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『宗教研究』季刊第3年第3輯(*109号)

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(1)

――目次――

1,

神・宇宙・人間,帆足理一郎,Riichirō HOASHI,pp.1-27.

2,

禊祓内質の時代的変化と大祓詞,溝口駒造,Komazō MIZOGUCHI,pp.28-46.

3,

精神分析学と宗教,黒田亮,Ryō KURODA,pp.47-65.

4,

天神遊幸論序説,我国固有の信仰形態に関する一考察,堀一郎,Ichirō HORI,pp.66-102.

5,

聖の超越性とその否定,諸戸素純,Sozyun MOROTO,pp.103-128.

6,

神仏関係における法性神の問題,鏡島寛之,Hiroyuki Kyōjima,pp.129-164.

7,

回教神秘主義,特にその信仰の実相について,諸井慶徳,Yoshinori MOROI,pp.165-193.

書評

8,

宇野円空博士著『マライシヤにおける稲米儀礼』,古野清人,Kiyoto FURUNO,pp.194-196.

9,

東洋宗教史の文献二三,岸本英夫,Hideo KISHIMOTO,pp.197-199.

Posted in 1941

(昭和16)年

(2)

ヴュルトグルシー

マックス・シューファがいふやうに、宗教上の紳と形而上畢における宇宙根原とは同一帝であるかも知れない。

けれど二者は意簡約に︵巳ニn訂n昏n已0曾笥1簑nd①︶その本質を異にする。宗教意識における紳は、もつぱ

ら宗教行為の中にあり、倦験されるものであつて、曹拳における如く、箕在たついての合理的息索ではない。宗

教の目的は紳との活きくたる壬交による人間の救である︵旨H琶l告H︰吉−亡出ぎi琶こm已。n象牙き加A已−・

m.箪讐丁あ︶。宗教はかやうに救又は解脱む求める意園に特異鮎をもつ。曹恕が宇宙の自存的‡在︵寧豆ヒ︰旦︶に封

すると、宗教が前に封するとは、その態度む異にする。本質知の態度は、知少ぬかうといふ鮎にぬいて、いくら

か征搬的であるが、解脱知の態度は謙遜と敬虎のそれむ失ふことはできない。敬虔に救や恩寵を求める態度は全

人的態度であつて、人格的ならざるむえない。人格的態度において、吾らは紳と人、紳と宇宙との陶係に関する

知識kついても、抽象的、機械的、科謹的な方法を以てすること・ぢく、結合的直覚︵直撃や類比を以てする人

間的方法による外はない。

紳・宇価・人間

紳・宇 宙・人 問

帆 足 理 一 郎

上汐J

(3)

∴ かうした宗教的態度五山て、ここに舶と宰情し・い踊怯む︰考∵㌔融と年机上むM︰祀すれげ、雄ほ相異だ。ス .・.トトイて人 バンれ・.セィてム ピノツアの隼〓加繭軋やへエゲ几浜の蒔有れ抑軌︵字宙Il.“揖封粘頑たる有楯的射織の申にありといふ鹿︶は概略 汎脚賊に魁するのでわるが、汎油軋むL正ば、紳と†捕とり附加はなくなる。代りに、恕の有在といふ軍縮の挟 暗に閥する問題沃、正に紳の不定金に耕する関越となる。油土年宙とは同⋮であるからだ。何故に字机に自然慮 ︵ぺ災地轡︶や人川悪︵叩、蛸、憐︶があるか。そは草指の本館的構造に西脇するも;か。†招む範封小滝金と見 るぺピノツγけ招じてい∴、そは親方の胡興から雑る。悪沈滞分的、時州的見地か上物㍗h比︰匂ことに基づくので あつて、いかに先金なものでも、その︰溺分む全棍からリl柳1.て貼れげ、不︰尤企だ。鵡l1畔益的に=切む通徹せよ、 L.⊥座 りγ拓止その∵Ⅷ適の紺においてへ圭一︰−三⋮二⋮一賢二阜ご疋金剛輔、州側無柑の賀在で・める士。またへエゲル においても、悪は胱在サ小、≠にけ沖のみでんろが、恵めりL㌧見えるそれは濫き城川む凝られた霹に外ならぬ。 適者む適所においた場合、放てほ茸でーのつて、悪は即ち過淡にすぎない。 かく、人冊恵もH然悪J。、或圧紬母上見、或沃遇鵡七見て、本質的恍衣にあらヰとなし、従って年商は縫封完 全なりと見ることほ、蕃∵几の立場む徹蕗することにはならう。けれど、恵は過挨なり郎党なりとしても、事既、 その通謀や錯覚が吾らむ噂一三,以上、錯覚ヤ通説の存在は直に以て宰摘即ち跡目醗の決断と見るべきではあるま いか。或る人ほい、ぺ自然恵も人肌恵も、そは畢党人桐生活に観聯した悪であつて、人肌的兄姉に外ならず、紳 ︵年商︶は尊意の彼岸にある梵奄であつて、紳む凄とか感とか限界すること既に紳の艇封性旦毀損するものであ 曲・宰庸∵入関 ノ〃J

(4)

ると。かく見ることは絶封仰の招護には役立つであらうが、それは人肌と紳と一定船封陥離するものである。人榊

の善感と没交渉た,り紳に斬り叉は・Jうした紳と交渉すろ人生ほありえないが故に、そほ結局∴.㌫へぃ蕎定に終る であらう。凍らのい、完︰感L−舶の滞悪とに深浅の速仏二そあれ、全く本所克典にトて、︰脚け重患の彼岸にありと

いふならば、そは人肌と没交渉の存在だ⊥自白するに外ならぬ。さうした励む公昭的に見て、或は本質的に見て、

なほ蕃なりといふは、﹁凛﹂といふ﹂・・∩魔の檻糊ではないか。

相続的∵叩敢にふいても、悪い問将㍑帥と宰宙との関係について、紳の完全性む叫鮮国難ならしめる。凡そ宗

純において、励む渾悪の収量に・・ヤて一比竺﹂とは不可能で、むト.ろ紳こそ現に薄でl出り、或沈絶封蔀である七見 るのがりパ敢倍骨の普遍的態煙た。ドイツ語山車︵二三︶と紳︵;三︶とは語原的に吊︰た⊥佃′\。蕃にあら寸ん げ紳にあらす、華は仰の椒写本伴で・や亘︶汚れば、唖疲的⋮紳概において、帥む紅封先金、曲薫此能の健在と見 て、しかも紳が全†捕む創通したL兎︰七三は、直に悪り問題に逢着して、不可解に析る。

先金なる紳の≠牲に、ぎつして悠が存在するか。佃純的“紳観では大凡・で三つの耕明が用悪されてわる。筍一

は、璃物の木質上、膚悪の対照㍑必然的なものでウ宗ら、凄のある≠牲には悪の#在た粥ける一丁一﹂はできない。 造物主が字宙創出■い際、饗壷け人Lトヘ完らげ、藩むも創遇すろこと㍑∵汗左十∵㌫であり㌫ら、器も恵も ない11ヒ淋よりは、悪が介在トて・いてノ㌧席直中J世外の方がまトゲーい、㌫で、吋恍的最瀕む選んで、帥は此世 む創造さ九㌔柁ハい・山江吋僅的最揮直世井︵l︰=主・ごrdつ︰ニニ一一テて=主テ︶であつて、雄砺い本代上、半の ・めろ≠粗にはそい■k封石恵む明け軋トLエ,れげ∵では仲山ヵの練隋王はない、畑ほ厄1.い上組・㌫がウイナ一一ッ 刺・宰症∵人川 几U

(5)

紳・宇宙・人間

ッの﹁繭正論﹂の主張である。現代の聾者にも、紳が事物の本質上出奔ないことをなしえないとて、紳の転封性

を書ふものではないと見る者も柄常にある︵例へぼ、ご・空 l▲︰︷lノ⋮争芦こ喜−音三︼宣告︸−︶。 たが、停統的一赫観において、紳は虚無から︵っ︰善〓=︶宇宙む創ったとい\か。虚無から造ったとすれぼ、事

