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NO. 97
部落のいまを考える⑫ 「同和はこわい」再考 山本尚友 ひろば⑬ 日(毎月I回25日発行)ISSN 0919-4843 こべる刊行会 「融和J
は「運動の目的」たり得るか 熊谷 亨部落のいまを考え る ⑫
再考
﹁
同
和
は
こ
わ
い
﹂
山本尚友︵世界人権問題研究センター研究員︶ ﹃ 同 和 は こ わ い 考 ﹄ の 書 名 藤田敬一氏の﹃同和はこわい考﹄が一九八七年六月に 阿昨杜から出版された時、賛否相交じって様々な反響が あったが、本の内容には理解を示した人の中からも比較 的多く聞かれた意見に、﹃同和はこわい考﹄という書名 がいかにもあざといというものがあった。ショッキング な題名をつけて、本を売らんかなという姿勢が見えすい て い る と い う の で あ る 。 ﹃同和はこわい考﹄のもととなったのは、岐阜の太平 天国社から発行されていた﹃天国?っしん﹄に藤田氏が 連載した﹁同和問題意識調査を読む﹂であったが、連載 中からその内容に注目していた私が、阿昨杜の森氏に同 社から単行本として出版することの内諾をとったうえ、 藤田氏に連絡した時にはすでに藤田氏の友人たちの手に よって、写植打も終わり表紙原案も出来あがって、自費 出 版 の 準 備 が 着 々 と 進 ん で い た 。 内容の重要性からいって、書店で誰もが手に入れられ る形での出版が望ましいことを、岐阜の友人たちに納得 してもらい、出版準備のための会合を京都の喫茶店でも った時、書名を藤田氏の連載の七回以降のタイトルであ った﹁同和はこわい考﹂とすることはすぐに決まった。 ただ、﹁同和﹂あるいは﹁同和はこわい﹂に括弧を付す べ き か ど う か で 、 意 見 が 分 れ た 。 藤田氏が連載で展開している議論は、当時部落問題を めぐる支配的な議論と空気の中では、重要であると同時 に刺激的であり、公式の立場からの反発や批判は充分に こぺる 1予想されることであり、揚げ足をとられかねないタイト ルだけに、﹁同和はこわい﹂という意識と距離をとって いることを明示するために、括弧は必要だという配慮で あ っ た 。 しかし一方で藤田氏の連載が、﹁同和はこわい﹂とい う意識が市民だけでなく、部落問題と関わっている人の 聞に広く共有されている状況を、部落と非部落との関係 のねじれととらえ、その要因を自らの体験をふまえなが ら丁寧にときほぐそうというものであることは一読すれ ば了解されるはずで、ことさらに括弧を付すことは、藤 田氏が指摘している被差別者への過剰な寄り添いになる の で は な い か と の 意 見 も あ っ た 。 結果として、後者の意見どおり括弧を付さない書名と なったが、この経過が物語っているように、﹃同和はこ わい考﹂の書名は決して売らんかなのものではなく、書 名として最適のものとの判断から選ばれたものであった。 刊行されてからの反応は、冒頭に述べたようなものであ り、正面から書名を批判するといったものは幸いにして な か っ た 。 ﹃同和はこわい考﹂にたいする最も正面からの批判と いえる、部落解放同盟中央本部の﹁﹁同和はこわい考﹄ にたいする基本的見解﹂も﹁﹃同和はこわい﹄という差 別思想を﹃地対協﹄路線が精一杯ふりまこうとしている、 いまの時期、その印象に上塗りをするような書名とした のはなぜか。﹃奇をてらう﹂以外のなにものでもなかろ う。﹂と述べるのみであった。肯定的にせよ否定的にせ よ、書名のもつ意味について測ろうとする試みはあまり み ら れ な か っ た 。 2 もちろんここで私が問題にしたいのは書名のみのこと でなく、﹁同和はこわい﹂という意識について、その後 も本格的には論じられなかったことについてである。部 落問題全国交流会においても、非部落の側の被差別部落 にたいする過剰なすり寄りが問題となることはあっても、 その反応の根底をなすと思われる﹁同和はこわい﹂とい う意識について、あまり議論されなかった。これには、 本稿をなすに十年以上もかかってしまったという、私自 身の怠慢も関係があるのはもちろんのことである。 おそらく、藤田氏のこの点にかかわる問題提起にもっ とも敏感に反応したのは、﹁﹁心理﹄と冒省出の狭聞か ら ﹂ ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ 一 一 四 号 、 京 都 部 落 史 研 究 所 、 一 九 八 七 年六月︶と題した横井清氏の書評で、﹁:::その﹃こわ い﹄という意識の中味がいかなるものなのか、いまもっ てよくわからない。あの恐怖感。心と体の、深いところ から突き上げてくる、身ぶるいのするような感じ。どう
表 現 す れ ば い い の だ ろ う か 。 : : : ﹂ と い う ﹁ 無 限 責 任 へ の恐怖﹂と題された﹃こわい考﹄の一文を引き、﹁私の 場合は少年時における被差別部落の少年達との不意の ﹃接触﹄を?っじて、確実な原体験としていち早く定着 していた﹂と記し、﹃季刊人間雑誌﹄創刊号︵草風館、 一 九 七 九 年 十 二 月 ︶ に 寄 せ た ﹁ ﹁ 部 落 史 研 究 ﹄ と ﹃ 私 ﹄ ﹂ を 参 照 す る よ う 指 示 し て い た 。 三部落史研究﹄と﹃私﹄﹂は後に﹃光あるうちに中 世文化と部落問題を追って|﹄︵阿件社、一九九
