薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 一 六
薩摩藩の真宗禁制と本願寺の動向
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︵龍谷大学︶ ① 周知の如く、薩摩藩においては、室町時代末期より明治九年に至るまで三百年以上の問、 一貫した真宗禁制政策が とられた。この薩摩藩の真宗禁制政策と、それに対応した本願寺あるいは門徒の動向を究明することは、政治権力が 宗教に優先し、抑圧した場合、その宗教と信徒が如何なる行動をとるか等々、政治と宗教との葛藤を示唆するところ が 大 で あ る 。 ところで、こうした薩摩藩の真宗禁制をめぐる諸問題は、藤等影﹁薩藩と真宗﹄をはじめとし、鹿児島大学桃園恵 真教授の諸論稿、近年では、 龍 谷 大 学 宗 教 調 査 団 編 ︵ 代 表 、 宮 崎 園 遵 ︶ ﹃ カ ヤ カ ベ 1 かくれ念仏﹄において究明され、 またその史料は﹃日本庶民生活史料集成﹄︵十八巻︶に集積されている。 小論では、右の諸研究成果を参照しながら、本願寺︵主に本派︶が薩摩藩の真宗禁制政策と、その統治下にあった門 ② 徒に如何に対処したかを考察し、幕藩体制下において、本願寺が遭遇した禁教と伝道の葛藤の跡をたどってみたい。それにさきだって、薩摩における真宗の展開と、薩摩藩の真宗禁制政策を概観しておこう。 薩摩藩に真宗が如何なる経緯を経て、何時頃伝播したか、 初期の展開は殆ど明らかでない。 ただひとつの手掛りと なるのは、現在、和歌山県黒江御坊浄国寺に伝えられている左記の方便法身尊形の裏書である。 大谷本願寺釈実如 方便法身尊形 永正三年丙寅二月十九日 薩摩国千野湊 願主釈明心 これによって、本願寺実如が薩摩国千野湊︵現在地、宮崎県串間市︶の明心に本尊を下付した事が知られ、 ③ は本願寺と連絡をもっ門徒が存在していたことが明らかである。ただ、この時点において、本尊の願主が明心個人名 ③ であるところから、未だ﹁講﹂組織などはなく、真宗信者の数も少なかったと推測される点もある。 永正年間に その後、薩摩の真宗流布に活躍したのは宮原真屯であった。薩摩藩土伊地知季安によって、天保年間に起草された ⑤ と推測される﹃一向宗御禁制由来﹄によれば、 ︵ 出 凶 カ ︶ 慶安二丑六月、是も依レ頼御免為レ有レ之由。然処其前後之事に候哉。御領内新宗之張本、真純と中者、内密々近付、 上 方 江 差 登 せ 、 六 条 殿 に 取 入 、 御 国 中 彼 宗 致 一 一 発 興 一 候 様 被 一 一 相 巧 ﹁ 於 ニ 江 戸 一 大 久 保 加 賀 様 に も 取 入 、 ︵ 屯 カ ︶ 悪 様 に 為 レ 被 ニ 申 込 一 杯 、 其 比 風 説 有 レ 之 、 真 純 事 於 − 一 脇 本 一 謀 殺 為 レ 被 一 一 仰 付 一 白 ︵ 下 略 ︶ @ と い う 一 節 が あ る 。 ま た 、 ﹃ 薩 藩 例 規 雑 集 ﹄ ︵ 一
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︶ に よ れ ば 、 寛陽公御事迄 ご向宗御禁止ノ事、 一 、 日 新 公 御 代 被 ニ 渡 置 一 候 処 、 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 木 願 寺 の 動 向 七薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 八 寛 永 酉 年 猶 又 問 敷 御 禁 止 被 一 一 仰 渡 一 候 ︵ 統 カ ︶ 然処明暦ノ初頃一向宗流領真屯トイフ者、別テ宗旨手広ク法義弘メ候段相顕揚 捕処、党類多人数ニ相及候事﹂と記るされ、江戸時代前半期において、宮原真屯が真宗信者の中心人物であったこと を伝えている。ちなみに、この宮原真屯は、本願寺と絶縁し、霧島神宮と結びついた特異な講社である﹁カヤカベ教 ⑦ 団 ﹂ 、 が 口 伝 す る ﹁ 宗 教 坊 ﹂ に お い て 次 の よ う に 語 ら れ て い る 。 