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真宗研究50号全

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ISSN 0288-0911

農宗連合事合研究紀要

第五十輯

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清沢満之における

﹁歎異抄﹄の受容とその背景:−

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西

団 派 清 水 谷 正

親鷺の無戒思想

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末法の仏者とは

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﹁論註﹄における﹁応知﹂と二種法身説::::・出雲路派

親鷺における﹁仏智疑惑﹂とは何か

::同朋大学

悪人正機説と本覚思想

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近世山村社会における真宗道場の性格::::・大谷大学

ーーー越中国射水郡葛葉村名苗家を事例として||

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||法然門下の議論と関連して| l l 藤 枝 宏

研 ︵ 一 七 ︶ 尊 ︵ 二 八 ︶ 岡 リ 史 ︵ 四 四 ︶ 書 ︵ 五 九 ︶

晴︵七二

徳 永 道 雄 ︵ 八 六 ︶ 松 金 直 春 木 憲 美 文 ︵ ゴ 一 九 ︶

(5)

新出悌光寺蔵﹃教行信証﹄の意義−−

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||﹁六要紗﹂所釈本の行方||

聖覚の行実の評価をめぐって:::

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1 1 法然・親鷺との連続・非連続性||

江戸時代、十七世紀の

﹃歎異抄﹄受容の例について

佐 々 木 瑞 河 智 興 正 派 原 田 哲 専 I

i今、

興 弾

茎と

谷 大 学

真宗本派同志会と﹃教界時事﹄

︿記念講演﹀

現代における真宗伝道の課題

下 問 龍 渓 上 山 大 四 届 一 一 耳 ︵ 一 回 ニ ︶ 義 邦 ︵ 一 六 九 ︶ 了 ︵ 一 八 八 ︶ 頼︵ニ O 一 ︶ 章 雄︵三四︶ 峻 ︵ ニ ニ 九 ︶ 学 Z』 1三 葉 報 巨ヨ ブu Z』 Z三 貝 異 動

(6)

清沢満之における

の受容とその背景

大谷大学

西

問題の所在

清沢満之︵一八六三

1

一 九

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二一、以下満之と略す︶は、﹁歎異抄﹄を﹃口伝紗﹂とともに﹁親鷺聖人御安心の極 致を伺ふ﹂の書と捉え、﹁予の三部経﹂の一、﹁安心第一の書﹂として重視している。満之が﹁歎異抄﹄について主 題的に論じた文献は残されていないが、満之の著作と行実は﹁歎異抄﹄の思想を色濃く反映していると指摘され、 絶筆となった﹁我は此の如く如来を信ず︵我信念︶﹂は﹁明治の歎異抄﹂とも称されている。 従来の研究では、満之の著作に﹁歎異抄﹂からの引用・抜書がなされていないという見解が共有されている。満 之が浄土一二部経になぞらえて、﹁歎異抄﹂とともに﹁予の一二部経﹂と呼ぶ﹁阿含経典﹂﹃エピクテタス氏教訓書﹄か らは大部の抜書が確認されることに反し、﹃歎異抄﹄に同様のものがほとんど見出されてこなかったことは事実で ある。しかし、現在確認されている満之の全著作、筆録、日記等を丁寧に尋ねると、﹃歎異抄﹄からの引用・抜書 がしばしばなされていることが知られる。満之の﹁歎異抄﹄からの引用・抜書は﹁︹大学第四年度ノ l ト ︶ ﹂ ︵ 明 治 十九年︶三文、﹁聖教抜奉﹂︵同二三年︶七文、﹁蝋扇記﹄︵同コ二年︶ 一 文 、 ﹁ 心 霊 の 修 養 ︵ 五 六 ︶ ﹄ ︵ 同 三 四 年 ︶ 清沢満之における﹃歎異抄﹄の受容とその背景

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清 沢 満 之 に お け る ﹃ 歎 異 抄 ﹄ の 受 容 と そ の 背 景 文 、 ﹁ 倫 理 以 上 の 安 慰 ﹂ ︵ 同 三 五 年 ︶ 一文である。特に﹁清沢満之全集﹄︵岩波書店、二

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二︶出版に際し内容が確 認された﹁聖教抜翠﹂においては、大部にわたる﹃歎異抄﹄ からの抜書きが確認されている。満之はこれらの文献 それは満之の﹁歎異抄﹂に寄せる関心の一貫性を窺わせるものである。 また、﹃歎異抄﹄に限定して満之と伝統教学との関わりに注意するならば、満之は明治三二年六月に京都護法館 から発刊された、深励述﹃歎異紗講義﹄を座右に置いていたことが知られている。しかし、深励の﹁歎異紗講義﹄ に同じ文言を繰り返し引用・抜書しており、 に代表される当時の﹁歎異抄﹄了解と満之の了解がどのような思想的交渉を有するのかという研究はなされていな し〉

このように、満之と ﹁ 歎 異 抄 ﹄ との関わりについては考察すべき問題が少なくない。本論は、以上のような問題 を め ぐ っ て 、 つまり満之が座右に置いていた深励述﹃歎異紗講義﹄との関わり、 らの引用・抜書を通して、満之が如何なる思想的課題の下に そして、満之自身の ﹃ 歎 異 抄 ﹄ か ﹃歎異抄﹄を﹁親鷺聖人御安心の極致を伺ふ﹂書とし て選びとるのかということを明らかにしたいと考えている。 満之が大谷派宗門に身を置く明治期の﹁歎異抄﹄了解は、どのようなものであったのだろうか。当時の宗門にお ける﹃歎異抄﹄了解と満之の関係を見ていく上では、深励の講義との関わりが指摘できる。深励述﹃歎異秒講義﹄ と満之との関わりについて、安藤州一は次のように語っている。 先生常に机上に載する所の警は、小本の ﹁四書﹄﹁エピタテタス﹄﹃阿含経﹂竹紙小本の﹁支那歴史年表﹂﹃臨 床医典﹂香月院の ﹃歎異紗講義﹄、小川丈平翁の著﹃経釈抜奉法語集﹂等なりき。

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︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ ︵ 法 蔵 館 ︶ 第 八 巻 ・ 四 五 四 頁 ︶ 満之が、この書を購入し、座右に置いていたことは間違いない。この﹁歎異紗講義﹄において深励が ﹁ 歎 異 抄 ﹂ を いかなる書として了解しているか、次の文に明確に一不されている。 此章十八章モ一言ニ云ヒ童ス排シ方モ有ルヘキナリ 恐レ乍ラ私シ存スルニ此紗一部ハ勧信誠疑ノ四字ヲ以テ ﹃ 歎 異 抄 ﹄ 大綱トス是カ第二代ノ善知識ノ揮土員宗御相承ノ相ナリ の大綱を一言で言い尽くすならば、﹁勧信誠疑﹂であるという。深励は﹁五口祖御一代ノ御教化ハ信ヲ ︵ ﹁ 歎 異 紗 講 義 ﹄ 八 頁 ︶ ス、メ疑ヲイマシムル勘信誠疑ヨリ外ハナキコトナリ﹂︵同前八頁︶ と述べ、釈尊が説く﹁大経﹂開顕智慧段が ﹁ 勧 信 誠 疑 ﹂ の根本であると了解する。深励は七祖がこれを相承することを簡潔に述べ﹁御一代御教化ハ詮スル慮 と結論する。深励は親鷺を 動信誠疑ヨリ外ハナシ新シキコトテハナヒ三千年己来ノ御相承也﹂︵同前九|一

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頁 ︶ 基点として、浄土真宗の祖師達の聖教にもどりつつ、 その相承性に留意しながら﹁歎異抄﹄を講釈していく。深励 の ﹃ 歎 墨 ︵ 抄 ﹄ 講 釈 は 、 ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の文言に﹁先師口伝の真信﹂を聞思する姿勢というよりも、浄土三部経と七祖の 聖 教 の 言 葉 、 さらに﹃口伝紗﹄﹃六要紗﹄﹃報思記﹂﹃御文﹄等の文言を会通しつつ、聖教に﹃歎異抄﹄ ︵5 ︶ いて語らせながら行うという特徴を有しているといえる。また、深励は、﹃歎異抄﹂ の内容につ の大綱を﹁勧信誠疑﹂と了解 すべき視点として次のような問題を指摘している。 此紗一部十八章勧信誠疑ヲ述タ聖教チヤト云眼ヲ明ケスニ見ルトキハ兎角謬ル事有夫ハイカント云ニ前ニモ列 タ十八章ノ中第一章二本願ヲ信センニハ他ノ善モ要ニ非ス念仏ニマサルヘキ善ナキカ故一一悪ヲモ恐ルヘカラス 蒲陀ノ本願ヲ妨ル程ノ悪ナキカ故ト云ル ︵中略︶是カラ始メテ夫レカラ第三章己下慮々ニ悪人正機ノ旨ヲオ明 シナサレタ善人ナヲ以テ往生ス況ヤ悪人ヲヤト常々御教化ナラハ悪人サへ往生スル者善人ハナヲ以テ往生ヲ逐 ルニ相違ハ無ヒトノ玉フ慮ナリ︵中略︶或ハ唯園房へ封シテノ御教化ニモ煩悩具足ノ凡夫トシテハ晴々往生一 清沢満之における﹁歎異抄﹄の受容とその背景