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年 ︶ に再録されるが、その中で京都市内最大の被差別部落の 近 く で 育 っ た 氏 に と っ て 、 ﹁ ﹃ 私 ﹄ が 接 し た 部 落 の 子 ら は 、 ひ と え に こ わ か っ た 。 ﹂ と 語 り 、 ﹁ あ の よ う に 感 じ た の は 何に発することであったか﹂として、氏が﹁あそこの地 区の少年たちだとか直感L
した子どもから金を脅しと られたこと、そして横井少年らが遊ぶ児童公園を遠征し て き た 地 区 の 子 ら に 奪 わ れ た 体 験 を あ げ て 、 ﹁ ﹃ 部 落 は こ わい﹄というテ l ゼけを、軽々に拒否することも、軽視 することも、およそこの方面︵部落問題︶の研究と運動 に た ず さ わ る も の は 、 し で は な ら ぬ と ﹃ 私 ﹄ は 考 え る 。 ﹂ と 結 ん で い る 。 私と被差別部落との出会い 私がこの小文を思いたったきっかけは、昨年の部落問 題全国交流会の懇親会での、ある会話であった。東京か ら出席した編集者が、著名なプロデューサーに部落解放 同盟を斬るといった企画をもちかけたところ、面白くな いと断られたという話がでた。私は即座に面白くないで はなく、こわかったのではないかと返したところ、彼女 はそんなはずはないと反論した。私は京都部落史研究所 に勤務していた時、出版物を差別と指摘守れた出版社の 人びとのうろたえぶりをさんざん見てきており、そこに は紛れもない恐怖があった。だから、ああもやすやすと 出 版 物 の 回 収 に 応 じ る の で は と 問 、 っ と 、 回 収 さ え す れ ば 事は終る、恐がっているのではなく、出版社側は解放同 盟を馬鹿にしているのだ、と強く彼女は言い張った。 話 は そ こ で 終 っ た が 、 私 に と っ て は 、 ﹁ 部 落 は こ わ い ﹂ という意識をすべての非部落の人びとが共有していると いうのは、自明のことであった。しかし、必ずしもそう ではなく、その自覚がない人もいることを知ったのであ る。それから、それとなく私の知人たちの被差別部落に 対するイメージを確かめてみると、被差別部落ともっと こ.rZる 3も重ねやすいイメージは暴力団であること、しかし部落 をこわいと自分が感じているという自覚はないこと、と いうあたりが私の周辺の人びとの平均像であることが分 っ た 。 ところで、話を﹃同和はこわい考﹂に戻すと、藤田氏 ともっともよく響きあった横井氏との聞には、﹁こわい﹂ というイメージの発生源について微妙な違いがあった。 藤田氏は、父が差別意識の強い人で、﹁家庭がそうであ るばかりでなく、京都という土地柄もあって、わたしの 中に差別的偏見がいつしか根づいていった。﹂と自らの 中の差別的偏見について語り、﹁わたしの意識の核心に は﹃けがれ﹂と﹃こわさ﹄があったようだ。﹂とつづけ ている。そして、その﹁こわさ﹂に気づいたのは、青年 になって被差別部落に出入りするようになってからであ り、自分も家族も直接に被差別部落民から脅威を感じた 経験もないのに、﹁わたしはなんの体験、経験もないま まに被差別部落︵民︶はこわいと観念していた﹂と、被 差別部落の側からの具体的な行為や言動が﹁こわい﹂と いう観念を生むわけではないと指摘していた。 私自身の経験に照らしても、その正体の掴みがたさに 長年悩まされたのは、経験なしに生じる部落への恐怖で あった。私は佐賀県の生れだが、幼いころ父に連れられ て郷里を出て、横須賀・鎌倉と転居したのち、東京の小 石川に小学校二年より五年まで、板橋区の成増に小学校 六年のみ、同じ板橋区の大山で中学・高校を過ごした。 関西の人には想像できないであろうが、幼少年時代の私 は被差別部落の存在について全く知らなかった。中学校 時代には近所に朝鮮小学校と、朝鮮人が比較的固まって 住む一郭もあり、後に母に聞いたところでは私はよく朝 鮮人の悪口を言っていたらしいが、本人はまったく記憶 に な い 。 被差別部落の存在を知ったのは、入学した高校が東京 では珍しい部落問題研究会のあるところで、部落研が学 園祭でやっていた展示を見てであった。高校での私は社 会科学研究会に所属すると同時に、生徒会活動にも参 J 加 するという政治意識が過敏な一群の一人であった。部落 研のメンバーは落語研究会のメンバーが兼ねていて、な ぜか通称オチケンと私たち杜研はシンパであり、被差別 部落の存在も非合理な差別に苦しめられている人びとと いう価値づけを伴って知ったのである。 しかし、同時に私の中では被差別部落は﹁スラム﹂と いうラベルをつけてしまわれでもいた。貧しく社会の最 底辺をなす人びとが集り住む不潔な地域で、そこの住人 は親が子を平気で殴る暴力的な人びとといったイメージ 4
とともに。実は私の義母が、近所にあった朝鮮人の集住 地のすぐ横に住んでいた関係で、義母から朝鮮人の悪口 をよく聞かされ、私自身も義母の家によくいっていたこ とから、その集住地を知っていた。そこは急な崖の下の 湿地に建てられた長屋の集りで、一日中暗くそして常に 湿っていた。何のためらいもなく、その地区に被差別部 落をダブらせたのである。 その後、さほど熱心であったわけではないが、それと なく部落の存在を意識していた私に、被差別部落のイ メージを具体化してくれたのは、高橋和巳の﹃貧者の 舞﹄であった。この小説は岩波書店が発行していた雑誌 ﹃世界﹄一九六四年四月号に掲載されたもので、じめじ めとした路地の薄暗い片隅に老婆が横たわるといった集 落を舞台に、主人公である小学校六年生の少女が母から 売春を強要されるという物語であった。高橋は大阪の被 差別部落のすぐ横で生を、つけており、おそらく子どもの 頃から聞かされた話をもとに、想像力をふくらませてこ の小説を書いたのであろうが、その描写の生々しさは今 も 記 憶 に 残 る 。 高橋の小説には皮革問屋と屠牛場が登場し、部落とい う語は小説中には登場しないものの、明らかに部落を舞 台としており、そこに登場する人物は現実には存在しな いような奇怪な人物であり、この小説は差別小説だとし て、翌年四月に部落解放同盟台東支部が岩波書店に抗議 をおこなっている。 また少し後に、福地幸造・西田秀秋編﹃在日朝鮮青年 の証言﹄︵三省堂、一九七
