも合理的で、あろう。そうい うふうに考えて私は,以上の

3

つの銘文を総合的に把握し,

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2

2

に描 かれた多数の供養人男女を,西ウイグル王国仏教界の最高位で、あるシャジ ン=アイグチに上りつめた三宝奴の両親とその一族であると断定する。 ところで三宝奴という法名は確かに漢語に由来するが,だからといってこ のシャジン=アイグチを漢人と見る必要はどこにもない。父の本名は銘文が 破損していて分からないが,母親の名前はウイグル語

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であり,本稿で紹介できない他の親族たちの名前のうち

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,俗人の場合は多くがウイグノレ語,僧形の人物の場合は漢語が目 立つ。本稿の「はじめに」で述べたょっに,そもそも西ウイグル王国支配下 に入ったトカラ人・漢人仏教徒たちが元来はマニ教徒であったウイグル人支 配者層を仏教に改宗させる努力を積み重ねた結果, トカラ仏教と漢人仏教が いわゆるウイグ、ル仏教の母胎となったのであり, したがってウイグル語に借 用された仏教用語には,すでにマニ教を通じて流入していたソグド語ないし ソグド語を経由したサンスクリット語の外には, トカラ語と漢語が圧倒的に 多くなった。その結果,たとえウイグル語を母語とする狭義のウイグノレ人で あっても,出家した時の法名には漢語か, トカラ語経由のサンスクリット語

(11)

が好んで、採用されたらしい。厳密な統計を取ったわけではないので確実では ないが,私の印象としてはそうである。そのような現象は,先行するウイグ ル=マニ教団において採用されたマニ教僧侶の法名が,マニ教会の聖典言語 である中世ペルシア語であった事実と比べても十分に納得できょう。

2

ベゼクリク第

8

窟重修の理由と時期

銘文 No.IIIの内容をいま少し分析してみよう。前節の結論に誤りがない なら,シャジンニアイグチが

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受け取った」寺院とは第 8窟そのもの にほかならず,それを彼が西ウイグル国王から思賜されたということであろ う。そしてそれを

ed-=et

ーするためにキョルペット夫妻が先頭に立って努 力したというのである。ウイグル語

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の原義は「組織する,作る」である しょうごん が,「飾る,荘厳する」という意味も派生している [cf.

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, pp.

3

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3

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。こ れは,すでに造営されている石窟寺院の壁画塗り替えなどの修復作業を示す 言葉として最適で、ある。そこで私は,第 8窟は一族出身の三宝奴がシャジ ン=アイグチになった際にウイグル国王から恩賜されたものであり,第

8

窟 の第

3

期の壁画はそれを記念して一族が醸金し,大改修を施した結果である と推定する。 そういう記念碑的意義のある壁画であるならば,必ずやシャジンニアイグ チ自身も描かれていてしかるべきである。となれば,その候補としては袖壁

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の中でとりわけ目をヲ

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く人物,すなわち

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2

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の右側の男 性僧侶群の上に,蓮華座に脆いている姿で描かれている立派な装束の人物が 第一に挙げられよう。グリュンヴェーデルもルコックもこれをウイグル王な いし君長とみなしたが,私はむしろこれこそがシヤジン=アイグチ三宝奴で あると考えるのである。しかし美術史家に尋ねたところ,これは女性ではな いかという意見もあった。もしそうであるならば,第二の候補を求めねばな らない。

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2

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の下段右方に居並ぶ

6

人の僧形の人々が女性の比丘尼で あるならば,その上に描かれている第一候補も女性であって,私見を撤回せ -11ー

(12)

西ウイグル仏教のクロノロジー ねばならないが,私の目には 6人とも男性に見える。わずかにしか判読でき ない銘文 [cf.

