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W.ク ラフキー陶冶理論の考察
一 その「一般 陶冶」 と「 カテゴ リー的陶冶」概念 を中心 に して 一
Zur lnterpretatiOn der Bildungstheorie W.Klafkis
二
Seine Konzept der Allgemeinbildung und der kategorialen Bildung―
一高 橋 洸 治
KoJ TAKAHASHI
(平成2年10月 11日受 理)
1.陶冶 概 念代 替 化 の試 み とその 問題 点 ― 主題 へ の アプ ロー チ ー
精神科学的な教育学か ら、経験的社会科学 によって基礎づけられた現代的な教育科学への質 的な転換、いわゆる「教育学 における現実主義的な転回」(これは 1960年 代 に行 われた。)を
契機 にして、 その伝統的な教育学を特徴づける「 陶冶
(教
養)」
(1)概念 は、 なお一層、背後 に 退 けられることになった。精神科学的教育学が、その解釈的な方法 に関 して、非経験的・ 非科学的なものとして、また、
その現実肯定的・ 正当化的な言明体系 に関 しては、批判的・ 解放的な視座を もたない保守的な ものとして非難 されたのに伴い、 この教育学を支えてきたいわば古典的な「 陶冶」概念の使用 に対 して、その教育理論的および教育実践的な妥当性 と有効性 とを疑問視する見解がつよ く出 されたのである。すなわち、従来の「陶冶」概念 は、過度 に理想化・ 概念化 されてい るため、
教育行為の内容 と過程を適切 に把握 し、導 くことが もはや不可能な ものになっている。より具 体的にいえば、
Ko W.v。
フンボル トに由来するその概念 は、19世紀階層社会 の富裕 な市民 の社会的な生活条件 と自己理解 との表現であるかぎり、 自由な民主主義を原則 とす る現代社会 における教育課題を指示す るには不適当な ものである、 と批判 されたのである。「 陶冶」概念に代えて、その理論的な役割 に相当す るものとして様々な概念 が提起 された。
例えば「科学的な態度」、「生活場面 の克服 に必要 な資質
(処
理的能力)」、「 自己同一性」、「 解 放 一成人性 一自己決定」、「 社会化」 といったものであるLだが、それ らはいずれ もその代替要 求 に十分応えることが出来 なか ったと指摘 されている。(2)
人格の内実 と諸力の発展 は、客観的な社会的条件 と主観的な個人的条件 との現実的な関連が 確保 されていて初めて可能 になるものである。従 って、 これ ら二つの条件を統合 した陶冶概念 またはそれに相当す る概念が求め られているのである。伝統的な「陶冶」 に対する上記の批判 は、 この課題意識 に基づ くものである。その点を もう少 し明確 にしておこう。「 成人性」 およ び「批判能力」を強調する「解放的教育学」が依拠する「批判理論」の提唱者であるM.ホル クハイマーは次のように指摘 している。すなわち、伝統的な「 陶冶」 構想 において、「陶冶」
というのが存在するのは「人間が自己自身をいわば芸術作品のように形成 しようとする場合 に、
つまり、みずか らが自分の形成活動 の対象 となる場合 にであって、彼がその力を世界の形成 に
つ ぎ込み、外的な社会的過程 に介入する場合にはそうで
(存
在 し)な
いのであ る」(補
足 は筆 者)。
そ して、当然のことであるがホルクハイマー自身は、その後者の場合 において こそ陶冶 とい う事象が生起するものであると捉える。「人間が陶冶 され るのは、彼 が く自分 だ けで生 ぜ じめること〉を通 してではな く、 まさに事実的な事柄への傾倒 において、知的な活動 において、および意識化 された実践 においてである」(3)と。
陶冶を人間的実践の所産 として限定的に捉える│「批判理論」の見解 は、伝統的な「陶冶」 と は逆 に陶冶の客観的―社 会的な側面を偏重するものである。それでは、「批判理論」 のそ うし た認識 に根 ざす「解放的教育学」が提起 している、陶冶概念に相当する「成人□ 、剛鮮賄ヒカ」
等 は本当に客観的―社会的な ものか というと必ず しもそうで はない。 それ らは、 む しろ、「 人 間相互の自由な交流 においてのみ可能 なもの」である、 と指摘 されている。(4)っまり、 自由 と か人間性、そ して「成人性」、「批判能力」 といったものは、社会的な現実そのものではなくて、
人間の能力 とその内容を発達・ 充実 させるために設定 された一種の内面的な規範 にはかならな いのである。(5)それゆえ、それ らの概念 は、一見 した印象 とは異なり、陶冶の主観的一個人 的 な側面 に関わるものと見なされるのである。
「 陶冶」概念の代用 として導入 された諸概念 の内、最 も持続的な影響力を示 したの は、「 資 質
(Qualifikation)」
である。 これは、教育改革 というものはカ リキュラムの改訂を遂行 して のみ達成 しうるという見解を提示 したS.B。
ロビンゾーンによるものである。彼 は、教育 に おいてなされな くてはな らないのは生活諸場面 を克服す るための準備をす る ことであ ると し、その準備 は、知識・ 洞察・ 態度および技能の習得を通 して二定の「資質」 と「処理能力」 とを 生徒 に獲得 させることによって行われる、(6)と主張 したのである。経験的な行動研究をとり込 んだその見解か ら推測すれば、「 資質」 はコンピテ ンシーに近いといえよう。
この「資質」の獲得が個人の具体的な要求・ 感情・思考 との関連 においてなされたな らば、
陶冶の二つの条件を充たす方法が追求 されたであろう。 しか し、「 ………彼 に とって は、成長 しつつある者 に対 して学校が・……・。どのような能力を伝達 しなければな らないか、 このことこ そ問題であった」のである。それゆえ、まず学校すなわち社会の側か らの能力要求が決定さ払 次 にそれが学習内容を規定 し、最後 にその内容 に基づいて一定 の能力「資質