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年︶が出版された。二人は 兵庫県湊川高校の教師で、被差別部落と朝鮮人の生徒に 自らの生いたちを語らせる取り組みをおこなっていた。 それを記録したこの本のなかで語られる生徒たちの家庭 の有り様はすさまじく、かつ暴力的であり、それを前に たじろぎ、おびえる自分を強く感じていた。書名は﹁在 日朝鮮青年﹂・となっているが、在日朝鮮人と部落出身生 徒の対立・葛藤がこの書の一つのテ l マであった。とこ ろが、私には両者は一つのものとして追ってきた。 このようにして、まだ実際の被差別部落を見たことも なく、被差別部落民に出会ったこともない私であったが、 不潔な地域に暴力的な人びとが住んでいるといったイ メージを形作っていた。このイメージは高橋や福地らの 著作によって、被差別部落の存在を知った当初のイメー ジが補強されたものに過ぎなかった。 こベる 5構造化された差別 私のこのような経験は、藤田氏の﹁部落がこわい﹂と いう観念は、部落の側の具体的な行為が生んだものでは ないという指摘を、さらに進める必要があることを示唆 しているように思える。すなわち、この日本社会におい て被差別部落を知ることはすなわち、﹁部落はこわい﹂ ということをふくめて、部落への差別的観念を受容する ことに他ならないと。 私たちが被差別部落という一言葉を、充分にしろ不充分 にしろ意味内容をふくめて知るということは、社会的に 疎外された存在としての部落の位置を認知することに他 ならないのである。社会的な場において、ニュートラル な存在としての被差別部落というものは存在しえず、そ れは常に否定的な価値すなわちマイナス・イメージをと もなって、まずは伝達されるのである。 私は被差別部落史の研究を仕事としているが、研究を 進めるなかでこのことのもつ意味の重大さに、たじろが ざるをえなかった。現在、被差別部落史の研究において は、かつて支配的であった近世の権力者が部落をつくっ た、あるいは解体寸前であった中世の賎民制を近世権力 が再編したという、近世政治起源説と呼ばれた説は影響 力を後退させて、中世賎民制が前提となって近世賎民制 が形作られたとする説が優勢となっている。 私の理解によれば、現在の同和地区の源流は平安時代 末期の院政期の京都で、罪人と乞食を合せた身分として 非人身分が生成した時点に求めることができると思う。 この時代の乞食のなかには多くの障害者と病者がふくま れており、罪人・乞食・障害者・病者という、いずれの 社会にあっても強い疎外を、つける人びとが一つの身分と みなされたわけで、彼らは当初より社会外の存在と見な さ れ て い た 。 また、罪人と乞食はいずれも穣れを清めるという職掌 を担わされており、彼等自身も械れた存在と見なされる とい、ヱ事情もあずかつて、非人身分は械れと強く結びつ けて観念されるようになった。乞食が械れの清めにたず さわるという事態は、この時代に政治的実権を弱体化さ せた天皇が宗教的権威でそれを代価しようとする中で、 天皇の清浄の保持に神経質になるといった事態がもたら したものであった。すなわち、天皇と非人はともに社会 外の存在と見なされ、一方は社会的上位、もう一方は社 会的下位という対照的な場所に位置づけられたのである。 その後、九百年という時聞が流れ、非人の中から宿、 6
散 所 ︵ 声 聞 師 ︶ 、 械 多 ︵ 河 原 者 ・ 清 目 ︶ 、 三 味 聖 ︵ 隠 亡 ︶ 、 鉢叩・鉦叩などの集団に分化し、それぞれの集団の特性 にしたがって疎外の程度も様々であったが、一度非人身 分とみなされた集団は社会的疎外を受けつづけるという 事態は変化していないと思われる。被差別部落と対の存 在である天皇制が、政治権力でありながらもひとつの文 化装置として機能していたように、被差別部落も同様の ものとして日本の文化と社会のなかに埋め込まれている の で は な い だ ろ う か 。 例えば、バブル崩壊後に急増したホ l ムレスにその影 を私はみる。マスコミは経済の悪化が、ホームレスを生 んだとのみ語るが、失業は必ずしもホ l ムレスを生まな い。ホームレスの背景には、失業がすぐに家庭崩壊につ ながるほど不安定になった現代家庭という状況と、失業 し雇用保険の支給期聞が切れたのちは、有効な救済制度 がないというこつの事態があるのである。 前者の問題はさておき、後者の方は制度としては生活 保護制度があることは誰でも知っていることだが、これ を日本人の大半が受けたがらず、また実際に受けようと 市町村に申請しても、よほど有力なコネがあるか、病院 にでも入院しないかぎり受けられないのが現状である。 生活保護は以前より不正受給が問題となっており、審査 基準を甘くしたらこれが増加するとの反論が関係者から は出されようが、生活保護受給者を怠け者・準犯罪者と みる社会の眼が前提乞しであるため、不正受給が増加す ると私はみている。社会更生制度として正常な運用がな されていれば、不正受給は率としては低下するにちがい な し 。 