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新大陸における農業革命      一オーストラリアにおける19世紀の

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(1)

新大陸における農業革命

     一オーストラリアにおける19世紀の

       小麦産業の発展を通して一

河  地  貫  一

 は し が き 1 オ門ストラリアの叢原:

2 オーストラリアの農業発展 3 農業の海岸時代一自給農業期

4 小麦農業の内陸進出一環ドストラリアの農業革命

 結    語

は じ め に

 農業革命は,技術革新であり,経済的社会的革新であるが,同時にすぐれて地理的革新 である。世界農業の地域分化が,産業革命や農業革命の所産であることは明かである。

 ヨーロッパの海外移民は,旧大陸の栽培作物や飼育家畜を新大陸にうつした。 しかし,

彼らは,旧大陸のそれと全く異った農業革命を達成したとわたしは考える。オーストラリ アの農業革命は1860〜1900年の40年間に亘って完成される (これはまた,本稿の結論であ るが)。そしてオーストラリアの農業は,小麦産業を中心として発達してくるから,本稿は,

19世紀のオーストラリアにおける小麦産業の発展を通して,新大陸の農業革命の本質を明 かにし,その地理性を追求しようとする。

1。オーストラリアの叢原

 資本の原始的蓄積の過程においては,西ヨーロッパ人の海外植民地の開発は,主として,

原住民あるいは,アフリカの黒人奴隷を労働力とする熱帯作物一三として甘蕪の栽培に        (1)

始まるプランテニション経営によるものであった。 「プランテーション経営の重要な前提 条件は,労働力を安くかつ豊富に供給されることであった。」

      (2).(3)

 産業資本が優位をしめ,資本主義が,イギリスに確立する18世紀末から,そのような 熱帯の開発と並行して,更に温帯植民地の農業開発が,ヨーロッパ人の移住と,ヨーロッ パの栽培作物と飼育家畜との移植によって行われてきた。

 少数の遊牧的原住民しかもたなかった北アメリカやオセアニアでは,彼等を絶滅せし めるか,あるいは無力化せしめて,自らの作物と家畜とによって農業空間を拡大していっ        (4)

た。安価にして豊富な奴隷労働と大農場とに基礎をおいた熱帯プランテーション開発に対

(2)

して,温帯移住植民地の農業開発は,大農場とヨーロッパ人労働力に依存した。しかし,

これらの植民地は本国と自由貿易関係に立つ.ていたので,初期の自給時代を除くと商業        (5)

的農牧業を行い,そのために作物と家畜とに有利な土地利用方式を決定し,一方では工業 の発展は極めておくれた。オーストラリアの殆んど自給のみを目的とした工業化さえも,

      (6)

今次大戦以降のことである。

      (7)    ℃       6

 旧大陸の作物や家畜をもたらした移民達は,しかしながら,旧大陸のそれとは全く異っ た新しい新大陸の農業方式を樹立した。

 中耕と除草とが必要なカブ栽培を中心とする,集約的なヨーロッパの農業革命に対して,

       (8)

新大陸では,大農機械による休閑と,時には家畜の飼育一主として毛羊種の羊一を伴 った,極めて粗放的な単一生産型態の農業方式を作りあげたのである。

 農業はもちろん技術的行為であるから,農業の発展は,その技術の進歩によって規定さ れるが,また本質的には地理的行為である。旧大陸と根本的に異った自然的環境は,オー ストラリアでは,乾燥した海原scrub・lahdと,更には,旧世界の概念では,住民の数と 比較して,およそ不均衡な,著るしく広大な空間である。これが,か\る新大陸方式を形 成せしめた地理的基盤であった。地理的な表現をすると,農業の新大陸方式は,か\る性 格のをもつ土地の自己表現なのである。

 オーストラリアは1788年に流刑植民地として開かれ,6つの植民地が,各之Colonyと して分割して統治され,1901年に始めてオーストラリア連邦 The Commonwealth of Australiaになった。つまり,イギリスにおける産業資本の確立期から自由貿易の黄金期

に至る問に平行して,その経済的基礎がおかれたわけである。

 この時期に,オーストラリアに求められた役割は,1866年ゼボンスが指摘しているよう に羊毛であり金の生産であった。この点に関しで,種々環境論的な理由が加えられている が,要するに,オーストラリアの羊毛は,イギリスの毛織物工業の基礎を与えていたので,

       (9)

立地の競合において,農業は到底牧羊業の敵ではなかった。たとえ新しく開かれた西部の,

       (10)

土壌や気候の条件が小麦農業に好適であり,また,羊の飼育が,小麦栽培より,より湿潤       (11)

を好適な条件としても,牧羊場の乾燥地域への進出は,小麦農場よりはるかに早かった。

        (12)

1860年は,小麦農場が内陸の乾燥地に進出を始める時期であるが(この点後に詳論する),

その時には,羊は,現在の主要牧羊地域に分布していた。

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ    も   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ

 イギリスの産業革命が進展して,工業の発展が,農業のそれに優越するようになって,

穀物条令Corn Lawが廃止(1846年)されても,オーストラリアは,1870年代までは 小麦の輸入地域であった。

      (13)

 要するに19世紀のオーストラリアは,チューネンF.Thセnenのいう放牧Viehzucht圏 である。この極端な粗放的産物は,人間の労働の所産というよりも,広大なひがりをもつ   q4)

た空間の産物であり,19世紀におけるオーストラリアの経済的支柱は,まさに空間そのも

(3)

オpストラリアの叢原:

のであった。

 20世紀に入って 小麦は羊毛につい で重要な輸出産業 となった。そして 小麦産業の発達は

その:農場が内陸の

手原地帯に進出

し,更に牧羊との 混合農業型態を取 ることによって開

かれたもので,植民当初の東海岸の副長的風土の産物ではなく,叢原の重要性を軽くするも       (15)

