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エスニシティの探究 : 中国の民族に関する私の研 究と見解

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エスニシティの探究 : 中国の民族に関する私の研 究と見解

著者 ? 孝通, 塚田 誠之 [訳]

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 22

号 2

ページ 461‑479

発行年 1997‑12‑08

URL http://doi.org/10.15021/00004148

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費   エ ス ニ シ テ ィの探 究

       エ ス ニ シ テ ィ の探 究

一 中国の民族に関す る私の研究 と見解一

費         孝    通*

訳 〈塚 之**〉

Investigating Ethnicity:

My Studies and Views of Ethnic Groups in China

Xiao-Tong FEI

For sixty years, the author has been engaged in the study of ethnic groups in China. This paper represents an attempt to provide an overall view of his personal experiences in this field which in turn sheds light on the ways in which he has viewed ethnic identity. Prior to 1949, after hav-

ing been trained in the subjects of anthropology and sociology, the author started to conduct fieldwork in both Han and non-Han com- munities. After 1949, for the purpose of creating equality among all na- tionalities in China, the newly established People's Republic ad- ministered a major research program to identify ethnic groups within its territorial sovereignty. As a member of this program, the author was in- volved in extensive nationality surveys. Through these surveys, he came to realize that ethnic groups were shaped in the communal lives of their members and transformative in time. This observation led the author to

北 京 大 学 社 会 人 類学 研 究 所

国立 民 族 学 博 物 館 第2研 究部 。 本 稿 は,費 孝 通 教 授 の 中 国語 に よ る論 文 を 邦 訳 した もの で あ る。 それ は1996年10月ll日 ・12日に 国立 民 族 学博 物 館 で 開催 され た 国際 研 究 集 会 「中 華 民族 多 元 一体 論 と中 国に お け る民 族 間関 係」 に おけ る報 告 「簡 述 我 的 民族 研 究 経 歴 和 思 考 」 を も

とに,加 筆 を お 願 い した もの で あ る。 訳 出 に当 って 原 文 のu"は 「 」 と,《 》 は 『 』 と した。 また,分 か り難 い 表 現 に つ い ては,原 文 を 生 か した 上 で,初 出時 に[]を 付 して 訳者 が補 足 を した 。 な お 北 京 大 学社 会 学 人 類 学 研 究 所 馬 戎 教 授 お よび大 阪 大 学 大 学 院(言 語 文 化 研究 科)木 村 自氏 の協 力を 得 た が,訳 出 に関 す るす べ て の責 任 は 訳 者 に あ る。

Key Words : ethnic groups (nation) , system of integrated ethnic diversities, history, shared psychological quality (ethnos) , interrelationships among ethnic

groups

キ ー ワ ー ド:民 族,多 元 一 体 格 局,歴 史,共 同 心 理 素 質,民 族 間 関 係

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emphasize the significance of the social historical perspective in ethnological studies.

Even though the "Anti-Rightist Movement" and the "Cultural Revolution" deprived him of 23 years of academic life, the lessons of ethnic identification which he gained in the early fifties remained in the author's mind. In 1979, he re-started work among minority na- tionalities. Personal involvement in various research projects and in the policy-making process has made it possible to put forward a new argu- ment. In 1989, summarizing his thoughts, the author put forword argu- ment that China is an integrated nation with cultural diversity. In doing so, he had two criticisms in mind. On the one hand, he criticizes the idea that one ethnic entity should be ruled by one independent state which has legitimated various violent campaigns of ethnic separation in Europe.

However, the author's own studies indicate that different ethnic groups have lived together for centuries within China. Therefore, the Eurocen- tric definition of nation-state is not applicable in China. On the other hand, historical studies of interrelationships among ethnic groups in China have demonstrated that the Chinese nation was shaped through a two-way process. From the bottom-up perspective, the history of the Chinese nation is one through which diverse ethnic cultures and social solidarities became integrated into a higher level order. From the top- down perspective, the higher level order has never excluded lower level ethnic cultural systems. Such a two-way historical perspective offers a critique of those who attempt to draw a clear-cut demarcation line bet- ween the Chinese nation and "other cultures" within it.

  1930年 に 私 は 燕京 大 学 へ 移 り,呉 文 藻 先 生 に 師 事 して社 会学 を学 んだ 。 呉文 藻先 生 の 指導 と影 響 の 下 で私 は,中 国 社 会 を科 学 的 に 理 解 し よ うとす るな らぽ,欧 米 人 類学 の フ ィール ド ・ワー クの方 法 を取 り入れ て,現 実 に重 点 を 置 い た分 析 を す る こ とが,

よ り着 実 に 実 行 す る こ とので き る方法 であ る と認 識す るに 至 った。 この た め,1933年 に 清華 大 学 の研 究 院 に進 み,シ ロ コ ゴ ロフ先 生 に師 事 して人 類 学 を 学 ぶ こ とに な った 。 清華 大 学 で の 二年 間 は,主 に 形 質 人類 学 を学 ん だ。1936年 の 秋 か ら,ロ ン ドソ ・ス クー ル ・オ ブ ・エ コ ノ ミッ クスで マ リノ フス キ ー先 生 に 師事 して 社会 人 類 学 を 学 び,1938 年 の抗 日戦 争 期 に帰 国 した 。 雲 南 に到 着 す る とす ぐに 国 内で 農 村調 査 を 開 始 し,マ

ノ フス キ ー先 生 の機 能 主 義 的 観 点 と フ ィール ド ・ワー クの 方 法 に基 づ き,呉 文 藻 先 生

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の提 唱 され た 「コ ミ ュニテ ィ研 究 」 を 行 った。 この 研 究 は1949年 に 新 中 国 が成 立 す る ま で一 貫 して続 いた 。 そ れ よ り前 の1935年,清 華 大 学 の 研究 院 を修 了 した後,少 数 民 族 地 域 で 一年 間 の実 習 を す る よ うに とい うシ ロ コ ゴ ロフ先生 の ア ドバ イ ス を受 け て,' 広 西 の 大 瑠 山 に行 き,瑠 族 の体 格 と社 会 組織 に 関す る実 地調 査 を行 った 。 この とき の 実 習が 私 の民 族研 究 の最 初 の 試 み で あ る と言 うこ とが で き る。1936年 夏 に 帰 郷 し休 養 した が,そ の機 会 を利 用 して,故 郷 の江 蘇 省 呉 江県 の 「江 村 」 で,二 個 月 弱 の 期 間, 農村 で の フ ィール ド ・ワー クを 行 った。

  こ こで少 し説 明 を加 え なけ れ ぽ な らな いか も しれ ない が,呉 文 藻 先 生 の 提 唱 され た

「コ ミュニ テ ィ研 究」 は,学 問 分 野 と しては 実 際 に は社 会 学 と人類 学 を 結 び 付 け た も ので あ る。 コ ミュニテ ィ とは,人hが あ る一 定 の地域 で共 同 生 活 を営 む よ うな集 団 を 指 して い る。 コ ミュ ニテ ィは人 口が 比較 的少 な く,経 済 が比 較 的 単純 で,文 化 水 準 が そ れ ほ ど高 くな い原 始 の族 群[民 族 集 団]で も構 わ な い し,人 口が 比較 的 多 く,経 済 や 文 化 が 比較 的 発 達 して い る農 村 や,郷 鎮,都 市 な どで も構 わ ない 。 こ う した視 点 に よるな らぽ,私 が1935年 広 西 で行 った 瑠 族調 査,1936年 の郷 里 の江 村 で の農 村 調 査, さ らに そ の 後 の1939年 に 始 め た雲 南 奥 地 で の 農村 調 査 も コ ミュニ テ ィ研 究 に含 め る こ

とが で き るで あ ろ う。 こ う した 異 な った コ ミュ ニテ ィで の研 究 の対 象 とそ こで 用 い る 研 究 方 法 は 同 じもの で あ る。 コ ミュ ニテ ィ研 究 は私 の生 涯 の学 問研 究 を 貫 い て きた主 軸 で あ る と言 え るで あ ろ う。 コ ミュ ニテ ィ研 究 とい う名 称 とそ れ が用 い る と ころ の研 究方 法 ・視 点 は,中 国 の伝 統 的 な学 問分 野 の 分 類 とは完 全 に は一 致 しな い し,学 界 の 受 け 入れ る とこ ろ とな り得 るか ど うかは 議 論 され るべ き とこ ろで あ る。 こ うした 名称 につ い て の論 争 を 避 け るた め に,こ こで私 は 研 究 対 象 を もっ て 「コ ミュニ テ ィ研 究 」 を 区別 し,二 つ の面 に 分類 す る。 一 つ が民 族 研 究 で,も う一 つ が 農村 研 究,お よび の ちの 城 郷[都 市 と農 村]研 究 で あ る。 この論 文 では,私 が従 事 して きた 民 族 研 究 の 方 面 に 限 って概 述 す る こ とに した い。