物の本質も紳の創造に成るものであらねばならぬから、完全な善の紳は善のみむ事物の本質とすることができた

ヽヽヽ はすだ。もし事物の本質が紳の創造以前に決定されてゐたもので、紳はそれに従って創造の歩む進められたとす

れば、紳の絶封性を在否せねぼならぬ。そは恰も中世人が論争したやうに、紳が善を意志し又鱒菩に従って行動

するとすれば、赫は範封ではなく、紳の意志する新線てそれ善な少と見るならば、紳の範封性は成立つ。だが、そ

の場合、絶封紳は事物の本質を、いかやうにも意志しえたはすではないか。とにかく、善悪の封照を要するのは

不完全な現宇宙のことで、範封完全の紳が憲の封照を必要とする理由はありえないから、この静疏は成立しない。

そこで、第二の耕明にいふ、悪の存在は事物の本質に基づくのではなく、範封完全の紳は完全なる世界を作少

ぇたのであるが、苦難のない廃、確乎たる品性は練成されない。難難汝を玉にするといふ。窓は善なるものを育

成する教育手段として避け難いと。これもしかし転封紳の牢記とはならぬ。耗封完全の紳なれば、善の手段を以

て善を育てることができたはすだ。人間の類例を以てすれば、善の目的を達するために悪の手段を用ゆる場合、

彼は善人とはいへない。範封書の紳は教育的にも善のみを用ひて、善なる品性を錬成しえたはすだ。ミル︵J.S. 呂=︰旨蔓。ヒR各号ヱのいふ如く、苦難は多くの場合、人間を萎縮さす。苦難と戦ってこれに打克ち、善

果を牧めるものは寧ろ例外で、十中の八九は苦難の犠牲となる。善のみぞ善む育てるに最も邁首な手段で、萬能

Jタイ

(6)

の藤が意を教育手段とするはすはない。

虚で、第三の鮮明はいふ、紳は人間に自由意志を輿へられた。意志の自由は善と共に悪を選ぶ自由を意味する。

人間悪は故に自由意志の行使の結果であり、ひいては、その懲罰として自然悪の蟄生も考へられるが、自然悪は

別問題とするも、とにかく此世に苦悪の存するのは、人間が自由意志を濫用した結果だと見て、そは紳の責任に

あらすと皆疏する。だがそれは不合理だ。親が子供の玩具として.正しい使途む知らない子に、鍵い忍物む輿へ

たと想像せよ。そは果して賢明な行為でありうるか。兄がその使途を誤って大怪我をした時、そは親の責任にあ

らすと彊明しうるであらうか。のみならず、トウマス・ハックスレイの如き、人間は善をなす自由のみで津山だ、

意をなす自由までも授かる必要はないと反抗する。事箕、俸統的一紳観では、紳は範封自由にして、しかも惑む

なさぬといつてゐる。然らば、天地創造の際にも、絶封自由にしてしかも悪をなさぬ意識髄を創造しえたはすだ。

絶討究仝者が自己と同様な発生者む創りえなかったとすれば、結局、造物主自身が絶討究仝でない詳蝶ではない

か。拙い大エは拙い豪を建てる。宇宙が不完全なれば、不完全な宇宙む創った紳も、不完全といふ外はない。

宇宙に諸々の不完全が存在する限り、不発重な宇宙を創造した紳は不完全であるか、もしくば、之に反して

紳は完全でも、紳が金字宙む創造したものではないとすれば、問題は解決される。即ち紳は完重なれど、紳が宇

宙を創造する時、非紳的な既存の材料を使ったとすれば、その材料に揖弄する悪があつて、宇宙む鍋してゐると

見ることもできる。これカントやミルの二元的解決法であつて、カント㍑紳は字絹の仝創造者ではなく、その建

耐・字肘・人問 五 Jク5

(7)

碑・宰相・人間

築師に外ならぬであらうと想廃してわろ。然らば、その非油的㍍低圧の村村けど㍉トて七三八㌔りでれも扁・1.L一共 に白布の醗在︵El一⋮且だといふことになれげ、字缶は∴元的な椒抑在む∵一七になつT、縦永∴ふ川∵岬敦で は之む是認すべくもあらぬ。 ・ヘルシヤ教的な二元親むとつて、⋮切の尊は伸から、叫切S悠は健からきたものだ上見正Lぱ、舶心のff加ゎ問題 は難なく解決できる。けれど粥両軸的熱情において、帥む金字拭わ彙創追骨士兄亮場合、祝字吊が悪た包容しIユ心

眼り、紳白身不完全な帥だと見るより外に仰決の方法ほない。然らば、宇宙の完全性む否定す誉・向帖に仙の 完全性む否定して、帥も宇宙も共に進化蟄展しゆく存在たと見曽﹂L﹂山方が、後に述べるであらうやうに、牛山 人生む意味づけるものであると同時に、∴元的な見方に附航し∴雌局もたヤすく曳かれっるであらう。例へば、 ペルシャ教で蜂帯磁二元的ではあるけれど、結局、悪ほ克馳されて善一元に郎するのであるが、拉動から林木的 に異った二元的悼質のものが、どうして∵九に郎するか、不可解ではないか。之に反して、完的にも二元的に も見ないで、字縮が渾沌よりいでて、限りなく善夫の理想に向つて生成幾展しゆく世界だとすれば、革も恕も、雅 速に混活して青春し、一方が他方を征服し左すことなくとも、進歩的に肪む占めてゆく進歩蟄展の世界む想像す

ることができる。

いつたい、宇宙を紳に創造されたものと見るからこそ、凶難が起るのだ。そほ曲が︷十宙の外にあつて、陶怖が 陶器む造るやうに、宇宙を創造したと見るからだ。︷丁宙とは全社在の放稲であつて、無限に玖充せるもの、それ む諦が宇宙の外にあつて創造するとは、稚気満々たる話だ。尤も、現代の相封性原理に従へば、宇宙け有限であ 上ノ/

(8)

るといふ。例へばアインシュタインは宇宙の同園は一億光年といひ、全宇宙の重量は十グラムの五十四乗だと推

定し、ジツタアつ一.・き蓄t且は宇宙の局限堅一十倍光年ともいふ。が、要するに有限詮に徒へば、現宇宙は

重力の関係によつて、諸星髄が一中心に集中されてゐるから、光の如く一直線に進行せんとするものも、引力の

関係によつて曲線的に引きよせられて、並行練も結局合流するに至るといふ宇宙の曲率む信じてゐる。かく宇宙

が有限だとすれば、有限なる宇宙の創始といふことも考へられるが、他の一説によれば、宇宙は無限であつて、

絶えまなく膨脹しっゝありといふ。即ち地球から一千萬光年を隔てた星葺は一砂丸首哩の速力で遠ざかり、五千

高光年隔てるたものは四千五百哩の速力で遠ざかりつ1あり、この宇宙的膨脹は数十倍年前に始まつたもので、

それ以前からも縫えす膨脹し乗れるものか不明だといふ。さうした宇宙に起原ありや否やは想像し難い。紳がも

し中世人の想像せし如く、冒⋮ろ又は冒二至ろであるならば、宇宙も同様にE篭∋考即ち自存饉と見

てよいではないか。

宇宙とは前にいつた通り仝貿在の線群だとすれば、紳が宇宙む創造した見るよりは、紳は宇宙の中にある主た

る箕在であつて、創造的な紳︵︵ざ象く¢至︷こではあるが、創造紳︵っ⋮富・ぎd︶ではないと見ることが、紳

と宇宙との関係を正しく解する根本的要所ではあるきいか。以下、暮らは此の見地から、紳と宇宙との関係を思

索する。

現代の天文畢によれば、洋沌たる星芸の情辟にありしものが凝固して天蔑む成し、わが太陽系統の如き秩序整

然たる星群の連行となり、その内の或物には生物警し蓮化し、更に高等動物には心理の進化を清規し、更に人 朗

紳・宇覇・人間 七

(9)

紳・宇宙・人糊

類にありては精紳生活の萎巌となつた。撃間、薬師、追ね、宗教とあらゆる文化的方面において、歴史的に進化 肇展しゆく祝賀な基礎として狩推すれば、暦に六十年毎の繰返しはあつても、人間歴史に反復はなく、一切は日 々新寄の事象む産出して、創造的に進化しゆくものと想像される。従って、宇宙仝鰹も反復なき叫同的現象とし て限りなく創造的に進化しゆくのが、その箕相だと断定して差支ないではあるまいか。 宇宙を自存鰐︵声吉二一三として無限に創造的進化の過程にあるものと断定しうる場合、紳の敵方に二つの可 能がある。一は、帥は宇宙の創造者ではなく、宇宙肖憶の善美なる方面に封する喜らの敬慶なる綜合的直覚であ るといふのであり、他は、紳とは宇宙の善美なる創造的生命力を人間的な言葉で、敬慶にさう禽稲するのであつ て、その創造過程に働いてゐる諸力の結合如何によつては、それむ妨ける魔の力も働き、そこに悪が起ると見る