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清沢満之における﹁歎異抄﹄の受容とその背景 四 定ト思へト勧メ玉ブ此等ヲモモシ取違へタラハ悪苦シカラストノ御教化チヤト思フテ邪見ニ落チマヒ者テモナ ヒ ︵ 同 前 十 頁 ︶ 深励は釈尊以来相承された﹁勧信誠疑﹂という視点を抜きに﹃歎異抄﹂を読むことにより、誤謬を生じ、邪見に陥 るという。そして誤謬を生じる象徴的な文言として第一条の文を挙げ、この文と関連して第三条以降にしばしば展 関される悪人正機に関わって異義が生じること、 さらに、第九条に展開される唯円と親鷺の応答について邪見に落 ちる危険性があると指摘していく。深励は﹁歎異﹂ の了解についても二義を挙げ、﹁五口祖ヨリ御物語ノ中カラ肝要 ナルコトヲ抜出シテ是ヲ鏡トシテ異義ヲ正ス紗チヤト云コトア題シテ歎異紗トアリ﹂︵同前一七頁︶ と正義を以て 異義に対し批判していくことが﹁歎異﹂の内実であると了解しており、 了解する姿勢が顕著であるといえよう。さらに、 そとには異義批判の書として ﹃ 歎 異 抄 ﹄ を 是ハ勧信是ハ誠疑ト窺フカ此歎異紗ノ伺ヒヤウナリ時二此紗ニハ蓮如上人ノ奥書カ有テ右斯聖教者局二嘗流大 事 一 世 於 二 無 宿 善 機 一 無 二 左 右 一 不 レ 可 レ 許 之 者 也 ト 被 レ 仰 テ 此 奥 書 カ 乍 レ 恐 此 一 部 ヲ 窺 ウ ノ 御 指 南 ト ナ ル 慮 ナ リ 同 前 十 四 頁 ︶ と 、 ﹁ 歎 異 抄 ﹄ は蓮如の識語をその指南とし、文言に応じて﹁勧信﹂、あるいは﹁誠疑﹂として了解していくべきで あると語る。蓮如の識語の意図については別に考察すべき問題であると考えられるが、このような了解は深励以降 の江戸時代・明治時代の講義においても継承された﹃歎異抄﹂理解であるといえる。実際に満之が ﹁ 歎 異 紗 講 義 ﹄ 入手以前から、深励の了解を踏まえていたと考えるのは問 題があるだろう。しかし、満之が真宗大谷派の宗門に身を置き、学び、活動する時期の学寮における﹃歎異抄﹄了 を子にするのは明治三二年六月以降のことであるので、 解が深励の学説を踏襲していることは、例えば学師稲葉道教、嗣講宮地義天らの安居における講義を通して知るこ と が で き る 。

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歎異紗此抄ノ来因ハ序文ニ顕レタリ今一部ノ大綱ヲ窺一一二三口ニイへハ勧信誠疑ノ四字也是則第二代目ノ善知識 浄土真宗ノ御相承ノ相タ也凡我祖一代ノ御教化ハ勧信誠疑ヨリ外ナシ ︵明治十五年、稲葉道教﹁歎異紗講義﹄大谷大学図書館蔵三丁左︶ 正瞬二一部大綱一ハ。是亦先輩香月院ハ。勘信誠疑ノ四字ヲ以テ。 一部ノ大綱ト定メ。而モ十八章段アリトイへ ドモ。其中初ノ十章ハ祖師ノ御言。後ノ八章ハ末徒ノ異計ヲ挙テ。是ヲ破斥シ玉フ。︵中略︶浄土員宗ノ法門 麿シトイへトモ。蹄スルトコロハ。勧信誠疑ニアリ。 ︵ 明 治 二

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年、宮地義天﹃歎異抄講録﹄﹁真宗全書﹄ 四 三 巻 ・ 二 三 八 頁 ︶ と述べられている。当時の学寮において ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の大綱を﹁勧信誠疑﹂と了解することは深励の講義以来遵守さ れ、それは一宇一句まで同内容の講義録になっていると言っても過言ではない。さらに義天は﹁勧信誠疑﹂を浄土 真宗の法門における帰着すべき根本的課題として位置づけている。このように深励以来、﹃歎異抄﹄の大綱は﹁勧 信誠疑﹂であるとの了解が大きな趨勢であり、満之が大谷派宗門に身を投じていく時期に於ても保持されている了 解であったといえる。満之の ﹃歎異抄﹄了解は、この﹁勧信誠疑﹂という了解を踏襲するものであったのだろうか。 ﹂の問題について、次節以降尋ねていきたい。 満 之 と ﹃ 歎 異 抄 ﹄ の 最 初 の 接 点 を は 、 どのようなものだったのだろうか。満之の父は、禅籍に親しむ仏教者であ り、母はいつも薄紙一枚のところがわからぬといって聞法にはげむ篤信の念仏者であった。満之は友人の小川空恵 の 勧 め で 、 明 治 十 一 ︵一八七八︶年十六歳のときに空恵の寺である覚恩寺衆徒として得度、真宗大谷派の僧侶とな 清沢満之における﹁歎異抄﹄の受容とその背景 五

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清沢満之における﹃歎異抄﹄の受容とその背景 ー ム ノ 、 教校の課業表には﹁歎異抄﹄の講義を見いだせないが、 り、宣︵宗大谷派の英才教育機関として開設された育英教校に学んでいる。明治八︵一八七五︶年に定められた育英 乙科第二級に﹁仮名聖教通解﹂という開講科目があり、そ の講義がなされていたことは十分考えられる︵﹃大谷大学百年史﹄資料編・五九頁︶。しかし、 育英教校時代の資料として現在確認することができるのは、﹁︹教校時代詩文︶﹂のみであり、それには﹃歎異抄﹂ の な か で ﹁ 歎 異 抄 ﹄ に関する記述は見出せない。また当時、満之が﹃歎異抄﹄に関する研究を行ったという記録も残されていない。満 之と﹁歎異抄﹂との最初の接点として明確に認めることができるのは明治十九年、帝国大学在学中に記された ﹁ ︹ 大 学 第 四 年 度 ノ l ト︶善悪﹂である。そこでは、﹁歎異抄﹄のみではなく、曇驚の﹃論註﹄を始めとして、﹃安 楽集﹄﹁観経疏︵散善義︶﹂﹃智度論﹄﹁法華文句﹄﹁阿毘達磨集異門足論﹂﹃成実論﹂﹃法界次第﹄﹁成唯識論﹄が﹁善 悪﹂について説く言葉を書き留めている。そしてその記述に続き、 親子一一人にて牛を売りに行く話 誰の言是なりや 共に是なりや||︵多数ノ一致︶ 唯 一 の み 是 な り や ー | | ︵ 個 々 独 立 ︶ 是れ一問題 結局二致なきか 若し二致なしとせば 究寛の標準は如何 と問い、利害、幸福、良心の直覚、聖賢の垂訓等が究寛の標準となり得るのかが問題にされている。 満之が生きた明治という時代は、日本が新しい固として劇的に生まれ変わろうとする変革の時期であり、 ︵ ﹃ 全 集 ﹄ 四 ・ 一 六 四 頁 そ れ は

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﹁近代﹂という言葉で定義される。近代は、近世に続く新しい時代として始まる。産業革命以来の大規模な科学文 明の進展につれて、政治、経済、社会の諸分野は急速な変化を要請されることとなる。日本の封建的な政治体制や 生活様式が急激な変革を余儀なくされたことは、単なる制度上の問題ではない。それは理想や目標を設定し価値を 追求する人間の営みに基づくものであり、西洋の近代的文明、技術、思想の流入によって促進された事態である。 また、明治元年の﹁神仏判然の令﹂発布を契機とし展開することになる廃仏控釈等とも関連して、仏教の宗教性が 批判されるという危機的な状況の中に明治の仏教界は投げ出されたのである。それは仏教あるいは宗教とは何かを 仏教界に問わしめることとなった。 つまり、近代日本の思想界にとって、宗教は決して容易に位置づけうるもので はなかった。換言すれば、 それは宗教概念の脱自明化という事態に他ならない。宗教そのものが批判され、多様な 宗教観が模索される時代状況の中にあって、あれかこれかという宗教の簡びではなく、 いかなる標準が究寛の標準 いかなる批判にも宗教としての本来性を失うことのない、究寛の標準とは何かという問いが満之に 提出されているのである。そして﹁利害﹂﹁幸福﹂﹁良心の直覚﹂﹁聖賢の垂訓﹂のいずれも究克の標準とはなりえ たりえるのか な い こ と が 示 さ れ る 。 その中で満之は﹁聖賢の垂訓﹂については次のような問題を指摘している。 聖賢の垂訓 退歩説と化するを如何 時代識者の輿論? 之を査定するの法なきを知何せん 満之は聖賢の垂訓、また時代識者の輿論であっても退歩説と化し、査定する基準が明確でないという。それは﹁聖 賢の垂訓﹂、例えば深励の学説に絶対的権威を見出していくような当時の宗学に対する批判が込められているとも ︵ ﹁ 全 集 ﹄ 四 ・ 一 六 三 一 頁 ︶ 考 え ら れ る 。 清 沢 満 之 に お け る ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の 受 容 と そ の 背 景 七