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では決定的な証拠 はないが,その 6人の後ろにいる 3人が俗人男性である(うち 2人は男性に しか与えられない仇d という称号を持つ)ことからも,その蓋然性は高い といえよう。 さらにこの推定を裏付けてくれるのが,この人物の後方に錫杖を持ってい る僧形の人物の存在と,それに附属する銘文である。その銘文をルコックは 読んで、いないが,これは次のように読めることを,ベルリンのツィーメ

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教授より御教示いただいた。

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「錫杖を顕示しているキョルペットの肖像J 実は

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メモでは人名部分は

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となっていたのであるが,私 は銘文

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と比べてこれを

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と復元する。つまりこの僧形の人 物を,銘文

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を持つ女性の夫であり,シャジン=アイグチ一族だけで なく,広く一般からも酸金を集めるために勧進帳を持って行脚した者と考え るのである。一般の人々にとっても,こういう寄付をすることは仏教的な功 徳を積むよい機会であるから,喜んで、協力してくれたことであろう。 次にシャジン=アイグチ三宝奴の実父である

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は,在家の俗人なのか,出家した僧侶なのかという問題を考えてみたい。本 窟に居並ぶ多数の供養人像には俗人の服装をした者と僧形とがおり,両者の 区別はいかにも裁然としていたように見える。三宝奴の父は妻を持ち,子を なしたわけだから,一般的には俗人と考えられ,彼が俗人の服装をして描か れ て い る こ と に 不 思 議 は な い 。 し か し な が ら 翻 っ て 彼 の 名 称 が

Nom

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Tutung

であったことを想起すると,そう単純には割り切れな しE。

(13)

ウイグル仏教世界では結婚して妻子・財産を持ついわゆる「家産僧」が広 範に存在し,かなり大きな社会的役割を担ったことは

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という称号 について集中的に検討した小田毒典によって既に指摘されている通りである。 元来は漢語「都統」からの借用語である

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は,ウイグル仏教前期には 高僧に対する尊称であったが,後期には単なる人名構成要素に転化した。三 宝奴の生みの父 Nomci Bilga / / / / / / / / Tutungもこの

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という称号を持 っているが,注意すべきは欠落している本名の前にあるノムチニビルゲ

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という名称構成要素である。 ノムチ=ビルゲという複合語が最初に比定されるのは,目下のところでは 1022年に作成されたという記載のあるウイグル文『金光明最勝王経』の序文 であり,そこには次のように書かれている。“yanayma nom白 bilga-larda hとaasidtmz"rさらにまた私たちはノムチ=ビルゲ(複数)より以下のよ うに(いい話を)聴いたJ [Zieme 1989, pp.237, 239J。これを, 1008年に 作られた第1棒杭文書に見える同様の表現 [Moriyasu2001, pp.161, 162J と比較すれば

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仰ぎt・r(仏)法を備えた賢き 博士」に対応することは容易にみてとれる。また1347年に印刷された仏典集 成の奥書には“adin azun-qa sanli [γJ [uluJγ'as-a atam nomci bilga kuntuk tay・si acari"r他の世界に属している(=逝去した)私の曾祖父で あるノムチ=ビルゲのキュンテュク Kuntuk大師阿関梨J [BTT

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, pp. 167-168, Text 46, line 35J という表現がある。 以上の用例を見てみると,ノムチニビルゲというのは,どちらかといえば かなりの学識を備えた僧侶に対して与えられる尊称のように思われる。それ なのにその称号を持つ三宝奴の父が,僧形になっていないのはどうしてなの だろうか。 一方,三宝奴の父とまったく同じ構成要素からなる名称を持つ人物が,モ ンゴル時代に印刷されたウイグル仏典の奥書に現れる。“atamnom臼 bilga

toyinとoγtutungbag" r我が父,

Nomci B

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Toyincoy Tutung殿」。こ の場合, トインチョグが本名である。この奥書を持つ印刷仏典は現在ではば

(14)

-西ウイグlレ仏教のクロノロジー

らばらになっており,奥書部分はベルリン=プランデンブルク科学アカデミ ーに U 4791 (TM 36) といっ番号で所蔵されているが,その離れである扉 絵が

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7624という所蔵番号で同じベルリンのインド美 術館(つい最近,アジア美術館と改称)にあることがツィーメによって見つ け出された。その扉絵には 3人の肖像とその名前の忽縮形が印刷されており, それを奥書と対照させることによって,この仏典を印刷させた寄進者本人の 名前は