ので造る。

まづ前者から考へるに、昔々が宇宙とか、世界とか、自然とか考へるその敬念は、一の綜合的直覚であつて、 或る存在物の仝革む想像力によつて直観的に把捏したものである。昔々は自然とか大自然とかいふ言葉を無難作 に使ってゐるが、さて自然とは何かと間はるれぼ、即答はできない。ばかりでなく、容易に定義することもでき ない。だが、吾らの意識には﹁自然﹂といふ漠然ではあるが切資なる内容をもつ存在が直観されてゐる。そは感 覚の中に入り釆るあらゆる現象の綜合的把撞に外ならぬ。同株に、吾らの経験に上る事柄の中、あらゆる虞、善、 美、塑なるものゝ綜合的直覚として、紳なる概念的把握がありうる。宇宙の善美なるH牛零そは宇宙の大部分 む占めるものであるかも知れないが、その菩莫なる方面む綜合して、紳といふ直覚む以て取扱・⋮。かくて紳は喜 Jクβ

(10)

らの崇敬を喚起するに十分なる宇宙的善美の綜合的象警■して、定験的に寵空∴言い÷=こなる。そは翠な る理想ではなく、箕在である。けれど、字塙の善夫なる右面を紳と見る⋮1は、人間の主観に基づく腐多く、

妄執念的構成のやうに見える恐れがある。故に、第二の見方が恐らくより良い紳観であるであらう。

第二の見方といふのは、紳はさうした宇宙の妄面ではなく、宇宙の娘抵に標咽たる創造的生命力の全部であ

って、そは常に吾らの経験に上り乗る善美を創造すべく働いてゐる活きた力であるといふ。そはその創造過程に

ぉいて、恵む避け難い。態とは積極的に善美の創造む妨げる力として外から働きかけるものではなく、宇宙に働

いてゐる誇力の不調和から生するもので、善美の創造を困難ならしめる場合、これむ感と見る。さればそは宇宙

の創造的生命力の中に含まれたものであるかも知れないから、紳は鼎善とは云ひ難いが、さうした悪は刻々に克

服されてゆく傾向た示すものとして見れば、字鴇のこの大生命力は喜らの信塵に値ひする。さうした創造的大生

命力に辟依し信頼し、尊崇渇仰の誠を捧げて奉仕することが釦ち景教であり、紳とはさうし充崇敬奉仕の封象で

あるといふことになる。

かやうに、紳は宇宙に内任する創造的な大生命力と見る場合、それが素懐即ち人格的賓在であるや否やといふ

問題が起る。

悌教は本番重油論だとい、宗、その無紳と漂隼崇渇仰の封殺がJ一兄いとい、違昧ではなく、それが非人格的な法 又は虞如であるといふに外ならぬ。もしそれ崇拝渇仰の封象こへ㌔︰、たゞ〓Jあ摘採而悼む求めるといふ自覚 抑・宇硝・入関 九 Jクリ

(11)

ダγマ

教であるならば、そは精細修贅の一種ではあるが、宗教ではない。いやしくも法む崇敬の封象とする限り、必し 00 ■■

も無細論とはい′へない。だが、法とは宇宙の曲げ難い法則で、法則は練起して適用されるものであるから、生命

γインマリりと ではない。生命とは繰返しのない、一同的な、たえす成長蟄展しめくことむその特色七する常在のいひであるか

ら、﹁鴨法輪﹂といふやうに、縫えす狙ってはゐても、繰返しの運動である限り、そは結局、生命であることは

ケアてカヤ できない。けれど、大乗俳敦では、法む法身と見て、生命を認めたやうで・あるが、それが故に鮎封的箕在.であつ

て、もはや成長する敵地のないほど完成された完全髄であるならば、そはやはり生命とにいへない。

他面、クリスト敦において、人間のやうな意識の中枢むもち、或る藍的な身撃一札もち、或は自然む手先として

使用するやうな人格神の存在は、否定されねばならぬであらう。まして天の父として、全く擬人的に考へられた

人格紳は、言象徴的表現としては不都合でないが、箕在の虞相としては尚更承認し難いであらう。たが、人間

を一個の生命力、そは絶えず生長聾展しゆく生命として、人格的な存在、即ち一個の自我であると直撃してゐる

暮らは、吾らの生命の娘接である宇宙の大生命力を、そは絶えず創造的に幸美を以て醜悪む克服しゆくと直観さ

れるその生命力む、宇宙蚕又は宇宙紳、或は宇宙的大我として、之む人格的なものと見るべきではあるまいか。

そ藍早なる生命と見るよりは、その聴明なる秩序や調和や善美の生産において、人格的と見て差支へないではあ

るまいか。人間の不完全な、そしていつも誓喩的表現である言葉を以てしては、宇宙善美の創造力を単に大生命

と見るよりは、大我、大人格と見ることの方が、その内容をご骨明確に如寵に彷彿たらしめるものではないか。

人間の人格性は極めて粗雑なもので、身鰐の盛衰によりて左右され易く、肉程の死によりてその人格的な蚤的

紳・宇宙・人間

(12)

作用の本摘む危くすると凝はしめるほど貧窮なものであるが、自己活動的な宇宙の大生命はその限りなき創造の

過程においてーきすく倫理性、人格性を蟄輝しゆくものではあるまいか。人間の人格性は薄弱なもので、白我

の統嘉は暗闇に左右される虞が多い。遠い過去の経験を記憶に保存して自我の統一性を保つには飴りにも射い。

叉自己の意志とその外的表現である行為の結果とを結びつけて責任の主髄となるといふ鮎、即ち物心二界の統一

む緊密化することも、人格性の特色であるが、個人においては甚だ弱い。然るに詩人シラアのいつたやうに、人

ゴテスゲりヒト 華㌘言kい過程に直撃じれる紳の審判ともいふべきものは、人間的自我の統一力以上に宇宙的な精細力の現は jtとして、その人格性む認めうべきではあるまいか。故に、吾らは宇宙的生命力を少くとも人格的な色彩をもつ 言準である・X我、大憲といふ名にて呼ぶことが安首であると信する。紳とは即ちその内にかなりの不調和む包容

するが、しかも大牒において、宇宙の大生命として、創造的に限りなく善美む生産し、醜悪む克服しゆく宇宙線

査の魂、人格的な富力又は大我のことである。

以上、大醍において紀封紳の存在む否定し、之に代りて創造的進化の世界における創造的な紳の生命性と人格

性む規定しえたと信ずるが、次に紳の展性として徒死重要祀され空三の鮎に論及せねばならぬ。マックタガア

ト︵享≒吉璽已︰警弓U=誓孟こfぎーi号=︶がいつたヤうに、人間が紳として尊信しうる伺他のある賓在は、 ノ1一1∴けー二蕃−二、カと二わ三1〃鮎において俊越せ・ん簡在であらればチ︵一ぬ。しかしそれ何れにおいても、 1i・ ・ パ11 Jり/

(13)

紳・半価・入関

一こ

るまいけれど、宇宙的に大能であるに相違ない.紳がいかに大草.去り大竹王あつてノ。、無力の蟹在であつた∴ らば、宇宙む創造的に紅螢することの不可能なる比いふまでもない。怒の折紙たうけて.それと戟ほねばならぬ 宇宙の大生命は、全能︵On︼ヨip号呈ではありえないが、大能であるに柵違ない。

又整然たる秩序む創造し、蛋妙なる世界の諸現象む清規せる宇宙的大生命が、智において優れたることも疑ふ

の飴地はない。しかしそは倦統的紳故における如く仝智︵。⋮妄告害っ︶ではなく、大智といふべきであらう。仝

智といふことは徒死においては、宇宙の既成事のみでなく、未爽永遠の可能事吏でも知悉すると見舞ったが、も

し紳が時間を超越して、牌釆の出奔事をも辣知してゐるといふことになれぼ、創造的進化はありえすして、宇宙

は一個の完成組織となる。完成組織である宇宙においてのみ、脾釆の事件を精確に辣見することができる。後見

といふことは、脾爽必然に一々の事件の畢生が漁定されてゐる場合の外、不可能であるからだ。紳畢者は、預定

︵琶邑邑in註暑︶と隷見︵lき邑0−1毒︶とは別物だと耕解する。けれど宇宙の事物に宿命的な預定がなく、事々

物々、創造的に反復不可能な一同的現象として進化しゆくものであるならば、大鰐の預想は可能であつても、精

確に隷見することはできない。隷見されない新奇なものが族出すればこそ、創造的進化の世界といへるのである

から、現代料率を基礎として紳観を描く吾らの立場からは、紳の仝智を認めることはできない。紳は人間の如く

短見でなく、速い過去を顧み、速い清爽を考慮して、その創造活動の計董を立て、又着々と箕行されるであらう

けれど、それが療理的に、永遠に確定したものと見ることはできない。同園の事情に應じて、絶えすその意固む

修正しながら進みゆく璽饅であつてこそ、活きた茸在でありうるのだ。

イりJ

(14)

