• 検索結果がありません。

19世紀末期イギリスにおける農業不況

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "19世紀末期イギリスにおける農業不況"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

19世紀末期イギリスにおける農業不況

その他のタイトル British Agricutural Depression in the Last Quarter of the Nineteenth Century

著者 荒井 政治

雑誌名 關西大學經済論集

巻 13

号 4‑6

ページ 479‑509

発行年 1963‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15430

(2)

479 

一九世紀最後の四半世紀のイギリスは経済成長が著しく鈍化した時代であって︑通常﹁大不況﹂

( "

G r e a

D e t

p r e s

s i o n

" )  

と呼ばれている︒この大不況期については︑これまで恐慌や帝国主義の問題として︑主として理論家によって研究・

されてきたが︑近年︑経済成長や景気変動に関する歴史家の関心が高まるにつれて︑経済史家の間においても近代

イギリス経済史の主要な研究テーマの一っとなっている︒本稿はこの大不況の重要な一環をなしている農業不況の

問題について︑その実態とそれがイギリス経済或いは経済政策に及ぽした影響について考察したものである︒

﹁黄金時代﹂より農業不況へ

まず順序として農業不況以前約三 0 年間にわたる農業繁栄期について一瞥しておかねばならない︒

穀物法が撤廃されて自由貿易に転じ︑イギリスの市場は世界の農業に対して開放されることになった︒しかし外国

一 九

世 紀

末 期

イ ギ

リ ス

に お

け る

農 業

不 況

︵ 荒

井 ︶

荒 一九世紀末期イギリスにおける農業不況

1 0  

一 八 四 六 年 に 政 治

(3)

は一八四一年と一八七一年の三 0 年間には︑それ以前の同期間ほどには伸びなかったが︑それでも約四一︒ハーセン

ト増加しており︑他方︑

賃銀はかなりの高率で上昇した︵第 2 表︶︒また自由競争の剌戟は当然︑地主階級と農業家の企業心を奮起せしめ︑

農業資本の投下を促がした︒イギリス農業改良の基本的タイプは︑

であって︑かのエンクロージャー運動に端的に現われている︒しかし五 0 年代および六 0 年代になって︑農業賃銀が

( 第 1 表 ) 1 9 世紀の人口

(単位千人)

﹁ヴィクトリア朝の繁栄﹂

(V ic to ri an Pr os pe ri ty )

によって雇用状態も良く︑労働者の実質

アメリカの労働節約型とは対照的に土地節約型

U. K. 

1 8 1 1   1 2 , 1 4 7   1 8 , 1 0 3   1 8 2 1  

 '

1 4 , 2 0 6   2 1 , 0 0 7   1 8 3 1   1 6 , 3 6 8   2 4 , 1 3 5   1 8 4 1   1 8 , 5 5 1   2 6 , 7 5 1   1 8 5 1   2 0 , 8 7 9   2 7 , 3 9 3   1 8 6 1   2 3 , 1 8 9   2 8 , 9 7 7   1 8 7 1   2 6 , 1 5 8   3 1 , 5 5 6   1 8 8 1   2 9 , 7 8 9   3 4 , 9 3 4   1 8 9 1   3 3 , 1 2 2   3 7 , 8 0 2   1 9 0 1   3 7 , 0 9 3   4 1 , 5 3 8  

〔出所〕 P .   Deane and W. A .   C o l e ,  B r i t i s h  E c o n o m i c  G r o ‑ w t h ,  1 9 6 2 ,   p .  8 .  

( 第 2 表 ) 貨幣賃銀と実質賃銀

( U . K . )   ( 1 8 5 0 ー 1 0 0 )

1 貨幣賃銀 l 実質賃銀

1 8 5 0   1 0 0   1 0 0   1 8 5 5   1 1 6   9 5   1 8 6 0   1 1 4   1 0 3   1 8 6 5   1 2 6   1 1 7   1 8 7 0   1 3 3   1 1 8   1 8 7 5   1 5 4   1 3 5   1 8 8 0   1 4 7   1 3 4   1 8 8 5   1 4 9   1 4 8   1 8 9 0   1 6 3   1 6 6   1 8 9 5   1 6 2   1 7 4   1 9 0 0   1 7 ! l   1 8 3  

〔出所〕 G .  H .   Wood,  •Real Wages and t h e  S t a n d a r d  o f   C o m f o r t  s i n c e

1 8 5 0 " , J .   R o y .   S t a t i s t .   S o c . ,   V o l .  L X X I I ,   1 9 0 9 ,   p p .  1 0 2

3 .

この農業繁栄をもたらした要因は何であったか︒

( 2 )  

向上である︒前者は人口の増加と非農業人口の所得の上昇から推測することができる︒ プリテンの人口︵第 1

表 ︶

で は

まず考えられることは国内市場の拡大と農業生産性の 穀物の流入にもかかわらず︑かつて農業保護論者が懸念したような農業の衰退は起こらなかったばかりか︑穀物法 の撤廃から一八七四年にいたる約一世代の間は︑イギリス経済の他の面と同様に︑繁栄の時代を迎え︑ことに一八

( 1 )  

五三ー一八六二年の一 0 年間はアーンル卿のいわゆる﹁黄金時代﹂でさえあった︒ 醐西大學﹃繹演論集﹄第十三巻第四・五・六合併号

1 0

 

(4)

481 

一九世紀末期 q

ギリスにおける農業不況︵荒井︶

一 方

急速に騰貴するにつれて︑農機具の改良と普及は一段と進んだ︒かつてスイング一揆を引き起こした脱穀機や唐箕

機は一八三 0 年末までにはもうかなり普及していたが︑

一 八

五 0 年以降の最も大きな技術的進歩は従来の改良農具

に動力として蒸気力が採用されたことである︒蒸気力は中耕機(‑八五一ー六年︶や鋤(‑八五七年︶︑鍬︑刈取脱穀

( 3 )  

機︑唐箕機︑かぶや藁の細断機︑排水︑干拓等に応用されて︑大いに労力の節約に貢献した︒

農業家は農業の機械化に資本を投じたのみならず︑人造肥料や家畜の飼料にも多くの資本を投ずるようになっ

ロサムステッド農事試験場や王立農業協会

(R oy al Ag ri cu lt ur al   So ci et y)

の努力によって新しい肥料︵硝酸塩類化学肥料︑海鳥糞︑過燐酸肥料︑カイナイト︑塩化カリ︑油粕︑硫安︶や科

( 4 )  