(能
力)Jが形成される、 ということにな ったのである。 したが って、 ここでは、陶冶 における客観的一社会的 な側面が偏重 されているといわざるをえないのである。
以上の要点的な指摘で十分理解 され るように、伝統的な「 陶冶」概念に代えて提起 された諸 概念 は、 いずれも、陶冶の二側面の内どち らかを偏
1向
的に強調 して、他方をそれに解消 してい るのである。 このことは、基本的には、陶冶 と教育(狭
義の)と
の概念的な分離、および両者 の統合の問題に関わっているといえよう。内面的な精神 は陶冶 に、社会的な行為 は教育に、 と いう図式的な区分 は、教育現象を全体的・ 立体的 に、そ して主体形成の活動 として捉えること を困難 に しているのではないか。 その概念区分 の分析的な効用を一応 は認めるとして も、それ らの統合的な連関性が明かにされないかぎり、両概念は教育解明に対 して本質1的な役割を獲得 することが出来ないのではないか。こうした概念区分の問題点 は、先に触れたホルクハイマ‐の見解 において明確 に示 されてい たのである。 ロビンゾー ンは、その見解をおさえて、 さ らに積極 的に、「 教育 と しての陶冶」
を主張するのである。つまり、前に示した陶冶の二重性を充たすために陶冶は教育 (狭 義の
)的な性格を有するものである、またそ うで な くてはな らないと提言 したのである。 これはまさ
W.ク ラフキー陶冶理論の考察
に陶冶概念 を教育概念 に解消す る ことにほかな らないのである。
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2.クラフキー によ る「 陶冶 」 お よび「 一般 陶冶」概 念 の再規定
伝統的な「陶冶」概念 に対す る批判的な論議が陶冶概念そのものの解消・ 否定 という見解 に 到達す るというのは、いわば当然の成 り行 きではあろう。 しか し、そ うなると、代替概念を追 求す る試み もその意義を根底か ら崩 されることになるのである。陶冶の存在 を意識的ない し無 意識的に前提 して行われてきた議論や提案 は、 この1時点 において別 のより基本的な問題 に直面 す るのである。すなわち、陶冶概念 (およびそれに相当する概念)は教育学 において本当に必 要 な ものであるのか という教育学理論構築の本質的な問題に立 ち返 るのである。
この課題 に対 して積極的かつ生産的な貢献を しているのはW.ク ラフキー
(1927〜
、マール ブルク大学教授)で
ある。例 の「現実主義的な転回」期に、精神科学的教育学か ら批判的教育 学へ「転向」 した教育学者の一人である。 しか し、彼 自身 は、だか らといって従来の主要な見 解 に、「決定的な修正」を加えるつ もりはない と明言 している。(9)その ことは、 彼 の教育学理 論 の名称である「批判的一構成的教育科学」の「構成的」 という表現 に認め られる。彼にとつ て、「精神科学的教育学を生産的に継承 してい くということは、…・・・…『構成的』 とい う規定 に示 されている」⑩ のである。それゆえ、 この陶冶問題を考察する彼の手法 は、 まず伝統的な「陶冶」概念を批判的な視座か ら捉え直 し、その歴史的・ 社会的な今 日的妥 当性 を吟味す る こ とか ら始め られる。その次 に彼は、陶冶を「 一般陶冶」 として再解釈することの必要1性を強調 す るのである。そ して この「一般陶冶」 との関連 において、すでに彼が主張 している「 カテゴ リー
(範
疇)的陶冶」 は、今なお依然 としてその意義を保持 しているとの確証を彼みずか ら得 ようと試みているのである。その筋道 にそつて彼の見解を要点的におさえてお こう。陶冶概念 は必要か否か という問題に対 して、 クラフキーは断言的に返答す る。「 陶冶概念 あ るいはそれに相当す る概念のような中枢的カテゴリーは無条件に必要である」① と。その理 由 として体系的な理由と歴史的な理由とが挙げ られている。前者 によれば、成長 しつつある子 ど も・ 青少年の世代のための教育学的な活動や、成人の「生涯学習」 のための教育活動などの意 味を統合的に捉え、それ らの活動が対立 しないようにす るために、 そ して、教育学的な援助・
措置・ 行為および学習活動 の基礎づけと意味づけをす るために、陶冶概念 は不可欠な ものであ る。
陶冶概念を必要 とす る歴史的な理由は、伝統的な「 陶冶」概念 には社会批判的な要素 も含 ま れていて、歴史的に適切な問題解決への視点を提供する有効なものであった、 ということであ る。言 い換えれば、陶冶概念 はそれが適格に規定 されているな らば、歴史的・ 社会的な教育問 題を克服す るための視座を もた らす という意味において必要な ものなのである。伝統的な「 陶 冶」概念のそ うした有効性を彼 は次のように捉えている
(筆
者の補足を多少含む)。
19世
紀の30年
代 までに教育学 (ドイツ語圏での)の
中心概念 となった「 陶冶」 には、啓蒙の 理念が保持 されている。その理念 とは、 カン トが「 自己の未成熟状態か らの脱却」 と呼んだ も のである。その脱却 は人間自身責任を負 うべ きことである。 というのは、未成熟性の原因は悟 性 の欠如 にではな く、 自分か らすすんで悟性を使お うとす る意思 と勇気の欠如 に存在す るか ら である。要するにこの理念は、あ らゆる人間が自己決定の能力を獲得す ることの可能性 とそ う することへの要求を、 さらにそれへの発展 は人間の権利であることを訴えているのである。 そ してクラフキーは、伝統的な「 陶冶」概念が強調する、人間のあ らゆ る諸力・ 理性 の発展 は「 生活条件の前進的な人間化」 と「社会的0政治的関係の理性的な形態化」 とを達成 し、「根拠 のない支配を撤廃 し、人々の自由の範囲を拡大する」 ことに寄与す ることが出来たと、主張す るのである。要す るに、「 その陶冶概念で意味されている人間の もろもろの可能性 の発展 に対 立する、あるいはそれを意識的に阻止するような、問題 となる伝統、所有及び支配 の関係に対 す る批判を、 この陶冶理解 は、明示的に………そ して少な くとも暗示的に………常 に含んでい たのである」。
