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私の奨励準備 利用統計を見る

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Academic year: 2021

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Author(s)

牛津, 信忠

Citation

キリスト教と諸学 : 論集, Volume15, 2000.12 : 161-169

URL

http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=3307

Rights

聖学院学術情報発信システム : SERVE

SEigakuin Repository for academic archiVE

(2)

私の奨励準備

j

d

1 .

奨励担当数週間前の日常的心情

‑私の奨励準備

﹁右手のしていることを左手に知らせてはならない﹂(マタイによる福音書六章三節)︒

私が︑奨励を担当させて頂くにあたり︑日常的な領域において心に思い巡らすことを短い時間でお話し・申し上げ

ようと存じます︒あまり問題を難しくせず︑本当に日常の奨励担当数週間前の心情を吐露させて頂き︑何らかの心

の共通項を見出し共にできる心のうちを言葉にして︑ある種の確認が出来ればと存じます︒

﹁右手のしていることを左手に知らせるな﹂と聖句にありますが︑﹁行いをなすときは誰にも知られることなく

そっと神の前に立って行いなさい﹂という意味にとって︑思い起こしてみますと︑私の担当させて頂いた奨励の多

くが自己表現ないし自己の﹁ひけらかし﹂に終わることが多かったと思わざるを得ないのであります︒

してきたことを左手どころか多くの方々に知らせる機会になってしまっていたように思うのです︒特に私は社会

福祉の教師で︑自分のわずかな福祉実践を話題にさせて頂くことが多く︑このひけらかしの話を多くしてきたよう

に思われてなりません︒

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(3)

聖書的な世界から離れていると思いながらも︑求められ︑今までも﹁自分の経験談義﹂をしてきたからと妥協し︑

それでも自らの心の奥底では︑奨励とは︑本当に未熟な私が︑自らの弱さを心深くに真実として実感する︒それ

しかし︑信仰の薄い私は︑ともすれば自らの生活のうちに留まり︑神の前にではなく︑自らの表現欲の前に立ち︑

さもなくば︑心を開き︑主の御言葉を受け止めているという幻想の中で︑幻想であることに気付くことなく︑主

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を見る思いがするのであります︒

2 .

ここでチャペル奨励に関して︑思い出すことを少々お話し致しますが︑私はこの大学では現在二年目で︑奨励も

二度させていただいたのみでありますが︑本校へ奉職させて頂く前の任地におきましでも︑ささやかな奨励の時を

持たせて頂いておりました︒その奉職校では︑クリスチャンの教員ほぼ全員に年四j五回の奨励が回ってきており

ました︒これは︑本校のように多数のクリスチャン教員がおられる学校ではなかったということによるものであり

ます︒思い起こしますと︑宗教主任が代わられる毎に︑チャペルの持ち方もよく変わりました︒宗教は強制すべき

でないというひとつの常識により︑次第にゆるやかな強制をも止め︑同時に出席学生の数が減少する︑というよう

なことも何度も経験致しました︒どこのキリスト教系の学校でも似たようなことがあったと存じます︒前任校では︑

少しでも気を緩めると︑四百人ぐらい入るチャペルに五︑六名ということもありました︑それもよく見ると︑オル

ガン伴奏者の方と譜めくりの方が学生席に座っておられ︑それを含めてその人数でありました︒また数十年の奨励

経験の中では︑夜間の学校の奨励もありましたが夜間学生のチャペルでは︑出席者一人ということが何度もありま

‑私の奨励準備

このようなことを思い起こしますと︑先程申しましたような︑奨励者という立場で学生に聞かせる話を作り聞い

てもらう努力の必要不可欠を思わざるを得ないのであります︒相当に努力し相当に準備し︑聞かせる努力人集めの

努力をしなければならないという思いが心を領じます︒しかし︑そうした思いのなかにも︑同時にこれも先程申し

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何度奨励の場を与えられても︑この自問自答から逃れることが出来ませず︑奨励の準備にあたってというと︑ま

このような葛藤の中にあって︑奨励の場を与えられることは︑常日ごろ︑あまりにも主の御言葉から離れること

3心からあふれ出ることを語る

ここまでくどくどと考えずともよい︑もっと気楽にやればよい︑説教ではなく奨励なのだから︒このご意見も非

数多キリスト教系の学校がある中で︑この聖学院大学のようにその教えを厳格に守ろうとしている大学であるな

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らば︑洗礼のその時にも似た初々しい気持ちで︑奨励の順番を与えられ︑その時にいつもに倍して主を思い︑主に

真向かい︑その大きな恵みに与かる時を与えられる︒そのような思いの元に時を与えられる︒そのような在り方を

皆で保持するのもよいのではないかと思うのであります︒またそのような真実を学校全体で許容する場があってよ

いのではないかと思うのであります︒

うまく作られた奨励でなく︑真実に接することを目指す時と場があってよいのではないか︒

聖匂にも﹁悪い実を結ぶよい木はなく︑またよい実を結ぶ悪い木はない︒木は︑それぞれ︑その結ぶ実によって

わかる︒茨からいちじくは採れないし︑のばらからぶどうは集められない︒よい人はよいものを入れた心の倉から

よいものを出し︑悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す︒人の口は心からあふれ出ることを語るのであ

