3.暮らしを育む海
海とともに生きる人々の暮らし、
美しさと豊かさと誇りを育んできた 東幡豆の海の昔と今を紀行する。
Data
・資料に見る東幡豆の観光業・
掲載日 使用されたワード 人数の詳細 人数
1952.7.26 うなぎ上り、驚異的数字 S24 年 7 月の人数(東幡豆) 16,429 〃 うなぎ上り、驚異的数字 S24 年 8 月の人数(東幡豆) 26,702 1951.7.29 戦後最高記録、芋を洗う混雑 一日の人数(東幡豆)* 15,000 1951.8.5 戦後最高の大混雑 一日の人数(東幡豆)* 20,000 1951.8.16 うれしい悲鳴 7 月中旬~ 8 月半ばの人数(幡豆)* 200,000
1953.7.31 道路が通行困難なほど人の波 一日の人数(東幡豆)* 10,000 注:*はアバウトの人数
年度 うさぎ島・猿が島の主な出来事 年度 三ヶ根山の主な出来事
S25 前島に電灯設置 S27 三ヶ根山総合開発計画の開始
S26 前島に植樹、300m の道路整備、
道路中間に架橋 S33 三河湾一帯が国定公園に指定
S32 うさぎ島・猿が島の開島、
名鉄観光船の運航開始 S35 国民宿舎ホテル三ヶ根荘の建設 S45 うさぎ島、猿が島に公衆便所完成 S38 有料休憩所、子供遊園地、
回転展望台の完成 S52 開島 20 周年記念イベント S43 スカイライン開通 S60 クジラ型遊覧船が就航 S44 2002m の遊歩道、
無料駐車場の完成 S63 うさぎ島・猿が島の海上綱引大会 S60 あじさいラインの完成
表 1 新聞記事から見る東幡豆の海水浴
表 2 うさぎ島・猿が島および三ヶ根山における観光開発
出処:『幡豆町史資料編 3 -近代・現代』より作成。
出処:『幡豆町史資料編 3 -近代・現代』、『幡豆町報』より作成。
【昭和 28 年~ 41 年(1953 ~ 1966)頃・町並みの様子】上は昭和 41 年(1966)頃の森川近辺の路地の様子。この頃は森川の水量が豊富にあ り、道はまだ砂利道の様子。横には、潮風から守るために黒く塗られた黒 壁の家屋が並ぶ。下は昭和 28 年~ 33 年(1953 ~ 1958)頃の幡豆町 看板周辺の様子*。「幡豆村」が町制を施行し「幡豆町」となったのは昭 和 3 年(1928)。その時から建てられていた看板であると見られる。
【2016 年・町並みの様子】昔からの家屋が多く残っており、新旧家屋の 混在した歴史溢れる町へと変わっている。黒壁の家屋は現在でも見られ る。下は東幡豆駅の様子。昭和 11 年(1936)に開業されて以来、とく に観光が盛んであった時代は、名鉄蒲郡線の拠点として活躍した。また、
幡豆石を各地に運ぶ貨車が利用する駅でもあった。乗車料金は、2017 年 現在、蒲郡から東幡豆まで片道 350 円。
町並み 19
津島神社 八幡宮
【昭和 31 年(1956)・八幡宮の様子】
森組の氏神神社である八幡宮、地元では 森神社とも呼ばれる。写真は、神社のお 祭り(上)の様子と幡豆青年団所属の森 組青年団(右)。幡豆青年団の別称は幡 豆町青年団体連絡協議会(幡青協)。昭 和 25 年(1950)に誕生し、様々な活 動を行っていた。
今でも森神社は、地区の集会やお祭 りが開かれたり、地元住民がお参り に訪れたりする場所であり、暮らし の身近な存在となっている。
【昭和 52 年(1977)・津島神社の様子】東幡豆は森組、小こ見けん 行ぎょう
組、桑畑組等の組(地区)に分かれており、津島神社は小見 行組の氏神神社である。時折、結婚式も行われていたようである。
後方には豊かに茂った松の木と鳥居の様子が確認できる。
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【昭和 49 年(1974)・妙善寺の様子】最初は天平年間
(729 ~ 749 年)に創建された天台宗の寺院であった。
現在は、「浄土宗西山深草派」という宗派に属する。通 称ハズ観音、かぼちゃ伝来発祥の地としてかぼちゃ寺と も呼ばれる。この地で祈れば病はたちどころに癒え、と くに成人病予防、中風除けに霊験あらたかと信仰を集め ている。
【2016 年・妙善寺の様子】今も全国各地よりたくさんの人々が参拝に訪 れる三河の名刹。毎年冬至の日には、全国各地より寄贈された南瓜を用 いた「かぼちゃしるこ」が参拝者に振舞われることで有名。建物の両側 に見えるマキは、天然記念物として町の文化財に指定されている。
妙善寺 妙善寺前広場