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ブヤンチョグ博士J,その父親はノムチ=ビルゲ

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,母親は

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Tangrim

であることが判明する。 しかしながら扉絵では男性1人だけが僧形であり,あとの男性 1人と女性 1人とは俗人の服装である。残念ながら,その僧形の男性が博士の号を持つ ブヤンチョグ本人なのか,それともノムチ=ビルゲである父親なのかは,決 定できない。 私はノムチ=ビルゲは固有名詞ではなく普通名詞であり,僧侶を指す場合 が多いが,俗人であって仏教に深い知識を持っていた人を尊敬して指す場合 も少なくなかったのではないかと考えている。ちなみに中国本土には惰で 「翻経学士」となった費長房や,唐で「翻経大徳」と「翰林待詔」を兼ねた 利言のように,

1

人の人物が官界と仏教界にまたがって活躍した例がある。 あるいは日本の平清盛とか武田信玄のように在俗で出家した権力者である 「入道」のような存在を指し示したのであろうか。在家か出家かという問題 は,仏教が鎮護国家的な役割を担ったと思しき時代におけるウイグル仏教徒 の実態と密接に関わるものであり,今後,他の仏教文化圏との比較も含めて, さらなる考察が必要で、ある。ここでは問題提起に留めておきたい。 さて本筋に戻って,次に第 8窟重修の時期を検討したい。第 8窟に描かれ たシャジンニアイグチとその両親の一族は,いつの時代の人々であろうか。 その手がかりは 3つある。まず上記の銘文のパレオグラフィに見える後期性 が注目される。具体的には, qに

2

点が付いているのみならず, γにさえ

2

点が付いている,つまり本来は q/γ を区別するために qにのみ付された記 号が,ダブル=アレフと区別するために γにまで転用されていること,さ

(15)

らにきにも 2点が付き, nにも 1点が付いていることから,西ウイグル時代

(

9

世紀中葉

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世紀初頭)でも遅い時代かモンゴル時代

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世紀

-14

世紀 中葉)であることを強く示唆する。また

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としているような

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の 混同も後期の特徴である。第二に,側壁C上の地獄図全体の画面構成から, そこに描かれていた輪廻が「五道(五趣)Jではなく「六道(六趣)Jである と推定されることである。既に森安

1

9

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,pp.

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5

3

6

で史料を列挙して詳し く述べたように,西ウイグル王国初期の仏教には大乗的な漢人仏教よりも説 一切有部の伝統をヲ│くトカラ仏教の影響が強く,五道が優勢だったのである。 それが,漢人仏教の影響が強まるにつれて徐々に六道に取って代わられてい く。もちろんこの場合の漢人仏教とは,唐代以来,東部天山地方に生き続け た漢人たちの仏教と,

1

0

世紀頃に西ウイグル王国と敦燈の帰義軍節度使政権 との交流が活発化した結果として敦煙から新たに流入した仏教の両方を指し ている。

1

0

世紀前後の敦燈地方では,文字史料においても絵画資料において も圧倒的に六道が優勢でおあったことも,既に指摘した[森安

1

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,pp.

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1

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通りである。第三に,上記の文献学的・美術史的な根拠とまったく違う 自然科学的な根拠があげられる。すなわち,同時期に描かれたはずの側壁 C 上の地獄図に対し,所蔵機関であるベルリンのインド美術館がカーボン

1

4

に よる検査を実施したところ,

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D.1140+ /

-30

という測定結果が出された ことである。 以上より,この第8窟の最後の大改修は

1

2

世紀に行なわれたとみなすのが, もっとも妥当で、ある。既に私は森安

1

9

8

5

年論文以来,ベゼクリクのウイグ ル風仏教壁画の年代を古く見積もってきた美術史学界の動向を批判し,上記 のテーゼ

6

の知く主要部分を

11-12

世紀としてきたが,ここでその考えはい っそう補強されたわけである。つまり第

8

窟 よ り 将 来 さ れ た

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についてルコックが“

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世紀」と見なしたのは全て誤りであった。 これまで漢籍側にもイスラム側にも史料が皆無であったため,ウイグル史 の中でも

