奈良教育大学学術リポジトリNEAR
舞姫小論
著者 中西 雅彦
雑誌名 文学研究
巻 1
ページ 20‑23
発行年 1955‑07‑21
URL http://hdl.handle.net/10105/8900
て来たものと考えますと︑﹁ふっと振遮りてjとr顧み
ねども其人と思ふに﹂という混乱したことば使いが過然
にも存在することもそうした作品の成立事情を反映する
ものとして考えることができるように思います︒へたけ
くらべ﹂は︑﹁文学界﹂明治二八年一・二・三・八・十
二十二・二九竺月号に達哉︶ ︵文科l四︶
姫 小 諭 中 西 雅 彦
明治二十三年に発表された鴎外の青春の番である﹁舞
姫﹂は︑太田盤太郎と言う秀才の独逸留学生が︑漸メ官
僚ともての所動的︑器械的な人間になることに疑をもち
始め︑自我にめざめかけた時︑偶然エリスと言う宜しい
が美しい梅子と恋仲になり︑同棲して恋と自由を楽しむ
が︑一方故国との絆も断ちがたく︑たまたま来遊した友
人や大臣の疎めによって︑結局はエリスを捨てて帰国す
るが︑その為にエリスは狂気し︑又︑主人公も苦しむと
言う筋を回想形式でもつて描かれたものであるが︑優雅 な文体とロマンチジズふとエキゾティシズムとにみちた 陳嘆でもつて書かれている︒文学史蹄に舞姫は近代社会 に於ける琴も早い時期の人間的めざめを発した作品とし て位置づけられて来たが︑戦後大石鯵平氏によってエリ スに対する主人公の変を階級的な方面からみて︑豊太郎 の側にふかい人間的な愛情が成立したとすることは幻想 が虚偽であるとされ︑又この作品の主人公の美しさと弱 さは偽まんのそれだとして︑ここにあるのは官僚の意識 であり舞姫と言う小説.のあらはれたのは︑新しい官僚の 文学の成立であったとしておられる︒
﹁室に聾ゆる櫻閏の少しとぎれたる処には晴れたる空
に夕立の音を聞かせて蕃り落つる噴井の音︑遠く望めば
ブランデンプルグの門を隔てて緑樹枝をさし交はしたる
中より半天に浮び出たる凱旋塔の神女の像﹂或ひは︑﹁
この青く滑らにて物問ひたげに慾を含める目の︑半ば露
を宿せる長き陸毛に掩はれたるは何故に一顧したるのみ
にて用心深き我心の底までは徹したるか︒﹂ とエキゾチ
シズムをみたざらした︑すぐれたロマンチックな描写で
もつて表されている︒この点に関しては︑あらためて論
ずる必要は無いであろう︒紙面に制約されているここで
−20一
は︑主人公︑豊太郎の分析と舞姫との人間関係について
考えてゆきたい︒
主人公立太郎は︑﹁人の心の頼みがたきは亨っを更ら
なら︑われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり﹂ ﹁中
頃は世を戯ひ身をはかなみて腸日ごとに九廻すといふべ
き悼病をわれに負はせ今は心の輿に疑り固りて⁚⁚・
限りなき懐旧の精を喚起して幾度となく我が心を苦しむ
鴫野いか乾して此恨を錯せむしと言う︑内心からきた裏
切りを︑あきらめの中で追懐して苦しむと言う廻想方式
でものつて描かれる︒
滞独三年にして自由な大学の風に当って︑官長の命の
ま1に︒﹁ただ所動的︑器械的人物になって自からを倍
らざりきとし感すいた時︑﹁我母は余を活きた辞書とな
さんとし我官強は余営活きた法律となさんとやしけん﹂・
と思う様になる︒ここには確かに封建的規範から真実の
或紅めざめかけた盈太郎を発見するのであるが︑結局は
﹁近代的な自覚はありながらも人間的に脆弱である︒﹂
と小田切氏の言う様な形で展開されてゆく︒そうしてあ
きらめきってしまって︑現実的な可能怪を追求すること