そ れ に よ れ ば 、 カヤカベ教の祖は ﹁ シ ュ ウ キ ョ ウ ボ ウ﹂であったという。字に書くときはシュウをオシェルと書くという。すなわち﹁宗教坊﹂であろう。この宗教坊は もとミヤハラシンタクといい、伊集院の生れ、山伏であった。彼は神道と仏道とい、ずれが功徳が深いかと考え、京都 の本山で問いただそうとおもい上京した。その後、真宗に帰依し、本山に二十二年間つとめ、鹿児島に帰って弘教す ることとなったが、本願寺を離れるにあたって、上人から﹁宗教坊﹂の名を拝承したという。 ﹂ う し て 、 宗 教 坊 は 鹿 児島で真宗をひろめ、募財にあたっていたが、本願寺の ク 御 普 譜 。 にあたって上京せよとの命が下り上山した。その 留守中に、宗教坊によって真宗に帰依した橋口忠兵衛と三島宗右衛門の二人が本山普請の寄附金を集めていたが、宗 ていますと訴え出た。その為に、宗教坊は帰国の舟中においてとらえられ、 悪心をおこし、宗教坊は殿様禁制の宗旨をおこなっ ③ 二人の娘と共に殉教したと伝えている。 教坊が帰国すれば、その金を宗教坊に渡さなければならないと、 これらの記録や口伝によって、宗教坊すなわち宮原真屯は、薩摩藩の為政者や、真宗信者の聞においても、特に重要 な人物としてひろく知られていたことが察せられ、薩摩の初期真宗の展開に重要な働きをした人物であったといえよ う その後、薩摩の真宗門徒は講を中心として本願寺との連絡を保つが、管見の史料において、議名の初見は本願寺所 蔵文書﹃御講仏御示談薄﹄に、元禄七年二月、本願寺が﹁彊州内場煙草講﹂宛に親驚御影を下付したことが記載され ⑨ ているもので、この頃には﹁講﹂が結成されていたことを窺うことが出来る。 しかし、薩摩における初期の真宗の展
聞は史料不足のため未だ充分に明らかにしえないのが現状である。 ところで、江戸時代後期、すなわち、安、氷十年︵一七八一︶以降になると、本願寺と薩摩門徒の聞に交換された書翰 ⑮ を記録した﹃薩摩国諸記﹄が現存し、その動静はかなり明らかに出来る。天保十四年、薩摩門徒の言上書には﹁当春 宗門座ニ而記帳之噂承レ之候処、其門徒過人拾四万人ニ相及候由、誠ニ以法滅之時世ニ御座候哉−一悲 ⑪ ⑫ 歎仕候﹂とあり、同じく嘉永二年二月には﹁七十余講悉く露顕仕申候﹂と伝え、具体的な講の数と門徒の人数まで記 凡 本 尊 弐 千 幅 、 載されている。この数字の信湿性はともかくとして、薩摩藩全土にわたって多数の真宗門徒が存在していたことを窺 う こ と が 出 来 よ う 。 こ う し て 、 薩 ↑ 摩 の 真 宗 の 教 線 は 禁 制 下 に も か か わ ら ず 、 ひ そ か に 伸 長 し た の で あ っ た 。 一方、瞳摩藩の真宗取締りの制度も漸次整備されていった。すなわち、寛永十二年三六一二五︶幕府が切支丹改めを 行なったのに呼応して、藩においてもはじめて人別に手札を附し、 切支丹と共に真宗門徒の検断を行ない同十五年に は与を通じて取締り、与頭が与土の宗門を監察する方法がとられた。また明暦元年︵一六五五︶には藩政の一部門とし て宗体座が設けられ、元禄十二年三六九九︶四月に宗体改方、宝永六年︵一七一
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︶九月に宗門改方、安永七年︵一七 七八︶五月に宗門改係とそれぞれ改称され、真宗取締の制度は強化されたのである。 さらに宗門の取締はきめこまか に行なわれ、安永五年︵一七七六︶八月に﹁宗門方加役は年々両三度づっ行廻り、末々まで申聞き其首尾届出るベし﹂ と達し、同九年には﹁庄屋も毎年五月、十二月の両度所中を行廻り、 と、庄屋に年二回の宗門探索を命じていら 右月限り内に其の首尾を宗門改所へ届出る事﹂ ところで、この真宗信者取締の実態は如何なるものであったであろうか。天保十四年︵一八四二一︶の薩摩門徒の本願 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 九薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 二