1

2

世紀は暗黒時代とみなされてきた。しかし実はそうで、はなかった

.15

(16)

-西ウイグル仏教のクロノロジー のである。

1

2

世紀においても西ウイグル王国がシルクロードで繁栄していた と想定せずに,シャジン=アイグチ一族の寄進にかかるこのように豪華なベ ゼクリク壁画の存在を理解することは不可能なのである。 では,そもそもシャジンニアイグチというウイグル語の称号はいつまでさ かのぼれるのか。次節ではそれを検討してみよう。

3

シヤジン=アイグチという称号の出現

シャジン=アイグチの称号が頻出するのは,西ウイグル国王が自ら進んで、 チンギス汗に臣属を申し出た

1

3

世紀初頭以後のモンゴル帝国時代になってか らである。『元史』をはじめとする漢文史料では「沙津愛護

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が明らかにした。またモンゴル時代のウイグル文奴隷解放文書に 見えるシャジン=アイグチは, トゥルファン地方のウイグル社会で高い地位 を占めていた。一方,モンゴル帝国期 元朝時代に隆盛を誇ったウイグル仏 教は,

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年代にシャジン=アイグチであったプラジュニャーシュリ ー

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般若室利/必蘭納識里/必刺成 納失里/必刺牙室利)がモンゴル諸王の安西王・月魯帖木児の謀反に連座し て抹殺されたため,かなりの打撃を蒙ったらしい。プラジュニャーシュリー 以外にも,沙津愛護持の称号を授けられたウイグル人としては,南的沙と天 蔵が知られている。プラジュニャーシュリーは「高昌総統」とも記され,南 的沙については「園朝沙津愛護持(漢名総統)J と記されるから,ウイグル 語の沙津愛護赤は漢語の「総統」に対応するのである。総統とは,元朝にお いて最大の地方行政組織である「路」をいくつか統括して置かれた釈教都総 統所の筆頭のことである。つまり元朝仏教界においては,中央にいる「帝 師J r国師」に次ぐ高位の指導者なのであるから,高昌総統は必然的にウイ グル仏教界の最高指導者ということになる。これらの事実から,シャジン=

(17)

アイグチがウイグル仏教界の最高指導者を意味することに疑念をさしはさむ 余地はない。 こうしたシヤジン=アイグチの称号が,いつから出現するのかについては 明証がない。しかしながら私がトゥルファン・敦a崖から出土した全ウイグル 文書の書体を棺書・半措書・半草書・草書の 4つに分類し,少なくとも半構 書は古い時代に属するとしたテーゼ

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はじめに」のテーゼ8)に則れば, シャジン=アイグチが西ウイグノレ時代まで遡ることは明らかである。なぜな ら,ベルリンに所蔵される 2つの半楢書体ウイグル文字文書U5304, U 5319 には,明らかにこのシャジン=アイグチが現れるからである。 U 5304 (T II D148b) は仏教教団の経営に関わると思しき文書の断片(縦 横 21.5

x

15cm)であるが,その紙の特徴(色はbeigerose,粗い漉き縞があ って不均質,ソパカス状の斑点あり,中子の厚い方,中下質)は,私の経験 では10世紀頃のマニ教文書に見られたものである。末尾に当たる 8-9行自 には sαηgαzinS'ilωα:nti bo'SU'γ bitig al / / / / / / / / / / / / / / / / a'γt・1αγ初 三

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初 αyyuci z'm k'Si [acariJ ////////iサンガジン(くSkt.Satp.ghasena)律師は解放文 書を受領………その財物をシャジンニアイグチの Z'mksi acariが………」 とある。 ksiacariは第 5節で改めて取り上げるが,元来はトカラ仏教で高 僧を指す術語である。人名の Z'mは漢語である可能性もあるが,私はこれ を“delicate,distinguished, respectable"を意味するソグド語であろうと 推測する [cf.Gharib