 私 の学 問 の経 歴 か ら述 べ るな らば,時 期 に よ って重 点 を 置 く分 野 が 異 な って いた 。 あ る ときは 民 族 研究 が 中心 で あ った し,ま た あ る ときは 城 郷 研 究 が 中心 で あ った。 個 人 の研 究 対 象 の 選択 とい う点 か ら見 る な らば,そ れ が個 人 的 な 関心 に よ って 決定 され るの み な らず,個 人 の置 か れ た 客 観 的条 件 も非 常 に重 要 であ る。 私 自身 に つ い て言 う な らば,1936年 に私 が ロ ン ドソ ・ス クー ル ・オ ブ ・エ コ ノ ミックス で研 究 して い た と

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き,指 導 教 官 か ら江 村 で得 た 調 査 デ ー タを も とに博士 論 文 を書 くよ うに言 わ れ た が, そ の論文 が後 に 出版 され たPeasant  Life in China【FEI  l9391で あ る。 そ の後 の雲南 省 で の私 の研 究 は農 村 研 究 に偏 った もの で あ り,そ れ は 抗 日戦 争 の 終 結 まで続 いた。

1949年 に新 中 国が 成 立 し,私 の研 究 の 重 点 は 民族 研 究 へ と移 った 。 今,回 想す るに, この研 究 対 象 の移 行 は 主 に そ の 当時 の客 観 的 情勢 の変 化 に よ る もので あ った。以下 に, この こ とに つ い て も う少 し語 る こ とを許 され た い。

  新 中 国 の成立 は,わ が 国 の 歴 史上 空 前 の 大 事 で あ り,全 国 の社 会 構 造 に 非 常 に大 き な 変 化 を もた ら した。 そ の うちの 一 つが 民 族 間 関 係 の大 き な転 換,す なわ ち不 平等 な 関 係 か ら平 等 な関 係へ の変 化 で あ る。 中 国は 多 民 族 国家 で あ り,民 族 間 の関 係 は非 常 に 複 雑 で あ るが,数 千 年 もの 間 基 本 的 に変 わ らな か った も のは,民 族 間 の不 平 等 な関 係 で あ る。 どの時 代 に お いて も,い ず れか の民 族 が他 の民 族 を 圧倒 し,い ず れ か の民 族 が 他 の 民族 に圧 倒 され て いた 。 こ うした歴 史 のな か で 中 国 では 政 治上 幾 度 も王 朝 が 変 わ り,支 配 的 な地 位 を 占め る民 族 が幾 度 も替 わ った が,民 族 が 民 族 を抑 圧 す る とい う関 係 の 図式 は決 して変 わ る こ とが な か った。今世 紀 の初 頭 に 至 って封 建 王 朝 が倒 れ, 民 国時 代 に 入 って初 め て,孫 中 山先 生 を 中 心 と して五 族 共 和 の主 張 が 推 進 され た。 そ の後 さ らに ほ ぼ半 世 紀 が 経過 し,中 華 人 民共 和 国が 成 立 して 以後,初 め て 諸民 族 が 一 律 に平 等 で あ る とい う事 実 が 出現 し,同 時 に 国家 の憲 法 に お い て も規 定 が な され た 。 この ときか らわ が 国 の民 族 間 相 互 の関 係 に お い て新 た な民 族 平 等 の時 代 が 実 現 し,今 まで す で に半 世 紀近 くが 経 って い る。 こ こで,わ が 中 国 の民 族 間 関係 の根 本 的 な変 化 を 思 い起 こ し,現 代 世 界 にお け る民族 紛 争 が い まだ に終 息 して い な い形 勢 を 考 え 合わ せ るな らぽ,民 族 の 平等 が人 類 の共通 の運 命 に か かわ る根 本 的 な 重大 事 で あ る こ とを 認 め な いわ け には い か な い。 平 和 で理 想 的 な世 界 に は,民 族 の平 等 は 決 して欠 くこ と の で きな い条 件 なの で あ る。 この条 件 はわ が 中国 で最 初 に実 現 され た 。 この こ とは人 類 史 上 特筆 され るべ きで あ る。

  民族 の 平 等 を実 現 す るた め に,私 た ち は新 た な制 度 を作 る必 要 が あ った 。政 治 体 制 の上 では,各 民族 の代 表 者 が参 加す る最 高権 力機 関,す な わ ち人 民 代 表 大 会 の創 設 が 必要 であ った。 と ころが,新 中 国 の建 国 直後 の時 期 に は,中 国V'  体 い くつ の民 族 が い るのか,そ れ らは いか な る名 称 な のか,そ して人 口は い か ほ どな のか とい うこ とが 私 た ち に はは っ き りと分 か って は い なか った 。

  諸 民族 に関 す る基 本 的 な状 況 を 明 らか にす るた め,成 立 して 間 もな い中 央 人 民政 府 は,1950年 か ら1952年 に か け て 「中央 訪 問 団 」 を 派遣 し,そ れ ぞ れ の大 行 政 区 へ 分か れ て 各地 の少 数 民 族(漢 族 以 外 の民 族 はす べ て人 口が比 較 的 少 な い の で,普 通,少 数

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民族 と呼 ぼ れ る)を あ まね く訪 問 した 。 中 央 訪 問 団 の任 務 は,民 族 平 等 とい う基 本 政 策 を宣 伝 す る こ との ほ か に,自 ら各 地 の少 数 民 族 を訪 れ,彼 らの 民族 名 称(自 称 と他 称 を 含 む)・ 人 口 ・言語 ・歴 史 の概 要,お よび 彼 らの文 化 的 特 徴(風 俗 習 慣 を 含 む) を 明 らか にす る こ とで あ った。 私 は人 類 学 を学 ん で い た の で,政 府 は私 を 中央 訪 問 団 に参 加 させ た。 これ は 私 に とっ ては 千載 一 遇 の機 会 で,私 は まず 第 一 に,政 治 に お け る民 族 平 等 の基 本 政 策 を積 極 的 に支持 す るた め に全 力 を 尽 くそ うと望 ん だ。 同 時 に 私 は,直 接 訪 問す る とい う方 法 で各 民 族 の状 況 を理 解 す る こ とが,す な わ ち私 がか ね て よ り提 唱 して い た コ ミュ ニテ ィ研 究 で あ る と思 い,こ の 任 務 を積 極 的 に 引 き受 け た 。 1951年 と1952年 に私 は 西 南 と中南 の訪 問 団 に相 い継 い で 参 加 し,貴 州 省 と広 西省 の実 地 訪 問の 指 導 に 責任 を負 った。 この二 年 間 こそ が,私 の 民 族 研 究 の真 正 の開始 と言 え

る。

  訪 問 団 の仕 事 に お い て,山 嶺 を越 え,森 林 渓 谷 に入 り,貴 州 省 と広 西 省 の各地 に分 布 して い る少 数 民族 の村 落 へ 入 り,人 々 と親 し く交歓 し,対 話 を す る機 会 が あ った 。 多 くの少 数 民 族 と直接 触 れ 合 うな か で,民 族 とい うもの が客 観 的 で 普遍 的 に存在 す る