る︒﹂(ルカによる福音書六章四三│四五節)︒よいものを入れた倉からよいものを出し︑あふれ出るよきことを語

りたいものでございます︒それもあふれ出るままに語りたいものであります︒

4

リラクゼ

lシ

ョン

につ

いて

‑私の奨励準備

先ほども申しましたように︑﹁主に真向かって﹂等の言葉のなかには︑ともすれば︑かたくなに信仰を守り︑

つもしかめっ面をし︑硬い表情で︑等のまさに語弊はありましょうとも︑メソジストというか︑頭が固いというイ

メージが付きまとうのであります︒語るものがこうでは聞くものも︑硬くなってしまう︒

I.t' 

信仰に基づき言葉が与えられると︑それは方向を指し示している︒それに従うという在り方は︑現実に照合する

とかたくなに見える︒こう思い巡らせますと︑私どもが︑良くリラクゼ

i

ションに関連して口にする︑﹁泳ごうと

1 6 5  

(7)

水に身を任せるというその水とは私どもに取りましては︑主の御心でありましょう︒御心に自己を委ねてというこ

i

ションとでもいえる日常的態度が与えられる道があるのであります︒

この宗教的リラクゼ

l

シヨンのなかで︑ある方向性を語らせて頂く︒それも︑御心によって与えられた言葉を心

5 .

学内キリスト教文化の日常への浸透(奨励の枠組み)

しかし︑どのようにしても聞く学生諸君には︑やはり︑﹁あの教員がまた言っている﹂ということになるのであ

学内における︑教員︑職員の職業実践︑学生とのまた教職員それぞれの間柄の中における在り方(もちろん大学

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ていけば︑学生達は﹁頭の固い人聞がまた何か言っている︑しかし︑それはこの大学にはまさにそのものとして︑

日常の中に浸透して在る︒この大学の内なる文化の真髄としてある︒それが今の社会ではあまり見かけることのな

くなったものであったとしても︑ここにはある︒これは︑やはりほんとうはよき在り方なのではないか﹂それがこ

こでは当たり前︑それがこの大学そのものであることに︑学生たちは︑少しずつ誇りさえ覚えるようになるのでは

ないかと思うのであります︒この誇りは︑例えばグレイスの学生諸君にはかなりしっかりと感じられ保たれており

ここでいえることは︑学校関係者がかもしだす学内キリスト教文化とその日常化が︑奨励というよりもより広く

礼拝の時を持つその基盤に大きく関係しているということであります︒

奨励のなかにおいて︑﹁自らが怒意的に考える時にある種方向性を持って其れを果たす﹂ということを善しとは

致しませんが︑しかし︑ここに申しました学内キリスト教文化の日常性への浸透ということは︑奨励の準備に当たっ

て︑心に抱き持つことが許された枠組みないし方向性としであってよいのではないかと思います︒我々一般教職員

の奨励奉仕も︑この学内キリスト教文化の日常性への浸透をめざす役割を持つことが出来るでありましょうし︑こ

れは学校生活の日常性の中にキリスト教文化が息づくことに寄与し︑さらには礼拝と学校生活の連続性を保持する

役割をも持つようになりうるのではないかと思うのです︒

‑私の奨励準備

6

心の情報基地としての学校共同体(奨励の枠組み)

この大学においても︑こうした在り方︑キリスト教文化の日常的実践が一層大切にされてもよいのではないか︒

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(9)

私どもクリスチャンも︑ともすれば現実との間で試行錯誤の中で生きて行くうちに︑二重︑三重の皮をかぶって

もし学内で︑キリスト教文化の日常化が可能であるとすれば︑この学校の場から︑学生や教職員の生き方を通じ

聞薫習(もんくんじゅう)という言葉が在ります︒香をたくとその香りが知らず知らずのうちにその部屋にいる人

A F ‑ ‑

(10)

このような意味をも込めて︑奨励の場を与えられるということは︑学内キリスト教文化の存続︑生活内浸透のた

めに寄与し︑それを通じて︑心の情報基地化への捨て石になることでもあると心得ておくべきかと思うのでありま

す ︒

7 1

最後に

奨励の場を与えられ︑準備の中で心を聞いて︑主によって与えられる言葉を一つ一つ辿っていきますと︑学生諸

君の心との会話ないし対話を始める語りかけが始まっていくように思えます︒分からせようとする話︑面白く語る

話よりも︑それは心に届くように思えます︒偽らず話すこと︑主の御言葉の伝達への道をひたすら求めつつ話すこ

と︑そうでなければ偽りの語りかけになってしまうのであります︒

それと共に︑最後に申し上げましたように︑奨励の場を与えられるということは︑学内キリスト教文化の日常化

のために捨て石となり︑それを通じて︑心の情報基地化への捨て石になることと心得ております︒この両輪があっ

て始めて︑学内奨励の時を与えられる意味があるのではないかと思うのであります︒

‑私の奨励準備

主の御手にすべてを委ねて

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参照

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