学的農法の知識が広まってきた︒また一八世紀に﹁ノーフォーク農法﹂として知られていた混合農法︵穀物栽培と家

畜飼育の組み合わせ︶は︑今や多額の資本が投入されて一層集約化され︑ J ・ケヤードのいわゆる﹁高度農業﹂

(h ig h

酪農品の増産に対する関心が高まってきた︒

なって起こった食生活のパターンの変化に対応するものであった︒このように穀物法撤廃によって自立を強制され

たイギリス農業は︑強力な国内需要に支えられて積極的に﹁科学的農法﹂への道を推し進めていったのである︒

と も

か く

も ︑

﹁世界の工場﹂イギリスが世界の穀物輸出国にその市場を解放して以来一世代の間の結果は︑

では穀物の国際価格をつり上げることになったが︑他方ではイギリスの消費者も外国の生産者も︑イギリスの農業

家に害を与えることなく︑ともに利益をうけることができたのである︒以上︑われわれは国内市場の拡大と農業生

このほか︑国内の収穫が一八六 0 年を除いては比較的恵まれていたこと︑海外の 産性の向上の二点を指摘したが︑

主な穀物供給地帯は戦争ークリミア戦争(‑八五三ー五六年︶や南北戦争(‑八六一ー六五年︶普仏戦争(‑八七 0 ー七'

1 0

fa rm in g)

の様式をとり︑肉︑

ミ ル

ク ︑

これは所得水準の向上にとも

た ︒

J ・リービッヒその他の農芸化学者の出現と︑

(5)

乗り出さねばならなかったのも当然のことであった︒

一 論

者 は

い う

﹁イギリスの金持階級の大部分にとっては︑ そ れ の平均価格はクォーター当り四三・八シリングであり︑ 一八七六ー八五年の一 0 年間のプリテン 例外ではありえなかった︒ 九六年︶の暗雲に被われるのである︒ 世

紀 に

は ︑

に自ら世界経済の指導者をもって任じたイギリス経済も︑ ハイド・パークに万国博覧会を開き︑ 一年︶ーのために輸出が妨げられたこと等もまたこの時代のイギリス農業の繁栄を支えた重要な要因であったと考 え

ら れ

る ︒

一 八

五 一

年 ︑

もはや﹁世界の工場﹂ではなくなり︑

ン グ

に 落

ち た

た︒農業においては︑

﹁ 世

界 の

工 場

工業国のリーダーとしての地位を去った︒

し︑生産と生産性︑輸出の伸びはいずれも鈍化し︑用語の当否はともかく︑

イギリス経済が全体として﹁更年期﹂の沈滞に悩んでいた時代は農業とても

一八七五年から穀物価格は長期にわたって低下し︑地主も借地農も﹁農業不況﹂をかこ

ったのである︒たしかに小麦価格は大巾に下落した︒政府統計によれば︑

次 の

0 年間(‑八八六ー九五年︶にはわずか二九・七シリ

これをアーンルのいう﹁黄金時代﹂の一 0 年間の平均価格︵五七・八シリング︶と比較すれば︑

( 6 )  

ぞれ二四パーセント︑四八・六︒ハーセント低落したことになる︒したがって︑その被害者の間から保護貿易の復活

を要求する声が起こり︑政府が一八七九ー八二年︑一八九四ー九七年の二度にわたって勅命委員会による実態調査に

物価が下落しても生産の増大によって十分埋め合わせができた︒しかし農業家や地主にとってはそうはいかなかっ

( 7 )  

いわゆる﹁大不況﹂は全くその通りであった﹂と︒要するに七 0 年代の始めまで続いた高度

農業の繁栄が一転して農業不況に陥ったのである︒そこで先ず第一に︑ そのような農業不況に陥った原因と実態に 賜西大學「繹済論集』第十三巻第四•五了六合併号

たることを誇示し︑

( 5 )  

一 八

七 0 年代から﹁更年期﹂に入り︑ 自由貿易の原理のもと

つづく最後の四半

ご の

間 ︑

物価は下落

いわゆる﹁大不況﹂期(‑八七三ー一八

1 0

一‑‑‑‑・・ ー・ー・、← 

一、~

(6)

483 

落 1 時に四 0 ︒ハーセントともいわれている ついて考察し︑次いで農業構造がそれによってどう変化したか︑最後に︑ それと貿易政策との関連について考えて

Lo rd   Ernie, Englis

h  F ar mi ng a  P st   an d  Pr es en t,  6 th e d   .  1961•

p .   3 73 .  

﹁農業家や地主が引続き繁栄したことーただ農業労働者がそうでなかった点は注意すべきだーー'はどう説明すべきであろ

うか︒その答えは二点にある︒一っは生産性が向上したこと︑いま︱つは肉のごとき最も高価な食品の需要が大きく伸びた

ことである。」

G.D•

H .  

Co le   an d  R .  ・ P os t g at e ,   T he   Co mm on People•  

1949•

p .  3 45 .  

G .

 

F us s e ll ,  "

En gl is h  A gr ic ul tu re f  ro m  C ob be tt   to  Caird•,

Ec on .  H is t .   R e v .,   V ol .   X V, 1945•  

pp .  79

 

85

  ; E

rn ie ,  op .  c i t . ,   pp .  37 2

3 . Ea rn le ,  o p .  cit••

pp .  3 68  

9 .  

D . J .

 

C

op po ck ,  "

Th e  C li ma ct er ic f  o  t he 1890•S"  

C ri t i ca l N  ot e"

︑TheA

i zn c h es t e r Sc ho ol  o f  Ec no mi c  an d  S oc i a l  Studies•

Vo l. XXIV•  

1956•

pp .  1

' 31 . Ea rn le ,  o p .  c i t . ,   Ap pe nd ix   II I .   C ol e ,  o p cit•• .  

p .   44 5.  

農業不況の原因

( 1 )  

「大不況」に関する

H•L

・ビールズの著名な論文が発表されていらい、

る多くの研究が積み重ねられてきた︒その結果︑﹁大不況﹂という考え方そのものの修正を要求する声すら起って

( 2 )  

いるのであるが︑ここではそれに立ち入らない︒ただこの時期の特徴として等しく是認されていることは物価の下

ーという現象である︒物価下落については当時から多くの説明が試

みられてきた︒例えば過剰生産︑金の不足︑銀の通貨性停止︑

一九世紀末期イギリスにおける農業不況︵荒井︶

(7)  (6) 

( 5 )   ( 4 )   ( 3 )   ( 2 )   ( 1 )  

み た

い ︒

保 護

関 税

理論家や経済史家の間で︑

海 外

の 競

争 ︑

投 機

1 0

五 これに関す

不生産的な対外投

(7)

ち七年までが不作で︑ は五 0• 三シリング、 一八三六ー四五年の年平均価格は五七・九シリングで︑ 一八五六ー六五年

( 1 )   に考えてみようと思う︒ 資︑不作等がそれで︑近年では︑やはり海外投資に着目したロストウの所説がしばしば論議の中心におかれてい

( 3 )  

