無 常 と 常 住
へーゲルの現象論
石神
●些 一豆L
■
はじめに
無常 と常住
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﹃精神現象学﹄における﹁A︑意識﹂の章から﹁B︑自己意識﹂の章への移行はきわめて注目すべきものである︒この
移行段階を叙述するのが﹁A︑意識﹂章の末尾(第三節)の﹁力と悟性︑現象と超感覚的世界﹂と称する一節である︒す
でにこの表題にここで展開される主要な諸概念が提示されているが︑ヘーゲルはこうした諸概念の展開によって本節の課
題︑つまり﹁意識はいかにして自己意識となるか﹂という課題に答えていくのである︒
ヘへ思想史上における近代の規定を︑自立する自己意識の存在すなわち(近代的)自我の定立におく場合︑そこにはデカル
トのコギトが考えられている︒デカルトのコギトが第一原理の意義をもちうるのは︑思惟が他の何ものにもよることなく︑
まさしく自立するものとみられるからである︒思惟(意識)は一般にある対象をもつ︒しかしこの対象が自己自身となる
とき︑あるいは自己自身が対象となるとき︑思惟は自立する思惟の意義をもってくる︒ここには意識の対象性の払拭とい
ヘへう内面的転回があるわけであるが︑デカルトのコギトがこうした転回の意義をもつものであることは一応認めてよいと思
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われる︒
ヘーゲル哲学もまたこうしたデカルト的伝統を引き継ぐものである︒たとえばガダマーはこういう︒﹁意識が自己意識
であるという主張は︑デカルト以来の近代哲学における中心的学説である︒へーゲルの現象学の理念も︑このデカルト的
( 1 )
伝統の線上にある﹂︒こうした意味においてへーゲル哲学はまさしく近代哲学である︒しかしへーゲル哲学はまた︑たんなる近代哲学ではない︒なぜならヘーゲル哲学は︑近代哲学のもつ思想的諸規定をも対自化した哲学だからである︒この
ことは︑﹁いかにして(≦①)﹂という課題のたてかたにもうかがわれよう︒つまりここには︑近代の転回を無批判に受け
︑︑︑︑︑(2)入れるのでなく︑意識の経験としてこれを追認︑あるいは実証しようとする態度がある︒この︑転回を経験として再構成
するいわば実証的な態度は︑歴史の歴史性そのものを現在の(我々の)意識において開示させうるのだという︑へーゲル
自身の確信にもとついているともいえよう︒すると︑﹁意識はいかにして自己意識となるか﹂という課題も︑たんにいわ
ゆる歴史的に限局された問題設定ではありえない︒むしろ第一義的には現在的な課題でなければならない︒私たち自身に
とってもこうした観点の上に考察を進めることが︑とりわけ﹃精神現象学﹄理解には必要だと思われる︒
﹁力と悟性︑現象と超感覚的世界﹂というこの節(以下で﹁本節﹂という場合はこの節をさす)は︑上述の転回を叙述して
いるが︑ここにガダマーの論文以来とりわけ着目されるものとなった﹁転倒された世界象①<Φ島①冨8竃①三という表現
( 3 )
がある︒この表現は本節の理解にとって一種のキーワードでもある︒いま先取りしていうなら︑﹁転倒﹂は二重の意義をもつ概念である︒すなわちまず︑転倒は正置に対してネガティブな意義をもっている︒しかしつぎに︑転倒が転倒として
自覚されるとき︑転倒はポジティブな意義をもってくる︒つまり転倒は他に対しての転倒でなく︑自己自身の転倒︑﹁転
倒の転倒﹂としてそれ自身正置された意義となる︒(ここに﹁無限性﹂が示されてくる)︒そしてこの展開全体を支えるもの