(②
伝統的な「陶冶」概念のこうした再解釈を通 して、 クラフキーは、「陶冶 とい うものは、 そ の意味において、主 として、 自己決定及び共同決定の能力 として、そ して連帯性の能力 として 了解 されな くてはな らない」 という結論を引き出 している。陶冶 は、人々がその個人的な生活 関係 に関 して、社会的・ 職業的・ 倫理的・ 宗教的な種類の意味づけに関 してみずか ら決定 し得 る能力を目指す ことであ り、 またその能力を有 している状態である。 さらにまた、人々にとつ て共通の社会的・ 政治的な関係を築 くことへの責任を自覚す るならば、物事を共同で決定す る ための能力 も陶冶の主要な内実である。なお、それ らの二つの能力 は、人々が連帯 して諸問題 を克服す る時に初めて正当化 されるものである。 したがって、 この連帯す る能力の陶冶には不 可欠な要素である。 このようなクラフキーの陶冶理解 は、「批判理論」 によ る方
1向
づ けを強 く 示 しているが、 しか し、同時 にそれは伝統的な「 陶冶」概念を解釈学的に再構築 した成果であっ て、決 して恣意的なものではない、 というのが彼の主張である。ドイツ古典主義 と、それ と結びついた現代の陶冶理論的な考察 とによる陶冶概念規定の主要 な共通点 は、「 陶冶が 一般陶冶
"と
して理解 されている」① ことであると指摘 して、 クラフ キーは、現在の状況に適合 した「新 しい一般陶冶」概念の必要性を説 き、沈滞化気味であった 陶冶論議に一石を投 じたのである。陶冶が「一般的」 というのは、彼によれば、次 の二つの意味要素を含んでいる。第一 に、陶 冶 は、社会のすべての人々の可能性 と要求 を充 たす、 とい う意味で「一般的」である。それゆ え、 これは、人間的な諸力の発展における機会の均等を求めるものである。第二に、陶冶 は各 個人の可能性のみでな く他者 の発達可能性への視野を開 くものである。つ まり人間の可能性 の 総体を把握 し得 るようにす ることを課題 としている、 という意味において「 一般的」 であ る。
そ して第二 に、「 陶冶 は、主 として、 一般的な ものを媒体 と して"行われ る、 または行われ な くてはな らない」、 という意味において「一般的」なのである。 この「一般 的な もの」 とい うのは、人々に共通の課題や問題、歴史的に展1開された思考の成果や解決の試み、個人的およ び社会的な存在 として人間が獲得 した諸経験等のことである。 このような
F一
般的な もの」 の 習得およびそれ との対決 は、陶冶 され る者・ 自己陶冶す る者たちを これまでの歴史 に固定化 さ せ ることのように思われるが、実 はそうでな く、それは彼 らに、歴史的に生成 された現在を理 解 し、築 きあげる力を獲得 させ、 さらに将来を彼 らの自己決定 に委ね得 るようにす るものである。 またそのようにしな くてはな らない、 とクラフキーは指摘するのである。①
それ ら二つの意味要素を確認 したうえで、彼 は現在 に適合 した「一般陶冶」概念を次のよう に構想 している。第一の意味要素、 これは、すべての人の態度0認識・ 能力 における「共通的 な もの」の範囲を出来 るだけ拡大す るという原理で表現されるものである。それに従 って、学 校組織的には、統合された総合制学校 (中等段階I)への要求が提起 される。。つまた、内容的 には、共通的な学習の核 となるような、同一かつ同質 の授業 の拡大化への要求 が引 き出され る。① これ らの要求 は、現行の ドイツ教育制度の改革 を求 め るものである。1960年代末か ら
W.ク ラフキー陶冶理論の考察 209
展開 されている ドイツの教育改革 はその要求 に応えるものとはなっていない、 と彼 は指摘して いる。それはともか く、態度・ 認識・ 能力にける共通なもの
(一
般的な もの)の
範囲を拡充す るという陶冶原理 は、職業的な階層性の度合いが高い社会に対 してのみな らず、そうでない社 会の学校教育 にも適用 し得 るのではなかろうか。個性尊重 の観点 は、その原理 と対立するもの であってはな らないのである。学校教育の基本的な陶冶課題を考慮す るな らば。次 にクラフキーは、第二 の意味要素すなわち「 一般的なもの」を媒介 に した陶冶 に触れ、そ れに基づいて第二 の意味要素 に言及するのである。
「一般的な もの」 というのは、 ここでは「普遍的な もの」 とほぼ同じ意味で使用されている。
この内容 に関す る問題 は、従来規準 (カ ノン)問題 として、文化内容の中の拘束的なものを追 究す る問題 として理解 されていたものである。学問・ 芸術・ 社会 におる人間の諸業績を序列化 し、その高位の ものを本質的な核 として一般陶冶を構成 していたのである。それに対 してクラ フキーは、「批半J的、歴史的・ 社会的・ 政治的、そ して同時 に教育学的 な意識 の立場」 か ら、
一般的陶冶を次のように据え直 している。すなわち、「・・ ・…一般 陶冶とは、それにおいて・ 。……
"
歴史的に媒介 された意識が、共通の現在および予測可能な将来の主要な諸問題 によつて獲得 さ れていること、 そのような諸問題 に関 してすべての人々が共同の責任を負 っていることの洞察 が獲得 されていること、そして、それ らの問題 に立ち向かい、それ らの克服への努力を分かち もつ構えが獲得 されていること、を意味 しているのである」① 。そのような主要かつ中心的な 問題 (これを彼 は「 キー