人 々の共 同体 」 で あ り,代h受 け 継 がれ,心 底 か らの ア イ デ γテ ィテ ィを持 つ 人h の集 団 で あ る とい うこ とを,私 は 初 め て理 解 した 。 同一 民族 の人hは,禍 福 や 利 害 を 共 にす る,強 烈 な一 体 感 を持 っ て い る。 彼 らは共 通 の 言 語 を持 ち常Y'  緒 に生 活 して い る ので,互 い に守 り合 い助 け合 い,苦 難 を共 にす る とい う非 常 に密 接 な 社会 関 係 の ネ ッ トワー クを形 成 す る。 要 す る に,民 族 とは 中身 の な い空虚 な概 念 な ので は な く, 実在 の社 会 実 体 で あ る とい うこ とを私 は理 解 す るに至 った の で あ る。 同一 の 民族 に属 す る人 々 のアイデンティ テ ィと一 体 感 は,人hの 意 識 に この社 会 実 体 が 反 映 した もの, す な わ ち普 通 私 た ち が言 うと ころ の民 族 意 識 で あ る。 民 族 意 識 は具 体 的 には 自己 の所 属 す る民 族 に対 して持 つ名 称(自 称)の み な らず,他 の民 族 が しぼ しぽ用 い る異 な っ た 名 称(他 称)に も表 現 され て い る。 一 般 的 に 言 うな らば,私 た ち が触 れ 合 うと ころ の少 数 民 族 の人hは 皆,自 分 た ちが そ の名 称 の民 族 に 属 して い る とい うこ とを 知 って い る。 中 国 に い か な る民族 が い るの か とい う問 題 に 答xる た め には,ま ず は各 地 の 少 数 民 族 が 自 ら申告 して い る民族 名 称 を 入 手 す るべ きで あ る と認 識 した 。

  1953年 の 第一 回全 国人 ロセンサス に お い て,自 己 申告 に よ り登 録 され た 民族 名 称 は 全 国 あわ せ て400余 りに も達 した 。 この 民族 名 称 を 自己 申告 した リス トを分 析 す る と, そ の 中 に多 くの 問題 が あ る こ とが分 か った 。 少数 民 族 で あ る と 自己 申告 した もの の い くつ か は実 際 に は 漢族 で あ るが,様 々な理 由か ら一 つ の民 族 で あ る と 自 ら認 識 して い た り,あ るいは 他 者 か らそ の よ うに認 識 され て お り,し か も特 定 の 名称 す ら持 って い       465

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国立 民族学博物館研究報告  22巻2号 た。 例 えば,広 西 の 「六 甲人 」,湖 南 省 の 「畦 郷 人 」 な どで あ る。 また,あ る もの は 他 の あ る少数 民 族 の 一 部 で あ る が,様 々な理 由に よ りい くつ か の民 族 に分 け られ,し

か も異 な った民 族 名 称 を 持 って いた 。例 え ば,雲 南 省 の 「阿細 」 ・ 「撒 尼 」 ・ 「阿哲 」

・ 「普 拉 」 な どはす べ て 舞 族 の サ ブ ・グル ープで あ った。 このため,自 己申告 による 民族 名 称 に 直接 的 に基 づ い て,彼 らが 一 つ の民 族 であ るか ど うか を 決 定 す る こ とは で きな か った 。 これ らの 自己 申 告 に よる民 族 名称 を 逐 一 審査 し弁 別 す る こ とが必 要 で あ った。 これ は 非常 に複 雑 な 仕 事 で あ り,私 た ち は この 仕 事 を民 族 識 別 工 作 と称 した 。 そ れ は1953年 に始 ま り,三 十 年 ほ どか か って,1982年 に一 段 落 を告 げ た 。識 別 を した 後 に さ らに現 地 の 民族 の人 々 と協 議 して 同意 を得 て,初 め て 中央 に よ る審 査 決 定 を経 て 公布 す る こ とが で きた 。1954年 に は38の 少数 民 族 が,1965年 には15の 少 数 民 族 が, 1982年 に は さ らに2つ の少 数 民 族 が それ ぞ れ認 め られ,今 日 まで に55の 少 数 民 族 が認 め られ て い る。 漢 族 を加 え る と,中 国 とい うこの 多民 族 国 家 は合 わ せ て56の 民 族 を有 して い る。 これ らの民 族 の正 式 名 称 は,名 は そ の主 に従 うとい う原 則 に 沿 って,さ に 協 議 を通 して 初 め て正 式 に認 め られ た ので あ る。 民 族 識 別 工作 は まだ 終 了 した わ け では な い 。 とい うの も,ご く少 数 の まだ識 別 に 結論 が 出 され て い な い人hが い るか ら で,こ の判 定 し難 い 問題 は さ らに 研 究 を深 め て か ら初 め て 決 定 す るこ とが で き る。

 民 族 識 別工 作 が どの よ うに関 わ った ら民 族 を認 定 す る こ とが で き るの か とい うこ と は,民 族 理論 の 問題 で あ る。 す でに 述 べ た よ うに,私 は,民 族 地 区 に お い て少 数 民 族 と実 際 に 接触 す る うちに 民族 とは何 か を理 解 した 。 す なわ ち民 族 とは,人 々のあ る種 の必 要 性 か ら生 じた何 の 根拠 もな い虚 構 の概 念 では な く,客 観 的 に 存在 す る もの であ る。そ れ は 多 くの人 々が 子h孫 々集 団 で生 活 を 営 む うち に形 成 され て きた も の であ り, 人 々の社 会 生 活 に お いて 重 大 な作 用 を 果 た す社 会 実 体 で あ る。 民 族 の形 成 に対 して, そ の具 有 す る と ころ の特 徴 で 説 明 をす る こ とは民 族 理 論 の範 囲 に属 す る。 それ ゆ え民 族理 論 は 民 族 識 別 の根 拠 とな り基準 とな る。解 放 初 期 に私 た ちが 参 考 に す る こ とが で きた 民族 理 論 は 当 時 ソ連 か ら移 入 され た もの で あ った 。 当時 ソ連 で広 く行 わ れ て いた 民 族 の定 義 は,簡 単 に述 べ る と次 の もので あ る。 「歴 史 的 に形 成 され て きた ところ の, 共 通 の言 語 ・共 通 の地 域 ・共 通 の経 済 生 活 を 持 ち,共 通 の文 化 に おい て 表 現 され る共 通 の心 理 素 質[状 態]を 持 った,人hの 堅 固 な 共 同 体 で あ る。」 この定 義 は,ヨ ー ロ

ッパ の 資 本主 義 が 発 展 して きた 時 期 に形 成 され た 民族 を 基 準 に して結 論 が 出 された も

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の であ る。 こ こで提 出 され て い る 「歴 史 的 に形 成 され た」 とい う限 定 的 な表 現 は,と りもなお さず 定義 の 中 で 提 示 され た 四 つ の特 徴 が 歴 史 上 の特 定 の時 期 の 民族 に の み適 用 され る もの で あ る こ とを 示 して い る。 他方,わ が 国の 少数 民 族 は,解 放 初 期 に は大 部 分 が まだ 資 本 主義 以 前 の 段 階 に あ り,よ って この定 義 の 中 で提 示 され て い る四 つ の 特 徴 は,私 た ちの民 族 識 別 工 作 に お い ては た だ参 考 と して の作 用 を果 た す だ け で,そ

の ま ま用 いて は な らない こ とは 明 白 で あ った。 しか し同時 に 私 た ちは 次 の こ とを も認 めね ぽ な ら ない。 す なわ ち,ソ 連 か ら移 入 し起理 論 が,か つ て確 か に私 た ち を導 い た の で あ り,私 た ち は この定 義 に提 示 され てい る共 通 の言 語 ・共 通 の地 域 ・共 通 の 経 済 生 活 ・共 通 の文 化 に現 れ る心 理 素質 の面 か ら,中 国 のそ れ ぞ れ の少 数 民 族 の 実 際 の 状 況 を観 察 した 。 それ は私 た ちの 民族 理 論 に関 す る一 系 列 の 思 考 を啓 発 し,さ らに そ れ に よ って 中 国 の民族 の特 色 を 理 解 す る ことに な った の であ る。

