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わが国における音楽経言うの歴史的変遷 (続)
古 田 庄 平
序この論文は長崎大学教育学部人文科学研究報告第24号(昭和50年)の続編である。
IV 昭 和 前 期
明治40年(1907)第3回目の改正によって「唱歌科」が必修科目となり,わが国の音楽 教育制度上に一大区画を示した「小学校令」は,大正15年(1926)の改正によって,学級 担任制を原則としながらも,教科担任制が認められることになり,「唱歌科専科訓導」の 地位が確立された。これによって音楽科教育の進展が促がされることになったが,教則第 9条(最初は第10条であった。)「唱歌ハ平易ナル歌曲ヲ唱フコトヲ得シメ兼テ美感ヲ養
り コ
ヒ徳性ノ洒養二資スルヲ以テ要旨トス」 (傍点筆者)は,依然として改正されないまま,
昭和の時代へ受け継がれて来たのであった。
大正末期から昭和初期におけるわが国の政治,経済,国民思想上の混乱は,教育界にも 影響し,わが音楽教育界にも動揺が見られ,文部省の規則にかまわず,各人各様の授業や
ユ ま
研究がなされた。中でも当時音楽教育に特に深い研究と実績を表わしていた青柳善吾は,
音楽教育の目的について,「精神を智情意の三方面に分けて考えるならば,智に対しては 智育を,情に対しては美育を,意に対しては徳育を顧みなければならない。智育は科学に
コ り の り コ つ ヨ
よって,美育は芸術によって,徳育は道徳および宗教によって行なわれるべきであり……
(傍点筆者)「芸術感と道徳感とは,その根底において非常なる相違がある。根底の相違 を無視し,徳目を羅列したに過ぎない歌曲を歌って道徳を教へ,徳性を養渦しょうとする が如きは木に拠って魚を求めることよりも遙かに難いことてある。」「音楽には徳性涌養 の直接的指導精神は無いのであって,音楽教育を彼の修身教授と混同し,徳育の方便と見 ることは,芸術としての音楽の独自性を無視する所以であり,音楽教育の真義を没却する り訳である」と音楽教育は徳性の洒養が目的ではないこと,徳育の方便と見てはいけないと 戒め,「音楽教育の目的は美育であり,人間性の具現である。」と結論づけている。また ら 「文部省の唱歌教授要旨が時代に適切せず,音楽教育新思潮に距離があり,抽象的の言葉 が羅列されるのみにして,その真義を把捉し居ない欠陥に帰さねばならぬ。彼の教授要旨 は,実に三拾余年以前に制定されたる儘であり,新時代に適切させ新思潮を掬んで改正さ
れたことが一度もない。」と小学校令教則第9条が改善されないままで,当時の音楽教育に 適切でないことを痛烈に批判している。また青柳と同様に,当時音楽教育の実践と研究を 重ねていた草川宣雄は,「音楽教育の目的は被教育者の中にある音楽的諸能力を刺激し,
感情,幻想,形式意志,形成可能を発達せしめ,全人教育に貢献し,又倫理教育に貢献せ んとするものである。(中略)更に音楽科の目的を考える時に,音楽教育は果して徳性の 涌養に資する力ありゃ,道徳教育と音楽教育とは価値の領域に於て,全く相一致するもの なるか否か等の重大な問題を考査する必要がある。」として,「音楽芸術の目指す処は音の 芸術美であり,道徳の目指す処は善であり,芸術感と道徳感とは根底的に大なる差異を示
して表る。」ものであって,「美的価値と倫理的価値の領域とには,本質的な差別がある。
さらば何故に音楽が徳性の瀕養に資すること大なるかと言へば,(中略)即ち完成せる人
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間にまで築き上げる一大要件として,音楽は其効果を顕はし,以て徳性の炉内に其の重大 ま
使命を果さんとするものである。」と論じている。この二人の音楽教育の目的感は芸術教 育としての音楽教育と道徳教育との違いを述べたものであって,ペスタロッチ及びネーゲ リーの音楽教育思想を継ぐ当時のドイツにおける音楽教育思潮の影響である様にうかがえ る。また北村久雄は昭和1年忌音楽教育の新研究」,山本寿は昭和3年「音楽教育の三大 方面」,七尾純は昭和8年「私の音楽教育」など著書や論文によって,音楽教育の目的及 び真の使命感などについて論じ,学問研究などがなされ,音楽教育を一段と近代的な方向 へ導いたかに見えたが,これ等はまだ一部の進歩的な研究家のみにとどまり,直ちに教則 を改正させる程の威力を発揮するところまでには至らなかった。
一方ラジオ,レコード及び蓄音器の普及による新しい音楽の伝達の手段は,音楽を広く 全国的に伝え,学校のみならず一般社会での音楽の鑑賞熱を高める役割をなしたが,同時 に経済不況の副産物として生れてきた退廃的な流行歌をも広める役割もなし,学校音楽教 育の指導者達は,その流行歌対策に頭を痛めることにもなった。
昭和6年(1931)9月満州事変勃発,昭和7年(1932)!月上海事変勃肇。同5,月犬養 首相殺害(5・15)事件,とわが国内外の社会変動が烈しくなり,教育界への影響も現わ