次に、紳が菩であるといふ鮎についても、従来のやうに常幸鋸ち完壷善て■いるとい、デ主は別経ではないか。 書にあらざれば紳にあらすとは常人の等しく認める一喝、たが、進化的な∵将においては、“や刊のl小調和から釆り︺ 悪は避け難く、又積極的に善の蟄展む妨げる悪の力なしとしない。この憑こ担って戟ゝふ醇菜J一uくして、紳の伶理 性整式々することはできない。而して打勝つべき悪の抵抗をうけてゐる以上、紳は力においてわみでなく、善に おいても範封であることはできない。事箕、範封ならざるが故に、紳にも創意的な進化がありうるのだ。 人間の倫理的熱情はそこに絶封書を措定し、之を理想として之に慣れ、絶封書の賓現に努力することこそ、生 きがひある所以たと息はせるであらう。けれど範封書が既に両において寛現されてゐると仮定すれば、人生は畢 竜無意味無債値となる。なぜなれば、範封的完全善が眈存のものとすれば、人生はロハそれを萎見して享賀し鑑賞 しうるだけだ。鑑賞や草葉は滑極的消費の部類に屈し、積極的な人生傾他の創造ではありえない。之に反して、 紳は大書ではあるが、範封書ではなく、自ら宇宙の創造的進化の過程整過して、絶えず進化し給ふ紳であつてこ そ、紳は活きた力であり、大生命でありうるやうに、人間も微力ながら紳の滅慈創善の事業に参加して、何らか 如賃に貢献することができる。人間が紳と協力して紳の事業に卿かにて、皇只はLうる場合にのみ、人生の傾偵・・。 蟄輝され、意味も蟄生するのではないか。 なほ紳の展性について残されたる問題は、紳は潤一であるか、省一∵ぁるかとい、ふことである。十七八世紀の頃、 物の本質は之を微細に分析して知るといふ科畢的傾向の時代において∵フィプニッツは事物の本源む個々璽止の モナッドに分砕したのであるが、現代の傾向・はむ1し∴は割に∵t小物ご紐持冊に直執するこ七たH∴ヰとする。され 紳・字併・人間 ・Jリ.;

(15)

一四

紳・宇宙・人間

ぼ、宇宙における着実の創造力を多数又は無数の力の集合と見るよりは、大観的に金程的に把撞して、一個の大

生命力と見ることが適切ではあるまいか。字笛の大重なる生命力は諸々の機能む有し、その機能に従って別個の

箕在と感得されるかも知れない。だが、人間の如き倭小な有限的存在にした虞で、その諸機能は多方面に亘るの

であるが、よく一個の人格性の中に統一されてゐる。この事軍から見れば、宇宙の根本箕在なる紳は無限に多方

面の括躍において、それ自身を啓示されるのであるが、しかしそれは多数の赫々の活動と見るべきではあるきい。

宇宙の遅行に大牒秩序整然たる大調和の存する廃む以て見れぼ、その道螢に従事し給ふ紳は、一個の人格性に統

一されたる礪一の霞だといふ直観が正しくはあるまいか。人間の宗教的節操からも、礪一の赫に集中する傾向む

無成することはできない。

次に残された問題は、宇宙が創造的に進化しゆく無始無絡の自存経である場合、宇宙要は最初から大智大能大

書の婁橙でありうるかといふ靡間だ。紳が創造的進化の原動力と直観される限り、紳自身が生長の紳で、範えず

進化しゆく箕在であらねぼならぬ。宇宙は電子だの量子だのといふ殆んど同性的な単純な物的存在から次第に進

化蟄展し葬れ少とするならば、その進化の原動力たる紳が最初から、ベルグリンのいふやうな、意識髄であると

も考へ難い。最初はむしろぼらくの統一なき物的存在であつたものが、次第に結合し統一化して一個の生命■む

威し、意識を蟄生し、時基を超越して自我の統一力を清規し、物質にも超越して精紳醍となりたること、あたか

も人類の如く、徐々たる進化の過程を辿り葬れるものではある奮いか。人間はなほ身鰐なる物質の中に活き、物

質に遮られて、純粋なる精細醍とは成りえてゐないが、宇宙蚤も同様、フェヒナアのいふ如く、宇宙空耳はゞ一

英日

(16)

種の身饅として作用する婁的存在と見ることもできるであらう。しかしそは飴りに粗宋なる類比であるかも知れ

ない。けれど紳とても進化の途上にある生命である以上、全く物的基礎む離れた存在だと考へることは困難だ。

宇宙の浪板にある創造的生命力として、紳自身がますく物質の束縛を睨tて、精赫的自由を獲得し、物の世界 を一骨自在た支配する力となり給ひつ1あると考ふべきではないか。ますく善美や聖愛や秩序や調和を創り出 Lてゆく宇宙の大璽は、物から起って物を支配し、精神の世界を築いては、更に偉大なる婁の世界を創造しゆく

進化成長の紳と見るべきではあるまいか。

要するに、紳は宇宙の創始者ではなく、宇宙に内在する創造的な大生命力のことであつて、そは人格的、精紳

的な大生命、即ち大我大震とも辞すべきものであるから、ショウベンハワァの宇宙意志の如く、盲目的な創造力

ではなく、農事美里の創造力として、力においても、智に患いても、更に善においても、軽封ではないが、偉大

なる活きた箕在として、進化的に限りなく生長聾展する紳であると見ることは、現代科峯の根接に立ちて、耶か

も非難すべき鮎はないと信する。さうした紳の貿在む詮明する﹁論琴︼なるものは、もはや必要でない。そはス

ピノツァが宇宙即ち紳と見たり、又はへエゲル派の人々が紳は宇宙の有機的組織のことだといふ場合と同様に、

宇宙善美の創造力を専ら人間が尊辞して紳と見るのだとすれば、結局、それは或る賛在に封する符徴づけ、即ち

名辞のことであつて、電磁気的梯能をなす或る箕在の単位む吾らが人岬勘楷﹁墜ご用ひて、電のチ餌ち電子と呼ぶ

のと大差なく、その存在の澄明は人生経験に振返って参照するより外ほない。

紳・宇宙・人間 405

(17)

一大 紳・字音・人間 以上、紳と宇宙との関係について論じたのであるが、宇宙のことを諭するには勢ひ、それに含まれたる人間の ことに参周せざるむえなかつたので、紳と人間との関係を併せ論じた鮎も少くなかった。けれど、今故に更めて 紳と人との関係を諭する。 既に述べたやうに、宇宙が、或は宇宙蚕が絶封完全の賛在であつたならば、人間放その完全なる世界に何ら領 極的な任務をもたす、叉何も貢献する飴地がない。宇宙に貢献する虚なくして、人生の傭値は蟄生せず、従って 人生の意味も生じない。されば、宇宙が創造的進化の過程にあつて、宇宙璽は縫えす創造活動にいそしみ、あら ゆる混乱や不調和や醜悪や罪障に適って戦ひ、善美と調和と秩序と愛を走り出してゆくといふ道徳的事業をもつ 場合にのみ、之に参興して暮らは人生債値を蟄輝することができる。既に完全なる世界に吾ら何物を加へうるの であるか。完全な賃在の支配する世界に、人間は蛇足だ、無用の長物だ。 之に反して、宇宙の大蚕が限りなき進化の過程を通して、善美里愛の世界を建設しゆくものと想像される限り において、人間はその建設事業に参加することができる。そして宇宙蚕と協力して、その理想とする世界の箕現 のために、たとひそは無窮小の一砕片たるほど些少なものであつても、如寛に貢戯することができる。前述した 吾らの見地からは.宇宙璽とて或は今備その物的成分に妨げられて、思ふやうに奮闘努力し給ふことは不可能で あるかも知れない.﹀又さうした未完成なる進化的宇宙においては、牌釆は未知数不確箕で、油断すると悪の力に 打負けて退歩することになるかも知れない。折角築き上げた現宇宙も、悪の勢力に侵されて破滅に陥る可能がな いとも取らぬ。されば、宇宙璽が滅悪創善の道徳的事業をもち給ふことは、人生む意味づける所以であり、人間 4∂β