(鍵
・ 手掛か り)問題」 と呼んでいる)に
よつて教育課程 は編成 され な くてはな らない、 というのが彼の主張である。そ うした問題の具体例 として彼 は 18種 類挙げている。それ らはすべて将来 の発展 と密接 に 関わ りある今 日の現実的な問題である。 問題 内容 をキー概念 で示 す とこうである。「平和」、
「環境」、「進歩 の可能性 と危険性」、「先進国 と発展途上国」、「社会的不平等」、「 民主主義化」、
「労働 と失業」、「労働 と余暇」、「 自由の範囲 と共 同決定」、「 世代関係」、「 性 と両性 の関係」、
「伝統的及びそれ と異なる生活形式」、「 個人の幸福 と他者への責任」、「国家のア ンデ ンテイテ イー決定の権利 と制約」、「国内の本国人 と外国人」、「 障害者 と健常者」、「 マスメデイア」そ し て「世界の科学化 と、人間と現実性 との日常的関係」。 これ らは西 ドイツ
(当
時 の)の社会状 況のみな らず諸外国 との関係、地球環境等のグローバルな状況をも考慮 して提起 されていると いえよう。それ らの問題は、確かにそれぞれ現在的な重要性を有す るものではある。だが、それ らとの 対決 によつて獲得 される態度・ 認識・ 能力 は、人間の存在を全体的に充足 させ るのか、 という 点 については、不明確なままである。 クラフキー自身 は、上記の諸問題の選択規準をそういう 点 にではな く、ただ「十分な合意」の成立に置いているので、その指摘 は該当しないとも言え よう。 しか し、後に触れるように、そうした問題の克服を通 して、「 多面性 または全面性の発 達」 という陶冶課題を達成 しようとするならば、問題提示の原則あるいは提示された諸問題の 関連づけについての言及が必要ではなかろうか。
そのような問題・ 課題の提示に際して、「実践学
(プ
ラクセオロギー)」
を構想 したJ.デルボラフは次の認識を前提にしている。「………人間において社会生活に必要不可欠な一切の課 題は、次あような ̀二重の対決
'か
らのっぴきならず生 じて くるのである。すなわち、 その三重の対決とは、人間相互の対決、人間共通の自然との対決、および病気に対すぅ弱さと素質の
不完全 さという自己自身の二重 の欠陥構造 との対決である」⑩ 。つまり、デルボラフは人間の
三種類の実存1的な脅威、同胞・ 自然それに人間自身の自然的弱点 に起因す る脅威か ら人間にお ける実践総体を体系的に組織化 し、
11領
域 の実践課題 とそれぞれの課題克月十反を導 く「規制的理 念」を明示 しているのである。彼のこの構想 は、教育課程研究 に実践 ―理論1的な基礎を与える ものであ り先 に触れたロビンゾーンとの関わ りでは、「 ロビンゾー ン的観念 の拡充 のために も 使用 され得 る一種の状況 スク リー ンを提示 している」。のものと指摘されている。クラフキーの考え方の特徴 は、デルボラフのこの構想 との比較 において捉えることができる であろう。後者の諸問題
(課
題)は
、「規制的理念」を契機 にして形式的かつ体系 的 に設定 さ れているものであるのに対 して、前者 クラフキーの諸問題 は社会の現実的な諸問題か ら選択 さ れたものである:そ
の相違 は、問題の克服 によって人間的な諸力の育成を目指すクラフキーの 立場 と、前 もって確認 されている「規制的理念」の導 きによる問題解決を意図するデルボラフ の立場 との違 いか ら生 じているといえ祉 う。ただ し、後で触れるクラフキーの「 カテゴリー的 陶冶」のカテゴ リーは、 この「規制的理念」 と次元的に、そ して機能1的にかな り類似 した点をもっているといえよう。その伏線的な意味 もあってデルボラフに言及 しておいたのである。
クラフキーは、先に示 された諸問題のうち二三の問題を範例的に学習することを提案 してい るのである。 ここにおいて、範例的教授 一学習理論を支持す る彼の立場が明確 に示 されること になる。その学習において学習者達に求め られているのは、彼 らが「 問題を見通せるようにな ること」 と「多様 な問題意識を獲得すること」であって、ただ一つの見方や一つの特定の解決 案 を決定す ることではない。範例的な授業で重要な ことは、「 それ らの問題 のい くつかの歴史 的な根源を見い出 し、主要な異なる幾つかの解決案 とそれ らの背後 にある利害観点および価値 評価を明 らかに し、情操的な感応性 (問題を見通す感受1性としての
)を
養成 し、そ して最初 の 行為経験知および行為能力を発展 させること」である、 と彼 は指摘す る。そ うした ことがなぜ 重要かといえば、 それは、彼が主張する陶冶すなわち自己決定・ 共同決定・ 連帯性の原理 とし ,て の陶冶の要求 に応えるものだか らである。彼のその陶冶概念 は、一方 において共通性を最大限 に追求す ることを、他方 において多様なそ して対立するもろもろの見解・ 解決の試み・生活 計画の可能性を保障 し擁護することを基本要件 にしているのである。 その陶冶 によって彼が目 指 している主要 なことは、「 対立を合理的
(理
性的)に