のではない。また第2次大戦後に,自給を目的とする急速な工業化政策が取られているが,

輸出における羊毛の重要性はますます増大し,小麦産業の停滞に対して,飼糧作物一乾 草,青刈作物一が伸びている。

 現在オーストラリアの土地利用は,総面積の60%に及んでいるが,耕地利用率は総面積 の1.3%である。従って,土地利用の98%までは牧場である。

 耕地は,熱帯に属する甘蕪のエステートを除くとすべて温帯に分布し,小麦耕地は,全       (16)

耕地の約66%(1930〜39年平均)を占め,年気温60。〜65。F,4月〜10月の雨量10 〜20        G7)

の出原に主として分布している、そして,特にわれわれの注意をひくことは,か〜る分布 は1860年以降の移動によるもので,小麦の自給時代には,多雨な海岸地域とタスマニアに 小麦耕地が立地していたという事実である。

2.オーストラリアの農業発展

 世界経済において,独占が進んできた19世紀末は,6つの植民地からなっていたオース トラリアは,あらゆる面で重大な転換期に立っていた。

 経済面からいうと,Joseが述べているように,直接のきっかけをなしたものは,その        (18)

頃の世界恐慌であった。

 そして,従来,羊毛の輸出にのみ,その経済を依存していたオーストラリアの「多角的 発展」,特に,農業と酪農業の発展が企図されてきた。 E.Dunsdorfsは,農…業の中心 的地位を占める小麦産業のrapid Expantionの時期として1895〜1930年をあげている。

       (19)

ヨーロッパの小表生産の停滞に対して,オーストラリアで,その輸出が飛躍的に増加した のは20世紀初頭からである。ゴールドラッシュに始まる19世紀の後半は,S.H.Robertに よると農業の発生期である。この時期は,またこ\で述べようとする,農業の機械化によ って小麦耕地が内陸移動を行い,20世紀の小麦産業の発展を準備した時期である。

(4)

 植民以来,ゴールドラッシュによる人口急増期までの60年間(1788〜1851)は,ほとん        (20)

どその稀薄な人口に対しても自給的な農業さえもたなかった時期であり,現在,ほとんど 小麦の生産を放棄しているタスマニアが,この時期における唯一の小麦生産地域としてオ ース・トラリア大陸に移出していた。この時期の末期に,南オーストラリアが小麦生産に参 加し,やがてシドニー市場に,タスマニア小麦を圧倒して,次の農業の発生期に小麦移出

において独占的:地位を占める。

従って・筆者がさきに行った・鑓の糖㌍よび掴の変謝ら・オPストラリアの発 展段階を劃する時代区分と照応する小麦産業の発展期に関した次の分類が得られる。

         舗1788−19世紀末){繊芭111課ll誌)

 小麦産業の発展

      発展期(20世紀初〜1930年代)

         発展期(20世紀当初〜現在)

      停滞期(1930年代〜現在)

 20世紀の発展期は,明瞭に2つの時期に分たれる。1930年代までの急速な発展につゴい て,世界恐慌以降は生産,耕地とも停滞し,特に,第2次大戦後の急速な工業化に伴って 逆に小麦の生産,耕地ともに減少している。

3.,農業の海岸時代一自給農業期

 1760年頃から1830年代にかけて,イギリスでは,従来の二圃式あるいは三圃式の粗放的 な農法に代って,集約的なカブ栽培を伴う輪栽式農法が全土にひろまり,農業革命を達成 する。その社会的基盤をなしたものは,第2次の綜劃運動であった。これに伴って,農業       (23)

の地域的分化が起り,それとともに,粗放的な穀物生産は,海外に移される。新大陸への

         (24)

小麦の進出は,イギリスの農業革命の所産であり, 「穀物条令」の廃止(1846)は,この 傾向を決定的にした。

 従って,早くから新大陸にうつされても,小麦の生産が,そこで急速な発展をみせるの は,19世紀後半であって,それ以前は,カナダ,アメリカ,オーストラリア,アルゼンチ ンにおいても,小麦産業の発展は微々たるものであった。オーストラリアの小麦輸出は,

      (25)

1870年代に始まり,ことに羊毛の生産に集中したニュウ・サウス。ウエールズでは,20世 紀に入るまで,小麦の輸入植民地であった。

 オーストラリアへの植民当初の耕地は,植民の基礎がおかれた東海岸のシドニーSydney 周辺の低地に立地し,のち洪水をさけるために,東海岸に近い河川の自然堤防に点在して

        (26)       (2了)

いったので,耕:地が極めて分散していた。道路が少い上に作物の輸送関係から,耕:地は可        (28)       (29)

航河川の沿岸か,海岸線をはなれることがなく,しかも分散した耕地の生産物は,殆んど

  (30)

附近の自給作物であった。ハウクスブリーHawksebury河のウインドソルWindsorは       (31)

植民当初の最大の小麦産地で,最初の道路36マイルが,こ\とシドニーを結んで建設されて

(5)

いる。

 (32)

耕地の分布(1814)エーカー

地 域

耕 地

小麦隊箆

シ ド ニ ー

パラマツタ

ウインドソル リ ノミプール ニユウカスノL

 517 1,616 5,350 1,088

 42

 597 1,026 3,336  919

 39

小麦昌昌

6 19

62 42

1

%1

10 17

57

15

1

計 8・61315,917i 1・0%11・・%

Historical Records of Allstralia viiiP.601。

 飯沼のいう,イギリスの無血如意 風土から,オーストラリア東岸の褥 耕的風土に,イギリス品種の小麦が 移されたので,その栽培は極めて困 難が伴い,農業はまつ森林の除去か ら始まった。特に切株の除去が困難

    (33)

であり,耕作より耕地の整備自体が

問題であった。

 農業の技術は原始的な焼畑農業で あり,農具も手鍬Hand・poeingで

 (34)

あったので,小麦よりむしろとうも

       、 、 、

ろこしが主作物であった。家畜を使

…       (35)

用する鋤Ploughが利用され(1795年以降)て,小麦生産が優位を占めるが,手鍬を利用 した零細農移民は,依然としてとうもろこしを主作物としていた。これに対して,大農場

      ヘ   へ   のも  ヘ   ヘ   へ

をもっていた士官や官吏は,主として小麦生産に集中したが,タスマニアの小麦がシドニ       (36)