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もこの事業に参加して、一瞥の努力を捧げ、加賀に貢献しうる範囲内において、人生の億値を生む。億値とは致 用性のことだ。宇宙的生命の向上、その理想とする世界の建設に役立つ限りに患いてこそ、人生の数用があるの だ。尤も、人間が宇宙整に鼓す魔の貢献は極めて僅少であらう。恰も母が庭掃きをしてゐる時、三蔵の兄童も 亦算木を手にして母の虞似をする。彼が母の庭掃きに貢厳しうる虞は極掛て少く、時には邪魔物となるにすぎな いかも知れない。けれど彼が母と協力して幾分にても、庭の隅の一角にても掃き清めえたとすれば、それは虞寛 の貢献であるのた。もし之に反して、此の子が手俸しなくても、母は全部その庭を清掃しうる全能をもつてゐる とすれぽ、その兄の努力は所詮無意昧だ、蛇足た。故に、創造的進化の宇宙において、藤と人間とはその能力に おいて雲泥の差あ少とはいへ、人間は赫の共働者として、如箕に宇宙の建設事業に参加しうる斯、そこに人生の 意義を見出せるのである。 宇宙蜃が悪に遭って戟ふ場合、その武器は何かといふに、徒死詩人の想像してゐたやうな拉火や雷靂を駆使す るのではない。ミルトンの﹁失楽園﹂においても、紳はサタンの軍勢と敬ふに、さうした武器を用ひてゐる。だ が、寄らの紳観において、宇宙蚕は善美聖愛の創造紳なるが故に、悪と闘ひ恵む刺するに決して悪の武器を用ひ ない。紳は悪を刺するには善む以てし、戟む除くに美を以てし、汚を洗ふに聖を以てし、罪を滅すに愛を以てす る箕在であらねばならぬ。されば、喜ら人間も紳の事業に参加し、紳と共働せんとするものは、同様に善美を以 て醜悪む刺する努力を怠ってはならぬ。菩笑む創出すものはたゞ華美あるのみ。黒の手段む以てするは結局悪に 輿みするものた。なぜなれば、善を創るためにとて悪の手段が有数だとするならば、そは即ち悪の効用性を認め 耐・宇宙・人間 イ07

(19)

、 紳が﹁冒にて日む、簡にて歯む防止一也といつたやうに、ひとり正襲の観念に依摸して、善には善を、悪には 恵む報いて、恵む滅さうとされるのであつたならば、宗教の中心要素の叫である罪の頃ひとか、救とか、恩寵と かい、ヤものはありえない。けれど、背から宗教的伶人は多く救とか恩寵とかいふものを饅験し凍った。戴に、前 述した紳の滅悪の武器は安常する。 紳がもし人間の罪に封して、その正義の要求に従って貯潮せんとするならば、滅亡を以てするより外はない。 イ.′事コナル オットウ ︵声21、r二︼︶=7日つi言っ︶がいふやうに、宗教には道徳と異り、不合理な要素がある。そは愛た。紳は 人間の無愛即ち罪の行為、人に封する不徳、紳に封する不忠頻逆の行為に勤して、意む以て報いることはない。 紳が人間を訓練される方法は決して苛責や徴罰ではない。いかなる大罪人に封しても、紳は之む用ひない。尤も、 罪む行った人間白身がその罪のゆゑに自ら悩み苦しむことはある。それは宮腰だ。彼の良心が鋭いものであれぼ あるだけ、自責の悩みに堪へ難いものがあるであらう。彼はむしろ自らの罪のため悩みぬいて、紳の苛充せうけ、 身も心も焼塞してしまふことを希ふほど鏡敏な良心の持主であるかも知れない。けれど、紳は人間に封して恵む 報いる箕在ではない。悪に報いるに善と以てし罪む滅すに愛む以てする、こル紳の救の唯一の方法であつて、昔 から宗教的偉人が簡の恩寵として、感泣の湊む以て、感激の記録む頚してゐる所以た。魔で、人間の宗教生活に おいても紳に慣ひて、自己に封し社食に封する他人のあらゆる罪に封して、ひとり正義の観念に俵撰して、悪を 以て恵に報いることなく、イエスが﹁窓に赦する勿れ、汝の蝕む愛ぜよ.悪いひ、パウロが、≡草を以て態に報い 紳・宇緒・人間 るものであつて、憑の数用む認める限り、悪な決して、漱びないからだ。 一入 イリβ

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よ†﹄といひ、又は法旬檻に﹃怨は怨を以て息むべからす、たゞ忍のみ能く怨を息む。これ如奔の法と名づく−虐と いひ、バアガバット、ギク︵印度敦︶には﹃人が一杯の水を輿へたるに一杯の水を酬いたりとて、人より何の優

れたることかこれあらん、悪に報ゆる豊富以てせよ﹄といふ如く、宗教生活の本領は紳と倶なる生括、即ち紳

に慣ひて、悪に報いるに華で以てする恩寵の生活む営むことである。

由布、宗教と道徳とはその起原を異にし、宗教は利己的な動機から起ったものであるけれど、今や宗教の内容

はますく倫理化され、ルワジイ︵A・冒苧ど邑i号n・︸︸・芸︶がいふやうに、これら二つのものは次第に同

一化する傾向を示してゐる。けれど、道徳は主として正義観に立ち、宗教は愛の範念に基礎づけられた救と恩寵

の生活において、超倫理的な或る物むもつ。そ時宗敦の特色とする廃であつて、それは悪に報いるに善む以てす

るといふ宇宙璽の根本特質を反映するものと見るにあらざれば、救や恩寵は意味む成さないと信する。

以上、簡単ながら、︵こ紳と人間との共働とそれより来る人生債値を論じ、︵二︶罪の救と恩寵の生活む詮 いた。︵三︶第三は第二の如く消極的方面でなく、むしろ積極的に、その紳の世界に人間はどれだけ伸び′\と

活動することができるか、即ちどれたけ自由むもらてゐるかとい、議題である。昔の紳畢は、人間に紳が或る程

度の自由む輿へたといひ釆つ㌔けれど、輿へられた自由は虞の自由ではないぐそは自由の反封なる宿命だ。虞

の白由は人間の別法に成るもの、人間はとれたけ自由の天地む開拓して、字塙に貢献しうるか、吏た何を直の自

由といふか、それむ問題とするのである。 紳・字琉・人間 J′ノ丁ノ

(21)

紳・宇宙・人間 二〇 古来、自由観に教程あり、第二は本性的自由観。人偏の本性は田臭律、自然法又は造物主によつて最初から決 定されてぁるのであるから、悪人はその悪性に、善人はその善性に従って行動する。それが魔の自由で、本性に 反する行為は凡て不自由ねといふ。この見方における自由は宿命と同意語で、打什難い本性に樅ふのは自由では ないから、スピノツァのやうに宇宙の絶封完全む信するものは、彼と共に正直に、人間には何らの自由なしと確 認した方がよい。 第二はへエゲル洗の自己軍規的肖由観である。此詮で・控、吾らの行動た本性によつてではなく、品性人格によ って決定される。品性人格は過去の自由避搾的な意志行番の習慣化であつて、そは理想目的によつて統一されて ゐる。人間の行動はその理想冒的によつて決定される。記憶し想像しうる人間は過去経験の追憶や賂死の可能の 珠想によつて決意に影響される。従って彼の選持は目的的である。然らば、いかなる行馬が自由であるかといふ に、人間は道徳の成立要素として自由意志むもち、善悪何れでも選揺できる。この選権力を行使して善を選び、 悪を避け、理性︵法則︶に従って行動すれば、虞の自己を箕現しうる。法則に背いて悪を選べぼ結局破滅に陥る から、不法な行烏は自由ではない。理性や自然法や正幸に従った生活、それが自由た。宇宙の大法を認めて、進 んでこれに従ふ、そこに魔の自由があるのだと。これ一種の道徳的自由観であるが、しかし比論に従へぼ法則 ︵虞理、正章︶と自由とは異名同事で、悪を選ぶは自由にぁらすとい\ごJとになる。心理的に人間は善む選ぶと同 様な気契さむ以て悪む選ぶことがある。そは自己決定の力の然らしめる虞、悪か逸んで、よし破滅を招くことあ ゎとも、その選揮行寮は、善の場合と同様に、自由苧といはねばならぬではないか。 4/け

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故に寄らは之を取らす、第三の自己指導的自由敬に左裡する ︵写J害毒已こ蔓葱、せ∋毒ユ。此詮によれば、