れはじめた。
昭和8年(ユ933)1月「小学校唱歌教育研究大会」において,文部省諮問案(「小学校,
唱歌教授二関シ時勢上特二留意スベキ事項如何」)に対して,「時勢二適シタル小学校唱 歌用教材ノ充実ヲ計ルコト」 (イ)社会的,共同的精神ノ振興二適スル教材ヲ多クスルコ ト(ロ)国家ノ栄光,国家ノ偉人等ヲ讃ヘルが如キ教材末ダ少ナキヲ感ズ,且現存スルモ ノモ歌詞丁々難解ナルモノ多シ,コノ方面ノ良教材ヲ多クスルコト(ハ)学校唱歌ト社会 音楽トノ統一ニヨリ,社会音楽ヲ善導シ得ルが如キ良教材ヲ多クスルコト)を決議し答申
した。これによって当時の唱歌教育者達の時局に対処しようとする姿勢が伺える。また同 大会において,日本教育音楽協会より協議題(全国的二音楽週間ヲ挙行スル必要ナキカ)
が提出され, 「音楽ヲ社会的二普及シ,教育的二振興スル為ノ文化運動トシテ」, 「文部 省及日本教育音楽協会主催トシテ全国ノ音楽二関係アル団体ヲ参加セシメルコト。諸学校 了於テ構成可クコノ週間二音楽会ヲ開催スルコト,学校連合音楽会及コンクールヲ行フコ ト。音楽講演会及講習会ヲ催スコト。」などの方針により「音楽週間」を開催することが
きま ラ
決議され,昭和8帯く1933)n,月ll日〜17日が第1回の「音楽週問」に決定され,全国各 地で色々な音楽行事が開催された。
昭和8年(1933)3月国際連盟脱退。昭和9年(1934)12月軍縮条約破棄。昭和11年
(1936)2月青年将校の反乱(2・26)事件。昭和12年(1937)7月日華事変(日中戦争)
勃発。同年10,月国界精神総動員計画実施要綱発表。同年11月第5回音楽週間が開催された が,当初「音楽の社会的普及と教育的振興を目的とした文化運動」として発足したこの催
しも,「国民精神総動員報国音楽週間」という国民的精神を発揚せんがための「国民精神 まユの 総動員」運動に組み込まれ,「愛国文化運動」ともいうべき性格のものに変容していった。
り り り ロ の り り り る り つ り
そして音楽は国家精神統一のための手段として利用されたのであった。そして軍国主義体 制,ファシズム体制は強化され,軍閥は官僚を支配し,官僚は国民を統制して,徐々に国 家統一を計り,昭和15年(1940)9月日独伊三国軍事同盟を結び,昭和16年(τ94ユ)12月 大平洋戦争を開始し,第2次世界大戦に突入したのであった。
わが国における音楽科教育の歴史的変遷(続) (古田) 57
昭和10年(1935)11,月文部省は「教学刷新評議会」,昭和12年(1937)5月「文教審議 会」同年12月「教育審議会」などを設置し,教育改革の準備に着手して来た。そして昭和 ユ3年12月8日教育審議会は第10回総会を開き,「国民学校,師範学校及幼稚園二関スル件」
ユわ
の答申を行い,「教育ヲ全般二互リテ皇国ノ道二帰一セシメ」ることを建議した。これに よって「皇国民錬成」を目標にした国民学校が生まれることになった。
日中戦争勃発以後の戦時体制化による軍部の教育に対する発言権の強化により,教育界 も国民的精神,愛国的精神の強要が促がされ,文部省の教育政策の転換気運と共に,次第 に軍国主義が音楽教育界にも浸透し,昭和15年(1940)第5回の全国協議会においては,
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時局に迎合するような研究発表が多くなされた。
昭和16年(1941)3月教育審議会の答申に基づき,「国民学校令」が制定され,その第 1条に「国民学校は皇国の道に則り,初等普通教育を施し,国民の基礎的錬成を為すを以 て目的とす。」という「皇国民の錬成」を目的とする教育姿勢が示され,小学校は「国民 学校」と改称されることになり,義務教育年限は「初等科」6ケ年,「高等科」2ケ年の 計8ケ年と延長され,教科課程も大々的に改革されることになった。
「初等科の教科」国民科(修身,国語,国史,地理)理数科(算数,理科)体錬科(武 道,体操)芸能科(音楽,習字,図画,工作,裁縫「女」)
「高等科」はさらに「実業科」 (農業,工業,商業,水産)が加えられ,5教科となっ た。ここにおいて,これまでの小学校における「唱歌科」は,国民学校「芸能科(音楽)」
と改称されることになり,その教則内容は,「芸能科音楽ハ歌曲ヲ正シク歌唱シ音楽ヲ鑑
ロ り
賞スルノ能力ヲ養ヒ国民的情操ヲ醇化スルモノトス。」 (傍点筆者)
む り
「初等科二於テハ平易ナル単音楽歌ヲ課シ適宜輪唱歌才重音楽歌ヲ加へ且音楽ヲ鑑賞セ
り り り
シムベシ又器楽ノ指導ヲナスヲ得。」
り り り り
「歌唱二即シテ適宜楽典ノ初歩ヲ授クベシ。」
「高等科二於テハ其ノ程度ヲ気圏テ之ヲ課スベシ。」
り り り の り ゆ り り り
「歌詞及楽曲ハ国民的ニシテ児童ノ心情ヲ快純美ナラシメ徳性ノ洒養二資スルモノタル
ベシ。」 (傍点筆者)
「児童ノ音楽的資質ヲ啓発シテ高雅ナル趣味ヲ瀕養シ国民音楽創造ノ素地タラシムベ
シ。」
