西ウイク合ル仏教のクロノロジー
彼 ら が こ の 新 し い 流 派 の 仏 教 美 術 の ス ポ ン サ ー と な り , 特 に チ ベ ッ ト や コ ー タンなどから伝わった密教美術の影響を受けて再ぴ変容したものが, 10世紀 後半以降にトゥルファンに逆流する。あくまで私の想像にすぎないが,今後,
美 術 史 家 は こ う い う 可 能 性 も 踏 ま え て , よ り 精 密 な 研 究 に 挑 ん で い た だ き た いと念願する次第である。
註
(1) Cf.百済 1983,pp. 200・204;Kudara 1990, pp. 167, 169;百済 1992;百済 1994, pp. 28‑34;百済 1995,pp. 11‑14 & n. 20.
(2) しかし,古トルコ仏教とウイグル仏教は同義とはならない。なぜなら,ウイ グル仏教成立以前に,突厭第一帝国時代のモンゴリアの突厭や,アフガン=ト ルキスタンのヒンドゥークシュ地方の突厭やノ、ラジュといった古トルコ族の聞 に仏教が浸透した事実があるからである。これに関する参考文献は多いので,
とりあえずは次のものを参照:羽田 1923;山崎 1942;護 1977;森安 1989;
桑山(編)1992;稲葉 2004.
(3) 南側壁bの中央にある獅子座に座る仏陀を ABK,p. 258では阿弥陀とみた が,その後,松本柴ーが『激憧画の研究.spp. 82‑89においてこの画面全体を 薬師浄土変相と断定したことによって,一般にその見方が流布してきた。しか しラッセルスミスの最新本 [Russel1‑Smith2005, pp. 104‑110Jでは,それを 蛾盛光仏として議論を展開している。龍谷大学の入津崇教授に個人的に旬った ところ,新説にほぽ賛成であるが,既に松本も本図に星宿(九曜)が見えるこ とには触れており,いうなれば本図を異形の薬師浄土変相図と認識していたよ うなので,薬師如来の要素を蛾盛光仏が包含した,あるいは薬師浄土変相図を 借りてこの蛾盛光仏変相図ができたと理解してはどうか,との御意見を項いた。
(4) BSA, IV, p. 120; ABK, p. 258で不空縞索観音Amoghapasaとしているのは 誤り。
(5) ベゼクリク遺跡全体の平面プランとしてよく引用されるのがABK,p. 224, Fig. 494であるが,実はこのプランはデフォルメされていて正石雀ではない。む
しろ森安『マニ教史.sFig. 1 & Fig. 2でも引用した次のものを参照すべきで ある:A. Stein, Innermost Asia, Plan 30 ; JI新彊石窟.sr伯孜克里克石窟平面 示意図」。
(6) 熊谷 1955,p. 193ではグリュンヴェーデノレに従って千仏をラテルネンデツ ケより遅れるものと見ているが,おおまかに 3期に分けるだけなら,ラテルネ
ンデッケと千仏は共に第1期に属するものとすべきであろう。
‑ 32‑
(7) 吉田豊教授よりの教示による, cf. BBB, p. 11; Colditz 1992, AoF 19‑2, p. 331 ;新彊吐魯番地区文物局(編) IT'吐魯番新出摩尼教文献研究』北京:文 物出版社, 2000, pp. 84, 124.
