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ドキュメント内 真宗研究50号全 (ページ 193-200)

七 世 紀 の

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止︑

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草百 三ノ

ι

受容の例について

興 正 派 原

田 哲 了

は じ め

現存する史上最初の﹁歎異抄﹄の註釈書は︑円智︵

7 1

一六

O

︶による﹁歎異抄私記﹄︵一六六二年刊︶

で あ

る︒この様な書物が刊行される事自体︑この時代にある程度﹃歎異抄﹂という書物が関心をもたれていたというこ

とが予想されるのだが︑その受容の実態というものは史料不足ということもあり︑ほとんど顧みてこられなかった

といえよう︒また従来の伝統的宗学の歴史的意義に対する認識等により︑この時代の学匠の著作に対する評価自体

があまりなされてこなかったともいえるのである︒﹁歎異抄﹂に関する研究という視点に立つ場合︑蓮如︵一四一

1

一四九九︶による書写︵十五世紀後半︶以降︑数種の写本︑実悟︵一四九二

1

一五八三︶による記録︑一雄の

目録﹃真宗正依典籍集﹄︵一六二四てといったものに現れる以外で本書が歴史の表舞台に登場するのがこの時代︑

つまり江戸時代初期から中期にかけてということになるのである︒

現時点での調査自体に限界があるとはいうものの︑上記の﹁歎異抄私記﹄以外の﹃歎異抄﹄の註釈を目的としな

ぃ︑数人の学匠の著作中に本書を引用する例が確認される︒その数自体は書物全体の分量からして︑かなり少ない

といわざるを得ないのであるが︑

それ

でも

﹁歎

異抄

の受容のあり方に関する研究の史料となることは間違いない︒

今回

は︑

それらの例をみることによって︑当時の﹁歎異抄﹄受容のあり方の一端を窺おうとするものである︒

なお︑実例を提示するにあたり本来全文を掲載すべきであるが︑紙数の関係で比較的参照が容易と思われるもの

を省略したことをお断りしておく︒

一︑蓮知写本以降︑十七世紀頃までの歴史的経緯

﹃歎異抄﹄という書は現在において︑蓮如書写本以前の写本類が残っておらず︑著者による原本は伝わっていな

いと考えなければならない︒ここでは蓮如本以降︑江戸期十七世紀頃までの﹃歎異抄﹄写本等に関する歴史的経緯

について︑ごく大まかではあるが触れておく︒

まず室町時代の写本についてであるが︑真宗本願寺派宗学院編﹁古写古本

田文昌堂︶には近世以前の写本として︑十五種類のものを挙げている︒﹁同朋学園仏教文化研究所紀要﹂第五号所

収﹁共同研究歎異抄異本研究﹂︵一九八三︶においては︑加えて︑文献に紹介されたもの等として数種のものを

挙げる︒西田真因氏は論文﹁歎異抄文献の蒐集と意味﹂︵﹁歎異抄論﹄所収︑二

OO

二︶において十七種を数えてい

る︒これらは所在不明のものや所有者移動のものも含んでおり︑その実数にははっきりしない点がある︒また抜

書・断簡の類も含まれている︒これらのほとんどは書写年代がはっきりしないが︑年代が推定可能なものの中で代 真宗聖教現存目録﹄︵一九七六︑永

表的なものをあげる︒

①蓮如本巻子本二巻︵西本願寺蔵︶||蓮如写書写年代不明︵禿氏祐祥氏は筆跡から文明一一︑二年︵一四

七九

O

︶頃と推定︒古田武彦氏は本文と流罪記録の一部を享徳三年︵一四五四︶前後と推定︒

江戸

時代

︑十

七世

紀の

﹃歎

異抄

﹄受

容の

例に

つい

 