ところで︑われわれの当面の課題は同時期に起こった農業不況であり︑農産物価格の急激な下落をどう説明づけ る ︒

るかという点にあるのであるが︑農業不況が孤立した現象ではなく︑大不況の一部分をなすものである以上︑農産

物価格の低落についても︑程度の差はあれ大不況をもたらしたのと同じ要因が作用していることは言うまでもな

い︒ただ農業の特殊性からして︑ 工業とは異なる特有の要因が加わることもまた当然のことであろう︒しかしここ

ではイギリスの農業不況に作用した多くの要因を列挙し︑

アメリカ農業の競争 それらを併列的に述べることを避け︑ それらのうちで最

も重要だと思われる二つのことがらーーアメリカ農業の競争と輸送手段の改善による運賃コストの低下ーーを中心

イギリスの小麦輸入高は穀物法の撤廃によって急激に増加したが︑価格はそんなに低下しなかった

C

す な

わ ち

一 八

四 六

ー 五

五 年

は 五

︱ ︱

︱ ・

九 シ

リ ン

グ ︑

一八六六ー七五年は五四・七シリングを維持していた︒ところが七 0 年 代 に は 一 0 年のう

一八七九年のごときは冷害のため一九世紀最低の収穫であった︒従来なら不作の年であって

も翌年の高価格によって農業家は多少とも償われるのが普通であったが︑不作が打ち続いた七 0 年代後期には過去

の常識に反して価格は大巾に下落した︒当時の人々もこの新事態が外国︑とくにアメリカの競争に基因することを

( 4 )  

知っていた︒

賜西大學『網清論集』第十三巻第四•五・六合併号

1 0

(8)

485 

第 3 表 小 麦 の 供 給 状 態 ( U .  K . )  

一 九 世 紀 末 期 イ ギ

リスにおける農業不況(荒井)

1 総 供 給 l 国内供給 I G .   s .   A .   I ロ シ ア l イ ン ド I そ の 他

1 8 6 9  ‑ 7 3   1 0 0   5 4  9  . . 7   1 6 . 3 7   1 3 . 2 9   0 . 2 4   1 5 . 1 3   1 8 7 4  ‑ 7 8   1 0 0   4 6 . 8 9   2 5 . 4 2   8 . 6 0   2 . 6 0   1 6 . 4 9   1 8 7 9  ‑ 8 3   1 0 0   3 4 . 1 6   4 0 . 2 0   6 . 9 9   5 . 6 9   1 2 . 9 6   1 8 8 4  ‑ 8 8   1 0 0   3 5 . 3 8   3 4 . 5 0   8 . 5 7   8 . 4 2   1 3 . 1 3   1 8 8 9  ‑ 9 3   1 0 0   2 9 . 4 1   3 6 . 9 0   1 1 . 0 0   8 . 1 3   1 4 . 5 6  

︶  増加のために価格は暴落した︒したがって︑ 所 出

/̲,J 

1 0

七 一八六六ー七 0 年と一八九一 1

C r a w f o r d ,  l o c .   c i t . ,  

p. 

8 1 .  

プ ッ

セ ル

一八九一ー九五年には五七六百万ブッセルに増加し︑

一 八

七 五

ー 七

七 年

と 一

八 九

一 ︱

︱ ー

九 五

年 と

の 間

つまり農業不況の間︑連合

王国

(U•K)

の小麦年平均輸入量は前者の五八、三一四、 000

ハンドレッ

ドウェイトから九九︑二五七︑ 000 ハンドレッドウェイトヘ︑約七 0

︒ ハ ー

セント増加した︒別の表現をすれば︑

を輸入していたのが︑ イギリスの小麦全消費量のうち約半分

それから約二 0 年後には七七︒ハーセントを外国の農場

( 5 )  

に依存するようになったのである︒このように増大した輸入量を国別にみる

と︑第 3

表 の

ご と

く ︑

( 6 )  

る ︒

アメリカ合衆国が圧倒的に高率を占めていることが分

このようにアメリカ農産物が活々として流入したのであるが︑ この背後に

あるアメリカ自身の農業事情はどうであったか︒南北戦争直後の

1

八六六年

から一八九二年の間にアメリカの小麦栽培面積は一五四 0 万エーカーから四

三 00

万ェーカーヘと︱︱︱倍近くに増加した︒また小麦の年平均生産高は一八

六六ー七

0

年の二三四百万プッセルから一八七六—八 0 年には四二三百万

一 八 九 一 年

のごときは六七七百万ブッセルに達していた︒南北戦争後のこの急激な生産

九五年との両期間における年平均生産高を比較すると︑生産量では後者の約

̲ ̲̲ : ー・‑‑ ‑  ・

(9)

1 8 3 0   1 8 4 0   1 8 5 0   1 8 6 0   1 8 7 0   1 8 8 0   1 8 9 0   1 9 0 0  

第 4 表

アメリカにおける鉄道マイル数

1

7 3  

3 , 3 2 8   8 , 8 7 9   3 0 , 6 3 6   5 2 , 8 8 5   9 3 , 6 7 1   1 6 3 , 5 8 1   1 9 3 , 3 2 1  

延 長 分

3 , 2 5 5   5 , 5 5 1   2 1 , 7 5 7   2 2 , 2 5 9   4 0 , 7 8 6   6 9 , 9 1 8   2 9 , 7 4 0  

〔出所〕 L . E .   D a v i s ,  J . R . T .  Hughes,  D.M. M c D o u g a l l ,   American  Economic H i s t o r y ,   1 9 6 1 ,   p p .   304 — -5.

二倍半になっているが︑金額では約︳︱‑三三百ドルと三五一百万ドルとなり︑

力においても小麦以外の他の穀物については事情は異る︒例えば大麦︑

一八六六ー七 0 年と一八九一ー九五年との間の価格下落率は三七ないし四

四︒ハーセントで︑小麦の七 0 ︒ハーセントに比べるとかなり小さかった︒

広大にして肥沃な処女地︑

カ東海岸で一

O ・

七︒ハーセントであった︒いまアメリカの輸出 西部の開拓に︑農産物の輸出力に偉力を発揮したことはよく知 輸送 その差は僅少となる︒もっともアメリ

ォート麦︑玉蜀黍のばあいは家畜の飼料と

ヨーロッパ特にイギリスに比して極端に低い地価︑軽い公租負担︑労働節約的な農業

機械の発展等アメリカ農業におけるこのような優位︵程度の差はあれ︑他の新興食糧供給地についてもいえる︶は︑

手段の改善による輸送費の低下によって更に高められた︒第一に鉄道輸送のばあいである︒南北戦争後アメリカの 岡輸送手段の改善による運賃コストの低下 して大部分が国内で消費されたためか︑

鉄道網がいかに急速に広まったかは第 4 表のとおりで︑

られている︒第二に海上輸送のばあいである︒農産物のごとき

嵩高品においては運賃要因

( C I F

価 格

に お

い て

運 賃

の 占

め る

割 合

が大きい︒例えば一八七一ー七五年におけるロンドン小麦価格

のうち海上運賃の占める比率は︑ バルト海方面のばあいで平均

五・三︒ハーセント︑黒海方面で一三・ニ六︒ハーセント︑ アメリ

を総合的にみたばあい︑南北戦争以降一八九六ー一九

00

年までの五年毎の海上運賃率は第 5 表のように推移して

賜西大學『細済論集』第十三巻第四•五・六合併号

1 0

こ れ が

(10)