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寺への報告に左記の如きものがある。 天正年来、本府域内ニ宗門座︵奉行六頭、横目弐人、出役廿四人、 同 心 足 軽 品 川 六 人 、 下 目 付 諸 郷 不 レ 知 レ 数 ︶ 多 人 数 扶持方、諸雑費労科等皆宗門過人之課銀より宛行候式ニ御座候由ニ一冊、是非毎年五六郷宛操合を以、法難破壊ニ相 ⑬ 成 候 様 、 致 方 を 以 相 行 申 旧 式 − 一 一 問 、 准 ニ 弐 三 拾 年 廻 ニ 者 難 逃 義 ニ 御 座 候 すなわち、宗門座の扶持方・労科・諸雑費は宗門科人の課銀によってまかなわれ、 藩が行なう宗門検索は毎年五、六 郷づっ行なわれていた。領内百二十四郷あったので一郷にすれば二・三十年に一回の割合で宗門検索が行なわれると いうのである。たしかに、真宗門徒の弾圧には地域差・時間差がみられ、罪の軽重も様々であったようである。それ 故に後述するが如き、門徒と本願寺の連絡はこの取締の間隙をぬってとられたのであろう。 し か し 、 天 保 六 年 ︵ 一 八 三五︶には薩摩藩全土にわたって真宗門徒の大弾圧が行なわれた。 先細布講惣代の伝右エ門ら四人はその苛酷な弾圧 の 様 子 を 次 の 様 に 報 告 し て い る 。 南国諸講々、去未年御法難蜂起仕、国中不レ漏根葉を枯、 厳重之札明、誠ニ以前代未聞之振ニ御座候。 先男子者宗 門座︵本府並諸郷々ニ宗門吟味之役席を構へ奉行壱人横目弐人書役四人足軽拾弐人︶之庭ニ木馬を筋り、 割木之上 ニ座せしめ、膝上ニ五六捨斤之石を乗、左右短棒ニ市打博致し、皮肉破れ血流、脚骨砕。女子者赤裸ニ成し木馬−一 乗、或ハ隠門ニ大縄ヲ挟ませ双方前後より挽倒し、捧揖いたし、珂責に逢ひ候得共、元来堅固之族ハ不惜身命ニ覚 悟仕、勿論御文章之中盗人ト云ハるとも之御教化を奉重白状不仕候者、悉く五駄被打砕、病者と相成、或ハ入牢、 或者親類預様ニ而、裁許中長髪ニ而生恥を与ふるといふ振ニ一間御座候得者、 日 比 未 熟 之 同 行 共 、 無 一 一 是 非 一 罪 ニ 伏 し 候 故 、 本 尊 諸 道 具 等 持 出 役 筋 へ 相 渡 候 、 依 レ 之 本 尊 者 本 府 蔵 入 致 し 、 諸 道 具 ハ 其 処 々 ニ 市 焼 拾 − 一 い た し 、 不 レ 被 レ 当 レ ⑬ 目 事 と 御 座 候 由 之 事 。それでは、天保六年に何故にこのように執助な真宗門徒の弾圧が行なわれたのであろうか。薩摩門徒はその直接の 原因を次のように言上している。 ︵ 男 カ ︶ 元来東目畑草講弁蒲生之白和に去春の法難之瑚、 御 改 革 上 納 帳 被 一 一 奪 取 一 猶 又 於 一 一 諸 所 一 御 印 書 類 彼 方 よ り 吟 味 仕 出 し ⑮ 候 よ り 事 起 り 、 莫 大 − 一 国 財 他 国 へ 漏 候 ニ 付 、 自 然 と 国 中 及 一 一 困 窮 一 与 申 吟 味 根 跡 ニ 相 成 候 由 、 誠 − 一 以 苦 々 敷 存 申 候 事 。 すなわち、天保六年の真宗門徒の弾圧は、その前年の春、 東白畑草講と蒲生の法難の際、本願寺財政改革上納帳を奪 い取られ、莫大な国財が他国へ流失していることが知れた。 そこで国が困窮するということで吟味が行なわれ例年と ⑫ その立役者、調所広郷が五百万両の は具り弾圧が厳しかったという。時に薩摩藩においては財政改革の途上であり、 藩の負債を二百五十年期限無利子償還という暴令を実施した年であった。 ち な み に 、 ﹁薩摩諸講御執持﹂斉藤紹甫は ﹁ 天 保 未 年 ︵ 六 年 ︶ 以 来 、 国 制 如 レ 蜂 発 り 、 諸 講 如 レ 麻 乱 れ 、 御 本 尊 諸 道 具 滅 元 仕 候 。 国 民 の 難 渋 、 実 に 以 不 レ 忍 レ 問 、 奏始皇の暴逆も加様の次第に御座候はんと、悲歎仕計に御座候。其根本国法を申募候得共、畢寛、則国財を樫貧仕候 より、御冥加献上銀、御荘厳等無益と心得違、国用の財物、珍敷器物等上納、嫉妬偏執の存意、役人共の姦暴に御座 候 、 国 主 先 代 よ り 錠 聞 候 に 、 一向宗の儀は、国に於て桐敷御禁制被ニ仰達一置候の処、密互に修行致し、売国則引入他 ⑬ 国僧、珍敷器物等及ニ頑発﹁国賊同様の次第其罪不レ軽﹂と、本願寺に報告しているのである。 ﹂ う し て 、 天 保 六 年 の 薩摩藩全土にわたる大弾圧の直接の原因は、薩摩藩の財政改革と相候って、門徒が本願寺に上納することによって流 失するところの国財を阻止しようとする経済的な理由が考えられる。 四 それでは前述の如き真宗禁制下にあった薩摩門徒に、−本願寺は如何に対応したであろうか。本願寺と薩摩門徒の基 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 木 願 寺 の 動 向
薩 摩 潜 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 本的な関係は講を中心として展開した。 講は本願寺へ懇志を上納し、 本願寺は講へ信仰のきづなとなるところの本 尊・親驚・蓮如両御影・前門主御影等の免物を下付し、 また御書をもって法義の引立にあたった。本尊・御影等は隠 蔽しやすいように小幅のものを下付し、あるいは、薩摩講中だけには保管に便利な二尊御影を下付するなど特別な配 慮を行なってい旬。しかし、なんといっても、本願寺の麗摩門徒への最大の働きかけは人命にかかわるところの使僧 の 派 遣 で あ っ た 。 いま、この使僧の動静を窺うことによって、 近世本願寺教団の性格を考えてみよう。 使僧の派遣について、文化三年︵一八
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六 ︶ 、 本願寺第十九代本如はその消息をもって﹁抑其国ハ元亀之頃ヨリ爾来 法 義 相 続 − 一 難 儀 ナ ル 提 − 一 シ テ 、 末 寺 モ ナ カ ラ ネ パ 使 僧 等 モ 差 向 難 キ ニ 、 各 々 後 生 之 一 大 事 − 一 心 ヲ 懸 一 フ レ 講 ヲ 結 ピ 遠 境 ヲ厭ハズ本山へ参詣セラルルコト有難キコトニ候エ﹂とのべており、 当時はあまり使僧の派遣は行なわれていなかっ たようである。本願寺が積極的に使僧の派遣を行なうようになったのは本願寺の財政窮乏の打開策がとられた頃から であり、管見の史料では、文政十年︵一八二七︶に本願寺の財政改革に参画した博多浄泉寺曇冥を差し向けたことを初 見とすヤ曇冥は築前国早良郡樋井川村大字片江︵現在地、福岡市片江町︶浄泉寺の第六世住持であり、 はじめ義諦と 称したが、後、曇冥と改名した。彼は文政九年十月、本願寺より 今 般 西 国 筋 、 御 法 義 為 ニ 御 引 立 一 被 一 一 差 向 一 候 問 、 其 先 々 領 主 地 頭 不 ニ 差 支 一 様 巡 在 可 レ 有 レ 之 候 、 何 而 此 段 申 達 候 也 下 問 民 部 法 橋 ︵ 在 判 ︶ ⑫ との達誌を受け、翌年正月に入国した。彼はこの間の動向を﹁亥正月二日鬼界出役中御用諸記巻上御使僧浄泉寺﹂と 主 に 北 薩 地 方 の 諸 講 を 巡 回 し 、 ③ 天 保 三 年 ︵ 一 八 一 三 一 ︶ 四 月 に は 静 遊 寺 を 差 し 向 け 、 の 援 助 を う け な が ら 、 醒摩藩と隣接するところの肥後芦北︵水俣︶の西方寺・西念寺・源光寺・光明寺 同年六月まで法義引立と募財の任にあたったのである。また、 題し記録している。それによれば、 さらに翌四年には﹁比度薩州諸講々より法義御引立井御印鑑取締芳、当年より五ヶ年の問、御声掛り五ケ寺つつ御差向の儀願出御聞済と相成、則蓮教寺・直純寺・明光寺・浄宗寺・ @ 蓮舟寺・常念寺御差下相成候間云々﹂として、法義引立と本願寺使僧と自称するいかがわしい僧侶もあったのでその 取 締 の た め 、 五 ヶ 年 の 問 、 五ケ寺を差しむけることとした。さらに、嘉永元年︵一八四七︶本願寺は薩摩門徒の﹁私国 三業大路︵魯︶とや申人身越かくし居候土地にて彼徒義も大分ニ御座候。十却邪義或ハ機なけき等の等の具安心の固 執 の 者 も 多 く 候 ヘ ハ 、 幸一存上一色との請に応じ、明勝寺探玄を差し向けた。すなわち、本願寺は、三業派智洞の門下大魯の潜伏によって 是等も当節御書弁御使僧様として、 明勝寺様御差向被下候ハ t A 、御威光を以やわらき可レ申と 三業安心の影響を受けつつあった薩摩門徒の安心改易のために、筑前大行院曇龍社中の明勝寺探玄︵当時三十才位︶を 薩摩に入国させるのであった。尚、この時、探玄と一緒に入国した兄法運は召し捕えられている。 @ 達書を下し、蔭摩に派遣した使僧に、左記の人予を掲げることが出来る。 ﹂ の 外 、 本 願 寺 が 天保五年