  まず 「共 通 の言語 」 とい う特 徴 に つ い て述 べ た い。 す で に 述 べ た よ うに,私 た ち が 観 察 し得 た事 実 は,一 緒 に生 活 して い る少 数 民 族 は 同一 の言 語 を 使 って対 話 を して お り,共 通 の言 語 が な か った な らぽ 日常 の共 同生 活 が 営 め るは ず が な い とい うこ とで あ った。 同 時 に,彼 らの言 語 と他 の 民 族 の言 語 が 同一 で な い場 合,た とえぽ 漢 人 と他 の 異 な る 民族 の人 との 間 で は それ ぞ れ の 言語 を 用 い て 直接 に意 思 疎 通 をす る こ とは で き な い,と い うこ とを も理 解 した 。 この こ とは,そ れ ぞ れ の民 族 に は それ ぞれ の言 語 が あ り,異 な る 民族 との 間 に は共 通 の 言 語 が な い,よ って相 互 理 解 を 得 る た め に は翻 訳 を 経 る こ とが必 要 で あ る とい うこ とを 物語 って い る。 この こ とは明 白で あ り容 易 に理 解 で きた 。 しか しな が ら,自 ら同一 の 民 族 で あ る と認識 して い る人 で も,異 な っ た地 域 か ら来 て い る な らぽ,彼 らの間 で 必 ず し も直 接 に通 話 をす る ことが で きる とは限 ら な い こ と,す なわ ち彼 らの 間 で の言 語 に も相違 が あ る とい うこ とを も私 た ち は理 解 し た ので あ る。 この こ とは 私 た ち漢 族 の間 で も しぼ しば 見受 け られ る状 況 で あ る。 例 え ぽ,私 た ち 蘇 州人 が 初 め て 福建 人,あ るい は広 東 人 に会 うと,言 葉 が 通 じな い。 これ は各 地 の 方 言 が異 な って い るか らであ る。方 言 は 学 び 始 め る とそ れ ほ ど困難 では ない 。

とい うの も,方 言 の差 異 は 各地 の住 民 の発音 が 異 な ってい るだ け で,言 語 の文 法構 造 や使 用 す る文 字 や語 句 は 基 本 的 に 同 じだ か らで あ る。 こ こで 「共通 の言 語 」 が どの程 度 まで共 通 な の か とい う問 題 が生 じる。 この 問題 は言 語 学 の 専 門知 識 と深 くか か わ っ て い る。言 語 学 では,言 語 の差 異 の 程 度 に応 じて語 系 ・語 族 ・語 支 な どに分 け られ る。

同一 の語 支 の中 で も地 域 間 の 差異,つ ま り方言 に よ って さ らに 細 か く分 け られ る。 言 語 学 の専 門知 識 を 持 ち合 わ せ て い な い人 は,単 に 聴 覚 に よるだ け で は どの程 度 異 な っ て いれ ば異 な った語 系 ・語 族 ・語支 で あ るの か,あ るい は方 言 で あ るのか とい うこ と

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国立民族学博物館研究報告  22巻2号 を 容 易 に 区別 す る こ とが で き ない 。 民族 識 別 工 作 を進 め て いた と き,こ の方面 の 問題 に 関 して は言 語 学 者 に頼 る ほ かは な か った。 幸 い な こ とに私 た ち の 民族 研 究 は早 くか ら少 数 民族 の言 語 調査 に 注 目 して お り,よ って私 た ち が民 族 識別 工 作 を行 った と きに は,す で に十 分 な少 数 民族 言 語 の資 料 が あ って,私 た ち に参 考 とな った。

  言 語 の角 度 か ら上 述 の民 族 名 称 の 自己 申告 リス トを調 べ てみ る と,リ ス トに 二 つ の 状 況 が 見 られ る こ とが 分 か った。 一 つ が,異 な る民 族 で あ る と報 告 され た もの の 中 の 言 語 の 多 くが 同一 の もの,も し くは非 常 に近 い もの で あ った とい うこ と,も う一 つが, 同一 の民族 と申告 され た もの の 中に 異 な る言 語 が 含 まれ て いた とい うこ とで あ る。 前 者 には,例 えぽ 広 西 のr布 壮 」 ・ 「布 越 」 ・ 「布 雅 依 」 ・ 「布 衣 」 ・ 「布 土 」 ・ 「布 雄 」 ・ 「布 儂 」 な ど個 俸語 系 の言 語 を 話 す 人hが 挙 げ られ る。 これ らの言 語 を 話 す 人 hが 相 互 に対 話 を した と ころ,彼 らは 自 らの話 す 言 語 が 同一 の母 語 か ら生 じて い る こ とに 同意 し,こ う して 皆 が進 ん で合 わ さ って,壮 族 とい う民 族 に 入 る こ とを願 うよ う に な った 。後 者 に つ いて は,例 えぽ 私 が1930年 代 に調 査 を した広 西 の大瑠 山 の瑠 族 が 挙 げ られ る。 大 瑠 山に は 三 つ の異 な った 言語 が あ る。 す な わ ち苗 瑠 語 族瑠 語 支 の勉 語 (盤瑠),苗 瑠 語 族 苗語 支 の布 努 語(花 藍 瑠),壮 個 語 系 個 水語 支 の拉 加語(茶 山培) で あ る。 これ らの異 な る言 語 を話 す 人hは そ れ ぞれ の 自称 を持 つ も の の,す べ て瑠 族 に属 してい る と 自 ら認 識 して い た。 私 た ちは 自由意 思 の 原 則 に基 づ いて彼 らが す べ て 瑠 族 の一 部 で あ る と認 定 した 。瑠 族 には 他 の地 域 に も多 くの 自称 の異 な る集 団 が あ る

が,皆 が お しなべ て瑠 族 と称 して い た の であ る。

  こ こで説 明 して おか なけ れ ぽ な らな い こ とは,私 た ちは 上 述 の 「定 義 」 が提 示 して い る特 徴 のそれ ぞれ を 独 立 に 用 い て対 処 す るの では な く,必 ず 他 の特 徴 と結 び付 け な け れ ぽ な らな い こ と,特 に これ らの合 わ さ って一 つ に な った 民族 に関 して は 自己 申告 の 際 の 各 単 位 の間 の歴 史 的 な淵 源 関 係 を 考 慮 に 入 れ ね ぽ な ら な い と考 え た こ とで あ る。 とい うの も,中 国史 の 一 つ の特 徴 は,長 期 にわ た って 異 な る民 族 が 絶 えず 流 動 す る うち に,あ る もの は分 散 し,あ る もの は孤 立 し,ま た あ る もの は相 互 に 接触 す る過 程 に お い て融 合 して い った か らで あ る。 こ の よ うに反 覆 的 に分 散 し融 合 す る過 程 にお い て,広 大 な 地域 に諸 民 族 が 交 錯 して分 布 す る とい う現 在 の 格 局[碁 盤 の 目の上 に置 か れ た碁 石 の よ うな,可 変 的 な民族 集 団 間 の構造 的 関 係 と分 布態 勢]が 形成 され たの で あ る。 私 た ちが 民族 識 別 を 行 う際 に は,歴 史 的 な観 点 と自由 意 思 の原 則 とを採 用 す る こ とが必 須 で あ る。 同時 に この 複雑 な状 況 を認 め,決 して 行政 的 な手 段 を用 い て結 論 を下 しては な らな い。 従 っ て,た だ ち に解 決 す る こ とが で きな い よ うな事 例 は,む

しろ 問題 をそ の ま まに して結 論 を 急 が ず,主 観 的 な判 断 を 加 え るべ きでは な い の で あ

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費   エ ス ニ シ テ ィの 探究

る。

  さて 「共 通 の地 域 」 と い う特 徴 につ い て 言 うと,私 た ちは 民 族識 別 工作 の実 践 をす る中 で 「民 族聚 居 区」 と い う概念 を提 起 して補 充 と修 正 を 加 え る よ うに した。 同一 の 民 族 に 属 す る人 は 同一 の地 区 に住 む 傾 向 が あ る こ とは 認 め るが,し か し 「同一 の 地 区 」

と 「共 通 の 地 区 」 とを 同一 視 す るべ きで は な い。 とい うの も,同 一 の地 区 に 異 な る民 族 が共 に聚 居 す る こ とが で き るか らであ る。 こ うした現 象 は 中 国 で は と くに 突 出 して お り,私 た ちは そ れ を 「大雑 居,小 聚 居 」と称 して い る。1982年 の人 ロセ ンサ ス の デ ー タに よる と,全 国 の民 族 自治 地 方 に聚 居 して い る少 数 民 族 の 人 口は,少 数 民 族 の総 人 口の745%を 占め るのみ で あ り,お お よそ4分 の1の 少 数 民族 の人 口が 全 国 各地 に雑 居 あ る いは 散 居 して い る。 要 す るに,中 国 の 諸 民族 の居 住 形 態 は,決 して 区 画 が整 然 と して お り境 界 が 明 確 な もの では な く,相 互 に 入 り混 じっ て,交 錯 雑居 してい る もの な ので あ る。 これ は,中 国 の諸 民 族 間 の長 期 に わ た る交 錯 的 な流 動 と相 互 交 流 の 結果 で あ る。 とは いえ,民 族 の人 口分 布 の上 か ら見 る と,同 一 民 族 が 聚 居す る傾 向は や は り非常 に顕 著 で,そ の 大 小 にか か わ らず,同 一 の 民族 が聚 居 す る地 区 は各 地 に 分 散 し て お り,甚 だ しい場 合 に は居 住 地 が 全 く連 接 してい な い こ とさxあ る。 さ らに,あ る 民 族 の聚 居 地 区 にお い て も異 る民 族 が聚 居 してい た り,あ る い は散 居 して い る場 合 が