「発声及聴音ノ練習ヲ重ンジ自然ノ発声ニヨル正シキ発音ヲナサシメ高低強弱音色律動
り り り り
和音等二対シ鋭敏ナル聴覚ノ育成ニカムベシ。」
「祝祭日等二於ケル唱歌ニツキテハ周到ナル指導ヲナシ敬慶ノ念ヲ養ヒ愛国ノ精神ヲ昂 揚スルニカムベシ。」
「学校行事及団体的行動トノ関連二留意スベシ。」
以上の平な内容で,「芸能科音楽」の教育目的は,「小学校」における「唱歌科」の「徳 性ノ1函養二資スル」という目的から,「国民的手操ヲ醇化スル」ものであるという目的に 変り,「徳性ノ涌養二資スルモノ」は「歌詞及楽曲」であることになった。明治24年の
「小学校教則大綱第IO条」に示されて以来50年もの間改変されることなく続いてきた「徳 性の酒虫に資スルヲ以テ要旨トス」る音楽科教育の目的は姿を消すことになったのであっ た。ここにおいて振り返って見ると,この新しい音楽教育の目的の誕生は,社会的変動及 び文部省の教育政策の転換が直接の要因ではあったろうが,昭和初期における青柳善吾ら
58 長崎大学教育学部人文科学研究報告 第25号
一連の音楽教育研究家達の「音楽教育の目的論」による強い改善意見や,他の多くの実践
ユヨ ユ
的研究が,生かされたものと見ることができよう。即ち「鑑賞指導」を重視し,「器楽指導」
ユら ユ
が可能になり,音楽の「基礎指導(楽典,聴覚訓練)」が制度上明確に示され,近代的な 音楽科教育の姿に発展したことである。
ユの
しかしながら「儀式唱歌の指導」が強く打ち出された事は,音楽科教育が,「愛国精神 ヲ昂揚シ」 「皇国民ノ錬成」をうたいながら,「皇道主義」「神国主義」及び「絶体主義」
教育に加担し,利用される糸口になったのである。
この教則にのっとり,「国民学校用教科書」が新らしく作成されることになり,国民学 校令公布以前の昭和ユ5年(ユ940)5.月,国民学校用教科書編集が計画され,音楽科も教科 書編集委員(小松耕輔,松島つね,井上武士,橋本国彦,下総院一,小林愛雄,林柳波の
7名)が任命され,(橋本国彦は翌16年に辞任し,城多又兵衛が加わった。)「国民学校
芸能科音楽教科書」が編集,発行された。この教科書は,それまでの小学校で自由に選択 使用されてきた「文部省検定済み教科書」や「文部省編纂発行の教科書」などを全部使用 中止させ,この教科書だけに統制して使用させることになった「国定教科書」である。ま たこの教科書の教材は,編集委員の一人である井上武士が「軍国教育を徹底させる目的 で,平和とか自然とかを歌う歌詞は失われ,尊王とか国家礼讃とかの歌詞が重きをなして いる(中略)その大部分は新作であり,別に教師用書もつくられ,それには教育方針はも ちろん,個々の教材についての注意,伴奏仕初をのせ,更に各学年の器楽指導や鑑賞指導 についてもくわしい解説をのせている。ここに軍国主義に副つた解説が巧みに盛りこまれ
ユ
たのである。」といっている様に,「君が代」及び「儀式唱歌」がそれぞれ各学年の教科 書の巻頭に掲載され,他の曲も軍国主義及び忠君愛国的な歌詞のものが多かった。このこ とからも, 「国民学校芸能科音楽」の教科は,教材及びその教育方針などによって,軍国 主義教育・国家主義教育の一端を担わせられていたことが明白である。
新しく設けられた「聴音訓練」は,当初は芸術教育としての音楽教育の基礎能力の訓練 として発足した様であったが,戦争もたけなわとなり,敗色濃き昭和19年(ユ944)の後半 ま の
頃から,この「聴音訓練」は, 「和音感教育」とか「絶体音感教育」と称して,軍部よ り奨励(半ば強要)され,飛行機の爆音の聞き分けとか,潜水艦の水進年豆の探知などの 目的のために行なわれた。 (筆者は当時国民学校6年生で,実際に飛行機の爆音と機種の
判別のための和音聴音練習を受けた記憶がある。)また「遠慮唱法」も,それまで用いら れていた「階名唱」 (ドレミファソラシド)を廃止して,「音名」 (ハニホヘトイロハ)
による「固定ド唱法」を用いることになった。 (これは絶体音感をつけるための目的であ ったようだったが,一方,「ドレミファ……」は外来語(敵国語)であるという理由で排 斥されたということも聞き及んでいる。)
昭和20年(1945)に入ると戦争も増々烈しくなり,「学徒動員」 「国民皆兵」 「本土決 戦」の声も高まり,一方空襲により都市が焼かれ,子供達は集団で田舎に疎開し,苦しい 集団生活をすると共に,毎日の様に小旗を打ち振り歌う「出征兵士を送る歌」 (「勝って くるぞと勇ましく……」など軍歌)が国民学校芸能科音楽の授業に取って変わってしまっ
たのであった。
わが国における音楽科教育の歴史的変遷(続) (古田)
59V 昭 和 後 期
昭和20年(1945)8月15日 わが国の無条件隣…伏によって,大平洋戦争の幕は下ろされ,
事実上,第2次世界大戦は終結したのであった。しかし広島,長崎をはじめ東京,大阪な ど都市と名の付くほとんどの街は戦災によって焼土と化し,多くの死者を出すと共に,生 き残った者も住む家は無く,食事にも事欠き,あまりの悲惨さに,皆虚脱状態に落ち入 り,なすすべも知らず,ただ右往左往するばかりであった。