この事態を、貧困者を非人として永らく社会から疎外 してきた歴史がもたらしたものと見ることはできないだ ろうか。アメリカのように生活保護制度のない社会なら ともかく、ヨーロッパ型の生活保護制度をもっ日本でこ れほど大量のホ l ムレスが発生する原因のひとつに、こ れがあると私には思えるのである。 部落解放同盟の第二代の全国委員長であった朝田善之 助氏は、かつて差別観念は空気を吸うがごとく人びとの なかに入っていくと指摘していた。しかし、私は事態は もっと深刻だと思う。被差別部落はマイナスの価値をも つものとして日本文化のなかに構造化されており、被差 別部落について知ることは、まずは同時に差別観念をも 受容することに他ならないのである。 このようにして、被差別部落にたいする支配的意識を 私は受容したわけだが、しかし差別意識と同時に﹁この差 別は不当であ石﹂という観念も私は受入れていたのであ こベる 7
る。この意識の柔軟性と補足しがたさが、意識というも のを理解しようとする私たちを常にほんろうするものだ が、差別意識というような社会的に過剰に意味づけされ やすいものを扱おうとするときは、往々にしてこれが忘 れ ら れ や す い 。 しかし、実際には差別意識と反差別意識というのは実 にやすやすと一つの意識のなかに同居するのである。そ して、この意識の二つの側面は矛盾するだけでなく、時 には互いに支えあったりもする。偏見にもとづく部落 像・部落民像を前提に、このようなひどい差別は一日も 早くなくさなければならないと考えることなど、実に日 常的に起っていることであろう。 しかし、これを型どおりに同情は差別だといいつのる のには、違和感をおぼえる。私自身、今もこれを同居さ せていると言わざるをえないからというより、意識のも ふ ︿ そ う つ輯鞍性を無視して、この領域のことは了解不能と思う か ら で あ る 。
問
題
と
向
き
あ
も
つ
力
ここまでは藤田氏の指摘にそって、﹁部落はこわい﹂ という意識が部落との具体的接触なしでも発生する有り ょうをみてきた。しかし、私はその後じかに被差別部落 に接する機会をもつようになり、その中でも﹁こわい﹂ という意識は払拭されず、当初はむしろ深められたとい わざるをえない。横井氏が語られた事情も、決して無視 で き な い の で あ る 。 私はその後、住居を東京から京都に、つつしたが、入京 一年目に部落解放同盟中央本部機関紙の解放新聞社に勤 務することになった。おそらく通常ではありえないよう な濃厚さで被差別部落と関わることになり、私はその中 でそれまでのイメージや知識の修正を迫られることにな った。今から思えば実際の被差別部落と接する前の私は、 かなり奇怪なイメージを抱いており、部落の人びとが私 自身と変らぬ存在であることを納得するまでには、時聞 が か か っ た 。 しかもその第一歩は、私の中にあった﹁こわい﹂とい う意識をまず自覚することから始まった。私が初めて訪 れた被差別部落は京都の田中地区であったが、電車の駅 からおりて薄暗い街頭に照らされた狭い道に踏み入れた ときに感じた、心臓を締めつけられるような感覚は、今 もそのとき感じた時が止まったような風景とともに覚え ている。しかし、そのような切迫した感覚は訪問の回数 を重ねるうちに薄れていったが、私という個体と被差別 8部落という集団との聞の緊張関係に発すると思われる恐 怖感は持続していた。 しかも、それを増幅するような経験も少なくなかった。 解放同盟がおこなう差別糾弾や行政闘争の現場は、やは り私にとっては衝撃的であった。私はそれまでに、大学 闘争での集団交渉と称した大学の幹部教員へのつるしあ げの現場や、労働運動での団体交渉などの席に立ちあっ た経験をもっていた。七十年安保闘争という時代背景の なかで、それらは激しくそして暴力的におこなわれてい た。それらを経験した私の眼からみて、解放同盟のそれ は激しいものであるというより、計算された効果的な威 嚇 で あ っ た 。 ある支部でおこなわれた行政交渉の席、支部の要求は 嘱託として採用されていた青少年指導員を正式の職員と して採用せよというものであった。採用を拒否する課長 は長い間一人で立たされていたが、交渉が勝着化のきざ しを見せようとした時、突然一人の青年が課長にむかつ て突進し、殴りかかるとみせて頬の皮膚のまぎわでげん こつを止めた。その思いがけぬ光景に、私は極度に混乱 したのを覚えている。課長の態度に怒って殴ってしまっ たというのなら、暴力の当否は別にして了解できる。し かし、ここにあるのは冷たい暴力であった。同時に、要 求を認めまいとがんばる課長が、表面の態度とは裏腹に 恐怖していることを感じ、その恐怖感の深さにも困惑 し た 。 私が部落と非部落のあいだの壁をもっとも実感したの が、この瞬間であった。この後ほどなく