あ る。

  私 た ち は,中 国 の こ の特 徴 に基 づ い て,「 民族 聚 居 区」 とい う概 念 を 提 起 した 。 そ れ は理 論上,現 実 と結 び 付 く重 要 な意義 を持 つ だ け で な く,国 家 が どの よ うに民 族 間 関 係 を 処理 す るのか とい う面 に お い て も民 族 平 等 の原 則 を具 体 的 に 表 現 して い る の で あ る。 私 は 欧米 の民 族 理 論 の 中 で 「共 通 の地 域 」 を 民 族 の特 徴 となす こ と と,政 治 的 観 念 に お い て 国家 と領 土 とを 密接 に結 び 付 け る こ と とは 分離 す る こ との で きな い も の で あ る と考 え て い る。 ま さに この概 念 に よっ て,民 族 を 国 家 と結 び付 け て民 族[国 民]

国家 と し,そ の上 国家 の 領 土 の 完備 を求 め よ う と した 。 この こ とが 目下 欧 米 で 民族 紛 争 が連 綿 と して絶 えず,民 族 を め ぐる戦 争 が い まだ に息 む こ との な い原 因 な の で は な い だ ろ うか。 欧 米 の民 族 理 論 と民 族 間 関 係 を照 ら し合 わ せ てみ る と,「 民 族 聚 居 区 」 の概 念 を も って 民族 の定 義 の 中 の 「共 通 の 地域 」 に代 え て 特 徴 とす る認 識 は,熟 考 す るに値 す るで あ ろ う。

  私 が ここ で特 に 提起 した い こ とは,こ う した 新 しい概 念 が 私 た ち の 中華 人 民 共和 国 憲 法 にす で に 書 き入れ られ て お り,そ の第1章 総綱 ・第4条 の 中 に 「少 数 民 族 が聚 居 す る地 方 で は 区域 自治 を行 う」 と規定 され て い る こ とで あ る。 この規 定 に した が って 中国 の 少数 民 族 は す べ て 自治 の権 利 を享 受 してお り,同 時 に,設 立 され た 自治 地 方 の

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中 で は他 の民 族 と と もに雑 居す る こ とを 排 斥 しな い。 さ らに,も し一 つ の 区域 に人 口 が 相 い匹 敵 す るい くつか の少 数 民族 が共 同で聚 居 して い るな らぽ,多 民 族 連 合 の 自治 地 方 を設 立 す る こ とが で き る し,同 一 の少 数 民族 が 相 い連 接 して い ない 自治地 方 を い

くつ も持 つ こ ともで きる の であ る。

  次 に,先 に引 用 した 旧 ソ連 で 流 行 した 民 族 の 定義 の うち の第三 の特 徴 「共 通 の 経済 生 活 」 に つ い てい さ さか意 見 を 述 べ た い。 私 た ち は 中 国 の実 際 の状 況 と結 び 付 け て検 討 した結 果,こ の 特 徴 が わが 国 の 国 情 に はそ ぐわ な い もの であ る とみ な した 。 す で に 述 べ た 旧 ソ連 で流 行 した 民族 の定 義 は ヨー ロ ッパ の 資 本主 義 が 発 展 して きた 時 期 の状 況 を総 括 した もの で あ る。資 本 主 義 が発 展 して きた 時 期 に ヨー ロ ッパ で は確 か に 共通 の 民族[国 民]統 一 市 場 が作 られ る趨 勢 に あ った が,実 際 に形 成 され た の は 国境 を 越 え る植 民 地 主義 的 な市 場 で あ った 。 仮 に この植 民 地 を 内 部 に含 む 民 族 国家 市 場 が 現 代 民 族 の特 徴 で あ るか ど うか を論 じな いに して も,現 代 の 欧 米 の民 族 に つ い て言 えば, 一 つ の民 族 に 属す る人 々の経 済生 活 が 「共通 」 であ る と言 え るか ど うか も問題 で あ ろ

う。 この 「共 通 の経 済 生 活 」 は 明 らか に多 くの 共 通 で は な い 層 次[レ ベ ル],あ るい は 階級 を含 ん で い る し,甚 だ しい場 合 には 二 つ の民 族 の矛 盾 が共 存 してい る と指 摘 す る人 もい る。 い ず れ にせ よ,私 た ち は 「共通 の経 済 生 活 」 を そ の ま ま援 用 して 中 国 の 少 数 民族 の特 徴 とす る こ とは で きな い の であ る。 一 般 的 に言 うな らぽ,解 放 の 時 点 で 中 国 の少 数 民 族 の 多 くが資 本 主 義 以前 の段 階 の 小農 耕 作 と草 原 で の放 牧 と い う経 済状 態 に置 か れ て いた 。 私 た ちは せ い ぜ い解 放 前 の 少数 民 族 が おお よそ 同一 の,あ るい は 似 通 った(共 通 の で は な い)経 済 生 活 を営 んで い た と言xる だ け で あ る。

  中国 の 少数 民 族 の経 済生 活 の 面 に お い て注 意 す べ き こ とは,諸 民 族 の 間,と くに 漢 族 との間 の密 接 な関 係 で あ る。 漢 族 は歴 史 的 に,国 内 の他 の民 族 と比較 す る と,経 済 的 ・文 化 的 に優 勢 であ った。 この た め,漢 族 は す で に 長期 にわ た って 他 の 民族 が 聚 居 す る区 域 に 深 く入 り込 み,諸 民 族 の 間 の橋 渡 しを す る経 済 的 な経 路 を作 り上 げ て い た。

漢 族 の聚 居 す る商 業 拠 点 は ほ とん どす べ て の少 数 民 族 の聚 居 区域 に 散 在 し,全 国 の至 る と ころに 及 ん で お り,巨 大 な経 済 流 通 ネ ッ トワー クを 構 成 し,漢 族 が 諸 民族 との間 で物 質 や 精 神文 化 を 吸収 し伝 播 す る とい う作 用 を果 た して い た。 そ して幾 多 の歳 月を 経 て徐hに 諸 民 族 を 高層 次 の共 同体 へ と束 ね た が,こ れ こそ が次 章 で提 起 す る こ とに な る中華 民 族 で あ る。

  最後 に 「共 通 の 文化 特 徴 に現 れ る共 通 の 心理 素 質 」 に関 して一 言 述 べ た い。 この特 徴 は,旧 ソ連 で 流 行 した民 族 の定 義 の中 で 最 も重 要 な特 徴 で あ るか も しれ な い 。 しか し,そ れ は ま さ し く私 た ちが 最 も捉 え に くい 特徴 な の で あ った。 私 自身 に つ い て 言 う

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費    エ ス ニ シ テ ィの探 究

と,い まだ に それ を十 分 に理 解 してい る とは言 え な い。 あ る時 期,私 た ちは この特 徴 を少 数 民 族 が 持 つ と ころの特 殊 な風 俗 習慣 で あ る と大 まか に 見 な して お り,し か も常 に 少数 民 族 の 側 か ら超 俗 的 で,犯 して は な らな い,神 聖 な 性 質 を もつ特 徴 で あ る と見 な され て いた 。 こ うした理 解 は もち ろん 容 易 に観 察 され るが,そ れ で も上 述 の 定 義 の 中 の意 義 とは い くぶ ん相 違 が あ る よ うで あ る。

  この特 徴 の意 義 を 捉 え よ うとす る とき,私 は 心理 素質 とい うこの 数 文字 に特 に注 意 を払 い,人 々の心 理 的 な面 か ら民族 意 識 が どの よ うに形 成 され て きた か を考 え た。 こ う した 思考 方 法 は,私 を理 論 面 で の更 な る探 求 へ と導 い た。 探 求 の過 程 で,私 は以 前 に社 会 学 で学 ん だin‑groupも し くはwe‑groupと い う言 葉 に 思 い 当 た った。 in‑group 或 い はwe‑groupと は 私 た ち が周 囲 で触 れ 合 う様 々な 人 を二 種 類 に 分 類 した もの で,

