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い では、どうすればよいのか(藤江

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Academic year: 2021

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(1)

「ものごと(物事)」は簡単明瞭なのが、なによりも望ましい。だが簡単とは、どういったことなのであろうか。辞書(『大辞林』)の説明の一つに「物事が単純で、理解や扱いが容易であること。また、そのさま」とあるが、実は、一つの言葉を辞書によって意味を求めると、われわれははっきりした解釈を期待していたのに、その説明の文に、さらに疑問が生じてくるといった場合が案外多いのである。前記の説明文中にある「単純」「理解」「扱い」「容易」、そして「さま」なる単語は、われわれがその意味を十分に承知している言葉なのであろうか。もともと、「ものごと(物事)」という単語も、意味のはっきりしない単語である。「もの」と「こと」が一つになって連用され「ものごと」と称するが、本来「もの」と「こと」は異なった意味内容を持っていよう。今「ものごと」が主語であると考えるなら、主語そのものの明確な意味規定もしていないのに、どのようにして、その述語部をつづけたらよいのか。たとえば「男は人間である」「女は人間である」という文は正しい。だが「人間は男である」「人間は女である」という表現をみると、誤りではないのだが、どうも不完全な文ではないか、と考えてしまう。完全な文にするにはどうすればよいのか。こう考えたらよいのかどうか。つまり人間の中には男も女も含まれている。だが男の中には女は含まれていない。また女の中には男が含まれていない。だとすると男と女は別々のもので、別々の状態のまま人間という言葉に含まれているのだ。それゆえ「人間は男である」「人間は女である」

では、どうすればよ

のか

藤 江 正 通

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(2)

という表現は不完全な意味内容を持つ文なのだと。男、女以外にも老人、壮年、青年、少年、少女、幼児という人間の呼び方がある。この呼称は、男、女が不変である性質に対し、時間の経過による変化形の呼称である。人間を説明するヨコ軸とタテ軸の上での位置設定であるのだが、ここに非常に厄介な問題が存在する。ヨコ軸とは生物、無生物の存在する地表(地球の表面)と考えてよい。これは土であれ、水であれ、その拡がりはトータルとして一定恒常のものであり、その地表の面積が増減するはずはない。火山の噴出による大地の突起も、地表陥没による水面の拡張も、地表全面積には大きな影響をあたえたりはしない。だが 例証として男、女の問題を取り上げたのは、「われわれ」というのは、男と女双方が使い得る言葉であるがゆえに、考えてみたかった課題なのである。「私」ではなく、「われわれ」だからであ タテ軸とは地表面を0としたプラスの座標軸であると考えてみよう。男、女の誕生は0から始まる。しかもそれは必ずプラスの成長であって、マイナス、つまり負の成長などあり得ない。幼児から老人へとは、時間の経過による変化のプロセスを示している。しかし男と女の立脚した地表は、全く違うのである。かりに男の地表が土であるとするならば、女の地表は水なのである。土と水とは永遠に異なった物質である。土は水になることもなく、水も士になることはない。限定した量(面積)で常に考えられる地表なのであるから、土から水へ、水から土は、量的な変化は度々起こり得よう。だが土から水へ、水から土への質的変化は決して起こり得ない。「男は人間である」「女は人間である」という言葉はたしかに正しいが、男と女の質的変化はあり得ないがゆえに、真理の一部分をいうにすぎぬ言葉なのである。 ダルとして一定Fの突起も、地表胎タテ軸はどうか。