Sogdian Dictionαη

p. 454J。 もう 1つの文書U5319 (T III M205c)は,既に学界でよく知られている ムルトルク Murutluq阿蘭若所領安堵状である。ムルトルクとは近現代のム ル ト ゥ ク Murtuqの こ と で あ る 。 ま た 「 阿 蘭 若J (Uig. aryadanくSkt. ara1).ya tana)あるいは略して「蘭若」とは,一般に寺院よりは規模が小さ ししかも人里離れた閑静な場所に建てられることが多い仏僧修行用の建築 まちなか 物である。町中の寺院に比べて獲得できる布施は少なく,僧侶自身が畑仕事 にも従事するなど自給自足的傾向が強かったといわれる。本文書は,ムルト ルクにあったそうした阿蘭若の 1つに対し,経営責任者の交替と従来通りの

17

(18)

-西ウイグル仏教のクロノロジー 自治権を認可するために西ウイグル政府より発行された朱印付きの公式文書 である。 本文書の古文書学的情報とテキスト・翻訳については,すでに Zieme 1981

pp.254-258 & Plate XXII並びに森安『マニ教史Jpp.134・136に詳 しく述べたので繰り返さない。ただ

1

点だけ重大な修正箇所が見つかったの で,報告しておく。それはテキスト 2行目の

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と読んでい たところであるが,これは正しくは

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とすべきである。格語 尾を与格から対格に読み替えたわけであるが,これによって全体の文脈はす っきりした。つまり旧体制ではこの阿蘭若の経営責任者は 1人の「尊者」で あったのが,新体制ではリグイ都統・グイツォ律師・ピンツォ都統という

3

人に替わったのである。ピンツォ都統は, もとの責任者であった「尊者」と 異父兄弟であり,ゆくゆくはその跡継ぎになるべき立場にいた(少なくとも 彼の個室を受け継いで、いる)が,当面はリグイ都統に委ねられると記されて いるから,恐らくまだ若年であったのだろっ。シャジンニアイグチの高い立 場を諒解する上で必要なので,ここに改めて全体の修正訳を提出する。 T III M205c (U 5319) …・・の人のために,尊者の異父兄弟たるピンツォ都統をリグイ都統に 委任して,尊者より後,ムルトルク阿蘭若をリグイ都統,グイツォ律師, ピンツォ都統あわせて 3人が主宰せよと我等は言った。この命令の通り, 尊者より後, リグイ都統を頭とする

3

人がムルトルク阿蘭若から移動す ることなく留まって(常住して),夏も冬も安居して,冥想、と善行を行 ない,我等(西ウイグル王国中枢)に福徳を与えて居住せよ。この阿蘭 若に属する田地とブドウ園に対し,シャジン=アイグチや郷村のベグた ちをはじめ誰も干渉するな。この三つの僧集団こそが管轄せよ。尊者の 独房はピンツォ都統が所有せよ。他の誰であれ干渉するな。リグイ都統 に対し僧団からも俗人集団からも何らの税も夫役も課すことなく世話を し続けよ。それゆえにこの保持すべき文書を我等は授与させた。

(19)

本文書は半構書体であるだけでなく,語末の尻尾の長短による -q/γ の区 別さえ明確にあるので,西ウイグル王国時代前半のものであることは確実で、 ある。しかも

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10-11

世紀に属すべきものである。しかし,次節で論証するように,

1

0

世紀の西ウイグル仏教界の最高位の者はまだシヤジン=アイグチではない ので,本文書は必然的に

1

1

世紀のものということになる。すなわち,シャジ ン=アイグチという称号は

1

1

世紀に出現したと考えられるのである。

4

1

0

世紀の西ウイグル仏教界の最高位者「都統」

では

1

0

世紀の西ウイグル仏教界の最高位者は,ウイグル語のシャジンニア イグチで、はないとすれば,なんと呼ばれていたのか。その手がかりになるの が敦虚出土の 2件の漢文文書,すなわちパリ国立図書館所蔵のぺリオ将来文 書P3672Bisと,ロンドン英国図書館所蔵のスタイン将来文書S6551であ る。

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.