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清 沢 満 之 に お け る ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の 受 容 と そ の 背 景 }\ との問いを受けて、満之は﹁宗祖日く﹂と親鷺の説示する、﹃歎異抄﹄﹁正像末和讃﹄ の 文 言 を 記 し て い る 。 宗祖日く ︽ ︵ 4 ︶︾善悪のふたつ惣じて以て存知せ、ざるなり ︽ ︵ 3 ︶ ︾ 又 日 く 念仏は地獄の種か極楽の業か ︽ ︵ 5 ︶ ︾ 又 日 く 唯信ずるあるのみ ︽ ︵ 1 ︶ ︾ 又 日 く 善悪の字知り顔は おほそらことのかたちなり ︽ ︵

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文日く 是非知らす邪正もしらぬ 此身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり ︵ ﹁ 全 集 ﹂ 四 ・ 一 六 三 頁 ︶ この時期の満之に自覚的であったか否かはわからないが、後に彼自身が﹁予の三部経﹂として語る﹁歎異抄﹄を 書き記し、最初に記した順序を入れ替える指示を上欄に付している。このことから満之に記される﹁歎異抄﹄まで の一連の言葉は、満之が聖教に散見される善悪に関する文言を羅列したものではなく、 一つの思索の跡であること が思われる。満之が最初に記した﹁善悪のふたつ惣じて以て存知せざるなり﹂︵﹃歎異抄﹄後序︶ の文を、善悪とい

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う課題を結ぶ文として配し、 さらに善悪という課題において究寛の標準を探究する中で、問題を﹁唯信﹂の一語に おいて結論する意図には十分な注意を払う必要がある。満之は﹁利害﹂﹁幸福﹂﹁良心の直覚﹂﹁聖賢の垂訓﹂が究 寛の標準となり得ないことを示し、これらによって﹁是非・邪正・善悪﹂の標準を策定しようとする立場に対し、 ある一つの基準を提示するのではなく、究寛の標準は﹁唯信﹂という宗教的自覚においてのみ応えられ得ることを 書き止めている。それは、 さまざまな世間的善悪の標準は究寛の標準とはなりえないことを反照するものであり、 ﹁唯信﹂という事実のうちにおいてのみ世間的標準が内包する問題に、自覚的でありえることをも意味している。 満之において、﹁善悪のふたつ総じて以て存知せず﹂とは善悪を不問のこととして抽擁するのではなく、究寛の標 準たる﹁唯信﹂という事実において覚知される事柄であることが示されているといえよう。 最後の﹁唯信ずるあるのみ﹂ の 文 を 、 ﹁ 歎 異 抄 ﹂ からの抜書であると断定することはできない。しかし、﹃歎異 抄﹂第十三条に唯一引用される聖教である﹃唯信紗﹄において親鷺が、 唯はたまひとつといふ、 ふたつならぶことをきらふことばなり、 また唯はひとりといふこ﹀ろなり。信はうた がひなきこ﹀ろなり、︵中略︶本願力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ。︵中略︶また唯信はこ れこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなわち本弘誓願なるがゆへなればなり ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 三 ・ 一 五 五 頁 ︶ と説示するように、﹁唯﹂とは﹁た立ひとつ﹂﹁ふたつならぶことをきらふ﹂言葉であり、他のいかなることにも代 置されえない、究寛の標準を明確にする言葉である。﹁他力の信心﹂において推求される﹁本弘誓願﹂が﹁本弘誓 願なるがゆへ﹂に﹁余のことならはず﹂、 すなわち﹁ふたつならぶことをきらふ﹂ のであり、満之に﹁唯︵このこ とひとっこなる﹁信﹂が究寛の標準として確かめられている。このように見てくると、満之が﹁善悪﹂という規 定において問うた課題は、単に倫理研究という学究的関心からではなく、自らはいかなることを依処として生くべ 清沢満之における﹃歎異抄﹂の受容とその背景 九

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清沢満之における﹃歎異抄﹄の受容とその背景

き か 、 という切実な実存的関心に根ざした課題であったと言わねばならない。満之は﹃歎異抄﹄を通して、この謀 題が倫理的地平ではなく﹁唯信 L という宗教的地平における究寛の標準において捉えられるべきものであり、 そ の 宗教的地平を拓く聖教として﹁歎異抄﹄の文言を受けとめていることが知られるのである。 前節で尋ねた﹁︹大学第四年度ノ l 卜どから四年後、満之は﹁聖教抜率﹂と題する一冊の書物に再び﹁歎異抄﹄ からの抜書をしている。﹁聖教抜牽﹂は﹃真宗宝典﹄︵天・地︶からの抜粋である。﹁聖教抜奉﹂の記される明治二 三年七月は、満之が京都府尋常中学校の校長を辞し、剃髪し着衣を洋服から僧衣に改め冨

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− 宮 内 を 始 め る時期である。この時期の﹁随筆偶録﹂︵﹃全集﹄八・四三四頁︶には﹁真宗宝典﹄についての記述が散見され、 満之が﹃真宗宝典﹂を座右の書とし、﹁歎異抄﹄に親しんでいたことが窺われる。﹁聖教抜牽﹂には﹁歎異抄﹂以外 に、﹁観経疏﹂﹃選択集﹄﹃改邪紗﹂﹃安心決定妙﹄﹃蓮如上人御一代記聞書﹂﹃御文﹂等から抜書きがされ、そして最 後に再び﹃蓮如上人御一代記聞書﹄が抄録されている。最初の﹃観経疏﹄からの抜粋箇所は︵玄義分︶﹁序題門﹂ ﹁ 和 会 門 ﹂ 、 ︵ 散 善 義 ︶ ﹁ 一 一 ︵ 序 分 義 ︶ ﹁ 化 前 序 ﹂ ﹁ 禁 父 縁 ﹂ 、 ︵ 定 善 義 ︶ ﹁ 地 観 ﹂ ﹁ 像 観 ﹂ ﹁ 真 身 観 ﹂ ﹁ 勢 至 観 ﹂ ﹁ 雑 想 観 ﹂ 、 河警﹂﹁就行立信﹂﹁流通分﹂と一見して多様な文言が抜書きされているように思える。しかし、満之は善導が﹁観 経﹄﹁流通分﹂の教意を尋ねた次の文言で引用を結ぶ。 七 }\ 上来難説定散両門之益望仏本願意在衆生ヲシテ一向専称弥陀仏名 一部には定散両門の益が説かれるけれども衆生をして称名念仏の一行を選びとらせるこ こ の 文 は 善 導 が 、 ﹁ 観 経 ﹄ とが仏の本願の意なることを明かす文であり、 まさに﹁廃立﹂ということが決定することを、善導が明確にする古

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今橋定の決定的文言である。ここには満之の ﹁仏の本願の意﹂に選ぴとられてくる称名念仏の一行への注目がある。 念仏往生の根源である弥陀の本願の意、 それは益三迫寸の示唆をうけ法然に﹁念仏往生の本願﹂と了解される。さらに 満之は﹁選択集﹄︵本願章︶勝劣・難易の難易の義に注目する。この一段における法然の主張は諸行の難行性に簡 んでの、単なる称名の容易性の主張にあるのではなく、念仏は人間の側の諸条件・諸状況を﹁得往生﹂に要求する ことのない行としての﹁易﹂であるということである。それは一切衆生の往生は﹁貧富・智慧高才・持戒破戒﹂と いう人間の側の努力条件を要求し問題とするのではなく、称名念仏の一行を唯一の往生の行として選びとる選択本 願、﹁一切衆生をして平等に往生せしめんが為に﹂﹁弥陀如来法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて普く一切を摂せん が為に﹂発された大悲の誓願によるということを確かめる一段である。満之が留意する﹁観経疏﹂﹃選択集﹄ の 文 言に窺われることは、人間存在の諸属性、時処、状況、能力の簡びなく、 行としての称名念仏の一行へ着目である。また、﹃改邪紗﹄ 一切に通じ仏道を成就する如来の本願の からは﹁本師聖人のおほせにいはく某︿親鷺﹀開眼せ ぱ賀茂河にいれて、うほにあたふへしと云々﹂ の文が抜書される。これは世間的な価値観を超えた親鷺の生の内実 を一不す文という視点からの抜粋と考えられる。これらのことを課題的に受けて、抜粋されてくるのが ﹃ 歎 臭 抄 ﹄ 。) 文 言 で あ る 。 歎 異 抄 本願を信せんにに他の善も要にあらず念仏にまさるへき善なきゅへに、悪をもおそるへからず弥陀の本願をさ またくるほどの悪なきゅへにと 善人なをもて往生をとくいはんや悪人をやしかるを背の人つねにいはく悪人なを往生すいかにいはんや善人を やとこの条一旦そのいはれあるににたれとも本願他力の意趣にそむけり云々 清沢満之における﹃歎異抄﹂の受容とその背景