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さて冒頭の設問にもどろう。簡単とはなにか、という設問である。|っの問題提起は必ず反対極にある問題提起を予想する。簡単であるということは、簡単でないということの対語として考えるべきである。簡単でないということは、どういうことなのか。目の前においしそうなミカンが五つあるとする。ミカンの大好きな子どもが三人やってきて「ミカン頂戴」とせがむ。さあ、あげようと母親は五つのミカンのうち三つを取って、一人一つずつ手渡す。だが子どもたちの関心は残された一一つのミカンに集中する。三つのミカンだけであったなら、配分は簡単なのである。だがミカンが五つあるということが、事態を簡単でないものとしたのであり、’’一人の子ども以外にミカンの希望者がいないとしたら、この残された二つのミカンをどのように処理すればよいかに、その場に居合わす人間たちは頭をひねる。ミカンが三つあるということは、知覚としての視覚のとらえた「もの」の実在であった。幼児期にある三人の子どもは、今、子ども仲間が一一一人、ミカンが一一一つの場合、幼児一人はミカン|っにそれぞれに対応できる。(ミカンの大小については、今は不問とする)この知覚としての認識は知識である。|つ、|一つ、三つと数えるのだよ、と子どもたちは教えられる。いや、あるいは自分自身で自分が一人、ミカンは一つとすでに体験しているかも知れない。知識は必ずしも教えられなくとも、先天的に人間の内部に程度こそあれ、存在するものかも知れない。(人間ばかりではなく、生物すべてにも、知識的本能つまり自己防御Ⅱ安全確保、営養摂取Ⅱ個体保存、生殖行為Ⅱ種族保存などのように自然に備わっている事実も忘れてはならない)だが五つのミカンの中の二つを「どうすればよいか」は、知識の範囲を越えている。ここでは、「どうすればよいか」という問いと、「なぜそうするのか」という問いが生じてくる。前者は方法 る。

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つまり五つのミカンを三人に平等に分けあたえるのと、五つのミカンを五人の人間に平等にずつ分けるのとは、全く同じ次元の知恵から出ているからである。なぜか。それは人間を一人一人、独立した存在として認めているからである。「不平等は良くない」という考えは知識ではない。知恵なのである。 れるであろう。 「簡単な」ということは、英語表現に直すと、旨已のであり、シンプルは現今では日本語ともなっている。、旨已①又はの旨已』aどの反対語は、ふつう・・居」の〆又はg居}の菖亘を使う。日本語では複雑(性)と訳している。複雑とは、色々な多様な要素が並存し、あるいは、混じりあって存在している状態であって、錯綜したり混乱しているという状態ではない。それぞれのルーツは、はっきりしているのである。筋道(条理)をつければ、それらは明確に識別できるはずなのである。さて、このように考えてくると、簡単でないものについては、それをどうしたらよいかという問題を考察することとなってくる。ミカンの例をもう一度取り上げるなら、まず三人の子どもに平等にわけてやりたいと考える。二つのミカンの皮をむいて中の袋を等分にし、三人にあたえる。この段階はもはや知識ではなくて知恵である。そして知恵はさらに三人以外の他の子どもたちにも、また場合によっては、|つはママがもらうわ、そしてパパにも一つあげましょうという処置も頭に浮かばせてくれるかも知れない。この知恵は「なぜそうするのか」という問いにも回答をあたえてく 論であり、具体的な技術の援用であり、後者は立論の根濾を示す上での論理的な理由づけである。三人の子どもと五つのミカンとの関係は、もはや簡単なものでなくなってしまうわけである。

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「欲求する者はその欠いているものを欲求するか、または欠いていぬ場合には、欲求することもないということは、(中略)絶対的に必然なことと思われるのだ。」「善きものはまた美しくもあると君(アガトン)には思われないか。」「ではそれは何でしょうか。」「その人達とは誰のことですか。」「それはどういう意味ですか。」「ではどんな能力を持っているのです?」 力。

要条件だ。」 古代ギリシアの哲人、ソクラテスは弟子のプラトンの筆により、興味ある一一一一口葉を多く世に伝えている。次にこの一一、三を挙げて、問題をどのように提起するかの検討の資とさせていただく。

(右の引用文は、プラトン著『饗宴』〈久保勉訳〉によったものである。) 「人は何を讃美するにしても、これについての真実を語らなければいけない、そうしてそれが先「その性質とは、エロスが何者かに対する愛であるということなのか、それともそうじゃないの

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