解決 し得 る能力、 しか も自己の立場 や 決定の論証的な理由づけを自己自身 と他者 とに求 める能力」 の育成である。⑫のその能力の育成が、「一般的」 ということの第二の意味要素なのである。「一般的陶冶」が育 成 しようとす る基本的な能力 としてクラフキーは次の二つを挙 げる。① 自己批判の能力を含む 批判能力 ②論議能力 ③その時々に関わる他者の立場か ら状況、問題、対処 の仕方 を読み取 ることが出来 るという能力の意味での共感。相互 に条件づけ合 っているとされるこれ らの能力 は、彼 によれば、純粋 に形式的な機能 としての能力ではな く、「一定の内容 を有 す る洞察 とカ テゴ リー」か ら成 る、内容 と関係づけられた能力である。そ うした性格の能力 は、範例的な問 題・ 課題を範例的な方法で学習することによって形成 されるのである。 これ ら二つの根本力を 核 に して、人間能力を知的・ 情動的・ 行為的な次元 において、 また事物的・ 社会的・ 個人的な 面において育成す ること、すなわちその意味で、人間能力を総体的に育成す ることこそ「一般 陶冶」でクラフキーが意図 していることなのである。②)なお、能力についての彼の見解 はハ ー バーマスの「 コミュニケイション行為」、「 意思疎通行為」 と密接な結 びつ きを もっていると思 われるが、それへの言及 はここでは控える。
このような内容規定 によって更新 された「 一般陶冶」概念 は、教育領域に対 して有効な視座
W.ク ラフキー陶冶理論の考察
を提供することになる、 というのがクラフキーの考えである。 しか し、たとえ捉え直されたと はいえ「一般陶冶」 という言葉の使用 は、相当の覚悟を要することである。 というのは、先 に 触れたように、例の「現実主義的な転回」以降少な くとも「教育科学者」 と自認す る者 は決 し て陶冶概念を使用 しない、 というほどの暗黙の了解があったか らである。 さらに「子 どもか ら の教育」を標榜す る改革教育学者 においては、「一般陶冶 とい う幻想」 の廃棄 が主張 されてい たか らである。職業陶冶に対比 される一般陶冶 は、不確定な人間性 に基づ く抽象的で形式的な 要求 を被教育者達 に突 きつ け、結果的に彼 らを絶望的な挫折 に追い込むだけである、 とみなさ れていたのである。そうした歴史的・現在的な事実を承知のうえで、「一般陶冶」 を再提起 す るのは、 クラフキーが先 に挙 げられた人1間的な根本力の育成を教育の回避できない課題 として 捉えたか らであると思われ る。
「新たな一般陶冶」 に関す る考察でプライネスは、陶冶
(教
養)が科学 を教えること(科
学 知識を有すること)と
同義 になっている現在の状態の問題点を指摘 している。 それ によれば、近代科学 はそれ自身の内か ら陶冶要求を出す ものではな く、他方、あまりにも内面化 され、道 徳化 された陶冶 は客観的な科学 とのi関わ りを疎かにしたり否定 した りす る、 という二つの事情 をおさえて、次の ことを問 う必要がある。陶冶が求めている一般的なことは、科学の対象であ るのだろうか。そ して、科学の一般的な こと
(普
遍的なこと)(例
えば、 その方法・ 法則・ 内 容)は、陶冶の必然的な対象であるのだろうか、 またあるとすればどの程度、 どの範囲までで あるのか、 と。それに対 してプライネスは、陶冶が世界や行為 との関係性を確保 しようとして も、近代科学 (と くに自然科学)は
、 その発想 と性格 により、当の関係性を断ち切 るという特 徴 を もっている、 という見解を示 し、「一般陶冶」の追究 は,陶冶 と科学 とのそのよ うな対立問 題 の考察を したうえで初めて深めることが出来 ることを示唆 している。C22Dクラフキーは実質陶冶の批判的考察 において この陶冶 と科学 との関係問題 に論及 している。
それについては次の節で触れることにす る。
3.ク ラ フキ ー に よる「 カテ ゴ リー的陶冶」 の構 想
現在の状況に適応 し得 るものに再構成 されたクラフキーの「一般陶冶」 を遂行す る方法 は、
すでに明示 されているように、範例的な方式である。特 にブァーゲ ンシャイ ンの意味する「発 生的一ソクラテス的一範例的な教授・ 学習」 は、「学習す ることの学習」を促 進 させ、生徒 た ちに、変動す る世界 において、 自立的にあるいは他者の援助を得てたえず新たな学習を遂行す ることを可能 にするものである、 とクラフキァは指摘 している。そ して、そのために必要な条 件 として クラフキーは次 の三点 を挙 げる。①新 たな経験をす ることへの、既有の認識や解釈図 式を問い返す ことへの開放性 の獲得、②新 しい経験0見解および展開を問い返す手掛か りとな
る基本カテゴ リーの獲得、③新 しい情報を収集 し処理す る方法の習得。
クラフキこの陶冶理論 における特徴 は、二番 目の「基本カテゴリー」を重視する「 カテゴリー 的陶冶」の立場を取 っていることである。 この陶冶理論 に関 しては次のような指摘がなされて いる。すなわち、陶冶概念を弁証法的に構想 されたクラフキーのカテゴリー的陶冶の方式で温 存 させようとす る試みは、伝統的な「 陶冶」の非社会的な内面性を克服することに成功 しなかっ た。 また、当のカテゴ リー的陶冶 は、その陶冶の成果を学習者 において確認 し得 るような記述 的一分析的な規準を提示す ることが出来なか った、 と。C23Dそ ぅした批半Jがあるにもかかわ らず クラフキーは、「 カテゴリー的陶冶 の理論
"の
根本思想 を私 は依然 と して妥 当す るもの と見な している」② と発言 し、その立場を堅持 しているのである。その理論 に関す る教授学的研究
(著
書『 要素的な ものの教育学的問題 とカテゴ リー的陶冶の理論』1959年 と論文「カテ ゴ リー 的陶冶」1959)を出 してか ら四半世紀以上経過 した今 もなお、 しか も先 に触れたように例の回 転をその間に遂行 してきたのにその立場を保持 し続 けている彼の姿勢 は、注 目すべ きものと言 え るであろう。 とはいえ、前の節で考察 したように、陶冶・ 一般陶冶の概念を更新す る努力は しているのである。 それによつて「 カテゴリー的陶冶」の把握に根本1的な変更 はみられないが、一部の表現 には多少の変化が認め られる。