3672Bisについては既に私が詳しい研究を発表した[森安 1987Jので, 冒頭の一文を翻訳した上で,本稿にとって必要な点のみをここに紹介しよう。 賞紫金印検校廿二城胡漢僧尼事内供奉骨日出総沓密施鳴瓦伊難支都統大徳 面語 「国王より紫衣と金印を賞賜され,二十二の城邑にいる胡人・漢人の 僧侶・尼僧にかかわる事を検校(=監督)し,宮廷内の道場を司る,骨 日出様・沓密施・鳴瓦・伊難支(ウイグル語でQutluγTapmisOga Inanとクトルグニタプミシュ=オゲニイナンチ)という名称をもっ都統 である大徳(二高僧)からの御手紙(く対面して語るごとき書状)J

P

.

3672Bisは漢文で書かれているが,実はウイグル語の称号を持ってい -19

(20)

-西ウイグル仏教のクロノロジー る西ウイグル王国の高僧から敦爆に住む友人

3

人に宛てられた本物の手紙で ある。それはまさしく

1

0

世紀のある時点で,彼が西ウイグル王国高昌地区 (トゥルファン盆地)の「胡漢の僧尼」の統領を任され,喜びの絶項に達し た時に高昌から発送されたものである。彼は賜与された金印に朱をつけて手 紙の

3

箇所に押印した。その印文は「恩賜都統」である。 「はじめに」で示したテーゼ2・3の通り, 9世紀中葉に建国された西ウ イグル王国の住民はウイグル人・漢人・トカラ人・ソグド人その他であり, 彼らはそれぞれの母語を話しており,西ウイグル王国仏教はトカラ仏教と漢 人仏教を基盤にして生長しつつあった。この手紙の漢字の字体は見事でおあり, その差出人はウイグル語の称号を持っているとはいえ,彼が漢人であること を疑うのは難しい。敦燈に住む

3

人の友人も皆漢人であるのだから,なおさ あかし らである。ウイグル王がトゥルファンの仏教教団の最高位者の証として彼に 授けた金印の印文も,ウイグル語ではなく漢文であった。 「古月漢J の「胡」とは伝統的には漢人以外の北方 西方の異民族を広く指 すから, トカラ人・ソグド人のほかにウイグル人でもあり得る。しかし,

1

0

世紀の西ウイグル王国で仏教徒の胡人といっ場合は,まだトカラ人ないしソ グド人が主であって,ウイグル人はあくまで従の地位しか占めていなかった。 その根拠の多くは,すでに拙著『マニ教史.n[森安

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;独訳

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で述べたので,繰り返さない。 S 6551は『仏説阿弥陀経講経文』であり,それは既に張広達・栄新江によ って紹介され,私も言及した。張広達・栄新江は,それまでこの文書の内容 をコータン王国に関わるものとしていた見解を退け,西ウイグル王国に関す るものであることを論証した。この文書には

1

0

世紀の西ウイグル王国の支配 者階級の称号のみならず,仏教教団に属する者たちの称号もほぼ網羅されて いて貴重で、ある。本稿にとって重要なのは,後者の最高位が複数形ではある が「都統」または「僧統大師」となっている点である。しかもその僧統大師 テングリム (複数)は,僧俗複合のヒエラルキーにおいて「可汗天王」・「天公主部林 テ ギ ン (複数)J・「天特敷(複数)Jの下ではあるが,宰相・高級官僚たちよりは上

(21)

に位置している。西ウイグル王国の領域は,およそ北庭・高昌・ハミ・罵 香・亀蕊という

5

つの区域に分けられるから,少なくとも各地区に

1

人の都 統がいたことであろう。 ここで即座に思い出されるのが,北庭ビシュパリク出身のシンコ=シェリ 都統SingqoSali Tutungのことである。この人物はウイグル仏教初期を代 表する訳経僧であり,いくつもの漢文仏典や『大慈恩寺三蔵法師伝』をウイ グル語に翻訳した。その活躍年代は