487 

においても外資の援助に負うところが大であった︒したがってヒートンが﹁ヨーロッ︒ハが︑かつて移民や資本の形

で施した︒ハンが︑今や退くことを知らぬ食糧品の満ち潮となって淫々と押し返してきた﹂と批喩したように︑安価

な食糧の流入は海外投資が生んだ︱つの結果であったといえる︒この点でイギリス資本の演じた役割は特に注目す

べきである︵第 6 表参照︶︒主な食糧供給国︵アメリカ︑アルゼンチン︑インド︑カナダ︑ロシア︑オーストラリア等︶の鉄

道のうちフランス資本の援助をうけたロシアた除けば︑他は大部分イギリス資本に負うていた︒それによって一八

七 0 年と一九

00

年との一世代の間にそれらの国々の鉄道マイル数は実に四倍以上に伸びたのである︒

し︑イギリスの海外投資におけるこの面の因果関係だけを辿るならば︑海外投資←アメリカ及び植民地の鉄道建設

←安価な大量の食糧輸入ということになり︑

り︑他方では大衆に安価な︒ハンを与え︑彼らの実質賃銀を上昇せしめることになったのである︒

第 5表 アメリカ輸出品におけ

る海上運賃率の推移 ( 1 8 3 0 年 =100)

一 九

世 紀

末 期

イ ギ

リ ス

に お

け る

農 業

不 況

︵ 荒

井 ︶

1861‑ 6 5   1866‑ 7 0   1871‑ 7 5   1876‑ 8 0   1881‑ 8 5   1886‑ 9 0   1891‑ 9 5   1 8 9 6

1 9 0 0

7 7 . 2   7 8 . 6   9 7 . 8   8 7 . 2   6 9 . 2   5 5 . 4   5 1 . 4   5 6 . 8  

それが一方では国内の農業家を圧迫して農業不況を形成することにな

〔出所〕 D .  N o r t h ,  "Ocean F r e i g h t   R a t e s   and  Economic  D e v e l o p ‑ ment 1 7 5 0 ‑ 1 9 1 3 " ,  ] . E c o n .  H i s t . ,   V o l .  X V I I I ,   1 9 5 8 ,   p p .  537‑55. 

1 0

九 そ

こ で も

定的一要因となった交通手段の改善︑特に鉄道建設は︑

い ず

いる︒これによれば海上運賃率は大不況の間に四七・四︒ハーセ

一プッセルの小麦の運賃は最高時の一八七三年にはニ︱セント

ところで農産物市場の国際的拡大をもたらし︑農業不況の決 以上であったのが︑

( 8 )  

こ︒

一九〇一年には三セント以下に下ってい

激に低下した小麦のばあい︑ 一ューヨーク・リヴァプール間の ントと大巾に低下したことになる︒この立釦で令リも︑もっと急

ー・・‑‑・‑‑‑ こー一

(11)

第 6 表 イギリスの海外投資の分布 ( 1 8 7 0 年末)

公 債 (£m.)  株 式 ほ か (£m.) 

u .   s .  

ロシア、イタリーほか 他のヨーロッパ諸国

ト)レコ、エジプト 南部・中部アメリカ

オーストラレーシア 他の英領植民地 イ ン ド

1 6 0   7 8 . 5   3 0 .   3 7 . 5   4 7 . 5   3 4 . 3   1 6 . 0   5 5 . 0  

A . K .  C a i r n c r o s s ,  Horme and F o r e i g n  I n v e s t m e n t   1870‑1913, 1 9 5 3 ,   p.183 

u .   s .   鉄 道

ヨーロッパ大陸の鉄道、ガス、水道ほか 南 ア メ リ カ

外 国 の 銀 行 オーストラレーシア カナダの鉄道、銀行ほか インドの鉄道ほか そ の 他

4 0   5 0   3 7 . 5   1 0   3 8 . 5   2 0   1 0 5   2 5  

4 5 9   3 2 6  

〔出所〕

( 2 )   ( 1 )  

る ︒ 開放している少数の国々ー—特にイギリスーーでは更に激しい価 準の維持と兵力源の確保のために強力な農業保護政策を打ち出し ヨーロッパがそうであった︒ところが多くの国々では高い農業水 ひとりイギリス農業家のみならず︑全 の矢面に立たされたのは︑ いう考え方で︑それはこうである︒食糧価格の暴落によって攻撃

( 9 )  

てこれに対抗した︒しかし問題の根源は人口増加率を上廻る穀物

生産によって起こった供給過剰にあったからして︑ドイツやフラ

ンスの保護主義はそれだけ国際市場を縮めることになり︑市場を

格下落をひき起こし︑自国の農業家をいっそう困難な事態に陥れ

ることになったと︑なおこの点については後にふれるはずであ H•

L,  B ea le s,   "̲The 

Gr ea t  Depression 

i n  In du st ry a  nd  T ra de

"

ECon•H芦Re0."

Vo l.  V, 1  93 4

‑ 5,

p p.   65

‑7 5.   A. E.   Mu ss on , 

"

Br it is h  In du st ri al  G ro wt h  du ri ng t  he 'G re at   De pr es si on '( 18 73

18 96 )

: S

om e  C om me nt ,  E8 n. I{i s t .   Re v.

  " 

V ol .   XV ,  1 9 63 ,   pp. 

52 9 

5 33 .  

は︑イギリスの農業不況が当時の自由貿易政策の犠牲であったと

農業不況の原因に関連してもう一っつけ加えておきたいこと

開西大學『網清論集』第十三巻第四•五·六合併号

1 0

 

(12)

89

W .

W .

  R o

s t

o w

,  

B r i t

i s h  

E c

o n

o m

y   o

f   t

h e  

N i 言苔恙

C e n t

, `

ry•

1 9 4 8

,   c

h a

p .

I I .   I

 

なお当面の農業不況と理論家のいう工業恐慌ないし一般経済恐慌との関連については︑例えば常盤政治﹁いわゆる﹃一九世

紀末農業恐慌﹄の性格について﹂︵慶応義塾経済学会︑﹁経済学年報﹂ー︑昭三三︶を参照されたい︒

例えば︑クヤードは一八八六年に次のように述ぺている︒﹁乱はこの国の今日の農業不況の原因は︑この国をはじめヨーロ

ッパ全体による大量の需要によって︑アメリカ農業の発展を剌戟した点にあると考えている︒⁝⁝鉄道は驚くべき速さで広

まり︑広大な沃野を開拓し︑生産は急速に伸びた︒'・・・自然は極めて肥沃であり︑しかもそこを利用し︑輸送費を引き下げる

人間の技術が普及し改善されたために︑生産は一時︑消費を遥かに上廻るようになり︑これが農業不況を引き起こす主因に

なっていると思われる︒﹂

R . F .

C r

a w

f o

r d

,   "

A n

  i n q u i r y

n t   i

o   W

h e

a t

  P r i

c e   a

n d

  W h

e a

t   S

u p

p l

y "

 

`j•

R o y .

・ S t a

t i s t

.   S o

c . ,  

V o l .

  L V I I I ,  

1 8 9 5

,   p .  

9 9 .  

W .

  A s

h w

o r

t h

,   An 

E c

o n

o m

i c

  H i s t o r y

  o f

  E n

g l

a n

d   1

8 7

0

1 9

3 9

,

1 9 6 0

,   p .   5

4 .  