一 つ は 自家 人[内 輪 の人] ,も う一 つは陪生人[外 部 の人]で ある。簡単 に言 うと, 他 者 と 自己 との区別 とい う点 を もっ て異 な る集 団 に類 別 し,な お か つ異 な る感 情 と態 度 とい う点 か ら も この二 つ の 集 団 を扱 うこ とで あ る。 お よそ 自己 と同 じ集 団 に 属 す る 者 が す な わ ち 自家 人 で あ り,親 密 な 関係 を保 ち,苦 楽 を共 にす る。 自家 人 と して の ア イ デ ンテ ィテ ィが 共 通 の運 命 感 と共 通 の名 誉 と恥 辱 の感 情 を 生 み 出す 。in・group或 い はwe‑groupと は 「アイ デ ンテ ィテ ィ」が 生 み 出 した とこ ろの もの で は ない だ ろ うか。

そ して民 族 とは そ も そ も一種 のin‑groupも し くはwe‑groupな ので は な い だ ろ うか 。 こ う した 思 考 方法 か ら私 は,民 族 とい う集 団 の心 理 素 質 を探 り出 した 。 す なわ ち,言 うと ころ の民 族 心理 素 質 とは実 は民 族 的アイデンティ テ ィに ほか な ら ない こ とが分 か った の で あ る。 民族 的アイデンティ テ ィは決 して空 虚 な もの な の では な く,私 た ちそ れ ぞ れ が 自己 を 省 み る行 為 を 通 して民 族 的アイデンティ テ ィ とは何 か を会 得 す る こ と

の で き る もの な ので あ る。 現 在 で はす べ て の 人 が 自己 の所 属 す る民 族 を持 って お り, す べ て の人 が民 族 意 識 を持 って い る。

  以上 が 民族 の実 際 の状 況 と結 び 付 け た民 族 理 論 に対 す る私 の 見 解 で あ る。 民 族 の 実 際 の状 況 は地 域 や 時 代 に よ って変 化 す るので,私 た ち も実際 の 変 化 に 即 して民 族 に 対 す る認 識 を 不 断 に発 展 させ ね ぽ な らな い。 中国 の 現 実 は 私 た ちに 民 族 理論 を学 ぶ た め の 絶好 の機 会 を 与 え て くれ るの であ る。

 先 に 述 べ た数 年 間 の民族 研 究 の 実践 にお い て,私 はわ が 国 の 民 族 の特 徴 に 対 して一 定 の知 見 を 得 た が,同 時 に民 族 とは 人hが 共 同 で 生 活 をす る経 歴 の 中 か ら形 成 され る

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国立民族学博物館研究報告  22巻2号

ものに ほ か な らな い とい うこ とを も理 解 した 。 つ ま り,民 族 は歴 史 の動 きの 中 で変 化 す る もの で あ り,現 在 の いか な る民族 で あれ,民 族 を理 解 す る ため には,そ の歴 史 と 社 会 の発 展過 程 を切 り離 す こ とは 決 して で きな い とい うこ とで あ る。 民 族 の現 状 の調 査 は必 ず 歴 史 研究 と結 び 付 け て 行 わ れ るべ きで あ る。 学 問 分野 につ い て言 うと,そ れ は社 会 学 な い し人 類 学 と歴 史 学 とが結 合 す る こ とに ほか な らな い。 私 の見 る と ころ, この こ とは 私 個 人 のみ の理 解 で は な く,現 在 民族 研 究 に 従 事 す る学 者 と指 導者 の 間で は共 通 の 認 識 で あ る。

  1956年,第 一期 全 国人 民 代 表 大会 常務 委 員 会 で,科 学 研 究 隊 を組 織 し,中 国 の各 少 数 民 族 に 対 して 全面 的 な社 会 歴 史調 査 を行 うこ とが決 定 され た。 この調 査 研 究 に関 わ った 人 員 は 総 計1700人 を越 え た。 関 係者 た ちは別hに,異 な る地 域 の少 数 民族 の も と で フ ィール ド ・ワー クを行 い,ま た グル ー プに分 か れ て何 度 も研 究 討論 を繰 り返 した 。 それ は1957年 に始 ま り,1960年 代 中期 に一 段 落 を告 げ た が,終 了 した のは 改革 開放 の 初 期 の1991年 の こ とで あ る。 調 査 の結 果 は国 家 民族 事 務 委 員 会 か ら 「五 種 叢書 」 と し て 出版 され た 。総 合 的 な概 況 を 紹 介 した もの 一冊 の ほか に,少 数 民 族 の民 族誌 ・歴 史

・言 語 の専 刊 とフ ィ ール ド ・ワー クの デ ー タを編 集 した もの を含 み,合 わ せ て計403冊, 8千 万 字 に も のぼ った。 この大 規 模 な民 族 研 究工 作 は三 十 年 余 りもの 歳 月 を要 した。

文 化 大 革 命 に 妨 害 され て十 数 年 研 究 は停 滞 した が,そ の 成 果 か ら見 る と,わ が 国 の民 族 研 究 の 空 前 の 大事 業 と言 え るで あ ろ う。

  この 中 国 少 数 民族 社 会 歴 史 調 査 に は,私 は 初 め の一 時 期参 加 しただ け で あ った。 準 備 と組 織 の 段 階 お よび開 始 され た と きに責 任者 と してそ れ らを担 当 し,雲 南 省 で の フ ィール ド ・ワー クを行 った 。1957年 に北 京 に 呼 び戻 され て か ら私 は,程 無 く政 治 的 な反 右 派 闘 争 の 拡 大 の影 響 を 受 け,社 会 調 査 工 作 を停 止 させ られ た。1966年 に始 ま っ た文 化 大 革 命 の 時期 に は,私 の 正 常 な社 会 生 活 は あ らゆ る面 で衝 撃 を受 け,1980年 な って初 め て 公 的 に私 の政 治 的 な 地位 が正 され,正 常 な社 会 生活 を 回復 した。 この と きか ら私 は 学 術 上,第 二 の 生 命 を 獲 得 し,現 在 まです で に16年 経 ってい る。 も し1935 年 の瑞 族 の 調 査 を 私 の学 術 的 生 命 の 始 ま りとす る な らぽ,研 究 生 活 は 現 在 まで にす で に60年 を越 えて い る が,そ の うち政 治 的 な理 由で23年 を失 った の で,真 に 学術 研 究 に 時 間 を費 や した の は 今 ま で の と ころ三 十 数 年 とい うこ とに な る。 私 は第 二 の生 命 に お い て,一 日を 二 日分使 お う,失 った 時 間 を取 り戻 そ う と全 力 を尽 く した 。 この願 望 は 今 も もち ろん 堅 持 して い るが,実 現 で きるか ど うか は天 命 次 第 で あ る。

  私 が学 術 研 究 の上 で第 二 の生 命 を獲 得 した と きは,中 国 は まさ に改 革 開放 の時 期 に 突入 しつ つ あ った。 国民 経 済 は 目覚 ま し く発 展 し,社 会 の 各 方面 に おい て非 常 に大 き

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費   エ ス ニ シテ ィの探 究

な変 化 が生 じつ つ あ った。 最 高 の時 期 を迎 え,私 の学 術 研 究 の上 に も新 た な方 向性 が 生 まれ た。 は じめ は私 は この第 二 の生 命 を民 族 研 究 を 続 け る こ とに使 お うと考 え て い た 。 しか し1981年 に ・・ックス リー賞 を 受 け る た め に ロソ ドソへ行 こ う と して い た と き に,師 の レイ モ ソ ド ・フ ァー ス教 授 の意 見 に よ り,こ の機 会 を利 用 して ロン ドンの校 友 た ち に故 郷 の農 村 の 解放 後 の状 況 につ い て報 告 す る準 備 を した。 このた め,私 は再 び 故郷 の農 村 に帰 り,そ こY'‑.短期 間 滞 在 した が,そ の とき の訪 問 に おい て 私 は,当 時 の農村 の発 展 に対 す る熱 気 の刺 激 を ひ しひ し と感 じ,こ の歴 史 的 な大 きな 転 換 の 潮 流 に追 随 し よ うと決 心 した 。私 は研 究 の重 点 を 農 村 コ ミュニ テ ィ研究 へ と移 し,そ して そ の研 究 が 深 ま り小 城 鎮 研 究 へ と至 った 。 最 近 で は さ らに一 歩 進 ん で,経 済 区 域 の 形 成 と中 核 都市 の勃 興 に 対 して研 究 の興 味 が 生 まれ て きた 。 こ のた め,こ こ十 数 年 ほ ど は民 族 研 究 の方 面 にお け る ウエ イ トが減 りぎみ で あ った が,し か し民 族 研 究 に 対 す る も とか ら の情熱 は衰 えず に 心 の な か に とど ま り続 け た。 それ ゆ え,機 会 が あれ ば 今 で も しぽ しぼ 少 数 民族 地 区 を 訪 れ て,昔 か らの 友 人 に 会 って い る ので あ る。