自由の要素に道徳的標準を用ひす、人間各自の意志に新奇な創造的要素があつて、善悪何れた間はす、選揮の自

由をもつと見る。いふまでもなく、人間は自然法や因果律の制限をうけ、邁停や本能や性辞や教委や境遇の制縛

をうけて、自由選韓の範囲は頗る局限されてゐる。たが、その限界内において、彼の意志は範封に自由である。

例へぼ、吾らの職業的可能性について見るに、﹂人の男が商人にもなれす、技術師にもなれず、彼の可能は只詩

人たるか俳優たるかに限られてゐると仮定せよ。彼が詩人となるも俳優となるも、そは全く彼の自由であつて、

他の何者もそれむ決定することはできない。故に心理的な自由がある。彼はその限られた範園内において範封の

自由をもち、詩人たらんか俳優たらんか、その何れかに決定することによつて、彼の賂奔は頗る興った方向に走

る。そは自由選揮の結果に外ならぬ。彼が今この二つの撒菜の何れかむ避はんとする場合、甲か乙かと碍躇遭巡、

熟慮を要するのであるが、その決定にはマクヅウガル ︵と昌Cu誓〓︶がいふやうに全人格、特に自尊心の働きが

加はるのであつて、自尊心といふのはその自我意識に外ならぬ。比の場合、自我の人格や品性、そは過去の自由

意志行動が蓄積して習慣此されたものに外ならぬ魔の品性、に適はしい動機が膠を占める。だが品性とて固定し

たものではなく、詩人たらんか俳優牢らんか、甲乙二つの動機が伯仲する時、いつも高次の動機に従はうとする

努力忙よつて、習憎や品性は﹁俳傾﹂に傾いてわても、俄然、彼は有意的努力によつて﹁詩人﹂を選ぶといふが

如く、偶然に新奇な要素の働くニーともある。過去の凶果聞係−霊地〓し、〓我の偶然的要素が働く庖、そこに一骨

明かに自由選持の事箕が琴きとめられる。

紳・宇宙・人間 4JJ

(23)

かうした選痩の自由はデュウイーのいふ如く、寄らが購死の可能豊掌る力蒜すに従つて構大する。人間⋮ は基手で基を飛ぶ自由むもたぬ。けれど飛行機む黎明して航基することができる。軍師窒あ技術揖熟練によつ て、患者に封し起死回生の自由むもつ。大工は豪こ建つることも、壊はすこともできる、それだけ紋は建築につ いての自由をもつ。自由とは即ち搭乗可能なる事件を支配する力だっ例へば、私が明日友と富士登山の約束むし てゐる。今晩、﹃明日は艶風だ﹄といふ気象特報がでる。私は新風む止める力はもたぬが、あの登山を中止して、 その時間を他に樽用することができる。それだけ明日の事件の可能む支配しうる。それだけ私は自由をもつのだ。 かうした心理的自由は事件の可能を支配する力と共に増大するが、更に倫理的に見て、自由性責任感の檜加と 共に瑛大する。倫理的自由はカントのいふ如く先天的なものではなく、生活経験によつて蟄生し聾廃する。そし て宇宙が創造的に進化しっゝありといふ前提の下にのみ、魔の道徳的自由は成立つ。見よ、一切の現象が一定不 襲の因果律に支配され、一個の完成組織中に統一されたものであつたならば、吾ら人間に虞の自由はない。彼の 行薦は絶てそれ過去一切の宇宙的原因に詮儀なくされてゐるのだ。例へば、私が物む盗む。その盗取行為の演任 は詰れに? 私に辟しはしない。そは宿命だ。邁停性に基づくのだ。或は親が悪いのだ。境遇が、教育が、いや、 私有制産をもつ敢曾が悪いのだ。私有制度がなければ盗取なるものはありえない。かやうに、私の席盗行希に封 して、非人格的又は非我的な原因を求めて、それに責任を棒線するならば、私は盗罪の責任むのがれることがで きる。代りに、乙、の瑞盗行焉は私の自由意志に基づくものではないことになる。善行の場合も同様た。 由舜、人格視含む分析すれぼ、第一は自我意識、第二は自由意志、第三は第二の嘗然なる辟結として、自己の 紳・宇宙・人間

(24)

自由行為に封する寅任感が必要だ。責任感の深璃に肖由意志の範園を二不す。苦らが行焉の堺田む、従ってその責

任を、一々邁俸や、境遇や、本能や、教茸や、自然や、因縁といつたやうな非人格的要素に握せよ。そこに書ら

の人格は滑滅する。之に反して、我はわが行焉の創始者であり、吾が個々の行焉は宇宙の進化に、破壊か建設か、

改悪か改善か、何れか箕質的に貢献するものと考へる場合、そこに寄らの自己活動的な人格があるのだ。故に、

わが人格は自由の範囲と共に凍大し、自由の範囲は更に責任の範囲と同凍だ。

行為は一種の波動である。そは永遠に宇宙進化の過程に停はる。この波動の永遠性を認めて、永遠に自己の行

馬に封する責任を感する人は、それだけ永遠に自由なる人だ。小人は少し隔った自分の行焉の結果に封して、責

任を負はうとしない。大人物は自己む源頭として永遠に纏凍する我が行為の影響に封して、無限の羞任を感ずる。

杜合が汚れてゐる、廓清せねばならぬ、それは我が寅任だ。人心が腐敗してゐる、魂の改造む達成せねばならぬ、

それも我が責任だ、といつたやうに、諸々の責任を自覚して、その理想の茸現に努力する魔、そこに虞の自由が

ある。偉大なる人格は宇宙永遠の進化向上む己が責任として行動する。そこに紳的自由があるのだ。

前述第一の自由親においてのやうに、宇宙が完成組織であり、又は宇宙蚕が範封完全であつたならば、宇宙的

秩序を維持する合理的原理は即ち紳意の表現であるから、吾ら人間は神意に基づく宇宙過程の偵協であつて、さ

うした宇宙には吾らの自由選捧や創意を働かす飴地は更にない。

第二の自己貴硯的自由軌において、宇宙は交響楽のやうな有機的組織であるから、一の欒音だにその虚をえな

耕・亨甘・入関 J/.ブ

(25)

紳・宇樟・入関 二四 いで、拇場㍗完うしないこー′−は、令潤の小尤ぁた桔梗↓や、㌫で■わる。捜に下らに、“正数的にいへば、音詩的に宮 ∴ らの意志を紳の意志に山致上﹂せ、紳に駆捉する斯に苦らり〓出か・一・㌣王∵之にド∵て、普らが紳に背いて悪た行へ ば、恵は喜らの苦難む生み、吾ら㍗菓の総にする。匡の自由言ねに封すり引率什の・Hに・於る。要するに、紳の意志 を知りて自蟄的に紳の目的に従ふ者は自由であり、黙らごろ許k・H山でないといふのである。進化の紳む信する ライトつノーユ告ご芋乙三1t.ニ︸三l妄乞一叫こ〓≡告ニ︸:J﹂二三︶は、目的論的肖由む唱へる虞、此踵の自由翫に屈 してゐるが、披はいふ、紳の目的暗視白身の心において未た十分に精練土﹂れたものとはいへない。そは徐々に一 骨よく組織立てられ、完成されるに神童ない。久離㍑他の普仙軌⋮的驚在の完杢なる共働や、⋮心不軌の誠忠たうる ことに未だ成功してはゎない。けれど人間が道徳的及び誌数的洞娯︶.′蒜描めるに従って、彼らの意志丘奏すノ1紳 の訂克と叫致するやうになり、紳は草々の革働ごえて彼の大目的む逗板ナ畠。暮らは人間意志む紬の意志と一致 させ、輿へられた使命と接合とに忠暦なえことによつて、道徳的白山む猥得すると。 だが、第三の自己指導的自由凱においては、紳と目的た臥うするこ一三化けむ庭の自由とは見ない。吾らは善に 遭って悪む韓ぶ眞の自由−需もつ。吾らは事の正邪善恋に拘らーず、肖己の革躍進托した行焉に勤して巨封任を負ふ程 度において、虞の自由むもつか故に..かうした自由はしば′1帥に背き、途に紬む持て・∴減びに赴くことた喜ぶ に至るかも知れぬ。第二の自由取む主張する人士は、いかに邪道に踏み迷へ、る人も、結局、紳の下し給ふ普遍的 な救の恩顧︵−買えを≡っ苧1毒︶ に若かれて、悉く赦に琴かるもハ∵二見る。汁れど、さうした他力的の救は人間 の個性む没却するものではあるまいか。入関の努力がトトに小い㌔いであつても、lヨ己の自由意志に基づいて善 4/イ

(26)