﹁ 一

八 五

0 年にはプリテンの小麦輸入高は四分の三はパルト海沿岸か黒海沿岸の港からきており︑わずか八分の一︵五百万

プッセル︶が北アメリカからきた︒一八七 0

年までに輸入は二倍近くにふえ︑プリテンの小麦粉の約半分を供給し︑その半

分︵三四

0

い量(九二00万プッセル)になり、輸入の四分の三を占めた。」H•

0 年までに輸入は再び倍近くになったが大西洋彼岸の供給は三倍近 万プッセル︶がアメリカからきた︒一八八 0

H e

a t

o n

,   E

c o

n o

m i

c   I

f i s t

o r y   o

f   E

u r

o p

e ,

  r e

v .  

ed••

p . 

4 2 1 .

 

なお小麦粉を含む小麦の輸入状況︵一八七五ー一九一三年︶については

J . A .

V e

n n

,   F

o u

n d

a t

i o

n s

  o

f  

A g

r i

c u

l u

r a

8 l   E 

き ・

m i c s

,   1 9

2 3 ,  

p .  

3 2

1

の 主

{ を

4憂 四

加 せ

o

A .

H .

  I m

l a

h   ̀

E ‑

C o

n m

i C

E l

e n

n t s

i n  

t h e  

P a

x   B

r i t a

n i  

1 9 5 8

p : ,  

  1 8 3

n .   ; 

こ の

吐 r

2

のアメリカの農業技術の進歩については︑

例えば

I .

F e l l

e r ,   ^ ^  

I n

v e

n t

i v

e   A

c t i v

i t y  

i n  

A g r i

c u l t

u r e ,

1  

8 3

7  

1 8 9 0

" ,

 

J•

E c

o n

.  

H i s t

. ,  

V o l .

  X X I I ,  

1 9 6 2

,   p p

5 .  

6 0

 

5 7

7 ;

 

w• D

.   R

a s

m u

s s

e n

,   "

T h

e   l

t n p a

c t  

o f   T

e c

h n

o l

o g

i c

a l

  C

h a

n g

e   o

n   A

m e

r i

c a

n   A

g r i c

u l t u

r e " ,

 

J

E c

o n

.  

H i s t

. ,   V

o l .  

X X I I ,   1 9

6 2 ,  

p p .  

5 7

8 ー ‑ 9

1

を 傘

ニ 照

せ よ

︒ (

D•

N o r t

h ̲ ,  

"

O c

e a

n   F r e i g h t

a   R

t e

s   a

n d

  E c

n o

m i

c  

Develop~ent

1 7

5 0

  1 

1 9 1 3

" ,

 

E

••

c o

n .

Hist••

 

V o l .

  X V

I I I ,

  1 9

5 8 ,  

p .  

5 4

4   ; 

なおクローファドの前掲論文にはニューヨーク・リヴァプール間の小麦輸送費の推移(‑八六九ー一八九三年︶が表示され ( 7 )   ( 6 )   ( 5 )   ( 4 )   ( 3 )  

一九世紀末期イギリスにおける農業不況︵荒井︶

-·----—----'-'—

(13)

て い

る ︒

C r

a w

f o

r d

, t o e

.   c i t

. ,  

p . 

88

. 

例えば︑ドイツでは一八七九年に穀物︑牛︑肉その他多くの農産物に軽い関税をかけたが︑輸入が増加するにつれて関税率

を引上げ︑小麦についていえば︑一八七九年に一クォーター当り︱︱ンリングニペンスであったのが︑一八八五年には六ンリ

ン グ 六 ペ ン ス 半 ︑ 一 八 八 八 年 に は 一 〇 ン リ ン グ 一 0 ペンス半となった︒同様にフランスでも税率を引上げ︑一八八五年には 小麦一クォーター当り五ンリングニペンスであったのが次第に高くなって︑一八九四年には︱ニシリングニペンスになっ

た ︒

G . P .

J o

n e

s   a

n d

  A . G

. P o o

l ,   A 

H u

n d

r e

d   Y

e a

r s

  o f

c   E

o n

o m

i c

  D e v e l o p m e n t

  i n  

G r

e a

t   B

r i t a

i n  

1840

1940,

19 40 , 

p . 

20 6.  

農業不況下の穀産と畜産 すでに述べたように︑農業不況と呼ばれている期間の最も著しい特徴は農産物価格の急激な下落であった︒そし

.てこの説明には小麦価格の変動をもってするのが習わしとなっている︒しかしこの時代のイギリス農業を論議する

ばあい︑穀物生産を中心にすることが果して妥当かどうか︑まずこのことが問題となる︒というのは日農業不況 と呼ばれている一九世紀末四半世紀間に全農業生産高は決して低下せず︑むしろ増加しているのである︒例えば連 合王国の全農業生産高に関する

L ・ドレッチャーの指数(‑九 0 九 ー 一 三 年

= 1 0 0 )

に よ れ ば ヘ は八五であったが一八九四ー一九

0

三年には九三に上昇しており︑また

E.M ・オジャラの指数︵一九︱︱ー一三年

( 1 )  

= 1 0 0 ) においても九三から九五に上っている︒このことはこの期間における畜産物の増産が農作物の減産を埋め 合わせてなお余りがあったことを意味している︒事実︑牧畜︑酪農︑家禽飼育の面では比較的好調に恵まれ︑特に 工業都市周辺においてそうであったし︑経営の中心を穀産から畜産に切り替えて不況を乗り切った混合農業家も多 かったのである︒次に口小麦生産がイギリス農業全体において占める割合は小さかったということである︒第

7

(9) 

隔西大學『繹済論集』第十三巻第四•五・六合併号

一 八

七 OI 七六年に

(14)

491 

第 7 表 イギリス農業生産高(時価による年平均、単位 £m.)