なく︑その結果として︑恋人を裏ざることになり︑感傷 的な痺嘆をもらすことに終っている︒主人公は常に弱い ものとして描かれ︑それによってこの作品の主局が統一 されている︒この事は裏をかえせばr人間的めざめがは っきりした意識でもつて力強く貫かれたものでなかった 主己えるのである︑官僚としての自分を一応否定して︑ 歴史や文学に心をひかれるロマッチツタな人間であり︑ 常に積極性や勇気を欠いた自主性をもたない︑環境に応じ やすい人間としての豊太郎は︑結果に於いて恋人を裏切 り を得ない要素をほとんど最初から自分自身の中に 持っていたのである︑こうした弱さが︑友人より﹁いつ までも一少女の情にかかづりひて目的なき生活をなすべ き⁚⁚・意を決して断て﹂との言に対して﹁情縁を断 つと約しながら︑しかもおのれに敵するものには抵抗す れども友に対して否とは之対へぬが常なり主昌つた様な 自巳弁護とも言った様な言葉でこじつけてしまう︑ここ には自我にめざめる以前の彼が出ている様な矛盾がある. 更に﹁若しこの手にLも槌らねば本国を失ひ名草を挽き かへさん道をも橙も︑身はこの広漠たる欧洲大都の人の 海に葬られんかと思う念︑心頭を衡いて起れりLとして
遂に裏切ってしまう︒しかも蔵後においては友人に対し
−21・−
て﹁我が脳裡に一点の彼を恵むこころ今日までも残れ澄
と言った自主性のもたないとも言へる結果にしている︒
−方エリスに対する変は︑免官の時︑エリスが母にそ
の事を秘めることによって﹁鳴−呼余が彼を愛する心の
傾︑かに強くなりて遂に敗れ欺き中になりLは此の時な旦
ここには大石氏の言ほれる棲な階級的な優越意希は無い︑
しかし大臣が来るに及んで彼の心は二分されてゆくので
ある︒﹁我が心の楽しきを思い玉へ︑産れくるは君に似
て黒き睦子を得たらん︑この隆子︑鳴呼夢にのみみLは
君が黒き陰なり﹂病床より起きて夫を送りだす可憐なエ
リス︑従ひいかなることありとも我をば努を棄て玉ひさ
と言う彼女を捨ててしまう︑捨てられたエリスの姿はす
さまじい﹁直観したるままに傍の人も思ひ知らず我が名
を呼びてl︑たく罵り髪をむしりとり蒲団を噛みなどし﹂
遂に狂ってしまう︑ここにはロマンチックなものを越え
た栄達の前に裏切られた女主人公の姿が強くせまってく
るのではないだろうか︑それはあざむき︑裏切らざるを
得なかったとする主人公の自分の弱さ紅対する自費の念
によって生じる殊嘆よりも強い悲劇性がみられる︒この
点この作品の主題名が当に舞姫であると言うことができ る色 ︵これは鴎外の意図するところでなかったかも知れ ないが︶こうした裏切りと自責の念︑これはまき竺l樺 背反をなすものである︒それを主人公は弱いもの不可能 なものとしてあきらめきってしまって感傷的な疫嘆に終 らせてしまっている︒こうした太田皇太郎の人物的なめ ざめの弱さが︑最後には自分の栄達を求め﹁自分自身の 心の変りやすい﹂と逃げた橙な人間となり︑あきらめっ しかも自責の念紅かられながら療醸しなければならない 人 間 で あ っ た ︒
しかし何故作者鴎外がー応︑弱いながらも自我に目覚
めて行く彼をかの﹁若きヴエルテル﹂の如くせめて主人
公の自殺でもつてこの作品の恋を純粋なものとしなかっ
たのだろうか︑それは︑やはり島外その人の性質及びそ
の生き方によったのであろうもあくまでも︑現実を不可
能なもの.としてあきらめきってしまい︑そのあきらめを
あきらめとして肯定した上で展開する作品が﹁舞姫﹂で
ありた︑そうしてこれが為に作品のロマンチシズムに分
裂を充たし午感傷的な啄嘆に終止レなければならなか
ったのである︑しかしこの﹁あきらめ﹂は浮雲の主人公
の場合の様な外的なものによるものでなく︑皇太郎の内
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