美の紳む求めてこそ、紳の援助は降下すやものでは■摺るまい・か。之に托して、巧り好んで悠に寧ご、叉㍑自加ゎ 生活に絶望して滅亡む希ふ自殺者までも、紳は之を救ひ給、ごじあ√?フか。紳が衆生シ・ニ臍痩せん≧する恩翫の光は 遍照して、何人の上にも空かに注がれる。だが、それむ受けると否とは、個々人の自由では・乃る卓こか。 宇宙蛋も人間も各礪自の理想目的を別通して、北.界に活躍してわる。紳は宇宙的な青葉の大富として、善美わ 世界を創造することに日夜努力し給ふ。人潤もその理想目的こ高めて﹁紳士偶に憧れ、紳と共に働く境地に参ぜ んとするのは、普通、人間の人格的努力であるが、そは紳に背■き去ることが人川わ自由と彗∴ことになるからで はない。背くも従ふも、人間の自由た。たゞ紳と共に働く詔ほ⋮粁宏大・へ几る生命た警揖し、さうでJ.住い者は〓へ人 間としての低劣な生活で満足せねぼならぬだけのことだ。人聞は滅びに薫る自由lギもち一ながら、⋮粁大なる生命 に憧れて紳に至り、紳と偵に歩・々ますく偉大なる善美聖愛の壮絶㍗ム建設中一んと努力する。そ㍑H己の自山王璽 ● J′ヽ −1■.′ てて紳の奴隷︵三賓の奴、紳の僕︶となることではない。互??㍍いつ了♪州ハ藁て去りうる百中.′l牛ナ一㍑いので あるから、たとひ紳との共働活動において、全く紳の奉仕に辺川して、ハても、そ鱒奴隷壷圧で︰⋮止なく、白山奉仕 なのだ。 紳の宇宙活動における理想目的は、山舞岡定的なものではなく、㍑に進化的に向上Lふ∵\のー†のつて、人聞か ら凍る刺戟や買倣によつて、それが影響こうけるものたる、、∵†∴、進化的J一住人糊の毘仰心〓的が帥かいりの影響によ りて、常に一骨聖北澤化されてゆくのと同様であらう。 予∵.㌧ノ∴ナ招∵∴調一項梵−・†回∵し︰遮みゆノ\もの 草bは宇宙が多元であるか一元であるかむ知云こと一㍍でき 紳・手痛・人間 〃/、フ

(27)

二大

紳・宇宙・人間

と想像して、掃一的理想む主張する魔の目的論に加持する必要もあるまい。むしろ宇宙の複雑化は統一化的傾向

と共にますく増進すると見てよい。宇宙は無数の侭的箕在の集合から成立ってゐる。これらの佃的寛在は互に

滅済錯綜し、互に重力や熱や、電気や磁気や、人格的感化や、愛や怜やの関係によつて、互に影響し合ってゐる。

そして人間は多くの複雑な知友関係鱒立ち、又多くの事柄が共同目的に向って働いてゐることむ知る。たが、人

間の相互理解は不完全なもので、皆が皆を知り壷すことはできない。従ってそこにしぼ∼1意志目的の艶齢があ

り、利害関係の衝突が起る。世界過程の統一は極めて不完全だ。故に、吾ら人間の自由は、それを現在よりは一

暦組織立てられた、一骨調和的なものにするために、大に働く機含を見出す。かくて宇宙の大調和む活現せんと

する耐の大事業に共働する機合は暮らの眼前に展開されてゐる。けれど、吾らがその横合を掴み、安住を負うて

立つと立たないとは、吾らの自由だ。

人間はその猫創力を聾韓して、濁自の理想目的を創造し、それがしば︿紳の理想目的と一致しないこともめ

らう。だが、一鼓しないからとて、紳は之を強制して神意に服従せしめられることはないであらう。強制ほ自由

の束縛を意味するからだ。けれど、人間が自分の礪創に成る小さな理想目的と、紳の宏大無連なる宇宙的大理想

とむ比戟して、その劣れるを棄て、優れるをとらんと努力する場合、神明の加護が豊かであるべきは疑はれない。

人間が紳的理想を行為に清規せんと努力する場合は、佃更さうた。しかしそは決して人間の自由む拘束するもの

ではない。人間はいつでも紳的理想を捌ちうるからた。

紳の宇宙における善美聖愛の創造事業は、書んで之に参加する人間の礪白性によつて、いかに些少で・も、展覧

〃7∂

(28)

に貢敷を受けるであらう。人間はこの大事業に貢献することによつて、彼の品性人格を崇高化し聖化しゆく。紳

は人間の共働がなけれぼ、悪に遭って闘ふ彼の哉に華々しい勝利をうることはできないかも知れぬ。吾らは善美

の前の勇敢なる陶土だ。けれど暮らが善美のためにする聖戦は、権力や暴力や、その他、悪の手段を以てする戟

ではなく、総てそれ善美の力、聖愛のカを以てするものなることは、既に述べた。吾ら人間は紳に封し衆生に封

する自由奉仕にぉいてこそ、紳からの壊助激励をえて、更に勇敢に善哉することができる。そは恰も個人が孤猫

に活動するよ歩も、他の個人と杜含的に共働することによつて、彼自身の能力を一骨有数に働かせうるやうなも

ので、静からの共働的援助は決して人間の自由を妨けるものではなく、却って之を増進するであらう。︵完︶ 紳・宇宙・人間 477

(29)

極めて単純なる考察に於て、楔祓が悠久の古代から自然に行はれ葬った潔薄行尊であつたことは明かである。

そして文化が次第に複雑性を骨加するに至って、其の作迭の日本的定型化が行はれ、又、一種躊詞様のものが伴

生したのであらう事も衆のない所である。斯かる作渡文は藤詞の類に及ぼさるゝ時代的欒化・は殆ど牽生しないか

と思惟せられるまでに甚だ痕跡的僅微であることを原則とするが、而も其の長き停承過程に於て、意萬場又は無

意識的に暗が輿へる襲此は、それ等の表皮相から湊透を進めて、遮に内質に空で影響を生ぜしめてゐることは、

事実が澄明する。悌教の渡釆は、日本風想兜乃至文化史的事賓として革者の相嘗重硯する所であるが、其の浸潤

教具は意外に達彦であつて、それが疎祓その他、紳関係の思想内質に及ぼした影響は割合に後世的であり、且つ

稀少でもある。一般に日本人の信仰事象に於て、此戟的早斯に濃度望向い浸染を効果したのは寧ろ陰陽道であつ

潅。此の意味に於て陰陽道の渡釆は文化史研究上軽硯されてはならぬ専である。

庚級内質の時代的葬化と大祓詞

楔祓内質の時代的欒化と大祓詞

駒 造

溝 [l

JJβ

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撃としてQ陰陽道が公式に輸入された時斯が彿教の公式輸入よりも柏や後期であることは、普通に認めらるゝ 所であるが、事相としての陰陽道行事が民衆の信仰生活の中に持ち込まれた時斯は、意外にもつと早かったであ らう。即ちそれは朝鮮牛島を介して大陸住民との問に間凄交通が行はれた時に聾してゐる。そして兄弟的近似の 関係にあつた雨着∼紳信仰の道と陰陽道と∼iは極めて容易に相互融合の影響を為し合った。雨着の共通行事 であつた鍵祓の如きは、殊に最も融合し易い保件にあつた。 最初に個的且つ私的なものから出費した喫祓は後に聾達して薬園的且つ公的な式を取るに至ったが、それ故に 単なる個々の喫祓と集国的な約束を持った大祓とが、互に隔別的な関係にあつたと観るのは決である。それ等は 表形的保件に於てはともかく、内容的には殆ど相互交流関係にあつて、或る時には、大祓をする代りに普通の楔 を行ひ、又、大祓の作法の中に、或る楔の形式む探用さへもした。専門的な稀呼の上では、伊弊諜尊に依る所謂 筑紫日向橘小戸之穏庶の嘆から費達したと倖へられてゐる大祓と、陰陽師の行ふ七瀬祓・毎月祓・河臨祓・上巳 祓等とは、歴史的にも行事的にも顕格なる区別が存するものとされてゐるが、尊貴に於て各々は一部内質に於て 交流的であり、粛宮・斎院の鴨川祓に於ても、尭づ其の地鮎む指示する者は陰陽師であつて、楔祓時に於ける陰 陽師の此0不可快的重要位遣は途に陰陽師むして楔祓執行者たらしむるにまで至ってゐる。源語須磨奄に、 ﹁けふなんかくおぼすことある人は、みそぎし給べきと、なまさかしき人の聞ゆれば、海づらもゆかしく氾給ふ。いとおろ そかにせんじやうばかりを引めぐらして、この闊にかよひける陰陽師めしてはらへせさせ給﹂ とあるのは、既に上文に﹁やよひのついたちにいできたるみの六ごとある通り上巳祓についての記述であるが、 靡祓内質の時代的襲化と大政嗣 J/リ