一市場にあらわれるに至って,大農場は牧羊を中心とする「草農業」Grasy Agriculture       (37)

に変り,小麦は,自給的な農作物となった。ブルー山豚Blue Mtsを越え,西に通じる道が

 (39)       (38)

      発見されて,大資本の移民達や企業    移民,官吏の耕地(1804)

      的な官吏,士官は西部に進出し,土    (移  民)      単位(1エーカー)

      地を不法に占拠Squatteringし,

規模降騰1総鮪地畔地レ暖

 0−50

50−100 100−300 300以上

392 134 63

 5

8,858 10,667 9,303 3,115

5,673

3,431

2,094  302

3,382 1,898

1228

 181

594131・943i 11・5・・t 6・689

(官  吏,士  官)

 0−50 50−100 100−300 300以上

2 7

4 22

 56

 650  838

21、098

 11  98  68

1,218

60

45

811

35122・64211・3651 916

Historical Records qf Aロstralia, V,P.34・一3了

大牧場主をSquatterとよばれるよ うになった。しかし,1822年にブル ー山豚を横断する道路(シドニーか ら)が建設されても,農揚の進出は

    (40)

なかった。

 要するに,小麦とは,自然の災害 にさらされた幼稚な生産手段しかも たない貧農作物でしがなかった。

 1840年代に始まった羊毛価格の下 落で,この植民地は,1851年に始ま るゴールドラッシュまでは沈滞期に あった。小麦農業の成長も極めて遅 々たるもので,Dunsdorfsは1825

〜1855年の30年閲を・小泰産業の

(6)

IIlsufficient expantionの時期として特色づけている。オーストラリアの小麦発展史に       (41)

おいて,か\る長期間の停滞期はない。

      (42)

 この沈滞期の前半,順調な成長をみせ,唯一の小麦移出地域として発展してきたタスマ ニアは,1843年の小麦耕地87.4万エーカーに達し,当時の「大陸植民地の穀倉Granary」

      (43)

であったが,以後低下し,今日その小麦耕地は,1843年当時の1/、。に止まっている。タス マニアは,大陸東岸部に比較して,イギリス本国の気候により相似していて開発も早く「

技術も進んでいた」。1810年代にはシドニー市場に,インド産小麦と競争していた。しか

       (44)      ・        (45)

し,タスマニア小麦は,主として小帆船で輸送され,運送条件は極めて不利であった。そ

      (46)       (4了)

して,南オーストラリア産の小麦が,1843年忌シドニー市場にもたらされて,タスマニア の小麦農場は急速に縮少して,「航行河川の肥沃な流域に集中し,内陸地方は牧場化して いき」,一方多くの農業移民が大陸部に移住した。

 (48)      (49)

 この時期に,新しい小麦農場が1830年に西オーストラリア,1836年にはビクトリアに,

そして1838年には南オーストラリアに相ついで開かれた。しかしながら西オーストラリア のスワンSwan河流域の植民は,風と海流との関係から,大陸南部の沿岸を航行するこ

とは,当時の交通技術では,極めて危険であり,「シドニー市場より,むしろインドへの       (50)

輸出を考えた」ぐらいで,結局,20世紀まで,自給生産を行ってきたにすぎない。

     (5/)

 ビクトリアは,海岸地域の開発が特に困難でゴールドラッシュで最大の移民を迎えたが 彼らは多く職人化して農業移民とはならず,他の植民地からの移民で,金鉱地附近に耕地 が若干増加した。植民開始以来40年間,小麦は南オーストラリアから移入していた。

南オーストラリアは,適度な冬雨をもち,

耕地の整備上極めて有利で,「世界最良の小麦産地である」と,当時考えられていた。

(52)

て耕地は,輸送上有利なスペンサーSpenser湾沿岸に集中していた。

南オーストラリアの小麦輸出(1843)

自然植生も scrubby areaである関係から       そし       (53)

      他の植民地と異っ     て,牧羊業よりむしろ,小麦農業が     有利な産業であり,1861年に豊富な

輸出相手先 1馬面シ)・灘(・ン)

モ ウ リ シ ヤ ス シ  ド  ニ  ー グ    ア    ム

西オーストラリア

ニュー・ジ 一ランド 戸  ン  ド  ン

カ サ  ム 島

シ ンガポ 一 ル

7,452 1,163  829  288  132

 44  46

342

28

96 83

34

25

South Australia:1 Registe乳20 January 184・4

(E.Dunsdovfs,:ibid.p.104より)

       (54)

銅鉱が発見された後も農産物は他の 産業のすべての合計を超えていた。

      (55)

1843年には,南オーストラリア産の 小麦がシドニー市場にあらわれてタ スマニアを追い,極小量であるが,

イギリスにも送られた。小麦産業が 順調に成長するのは,南オーストラ リアのみで,この時期は空間的には,

南オーストラリアの発展と穀倉タス マニアの哀退として特色づけられ

㌔る9

(7)

 耕地が分散しているために,農産物価格が高く,かつ労働力の不足を来たして1823年頃 以降,特に労働力の不足が顕著であった。1807年における雇傭労働力の罪人と自由移民の        (56)

比は56:44であったのが,1829年には,もはや自由移民を雇傭出来なくなっている。罪

       (57)       (58)

人労働力の割当ての廃止(1841年)によって,従来,主として彼等の労働力に依存してい た小麦農民はやがて,その耕地を放棄して,大牧場主の労働力と化する傾向が強くなり,

    (59)

放牧地ばかりでなく,定住植民地においても,牧畜業が重要になってきた。また牧羊業と       (60)

農業をかねていた大土地所有も,農業を放棄してきた。

       (61)

 労働力の不足を補うために,本国やタスマニアからの移住のみでなく,インド人,中国 人の苦力が受け入れられたが,耕地の集中と,労働者の確保のために取られた最大の政策

      (62)

は,土地法Land Actの改革であった。従来の土地譲渡から,競売による土地売却であ るが,結果においては,大資本をもつ,大牧場経営を有利にし, 「羊毛の輸出と小麦の輸  (63)