  私 が 中 国少 数 民族 社 会 歴 史 調 査 に 参加 した と き,研 究 の待 た れ るで あ ろ う一 系 列 の 問題 を心 の中 に 抱 い て いた 。 こ うした 問題 は ず っ と心 の な か に とど ま って お り,1957 年 以降 は フ ィール ド ・ワー クの 中 で 回答 を見 つ け 出 す機 会 もなか った が,私 の思 考 か ら消 え去 って しま ったわ け で は な か った。 私 を 困 惑 させ た 主要 な問 題 は,少 数 民 族 の 社 会 ・歴 史 の発 展 に対 して漢 族 が どの よ うな作 用 を 果 た した の か とい うこ と と,漢 族 と国 内 の すべ て の少 数 民族 を 内包 す る 「中華 民 族 」 を どの よ うに と り扱 うのか とい う こ と とで あ った。

  私 が 民族 研 究 に参 加 した 当時 は,民 族工 作 とい うとそ れ は 少 数民 族 に 関す る実 務 的 な 仕 事 を 意味 して い た 。 この ため,ご く自然 に,民 族 研 究 も また少 数 民 族研 究 と同 じ

もので あ って,漢 族 研 究 は含 まれ て いな か った。 回想 す るに,こ の言 わ ず もが な の見 方 は,中 央訪 問 団 の時 期 に す で に形 成 され て い た。 中央 訪 問 団 の 実際 の任 務 は,少 数 民 族 に 対 して,新 中国 に お い て彼 らには 主役 とな る権 利 が あ る こ と,つ ま り民族 平 等 の政 策 を 宣 伝 す る こ とで あ った。 このた め訪 問 団 は少 数 民 族 の み を訪 問 し,漢 族 を訪 問す る こ とは な か った。 こ うした任 務 は 工 作 の 段取 りを も決 定 し,一 つ一 つ の 少 数 民 族 を対 象 と して別 々 に訪 問 す る こ とにな った。 私 た ち が少 数 民 族 社 会歴 史 調 査 を 組織 した と きに も同様 の段 取 りを した。 最 後 に は 一 つ の 少数 民 族 を 一 単 位 と して 各 民 族 の 歴 史 を編 集 した 。55の少 数 民 族 に それ ぞれ一 冊 ず つ簡 史 が あ り,合 わ せ て55冊 で あ る。

初 め は こ う した 形式 もなか な か に道 理 に適 った もの と思 ってい た が,深 く考 えて い く うちに,こ の よ うに 民族 ご とに 歴 史 を編 纂 す る とい う形 式 に は も ちろ ん長 所 と利 点 と

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国立民族学博物館研究報告  22巻2号 が あ る ものの,先 に述 べ た よ うな困 惑 を も私 の 中 に生 み 出 した の であ る。

  私 の 困惑 は 中国 の特 徴,つ ま り実 際 に は 少数 民 族 は 漢 族 と切 り離 す こ とは で き な い とい う こ とか ら生 じた もの で あ る。 漢 族 と切 り離 す と,い か な る少 数 民 族 を 中心 と し て そ の歴 史 を編 集 した と して も,そ れ は 完 全 な もの に な るの は非 常 に 難 しい。 私 を 困 惑 させ た この 問 題 は,「 民 族 簡 史 」 を 編 集 す る と きに執 筆 者 に と って の難 題 とも な っ た 。 この た め,1960年 代 初 期 に多 くの学 者 が 「民族 間 関 係 」 の 研究 を 重 視 しな けれ ば な ら な い と提 唱 した 。 「民 族 間 関 係 」 を 重 視 す る とい うこ とは 当然,あ る民 族 と他 の 民 族 との接 触 と影 響 を総 合 的 に指 して言 うこ とな の で あ るが,わ が 国 の少 数 民族 に つ い て言 うな らば,主 に は 漢族 との関 係 を 指 して い る。 この提 唱 は歴 史 研 究 が 一 つ一 つ の民 族 の み を 単位 と して 取 り掛 か る べ きでは な い とい うこ とを 反映 して い る。 民 族 間 関 係 を 重 視 す る こ とは,も と よ りそ の 当時 の 各 民 族 の歴 史 を編 纂 して いた ときに は 有 益 な提 唱 で あ った。 しか し各 民 族 に分 割 して 書 くこ との欠 点 を 補 った と して も,そ れ で も私 の 思 想 上 の 困惑 は 決 して解 決 され なか った の で あ る。

  私 は歴 史 学 を 専 門 とす る者 では な い が,し か し,か つ て の漢 族 を 中心 とす る観 点 で 書 かれ た 中 国 の歴 史 に対 して は,ず っ と反 感 を 抱 い て い た。 どの よ うに した ら こ う し た観 点 を 飛 び 越 え て 中 国 の歴 史 を 書 くこ とが で き るの で あ ろ うか 。 この 問題 に つ い て 述 べ る と,私 が 中 央訪 問 団か ら帰 って きて,中 央 民 族 学 院 の設 立 準 備事 業 に携 わ って い た とき,す で に 自覚 し考 え る とこ ろが あ った 。 当 時 私 は歴 史 学 者 や言 語 学 者 ・民 族 学 者 た ちを 中 央 民 族学 院 に招 い て教 鞭 を 執 らせ,民 族 研 究 を推 し進 め るべ きで あ る と 提 案 した。 こ の提 案 は指 導 部 の 同意 を 得 る こ とが で きた の み な らず,確 実 に そ の方 向 へ と歩 み 出 した 。 さ らに,程 無 く私 は カ リキ ュ ラム の中 に 総合 的 に各 民族 の歴 史 を 教 え る基 礎 科 目を 設 け るべ きで あ る と提 案 した。 しか し歴 史 学 の専 門 家 た ち の多 くは こ の 科 目を教 授 す る準 備 が な く,民 族 の視 点 か ら系 統 的 に中 国 通史 を論 じた 人 も過 去 に は 全 くお らず,講 義 を担 当 した い と願 う人 を 見つ け る こ とが で きなか った 。結 局,私 は 仕 方 な く 自分 で教 壇 に 上 り講義 を してみ る こ とに な った 。 この科 目は 一学 期 のみ 講 義 し,教 材 を一 冊 書 い た だ け で,最 後 には そ の難 し さを 認 め て 退 かね ば な らず,続 け て講 義 す る こ とは なか った 。 この教 材 は外部 に は伝 わ って お らず,未 使 用 の ま ま の状 態 に して い た。 ため に,文 革 の 時 期 もず っ と手 元 に と どめ る こ とが で きた。

  1989年 の 夏,私 は威 海 市 に 夏 の 休暇 に行 った 。 当時 す でに80歳 に近 づ い て い た。 民 族 研 究 に 対 す る心 残 りか ら,か ね て よ り懸 案 で あ った問 題 が 再 び心 の中 に 沸 き上 が っ て きた 。 私 は幸 運 に も残 って い た この 講義 教 材 を携 え て,一 個 月 間 の休 暇 を利 用 し, 更 め て この 二十 年 余 りの間 の思 考 と講 義教 材 とを 結 び付 け て 整 理 し論 文 に し よ う と考