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清沢満之における﹁歎異抄﹄の受容とその背景 たとひ諸門こそりて念仏はかひなきひとのためなりその宗あさしいやしといふともさらにあらすはずしてわれ らかことく下根の凡夫三文不通のものの信すれはたすかるよしうけたまはりて信しさふらへは、 さらに上根の 人のためにはいやしくともわれらがためには最上の法にてましますたとひ自余の教法はすくれたりともみつか らかためには器量およはきればつとめかたしわれもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしま せば御さまたげあるへからずとて云々 よきこ﹀ろのおこるも宿業のもよほすゆへなり悪事のおもはれせらる﹀も悪業のはからふゆへなり故聖人のお ほせには兎毛羊毛のさきにいるちりばかりもちりはかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべ しときふらひき 一人にでもころすへき業縁なきによりて害せきるなりわかこ﹀ろのよくてころさぬにはあらすまた害せじとお もふとも百人千人をころすこともあるへしとおほせのさふらひしはわれらかこ﹀ろのよきをはよしとおもひあ しきことをばあしとおもひて本願の不思議にてたすけたまふといふことをしらさることをおほせのさふらひし な り 御消息にくすりあれはとて毒をこのむへからすとこそあそはされてきふらうはかの邪執をやめんがためなりま たノ\悪は往生のさはりたるべしとにはあらす持戒持律にてのみ本願を信すへくはわれらいかでか生死をはな るへきやか﹀るあさましき身も本願にあひたてまつりてこそけにほこられさふらへされはとて身にそなへきら ﹂ こ で 満 之 が ん悪業はよもつくられさふらはしものをまたうみにあみをひきつりをして世をわたるものも云々 の中から抜粋するのは、第一条、第三条、第十二条、第十三条の文である。先に指摘し ﹁ 歎 異 抄 ﹂ た深励、義天、道教らの講義で、﹁勧信誠疑﹂の基点として問題とされる第一条、第三条の同じ文言に留意してい る。しかし、深励が﹁勧信誠疑﹂とその相承性において注目してくる聖教の文と、満之に注目される﹃観経疏﹄

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﹁ 選 択 集 ﹄ ﹁ 改 邪 紗 ﹄ の文には視点の異りが明らかであり、 おのずから﹃歎異抄﹄ への関心も異るものであると言 わねばならない。満之は続いて第十二、十三条の文に留意していく。特に、第三条の文意に呼応する第十三条の文 に 注 目 す る な ら ば 、 その抜書きの箇所が特徴的であることを指摘できよう。第十三条で問題となるのは﹁本願ぼこ り﹂という事柄をめぐる問題である。しかし、満之は﹁本願ぼこり﹂について直接述べられる文を引用しない。満 之が注目するのは、この問題に対し﹁善悪の宿業をこころえざること﹂と、親鷺の﹁おほせ﹂として語られる﹁宿 業﹂という言葉で示される﹃歎異抄﹂ の人間観である。それは、﹁一人にでもころすべき業縁なきに﹂との文に示 さ れ る ﹁ 業 縁 ﹂ の一語に確かめられるように、人間存在の事実を縁起性として了解することである。それは﹁観経 疏 ﹄ ﹃ 選 択 集 ﹄ ︵ 本 願 章 ︶ はいやしくともわれらがためには最上の法﹂︵第十二条︶ の文に見出された人間存在の諸属性、時処、状況、能力の簡びなく、﹁上根の人のために と言い切られてくる仏道を成就する唯一の行としての如 来の選択せる本願念仏に帰す、宗教的自覚に実現する人間観である。それは﹃改邪紗﹄に見出された、世間的な価 値観を超えた親驚の生の内実であるといえるのではないだろうか。このことは満之が﹁︹大学第四年度のノ l ト ︺ ﹂ で、善悪という課題の下、問うた﹁究寛の標準﹂に﹁唯信﹂という一語において応答したことと別のことではない。 こ の ﹁ 唯 信 ﹂ に実現する自己存在への確かな信知、 それが宿業の自覚に他ならない。このような信心の智慧を、 ﹃歎異抄﹄においては信知という言葉において、人間の理性に依拠した知的理解を意味する﹁善悪のふたつ総じて もって存知﹂することにえらぶのである。 こ の ﹁ 聖 教 抜 翠 ﹂ は 、 満 之 が 富 山 口 −

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を開始する直前の明治二三年七月三二日に書き結ぼれたもので あ る 。 冨 古 一 自 己 目 ℃ 。

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の動機については、﹁僧風の衰類﹂ということが最も大きな要因であったといわれる。 ﹁僧風の衰頬﹂という実情を通して、仏者のあるべきすがたとは何か、 その思いに動かされての修道生活であった。 同 時 に 、 宮 古 一 自 己 百 円 ︼

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という一言葉は、﹁可能な最小限﹂という意味である。言い換れば、他のものはなくと 清沢満之における﹃歎異抄﹂の受容とその背景

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清沢満之における﹁歎異抄﹂の受容とその背景 四 も、人聞に唯一要求されるべきものは何かという、人間存立の基盤を見定めていく求道生活を表明する言葉ともい えよう。それはかつて満之に﹁究寛の標準﹂という言葉で問われたことと等質の内容を有するものである。 結 び 満之における﹃歎異抄﹄ の受容の中に、浮き彫りにされてくるのは、近代という時代の到来において、方向性を 見失いつつある当時の仏教界が根本的に抱えていた問題としての宗の不明確きである。そのような時代状況の中で、 大学時代になされた満之の ﹃ 歎 異 抄 ﹄ への着目に窺知されることは、相対的価値基準に縛られ散乱粗動する現実に 翻弄されつつそれを課題として生きる人間に、 まさに明瞭にすべき﹁唯﹂なる﹁究寛の標準﹂、すなわち畢寛依を 開示する聖教として満之が ﹁歎異抄﹂を受けとめていることである。また、満之は四年後の富山口一

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巾 の 実践において、人間にとって最低限必要なものは何かを問う。そして、人間に唯一要求される畢寛依というべきも のはなにかという課題に応答する聖教として﹃歎異抄﹄を選びとったのではないだろうか。 この課題は大学時代、あるいは冨

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口 ℃ 。

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の実践の時期のみならず、 その後の満之にも終生持続された 根本的課題であった。そのことを我々は満之の﹁自己とは何ぞや、是人世の根本的問題なり﹂︵﹁臓扇記﹄﹃全集﹄ 八 巻 ・ コ 一 六 三 頁 ︶ ﹁ 処 世 の 立 脚 地 ﹂ ︵ ﹃ 全 集 ﹂ 六 巻 ・ 三 頁 ︶ ﹁ 倫 理 以 上 の 根 拠 ﹂ ︵ ﹃ 全 集 ﹄ 六 巻 ・ 一 三 一 一 頁 ︶ という言葉 に十分に確かめることができる。そしてそれらの課題の表明において、満之が語る宗教的信念の内実に、﹃歎異抄﹄ の語る文言と同内容の信念の表明︵言葉︶ を見出すことができるのは必然というべきである。その表明の言葉があ るいは二種深信を証する表現であり、 また、﹁倫理以上の安慰﹂﹁世間と出世間﹂等の論考において﹁善悪のふたつ そうじてもって存知せず﹂との﹁歎異抄﹄ の言葉が引用されることも、人間における畢寛依とは何かという課題に

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真向かいになる時、満之に方向性を与えた文言であったのだと言えよう。 最後に関説しておきたいことがある。近年、満之を近代における﹃歎異抄﹄の再発見者とする了解に対して、批 判的研究が盛んである。これは地道な歴史的資料研究の成果に基づいて、満之を﹁歎異抄﹄の再発見者とする見解 は誤りであり断じて訂正されなければならないとの批判である。実際に当時﹃歎異抄﹄は他の多くの聖教類ととも に流布し、その中の一聖教という位置づけが明確になされていた。しかし、従来多くの聖教類の一つとして、殊に ﹁勧信誠疑﹂を大綱とする異義批判の書として捉えられていた﹁歎異抄﹂を、満之は﹁親鷺聖人御安心の極致を伺 ふ﹂書、即ち浄土真宗の信仰的自覚の極致を最もよくあらわす書として受けとめる。以降、暁烏敏、近角常観等に ﹃歎異抄﹄は講義されていくことになるのであり、そのことが当時の﹁歎異抄﹄了解に波紋を生じさせた事実は否 定できないだろう。これに対し高倉学寮からも﹁歎異抄﹂に関する講義録が多く刊行され、﹁勧信誠疑﹂の書とし ての﹃歎異抄﹄了解があらためて主張されていくこととなる。またこれらと連動して、現在でも﹃歎異抄﹄研究に 多くの影響を与え続ける妙音院了祥﹁歎異抄聞記﹄︵明治四