【昭和 40 年(1965)頃・妙善寺前広場の様子】当時は東幡豆海岸発 展会が発足されており、妙善寺前の広場で盆踊り等様々なイベントを企 画していた。写真は盆踊りの様子。簡易ステージが作られ、ステージ上 で盆踊りを踊っている踊り手たちを見る人たちで賑わう。今では、大学 の実習で訪れる大型バスの駐車場や地元住民が世間話等に集う場へと変 わっている。
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【昭和 28 ~ 33 年(1953 ~ 1958)頃・
海で遊ぶ子どもの様子*】海泳ぎ、砂遊び、
石遊び、貝殻遊びなど、子どもたちにとっ て、「海」といえば遊び場、「遊び場」とい えば海であった頃の様子。干潟では、子ど もたちが手づくりマンガで、エビやカニ、
カレイ等をとって遊んでいたという。
海が遊び場 魚食
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【2017 年・魚直の様子】今年(2017 年)で創業 90 年目を迎え、東幡 豆の魚食を支えてきた魚食処、魚直。現在の場所に移ったのは昭和 42 年
(1967)。それまでこの場所は、東幡豆漁協の事務所であった。ご主人、
ご主人の息子夫婦、奥さんの兄弟夫婦 5 人で切り盛りしている。
【2017 年・海で遊ぶ子どもの様子】今で は、「海が遊び場、遊び場が海」の関係が薄 れ、意識的に子どもを海へ連れ出さなけれ ば、なかなか「行けない」または「行かない」
のが現状である。子どもたちにとって海は 時間を忘れて遊べる場所、楽しく自然を学 べる場所。だからこそ子どもたちと海をつ なぐ環境教育が必要だと、海で夢中になっ て遊ぶ子どもたちを見ながら再確認する。
東幡豆では昔から、アサリはもちろん、ノメリコチやハゼの昆 布巻き、ハゼのだし汁で作ったとろろ、さんまのみそ煮、シタ ビラメなど、三河湾域で獲れる様々な魚介料理を食べていたと いう。東幡豆のお食事処や民宿では、地元で獲れた旬の魚介類 をいただくことができる。
大アサリの浜焼き
茹でアカニシのお刺身 焼きガザミ イイダコ煮と
地元のお酒・尊皇 コウソウガレイの 煮付け アサリの酒蒸し
ワカメのしゃぶしゃぶ
東幡豆の魚介料理あれこれ
【昭和 40 年(1965)頃・お稚ち ご児さんの様子】稚児行列に 参加する子ども。今でも稚児行列の風習は、お寺や神社の お祭りやお祝い事の時に見られる。写真(上)は森神社にて。
【昭和 39 年(1964)頃・森川 の様子】主婦たちが子どものお しめを洗ったり、子どもたちが うなぎのつかみ取りや手作り柴
(木の枝を束ねたもの)でエビや カニをとって遊んだり、河口で は人々がアサリをとったりして いた森川。写真は岡田屋ご主人 の祖父と妹さん。
【2017 年・森川の様子】今の岡 田屋の前を流れる森川。地元住 民がアサリをとる様子は今でも 時々見かけられる。写真は、左 から岡田屋のご主人、奥さん、
板さん、娘さん。
お稚児さん 森川にて
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【昭和 46 年(1971)・神前橋 にて地元女性の様子】「美しい 湖に架かる橋に美しい女性が立 つことは罪である」という、美 しすぎる自然と人の融合を表 現した台湾小説家チョンヤオ氏 の、西湖(中国浙江省)を舞台 にした作品が思い浮かぶ。写真 の女性は、岡田屋ご主人の叔母。
右後方には昔の岡田屋が写る。
【2017 年・神前橋にて観光客 の子どもの様子】海が写り、川 が写るここは、地元住民だけで はなく、観光客もワンショット を残したくなる場所。写真は、
森川河口の生き物を夢中で見て いる子どもたちをカメラがとら えた様子である。
海辺にて 神前橋にて
【 昭 和 39 年(1964) 頃・ 海 辺にて地元女性の様子】森川す ぐ横の堤防で撮影された美し き女性は、魚食レストラン魚直 の奥さん。後方には、泳ぎや ボート遊びで海を楽しむ人々 が写っており、海水浴場で人気 であった時代を彷彿とさせる。
【2016 年・海辺にて観光客の 様子】今でもこの場所は、地 元住民や観光客の撮影スポッ トとしての役割を果たしてい る。幡豆石で建てられた堤防の 様子も変わらない。緑色に広が るのは、観光客の子どもたちが 時々間違ってワカメと呼んで いるアオサ。
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東幡豆の人々は、自然(とりわけ海)と 調和した暮らしを送りながら、古くからの 伝統行事などを大切にしている。ここでは、
日常が垣間見えるエピソードを、海とのか かわり、民俗文化の面から紹介したい。
●海と人々のかかわり
海はすぐそこにある身近な自然であり、