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費    エ ス ニ シテ ィの探 究

えて いた 。 この と き私 は ま さにTanner講 演 の 約 束 を受 けて,香 港 の 中文 大 学 に赴 き 学 術講 演 を行 うこ とに な って い た 。私 は この 整 理 した論 文 を講 演 の 原稿 とす るつ も り で あ った。 この論 文 の題 目が 「中 華 民族 的 多 元 一 体 格 局」 で あ る 【費   1989】。 この論 文 の中 で長 年 欝 積 して きた民 族 研 究上 の 困惑 か ら僅 か な が ら抜 け 出 し,さ らに続 け て 探 求 す るに値 す る観 点 を提 出 した 。

  この講 演 の主 な論 点 の第 一 は 次 の 点 で あ る。 中華 民 族 は 中国 の境 内 の56の 民 族 を 包 括 す る民族 実 体 で あ り,決 して56の 民族 を合 わ せ た 総 称 で は な い。 とい うの も,こ の 計56の 民族 はす で に結 び 付 い て相 互 に依存 す る もの とな って お り,一 つ に 合わ さ って い て分 割 す る こ とので きな い統 一 体 であ るか らで あ る。 この民 族 実 体 に お い て,そ れ に 帰属 す るす べ て の成 分[構 成 要 素 とな る民族 集 団]は,す で に層 次 が よ り高 い民 族 的アイデンティ テ ィ,す な わ ち利 害 を共 に し,存 亡 を共 に し,栄 辱 を共 に し,命 運 を 共 にす る とい う感 情 と道 義 を 有 して い る。 この論 点 は私 が 民族 ア イ デ ンテ ィテ ィの 多 層 次論 へ と発 展 させ た。 多 元一 体 格 局 の中 で は,56の 民 族 は 基層 で あ り,中 華民 族 は 高 層次 なの で あ る。

  第二 の論 点 は 次 の点 であ る。 多 元一 体 格 局 が形 成 され るに は,分 散 的 な多 元 が結 合 して一 体 を 形 成 して行 く過 程 が あ り,こ の過 程 に お い て凝 集 作 用 を 果 たす 核 心 の存 在 が 必 要 で あ った 。 漢族 は多 元 的 な 基 層 の うち の一 つ で あ るが,彼 ら こそ が凝 集 作 用 を 発 揮 し,多 元 を 一 体 へ と結 合 させ た の で あ る。 この一 体 は もは や 漢 族 で は な く,中 華 民 族 で あ り,高 い 層 次 のアイデンティ テ ィを持 つ 民 族 な の で あ る。

  第 三 の論 点 は 次 の点 で あ る。 高 層 次 の ア イ デ ンテ ィテ ィが必 ず しも低層 次 の アイ デ ンテ ィテ ィに とっ て代 わ った り,あ るい は それ を排 斥 した りす る もの で は な い。 異 な る層 次 は衝 突 せ ず に両 立 して存 在 す る こ とが で き る し,さ らに,異 な る層 次 の アイ デ ソテ ィテ ィの基 礎 の上 に そ れ ぞれ が も と も と持 ってい た 特徴 を発 展 させ,多 言 語 ・多 文 化 の統 一 体 を形 成 す る こ と もで きる。 よ って高 層 次 の 民族 は,実 質 的 に は一・体 で あ り多 元 的 で もあ る複 合 体 で あ る。 そ の間 に は 相 い対 立 す る内部 矛 盾,す な わ ち差 異 の 一 致 とい う矛 盾 が存 在 して い るが ,そ の消長や変化 によって,絶 え間 な く変動す る内 外 の条 件 に 適応 し,そ の共 同 体 自身 の存 続 と発 展 を可 能 にす るの で あ る。

  この三 つ の 論 点 は,私 が 中 国 の 民族 の現 状 と歴 史 を研 究 す る実践 の 中か ら得 た もの で あ る。 長 年 に わ た る探 求 と思 索 を経 て獲 得 した い ささか の,全 面 的 とは 言 え な い 理 解 と も言 うこ とが で きる。 この 理 解 に お いて は 中 華 民族 ・漢 族 ・少数 民 族 は そ れ ぞ れ の適所 を得 て,そ れ ぞ れが 層 次 の異 な るアイデンティ テ ィを 持 つ 集 団 に属 して い る。

私 た ち は言 葉 の 上 で は どれ も民 族 とい う同一 名 詞 を 用 い て い るが,し か しそれ らは 層

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国立民族学博物館研究報告   22巻2号 次 の 異 な る実 体 を 指 して い る ので あ る。 漢 族 と55の 少 数 民 族 は,と もに 同 じ層 次 に属

して お り,そ れ らが互 い に結 合 して 中華 民 族 と な るの であ る。 中 華 民族 とは,56の 民 族 とい う多元 が 形 成 した一 体 で あ り,層 次 が よ り高 い アイ デ ンテ ィテ ィを持 つ民 族 実 体 な の で あ る。 も し,多 元 一 体 格 局 を持 つ 中華 民 族 の形 成 過 程 を 事 実 に基 づ い て 明 ら か に す るな らぽ,そ れ こそが 民 族 の 観点 か ら描 いた 中 国通 史 とな るで あ ろ う。 そ れは また,私 が民 族 研 究 の領 域 に お い て夢 見 て久 しか った,そ して い まだ に完 成 させ る能 力 の な い 目標 であ る と言 うこ ともで きる。

  一 人 の 人 間 の思 想 や観 念 は,現 実 と接 触 す る うち に練 られ て形 成 され て くる もの で, 理 論 は 実 践 と切 り離 す こ とが で きな い と私 は いつ も考 え て い る。 私 の 論文 「多元 一体 格 局 」 の 土 台 は,1935年 に広 西 の大 瑠 山 で行 っ た フ ィ ール ド ・ワー クに まで遡 る こ と が で き るの で あ る。 同 時 に私 は,実 践 だ け で は十 分 とは言 えず,既 製 の理 論 の 中か ら 啓 発 と導 引 を 得 る必 要 が あ る と考 えて い る。 大 瑠 山で の実 践 に お いて,私 は 民族 的 ア イ デ ンテ ィテ ィの層 次 を 見 る こ とが で き,さ らに それ を 中華 民 族 の形成 と関 係 づ け た。

そ の間 に は も と よ り実 践 が重 要 であ った が,そ れ だ け で な く,私 の脳 裏 に と どま り続 け た シ ロコ ゴ ロフ先 生 のethnos論 が そ の促 進 剤 とな った と言 うべ き であ ろ う。

  先 に民 族 の言 語 につ い て述 べ た ときに,1935年 に大 瑠 山 の瑠 人 の 中に 異 な る言 語 を 話 す 集 団 が い る の を見 た こ とを提 起 した 。 す なわ ち瑠 語 を話 す 盤 瑠(自 称 は 勉)・ 苗 語 を話 す 花 藍瑠(自 称 は+R奈)・f同 語 を 話 す茶 山瑠(自 称 は拉 加)で あ る。1978年, 瑠 山 を再 び訪 れ た と き,『 瑠族 簡史 』 の記 述 とそ の と きの私 の 聞 き取 りとが結 びつ い て,こ の 地域 の瑠 族 の歴 史 に対 して 基 本 的 な理 解 を得 る こ とが で きた。14世 紀 以前 に は,瑠 族 の祖 先 はす で に南 嶺 山脈 一 帯 で生 活 して い た よ うで あ る。漢 文 で 記 され た資 料 に よる と,こ の地 域 の民 族 闘争 は 明代 に お い て激 化 した 。15世 紀 の末 に 至 り,明 朝 が軍 を動 員 し当地 の土 着 民 族 に対 して戦 争 を 仕掛 け た が,そ れ が 現在 の金 秀 瑠 山 付近 の大 藤 峡 一 帯 で起 こ った有 名 な戦 争 で あ る。 この 地域 の土 着 民 族 は主 に瑠 族 で あ り, 彼 らは こ こか ら追 わ れ て 山岳 地 帯 へ と入 り,「 山 が な け れ ば瑠 に 成 らず 」 とい う局面 を形 成 した 。1930年 代 に私 が調 査 した 花 藍 瑠 は 現在 の金 秀 瑠 山,当 時 は大 瑠 山 と称 さ れ た と ころに い た。 金 秀 瑠 山 の現 在 の瑠 族 居 住 民 は 異 な った 時 期 に 山外 か ら移 住 して きた もの であ る。 この よ うな 異 な った 地 域 か ら この瑠 山 に移 住 して きた人 々は,皆 な 山外 に は居 られ な くな った 土 着民 族 で,こ の 多 くの 人hは 瑠 山に 移 住 してか らは 険 阻

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