として重要な意義をもつものが﹁現象国冨魯①ぎ彗αq﹂概念である︒
本節をとおして現象概念の展開がみられるのであるが︑ここで示されるへーゲルの現象論は︑たんに本節の理解にとっ
て枢要であるだけでなく︑へーゲル哲学全体にとっても中心的な意義をもつものであると思われる︒もちろん現象概念の
論理的諸規定の詳細な展開は﹃大論理学﹄をまたなければならないが︑ここ﹃精神現象学﹄で示される現象論は︑意識の
へ経験に即してみられるものとして︑多少荒削りではあるがいわば生に直接して示されるという特色をもっている︒以下︑
本稿はこの﹃精神現象学﹄における現象論をみるものであるが︑まず現象概念の意義および役割について明らかにし︑つ
ぎに具体的に本文に沿って検討し︑おわりに転倒概念の意味するものを現象概念との関係において考察することとする︒
﹁現象﹂の意義ω
﹁現象﹂という言葉はどのように用いられているか︒日本語では﹁現象﹂という言葉を日常的に用いることは少ない︒
それに対し︑﹁現われる﹂という動詞表現は日常的なものである︒﹁彼がとつぜん現われた﹂とか︑﹁悩みが顔に現われ(表
れ)ている﹂などという︒この場合︑前者の表現にあっては(どこからか不意に︑という)事態の突発性︑あるいは因果関
係の不明性が含意されている︒しかしここで(現われた)彼はまさしく彼自身であって︑他に彼(の本体)が想定されてい
るわけではない︒これに対し後者の表現になると︑ある反省︑判断が示されている︒たとえば顔の色の悪さ︑あるいは眉
ヘへ間のシワなどの表情から︑それらを現わし出している原因としての悩みがいい当てられているともみられる︒しかし一般
ヘへ的にいって︑日常においてこうした事象の背後を深く考察することはまずない︒なぜならば︑視覚を中心とする日常的意
ヘへ識にあっては︑現に見えるところのものがすべてである︒いわば素朴実在論の立場である︒上の表現においても︑悩みを
ヘヘヘヘヘへ背後の本体とするのではなく︑むしろ顔色の悪さやシワが悩みそのものであるとみているのだといえよう︒
一方︑ドイツ語の霞ω島9器ロもω一魯筈霞毒巳象(見えてくる)という視覚的意味において多く用いられる︒﹁出席する︑
出演する︑(本が)出版される﹂などは代表的な意味である︒それに対して目貯やきωとともに用いられるばあいは︑話
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者の反省︑判断が語られる︒たとえば国︒・霞ω島鉱馨巳﹃≦凶鼻二αq(それは重要だと思われる)などという文では︑ヨ貯という
三格の人称代名詞が判断の出所を示している︒しかしここにおける判断はかなり消極的なものである︒つまりこの後者の
用法において︑反省︑判断といってもそれはいわば感覚的な印象にもとつく主観的意味あいが濃く︑積極的な判断とはみ
られないのである︒この点︑やはり日常的意識のありかたを示しているとみられる︒
ところで日本語で﹁現象﹂という言葉は︑たとえば﹁物理的現象﹂とか﹁心理的現象﹂という表現において用いられる︒
ヘヘヘヘへこの用語は日常的意識にとっては一種のめまいを覚えさせるものである︒つまりここにはある屈折があり︑この屈折を見
きわめることは日常的意識にとっては苦手なのである︒ここにある屈折は︑反省的思惟あるいは悟性的思惟のなす知的営
為を示している︒つまり﹁物理的現象﹂﹁心理的現象﹂などの表現は︑日常的意識から一歩立入った反省的領域を示して
いるのである︒たとえば﹁虹は太陽光線の現象である﹂という︒また︑﹁登校拒否は心の抑圧現象である﹂などという︒
ヘヘヘヘへこれらの表現においては明確に背後のものが指示されている︒むしろ定立されている︒つまり︑空中の七色の光彩はじつ