入」という経済のパターンを強めたに止まり,新しい移民は,耕地を放棄した小農民とと       (64)

もに,牧羊業の労働者となった。小麦価格が下落して,農民が保護を要求しても,所詮,

       (65)      (66)      (67)

小麦産業は忘れ去られたものであった。

 結局,小麦はE.DunsdorfsがDungrateeと表現している,生活水準のひくい零細        (68)

農の生産に固定してゆき,しかも,彼らは「他日富裕な牧畜業者になることを理想として

いた」。

 (69)

 南オーストラリアでは,小麦農場の規模も,他より大きかったが,労働力の不足を,素 朴な刈取機Stripperを発明(1843年)して克服し,小麦価格の急落期による一時的停滞        (70)

(1842一ノ45年)はあったが, ノ46年以降耕地の増大がつダいている。 Stripperによっ て,労働の生産性を著るしく向上せしめたといわれ,南オーストラリアでは,その利用が       (7わ

E.Shannによると1850年頃に一般化し,1860/61年には,機械と手とによる刈取面積の       (了2)

坊が66:34であった。しかし,この農機械は,乾燥地以外には適しなかったし,またイギリ

       (73)       (74)

スからもたらされた品種にも,必ずしも適合していなかったので,東海岸の小麦地帯には       (了5)

あまり普及せず,機械による刈取面積はビクトリアでは7%にすぎなかった。細野のいう        (76)

,46年以降の小麦生産の増大は,単に南オーストラリアについてのみ正しい。

      (77)

 こうして,植民以来70年間人口は増加しても耕地は,ポドソール土壌の,褥耕的風土で ある東海岸地域以外に発展しなかったし,また耕地の拡大も微々たるものであった。しか

  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

も,東海岸の風土が,小麦に取って決して良好なものでないことは既に知られていた。そ        (了9)

れでも,この時期における単位面積当り生産量は,ビクトリアで30ブッシェルに及び,オ        (80)

一ストラリアの小麦史上最高の生産量を示した。

 繊維工業に始まったイギリスの産業資本の確立期の当初に,開発の始められた植民地オ ーストラリアでは,その広大な空間は,イギリス産業資本に奉仕する牧場であり,小麦産 業ばかりでなく,耕作農業自体が忘れられた産業であった。

(8)

 か\る小麦耕地の空間的配置は,上述してきたようなこの植民地における生産様式,こ とに「農業革命の影響を全くうけていなかった」,自然的農業に近い技術的段階にあった        (81)

小麦農業そのものの空間的表現だったのである。 :Lancelottが述べているように「新し

         、   、   、   、   、

い農業機械が,農業を破滅から救った」とすると,当時の環境下における農業の発展の限       (82)

界に達していたものであり,G. Taylorがいうように,1860年以降の,小麦耕地の内陸 進出後における,小麦農業の発展と照合して,この東海岸時代のそれの停滞を,東海岸の 褥耕的風土に責を負わすことは,全く誤りであるといわねばならない。なお,この時期の       (83)

中期以降,農民は,大土地所有から土地を借用した借地農民:Lease holderが増加しそ の経営規模を拡大するとともに,混合農業Mixed farmingへの転換を用意してきた。

      (84)

オーストラリアでも,次の時期における農業革新の社会的基礎を作りつ\あった。そして Stripperは,広く普及しなかったが,全植民地の農民が,農業機械に著るしく関心を高

めつ\あった。

     (85)

4.小麦農業の内陸進出一オーストラリアの農業革命

 1850年代まで,主として用いられていたイギリス種のWhite Lalnmus小麦は,この 乾燥した植民地においては,必ずしも好適ではなかったが, 1860年には, 耐乾品種の        (86)

Purple Strewが南オーストラリアにあらわれ,ストリッパーとともに小麦耕地の乾燥地       (87)

域への進出を用意した。

 ストリッパーが単に,乾 燥地の小麦の刈取に好適で あり,労働力の不足したこ の植民地では,その普及と 耕地の拡大とにつれて,小 麦の単一栽培の傾向が強く うち出されてきた。ビクト

       (88)

リアでは,Mallee地方の 開拓が進むにつれて始めて 利用されるに至った。

        (88)

 Stripperについで,

刈取機 Reaper,草刈機 Mowing Machine,結 束期 Binder, 確認機 Threather,  簸別機 Winnowing Machine,

     (89)

初期のStump・Jump・Plough(上)とStripPer(下)

(9)

更には心覚と刈取を同一作業で可能なH:arvesterやStamp−Jump・Plough等々の,「

イギリスの農業革命はもはや,その理想でなく」なるような,植民地の環境に適した新し       (90)

い大農機械が続々として発明され普及していった。このような大農機械の普及化は,他の 世界にも起っているが,このことが,オーストラリアにおいては,実はその叢原地方Scr ub・landへの小麦耕地の拡大を招来したことに,極めて重要な意義があり,例えばオース

トラリアの小麦生産に飛躍的発展を約束したMallee地方の開発は,全くこれら機械のた まものであった。

 この時期の初めには,ビクトリアは,南オーストラリアに比較して,機械化は非常にお くれていたが,1880年代には急速に進み,1878年には農民は「資本がなければ,何らなす ことが出来ない」 といわれた。 Mallee地方の開拓によって,ビクトリア州は1880年忌       (91)

は小麦の輸出地域化してきた。

小麦耕地の拡大は品種の改良と,機械      ビクトリアの:農業機械 化を最大の要因とするが,なお鉄道の役

割も考える必要がある。金鉱地附近の農 民は始め,鉄道の敷設に反対であったが        (92)

金鉱:地が衰退して,小麦の市場が海港に うつって,事情は急変した。1883年に,

例えばHorsham(Mallee地方)の農

D866年i188・年i1890年

草 刈 機 刈 取 機  stripper 簸 別 機

 83

1,890  190  883

1,387 8,922 2,352 3,408

1,533 9,233 9,262

9,641

      E.Dunsdofs:ibid.P.152

民が鉄道を要求し,鉄道にそうて発達した小麦耕地の拡大,縮少が,小麦価格の変動に左

       (93)