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二年︶が刊行されることとなることを、刊行に尽 力した平松理英の行実を記す中山理賢の次の文によって知ることができる。 嘆意紗聞記ノ如キハ、昔時浩々洞ノ諸氏カ相承モ師惇モナク、昔ヨリ講本ノ少キ嘆意紗ヲ自由討究的ニ勝手自 侭シ解釈シ得テ法ヲ曲ケテ邪説ヲ誇張スルモノアリシタメ此ノ聞記ヲ出版セシ︵﹁響方院逸事﹄末五九頁︶ 了祥の﹁聞記﹄と満之の﹁歎異抄﹂受容の関係は残された課題である。別稿を期したい。 註 ︵ 1 ︶ ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ ﹁ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ ︵ 岩 波 書 店 二

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三以下﹃全集﹄と略す︶ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ ︵ 法 蔵 館 ︶ 八 ・ 一 八

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、 五 四 八 頁 。 安 冨 信 哉 ﹃ 清 沢 満 之 と 個 の 思 想 ﹄ ︵ 法 蔵 館 ︶ 一

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六 頁 。 ﹁鎌倉時代の﹁歎異紗﹄の信念を明治の思想で書けば﹁我信念﹄となる﹂︵暁烏敏﹁清沢先生の信仰﹃資料 八 ・ 四 四 八 頁 。 清 五

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」4 ノ、 沢満之講演編﹄再録、二頁︶。 ︵5 ︶福島栄寿﹃思想史としての﹁精神主義﹂﹄︵法蔵館、二

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三 ︶ 一

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三一頁参照。深励の講義は護教的関心に立つも のであり、方法論においては訓詰学的傾向を有するものであると指摘される。しかし、深励の講義には学轍を守り つつも、例えば円智の私記に検討を加える等の姿勢が見られ、そこには独自の見解が屡々披涯されている。 ︵ 6 ︶この問題は﹃宗教哲学骸骨﹄善悪論で、﹁有覚の善悪﹂﹁無覚の善悪﹂と﹁覚﹂の問題として考究される。 ︵7 ︶従来、満之の﹁歎異抄﹄披聞について、西田真因氏に﹃真宗仮名聖教﹄によると推測する研究がある。しかし、 満之と﹃真宗仮名聖教﹄との関わりを見出すことのできる具体的資料は見当たらない。この時期の満之の﹁歎異 抄﹄披聞が、ここで指摘した﹃真宗宝典﹄による理由として、①﹁如是文庫目録﹂に﹃真宗宝典﹄の書名が確認さ れること。②当時の日記﹁随筆偶録﹂に﹃真宗宝典﹄の書名が散見されること。③満之自坊西方寺に現在も﹁真宗 宝典﹄が所蔵されていること。④﹃聖教抜粋﹄における抜書きの上覧に附される頁数が、﹃真宗宝典﹄の頁数にの み符合することを挙げることができる。﹁真宗宝典﹄︵天・地︶は明治二二年十二月に﹁天︵漢文篇︶﹂が、同二三一 年六月に﹁地︵和文篇︶﹂が山本貫通を﹁編纂兼発行者﹂として、東京の真宗宝典出版所から発刊されている。 ︵ 8 ︶稲葉昌丸が﹁師︵満之一引用者註︶はこの頃熱心に仏典を拝読され特に真宗の仮名聖教を反覆拝読し、別して ﹃ 歎 異 抄 ﹄ を 喜 ば れ ま し た 。 ﹂ ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ ︵ 法 蔵 館 ︶ 三 巻 ・ 七

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一 頁 ︶ と 追 懐 し て い る 。 ︵ 9 ︶これまで﹁聖教抜翠﹂は、﹃清沢満之全集﹄︵法蔵館︶に表紙の記述のみが公開され、内容は﹃蓮如上人御一代記 聞書﹄からの抜書きであるとする西村見暁氏の見解が共有されてきた︵西村見暁﹁清沢満之先生﹄二二頁︶。し かし、現在では、﹃清沢満之全集﹄︵岩波書店︶の刊行により﹃観経疏﹄から﹃蓮如上人御一代記聞書﹄に及ぶ二十 一の聖教から抜粋されていることが明らかになっている。この﹁聖教抜率﹂の自筆稿は現在、清沢満之白坊西方寺 に所蔵されている。本論ではその影印を閲覧・翻刻し、一部を掲載した。閲覧・翻刻に際しては、大谷大学真宗総 合研究所清沢満之研究班のご協力をいただいた。 ︵叩︶西田真因﹁歎異抄文献の蒐集と意味﹂︵﹃研究所報﹄第九号、 一 九 八 四 年 大谷大学真宗総合研究所︶等参照。

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大 谷 派 斉

江 川 一 7 f は じ め 親鷺教学の基点は法然との値遇、及び弾圧を通しての法然との別離にある。 もし、法然のおおせである念仏が、 一切の功徳を持ち、衆生救済の行であることを顕すだけならば、親驚は﹃教 行信証﹄﹁信巻﹂を著す必要はなかったであろう。﹁信巻﹂に於ける経・論・釈は、本願が実現する正定衆の機とい う事柄を明らかにするためである。すなわち選択本願念仏が自身とどのような交渉を持つのかという意義を明らか にするためであった。これが﹁ただ念仏﹂という教言に肯いた者の担った責任である。 この﹁ただ念仏﹂ということの﹁ただ﹂は、﹁唯信﹂の﹁唯﹂である。すなわち、 ゆ い 唯はたずこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり、また唯はひとりといふこ﹀ろなり、 し ん じ ち し ん じ む こ け すなわちこれ真賓の信心なり、虚慣はなれたるこ﹀ろなり、 信はうたがひなきこ﹀ろなり、 と ﹁ 唯 信 紗 文 意 ﹄ ︵ ﹁ 唯 信 紗 文 意 ﹂ ﹃ 定 親 全 ﹂ 三 ・ 一 五 五 頁 ︶ の冒頭に述べられている。これは﹁唯﹂と﹁信﹂がそれぞれ別にあるわけではない。﹁唯﹂の中 ﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ 七

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﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ }\ 身をどれだけはっきり出来るか、 そのことが即ち﹁信﹂ということである。 ま た ﹁ 信 ﹂ の吟味によって﹁唯﹂の意 義が確かめられるのである。ここに親鷺において真実信心を明らかにしていくという課題がある。 このような課題に対する明証と、現実の衆生の虚妄性を﹁教行信証﹄﹁信巻﹂のはじめに親鷺は、 夫以獲二得信繁一護三起自二如来選揮願心一開ニ闘員心一額三彰従ニ大聖持哀善巧一然末代道俗近世宗師 沈 二 自 性 唯 心 − 庇 二 浄 土 口 県 謹 一 迷 二 定 散 白 心 一 昏 二 金 剛 員 信 一 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 九 五 頁 ︶ と示している。信心の成就は衆生に根拠を置かないのである。そうであるのに、現実には仏道を語りながら﹁沈・ 迷﹂というあり方があるではないか と 親鷺は信心の成就、知来回向の信心が実現する、 そのような人聞を﹃教行信証﹄において﹁真仏弟子﹂として表 現 す る 。 す な わ ち 、 ﹁ 真 ﹂ の言は偽に対し仮に対するということ、釈迦・諸仏の弟子であるということ、それは金 ︵ l ︶ である。親驚において﹁仏弟子﹂の確か そして必ず大浬繋を超証するということ、 剛心の行人であるということ、 めは、信心を明らかにする中に於いての言葉である。それは具体的には、﹁金剛の真信に昏し﹂と表されるような 信心の質を問いただすことと同一の意味を持つものである。すなわち﹁沈・迷﹂ということの問題性をどこで越え ということに明確するという視点である。しかし、﹃教行信証﹄における﹁真仏弟子釈﹂の展開にお て い く の か 、 いては、念仏者の理想的な立場であるとか、伝道者としての自覚を促すというようなことに主張点があるのではな ぃ、ということにはあらためて注意する必要があるだろう。そこには信心の推求があるのみである。 親鷺は真実信心の仏弟子を金剛心の行人として象徴的に語る。そのことによって、外にどのようなはたらきをも つものなのか、内においてはどのような意義があるか、 ということのこ義を尋ねることによって、親鷺教学の命と も言うべき真実信心の一端を考えたいと思う。