(8) 第二の候補は,袖壁aの中で仏陀の前に脆いている僧形の人物である。し かし実は,それに付随すると思しき銘文は剥ぎ取られることなく,今も現地に そのまま残っている。ツィーメ教授の協力を得てそれを解読した結果は,次の 通りである。
01 (a) tam<i>z sarig tutu<n>g bag‑ning yaIliIlda (qi) 02 (u) luγs[百日]‑ka [t] (s) oyirqatip UC
03 (so1) m (i) baliq・[taqib] (0) dinuγbilgil t ( u) t 04 /・・・/・・・・[ ] (t) ariγ‑a‑ni(n)gkδrki
「我々の父である SarigTutung Bagの側にいて,偉大なる恩寵(二皇帝 陛下)の慈悲によって r3ソルミ城にいる人々を差配せよJ [と命じられ た]////////ダルガ(チ)の肖像」
注目すべきは uluysuu r陛下」と tsoyirqa‑/ soyurqaーという術語である。前 者は一般的にはモンゴル皇帝を指すものであり,後者はモンゴル期以降に顕著 となるいわゆるソユルガル制に関わっている。全体的に判断して,どうやらこ れはモンゴル時代に書き加えられたものと考えざるをえない。とすれば,この 銘文のみならず,それが付属する僧侶もやはりモンゴル時代に描き直されたも
のとみなすのが妥当であろう。この絵画の下の層にシャジン=アイグチの本来 の肖像が塗り込められて見えなくなった可能性も完全には否定できないが,蓋 然性は極めて低かろう。
(9) 小田 1987,pp. 61, 62, 63, 67, 73.
(10) Zieme 1996.ただし本論文では,正しくはMIKIII 7624とあるべきところが なぜか MIKIII23となって誤っている。
。
1) Cf.大内 1983,pp. 11‑12, 24‑26; Bagchi 1937, pp. 340・345.(12) シャジン=アイグチ三宝奴の実父であるNom臼 Bilga/ / / / / / / / Tutungの肖 像に関連して,美術史の専門家である森美智代氏から次のようなコメントをい ただいた.rこの供養者は剃髪し,白い大衣を伏肩にまとっており,一見する と僧形にみえる。しかし大衣の下には,前聞きが右寄りで襟首と前立てに縁の ついた,俗人が着用するウイグル式ガウンをつけている。このようなガウンは ウイグル俗人供養者像の男女共に見受けられ,女性はBSAV, pl. 22 bの俗人 女性供養者群にみられるようにそのまま着ており,男性は他の例をみると上か
ら腰帯をつけ,腰帯からさらに様々な装飾を下げている (cf.BSA III, pls. 14, 15, 17)。問題の人物像は腰帯装飾をつけていないが,それは半分僧形である ために装飾を廃していると理解される。このような俗形とも僧形ともつかない
‑33 ‑
西ウイグル仏教のクロノロジー
特異な服制は,この人物の右手に坐す供養者数人も同様で、ある。」すなわち,
ノムチ=ビルゲを入道のようなものとする私の推測と符合するのではないかと いう示唆である。確かに, BSA V, p. 21でルコックはこの人物のすぐ右隣
(向かつて左側)の供養者に付随する銘文を inimznomCi bilga tuliγtutuk bag / / /"と読み,一方,ツィーメ教授は inim(i) z nomci bilga toliγtutung kδ[rkiJ" r我らの弟であるノムチニピルゲToliy都統の肖像」と読み直して
いるので,この教示にはますます重みが増す。特記して感謝したい。
(13) グリュンヴェーデルもルコックも五道とみなす (ABK,p. 258; BSA, IV, p.28)が,私はこれを六道とみなす。なぜなら,メインニテーマである地獄 図の上部には,右側に畜生道と人道,左側に餓鬼道と阿修羅道とが対称的に描 かれているのであり,最上部の破損部に天道があったと考えるからである。グ リュンヴェーデルとルコックは,私が阿修羅道とみるものを天道とするが,そ うすると画面構成が不自然になる。
(14) そこには五道の見えるテキストとして,例えば1019年の第3棒杭文書,ほぽ 同時代の第4棒杭文書, トヨク碑文などを挙げておいた。その後に判明したも のとしては, 1067年の Maitrisimitハミ写本がある。 Cf.森安 1989,pp. 20困21
&
n. 89 in pp. 26・27;Moriyasu 2001, pp. 152, 188, 190; Geng / Klimkeit / Eimer / Laut 1988, pp. 50, 51; MQriyasu 2004d, p. 225.さらに注意すべきは,10世紀頃の西ウイグノレのものである敦煙蔵経洞出土のウイグル仏教文献 8件 [cf.森安 1991,p. 145Jの中に,六道はまったく見えないのに対して,五道 は次の 3件に見えるという事実である:Pelliot ouigour 1, line 64 [MOTH, No.1, pp. 6, 10J; Or. 8212 (122), lines 9, 25 [MOTH, No.3, pp. 28・30J; Pelliot tibetain 1292, line 3 [森安 1985,p. 5J.