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なほ公卿記録たる貯.経信卿記tロ承暦五年︵一七四こ正月九日の保にも、 ﹁今日俵誌こ吉日一欲基二千野貴方︶・北野・賀茂並鞍馬↓招二陰陽師宜行令レ撃中臣琴﹂ とあり、参堅剛の祓が陰陽師に託せられてゐるのである。又、毒右記■言擦ると、大治四年︵盲八九︶七月 二十七日の夜の鳥羽院御錫紆除御之時には、陰陽頭家集御祓云々とあり、更に安元三年〓八三七︶二月、諒闇

に優って春日に奉幣停止の折の由祓にも、陰陽師漏刻博士憲成が事に督ってゐる。少くとも平安時代を中心とし

て観察するとき、疎祓行事と陰陽師との関係は瀬音深いものが存するのである。そして斯かる関係が、陰陽道素

を次第に疾祓内質に注加して、襲化を焦さしめたらうことは、首然に考へられる斯であえ㌔

其の傾向は既に天安・貞観の頃から現れてゐる。即ち妄徳隻彗に譲ると、天安二年︵妄一八︶五月戊子

の日には雲無くして雷鳴し、遅明に星有って月醜の中に入るといふ天象異襲があつたが、其の翌己丑の日には、

甫大庭に於て臨時の大祓が行はれてゐる。また貞救四年の冬には、少主鈴従八位上乗和虞人清江といふ着から、

鼠が内印盤裾を噛んだ事の報告があつたので、押紙官をしてトはせられた廃が、それは簡械Q人が紳事に奉仕し

たゝめ、紳が集られ、たのであるとの事であつた。そこで建薩門前に大祓して、﹁以撃妖群議﹂といふ記事が、

ヨニ代支線.言見えてゐる。これら竺二僅少の事例であるが、陰陽道思想が、遮に大祓Q内質たる執行目的に

まで影響を及ぼすに至ってゐることは是等の事箕を通して瀬音顕著に知覚せしめられるのである。

元木最太古代の喫祓は現箕に肉饅又は着衣に簡れたる汚械を潅去することを目的としたものであつて、既に本

喪祓内質の時代的襲化と大祓詞 〃2P

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居纂も指摘した如く、筑紫植原の疎祓に於て言事記﹄に﹁寧御身之礫−﹂、買紀﹄に﹁嘗レ惟三豊鼻之濁撃﹂

﹁哲学礁身之所汚こまた﹁欲レ濯二除其砲撃﹂と記されてあること使其の詳左である。恐らく此の記述は、原

始鍵祓習俗を其の皇ゝに反映するものと思惟せられるが、併しながら記紀共に醜秘の境地と信ぜられた黄泉囲に

伊弊諾告が赴かれた事が喫祓に値すると記してゐる虞には後代文化素が存し、或る時代には直接汚械に解るゝと

香とを間はず既に汚気に感じたる事に染疎む認め鍵祓の必要む認めてゐき﹂とむ示してゐる。此の物的汚械から

気的汚稜への擁延は、時代を経るに従って更に一骨の増産を見た。殊に東も特殊な展開は、精神的汚械に関して

も疎祓む行ふ風習が新生した事である。これは時代が起した硬祓内質浄化の甚だ大なるものでなければならぬ。

平安時代の物語として有名な誓伊勢物語−毎に、性的者摺の煩悩む祓ぎ祓うたことむ記して、

﹁此男、いかにせん、わがかゝる心やめ給へと、ほとけ紳にも申しけ、れど、いやまさりにのみ覚えつ⊥、鵜㌫ゎなく緑しう

のみおぼえければ、おんやうしかんなぎよびて、繕せじといふはらへの具してたんいきける﹂

とあるのは、共の一詳記である。更に後代の和歌にも

懸せじとみたらし川にせしみそぎ紳は受けずもなりにけるかた

また

こひしきをみそげど紳のうけねばや心のうちのすずしげもな予− などとある。斯の如く楔祓が餞的なものから精神的領域に烹で入って、庸似内繁L松耕多岐小●仏らしめたことは、 従ってその執行度数む新田ならしめ、公的醜祓の同数も亦此に慈トい桝潮∵記録した。 炭酸内質の時代的醇化と大政詞 三一 〃ご/

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もつとも精紳的祓祓の影像け、早く既に付回天腫に於けや末童疇元ム祓に叫心や∵リ1外、仁∴.一祝日バ軸天皇“巷の﹁解レ 罪改レ過敏祀こ紳此こ、同h立脚功皇后品故前紀の一癖レ罪改レ坦里華南膏扉小山川=H∵ ±ト∵U紀ヤ∴し植∴しも見られL るが、前者は疾疫の流行に因り、接骨豆天舅椚御崇監誓宣言てわつ㌔蕪、報持に精神的併作に於て?棋威が行 はれたのは天武天皇の御字七年番の﹁拍レ中︰天紳他紙“両天下慾媒祓ヱ﹂L一lりリH㍑準じあらう。

古事記は妬く別として芳紀に大祓の艇抑が発見せられるの㍑釈に大武大〓∴▼り御ハ十王姫川とするづで㍉∴て、摘

も其の時以後に顧祓執行の国教は俄然樹加してわるのでウ㌔之王統計約数り十に徴†烏に、−飛鳥奈良障代た最下 限として、古布更籍に見えてゐる楔祓の記錐数は、紳代た除いて、黒沖天皇妃叫、紳功=H后蹄鱒叩紀﹁履中天

皇紀一、雄略天皇紀二天武天皇抱囲、文武天皇紀三、元正天皇紀︰、翌武夫皇紀二、淳仁天真紀二、光仁大豊

紀八で、過去電流○年の総計二十四国に過ぎないが、其の後の平安帖代に至っては臨時の大祓だけでも驚に驚

くべき頻回む数・∴てゐるのであつて、大嘗と行はんとするに境立ってつ大祓、頚王御巻向前の大祓、奉幣使巻遥

に嘗つての一大祓等は、何れも天武天皇の御字以後に初例た閃かれてゐる。そして陰陽寮の設置が同じく天武天皇

御字の重安であこことは、研究上大に注目せらるべきであらうと息ふ。

試みに延暦以笈仁和三年六月・までの公記録について、其の育五年榊に行㍑れた大祓偶数王醗重して兄上と、用

服除渾について〇大祓例が五、帝王関係の大祓が九、奉幣俊次遣に膵、∵やのが九、叩人配流・死祓・犬積髄・出

火等の械けい開すそもゎが二上ハ、大昔脅湘係がた、災疫吠締づ珊怜が二﹁その他が七十王件、此の合計真二十川

件であつて、掴奥の増加と共に映祓鳩山も亦更に因果関係的に接種嘩′忠昭び頒って一?やりマぉも。釦ち之定仁和 綬祓内質の時代的鍵化と大祓詞 ′ ノ) I一●ノ

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三年以後の公私記録に徹すると左の如くである。 仁和≡年九月十五日 同 四年六月廿九日 八月廿九日 九月≡十日 十月廿九日 寛平元年九月十一日 寛平≡年〓月四日 同 九年五月廿二日 七月八 日 八月廿九日 十一月≡十日 l−口黍元年六月十四日 延弄元年〓月十一日 六月廿九日 月 何十五年十十六日 十月≠エハロ 回≠二年四月骨一日 十二月十五日 庶政内質の時代的葬化と大赦嗣 御酢喪ニコリ革故七道大政 恒例大破 業腹脱御ニヨリ朱雷門予於ナ大政 大嘗大政 大祓 兢ニヨリ建穏門二於テ大政 所年祭ヲ件メ大政 朱縦門二於テ大祓 大政 大祓 大祓 建嘘門二於テ大政 同 恒例大政 粒暗流行ノタメ大政 日 大政 執ニコリ賀茂祭障止二付大政 税ニヨリ紳今食樟止二付大政 ︵日本紀略︶ ︵政事要略︶ ︵月本紀略︶ ︵日本紀略︶ ︵日本紀略︶ ︵西田記︶ ︵日本紀略︶ ︵焦襲抄︶ ︵日本紀略︶ ︵日本紀略︶ ︵日本紀略︶ ︵扶桑略記︶ ︵日本紀略・本朝世紀・北山抄︶ ︵両帝記・年中行串抄・小右記︶ ︵日本.紀帆ユニ代崇銭︶ ︵円本紀略︶ ︵仲川記︶ JノJ

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