1

0

世紀末

-11

世紀初頭であり,その出自 はウイグル人ではなく漢人ということで,学界の見方はほぼ固まりつつある。 おそらく彼は,北庭地区を統轄する都統であったのだろう。 都統という称号の由来について,これまで、はハミルトン説が受け入れられ ている。それは

9

-10

世紀の敦燈の帰義軍節度使政権下で仏教教団の最高指 導者を意味した「都僧統」という称号の略称、であるというものである。テー ゼ

7

のように

1

0

世紀の敦燈とトゥルファンの政治的・文化的・経済的・宗教 的交渉は極めて緊密で、あるから,その可能性は低くない。しかし,私はもう 一つの可能性を想定している。実はクチャのクムトラ千仏洞から出土した東 京国立博物館所蔵の壁画銘文に「大唐[荘]厳寺上座四鎮都統律師悟道」と あるのである。これは既に栄新江によって紹介されており,明らかに 8世紀 前半にまで遡る。栄新江の読めなかった僧侶名は,私が実見したところでは 「悟道」である。これが唐代の安西四鎮の漢人仏教界のトップなのである。 後に西ウイグ戸ル王国の支配下に入った東部天山地方の大量の漢人住民の間で は唐代の文化的伝統が強く生き残っているから,仏教界のトップを都統と呼 ぶ伝統も唐支配期にまで遡るとみなしでも不都合はあるまい。ならば,都統 の称号が,敦埠仏教の影響によって

1

0

世紀に初めてトゥルファンに伝播した とみる必要はなくなる。 いずれにせよ,

1

0

世紀段階では西ウイグル仏教界の最高位の称号は都統で あって,まだシャジンニアイグチではないのである。 -

(22)

21-西ウイグル仏教のクロノロジー

5

西ウイグル仏教におけるトカラ人高僧

西ウイグル王国仏教界において漢人僧侶が重要で、あったことは疑いなく, 前節で言及したトゥルファンの骨日出様沓密施鳴瓦伊難支都統や北庭ビシュパ リクのシンコ=シェリ都統は,その代表的人物であるといえよう。しかしな がらそれとともにトカラ人仏教僧侶の果たした役割も忘れではならない。 初期のウイグル仏教文献を代表する『マイトリシミットdl M

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(r弥動会見記」という意味)や『十業道物語』がトカラ語からウイグル語 に翻訳された事実は余りにも有名であり,ウイグル語に借用されたインド語 起源の仏教用語の多くはトカラ語経由であるとする庄垣内のテーゼも想起さ れる。では

1

0

世紀の西ウイグル仏教界で活躍したはずのトカラ人仏教の高僧 達は,なんという称号で呼ばれていたのであろうか。それが,本節で取り上 げる

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である。

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はトカラ語

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から直接の 借用であり,

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はサンスクリット語

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からソグド語を経由しての 借用である。複合語である

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を敢えて和訳すれば「尊師阿閤梨」 となろう。 次に引用するのは,シンコニシェリ都統の活躍年代に極めて近いか重なっ ている

1

0

1

9

年,新しい仏教寺院を建造するに際して,記念のために制作され た第

3

棒杭文書の一節(H

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8

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である。 [前略]

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[後略] [前略]この善行に教導する者たるシャジン・・・

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・である

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,この寺院を建てるために知識を与える名声あ る我らの導師である

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[後略]

(23)

この文脈では,ウイグル王族たちに仏教徒となって仏像や寺院を寄進する 善行・功徳を説いた重要人物として,

2

人の

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が見えているの である。また第

4

棒杭文書でも同じような文脈で,“////・

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"