(15) 森安 2000b,pp.34‑35,補注2; Moriyasu 2000c, p. 341, footnote 13.
(16) Ligeti 1961, pp. 242‑243; Ligeti 1973, pp. 9‑10. 間 Cf. SUK, Em01;梅村 1977,pp. 04心6,08, 023.
(18) Cf.野上 1978,pp. 30‑35 ;ツィーメ/百済 1985,pp. 46‑47, 58 ;小田 1984, p. 23 ;百済 1984,pp. 80‑84, 89.
(19) Cf. Franke 1956, pp. 89‑90.
。
。
天蔵は有名な安蔵の高弟である。 Cf. Moriyasu 1982, p. 10 =森安 1983, p.220.(21) Cf. Franke 1956, p. 90;百済 1984,p. 81.
ω
ッィーメが Zieme1981, AoF 8, p. 254のテキスト注で DasSuffix ‑qa, das man dem Zusammenhang nach annehmen kann, ist kaum erkennbar."と述べており,私も『マニ教史.np.134ではそれに従ったが,原文書を調査し たところ,それは ‑iyと読むべきであることが判明した。
‑34 ‑
ω
張広達/栄新江 1989;森安 1991 wマニ教史dJpp. 159・160.凶 張 広 達 / 栄 新 江 1989,pp. 30‑31.
。
5) Cf. Hamilton 1984, pp. 431‑432, 435‑437;森安 1985,pp. 58・60;Rona‑Tas 2003, p. 455. Rona‑Tasはシンコ=シェリ都統の人物・作品・年代に関する研 究史を,欧文で発表された分については簡潔にまとめているが,彼は日本語が 読めないため,私の研究は抜け落ちている。(26) Hamilton 1984, pp. 432‑434.
間 Cf.森安 1980,森安 1987,その他;Hamilton, MOTH, introduction;栄新 江 1991;Rong Xingjiang 2001.
側 栄 新 江 2003,p. 406.
(29) 庄垣内 1978,pp. 88‑89, 94, 105 ;庄垣内 1980,pp. 278・280.Cf.森安 1985, p. 34, n. 33.
側 Cf. W. Couvreur, Le caract色re Sarvastivadin‑Vaibh匂ika des frag‑ ments tochariens A
ぺ
LeMuseon 59, p. 605; Zieme 1975, p. 199, n. 53; H.W. Bailey, Dictionaη 01 Khotan Saka, Cambridge University Press, 1979, p.67.
。
1) Moriyasu 2001, pp. 184, 187, 189.ω
BTT V, pl. XLIに写真が掲載される U5874 (T III M 173)は, ksi acari から出された手紙であるが,半棺書体か半草書体か判断が難しいので,ここに は含めない。側 森 安 2004a,p. 11では U5321を「半草書体」と判定した。しかし私は同論 文p.8, n.36において,「半草書体」というのはあくまで臨時に設けたグレー ゾーンであり,将来的には「半構書体」か「草書体」に分類されるべきもので ある, と述べておいた。現在ではこれを「半棺書体」と判定すべきであると考 えている。
(34) これを狭義の突厭語ではなく,西ウイグル時代のウイグル語とみなしてよい ことについては,早くにハミルトンの見解がある, Demieville / Hamilton 1958, p. 442.
6
日 Cf.Muller 1907, p. 959 & pl. IX (T II S 2); Muller / Sieg 1916, p. 414 &pl. II; Tekin 1976, p. 160; BTT IX‑1, p. 214 ;小田 1990,pp. 38‑39.
(36) Cf. Tekin 1970, pp. 131‑132; BTT IX‑1, pp. 9, 260・261;Hamilton 1984, pp. 429‑430; Laut 1996, p. 131.
側 Muller/ Gabain 1931, pp. 678‑679. 側 笠 井 2006,pp. 32・34.