昭和20年9月2日正式に降伏調印が行なわれるや,直ちに日本は米軍を主とする連合国 軍の占領下に入ることとなった。そこでマッカーサーを連合軍最高司令官とする占領軍
(後駐留軍とも呼んだ。)は東京の宮城前に占領軍総司令部(G・H・Q)を設置し,日 本全土の各要所都市に駐留軍を派遺し,救済活動と同時に都市整備の指導をした。
占領軍総司令部は早速「日本の教育制度に対する管理政策」なるものを出し,「教育の 基本的政策」なるものを示した。それは「極端な軍国主義,国家主義的な教員の追放」と
「神道による教育の排除」及び「修身,日本歴史,地理教育の停止」などの命令であっ た。そこで文部省では直ちに,(1)軍国主義的なものを排除すること。②超国家主義的なも のを排除すること。(3)神道に関係のあるものを排除すること。の三項目を「教材選択の一 般方針」として示すと共に,昭和21年6月「暫定教科書」 (これは国民学校の教科書中教 材選択の一般方針にふれる部分を墨で塗りつぶしたりして削除し,差しさわりの無い教材 だけ残したもので,いわゆる「黒本」と当時呼ばれた教科書)を急遽編集,発行し,新し い教科書ができるまでの応急の措置として使用させると共に,各科一斉に新教科書編集の ま
準備にとりかかった。直ちに小学校音楽教科書編集委員(岡本敏明,平井保喜,小林つや え,勝承夫外数名)中学校音楽教科書編集委員(井上武士,下総二一,城多又兵衛,小出 浩平,名倉晰,岡本敏明,勝承夫)が任命され,文部省の諸井三郎と近森一重が中心にな って新音楽教科書の編集が始あられ,翌昭和22年5月から7月にかけて編集完了し,発行
ま ヨ
されたのであった。この教科書がわが国における「国定教科書」の最後のものとなったの である。この教科書の教材を見ると「わらべ歌」「童謡」「唱歌」「新作曲」「外国の歌 曲や民謡」など非常に広い範囲から集められている。またこの教科書から初めて作詞者,
作曲者の名前が明示されることになったのであった。
昭和21年(1946)第1次米国教育使節団が来日し,教育改革の骨子が示された。そこで
「教育刷新委員会」が結成され,教育の理念や,教育基本法に関すること及び教育制度な どについて審議がなされることになった。
昭和21年ユ1月3日新しい日本国憲法が公布され,翌昭和22年(1947)3月29日「教育基 本法」及び「学校教育法」が制定された。そこで従来の「国民学校令」は廃止され,「国 民学校」は再び「小学校」という名称になり,絶体主義・超国家主義及び軍国主義的教育 体制は解体され,民主々義の精神に立脚した「基本的人権を尊重し,自由と平等を旨とす る教育理念」と「6・3(義務教育)3・4制」及び「教育の機会均等」などの原則が定
められた。
昭和21年6月頃,占領軍総司令部の一組織である。C・1・E(民間情報教育局)から
「教科書の編纂を中止し,コース・オブ・スタディーを作成せよ。」という命令を受けた 文部省では,急遽研究会を組織し,「コース・オブ・スタディー」の研究を始めた。先づ
「:コース・オブ・スタディー(Course of Study)」は「学習指導要領」という日本語訳
60
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第22号
で用いられることになると共に,デューイの教育学だの,社会科の有名なコース・オブ・
スタディーである「バージニアプラン」だのの研究がなされ,一方では新しい教科書の編 ヰノ
集がなされているかたわら,「学習指導要領」の作成討議が重ねられて行った。
昭和22年(1947)3,月「学習指導要領一般編(試案)」が発表され,続いて同年6月「学 習指導要領音楽科編(試案)」が発表されたのであった。この「学習指導要領音楽断編
(試案)」 (以下「第1次試案」という。)は,小・中学校つまり義務教育(9年間)が 一冊にまとめられたもので,戦後のわが国における学校(特に義務教育における)音楽科 教育の方向とその学習内容(歌唱・器楽・鑑覚・創作・理論)が明確に示されたもので,
わが国音楽教育史上,画期的なできごとであった。またこの「第1次試案」は,「現場の
む り り り り り り り り の り り り り リ コ リ リ コ の の
教育実践のより所となる指針を示したもので,単なる参考資料ではなく,かなり強い性格
ゆ
をもっていた。しかし,時勢の移り変わりに適応するよう随時変更の可能性を残したので
り む む り り り り
ある。指導要領が試案となっているのは,この意味からで,現にその後数回改訂されてい
の む り の ゆ コ む り
る。この点が,いわゆる法規とは異なるところである。 (教科書が国定から検定に移行す る際決めた検定基準は,指導要領に基づく。したがって指導要領の改訂に伴いその内容も
か らノ