右される状態にあったが,結論的には,鉄道は小麦の内陸発展に重要な役割を果すのは次       (94)

の発展期に入ってからである。そしてこの時期に鉄道の影響の最も少なかったのは,耕地       (95)

が主として河岸に立地していた南オーストラリアであった。    

 小麦耕地の内陸進出には2つのタイプがあった。南オーストラリアでは,旧小麦地帯か ら中央区Central Division(は1871年までに拡大)に小麦生産が始まり,ついで,東南 区,北区(1889年まで拡大つゴく)西区,ムーレー・マレー区Murray・Mallee Division

(20世紀に入っても拡大がつゴく)に拡大していった。ビクトリアとニユウ。サウス・ウ エールズでは,旧い耕地を去って台地Table:Land,西斜面Slope,西部低地Plainと 順次西部へ内陸進出した。20世紀に入って,旧耕地にも再び栽培されるようになるが,酪

:農経営と結びついたもので,重要性は殆んどない。これに対して,南オーストラリアでは 旧小麦地域の相対的な重要性は減少しても,耕地の減少はG地方を除いて)起っていない。

ニユウ・サウス・ウエールズは,羊毛一辺倒の経済が依然として,支配的であり,「農業 の機械化がおくれ」,小麦耕地の爆発的な増加は20世紀に入ってからのりベワナRiverina

       (96)

低地と,西南斜面South−western Slopeの急拡大によるものであって,19世紀は,依然

として小麦の移入地域であっ・た。

(10)

小麦耕地の内陸進出

、陶噺唱一 一

A       Aノ

     ㌔r∫

   .二 .・

   ◎寓∴、。

        ロコ   ヨ げみち 

  糧轟

 ・{・ら,言:

・・@.。隔7:9  9−○,曾,

ぐ.

7

●σ

 }、

\.   

1点=2,00σエーカー一一一鍋陶

.23

載  ・茎

  醸

・・,鴛塾  1  1

h爆 轟

鷲麟韓織

     ●

      畜       ロハリ   サゾねサ       .vJ      .・ゴ      

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   ・●     6   ●   

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…ギ1.な」 .

 の9●・o  .

19.10置       置・

1点=2,000エーカ_

・:●

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  1

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箋、灘妻.

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    藩

32.

ノ・

E・リ灘・・

.∵

●o  ●

ll竜

●:

小麦耕地の変移 (単位1000エーカ_)

ニュウサウスウエーールズ

海 岸 台 地 内 陸

ビ ク ト リ ア 186・年1189・年,i.

  }   1 了31

44i

12

129

2 95

236

333

海 岸 内 陸

1860年11890年

107

54

161

 20

1,125

1,145

南オーストラリア

i1860年

陣部その他

262

12

274

1890年 507 1,167

1,674

E.Dunsdorfs=ibid. P.115. P.116.

1880年以降のマレーMaUee地方の開拓は,まさに「オーストラリア人の英知を示した

(11)

誇り高きものであり」,従来牧場としても放棄されていた長原地帯Scrub・landであっ

        (97)      (98)

たのが,』Stamp−Jump−Plough, Stripper, Roller(後,これらの結合したものが発明

  (99)

された)等の農機械の利用によって,肥沃な耕地が開かれたものである。しかしこの地域        (100)

の重要性は,20世紀に入ってから謡われるが,それでも,ここの開発によって,ビクトリ アは,南オーストラリアとともに,オーストラリア最大の小麦耕地をもつに至った。タス マニアの衰退はいよいよ明らかとなる。

ニユウ。サウス・ウエールズ州における小麦耕地の拡大

(エーカー)

LOOα000

100ρ00

1α000

1.000

100

 1830年   1860      A−A一海岸      B−B一台地

C o

 1900     8930年 C−C一西斜面

D−D一西部低地

 農業の機械化と,小麦耕地の内陸移動とは・小麦農業の根本的な構造改革を伴った。第

一一ノは,経営規模の拡大であり,消費地周辺の小農場は,果樹,そさい栽培に専門化した。

第二には,休閑を伴って,混合農業的経営が申心になり・農産物の小麦の単一化が行われ

てきた。

 前代末期において,借地農民の増加によって,小麦は,小農民から,次第に中農作物に 変ってきたが,それとともに,都市や鉱山の発達につれて,小農民は次第に小麦作を放棄

して,園芸農や果樹栽培に転換していた。

      (101)

 農業の機械化が,大農民の小麦生産を可能にするとどもに,小農に対しては禁止的な役 割を果した。この小麦経営規模の拡大が,小麦耕地の内陸進出という地理的表現を示した。

   (102)

内陸に進出した小麦耕地はすべて大農経営であり,小麦の単一生産を行ったのである。

 アメリカの西部で行われたTown・ship制をとり入れた土地法が,この経営規模の拡大        (103)

と,耕地の内陸進出の法律的骨組を用意したのであるが,牧羊業者の特に有力なニュウ・

(12)

o

ビクトリアの農場規模の拡大

規  模

(尺一噂カー)

 1−50  5−100 100−200 200−500 500以上

485了/58 1891

黒一1%[』鴎一1%

36.7

40.3 59.8

61.4 39.4

   

15.4

  【

17.α

25・21

  1

71.gI

25・8 16・g

堰@1・て90・4

85.1 207.1

899.7

2.9 3.5 8.4 36.6

48.5 計

237・611・…2・4542110・

(E.Dunsdorfs: ibid, P.118)

農揚の規模と地域との関係(ビクトリア)

         単位 1000エーカー

内 陸 海 岸

1867/8

膿押鯛計

89 90

179

130 219

322P412

452 631

1879/80

小麟一場1計

69

89

朽8

1,082  448

1,530

1,151

 537

1,688

(大農場100エーカー以上ノJ、農場100エーカー以一ド)(驚、2111讐)