範例方式 は、一般的には、必ず しも「 カテゴリー的陶冶」 と直接的に結びつけられてはいな いものである。だが、 クラフキーは両者をいわば一体のものと見な している。それゆえ、 ここ 十年間ほどにおける範例方式の後退を彼 は放置す ることがで きないのであ る。1950年頃か ら 二十年余 にわた つて集中的な議論 と実践化の運動を喚起 した範例方式は、
70年
代の初頭以降まっ た く忘れ去 られて しまったように見える。それに代わって登場 した「学習目標の操作イロ、「 ディ シプ リンによる授業の方向づけ」、「生徒主導の授業」そ して「開かれた授業」等 は、80年
代に 入 って反省期を迎 え、新ためて教授学・ 採業理論の基本問題を考え直す局面 にきているのであ る。 ここに至 つて クラフキーは、先 に示 したように「新 しい一般陶冶」の輪郭を描 きそ して範 例方式の意義を再認識す るのである。 それ は過去 に後戻 りす ることで はない、 と彼 は言 う。「 範例的な教授 と学 習
"は
それ 自体 〈改革的な〉構想 であ らた し、 そ して現在 もそ うで あ る」の というのがその理由である。範例方式の根本思想をクラフキーは次のように捉えている。「学習者の自立性を促進する…・……
陶冶的な学習 は、個々の認識・ 能力・ 技能を出来 るだけ多 く再生産的に受容す ることによって ではな く、学習者が限 られた数の精選 された実例 〔範例〕 に基づいて、一般的な………程度の 差 はあれ広範 に一般化 し得 る認識・ 能力・ 態度、還元すれば本質的なもの・ 構造的なもの。原 理的なもの・ 類型的な もの・ 法則性・ 包括的連関を積極的に獲得することによって達成 される ものである」、C26Dと。 そのような一般的な洞察・ 能力・ 態度 の働 きによ って、個 々の現象や問 題 は一定 の構造 の下 にまとめ られ ることになる。その働 きを「 カテゴリー的」 と呼び、 これを 陶冶の本質的な特性 とす るのが クラフキーの立場である。彼 によれば、「 一つ の実例 ない し少 数 の選び抜かれた実例 に基づいて獲得 されたそれぞれの一般的な認識・ 能力・ 態度の作用の仕 方 は カテゴリー的
"と
呼ぶ ことができる」② のである。この「 カテゴリー的」 というコンセプ ト
(概
念)は
陶冶を構成 している二つの要素を統合す るものである、 と彼 は主張するのである。その一つの要素 は、学習者が、範例方式で得 られた 一般的なことを介 して自然的・ 文化的・ 社会的な現実の連関性を洞察す ることであ り、他の要 素 は、学習者が、それに伴 ってそれまで使 いこなせなか った新 しい構造化 の力・ 取 り組 みの方 法・ 解決法・ 行為視座を獲得す ることである。 これ らの二つの要素を内包 し、 また二つの要素 を同時進行的に遂行 させ る一つの統一的な過程をクラフキーは「 カテゴリー的‐陶冶」 として捉 えているのである。「 カテゴ リー的陶冶」が包摂的に統合 しようとしている二つの要素 は内容的な ものと能力的 なものである。つまり、陶冶論的にいえばいわゆる「実質陶冶」 と「形式陶冶」 とを統合 した 全体的な陶冶概念 としてその「 カテゴリー的陶冶」を位置づけようとす るのが、 クラフキーの 構想なのである。彼 はペスタロッチー以降 における陶冶思想 の歴史の解釈に基づいて、それ ら 二つの陶冶観の問題点を考察 し、そ して両者間の矛盾を弁証法的に克服する陶冶理論の構築を
W.ク ラフキー陶冶理論の考察 213
企図 し、その帰結を「 カテゴ リー的陶冶」理論に求めたのである。従 って、その陶冶理論を理 解 し、その意義を把握す るためには、実質的および形式的な陶冶観 に対す る彼の見解をおさえ
る必要がある。
3.1,実質的 ―形式的な陶冶論 に対するクラフキーの批判
lAl
実質陶冶論 について近代の陶冶理論 は二つの基本的な考え方を発展 させ、現在 もなおその延長線上 にあるといえ よう。陶冶の客観的―内容的な要因または主観的一形式的な要因のどち らかを一面的に教育学 的な思考 と行為の中心 に引き寄せようとする傾向は、周知の如 く今 もみ られる。それは、実質 陶冶観 と形式陶冶観 とがそれぞれ固有の特徴 と問題点を もっているか らである。
実質陶冶論 は、彼によれば、陶冶理論での「客観主義」 と「古典」を尊重する陶冶理論 とに 分 け られる。 これ ら二つの理論 に共通な問題点 は、陶冶内容の過剰性 と、生徒を受容的な客体
として捉えることの二点である。
この「客観主義」 は、陶冶の本質を内容の受容 と見なす実質的な解釈の一般原理をより精確 に規定 している。すなわち、その内容を「文化の客観的な内容」に限定するのである。それゆ え、「 陶冶 というのは、 この視点では、文化財
(道
徳的価値・ 美的内実・ 科学 的認識 な ど)が客観的な本質 として人間の精神の中に受 け入れ られてゆ く過程 なのである」の とクラフキーは まとめている。その見解 によれば、文化財 はいかなる修正 も受 けず有 るがままの形で陶冶内容 とされる。各人の主観 には関係のない客観的な価値を受容す るいわば容器 として生徒 は見なさ れるのである。 こうした陶冶が目指 しているのは、生徒を「文化の高み」に引き上 げ、文化市 民 にすることである。 この 目的のために、生徒の欲求・ 感情および個人的な知識・ 能力は正当 に顧慮 されず、 また生徒の生活上の実際的な必要性 も軽視 されることになる。そ して、教師に は、予め決め られている文化内容を生徒 にただ伝達す るとい う役 割 が課 せ られ るのみで あ る。0
陶冶論での「客観主義」の変形 は「科学主義」である。前世紀以来、文化領域 において科学 が優位 とな り、紆余屈折 はあれ「学校の科学化」が図 られ、その推進 は今でも重要な課題となっ ている。 この「科学主義」 においては、科学的な内1容の習得 こそが陶冶の名に値す るとみなさ れている。つまり、科学的な知識が陶冶内容 と同一視 されるのである。そ して、 クラフキーが ` 指摘す るように、「陶冶内容 (すなわち知識内容