改訂される。)」 (傍点筆者)と当時の関係者が述べているように,特別な性格と効力を 持っていたようであった。この第1章「音楽教育の目標」では,「音楽美の理解,感得を 行ない,これによって高い美的情操と豊かな人間性とを養う。」と音楽が教育の面で果た すべき役割が明確に示されたのである。またこの目標のとらえ方について,「音楽教育は情 操教育である,という原則は今も昔も少しも変っていない。しかし,その意味のとり方は 従来必ずしも正しい方向にあったとはいえない。音楽教育が情操教育であるという意味 は,音楽美の理解,感得によって高い美的情操と,豊かな人間性を養うことである。従来 の考え方のうちには,音楽教育を情操教育の手段として取扱う傾きがはなはだ強かった。
しかし,音楽は本来芸術であるから,目的であって手業となり得るものではない。芸術を 手段とする考え方は,芸術の本質を解しないものである(中略)以上のような観点から,
今後の音楽教育はあくまでも純正な音楽教育であるべきで,児童がよい音楽を十分に表現 し,かつ理解するようになることを目標とし,これがそのまま正しい情操教育であるとい め
うことを,しっかり考えておかなければならない。」と説明が述べられている。これは,唱 歌教育時代の「徳性ヲ瀕養スル」ための手段であった音楽教育や,国民学校芸能科音楽時 代の「軍国主義」,「国家主義」教育の手段であった音楽教育であってはならないことを強 く戒めると共に,反省しているものとも受け取れる。この考え方は,当時文部省のコース
・オブ・スタディーの研究者に種々のアドバイスを与えたC・1・E(民間情報教育局)
の考え方,もしくは当時のアメリカの音楽教育感であったようにも思われるが,そう考え るよりも,この第1次試案の音楽編を担当し,当時教科書局図書監修官であった諸井三郎 の音楽教育感であるように思える。それは,この第1次試案が発表される直前の昭和22年
註27)
1月に発行された「音楽教育論」という著書の中で彼は「音楽教育の目的は音楽そのもの に対する知識や技術を学び,これによって音楽が芸術として持っている美の把握をより深
く可能ならしめ,この美の感得或は把握を通じてより高い人間性を展開せしめることにあ る。(中略)音楽が手段であることは誤りで,音楽はそれ自身で目的である。 (中略)音 楽教育の根本方針は当然音楽美の把握,そしてそれを可能ならしむる音楽についての知識 及び技術の習得という点に重点がおかれなければならない。(中略)今後の音楽教育は,
わが国における音楽科教育の歴史的変遷(続) (古田)
61註28)
歌唱・器楽・和音・鑑賞・創作の各面を含むものでなければならない。」と述べている。
この様な点から第1次試案の音楽教育感は諸井三郎の音楽教育感であると言ってよいだろ う。またこの音楽教育感は,芸術教育の一端としての音楽教育の本質的な理念とも言え,
戦後30年たった今日でも通用する理念であり,「音楽科教育の原理」と言えるものであろ
う。
またこの第1次試案の学習内容は5領域(歌唱・器楽・鑑賞・創作・理論)設けられ,
特に「創作教育」が制度上初あて明示されたことは,注目に値する点である。しかし,こ の様に豊富な学習内容が設定されても,戦後間も無い占領下における学校で実施して行く にあたっては,当時の国内における国民の生活事情は想像を絶する程の悪い状態であった ため,多くの困難な問題を解決して行かねばならなかった。教科書及び指導資料の作成か ら,音楽教師の指導力向上のための実技講習及び指導内容の徹底,特に楽器及びレコード など教具の整備は困難であったため,鑑賞授業や器楽授業などは「絵に書いた餅」同然 で,実施不可能の状態が続いた。
昭和24年(1949)度以後は,国定教科書が廃止され,民間出版の「検定済教科書」が使 用されることになった。文部省は「教科書検定基準」を示し,それに則り民間で編集した ものを,文部省が任命した検定委員会で検定し,許可済みの教科書の中から,各学校に自 由に選ばせ,使用させることにした。これらの音楽科教科書の教材は,唱歌はもちろん,
わらべうた,童謡など,また日本の歌曲や外国の民謡など広い範囲から,それぞれの学年 に適すると思われる曲が掲載されていたので,新鮮な学習展開がなされ,教師や子供達に
も好評であった。
昭和26年(1951)6,月「中学校・高等学校学習指導要領音楽科編(試案)」が発行され た。これは昭和22年の「第1次試案」 (中学校用)の改訂版(以下第2次試案という。)
と,昭和23年(1948)から発足した「新制高等学校」のための学習指導要領とが一冊にま とめられものであった。これは中学校と高等学校との関連を密にするという建前から,中 学校の上に高等学校を積み重ねる方針で一冊にまとめられたが,目標及び学習内容などは 中学校とは分離して記載されている。この第2次試案(中学校用)の改訂の要点は,音楽 教育の一般目標を設け「音楽経験をとおして,深い美的情操と豊かな人間性とを養い,円
満な人格の発達をはかり,好ましい社会人としての教養を高める。」とし,民主主義社会 における社会人の育成を強調したことである。また指導内容は,従来の歌唱・器楽・創作