サウス・ウエールズでは必ずしも成功せず,小麦耕地は,大牧場の河川にそう一特にム ーレーMurray河,ラチュランLachlan河,ムランビジーMurrumbidgee河沿岸一 地域(西斜面,Darling河の支流)に,借地農民:Leaseholderとして,牧場内部に侵透       (104)

して行く形を取った。

         (105)

       耕地の急速な大型化と,内陸進 エーカー当り生産量 (ブッシェル)

1834年

ノ36 38 40

/42

/44

/46

/48

/50 56

ブツ

 14.9  11.4 14.5 10.2 15。3

18,1

21.4 1861年

,63

65

/67

,70

,75

/80

/85

,90

95

ブツシエルロ

 14.3  12.2  11。8  9.2  10。8  13。2  7.7  6.0  8.4  4.9

1900年

ノ05 10 15 20

/25

/30 35 40 45

ブッシェル

 8.5  11.2  12.9  14.3  16.1  11.2  11.8  12。1  6.5  12.5

E.Dunsdorfs:ibid.の附録(巻末543頁)

た。マレーMallee地方で,「地力を消耗せずに (すなわち休閑を行って)

水準を維持する・ためには640〜1,000エーカーの耕地が必要である」

ている。注意をひくことは,オーストラリアにおいて,小麦産業すなわち農業の発展は,牧 羊をかねることによって,その緒についたという事実である。この傾向は,現在一層強ま

っていることは既に指摘した。

      (109)

出とは,当然,単位面積当り生産 量の低下を伴った。 Dunsdorfs は,1855〜1896年の40年間を,生 産量低下の時期 The priod of declining yield として特色づ けているように,オーストラリア

     (106)

小麦発展史上,最:低の生産量を示 す時期である。地力を回復して,

生産量の上昇のために取られた唯 一の方法は休閑と牧羊の兼営であ

った。

 肥料では地力の回復は困難であ るとして,殆んど使用されなかっ   (107)

      ,よき生活      (1891年)と主張され

       (/08)

(13)

 以前に一時的に,生産が植民地内の消費を超えた時期もあったが,オーストラリアは,

上述してきた小麦農業の発展に照応して,自由貿易の黄金期であった1870年前に小麦の輸 出地域となる。主として南オーストラリアの輸出に負うものであるが,後次第にビクトリ ア,ニユウ・サウス・ウエールズおよび西オーストラリアに波及する。後の2者が輸出地 域化するのは,20世紀に入ってからで,それとともにオーストラリアは世界的な小麦輸出 国となる。一方タスマニアは全く移入地域化していく。

 1860年に,南オーストラリア小麦の輸移出量は,全生産量の3%であったのが,1872年 には52%に達し,それまで主に他のビクトリア,ニユウ・サウス・ウエールズを移出相手

      (110)

としていたのが,1873年にはイギリスに変った。

 穀物条令の廃止後,・オーストラリア産の小麦が,ロンドン市場に入るのには,約30年を 経過しなければならなかった。タスマニア海峡から,南アメリカ南端を通過する大圏航路 の発見と,クリッパー船の発達が,これに大きく貢献した。1869年には,スエズ運河が開

   (111)       (112)

通するが,通過料が高価で,主としてクリッパー船を利用していた小麦輸送に取って,20 世紀までそれほど大きい意味をもたなかった。

      (113)

小  麦  輸  出  高

輸  出  国

ア  メ  リ  カ

カ  ナ  ダ

アルぜンチソ

オーストラリア ソ 連.東 欧 イ  ン   ド そ  の  他

1885〜89 重 量

(百石ブッシェル)

比 率

  %

1895〜99

115。9  3.0  5,7

重 量

(璽∫ツ)

2.g1

174.5

32.5 4.5

34.2 0.9 1.7 0.9

51.5

9.6 1.3

185.3

15。6 36.3

 3.3 185.8

15.8

 8.2

比 率

  %

41.0

3.5

8。1

0.7

41.4

3.5 1.8

1909〜13 重 量

(藝∫ツ)

109。1 94.8

比 率

  %

841

211:;}

ll:;

16.1 14。0 12.4

8.1

40.4

7.3 1.6

1923〜27 重 量

(璽∫ヅ)

比 率

  %

172.0

293.2 141.7

90.5

57.2

17.4 12.6

21.9

37.4 18.1 11.5 7.2 2.2 1.6

世界計i338・91・…糾8・611・…i677・7hOO・・レ84・411・…

細野重雄:小麦経済(昭和34年)36頁より

結 語

 イギリスにおける産業革命と農業革命との進展と自由貿易政策が,世界の小麦大輸出地 域を形成せしめた。南北戦争後,アメリカは巨大な小麦輸出国となった。20世紀に入って オーストラリア,カナダ,アルゼンチンー今日のいわゆる四大輸出国一が大輸出国と して登場してくる。

 オーストラリアは,植民以来70年間,古い農法によって,主として小農経営による自給

(14)

農業時代がつゴいた。空間的には,褥耕的風土の東海岸地域をはなれることが出来なかっ

た。

 19世紀の後半に入っても農業は依然として牧羊業におされて停滞をつゴけてきたが,し かし,農業は革命的な構造改革を行って,20世紀におけるその発展の基盤を形成した。

 借地農民の増加によって,序々に農業の経営規模は拡大して来たのが,農業の機械化に よって,急速に大型化した。機械化と,小麦品種の改良が,耕地の乾燥内陸への進出を可 能にした。この地理的事象が,農場大型化の空間的基盤であった。内陸に進出した農業は

もちろん従来の零細経営による自給的農業ではなく,全く小麦の単一栽培を行う粗放的な 大農経営であった。海岸地:域の小農場は園芸農,果樹栽培を行って,自給的な穀物生産を 放棄し専門化してきた。肥料を使用しなかった内陸の大農場は,休閑と混合農業 (牧羊と 小麦栽培をかねる)を行う2圃式或は穀草式経営であった。これとともに,自給時代とは異