1

九世紀末期ィギリスにおける農業不況︵荒井︶

~

I  1 8 6 7 ― ,   I  1870‑6  I  1 8 7 7

8 5 I  1886‑93  11894

1 9 0 3

小 麦 3 5 . 3 8   2 7 . 5 6   1 9 . 3 5   1 1 .  7 2   7 . 7 2  

大 麦 1 6 . 7 8   1 7 . 5 6   1 4 . 0 1   1 0 . 5 1   9 . 4 3  

オ ー ト 麦   1 0 . 5 4   9 . 0 7   7 . 2 2   5 . 2 8   4 . 5 1  

馬 鈴 薯 1 4 .  0 2 ‑ ‑ ,   1 3 . 8 2   1 2 . 0 6   8 . 5 5   7 . 7 0  

乾 草 ・ 藁 1 0 . 2 8   9 . 7 6   8 . 3 3   7 . 8 2   8 . 2 4  

果実・野菜 9 . 8 3   9 . 6 4   8 . 9 7   8 . 1 4   . 8 . 5 3  

そ の 他 7 . 3 4   7 . 5 8   .  6 . 0 5   4 . 7 3   3 . 6 4  

農作物合計 1 0 4 . 1 7   9 4 . 9 9   7 5 . 9 9   5 6 . 7 5   4 9 . 7 7  

9 6   4 5 . 3   3 8 . 4   3 4 . 7   3 0 . 2   2 7 . 2  

牛 肉 3 4 . 9 0   4 4 . 5 3   4 3 . 1 4   3 7 . 9 5   3 9 . 8 8  

羊 肉

2 5 . 9 2   2 9 . 7 7   2 7 . 3 4   2 3 . 9 4   2 3 . 1 6  

.豚 肉 1 8 . 6 0   2 2 . 5 5   1 9 . 9 0   1 8 . 0 5   1 8 . 3 1  

馬 0 . 4 0   ・ 1 . 6 0   3 . 0 0   3 . 2 0   2 . 5 5  

ミ ル ク 3 3 . 7 8   3 8 . 5 1   3 7 . 9 9   3 6 . 3 6   3 6 . 8 9  

羊 毛 7 . 4 9   8 . 2 7   4 . 4 8   3 . 8 0   3 . 2 4  

鶏卵・家禽 4 . 5 7   6 . 9 6   7 . 3 6   7 . 7 5   8 . 9 8  

畜産物合計 1 2 5 . 6 6   1 5 2 . 1 9   1 4 3 . 2 1   1 3 .  1 . 0 5   1 3 3 . 0 1  

彩 5 4 . 7   6 1 . 6   6 5 . 3   6 9 . 8   7 2 . 8  

総 合 計 2 2 9 . 8 3   2 4 7 . 1 8   2 1 9 . 2 0   1 8 7 . 8 0   I  1 8 2 . 7 8  

〔出所〕 E.M. O j a l a ,  A g r i c u l t u r e  and Econmic P r o g r e s s ,  1 9 5 2 ,   p p .  2 0 8

9

(15)

表で明らかなように︑時価で示された各グループ年の年平均生産高のうち︑小麦は一八七

OI

七六年には全体の一

一パーセントで︑以後次第に低下して一八九四ー一九 0 二年には僅か全体の四パーセントしか占めていなかった︒

このような比重の小さい小麦生産を中心にして︑当時のイギリス農業全体の変化を判定することは明らかに当を失

している︒この点は最近

T .

w

.フレッチャーが強調しているところであって︑彼は従来の﹁農業不況﹂観が小麦

生産者に偏重して畜産のもつ意味が不当に軽視されている点を衝くとともに︑そのような歴史像が生まれる基礎と

( 2 )  

﹁大不況﹂という従来の呼称から生ずる暗い なった価格統計や勅命委員会報告書に鋭い批判を加えている︒これは

イメージを破ろうとする最近の経済成長史学の傾向と揆を一にするものである︒

第 7 表に示したオジャラの統計によってイギリス全農業生産高を農作物と畜産物に分けて比較すれば︑

ー七六年と一八九四—一九 0 三年との間の約四半世紀間に前者の比重は三八・四。ハーセントから七ニ・ニ。ハーセント

に下降し︑後者の比重は逆に六一・六パーセントから七ニ・八︒ハーセントに上昇している︒価格の点ではどうか︑

全般に好況の年とされている一八七一年の価格を農業不況の最も深刻だった一八八七ー九六年と比較すると︑

麦では四八・六︒ハーセント︑オート麦で三 0 ・八バーセント︑大麦で二九パーセントと︑いずれも暴落しているの

( 3 )  

に対して︑肉では牛肉が一三︒ハーセント︑羊肉が三パーセントと下落率は逢かに低い

9

した沿って穀物生産者ある

いは穀産地帯︵イングランド南東部のごとき︶のように主として穀物の販売に依存していて︑家畜は主に肥料給源とし

ていたばあいには︑文字通り不況に悩まされたが︑牧畜業者あるいは畜産地帯︵イングランド北西部のごとき︶のよう

に主に家畜に依存し︑耕作は自らの必要を満たすための補助的役割しか果たしていなかったばあいには不況の影響

は最も小さく︑不況期間中も引続きかなりの収益をあげることができたのである︒このように農業タイプの相違に

鵬西大學『糎演論集』第十三巻第四•五・六合併号

︱ ︱

一 八

七 〇

(16)

493 

一九世紀末期イギリスにおける農業不況︵荒井︶

②人口と消費のパクーンの変化

牧畜業者の目標は肉でありミルクであって︑

︱︱ 五

一 九

0 一年にいたる次の 物の需要を促進することになる︒ のプラスとなる︒まず第一に︑ 穀物︵飼料穀物︶は彼らにとっては︑ よって相反するコースをたどったことは︑将来︑

以上のことから︑直ちに問題となることは︑範疇的に分けられた二つのタイプの農業が︑なぜ朋暗相反するコー

ス を

た ど

っ た

か ︑

加︑所得増加といった内的要因︑それに外国農業の競争といったような外的要因が両タイプの農業にそれぞれどの

ような影響を及ぽしたかを検討してみたい︒もっとも穀物生産のばあいについては既に前節で述べておいたので︑

穀価下落の影響

し え な か っ た が ︑ ここでは畜産のばあいを中心に検討する︒ ということである︒ この問題を解くために︑ この時代の地方史研究が進めばさらに明らかになるであろう︒

当時の農業生産に影響した諸要因︑

農業不況を特徴づけた穀物価格の暴落は︑穀物生産者に対して甚大な打撃を与えるが︑牧畜業者にとっては二重

いわば製品コストの重要なファクターである︒したがって穀価の下落はコストの低下を意味する︒第二に︑穀物価

格したがって︒ハンの価格が下落することは消費者にとっては有利であり︑他の条件を不変とすれば︑それだけ畜産

プリテンの人口は一八四一年と一八七一年の三 0 年 間 に 四 一 ︒ ハ ー セ ン ト 増 加 し た が ︑

( 4 )  

0 年間には四一・八︒ハーセント増加した︒また﹁大不況﹂の間︑物価は下落したが︑経済活動はどの指数をとって

も絶対的下降を示すものはなかった︒その成長率は産業革命期や︑それに続く黄金時代のような高さはもはや維持

いずれも伸びていたのである︒したがって多くの統計に表われた限り︑ この黄金時代の労働者の 例えば人口増

‑‑‑‑-·"ー・ニ-~--‑ ‑‑‑‑‑ ‑‑

---一—---- ̲ ‑ ― ̲ ̲ ̲ ̲ ̲    ‑ ̲ ̲

(17)

閥西大學『纏済論集』第十三巻第四•五・六合併号

実質賃銀は︑彼らがそう実感したか否かはともかく︑かなり大巾に上昇したことになっている︒もっとも︑すべて

らの生活水準は上昇しており︑貯蓄銀行の預金高は増加し︑

( 5 )  

ている︒このようにパンの価格が下落し︑生活水準の向上が著しかったとすれば︑

も 影

響 し

外国農業の競争

一 八

八 0 年 に 一部には低下した業種もあったが︑労働者階級を全体としてみたばあい︑彼

それは当然食生活のパターンに

穀物価格の暴落と外国︵特にアメリカ︶の競争との関係については既に述ぺたが︑外国農業の競争は早晩あらゆる

生産物に及ぶはずである︒肉のばあい︑

増加して下級国産肉との競争となり︑

( 3 )  