・鑑賞・理解という5領域から,4領域(表現〔歌唱・器楽〕・鑑賞・創作・理解)とい う考え方に改変され,また高等学校の学習指導要領は,中学校との関連が考慮され,内容 構成の形式は中学校と同様であるが,目標・内容の程度を高あ,深化する方向がとられて
いる。
昭和26年(1951)12月1日続いて「小学校学習指導要領音楽科編(試案)」が発行され た。一これは昭和22年の「第1次試案」 (小学校用)の改訂版(以下第2次試案という。)
で,今回から中学校と切り離され,小学校のみ独立することになった。この第2次試案 (小学校用)の改訂の要点は,従来の音楽の学習のように,音楽教室や,音楽の時間内の
みに限定され,しかも技術の習得のみに主眼がおかれるのではなく,それが広く家庭や地 域社会にまで浸透して,児童の日常生活全体の豊かさや明るさを与えなければならないこ とを明らかにした。したがって,小学校の音楽科においては,(中略)広い意味の人間教
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長崎大学教育学部人文科学研究報告 第25号
育の一面を分担すべきであること,また音楽はその特質上国際的理解に大きな役割を果す
ぎ の
ものであり,指導内容に「創造的表現」 (第1次議案では「創作」といった。)及び「リ ズム反応」 (第1次試案に無い新領域)を設けたことである。この様な音楽教育感及び領 域設置の考え方は,第ユ次試案とは少し異なり,アメリカの音楽教育思想が多く参考にさ れている点が伺える。それは「創造的表現」や「リズム反応」の重視及び「音楽経験」
「創造的学習」「直観的学習」などの言葉や,「児童個々の興味や能力の尊重」 「音楽と 社会生活との関連の重視」などの点から又教育課程のなかに「リズム反応」Rhythrnic Responceや「創造的表現」Creative Expressionを入れるようになったことなどは, C IE側の強力なサゼッションによるものであったし,また新しい形式の教科書をはじめ,
多くの参考資料(たとえば,ジェームズ・L・マーセル著のHuman Values Music Educationやマーセルとグレン女史との共著The Psycholgy of School Music Teach−
ingなどのほか,各州のコース・オブ・スタディー多数)などの供与を受けて,個人的に もいろいろと勉強をすることができた。このようにして昭和26年12.月1日に第2次試案の
小学校編が刊行された。と担当者自身述べていることからも伺い知ることができる。
昭和31年(1959)「高等学校の教育は完成教育である。」「高等学校の教育課程は各課〆 程の特色を生かした教育を実現すること。」などの点から高等学校学習指導要領(試案)
の改訂が行なわれ,それまで「芸能科」であった教科名も「芸術科音楽」となり,「創造 的表現技能の伸長」」など8項目の目標設定と「理論」「鑑賞」「表現」の3領域に整理さ
れた。
日本の社会情勢は昭和27年(1952)「日本の独立」昭和29年(ユ954(「教育2法案可決」
昭和31年(1956)「国際連合加盟」など,政治・経済・文化・化学・産業などの面で大き く進歩発展したことに伴い,教育課程の改善が必要となり,文部省では昭和31年(1956)
3月教育課程審議会に対して,その改善についての諮問を行い,昭和33年(1958)3,月そ の答申がなされ,それに基づいて,第2回目の学習指導要領の改訂の準備が進められ,同 年7月3ユ日改訂案の形で中間発表が行なわれ,加除修正の上,同年10月1日付官報に告示 された。この新しく改訂された「学習指導要領33年版」は,これまでのような(試案)と いう形ではなく,「文部省告示」という省令の形で公示され「法規」としての性格を強く 持ったわけである。この「法規」としての「学習指導要領33年版」は,占領下において作 成された「第1次及び第2次試案」のものと異なり,わが国独自の立場で作成されたもの で,約2年間の移行措置;期間を経て,昭和36年(1961)4月から実施されたのであった。
この第2回目の改訂による特色は, 「小学校音楽科」では, 「音楽経験を豊かだにし,音 楽的感覚の発達を図るとともに,美的情操を養う。」 (傍点筆者)など5項目の目標を示
し,学習領域は整理統合され,「鑑賞・表現(歌唱・器楽・創作)」の2領域となり,「鑑 ヨ
賞」と「歌唱」の領域に各学年3曲つつ「共通教材」を指定した。また「器楽」の領域に おいて,各学年使用楽器を指定すると共に4年生から「たて笛」が新しく取り入れられる ことになった。 「中学校音楽科」では, 「音楽の表現や鑑賞を通して美的感覚を洗練し,
情操を高め,豊かな人間性を養う。」など5項目の目標を示し,学習領域は整理統合され,
「鑑賞・表現(歌唱・器楽・創作)」の2領域となり「鑑賞」領域に, 「日本の音楽」を ヨヨ