江戸時代︑十七世紀の﹃歎異抄﹄受容の例について

②専精寺本袋綴一冊︵橘感月氏蔵︑岐阜専精寺旧蔵︶

l

|これは室町時代の写本を江戸時代に写したものであ

る︒原本は了宗︵不詳︶写永正十三年︵一五二ハ︶写か︒

粘葉装一帖︵大谷大学図書館蔵︑端ノ坊旧蔵︶|

l

書写者不詳流罪記録前葉の綴じ目に﹁永正十③端ノ坊本

六ウノトシ十二月十三日﹂とあり︑これを書写年代とみれば一五一九年︒永正本とも称される︒

④実悟抄出本︵抜書︶袋綴一冊︵﹃末灯紗﹄抜書と合冊︑西本願寺蔵︶

1

i実悟写天正七年︵一五七九︶写

実悟は蓮如の第二十三子︒ゴ一・五・九・十三・十四・十六・十七・十八の各条からの抜書である︒

この中注目されるのは実悟の存在である︒上記の抄出本の他︑﹃歎異抄﹂に関連して︑目録における言及︑蓮知

本以降最初期の内容の依用が見られるからである︒それはまず﹁聖教目録聞書﹂︵永正十七年︑

一五

O

であ

る︒

これは現存する浄土真宗関係典籍についての目録中︑存覚﹁浄典目録﹄︵康安四年︑一三六二︶に次ぐものであり

江戸時代に登場する目録類に先行するものとして重要である︒その中の﹁仮名之正教分﹂に﹁歎異抄一巻﹂とある︒

︵﹁

新編

真宗

全書

﹄史

伝編

三︑

一三

一三

頁︶

さらにこの他︑実悟は蓮知の言行録としていくつかのものを残している

一七一七︑但し原型は享禄の錯乱︑

一五

二九

︑以

前か

および﹁蓮如が︑その中﹃蓮如上人一語記﹄︵享保二年︑

上人

何条

々﹄

︵天

正二

年︑

を出している︒両者はほぼ同文と考えられるので︑前者の文を以下に示す︒ 一五七四︶において﹁歎異抄﹂十二条に関連すると思われる文の中に﹃歎異抄﹂

の書

仏説ニ信誘アルヘキヨシトキヲキ玉へリ

信ス

ル者

ハカ

リ一

一一

詩ル人ナクハ説キオキ玉フコトイヵ︑ト

モ思

へキ

ハヤ詩スルモノアル上ハ信センニ於テハ必往生決定トノ仰候歎異抄ニ有

︵﹁

真宗

史料

集成

﹄二

四五

一頁

これはいわゆる異義篇の箇所であるが︑親驚の言葉として出される部分にあたる︒

これらをふまえて︑江戸期十七世紀の状況も含めて﹃歎異抄﹂に関する歴史的状況を整理しておく︒

①十五世紀後半︑蓮如本の出現

②十六世紀初頭︑写本の出現

③室町期︑諸写本の存在

④十六世紀前後半︑実悟の業績

⑤十七世紀前半︑一雄の日録﹁真宗正依典籍集﹄︵寛永元年︑

⑥十七世紀中期以降の写本の存在および刊本︵註釈書︶の出現

一六

二四

への

記載

九︶

写︒

口︑

慧空

袋綴一冊︵龍谷大学図書館蔵︑名願寺旧蔵︶書写者不詳

粘葉装一帖︵大谷大学図書館蔵︑釜口立寺旧蔵︶慧空︵一六四四

1

一七

二一

︶写

慶 安 二 年 二 六 四

主な写本|!イ︑名願寺本

寛文四

年︵一六六回︶写

流罪

記録

・奥

書あ

り︒

刊本

l

ィ︑歎異抄私記ニ冊円智著寛文四年︵一六四四︶以降刊流罪記録なし︒奥書は註釈の中に

あり︒現存する最古の註釈書である︒ロ︑元禄四年本

一冊

元禄四年ご六九一︶刊

流罪記録なし・奥書あり︒頭註がつけられている︒ 流罪記録なし・奥書

あり

ハ︑頭書歎異抄一冊元禄十四年︵一七

O

一︶

刊 二︑

引用

︑一 言及 の例

︵1

︶承

応の

閲緬

関連

承応

の閲

購︵

承応

二年

一六

五二

1

︶は︑いわゆる三大法論の最初のものであり︑

もともと月感二六

001

江戸時代︑十七世紀の﹃歎異抄﹄受容の例について

江戸時代︑十七世紀の﹁歎異抄﹄受容の例について

には︑江戸幕府の介入

︵明

暦元

年︑ の教学論争であるが︑後に西本願寺︑興正寺の対立ともなった︒この事件も最終的

によって解決され︑学寮が破却されるなど︑教学研究に一時的停滞

一六

五五

四︶と西吟︵一六

O

五︵

︶六

三︶

をもたらすこととなった︒祐俊二六

O

1

八一

一︶

﹁承

応閲

措記

﹄︵

寛文

三年

一六

六三

一︶