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﹁教行信証﹂において﹁仏弟子﹂ということが主題的に取り上げられている箇所は、 言 二 員 悌 弟 子 一 者 虞 言 封 一 偏 一 封 二 偲 ↓ 也 、 弟 子 者 樟 迦 諸 併 之 弟 子 金 剛 心 行 人 也 、 由 二 斯 信 行 一 必 可 コ 一 超 二 謹 大 浬 繋 一 故 日 二 真 悌 弟 子 一 ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 一 四 四 頁 ︶ という箇所以降である。そもそも﹁真仏弟子﹂ の語は善導の ﹃ 観 経 疏 ﹄ ﹁ 散 益 口 義 ﹂ の 中 に 出 て く る 語 で あ る 。 す な わ ち 、 ギ ハ ク ハ ノ ニ 〆 ヲ ミ ヲ 〆 テ ニ ノ メ 下 フ ヲ パ テ チ テ 又深信者、仰願一切行者等、一心唯信二悌語−不レ顧二身命\決定依レ行、併遣レ捨者即捨、 チ ズ ノ メ 下 フ テ ヲ パ チ ツ ヲ ク シ ニ ス ト ニ 即行、例遣 ν 去慮却去。是名下随二順悌教\随中順併意上、是名三障ニ順併願\是名二員悌弟子一。 ノ メ 下 フ ヲ パ ゼ 悌遣 ν 行者 ︵ ﹁ 観 経 疏 ﹄ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 五 三 回 頁 ︶ で あ る 。 ﹁ 愚 禿 紗 ﹄ の区分によれば、第五の深信に相当する箇所である。この﹁七深信﹂との押さえは、独立した 七つの深信があるというのではなく、深信ということの内容を﹁二種深信﹂として確認していくなかにおいて、 そ のことを五つの視点から確かめていくという構造を取っている。 であるからこのことは、第五の深信で述べられて いることがらを深信の中身として見ていくということになり、﹁深信する者﹂として表現されてくるものを具体的 に確かめているということが出来る。この具体的な中身の確認は、﹁愚禿紗﹂において、 ニ ハ ジ ヲ シ テ ニ 第 五 唯 信 二 悌 語 一 決 定 依 ニ 行 一 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹂ 二 ・ 二 七 頁 ︶ と 端 的 に 押 さ え ら れ 、 さらには 利他信心 ﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ 九

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﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂

就 コ 第 三玉五ノ

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弗 三五 7E 名 者ハ 有−一三遣三随順三是名− ニ ハ ノ シ メ タ マ フ オ パ チ ス ツ 一 ﹁ 悌 遣 二 捨 一 者 即 捨 ﹂ シ メ タ マ フ オ パ チ ズ 二﹁併遣ニ行一者即行﹂ 三 ﹁ 悌 遣 二 去 − 慮 即 去 ﹂ 一 ﹁ 是 名 コ 随 ニ 順 悌 敬 一 ﹂ 二 ﹁ 随 二 順 悌 意 一 ﹂ 三 ﹁ 是 名 三 随 ニ 順 例 願 一 ﹂ ﹁ 是 名 エ 員 悌 弟 子 一 ﹂ 上是名輿二此一合三是名也 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 二 ・ 二 七 頁 ︶ 随 !|贋 者ハ とその後に﹁唯信仏語﹂ の中身を押さえる形で﹁三遣、三随順、 三是名﹂と項目を挙げて内容を確かめている。親 鷺は善導が真仏弟子としてあらわされた存在を﹁深信する者﹂として表現されることの中身として、﹁三遣、三随 順、三一是名﹂と具体的に確かめるのである。 三遣の内容である﹁備の捨て遣めたまふをば即ち捨て、悌の行ぜ遣めたまふをば即ち行、ず﹂ということは、法然 の﹃往生大要紗﹄においては、 又 つ ぎ の 文 に 、 ほとけ ︵ 併 ︶ の す て 捨︶しめ給はんをばすて︵捨︶よといふ ヱ工 ) は、雑修雑行なり︵也︶ 0 ほとけ︵悌︶の行ぜしめ給はん事をば行ぜ口︵よ ︵ 一 五 ︶ は 異 . @ "--;' -異 解 雑 縁 は 舗

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動 専 の 修 と 正 こ 行 ろ 也 ( Z王 ) ほとけ ︵ 悌 ︶ の さ ら 去 と い ふ しめたま︵給︶はん事をばさ ︵ 去 ︶ れ と い ふ ︵ 慮 ︶ 也 。 ︵﹃往生大要紗﹂﹁法然上人全集﹄六二頁 と述べられ、法然の理解においては、﹁併の捨て遣めたまふ﹂、﹁悌の行ぜ遣めたまふ﹂ということをそれぞれ﹁雑

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修雑行﹂、﹁専修正行﹂とし、﹁捨てよ﹂、﹁行ぜよ﹂という釈迦、諸仏の教勅として了解している。また前述の箇所 の理解と合わせて考えてみると、﹁併の去ら遣めたまふ慮﹂が﹁異学異解雑縁乱動﹂するところとして了解されて お り 、 その﹁慮﹂を﹁去れ﹂という教勅として受け取っていることがわかるのである。法然のこのような了解は、 一 、 可 了 停 丙 止 封 二 別 解 別 行 人 \ 以 ニ 愚 癖 偏 執 心 一 、 稿 レ 富 三 棄 二 置 本 業 一 、 強 嫌 乙 般 之 甲 之 事 、 右修道之習、只各勤二白行\敢不 ν遮二館行一、西方要決云、別解別行者、惣起二敬心一、 ニ 下 フ ノ ヲ ノ 々 キ 窮云云、何背二此制−哉、加 ν 善 導 和 尚 尚 大 阿 レ 之 、 未 レ 知 二 祖 師 之 誠 一 、 愚 闇 之 輔 甚 也 、 若 生 二 軽 慢 一 、 得 ν罪無 ︵﹃七箇候起請文﹂﹁法然上人全集﹂七八七頁 という﹁七箇条起請文﹂にしめされている知く、浄土宗の人がみだりに論争を加え、混乱を招くということに対し ての教言として了解されたのである。それは正しく、 ノ ハ ク ス ノ ヲ ニ 〆 シ ト 、 ダ ツ ヲ 戯論詩論慮、多起こ諸煩悩一智者懸遠離嘗 ν 二 百 由 旬 一 ︵ ﹃ 往 生 要 集 ﹄ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 八 一 五 ︶ の言葉を具体的自証とし確かめられた了解である。 では親鷺はどのように了解したのであろうか。﹃教行信証﹄において、散善義の引用箇所は、 ス ル ノ キ ハ ニ シ テ ヲ カ ヘ リ ミ ヲ シ テ テ ニ ノ シ メ タ マ フ オ ハ テ ノ シ メ タ マ ア オ セ 又深信者仰願・一切行者等一心唯信二悌語一不三顧二身命−決定依臼行一悌遣二捨↓者即・捨悌遣ニ行日 ス ノ シ メ タ マ フ オ ハ ス ツ ヲ ク シ ニ ス ト 二 タ ク ス ト ニ ヲ ク ノ ト 者即行・悌遣二去一庭即去是名下随二順悌教一・障中順悌意上・是名コ随二順悌願一是名二居間悌弟子一 ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 一

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三 頁 ︶ で あ る 。 ﹁ 去 ﹂ の文字の左訓に注意すると﹁ユク﹂とある。この﹁去﹂ の 内 容 は た と え ば 、 ﹁尊号真像銘文﹂におい ては、﹁必得超絶去往生安養園﹂ の文についての解釈として、 去 は す っ と い ふ 、 ゆ く と い ふ 、 さるといふ也。裟婆世界をたちすて﹀流轄生死をこえはなれてゆきさるといふ 也。安養浄土に往生をうべしと也。 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹂ 三 一 ・ 七 七 頁 ︶ ﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂

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﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ とあり、﹁去﹂には﹁すてる﹂という意味と﹁ゆく﹂という意味を内容として併せ持っているとわかる。また﹃愚 禿紗﹄において 去来封 去者稗迦悌也 来者調陀悌也 ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 二 ・ 四 八 頁 との確かめには、﹁去﹂において釈迦を、 もっと言うなら釈迦の発遣を確かめていくのである。親驚において了解 された﹁去﹂ということの持つ内容とは、裟婆世界を捨てて、生死流転を超え、離れ、安養樟土にゆきさる、 と し当 う明確な思想を持つものである。そしてそのこと全体を釈尊の発遣として了解するのである。また三随順において は、伝統的に﹁仏教﹂を釈迦に、﹁仏意﹂を諸仏に、﹁仏願﹂を弥陀の本願に、 と捉えられている。すなわち、三随 順ということは、釈迦、諸仏の教えに随順し、謹成、勧信され仏願に随順する者となるという仏弟子の内実を確か めているものである。 だから決して﹁異見異学別解別行﹂から離れ、去り、関係を絶つということではない。常に憤闘を離れて空閑の 処を好むのであれば、場所は限られてくる。もちろんこれは親鷺が好んで無用な諦論好み、法然の了解と相違する ︵ 2 ︶ ものではない。むしろ親鷺は、その﹁異見異学別解別行﹂のただ中において歩むことが出来る者こそ信心を根拠と する仏弟子の存在として見たのではないか。 ︵3 ︶ 仏弟子を表す語として、すぐに想起されるものとしては、﹁歎異抄﹂に見られる﹁信心の行者﹂、 ︵ 4 ︶ における﹁念仏の行者﹂等の言葉がある。しかしながら親鷺は ま た は 、 ﹃ 御 文 ﹄ ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の中において﹁金剛心の行人﹂という