小麦や馬鈴薯の摂取は減り︑

そ れ

が 約

0 年ばかり後れたのは︑腐敗し易いために加工方法や輸送方法

を改善する必要があったことによる︒肉は従来からも主としてアメリカから生きた肉牛の形で︑また罐詰︑塩漬そ

の他︑貯蔵肉の形で輸入されていたが︑生肉として国際貿易品となるためには冷凍技術の開発をまたねばならなか

った︒冷凍技術が進み冷凍肉が始めてイギリス市場に入ってくるのは一八八 0 年代の初めであって︑

才ーストラリアから少量だが良い状態の牛肉と羊肉が入ったのに始まり︑一八八二年にはニュージーランドから翌

一八八三年にはアルゼンチンからも最初の冷凍肉が入った︒その輸入量は初めは大した量ではなかったが︑次第に

一八八七年にいたって大巾の下落を引きおこした︵第 1

図 参

照 ︶

年代には冷凍肉の輸入は生きた肉牛の輸入にとって代るほどに伸び︑連合王国の肉の自給率は六 0 パーセント前後

( 7 )  

に 落

ち た

代 っ

て 肉

( 6 )  

い︒事実︑多くの人々がそれを証明している︒

ミ ル

ク ︑

そして九〇 酪農品その他の動物性晋白の摂取が増したに違いな 一人当りの食糧︑ビール︑ タバコ等の消費量も増加し の業種がそうであったわけではなく︑ f 

︱ ︱

(18)

495 

( 3 )   ( 2 )   .  ( 1 )   第 1 表 牛肉の平均価格 ( U . K . )

8 3  d  3  e  n P  

u  e9 

ho  ︐  ゜

y I   plx  x  L  p  u  L  s 

>  a  M  e 

hs 

T  a  s  e  y  k  ゜

H R  

J  H 

) R m  

s n d   g o ) g   所 .

l n

5 4

p e r

国 K ︵ 

L e

o   D

r e s c

h e r ,

 

T h

e   D

e v

e l

o p

m e

n t

f     o

A g r i

c u l t

u r a l

r   P

o d

u c

t i

o n

  i n  

G r

e a

t   B

r i t a

i n   a

n d

  I r e

l a n d

  f r

o a

h   t

e  

e a r l

N y  

i n

e t

e e

n t

h  

C e

n t

u r

y "

,  

T h

e   ‑M

a n

c h

e s

t e

r  

S c h o

o l  

o f

E  

c o

  g m

i c

d

a

S o c i

a l  

S t u d

i e s ,

  V o

l .  

X X I I

I ,  

p .  

17

5,

T

 

a b

l e

  X  ; 

E .

M .

  O j

a l a ,

 

A g

r i

c i

  ` 

l t u r

e  

a~d

E c

o 思

m 1

c

Progre~s,

19

52

, 

p .  

20

9,

T

 

a b

l e

  X I

.  

T .

W .

  F l e

t c h e

r ,  

. "

T h

e  

G r

e a

t   D e p r e s s i o n

f     o

E n

g l

i s

h   A

g r

i c

u l

t u

r e

 

1873

18

96

"

,

E c

o n

.  

H i s t

.   R e

v . ,  

V o l .

  X I

I I ,  

19

61

, 

p p .  

41732

J. 

C l

a p

h a

m ,

  An 

E c

o n

o m

i c

  H i s t o r y

  o f

o   M

d e

r n

  B r i

t a i n

V o ,  

l .  

I I I

,   p p

74 

1  .  

5

;  なお志i

品グループ別の相対的下落率を示し

1 8 竹 ' 8 5   ' 9 5   1 9 0 5  

一九世紀末期ィギリスにおける農業不況︵荒井︶ 8  7  6  に外ならない︒ するからである︒肉についても同様である︒

︱ ︱ 七

他方︑酪農品はどうであったか︒ミルクは人口増加と一人あたりの消

費量の増加に支えられて需要は着実に伸び︑

六 I‑0 年との間に乳牛等の飼育頭数は五 0 万頭以上も増加した︒しか 一八七一ー七五年と一九〇

も生乳はその性質上︑国際競争の圏外に立つことができたので長期的に

みてかなり高い価格水準を維持しえた︒またバターやチーズについても

( 8 )  

国産品は輸入品ほど下落しなかった︒というのは質や嗜好が需要に影響

一八七一ー七五年と一八九

六ー一九

00

年との間の年平均輸入量をみると︑小麦と小麦粉が九 0

︒ ハ

ーセント増加したのに対して︑肉は三

00

︒ ハ

ー セ

ン ト

( 9 )  

ズ は

1 0

︒ハーセントも増加しているのに︑国産の肉や酪農品の市況が

ノ タ

チ ー

かなりの堅調を維持しえたのは︑外国品に優る種々の利点があったから

(19)

た W. T. La yt Qn n  a d  G .  Crowthe

r,

An  

In tr od uc ti on  t o  t h e   Stud

y  o f  P r ic e s ,  1 93 8 ,   p ,   88 の表によれば︑小麦は平均下 落率︵四

0

︒ハーセント︶以上︑大麦とオート麦は段ぼ平均︑肉・酪農品は平均以下の下落率となっている︒

De an e  a nd   Cole, 

o p.   c i t . ,   p .   8 .  Mu ss on ,  l o c .   c i t ,

  p

p 2 00

2 01 . 例えば︑ケアードはいっている︒﹁三

0

年前にはこの国の国民のうちで週三回以上動物性食品を消費している者はおそらく 三分の一を出ていなかったであろう︒ところが今日では︑国民のほとんどすべてが日に一回は肉かチーズかパターの形でそ れを食ぺている︒このことが︑この国の動物性食品の平均消費量を二倍以上にした︒﹂

(Q uo te d by E  .L .  Jo ne s,

Th e  Ch an gi ng a  B si s  o f .  Eng li sh   Ag ri cu lt ur al  P ro sp er it y, 1  85 3ー 7 3" , Ag .  H i st .   R e v .,   Vo l・ X,   19 6 2 ,  p .   11 0. ) 

; ま

た一 八ャ 八 九年にグレヤム

(P .A . Gr ah am ) は︑﹁四

0

年前には夕食に︒ハンとチーズを食ぺた者が今ではチョップ︵厚切り肉︶を求め

ている﹂といっている︒

(Q uo te d by l  F et ch er ,  t o e .   cit••

p .   41 9. )  R•H•

Ho ok er , 

"

Th e  M ea t  Su pp ly f  o   th e  U ni te d  K in gd om

"

,  J•

Ro y. S t   a ti s t .  S oc . Vol• ,   LX XI I, 1909•  

p .   3 63 ,   Ta bl e  V.

;  J o ?, e as   nd   Po o l ,  o p.   c i t . ,   pp ,  20

│ 

1 0 .  