に詳

しい

︒こ

の事

件に

連して残された文書の中に︑﹃歎異抄﹄の内容が現れるものがある︒このことは︑ジエロlム・デュコlル氏が論

文﹁

﹁歎

異抄

﹂と

承応

閲賠

﹂︵

宮︑

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0

ー 岳

2 E β 5 2 F

5 2 E o

︑龍大仏教文化研究所紀要三九︑二

O O

O

において指摘された通りである︒すなわち月感﹃破邪明証﹂に二か所︵十五︑十三条︶︑興正寺准秀﹃安心相違之

島完書﹂に二か所︵二条︑十二条︶︑本願寺良如﹃破安心相違之畳書﹄に一か所︵十二条︶現れている︒実際の文章

については︑デュコlル氏の論文︑あるいは﹃真宗全書﹂五十︵五

O

五三

八四

八八頁︶などを参照のこと︒

では引用が漢文化されている︒また十三条の引用は︑文に前後の

移動があり︑親鷺の言葉と考えられる部分は引用されていない︒さらに︑﹁安心相違之覚書﹄で引かれる第二条の これらの例のポイントとしては︑﹃破邪明証﹄

箇所は︑親曹の言葉とされているが︑それ以外は全て覚知のものとして引かれている︒といったことがある︒西本

願寺︑興正寺︑両門主の交わしたものにおいては︑本人が撰したものか疑問もあるが︵良如のものは知空撰である

一九一頁参照︶︑このような性格の文書において﹃歎異抄﹂が用いられたというこ

との意味は︑決して小さくはないであろう︒ と

いう

︒﹁

龍谷

大学

コ一

OO

年史

2

︸ 月 感

月感には上記以外にも︑現在確認された範囲においても︑自著の中で

﹁歎

異抄

を依用する例が見られる︒それ

カま

﹃安

心決

定紗

標記

と﹃分間各四思論﹄における例である︒今回参照した刊本は︑前者が天和二年︵一六八二︶川

勝又兵衛刊︒後者が宝永二年︵一七

O

五︶刊︒但し﹁安心決定紗繰記﹄末之三下﹁五︑併恩﹂には﹁具記四恩論巻

十一故脱喜子葱而己﹂という記述があり︑実際には﹁分喜四恩論﹄が先行して書かれた可能性が高い︒また﹃分喜 四恩論﹄には寛文乙巳︵寛文五年︑の年代が付された序備があり︑書かれた年代がそのあたりまでさか

一六

六五

のぼりうる可能性がある︒

﹁分署四恩論﹄については︑巻之一で﹁恩﹂を七種に別聞した中︑﹁第一︑父母恩﹂中﹁三︑孝道﹂の﹁三︑内

外相待孝﹂に現れるもので︑﹁歎異抄﹄第五条を漢文化したものである︒

一切有情皆以世世生生父母兄弟也︑諸有衆

生於此順次生得成悌而可度脱也︑以自力而可為励善者︑廻向念悌而可度父母等︑唯捨於自力速開浄土真証︑六 祖師聖人言︑親鷺者為父母孝養而一遍守念悌未令称揚︑所以者何︑

道四生之際雄沈何等業苦︑以神通方便先可度有縁也実︵巻之一︑

O

二八

右︶

﹂れは︑当時の儒教的孝道との関連性が強いものである︒

また巻之二十で﹁善悪不二︑正邪一如﹂﹁平等と差別﹂について論ずる中で︑﹃歎異抄﹄後序の一部が漢文化され

て現

れて

いる

御消息日︑親驚善悪二惣以不存知也︵巻之二十︑

O

二十

七右

﹃安心決定紗標記﹄についてはまず︑巻五中において︑﹃安心決定紗﹄の原文

本願を信じ名号をとなふとも︑よそなる仏の功徳とおもうて︑名号に功をいれなば︑などか往生をとげざらん

なん

どお

もは

んは

かなしかるべきことなり︒ひしとわれらが往生成就せしすがたを南無阿弥陀仏とはいひけ

るといふ信心おこりぬれば︑仏体すなはちわれらが往生の行なるがゆゑに︑一声のところに往生を決定するな

り︒阿弥陀仏といふ名号をきかば︑やがてわが往生とこころえ︑わが往生はすなはち仏の正覚なりとこころう

べし︒弥陀仏は正覚成じたまへるかいまだ成じたまはざるかをば疑ふとも︑

わが

往生

の成

︑ず

るか

成ぜ

ざる

かを

江戸時代︑十七世紀の﹃歎異抄﹄受容の例について

ドキュメント内 真宗研究50号全 (ページ 193-200)

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