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語を用い、信心の内実を金剛心の語をもって押さえられている。 そもそも﹁金剛﹂は、広く経典や論疏に見ることが出来る。そこでは総じて菩薩の智慧、三昧の勝れていること を、武器︵金剛杵︶、宝石︵金剛石︶として害輸されている。その意味は、大きく分けて二つある。一つは、金剛 ︵ 5 ︶ ということである。﹁金剛心﹂も同様に菩薩の心を堅 は能く万物を破す、 二には、万物は金剛を壊すこと能わず、 因不壊の金剛石に誓えたものである。 今﹁金剛心の行人﹂として確かめられてくる事柄は、﹁教行信証﹄信巻を通しての課題といっても言い過ぎでは

A o f E L そもそも真実信心を﹁金剛﹂という語を用いて確かめていこうとする営為は、 ﹁観経疏﹄の引文にその始まりを見ることが出来る。それは、 シテスルノハモチヰテシテノニシタマヘルヲナセノヲノセルコトヨリテクシテノスニ 又回向護願生者必須下決定員賓心中回向願上作二得生想一此心・深信由三若三金剛一不下馬−一一切異見 異墜別解別行人等之︸所中動乱破壊上 すでに ﹁ 教 行 信 証 ﹂ 信巻、善 導 の 一 ・ 一

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六 頁 ︶ である。この回向発願心釈の内容は、如来の﹁回向したまえる願﹂を須いることによって、﹁異見異学別解別行﹂ ︵ ﹁ 定 親 全 ﹂ の人等に動乱し、破壊されない心の発起を語るものである。すなわち、回向発願心の根拠が全く衆生にあるのでは なく、如来の回向にその元を尋ねていくことによって衆生に発起するということを意味するものである。 だからこそ﹁不壊﹂といったり、﹁堅固﹂といってもそれは決して修道の厳しさの結果として付随してくる質を 意味するものではなく、 如来回向の信心の内実を意味するものである。 このことは後の ﹃ 往 生 要 集 ﹄ の引文に端的 に見ることができると考えられる。すなわち、 ﹁ 往 生 要 集 ﹄ 云 入 法 界 品 言 警 如 下 有 日 二 人 一 得 ニ 不 可 壊 薬 一 一 切 怨 敵 不 上 三 得 二 其 便 一 菩 薩 摩 詞 薩 亦 復 如 一 是 一 得 三 菩 提 心 不 可 壊 法 薬 一 一 切 煩 悩 諸 魔 怨 敵 ・ 所 四 不 三 能 二 壊 一 警 如 下 有 二 人 一 得 ニ 住 水 費 珠 一 理 ニ 瑞 其 身 一 入 二 深 水 中 − 而 不 中 波 溺 上 得 二 菩 提 心 ・ 住 水 賓 珠 一 入 ニ 生 死 海 − 而 不 二 沈 浪 − 誓 如 下 金 剛 於 二 百 千 劫 ↓ 虚 三 於 ニ 水 中 一 而 澗 壊 亦 無 中 異 嬰 上 菩 提 之 心 亦 復 ﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂

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﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ ノ テ ニ ス ル ニ ノ ノ ニ ス ス ル コ ト シ ト ソ シ ケ シ 如 巴 是 一 於 二 元 量 劫 一 慮 ニ 生 死 中 ・ 諸 煩 悩 業 一 不 三 能 二 断 滅 一 亦 元 二 損 減 一 己 上 である。﹁不可壊の法薬﹂﹁住水宝珠﹂﹁金剛﹂として語られる菩提心の質が﹁壊こと能わず﹂﹁浪溺せず L ﹁ 断 滅 、 四 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 一 一 四 頁 ︶ 損減なし﹂と確かめられるのである。同時にそれは、﹁一切の煩悩諸魔怨敵﹂﹁生死海﹂﹁生死の中、諸々の煩悩業﹂ という具体的﹁場﹂においてはたらくということを意味することに他ならない。 親鷺が仏弟子を﹁金剛心の行人﹂と押さえなおしたのは、信心を根拠とする歩みの確かさに、このような具体的 ﹁場﹂においてのはたらきを意識したからに他ならない。しかもその確かさは、金剛心とは衆生のもつ心を表した ものではなく、仏の心を表したものであるとの了解である。 我々は、何か﹁諸魔怨敵﹂﹁深き水中﹂﹁生死の中﹂を恐ろしいものだととらえてはいないか。 一水四見の如く欲 の衆生においてはまさに自らが望む住処である。金剛の内容が自我に立脚する心ならば、いくらでも﹁煩悩諸魔怨 ︵6 ︶ 敵﹂の﹁便﹂を得る機会があるであろう。しかし、それが知来回向の信心の発起を内容とするのである。煩悩、諸 魔、怨敵のあり方を実験し尽くした者がすなわち法融菩薩である。親鷺は、 まさしくそのことを、衆生の心は虚仮 不実でしかないという現実と共に一一二問答において尋ねていくのである。 親鷺はこの﹃往生要集﹄ の 後 、 三心一心問答を通して、欲生心釈の中にあらためて散善義の回向発願心釈の文を 引くのであるが、それは、 シ テ ル 、 モ ノ ハ ス モ チ ヰ テ ノ カ ニ シ タ マ ヘ ル ヲ ス ノ ヲ 又回向護願生者必須下決定員賓心中回向願上作二得生想 J ス ノ ヲ である。注意すべきは、真実の回向発願心の確かめを﹁作二得生想一﹂という形で事実として語られるということで ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 一 三

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頁 ︶ あ る 。 、 だ か ら こ そ 後 に は 、 ト ハ ス ル ノ ヲ ノ ナ ル カ ニ ス ス ヲ ト ノ 言 こ 能 生 清 浄 願 心 一 者 獲 二 得 金 剛 員 心 ↓ 也 、 本 願 力 回 向 大 信 心 海 故 不 三 可 二 破 壊 ↓ 輪 三 之 如 二 金 剛 − 也 、 ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 一・つ三頁︶

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と﹁能生清浄願心﹂と言い切っていくこととなる。つまりこのことは、二一心一心問答の前の回向発願心釈における ﹁ 作 二 得 生 想 J ﹂という命令と、それに引き続く二河警の中の文である﹁一言二中間白道四五寸一者即・轍下衆生貧膜煩 悩中能生中清滞願往生心上也﹂においての﹁清浄願往生心﹂という衆生の心としての表現を、三心一心問答を通 して﹁作二得生想一﹂という事実と、その事実としてはたらく回向心として﹁能生清浄願心﹂と確信をもって言い切 っていくことになるのである。 ここに衆生に根拠を置かない堅固の信心、不壊の信心ということが﹁金剛心の行人﹂として言われてくる意義と、 そのことによって、﹁真仏弟子﹂ということを親鷺が﹁金剛心の行人﹂として押さえなおしたことの意味を見るこ とができる。またその具体性は﹁一切の煩悩諸魔怨敵﹂﹁生死海﹂﹁生死の中、諸々の煩悩業﹂において、 すなわち ﹁異見異学別解別行﹂のただなかにおいてこそ仏弟子の歩みがあるということである。 たとえそれがどんなに我が 身を言い当てる教言であっても、現実と遊離したものであっては嘘である。 それを虚偽という。法が生きてはたら くということは、現実の世界で生きるものにとって、 その苦悩において歩むことの力とならねばならない。私は親 鷺 の 、 ニ テ ノ ナ ル ヲ ス ハ チ シ ン リ ν ノロウケンヲ 誠 念 二 悌 恩 深 重 一 不 三 恥 二 人 倫 瞬 一 言 ︸ テ 一 ノ キ コ ト ヲ ス ハ チ シ シ リ ン ノ ア サ ケ リ ヲ 唯念二悌恩深一不三恥二人倫明一 という言葉に、﹁信巻﹂の別序より﹁化身土巻﹂後序にまで一貫した仏弟子の具体的姿勢を見ることができると思 つまり、親驚が﹁真の仏弟子﹂ということを確かめるにおいて﹁金剛心の行人﹂と押さえなおしたと ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 九 五 頁 ︶ 一 ・ 三 八 三 頁 ︶ う の で あ る 。 いうととの中には、必ず大浬繋を超証するということと、偽に対し、仮にむかうという積極性を見ることができる。 その意味において﹁異見異学別解別行﹂のただなかという具体的﹁場﹂においてはたらくということを意味し、積 極的に仮、偽と対決していくものとして真仏弟子の歩みを見ることができるのである。 ﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ 五