例えばオランダから輸入するフリースランド・バターやチーズでは一八六七ー七一年と一八九四ー九八年の間に︑それぞれ ニニパーセント︑二

0

パーセント低下したが︑ランカンャー製品のばあいはそれぞれ一三︒ハーセントと一

0

バーセントの下

落に止まった︒

Ff et ch er , t o e .   c!t••

p .   42 0n

.  ; 

d o.  

"

La nc as hi re  L iv es to ck   Fa rm in g  du ri ng h  t e  Gr ea t  De pr es si on

"

,  Ag .  H is t .   R e v .,   Vo l.

 IX•

1961•

p ,   4 1.   Fl et ch er

,'

^ 

Th e  G re at  Depression". 

l o c .   c i t . ,   p .   41

9  ; 

W.   Sc h l ot e B,   ri ti sh  O ve rs ea s  Tr ad e  f ro m  1 70 0  t o   t h e   19 30 's ,  1 95 2 ,   pp.  140-41•

Ta bl e  1 1.  

穀産より畜産への転換

一九世紀末四半世紀間における内外の経済情勢の変化にともなって︑

たった︒例えば︑生産物では小麦から転じて強力な需要のある肉︑酪農品︑鶏卵に向かい︑土地利用の面では︑耕

(9) 

( 8 )   ( 7 )  

(6)  (5)  (4) 

開西大學『網済論集』第十三巻第四•五・六合併号

イギリスの農業構造は大転換をとげるにい

︱︱八

(20)

497 

で は

度 農

業 ﹂

( h

i g

h  

f a

r m

i n

g )

で あ

っ た

﹁三分制﹂︑家畜の飼料に根菜を導入した﹁ノーフォーク農法﹂

︱ ︱ 九

︵ 大

麦 I

ク ロ

ー バ

ー ︐

i ̲

小麦ーかぶの四輪栽農法︶

ま ヽ

9 9 ,  

議会的囲込運動による土地制度の変革︑ 地が漸減︵ただし小麦の作付面積は一八七 0

年 と

一 九

00

年との間に半減︶して牧場が増加するといった現象にそれが現わ

( 1 )  

れている︒しかし︑このような変化は決してこの時期に突如として起こったことではなく︑穀物法撤廃いらい徐々

に進行してきたことであり︑また移行の過程は比較的緩慢であって︑小麦価格やその栽培面積の変化から想像する

ほど急激ではなかった︒それに自然的条件の制約をうけ易いこの産業においては︑構造転換の実態は大きい地域差

をもちつつ複雑な様相でもって進行したに違いない︒したがってプリテン全体を論ずるばあいは︑よほど慎重でな

と こ

ろ で

ければならない︒この時代の農業構造の変化を考えるさい︑まずこれらのことを念頭におく必要がある︒

一八四六年までのイギリス農業は農業革命史の研究によって︑わが国でもよく知られている︒

世紀後期のイギリス農業は︑ それぞれ機能を異にする地主・借地農・労働者によって構成される

などは自由貿易運動のクライマックスたる穀物法の撤廃とともにわれわれに親しまれている問題である︒続く一九

このような基礎の上に展開するのであるが︑ そこで主役を演じたのは︑ いわゆる﹁高

これは既に三分制の下で営まれていたノーフォーク農法の原理を継承発展さ

せた︑いわばそれの改良型であった︒ここで注目したいのはそれが果した歴史的役割である︒すなわちイギリス農

業の中心が穀物生産から徐々に畜産へ移行するにあって︑それが架橋的役割を演じたことである︒

いうところの高度農業とは何か︒これを︱つの標語にし︑ 史家をして一九世紀の第三・四半期を高度農

業の繁栄時代という印象を抱かせた一因はジェームズ・ケヤードの著作であろう︒それは一八四八年︑保護関税の

撤廃によって自由貿易の恐怖にとりつかれていた地主や借地農のために︑模範的な農業経営様式を提案した

H i g h

一 九

世 紀

末 期

イ ギ

リ ス

に お

け る

農 業

不 況

︵ 荒

井 ︶

例え

(21)

ツ ︒

フ に

あ て

て い

る ︒

次にケヤードの前記の︒ハンフレットによって︑ っ

て い

る ︒

彼はスコットランド南部の一農場

F a

m m

︑ g

i

t h

e

B e

s t

  S u b

s t i t

u t e   f

o r

P  

r o

t e

c t

i o

n

と題する︒ハンフレットであって︑彼らに希望を与える指針の書と

して好評を博し︑忽ちにして数版を重ねた︒ E.L ・ジョーンズの用語解説によれば︑

技術的の二つの意味がある︒経済的には︑産出量の増加によって価格の下落を埋め合わすために︑ある様式に従っ

て農業に対する投入量を増加させることであり︑技術的には従来の混合農業を一歩前進させたもので︑

は︑まず多くの家畜に十分な飼料︵根菜のごとき自給飼料と油粕のごとき購入飼料︶を与えて肉と肥料︵厩肥︶を生産し︑

その厩肥に糞化石や骨粉のごとき購入肥料を補って穀物と飼料作物の増産を計ることであった︒ジョーンズは家畜

に豊かな飼料を与えるという技術的特徴を強調して︑

' h i g

h f

a r

m i

n g

'

を ^

h i

g h

  f e e

d i n g

'

と言い換えてもよいとい

︵二六〇エーカー︶における実験の成果を旧農法と高度農業との比較の形式で述べている︒彼は生産性向上の主たる

根源が豊かな飼料の投入にあることを強調し︑﹁ここで開発した指導原理はグリーン・クロップ︵根菜︑うまごやし︑

その他の緑肥のことー引用者︶︑牧草および飼料への依存度が大きい点にある﹂といい︑以前には耕地の四分の三を穀

物︑四分の一をグリーン・クロップにあてていたのを︑新農法では五分の二を穀物に︑五分の三をグリーン・クロ

また支出項目︵地代︑労賃︑肥料と飼料︶のうち旧農法では零に近かった肥料と飼料の支出が新

( 2 )  

農法では二七 0 ポンドを支出している︒生産高で注目すべきことは︑第一に︑外国の競争に対して比較的有利な畜

産物と馬鈴薯の比重が高いことで︑ 具体的な姿を考えてみよう︒

︒ハンフレットの副題に﹁保護に代る最良の方法﹂とうたっている所以もまたこ

の辺にある︒第二に︑畜産物が高い地位を占めていることである︒これは耕地の五分の三をグリーン・クロップに

縣西大學『網演論集』第十三巻第四•五・六合併号

そ の 特 徴

﹁高度農業﹂には経済的

︱二

0

参照

関連したドキュメント

国内市場構造の研究 社会経済 学第 22巻第3号;同,

仁牟もgである。原論文は工868年一1906年の短い期間の文学史を詳細に記述

ハワードの田園都市論は,産業革命期を経過し

これによって,公共投資を媒介に有効需要を作り

(1) Inter-Departmental Committee on Physical Deterioration, Report of the Inter- Departmental Committee on Physical

 序章では復古王政期には救貧行政には原理的な変化があった,と述べら

 以上,19世紀後期から20 世紀の前期の四半世紀にお ける本県農業の生産動向を

プリッグズも,「優雅な楽々