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て、支部の要 求を認めた課長は放心した状態で、部下の職員に体を抱 えられるようにして帰っていった。課長が自らの恐怖感 がこの結果を招いたと、自覚する日が来るのだろうか。 おそらくは、青年の暴力に屈したという思いから抜ける ことは出来まい。そして、この課長が被差別部落との間 あ ん た ん で信頼関係をきづく時がありえるのだろうか。暗潜たる 気持ちで、その後姿をながめていた。 帰路私は、殴るふりをした青年の心理というより、そ の青年の行為を見ていた部落の人びとの絶望の深さを推 し量り、私のなかの細かい震えを止めることが出来なか っ た 。 非部落の側にある部落への恐怖心と、それに絶望し、 時にはその恐怖を利用する部落民という構図は、その後 の経験のなかで繰り返し見聞する機会があった。藤田氏 が言うように、この構図を部落の責任とするのは誤りで あろう。しかし、自らの恐怖が招いたとはいえ、このよ うな経験をとおして、非部落の側の恐怖心さらには差別 こぺる 9感情がより深められるのも事実として認めざるをえない。 また、部落と濃密に接触する機会のない人の場合にお いても、現状ではそれらの人びとが部落を意識する機会 は、部落の人びとが怒っている時にほぼ限られるという、 これもなかなか壊すことのできない構造がある。つまり、 容貌で部落か否かを判別できないことから、平常な状態 の部落民と出会うことはまずありえず、非部落の側が部 落を意識したり、出会ったりするのは、差別事件など部 落の側が自らの姿を現わさざるをえない時に限られるか ら で あ る 。 おそらく私たちは、差別・被差別の関係がお互いのあ いだにどれほど歪みをもたらすかについて、まだ充分に 知りえていないのだと思う。結婚などの差別事件の糾弾 会で感じたのは、差別をした当事者への追及があまり厳 しくないことであった。当事者への追及はほどほどにし て、行政への追及に切り替えるという場面を幾度となく 眼にした。それも事件が悪質で、参加した部落民が本当 に怒っていると感じられる時ほどそのように感じた。 差別事件を行政闘争に昇華したという解釈もあるだろ うが、私が感じたのは差別者と正面から向き合う力がこ の人びとにはないのだということである。もちろんこれ は非難の言葉ではない。差別の醜さに立ち向かう力が誰 にでも備わっているわけではないことは、当然のことで あろう。差別事件は、いずれは行政闘争に昇華されざる をえなかったのではないだろうか。と同様に非部落の側 も、自らの醜さを見据えることなく、差別を難じる被差 別者の側に安易に立とうとしてきたのではないか。 最近になって私は部落にたいする恐怖感がうすらいで きたのを感じている。時と経験もあろう。しかし、すで に十七回を数える部落問題全国交流会の経験が大きかっ たと思う。交流会でも最初は、折にふれて部落か非部落 かが問題になっていたと思う。誰かがそうしようと提案 したわけではないが、次第にそれが問題とされなくなり、 今では自分が話している相手が部落民なのか否かを意識 しなくなった。このような意識の変化が起りえようとは、 かつては考えだにしなかったことである。 おそらく、この間の経験をつうじてようやく私は、集 団ではなく個人としての部落民と出会うことができたの ではないだろうか。個人としての部落民は、当然のこと だが個人としての顔しかもっていなかった。 10
ひ ろ ば ⑬
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融
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熊谷亨︵楽只隣保館資料室︶ わ た る 戦前の融和運動家・岡本摘が自らの歩みを振り返っ て綴った﹃融和運動の回顧|私の小伝﹄︵一九四一年︶ の中に、﹁増井家の門前で馬糞の洗礼﹂という一節があ る 。 少 し 長 く な る が 、 引 用 し た い ︵ 同 書 三 一 二 l 三 五 頁 ︶ 。 往昔から河原の巻と称する旧記が部落聞に伝はって ゐる。それによると京都の小法師と云ふ一家が、禁 裏御所に出入してゐたことが記載されてある。この 小法師といふのは、京都の増井家の事であると聞い たので、その史実の調査に上京したのは明治三十年 六月の下旬であった。同家を訪問すべく千本通に行 った、聞きしに勝る立派な邸宅に若しゃ人違ひの家 であってはならぬと思ひ、その付近で客待ちしてゐ た車夫に向ひ﹁O
平民の増井さんはこの家であるの か﹂と訊ねた、すると見る/\内にその車夫は顔色 ﹃ 貴 様 は 今 な ん と い ふ た 、O
平民の増井とい ふ た で な い か 、O
平民といふのはどこにあるか、こ の青二才め﹄といふより早く私を地上に押倒した、 折悪しくその辺に馬糞があったので、衣服と云はず、 帯と云はず、馬糞だらけとなった。尚も殺気立った 彼は私を殴打せんとする気配さへあるので、私は暫 しと押し留め仔細はかくfk
であるから此場は許し て呉れといふた。すると彼は低頭平身泣かんばかり に自分のはやまった無礼を詫びるのであった。そこ で私は車夫に対って、否々自分は卿等に対して感謝 の念こそ起れ、卿等からお詫びを受ける事はない。 その所以は部落中学あるものは部落外に逃がれて身 の素性をかくし、財あるものは財さへあればと同族 を顧みないのである。今卿等は増井君を部落のもの として侮蔑したものと断じ、自家の事のやうに憤慨 されるといふことは、なんといふ立派な心事であら う、何といふ喜ばしい行為であらう、卿等の行動に ひ ふ ん ニ う が い す え よって同族にも悲憤懐慨の土あることを知って、末 た の も し く 頼母敷思ふのである、卿等決して意に介すること勿 れと、私は淳々として路傍説教を試みた。門前の騒 ぎに増井氏は何事ならんかと出で来り、仔細を聞い を 変 へ こぺる 11て打驚き、先づ先づと私を家内に招じられ、初対面 の挨挨もそこ/\に、下女に命じて馬糞の掃除をな さしめ、席について互に見合す眼には感激の涙で暫 しは言葉も出なかったのである其の夜は同君と夜を 撤乃徹︶して過去を語り将来を談じたのは愉快であ っ た 。 ち な み 因に記す増井信氏は京都でも有名な眼科医で、 お し 部落の啓発事業には資金を菩まない名士であった。 