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妙光寺・浄光寺・安楽寺︵出役三ケ寺﹀ 天保六年i
浄泉寺曇冥再入国 天保七年善照寺・西福寺 安政元年|安芸高田郡真徳寺無涯︵安政三年、薩摩の役人におわれ、 日 向 宗 久 寺 で 自 害 ︶ 安 政 四 年 神 龍 五 こうして本願寺は真宗禁制下にあった薩摩門徒への伝道を怠ったわけではなかった。下付する免物にも特別の配慮 を払い、人命の危険をおかしてまでも使僧を派遣し、安心の改易を行い、 門 徒 個 人 に 対 し て は ﹁ 右 者 至 而 強 信 之 者 − − 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向一
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薩 摩 藷 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 四 一 昨 年 夏 以 来 法 難 之 閥 、 ③ 被レ下レ之﹂として法名を下すなど、遠隔地・真宗禁制という条件をこえてあらゆる手段をこおじて弘教につとめたと {戻 処 国 法 よ り 厳 敷 拷 問 有 レ 之 候 共 白 状 不 レ 致 、 終 ニ 其 節 致 命 終 候 段 、 奇 時 至 被 ニ 思 召 一 を 以 いってよい。しかし、それは薩摩の真宗門徒を救済する根本的な解決にはならなかった。 本願寺は薩摩門徒を弾圧す るところの政治権力、すなわち薩摩の国法に対して抗議することなく、 また門徒に対しては﹁此信心決定ノ上ニハ、 @ カギリアル年貢等ヲ具ニ沙汰シ、存命ノ間ハ法義無一一油断−相続セラレ云々﹂と 王法国法ヲ守り、地頭領主ヲ重ンジ、 王法国法に従順することを達しているのである。薩摩の門徒が国法を遵守することは真宗信仰を放棄することであっ た。こうして本願寺は矛盾する達書を下し、 また自らは薩摩藩の国法を破り、使僧を派遣してまで伝道につとめ、白 らの発言と矛盾する行為をしているのである。 一方、陸摩門徒も藩の真宗禁制政策に対して変革や抵抗の態度を示し たことはなかった。そればかりでなく、本願寺の﹁王法、 国法を守り云々﹂という矛盾している達書をすなおに受け 王法と仏法の両立を掲げる真宗の伝統の教えを信じこんでいたものにほか 入れているのである。この門徒の意識は、 ならない。また本願寺も真宗の伝統の教えをそのまま伝えたものである。 それはあくまでも仏法を中心として、それ を貫ぬいた実践といえよう。 しかし、上述の如く、実践的には、 門徒は薩摩の国法を破り、本願寺もまた国法を無視 した行動をとらざるをえなかったのである。 すでに大谷大学柏原祐泉教
品 。
授が言究された如く、近世本願寺教団には﹁封建的な面﹂と﹁信仰教団﹂的な二面があることが指摘出来よう。しか こうして、薩摩藩の真宗禁制政策に対処した本願寺教団の事実の現象を分析するとき、 も、その封建的制度的な面と、信仰的な面とは矛盾的に教団の二面をなし、 近世本願寺教団を形成していたといえ る。薩摩の真宗禁制をめぐる幕末の本願寺教団の動向において、 ﹂の教団の潜在的矛盾が最も顕著にあらわれたもの と い え る で あ ろ う 。註 ①真宗禁教令の初見は、慶長二年二月、第十七代藩主義弘 のム災害ユ向宗之事、先祖以来御禁制之儀に侠之条、彼宗 鉢に成候者は曲事たるべき事﹂の一カ条である。 ③薩摩の真宗の伝道史をとりあつかった論稿には二葉憲呑 ﹁幕末における薩藩の真宗真宗伝道史の一側面