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﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ ム ノ 、 おわりに おおよそ仏教において、仏道を歩む者の総称が﹁仏弟子﹂であるということは、 もはやあたり前の事として受容 されてきた。それは仏陀を真の師と何ぎ、 その教をもって自らの拠り処とするにあたって、 もはや当然の知くの謂 い で あ る 。 そのことの問題を早くに見出した人が善導である。そしてこの自明の事柄の内に虚偽ありとの告発をしたのが親 鷺である。何をもって﹁仏弟子﹂なのか、 という問いは、自身においては仏道そのものへの真剣な求道という一点 において問題とされるのである。しかもこの真撃な姿勢は、 まさしくこの﹁仏弟子﹂という所にどのような確かめ ができるかということが、仏教とは誰のためのものかということを確かめていこうとする意味においての厳しさを 持つ。そしてこの具体性は、教のみあって行証がない現実や、大浬繋を超証するということ以外のあり方への現実 的な批判を含んでいるということを知らなければならない。すなわち、仏の教えを学んでいるものは、全て同じく 仏の弟子であるという馴れ合い、 また自らの停滞を許さない、 という厳しい批判を含んでいるものである。 そしてまた、この金剛として轍えられるものの意義を、親鷺は信心を著す表現として用いる。従来の金剛の警轍 は、堅い、壊れない、 という側面から語られることが多かったのではないか。 しかし、金剛ということの本質を異 学異見別解別行の所において、動乱破壊されないということからみれば、決して如来回向の信心であるから壊れな いということだけが主張されているのではない、 という表現が為される時、 そ こ に は 、 ということを思う。それは、仏弟子を表す語として金剛心の行人 どこに仏弟子の歩みがあるか、﹁異見異学別解別行﹂のただなか、﹁一切の煩 悩諸魔怨敵﹂﹁生死海﹂﹁生死の中、諸々の煩悩業﹂という具体的﹁場﹂に於いてあるという側面があるのである。

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註 ︵ 1 ︶ ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 一 四 四 頁 ︶ ︵ 2 ︶例えば、消息類には善導の﹃観経疏﹄﹁散善義﹂の、 ズ ニ ッ 、 シ ン デ ザ カ レ ヲ レ セ 若 非 二 善 業 一 者 、 敬 而 遠 レ 之 、 亦 不 二 随 喜 一 也 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 五 三 三 頁 ︶ という意趣を汲んで記述された箇所がいくつかあり、一貫して悪を好む人や、誇論に好んで近づくことを戒めてい る 。 ︵3 ︶﹁歎異抄﹄第七、第十六、第十七条に見られる。 ︵4 ︶﹁御文﹄一帖目七通・一帖日二二通・一帖目一五通・二帖目三通・三帖目五通・四帖目一通・五帖日一一通等に 見 ら れ る 。 ︵5 ︶この意味において理解される﹁金剛﹂に関する表現はいくつかの経論に見られるが、例えば﹃浬繋経﹄には、 警 如 金 剛 無 能 壊 者 悉 能 破 壊 一 切 之 物 。 ︵ ﹃ 大 正 新 情 大 蔵 経 ﹄ 十 二 巻 六 五 九 頁 中 ︶ と 記 さ れ て あ る 。 ︵ 6 ︶﹁便﹂とは、 凡例 一出典の略記は以下の通りである。 ﹁ 定 親 全 ﹄ | | ﹃ 定 本 親 鷺 聖 人 全 集 い ︵ 法 蔵 館 ︶ ﹃ 真 聖 全 ﹄ | | ﹁ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ ︵ 大 八 木 興 文 堂 ︶ 都 合 の よ い 機 会 、 手 づ る 、 縁 故 、 ﹁ 金 剛 心 の 行 人 ﹂ 寄 る べ 、 で あ る 。 ﹃ 岩 波 古 語 辞 典 ﹄ 七

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至誠心釈における真実の意義

高田派

は じ め なぜ至誠心釈における真実を考察するのかについて述べておきたい。第一に、善導の至誠心釈をどう解釈 するかということが親鷺思想の出発点であったと考えるからである。第二に、善導の至誠心釈では真実を白利真実 と利他真実に分けているが、この自利真実と利他真実について考察することによって親鷺は独自の真実観を形成し ま ず 、 得たと考えるからである。 親鷺は善導の至誠心釈に独自の訓点を施している。この至誠心釈における親鷺の訓点については、河田光夫氏の ︵ l ︶ ﹁親鷺の思想形成における漢文作品の位置﹂︵以下、河田論文︶というすぐれた論考がある。河田論文は、存覚の ﹁六要紗﹄から河田論文が発表された一九七一年までの研究を概観し、親驚の訓点の独創性がなんら厳密に実証さ れることがないまま、常識として論じられている事実を指摘して、その独創性を初めて厳密に実証したものである。 その中で河田氏は、親鷺が善導の文章から離れず、あくまでも訓点によって文章を読み替えようとしたことにつ いて、﹁親鷺の表現には、あくまでも彼の展開した内容が、ゼンドウの文そのものから引き出せる筈だとする執念

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︵ 2 ︶ が感じられる﹂と述べられている。また、河田論文の最後でも、親驚が独創的訓点を付したことについて星野元豊 氏や松野純孝氏の説を挙げた後、 親驚がもし、﹁経典の伝統を振り切って﹂、﹁真実の声に従﹂ ったとすれば、それにふさわしい表現形態は、当 然、独自の文の創造であった筈である。そうすると、あれほどまでに経論の原意を展開させながら、 ︵ 1 ︶ 表現においては決して経論から離れなかったことの意味はどうなるのであろうか。 し か も 、 と述べ、両氏の捉え方を批判し、親鷺が自分自身の文章で表現するのではなく、経論の文章に独創的な訓点を施す ことによって思想表現されたのは、決して自分の教義に説得力を持たせたり、 正当化するための手段としてこの表 現形態を採ったのではなく、経論から阿弥陀仏や釈迦や善導・法然の生きた言葉を聞いていたのであり、親鷺の全 主 体 を か け て 、 その﹁真意﹂を問いつめていたのであって、﹁漢文作品における親鷺の訓点は、そうした問いつめ ︵ 4 ︶ の中でゼンドウから﹁聞いた﹂答えであった﹂と述べられている。正しくそのとおりであろう。 この河田論文に依拠した上で、本論ではまず、親鷺が善導の文章を訓点による読み替えだけにこだわった理由と して、明恵の﹃擢邪輪﹄ への対応を考えることができるのではないか、 ということを論じたい。もとより﹁擢邪 輪﹄の批判に対し自己を正当化するためというのではない。ただ明恵の批判を、自分自身の問いとして受け止め、 その答えを善導自身の文に求めたときに発見したのが、親鷺の独創的な思想であったのではないかということであ る。したがって、本論は、親鷺思想の生成の過程を見ていくものである。 次に、この至誠心釈において、真実が自利真実と利他真実に分けられていることを親鷺はいかに受け止めたのか、 すなわち、親鷺が白利真実と利他真実に込めた意味を考察することで、親鷺の真実観について論じたい。 至誠心釈における真実の意義 九

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至誠心釈における真実の意義

明 恵 の 立 場 建 暦 二 年 ︵ 一 二 一 二 ︶ 一月二十五日に法然が没すると、間もなく﹁選択集﹂が開版された。そして明恵は、同年 十一月二十三日に﹃搭邪輪﹄を著してその邪見を批判し、 さらに翌年六月二十二日には﹁擢邪輪﹄を補うものとし て ﹃ 催 邪 輪 荘 厳 記 ﹂ ︵ 以 下 ﹁ 荘 厳 記 ﹄ ︶ を 著 し て い る 。 明恵は華厳宗︵あるいは厳密︶の僧であるが、この ﹃擢邪輪﹂はそういう立場から書かれたものではない。 ただ我も念仏宗に入って、善導・道紳等の所製を以て、依想とす。この選択集において、たとひいかなる邪義 あ な が せ ありと睡も、もし善導等の義に相順ぜば、何ぞ強ちに汝を噴めんや。しかるに善導の釈を披閲するに、全くこ け が ︵ 5 ︶ の義なし。汝、自らの邪心に任せて、善導の正義を顛せり。 とあるように、明恵は、念仏宗の立場に立って、差口導の解釈を正しく受け取っていないと、法然を批判しているの ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ である。この他でも明恵は法然に対して﹁観経ならびに善導の解釈において、実のごとく解了するに力能なし﹂と ︵ N ︶ 批判したり、﹁善導の解釈を信ぜん人、まず汝︵法然︶を捨離すべきなり﹂と述べ、﹁速やかにこの集︵﹃選択集﹂︶ ︵ 9 ︶ の義から遠離し、善導の一門に入るべきなり﹂として、法然が全く善導の解釈から外れていることを痛罵している。 2 明 恵 の 主 張 では、明恵の主張とはどのようなものであるのか、次に見ていきたい。 ただ、本論では概論的に述べるのではな

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