含む7曲を,「歌唱」領域には3曲を「共通教材」として指定した。また3年忌の音楽の
コ リ ロ リ む り り り り り り
授業時間数が週1時間に削減された。これは美術と共に「芸術教科」の軽視であるとし
わが国における音楽科教育の歴史的変遷(続) (古田)
63て,現場に大きい波紋を投げかけ,問題を提起することになった。
昭和35年(1960)10月小・中学校の改訂に伴い,これとの一貫性を図るため, 「高等学 校学習指導要領」が改訂された。この改訂において「芸術科音楽1皿」のほかに「音楽に
関する「学科」 (傍点筆者)の教育課程が示され,地域や学校の実態に応じて,専門的な 技術や知識が習得できるようになった。
昭和38年(1963)東京において「国際音楽教育者会議」(1・S・M・E)が開催され,
世界の音楽教育及び日本の音楽教育の姿が紹介され,音楽教育の国際的交流がもたれた。
その後多くの音楽教育者達は海外視察に出かけ,国内では「教育課程研究集会」「実験学 校の研究発表」「実技指導講習会」などが開催されることにより,再び教育課程の改善の 必要に迫られ,第3回目の教育課程の改善が行われることになった。
昭和43年(1968)7月「小学校学習指導要領」(昭和46年4月より実施)が告示になり,
続いて昭和44年(1969)4月「中学校学習指導領要」 (昭和47年4,月実施)が告示され,
昭和45年(1970)ユO.月「高等学校学習指導要領」(昭和48年4月より実施)が告示された。
この学習指導要領は,小・中は昭和33年度版,高校は昭和35年度版を改訂したもので,改 訂の趣旨は「調和と統一のある人間形成の教育」であって, 「小学校音楽科」の目標は
「音楽性をつちかい,情操を高めるとともに,豊かな創造性を養う。」と示され,「中学 校音楽科」の目標は「音楽の表現や鑑賞の能力を高め,鋭敏な直観力と豊かな感受性を育 て,創造的で情操豊かな人間性を養う。」とあり「高等学校芸術科(音楽・美術・工芸・
書道)」の目標は「芸術的な能力を伸ばし,情操豊かにするとともに,創造性に富む個性 豊かな人間の形成を目ざす。」と明示された。その学習内容では,小・中・高共に「基礎」
という新しい領域が設けられ,小・中は5領域(基礎・歌唱・器楽・鑑賞・創作)高校で は3領域(基礎・表現〔歌唱・器楽・創作)・鑑賞)という考え方で,人間形成における 基礎的な能力の伸長を図り,6 走ッ育成の基礎を育うことが基本理念とされた。また中学校 音楽科においては特にわが国の音楽文化を理解し,親しむことが強調され,各学年の歌唱
ヨの ヨら
共通教材の中に「日本の民謡」が指定された。また鑑賞共通教材の中の「日本の音楽」は 選曲の範囲が広げられ,「尺八曲」や「義太夫節」まで取り上げられることになり,教師 達はその指導の方法に戸惑を感じている。
近年のわが国の経済成長は目ざましいものがあり,農業は機械化され,海外貿易は盛ん になり,企業は大規模化され,人は都会に集中し,エリート人材の登用がはげしくなり,
高校,大学への進学率が高くなるにつれ,競走がはげしくなり,「試験地獄」を生み,学 校は「詰め込み主義」の教育になり,各方面から,教育の本質を取り戻すべく,抜本的な 改善が叫ばれ,教育課程審議会では,度重なる研究と審議が重ねられてきた。
昭和50年(1975)10月18日教育課程審議会は「教育課程の基準の改善に関する基本方向 について(中間まとめ)」を中間発表した。この改善の基本方向は (1>人間性豊かな児童 生徒を育てる。(2)授業量間数を削減し,ゆとりのある学校生活を送れるようにする。(3)基 礎的・基本的な教育内容を重視する。などの点が強調されており,全般に高度成長期に見 註36)
合って推進されてきた知識詰め込み教育のひずみに対する反省がうかがわれる。また小中 学校の音楽教科では,現行の「基礎」「鑑賞」「歌唱」「器楽」「創作」の領域区分を整理し て,「鑑賞」と「表現」の2領域(これは昭和33年度版と同じ)にし,共通教材の曲数や,
曲目の選定についても併せて検討する。これに準じて高校の「音楽1」も改善し, (高
64 長崎大学教育学部人文科学研究報告 第25号
註3ア) 註38)
校低学年を「中学化」・難しすぎる中学教科を高校低学年に移す。)「音楽皿」「音 註39)
楽皿」については,重点領域の設定か,領域の選択制のいずれかをとる方向で検討する。」
り
と内容を精選する姿勢が示された。この結果一日も早く,小中高校を一貫した教育課程が 体系化され,進学競走の心配無く,ゆとりのある学校生活が実現され,わが国の音楽科教 育は本来の芸術教育の姿に立ち戻り,人間形成の心の糧として,人間教育に役立つように ならなければならない。
あ と が き
以上大雑把ではあったが「わが国における音楽科教育の歴史的変遷」というテーマで,