って,小麦の単位面積当り生産量の急激な低下を伴った。

 か〜る農業の構造改革は,ヨーロッパことにイギリスの穀物市場の拡大によるものであ って,自由貿易の黄金期である1870年代に,既にロンドン市場に,オーストラリア産小麦 が現われるが,真の発展は20世紀を侯たねばならなかった。

 か\る,19世紀後半に行われた,農業の技術的,経済的,社会的および地理的な構造改 革は,19世紀前半の海岸時代の旧い農業パターンに対して,まさに農業革命とよばれるベ

       ヘコ  ヘ   ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ   リも   ヘ   へ

きものと,わたしは考えるものである。そして,この革命は,集約的経営を基本的内容と

ヘ   ヘ   へ

する旧世界の農業革命とは,全く異る新大陸方式というべきものであった。

       ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    へし   ヘ   へ    のも

 農業が本質的に地理的行為であるとするならば,この新大陸方式の自然的基盤をなした ものは,その人口数に比して,極度にアンバランスに広大な乾燥叢原であった。イギリス の農業革命の基本的な地理的表現を,農業の地域的分化であるとするならば,オーストラ

リアの場合,それは,耕地の叢原への進出に外ならないであろう。

 Grasがアメリカの農業革命と,イギリスのそれとを比較して後者のカブに依存する代       (114)

りに,前者はとうもろこしに依存する点に相違点を見出し,ヨーロッパ的な集約的輪栽方

      、   、   、   、   、   、

式が,アメリカに採用されるのをもって,アメリカの農業革命とみている。

 すなわちGrasの場合は,新しいイギリス農業のアメリカへの移植一それが,アメリカ の農業革命であるとみている。この点,オーストラウアに関する限り,わたしは承服出来

ない。

註)(1)

(2)

13)

甘藷栽培が、プランテーション作物の中心であった。「甘藷は、純然たる単一耕作や大規模な プランテーションを、またときには不在地主制度をも促進する作物である」。そして甘藷経営 は、全面的な奴隷制度の下で、はじめて利潤をあげうる」J.Castro:GeograPhy of Hungry

(1952)、日本訳、国際食糧農業協会:飢えの地理学(1955)147頁。

工Castro(前出)日本訳146頁。

P,Gφorge:G60εraphie Agricole dロMonde 1952、(日本訳本岡、山本共訳:世農業の農

(15)

  業地理105〜406頁)によると、第2次大戦後、熱帯における民族独立運動の発展にともな

  い、熱帯地方への投資が不安定になった。そのため、プランテーション方式は廃棄される方向   にすすんでいる。同時に、アジアにあるプランテーションがアフリカ大陸に退却するのがみら   れる。

(4)オーストラリアに、イギリス人が移住した当初、その原住民は約100万人と推定されるが、今   日殆んど絶滅し、数万人が、熱帯地方に余喘を保っているにすぎない。またタスマニア原住民   は19世紀の中葉に、全く絶滅した。

(5)P.(ミ60rge:前出(日本訳、本岡、山本共訳:世界の農業地理一1956年94頁)によると・「新世界

  においては、農民は、アメリカ植民の初期に、移民が孤立経済のなかで、生活していたころの   遺物として例外的にみられるにすぎない」としているが、オーストラリアでも、植民以来約70   年間自給時代がつづく。そして, 「アメリカの農業は、ヨーPツパ初期の農業」(N.S. B. Gr   as:AH:istory of Agriculture in Europe and America−1940,日本町,三橋,本岡共   訳:グラースアメリカ農業史一昭和28年51頁)であった。オーストラリアでも,自給時代の   農業は,極めて原始的なものであった。つまり,この時期は,新大陸というよりは,古いヨー   ρツパそのものの移植であった。

(6)工業人口が,全有職入口の50%を超えている現在でも,工業製品の輸出は,金額にして,全輸   出額の10%以下である。オーストラリアの経済の均衡的発展の,究極の目的は工業の自給化に   あると考えられていることは,さきにもふれたところである。

(7)Yearbook of the Commonwealth of Australia No.44−1958, P.204を参照

(8)飯沼二郎:農業革命論一近代社会の基盤一(1956)124頁

⑨ このことは,多くゐ経済史家の認めるところであり,例えば,本位田祥男:英国経済史要(昭   和15年)188−190頁によると,19世紀に入って,新にオーストラリアから羊毛を輸入しはじめ       てから,羊毛工業は著しく活気をおびてきた。もちろ

     イギリスの羊…毛輸入

      ん,イギリスは,古くからヨー戸ッパにおける重要な      年      万ポンド

    1771     182.9     羊毛生産国であった。第1次綜劃運動が,その基盤を

    1800     860.9      なした。

    1830      3,230.5

    1850        7,432.6

(1①河地貫一一:オーストラリアの農業的土地利用一19世紀におけるオーストラリアの発展一1961年   (東南アジア研究年報第一集)参照      

にDオーストラリアのうちでも,特にニュウ・サウス・ウエールズは全く羊毛一辺倒であった。こ   こにおいても,1842年の文献に,ニユウ・サウス・ラエールズの内陸の土壌と気候は,小麦農

  業に極めて適していることが知られている。 E.Dunsdorfs:The Australian Wheat

  growing industry 1788−1948(1956)P.96

(12)GTaylorが,その著Ausrtalia(1950)で,このことを認めているが,上のE. Dunsdorfs

  の同書P.360によると,西オーストラリアの混合農業と雨量の関係をみて,年雨量14 以下の

  地域は小麦ベルトで,14 〜18 の地域が小麦一羊,18 〜20 地域が羊一小麦という型態を取

(16)

  っていることを述べている。

㈲ E。Dunsdorfs:ibid。 P.106によると,戴物条令の廃止があっても, Pンドンが輸送条件か   ら,オーストラリア小麦の市場には,なり得なかったと述べている。

(1の河地貫一:前出,研究年報第一集参照。

㈲ 飯沼二郎は「農業革命論」で,東アジアのような,高温,多雨で,農…作業上中耕と除草とを必   要とする風土を患側的風土とよび,中耕除草を必要としない冷涼,小雨の風土を非褥耕地とし   た。オーストラリア東河岸は,まさに野馬的風土である。

個 細謹のプランテーションは,安価な労働力によってのみなり立つものであったが,この地域の  國強暴プランテーションも,初期にはカナカ人とよばれる島喚民族の労働力に依存していた。

  しかし,白虹政策の実施以来,高価な白人労働力のみに依存している,世界で唯一一の例外地域   である。この点については,拙稿前出の研究年報第一集で述べている。

(17>第2次大戦後の工業化政策の結果,かえって,小麦耕地は逆に減少し,今日(1958年)では,

  総耕地の40%に低下している。

(18)W.Jose::History of Australia 4ed,(1914)P。300.