は太陽光線という本体の一現象であり︑登校拒否という子供の行為は︑抑圧された心という本体の一現象なのである︒重
点は現象領域から本体領域へと移行している︒すなわちここでは︑見えるものが真にあるものではなく︑むしろ背後にあ
るものこそが真の存在として主張されているわけである︒
﹁現象﹂にあたるドイツ語には︑さきの鶏︒︒畠︒ぎ8の名詞形国富筈︒貯巷αq(あるいは国円︒・筈豊①5)のほかにギリシア語源
をもつ℃臣ぎヨ窪がある︒前者は一般に広く用いられるのに対し︑後者はたとえば①ぎ鵯ω①一一ω警鑑二一魯①ω圃冨ぎ日魯(社
会的現象)とか︒貯娼ξω芽︒一一ω夢①ω勺冨昌︒ヨ8(物理的現象)というように︑多く学術的用語として用いられる︒﹁現象学﹂
が℃姦ぎ目①ぎざαqδであることはいうまでもない︒しかし通常の用例をみるかぎり両語に明確な限定はないようである︒
国屋9①ぎ彗αq"勺叢8ヨ魯ともに日本語では﹁現象﹂と訳さざるをえないわけであるが︑上に用語例をみて考察したように︑
﹁現象﹂という言葉が一義的に確定された意味をもつものでないことは確認できるところである︒
ヘヘカントは﹃純粋理性批判﹄で﹁現象国話6冨ヲ当σq﹂を定義している︒﹁経験的直観のまだ規定されていない対象を現象
と寵﹂・︑つまりカントによれば・現象とは経験的直観の対象一般である・そしてここには質料と形式があるとし・アポ
ステリオリなもの(現象の質料)を分離するとき残る純粋なもの(現象の形式)こそ︑いわゆる感性的直観のアプリオリな
形式としての空間︑時間である︑と﹁先験的感性論﹂は述べている︒こうしたカントの現象解釈を︑へーゲルは一面にお
へいて高く評価する︒﹁近代哲学の歴史において︑日常的意識と哲学的意識のあいだの区別を︑最初に復活させた功績はカ
・・(5)ントに帰せられる﹂︒これは﹃エンチクロペディ﹄の言葉である︒へーゲルの論理学からみれば︑﹁現象﹂はたんなる有(o︒︒一冨)
ヘヘヘへでなく︑有の真理である︒日常的意識は見えるところのものをそのまま存在するものと考えるのであるが︑このばあいの
へ有は規定されていない抽象的な有にしかすぎない︒哲学的意識は現象において有の真理をみる︒この止場された有の立場
こそ哲学的意識の立場であって︑カントにこの立場がみられるというわけである︒
しかしカントの現象解釈は他面において不満を残している︒ヘーゲルはつづけていう︒﹁しかしカントはいまだ中途半
ヘヘへ端であった︒というのは︑彼は現象をたんに主観的意味にしかとらえず︑その外に︑私たちの認識が近よれない物自体と
(6)・・して︑抽象的な本質を固定したからである﹂︒へーゲルの不満はカントの区別の思想に向けられている︒カントにおいて
は現象の外に本質が立てられ︑しかもこの区別は固定されている︒こうしたいわゆる悟性的区別からすれば︑外なる本質
が本来︑客観的なものであり︑現象は主観的なものにすぎないことになるのではないか︒こうした理解はいかにも中途半
端ではないかーこうへーゲルは批判するのである︒
ヘヘヘへこのへーゲルの批判に対してカントならばどう反論するであろうか︒ある個所でカントは︑﹁客観(09︒ぎ)は二重の意
・・(7)義に︑つまり現象としての客観と物自体としての客観として解される﹂と述べており︑むしろ二つの客観を明確に区別す
ることを主張している︒カントがこの区別を主張するのは︑現象を自然法則にしたがう領域とし︑他方︑自由をたんなる
現象とは別に︑物自体の領域にこれを確保しようという意図によっているのである︒しかしここにはカント哲学の独自な