魚介が生息する恵みの産物であり、さらに は子どもたちの親しい友人である。
民宿鈴喜館のご主人が子どもの頃(1970 年前後)は、海で魚をとって遊ぶのが普通の ことだったという。例えば満潮時に古タイヤ を海に投げ入れておく。潮が引いて干潟にあ がったタイヤを覗くと、タイヤの輪の中に取 り残されたうなぎを発見できるのだそうだ。
ヤマモモの木の枝を束ねて沈めておいても、
アナゴが入っていたりする。それから、この 地域でよくとれておいしい魚介といえばモ ガニ(ガザミの通称)なのだが、そのとり方 として、モガニが潜り込んでいる岩と岩のあ いだに軍手を 2 枚はめた手をそっと入れる。
するとモガニが軍手をハサミで挟んでくる。
そうして、痛いけれどじっとがまんして、最 後にはモガニの捕獲に成功するのである。ち なみにこのモガニをかまぼこ板に巻き付け て、カニが好物であるタコを釣ったりもした ようだ。
昔は今と違って娯楽と呼ばれるものの種 類が少なかった。その分、子どもたちは工 夫して、身近な海で楽しく遊んでいたよう である。遊びに使うものも、身の回りにあ るものばかり。物は少なくとも、豊かな暮 らしがあったことがうかがえる。
現在はというと、子どもたちが海へ入っ たり泳いだりする機会はほとんどなくなっ ている。とはいえ、今も海岸で貝殻拾いを する子どもたちや海岸沿いを散歩するお年 寄りの姿を見ることができる。魚食25で 見たように、海は変わらず美味しい魚介類 を恵んでくれるし、アサリの時期になると 人々は森川27や海岸でアサリとりをする という(地元住民に限り、潮干狩り場では なくても自由にアサリをとることができ る)。海での遊び方や海との付き合い方は 変わったが、海が暮らしに寄り添っている
ことは昔も今も同じである。
●「組」と地域に根ざした民俗文化 東幡豆には小さな神社が点在している。
これは、東幡豆地区がさらにいくつかの
「組」に分けられており、組ごとに氏神神 社があることがひとつの理由である。「組」
は町内会の区切りであり、明治時代まで あった「村」の名残でもある。
ここで東幡豆の変遷について簡単に述べ ておくと、まず、明治 11 年(1878)に、
東幡豆地区の 9 村が合併して「東幡豆村」
となった。そのときの村が、鹿ししかわ川村、洲す崎さき 村、山口村、谷村、彦ひこ田だ村、上うえはた畑村、桑くわはた畑村、
森村、小こ見けんぎょう行村で、これが今の「組」の 前身といえよう。明治 39 年(1906)には、
東幡豆村は隣の幡豆村(西幡豆、鳥羽、寺 部からなる村)と合併して「幡豆村」になる。
その後、幡豆村は町制を施行し、「幡豆町」
となったが、2011 年に西尾市へと編入さ れ、東幡豆は「西尾市東幡豆町」として今 にいたる。
すでに見たように、例えば津島神社20
は小見行組の氏神神社であり、八幡宮21 は森組の氏神神社である。今でも人々は新 年の初詣、年一度のお祭りといった特別な イベントのほか、日常的に氏神神社へ赴き、
お参りをしたり、公民館で集会をしたり、
境内の清掃をしたりして、自分たちの守り 神を身近に感じながら大切にしている。
沖島には、民話にも登場する弁財天が頂 上の沖島社に祀られており、毎年秋には大 祭が行われる。この祭礼を執り行うのは小 見行組である。当日はまず子ども神輿が
「ワッショイワッショイ」と元気よく町を 練り歩き、その後、船に乗り込んで人々は 沖島を目指す。島では沖島社の扉を開いて 弁財天に祈願をし、皆でふるまいの品をい ただき、お社から餅投げをする。先祖代々 受け継がれてきた祭事が、今もこうしてつ つがなく遂行されている。
東幡豆では、地域のつながりや古くから の風習を大切にする懐かしくあたたかい暮 らしが今なお営まれている。それは、ここ に生きる「人」の確かな存在があってこそ なのである。 (本間咲来)
東 幡 豆 の 暮 ら し と 文 化
ハズ観音妙善寺には、通称
「かぼちゃ寺」という名に ちなんで、冬至前の 11 月 には境内にたくさんのカボ チャが鎮座していました。
本日のお宿はこちら。主館は切 妻造の洋館風和風建築。離れも たくさんある大きな民宿です。
小規模ながら、いろいろな魚介が小さな船でどんどん届き ます。セリ場にはかわいい来客(猫)も。落ちた魚をちゃっ かり加えて、すたこらさっさと闇に消えていきました。
ごちそうがいっぱいニャン
広い部屋で大はしゃぎ かぼちゃの中に
観音様が!
みんなで 記念撮影
旅日記 Vol.3
たくさん見て歩いて ついに宿に到着。
でも夜は長いのです…
民宿鈴喜館
深夜のセリを見学 妙善寺
干潮時に現れるトンボロ干潟。昔の子ども たちも、前島まで歩いていって、遊びなが らカニや貝をたくさんとったんだそう。
トンボロ干潟