)の
陶冶価値 は、 まさにその内容 の科学的 な 構造 にのみ存在す る」⑩ という「科学主義」特有の見解を産み出 しているのである。陶冶論の「客観主義」 とりわけ「科学主義」 に対す る教育学的な批判をクラフキーは次の三 点 にまとめている。第一 に、「客観主義」 は文化内容 を絶対視 し、その歴史性 を軽視 す ること によって、文化内容 はあたか も疑間の余地がない妥当性 と価値を もっているかのように捉えて いる。要するに、「客観主義」 は文化内容を脱歴史化 し、それに普遍妥当性 の見 せか けを与 え ているのである。
第二 に、陶冶内容 と科学知識 とを同一する「科学主義」 としての「客観主義」 は次の事実を 十分に認めていない。あ らゆる科学内容 は特定 の問題設定 と緊密 に相関 してお り、 したがって その内容が正当に理解 されるのは、それを もた らした問いかけが前 もって理解 されている場合 だけである。つまり、科学内容 は問題状況の進展 と共 に変容す るものであ り、その理解 は各科 学 の問題設定が有す る視点、 さらにこれを支えている価値観 (自然科学 も「 基底 的価値判断」
に基づいている
)と
切 り離す ことはで きないものである。そ してまたそ うした「客観主義」 は、科学的な問題提起が、 自己を陶冶す る人間にとって唯 一の有意味かつ価値 ある問題提起であると思い込んでいる。 しか し、生徒の問題把握の仕方は 研究者のそれ とは異なるものであり、 しか も生徒 は大抵の場合研究者の問題把握法を必要 とし ないものである。 というのは、「 陶冶 されている一般 の人々の生活を も形成 してい るもろ もろ の事物・ 価値・ 状況 は、それ らの有意味性の一部分だけを科学 に負 っている」0)か らであると クラフキーは指摘 している。
第二 に、「客観主義」 は陶冶内容 に関す る教育学的な選択規準をもっていないので ある。 先 に触 れたように、現代の学校教育において科学的知識 はその全盛を極めているが、陶冶内容 の 過多 と科学知偏重 とによる生徒の精神の窒息化 と枯渇化 の現象が生 じている。陶冶内容を限定
し深め られた授業をす るためにクラフキーは範例方式の採用を勧めているのである。
次 に、 もう一つの実質陶冶論である「古典的な もの」 の陶冶理論 に関す るクラフキーの見解 を要点的におさえておこう。
この「古典」の陶冶理論 は教育学的な価値規準を提起 している。その基本的な考えは、文化 内容その ものが全て陶冶内容ではな く、 また内容 の科学的な構造が陶冶的な もので はな く、真 に陶冶的なのは「古典的な もの」だけである、 というものである。 この「古典的な もの」の価 値 は、客観的に考え られた文化の内容性 にではな く、一定 の人間的な性質 に基づいている。な ぜな ら、古典的なものとみなされ得 るのは、何 らかの人間的な性質を内包するものに限 られる か らである。
「古典的な もの」の教育学的な理論か ら見れば、「 陶冶 というのは、若 い人 間が古典 的な も のとの出会 いにおいて彼の国民ない し文化圏のより高い精神生活、意味づけ、価値、模範像を 自分の もの とし、そ して これ らの理想的な内実 において彼 自身の精神的な実存を初めて真に獲 得す ることになる過程 またはその成果」α
)で
ある。陶冶において果たす「古典的な もの」 の こうした役割を考慮す ると、 クラフキーが引用 しているデルボラフの言葉 すなわち「̀古典 的な もの'は範例的な もの一般 に対す る同義語 に他な らないものである」が当てはまるように思 わ れるか もしれない。か りに、そ うだ とすれば、現代の範rll方式 は、「古典」 とい う概念 を中心 にする新人文主義的な実質陶冶の理論を改訂 した ものにす ぎないということになろ う。 だが、
クラフキーはその仮定を否定す るのである。た しかに「 古典的な もの」 は陶冶的な内容の一つ の形態ではあるが、それに基づいて陶冶の本質を規定することは出来ない。なぜな ら、それは 教育学的な「規準」 としては不十分な ものだか らである。 この点 に関 しての「 古典 的な もの」
に対す る批判をクラフキーは、彼の師であるE.ヴェーニガーに依拠 して、次の二つにまとめ ている。
第一 に、「古典的な もの」 を陶冶内容の総体 とみな し、「古典的なもの」で陶冶の本質を基礎 づけ得 るとみなす ことは、一定の文化内容を「古典」 として承認す る合意の存在 という教育学 の外の前提 においてのみ可能なことである。だが、「教育学固有の選択問題 は、 この合意が も はや与え られていない場合 にはじめて、 しか もその場合 により際立 った形で生 ず る もので あ る」
0と
クラフキーは指摘す るのである。それでは教育学 はどのようにして陶冶内容の選択 を するのであろうか。それについては彼は、教育・ 陶冶を包含 している具体的な状況、生活領域 の外で試みることは挫折すると言 うだけに留めている。第二に、「古典なもの」は現代の具体的な陶冶問題を解決するには限界がある。例えば民主
W.ク ラフキ‐陶冶理論の考察
主義のための教育、 自然科学・ 科学技術・ 産業的労働組織 に刻印づけられた現在 の生活状況に 対応す るための教育等 は、「古典」の図式か ら建設的な解決を期待す ることは出来 ないのであ る。
以上 クラフキーによる実質陶冶論 に対する批判的な検討を、一部分祖述的な仕方を加えてま とめてきたが、 ここで彼のその見解 における基本的な視点 について考察 してお こう。
まず第
=に