(39) Cf.森安 1989,pp. 1‑3; Moriyasu 1990, pp. 147‑150.
側 Cf.Laut 1986; Laut 1996, p. 122, n. 7; Geng / Klimkeit / Laut 1998, p. 12.
‑ 35ー
西ウイグル仏教のクロノロジー
(41) Tekin 1970, pp. 131‑132; BTT IX‑1, pp. 8・9.
ω
Laut 1986, pp. 59‑60; Zieme 1992, pp. 20・21=ツィーメ(小田訳)①1993, p. 222; Laut 1996, p. 132, n. 49.仰 森 安 1980,pp. 334‑335 & n. 55; Moriyasu 2000c, p. 344; Moriyasu, 2001, pp. 152‑153 & n. 14.
倒 Laut 1986, p. 75で,ラウト自身さえセンギム本を仰‑Texteの特徴を持つ が,ny‑Texteそのものではないと見なしている。小田 2000,p. 170, n. 102で は, Doerfer理論によればむしろそれはy‑Textのはずで、あるとして,注意を 喚起している。
制 Cf.森 安 1989,pp. 20司21& n. 89 in pp. 26・27;Zieme in OLZ 85‑1, 1990, p. 67, n. 10;森 安 1991,p. 185; Laut 1996, p. 122, n. 6; Geng / Klimkeit / Laut 1998, p. 13 & footnote 1; Moriyasu 2003b, p. 097; Moriyasu 2004d, p. 225. 附 Cf.Laut 1986, pp. 162‑163; Geng / Klimkeit / Laut 1998, p. 12.
仰 さらに小田害典 2000年論文で展開される『天地八陽神呪経」の年代論とも,
本節の結論はうまく対応するように思われるが,本稿ではそれについて論じる 余裕はない。
側 Cf.Muller / Sieg 1916, p. 417; Gabain / Scheel 1957, p. 20. 側 Demieville/ Hami1ton 1958, p. 443.
側 罵 蓄 に つ い て は , cf.森 安 1977,pp. 112‑118, 123;森 安 1985,p. 35;森 安 1991, p. 141; Moriyasu 2004d, pp. 165‑166.北庭については, cf. Abe 1954;安 部 1955.
(51) Demieville / Hami1ton 1958, p. 443. Gabain / Hartmann 1961, p. 11では,
これにf追って高昌としている。しかし, Tekin 1976, p. 339; Tekin 1980, BTT IX‑1, p. 214では再ぴ旧説に戻り,イリとしている。
ω
巌従簡(著),余思袈(貼校) IT'殊域周杏録j] (中外交通史籍叢刊)北京,中 華書局, 1993, pp. 484, 493‑494.(53)
t
夏1972ニ1993,pp. 144, 146‑147, 148, and n. 13 in p. 155. (54) Cf.佐口 1943,pp. 35‑36.側 Cf.小 野 1984,p. 60.
(56) Cf. Levi / Chavannes 1895, p. 365;白須 1974,pp. 46‑47 ;小野 1984,p. 78.
m
白須 1974,p. 55が『宋高僧伝』巻3によって指摘している。側 王明清『揮塵録』前録,巻4,中華書局版, 1961, pp. 37‑38 ; IT'宋史」巻490, 中華書局版, pp. 14112‑14113 ; Julien 1847, pp. 58‑59, 62, 63.
側 中国社会科学院考古研究所『北庭高昌回鵠悌寺壁画』藩陽:遼寧美術出版社,
1990 ;中国社会科学院考古研究所『北庭高昌回鵠悌寺遺祉』藩陽:遼寧美術出
‑36 ‑
版社, 1991. Umemura 1996=梅村 1999に本寺院の仏教壁画に見えるウイグ ル国王の肖像と銘文についての考察があり,そこに本遺跡発見に至る経緯も解 説されている。
側 UBLの序文を見るかぎりでは, Elverskogも森安説を正しく理解していな
し可。
(61) At the same time evidence presented in this study also proves that Uygur Buddhist art must have been formed by the 960s at the very latest. This is earlier than the general suggestion of Takao Moriyasu and
J
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