又全国の部落民中祖先の由緒で公然士族に編入され たものは、この増井一家あるのみである。 こ こ に 出 て く る ﹁ 増 井 信 ﹂ と は 、 幕 末 か ら 明 治 に か け て 、 京都の千本部落で改善運動に取り組んだ益井茂平︵明治 政府に身分取立歎願書を提出した蓮台野村年寄元右衛門 の息子︶の養子となって、﹁益井療眼院﹂を継いだ信 ︵旧姓仁木︶のことである︵文中、﹁増井﹂となっている のは岡本の誤記︶。この車夫もおそらく千本部落の出身 で、病院帰りの客を拾おうと門前で待っていたのだろう。 京都部落史研究所︵現・京都部落問題研究資料セン ター︶で、明治 l 大正期の部落問題関連の新聞記事を繰 ったことがあるが、当時の部落の生活を支えていた職業 の一つである人力車夫に関連しては、ゃれボツタクリや 恐喝で逮捕されただの、気が滅入ってくるものが多かっ た覚えがある︵もちろん、それはそれで当時の人々の生 活と思いを読み解くための貴重な史料なのだが︶。そん な中、この岡本の記述に出会い、つい笑みを浮かべてし 12 ま っ た 。 ﹁ 事 件 ﹂ 後 お よ そ 四
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年を経てからの記述であるから、 当然脚色されているのだろうけれど、現在の千本鞍馬口 上ルのあたりで、﹁ここは新平民の益井さんの家か﹂と 訊ねた岡本が、人力車夫に﹁貴様は今なんといふた﹂と 馬糞の上に押し倒され、﹁いや、かくかくしかじか﹂と 言い訳をする光景が生き生きと目に浮かぶ。当時、千本 の人々が益井家に対して抱いていた感情が、よく伝わっ てくる。この車夫は、これ以前に自分自身も﹁新平民﹂ その他の侮蔑の言葉を投げかけられたことが一再ならず あり、それに対して﹁実力行使﹂に及んだこともたびた び あ っ た に 違 い な い 。 益井信は一九OO
︵ 明 治 一 三 ニ ︶ 年 六 月 、 土 族 へ の 編 入 を京都府に願い出て認められ、京都日出新聞は、信がそ れを祝い、知事を招いて宴を催したことを伝えている。 当時、奈良の松井庄五郎が士族の株を買っているように、﹁華士族の族籍を得ることも﹃一般人﹄を凌ぐ方策の一 つとして選択されていた﹂︵黒川みどり﹃異化と同化の 間 ﹄ 一
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五頁青木書店一九九九年︶わけだが、文中 の﹁全国の部落民中祖先の由緒で公然士族に編入された ものは、この増井一家あるのみ﹂とは、こうした事情を さしている。﹃京都の部落史 2 近現代﹄は﹁信は立身 、出世と善行によって個人的にさげすみを越えたのであっ た ﹂ ︵ 六 二 頁 ︶ と 記 し て い る 。 明 治 三O
年といえば、一八九七年。今年の流行り言葉 ふうに言えば﹁あしかけ三世紀﹂。日本も世界も大きく 変わり、もちろん部落も変わった。だが、そこで生きる 人聞は、部落にせよ部落外にせよ、どのように、どれく らい変わったのだろう?人が生きていく過程でぶつか る課題というのは、果たして変わったのか?といった 方 が い い か も 知 れ な い 。 で﹂ぺる﹄九一号掲載の論文﹁解放から融和へ﹂の中 で 、 離 本 昌 久 さ ん は 次 の よ う に い う 。 水平社宣言は、部落外も部落民自身も、穣多である ことはよくないことだ、恥ずべきことだと思ってい た 時 代 で こ そ 生 き た 思 想 ︵ 九 頁 ︶ 一九二二年に創立された全国水平社の創立以前、部 落の有産階級は一般社会の﹁名士﹂を頼って運動し たが、その結果は﹁金さへ貰えれば、ヱタと云はれ 非 人 と 侮 蔑 さ れ て も 目 的 の た め に は 結 構 ﹂ ︵ ﹃ 水 平 ﹄ きょうだ 二号、四八ページ︶という﹁卑屈なる言葉と怯儒 なる行為﹂を生んだ。そこでは、差別される責任は 部落民に帰せられ、警官が部落にやってきては、地 区内の清掃を命じたり、強制貯金をさせたりした。 れ ん び ん 部落に対する同情や憐閣はあっても、差別すること 自体への批判や抗議はなかったのである。︵九 l 一O
頁 ︶ 部落解放運動の出発点が全国水平社であり、その精神 を体現したのが水平社宣言であると、わたしも思う。そ れまでの改善運動に対する批判の中から生まれた全国水 平社が、先達の活動を全否定する激しい言葉を発したの も当然のことだと思う。しかし、今日のわたしたちが部 落問題を考えるときに、水平社創立以前の﹁賎視から逃 れたい、差別をなくしたい﹂という人々の営みを、初期 こべる 13全国水平社の主張を引き写したような評価でなで切りに していいのだろうか?近現代の部落史に詳しいはずの 灘 本 さ ん だ け に 、 理 解 に 苦 し む 。 灘本さんは、﹁︵同和事業によって︶部落の生活が向 上 ・ 安 定 し た ﹂ ﹁ ︵ 農 村 共 同 体 の 解 体 な ど ︶ 部 落 差 別 を 支 え て き た 多 く の 要 素 が : : : 劇 的 に 変 化 し た ﹂ そ し て 、 ﹁ 運 動 の パ ワ