圃 E.Dunsdorfs=ibid.の第五章の題名

⑳ オーストラリアの人口

    1788年     859人       1850年     405,358人     1800〃      5,217      1860〃      1,145,859

    1830〃     970,039       1890〃       3,151,355

⑳ 河地貫一:技術の進歩と地域の展開(修道短大論集5の1−1956.10)

⑳ 同:オーストラリアの入口分布とその動態(人文地理2の4−1950.10)

㈱ 飯沼二郎=前出,129〜130頁。

四 例えば,従来イギリス全土に栽培されていた小麦は「東南部の最優良地に集中し, (中略)緬   羊の飼育は,集約的な作物栽培ならびに家畜飼育に利用され得ない劣悪な土地」を利用した   (P.G60rge:前出,日本訳65〜66頁)。また,これより後に起ることであるが,フランスでは,

  地中海沿岸地方においては,人間および土地に関する伝統的な価恒が犠牲に供せられ,ブドウ   栽培が支配的となった」(P.G60rge,前出日本訳18頁)

㈱ 細野重雄:小麦三冬:(1959)19〜20頁,なお,アルゼンチンの発展は,同氏によると1810年以   降とあるが,何かの誤りであろう。アルゼンチンがパンパスに進出するのは1857年で,小麦の   輸出は1873年以降である(入江,林:現代の人:文地理学1962,8頁)。

㈱ GJaylor:Aus七ralia(1952)P.134. Fig.47参照。

(27)E.Dunsdorfs:ibid. P.49の註に,1788〜1825年の間に,ハウクスブリー河において,1795,

   99,1806, 08, 11, 16, 17, 19, 20の各年に洪水が起っていると記録されている。

㈱ E.:Dunsorf6。 ibid. P.66に,「道路の欠如が小麦産業の内陸発展に極めて大きい障害であっ

  た」,としている。時期は不明であるが,同書46頁に,最初に建設された道路が,小麦の中心地域で

  あったハウクスブリー河畔のウ・fンドソルから,可航地点のパラマツタParramattaまでの

  36マ・fルが最初である。1822年には,ブルーBlueMts.を横断して,・ミサーストBathurstまで

(17)

  276マイルの道路が作られている。

.(29)道路がよくなっても,イギリス国内と比較して陸上交通費は,イギリスの約2.5倍を要した。

  (E.Dunsdorfs. ibid. P.67) また,36マイルの陸上交通費は,600マイルのタスマニアーシ

  ドニー聞の海上交通費と大差なかった。(E.Dunsdorfsjbid. P。64)

圃植民の初期は,罪人の担夫交通のみに依存していた (E。Dunsdorfs, ibid。 P.63)ので,河   川交通は,極めて重要で,ハウンスブリー河のパラマツタからシドニーまで,1804年に400ブ   ッシエルの小麦,100ブッシェルのとうもろこしが,この河を利用して輸送されている。

  (E.Dunsdorfs. ibid. P.63)主として帆船が利用されたので,所要時間が極めて不定であっ   た。例えばタスマニアのホ・ミートH:obertから道路で22マイル,河川で40マイルにある,タ   スマニア第一の小麦産地であったピッツウオターPittwaterの間の航行には,風の関係で,

  数虫聞から,時には1,2週間もかかっている(E。Dunsdorfs. ibid. P.63)。

切 E.Dunsdorfs. ibid. P.67.に,陸上交通が発糊しても,この傾向は,変らなかったとして

  いる。

圃 註(28)参照。

(3鋤 E.Dunsdorfs:ibid. P.12

圃 E.Dunsdorfsの前掲書11頁によると, root・out・Agricultureと表現している。

  なお,植民当初の農業は,例えばアメリカにおいても,「初期のマサチユセツツおよびヴァー

      セ  へ  も  へ  う  ヘ

  ジニアの農業は,原始人の農業,たとえばキリスト当時のドイツ人の農業た非常によく似てい

  た」(N。S. B. Gras:前出,日本訳:アメリカ農業史一昭和28年51頁)

働 E.Dunsdorfs=ibid. P.16.

(36)E.Dunsdorfs. lbid P.41によると,例えば,士官のMacarthherは,3,950エーカーの所   有地に,30エーカーを耕作し,2,750頭の羊と150頭の牛を飼育していた。

⑳ E.Dunsdorfs:ibid. P.66によると,1803〜04年1には,シドニーからタスマニアに,小麦が   送られていることが記録されているが,それから約10年後には,タスぐニアは,シドニー市場   に小麦を送っている。

關 E.Dunsdorfs。:ibid P.41。

㈲ E.Scott:Ashort history of Australia(1937)山川敏夫訳:オーストラリア史(昭和18年忌

  229頁。

圃註(28)参照。

㈲ E.Dunsdorfs:ibid. i第三章の題名。

働 1884〜 95;1930〜 34と第2次大戦後の3回に互って,小麦耕地の減少がみられるが,30年間   にわたる長期のものはない。但し,第2次大戦後の停滞は,その急速な工業化のもとに起った   現象であるから,.この現象の持続性に.ついては,今度の動向をまたなければならない。

忽3)E.Shann:An Economic History of Australia 1948−P.120     、

㈹ E.Dunsdorfs:ibid. P.75

@5}註(37)参照。特に1818年以降,タスマニアの小麦耕地は急速に増大している。

(4⑤ E.Dunsdorfs:iI)id, P.78〜了9

参照

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