が現れる。こちらは冒頭の紀年の部分に欠落があって正確な年代は分からな いが,半槽書体であることや年月日の表記の仕方が

1

0

0

8

年の第

1

棒杭文書と

1

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9

年の第

3

棒杭文書と同様でおあるので,やはりそれらと近い時代のもので あるにちカまいない。 私が見つけることが出来た

k(

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の現れる半措書体の文書は,

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点で ある。

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行目に“

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とあることについては既に第

3

節で言及した通りであるが,さらにその

2

行目に“

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行目に“

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と見える。

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は手紙文であり, 既に

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No.92

として発表されているが,読み誤りも少なくない。ここに は関連する 5~7 行目を引用する。“bizin

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r我らの寺院を潅慨するた め の 車

7

台 分 の 麦 藁 を , ・H ・..にいる

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に与えよ。」また,

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は官布施入リストともいうべきもので,これも

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No.74

として発表されている。その

2

行目を私は“

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と 読む。 最 後 に 棺 書 体 で 丁 寧 に 書 か れ た 仏 典 に 目 を 転 じ る と , そ の 奥 書 に

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が現れるのは,いずれもトカラ語からウイグル語に翻訳されたものば かりである。すなわちいくつも残っている奥書から知られる通り,『マイト リ シ ミ ッ ト 』 の イ ン ド 語 か ら ト カ ラ 語 へ の 翻 訳 者 は 罵 者

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であり, トカラ語か 側 らウイグル語(原文はトルコ語)への翻訳者はイルパリクIl・

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である。さらに『マイトリシミット』の ムルトゥク本の奥書には,それが書写されたのは,ちょっど rt昭

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をはじめとする

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人の闇梨 saliたちが

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(24)

23-西ウイグル仏教のクロノロジー 蘭若で夏安居に入っていた時」であったと記されている。一方,従来より 『十業道物語』のトカラ語からウイクグ*ル語への翻訳者として知られていた Si臼l沼azin(=Skt. S

iI丑加

1

典註釈書をトカラ語カかミらウイグル語に翻訳したこと,並びにその奥書には

[ilazJin ksi acariとあって,やはり「尊師阿閤梨」であったことが笠井 幸代によって明らかにされた。 ところで 8世紀から14世紀に及ぶ古トルコ語文献を,言語学的に分類する 試みとして, 1938年 以 来 の ガ パ イ ン A.von Gabainによる 3分 類

(

n

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-Dialekt, n-Dialekt,

y

-

Dialekt)が有名であったが, 1980年代からはこれを 方言差ではなく時代差とする見解が優勢となった。ラウト [Laut1986Jは こ れ を

ny-Texte

y-Texte

と し , 前 者 を “praklassisch", 後 者 を “uigurische Koine"とみなして“klassisch"と呼んだ。ただし両者は裁然 と分けられるものではなく,多くの中間形態があることに注意したい。私は 本当の方言ではないことを承知しつつも,時代順に

r

n

y/n

・方言→ mlx-方 言→y-方言」と呼ぶことにする。 では,『マイトリシミット』のトカラ語からウイグル語への初訳はいつ行 なわれたのであろうか。 IFマイトリシミット』にはムルトゥク本・センギム 本・ハミ本という

3

つの写本が現存しているが,そのうちで最古といわれる のはムルトゥク本である。そしてそのムルトゥク本の奥書には,上記のよう にトカラ人と思われる高僧tngriKL"P'TRY ksi a[とaJriが見えるが,それ を第

3

棒杭文書にウイグル仏教界の重鎮の一人として現れる“t収 riKL('N PTR) Y ksi acari (Tangri Kalanabhadra kesi aとari)"と同一人物だと 最初に推測したのは,シナシ=テキンであった。しかし彼は,その当時はま だ,第

3

棒杭文書を東ウイグル帝国の牟羽可j干の時代に比定していたために, 両者を 8世紀に年代付けることになり,非常に無理があって,ラウト・ツイ 倒 ーメ両氏によって論駁された。確かにその非難は正当でhあったが,その後, 第3棒杭文書を1019年に比定する私の説を受け入れたハミルトンは,再ぴ両 者を同一人物と見なすべきことを主張した [Hamilton1984, pp. 428・431J。

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