明治・大正・昭和における音楽科教育の歴史的な概観を試みたわけであるが,あまりにも 大きい範囲に対して無計画に取りかかった事と,資料不足(第2次世界大戦により貴重な 文献資料が多く焼失してしまっている。)であったがために,表皮的な考察に止まらざる を得なかった事を今にして悔いている次第である。しかし今日のわが国の音楽科教育がこ の様な歴史的変遷をたどって生れて来たものである事は事実であり,今後のわが国におけ る音楽科教育のみならず,世界の今後の音楽教育を考えて行くにあたって,再び「わが国 における音楽科教育の歴史的変遷」に取り組むことがあろうかと思っている。
註
ユ)長崎大学教育学部人文科学研日報告口24号(昭和50年)p.59。
2)青柳善吾明治17年(1884)4月1日福島県生れ,昭和32年(1957)L月7日(74才)東京
で没。
3) 「音楽教育の目的」は音楽(学友会)13巻1号・2号に発表した青柳善吾の論文で,修正を加え 「音楽教育の諸問題」 (大正12年)広文堂に収録したもの。
4) 「音楽教育概論」p.62〜p.96青柳善吾昭和10年東洋図書株式会社発行。(この書は「音楽教 育」青柳善吾 昭和2年東洋図書の改題書で第17版目のものになる。)
5) 「音楽教育新思潮」青柳善吾 昭和6年京文社。この書はドイツの音楽教育思想の論文を訳した ものである。
6)註4)と同書p.63〜p.64。
7) 「最:新音楽教育学」p.27〜p。32草川宣雄 昭和9年音楽教育書出版協会。
8) 「音楽教育研究」(1973)Nα82p.ユ33〜p.134,資料37音楽之友社。
9)註8)と同じ資料37。
10)註8)と同書「口絵」及びその解説 p.165河口道朗。
n) 「近代日本教育制度史料」第15巻 P.271〜p.275近代日本教育制度史料編纂会。
12)註11)と同書。p.271〜p.275 「皇民錬成の音楽教育」 (古城秀雄)「皇民錬成への音楽と音楽 教育者の覚悟」 (菊池三男)「団体的訓錬における音楽科の使命」 (筒井秀武)
13) 「鑑賞指導」はレコード・蓄音器などの普及もさることながら,「音楽の鑑賞教育」山本寿 大
正14年(ユ925)「鑑賞を主とした尋二〜高一・二の唱歌教育」草川宣雄昭和5年(1930)及び多くの実践研究の影響。
14)註7)と同書p.313〜p.342器楽教授法及び実践研究の影響。
ユ5) 「音楽の学習」山本正夫 昭和5年(1930)P.11〜P.118第1楽三編・第2楽理編及び実践研
究の影響。
わが国における音楽科教育の歴史的変遷(続) (古田)
6516) 「唱歌教授の実際」山本正夫 p.ユ15〜p.119(聴覚の練習)昭和6年文化書房。註6)の同書p,
234〜p.267(聴音練習)及び園田清秀。笈田光吉「絶対音感教育」及び実践研究などによる影響。
ユ7) 長崎大学教育学部人文科学研究報告第24号(昭和50年)p.57。
18) 「音楽教育明治百年史」p.144〜p.147 井上武士 昭和42年 音楽之友社。
19) 「日本唱歌集」p.267堀内敬三・井上武士 昭和33年12月 岩波文庫。
20) 「音楽教育研究」(1968)Na24 p.156〜p.158「東京市における音感教育の経緯」中野義見。
p.163〜p.ユ64「絶体音感教育物語」水野康孝。音楽之友社。
21) 同上書p.158〜p.159「絶体音感教育の時代」城多又兵衛。
22) 同上書 p.164〜p.166「占領下の文部省音楽行政」諸井三郎。
23)註18)と同書p.150〜p.163。
24) 註22)と同書・同文。
25)註20)と同書 p.168「最初の指導要領と最:後の国定教科書」近森一重。
26) 「学習指導要領音楽科編(試案)」昭和22年6月文部省発行。p.1〜p,3。
27) 「音楽教育論」諸井三郎 昭和22年1月10日発行。河出書房。
28)同上書P.10〜P.21。
29) 「中学校・高等学校学習指導要領音楽科編(試案)」昭和26年改訂版 p.9文部省。
30) 同上書 p.3
31) 註20)と同書 p.111「戦後の音楽教育行政(小学校)」真篠将。
32) 「音楽教育研究」昭和34年1,月 p.165〜p.186音楽之友社。
33)同上書p.190〜p.203
34) 「中学校学習指導要領」p.98,p.104, p.110昭和44年4月 文部省。
35)同上書P.100,P.107, P.113
36) 長崎新聞 昭和50年10月19日 第1面 文部省,教育課程審が中間報告。
37)同上見出し。
38) 朝日薪聞 昭和50年10,月19日 第1面 教育課程改善に基本方向(審議会)
39)同上。
参 考 文 献
「日 本 の 歴 史」
「日本の唱歌集」
「音楽教育論」
「日:本の洋楽百年史」
「音楽科教育明治百年史」
「音楽科教育の研究」
「音楽教育研究」
安田元久編………… ・・………教養文庫
魏欝編…一一…・・…岩囎店
諸井三郎著…………・…………河出書房 萩羅編…・…・一・………・第・法規
井上武士著………・………・・……音楽之三社
音楽科教育部会編・・………・…東京書籍
昭和34年1号。1968M24。1973 M82。1971 N〔L640 1972 N〔L69。