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は落ちる一方﹂という現状認識のもと、 ﹁法の終結にともなってあまりにも急激に運動が瓦解す ると、無用の混乱と犠牲を生む﹂ので、﹁部落解放運動 の 新 し い 展 望 ﹂ を 出 し て お か な く て は な ら な い と い う 。 それは、﹁同和事業の獲得に重点を置いた、第二期の運 動からの転換﹂をし、第三期を迎えるために﹁第二期の 遺物たる基本法要求闘争﹂を終結させ、﹁運動主体の再 定義︵部落民意識、部落民としてのまとまり、部落民の 団結を前提としないとを行い、﹁運動の目的を部落民と しての﹃解放﹄ではなく、部落と非部落の線引きの解消 におく﹂とし、﹁部落解放運動の戦略は﹃解放﹄から ﹃ 融 和 ﹄ に 移 ﹂ り 、 ﹁ 戦 術 ﹂ は ﹁ 糾 弾 ﹂ か ら ﹁ 部 落 内 外 の 人 々 に よ る 共 同 の ﹃ 抗 議 行 動 ﹄ ﹂ と な る 。 が 、 ﹁ 直 接 的 な 差別行為が少なくなった現在﹂、実際の中身は﹁町内会 活動、自治会活動、その他の一般的な地域活動に帰する の で は あ る ま い か ﹂ と い う 。 た し か 、 に 、 部 落 解 放 運 動 団 体 が 組 織 の 違 い 、 支 持 政 党 や政治主張の違いにもかかわらず、いずれもが行政闘争 の延長上でしか、運動を発想し得ない、今後の方針を示 し得ていないというのは深刻な事態である。しかし、本 当 に 課 題 が な く な り 存 在 意 義 が な く な っ た と い う の な ら 、 余計な﹁延命措置﹂も不要というべきではなかろうか。 ﹁無用の混乱と犠牲﹂というのが何を指しているのか不 明なため、﹁運動主体・戦略・戦術・規模と中身﹂が導 き出される根拠も今一つとらえ難いところがある。むし ろ﹁瓦解﹂する中からこそ、また新しいものが生まれて く る か も し れ な い 。 ﹁ 運 動 主 体 の 再 定 義 ﹂ の 部 分 ︵ 八l
九 頁 ︶ も 、 ﹁ 部 落 外 の人々も含みこんだ広範な運動を﹂というレベルでは理 解できるのだが、灘本さん自身は、﹁部落民とは何か﹂ についてどう考えているのだろうか?﹁全国水平社にと って、﹃解放﹄の主体として部落民であることは絶対の 条件であった﹂という部分からは﹁部落民﹂という実体 を認めているように読めるし、次の﹁部落差別が弱まる につれて、部落民意識は非常に希薄化してきでいる 0 ・ : : 学 校 の 先 生 に よ る 子 ど も た ち へ の 働 き か け が な く な 14れば、どこまで希薄化・空洞化するか想像もつかない﹂ というところからは、意識が空洞化すれば部落民ではな くなるとも読める。また、﹁その聞いがすべての部落民 に避け難く突きつけられる﹂というのだが、﹁すべての 部落民﹂の範囲とは?なんだか揚げ足取りみたいにな ってしまったが、この部分については、もっとていねい な 議 論 が 必 要 な の で は な か ろ う か 。 灘 本 さ ん は 、 ﹁ 部 落 と 非 部 落 の 線 引 き を 解 消 ﹂ し 、 ﹁ 部 落と部落外が自然に溶け合うのが、﹃融和﹄の字義から する本来的な意味であり、それは部落大衆の過去から現 在にいたるまで、もっとも望んできたことである、と私 は 思 う ﹂ ︵ 九 頁 ︶ 。 そ し て 、 ﹁ 崇 高 な よ う で 内 容 の 分 か ら な い ﹃ 解 放 ﹄ よ り 、 的 確 で あ る ﹂ ︵ 一
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頁 ︶ と い う 。 一年前、﹃こペる﹂八二号で、布川弘さんは﹃異化と 同化の間﹄を書評し、﹁圧倒的な﹃同化﹄の希求として の解放運動がありながら、なぜ﹃同化﹄されないのかと いう問題設定がなされてしかるべき﹂と著者の黒川みど りさんに疑問を呈した。灘本さんにも同じ問いが投げか けられるのではないだろうか︵黒川さんが用いた﹁異化 と同化﹂という視角は﹁解放と融和﹂とは異なるけれど も︶。それに実際には、それぞれの側からの﹁越境﹂は 以前から、少なくとも近代以降、続いてきたはずである。 とりわけこの三O
年は、京都市内の場合、部落の側から の圧倒的な出超となっている。にもかかわらず、﹁線引 き﹂も﹁両側﹂も、牢固として存在しているのは何故な のか。この点を解きあかす必要があるのではないか。 灘本さんが﹁融和﹂を担保する条件として挙げている のは、本文中では﹁社会が個人に差別を強要する度合い が、今は格段に弱い。その主たる原因は農村共同体の崩 壊 な ど に よ る ﹂ と い う こ と で あ る 。 具 一 体 的 に 触 れ ら れ て いないのでどうつながるのかが不明なのだが、﹁農村共 同体の解体﹂を﹁部落差別を支えてきた多くの要素﹂が ﹁劇的に変化した﹂主たるものとして挙げている。わた しなど、網野善彦さんの著作等を通して、差別問題とは 都市的な問題というか、日本に都市が成立してから生ま れた問題というように考えていたのだが︵農村部落も含 めててそれと﹁農村共同体﹂とはどのようにかかわる のだろう?わたしの読みとりが間違っていたのかもし れ な い が 。 部落の劣悪な生活実態と周辺地域との格差を是正する ために行政的に引かれた﹁線﹂は、来年三月で一応は こベる 15﹁消える﹂ことになる。京都市の場合、同和事業の展開 を特徴づけるものに﹁属地属人﹂という基準を厳格に運 用してきたことがある。オールロマンス事件の起きた一 九 五
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年ごろ、部落の内と外を区別する線は︵おそら く︶誰の目にも明瞭にみえていただろうし、行政が﹁地 区指定﹂をし﹁対象地域とそこに従来から居住していた 人﹂に施策を実施することにも、さほど違和感はなかっ たに違いない。もちろん部落の生活実態がきわめて低位 で、その改善が急を要したということもある。それに加 え、わたしは、﹁線引き﹂することで部落へ﹁不安定要 因﹂が流入することを防ぐという暗黙の了解が、部落の 側、行政の側の両方にあったのではないかと考えている。 このとき施策対象に部落に居住していた朝鮮人が事業の 対象に含まれなかった、﹁部落から追い出された﹂のは、 そ れ ゆ え で は な か っ た か 。 オールロマンス事件に関わって言うならば、戦前戦中 に︵強制連行も含め︶渡日してきた朝鮮人が京都市内の 部落に流入してきた経過と部落での共存と対立︵河明生 さんの﹃韓人日本社会移民社会経済史・戦前篇﹄︿明石 書店一九七七﹀にその一端が触れられている︶、あの 小説の舞台となっている東七条の南部に形成された朝鮮 人の集住地や闇市に対する部落内外からの視線、あるい は朝鮮人の側からする部落内外への視線等、無数の﹁線 引き﹂が存在していただろう。かつぎ屋をしていた部落 の年輩の方から聞いた話だが、闇物資の摘発のため京都 駅で官憲が張っている場合、列車が東山トンネルを抜け たくらいで情報が入り、鴨川を渡りきったところで窓か ら荷物を投げ降ろしたそうである。鉄橋下でそれを回収 し、販売するル l トが確立されていたわけである。わた しなど、わくわくしながらそうした話を聞いていたが、 当時、盛況をきわめる闇市の光景を苦々しく見ていた部 落の人々もまた存在したに違いない。 16 冒 頭 の 話 に 戻 る と 、 士 族 編 入 一 以 降 も 、 信 自 身 は 、 故 郷 である井手村の水害時に多額の寄付をおこない、また帝 国公道会に参画するなど部落改善運動への取り組みを続 ける。しかし彼以降、益井療眼院は途絶え、益井家と千 本部落との直接の関わりもなくなってしまう。鴨水記 マ某日、名古屋の書店で慶応義塾大 学出版会の新装版﹃福翁自伝﹄が目 にとまり、手にとって頁をめくると、 文字が大きい上に、凡例に﹁注は高 等学校卒業程度の学力の人を目標に して﹂いるとあるのが気にいって買 い求めました。高校時代に角川文庫 版 ︵ 大 内 兵 衛 解 題 、 目 比 野 和 七 校 訂 、 一九五四年五月三刷︶ではじめて読 み、強烈な印象を受けましたが、今 回はこれまでとは違った読後感が残 り、おかげでここしばらく福沢を読 み 続 け て い ま す 。 ところで﹃自伝﹄に一八七二︵明 さんだ 治五︶年、大阪から三田・有馬へ向 かう途中、向こうから来る百姓に横 柄・丁寧二様の態度で道などをたず ねた実験談が載っている。土族風の 物言いには丁寧に、町人風の物言い には横柄にと百姓の対応が変わった というのです。﹁こうどうも先方の 人を見て自分の身を伸び縮みするよ うでは仕方がない。推して知るべし 地方役人らのいばるのも無理はない。 世間に圧制政府という説があるが、 これは政府の圧制ではない、人民の 方から圧制を招くのだ、︵略︶いか よへい に百千年来の余弊とはいいながら、 き ょ う 三 う ︵略︶先き次第で騎倣になったり、 柔和になったり、まるでゴムの人形 見るようだ、いかにもたのもしくな いと大いに落胆したことがある﹂と 福沢は感想を述べていますが、﹁た ふ き の も し く な い ﹂ と は 、 独 立 不 属 病 の 気 概がないということでしょう。不轄 とは、束縛されないこと。しかし相 手の資格・立場によって﹁自分の身 を伸び縮みする、まるでゴム人形の ごとき人物﹂はまわりにいるのでは ありますまいか。まわりだけではな く、ひょっとすると自分の中にそん な人物がもう一人ひそんでいるかも し れ ま せ ん ね 。 マ来年三月をもって、わたしは岐阜 大学を退職します。そのために研究 室の本のうち図書館に返すべきもの は返し、持ち帰るべきものは持ち帰 り、捨てるべきものは捨てました。 あと残っている私物はスティ l ル 製 本棚四本とわたしのみ。もっとも ﹁私物﹂の最たるわたしはめったな ことでは登校しませんが。これでよ し、準備完了。退職を機に一人に戻 ります。そして﹁一人でできること は高がしれているけれど、一人だか らこそできることがある﹂と信じて、 ﹁一人でできること﹂から再出発し よ う と 思 っ と り ま す 。 そこでお願いがあります。﹁こペ る﹄について、あるいは﹁人間と差 別﹂、もしくは部落問題についての ご感想、ご意見をお寄せくださいま せんか。字数制限なし。さしさわり があるならイニシアルでもかまいま せん。宛先はこぺる刊行会、締切は 一応十月末ということにします。よ ろ し く 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ マ﹁人間と差別﹂研究会はとうぶん 休 み ま す 。 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町739 阿件社 Tel. 075-414-8951 Fax. 075-414-8952 E-mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010ー7-6141 第97号 2001年4月25日発行
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V 未開拓 ・ 異 色の 書 公 民 館 ・ 学 校 ・ 美 術館・図 書 館 ・ 青 年の家や公園 : ・ の社 会 教 育 施 設 の使用や 学 習 材 、 さ らに社会教育 主 事 ・ 司 書 ・ 学芸員 の専門職性や人 事 問 題 、