、総括的に言えば、実質陶冶論批判をクラフキーは陶冶の主観的一形式的な視点 か ら行 っているが、 この視点か らの批判 は実質陶冶そのものを否定す るものではな く、実質‐的 な内容の普遍妥当性およびその絶対化を否定するものである。「主観的一形式 的 な もの」 で あ る人間の主体的な能力 は、先 に見たようにそれぞれの時代の社会的・ 文化的な問題 との関わ り において産み出されるものであって、絶対的なものとして固定 された内容の受容か ら生ずるも のではない。彼のこの認識 は、陶冶を社会的な形成過程 として捉えていて、その意味において 陶冶 の実質的な性格を容認 しているのである。 とはいえ、それではクラフキーは陶冶 と各時代 の社会的な文化 との相即的な関係を認めているか というと、そ うではない。 この点が彼のもう 一つの基本的な視点である。したが って第二 に、エーベル トが指摘 しているように、「 クラフキーは、 社会 的な文化発展 の過程 と個人的陶冶の課題 との間の事実上の不一致を前提 に している」C33pのである。た しか に 個人の陶冶 と社会全体の文化的状態 との関係 は、たいていの場合何 らかの問題点を抱えている ものである。 しか し、矛盾があるとはいえ、陶冶 はそれが実質的に属す る文化 との結合を断ち 切 っては十分 にとらえ られない。実質陶冶の批判 によってクラフキーは陶冶内容を再構成 して 具体的に提示す ることな く、陶冶 における実質的契機を内容のないものに抽象化 し、現代社会 の主要な文化である科学 と陶冶 との適切な結合を も否定 しようとしているのではないのか、 と いう疑間が生 じるのである。そうした疑間 は、彼の実質陶冶批判の帰結の曖昧 さによるもので あって、実際には科学 と陶冶 との関係を真剣に考察 しているのである。
彼 による実質陶冶批判の重点 は科学 と陶冶 との関係 に置かれていると言え る。「 科学主義」
の批判 における、科学内容 と陶冶内容 との同一視 は出来ないという指摘 は、科学 と陶冶 との関 係を否定す るもので はな く、両者の適切な関係を捉え直すようにとの要請を含んでいるのであ る。 この点 について彼 は教授
(授
業)の
「科学 による方向づけ」 というテーマで論 じてい る。その内容を示せば、①科学による方向づけは、民主主義的な基本権利 とそれ と結 び付 けられた 基本義務の自覚のための一つの条件であり、②教授
(授
業)の科学 によ る方 向づ けは、教授(授
業)はもろもろの科学、その成果や方法を直接的に伝達するものである、 とい うことを意 味 してはいない、① の二点 に集約 される。 これ らの考察 はここでは控えるが、そ うした彼 の見 解 には、科学 を陶冶 と緊密 に結合 させる視点が明確 に表明されている。実質的で も形式的で も ない形で、 とい うよりも両方を統合 したカテゴリー的な形で、 と言 うのが適切か もしれない。(Bl
形式陶冶について陶冶の主観的―形式的な要因を重視す る形式陶冶論を、 クラフキーは「機能的な陶冶」の理 論 と「 方法的な陶冶」の理論 とに区分 している。 これ らの理論 に共通な前提 は、陶冶の本質 に ついての妥当な言明は、子 ども・ 生徒 に対 して目を向けることによつてのみ得 られる、 とい う 認識である。
「 機能的陶冶」(この呼称 はE.レーメンジックに依 る
)の
理論 は、従来「 子 どもの諸力 の 215陶冶」 といわれているもので、
19世
紀 フンボル ト以降中等教育 において支配的 な もの とな り、今世紀初頭の改革教育学では初等教育 において重要な役割を果た し、そ して現在なおいわゆる 自由学校運動 において支持 されているものである。その陶冶把握の核心をクラフキーは次のよ うにまとめている。「 陶冶の本質的な こ`とは、 く内容〉の受容 と獲得ではな くて、 身体的、 心 情的および精神的な く諸力〉の形成、発展、成熟化である。」⑮ と。 この見解 によⅢば、陶冶 の成果 は、観察・ 思考・ 美的感受・ 倫理的価値づけ・ 決断・ 意志等の諸力が個人の内に整え ら れることである。そ して これ らの諸力 は、やがて諸々の内容 との関わ りにおいて「機能」を発 揮す るようになる。つまり、ある場面で獲得 された力 は他の内容や状況に「 転移」 しうる、 と
みなされているのである。
陶冶理論の課題である陶冶内容の選択問題 は、 この理論 においては、 したがって、諸力を最 も有効 に産み出 し発展 させ得 る内容ない し活動の優先化 という形態で解決 されている。周知の 如 く、古典語・ 論理学・ 数学、そ して子 どもの力を形成すると見なされた描 く・ 歌 う・ 遊ぶ・
制作す る・ 作業等の重視がそれを示 している。
こうした「機能的陶冶」の理論 に対す る批判 は、ヘルバル トによるものを始め多様な仕方で なされているが、 クラフキーはそれ らを次の二点 にまとめている。
第一 に、「機能的陶冶論」 において、それ らの存在を確信 されている諸 々の力・ 機能 とい う のは、「生物学的一カ動 (力本)説的なモデル観」 によって想定 されてい る仮定 的な能力 に他 な らないものである。 この陶冶論 によれば、人間は表象・ 思考・ 判断・ 価値づけ0意志・ 想像 等の諸力・ 諸機能の統一体である。それ らの力・ 機能 は、生物学的な く力〉 との類推 によって いわば「精神の筋肉」のようなものと見なされている、 とクラフキーは指摘す る。それ らの力 は、一定の限定 された機能を、 まどろんでいる可能性 として、かつ前 もって指定 された形で内 に含んでいる能力 と見なされているのである。それゆえ ここでの陶冶 は、適切な素材 による訓 練でその眠 っている可能性 を実際の力にす ることである。
だが、そのような諸力 は、力動説的に想定 されたまった く仮定的な ものにすぎない。例え│よ 他者 の理解 において我われに与え られているのは、 いろんな考え、感情そ して評価である。 こ の陶冶論の力動説的な見方 は、それ ら与え られている現象を一度諸力に読み替え、その次 にこ れ らの諸力の「結果」 としてそれ らの現象を解釈す るのである。要す るに、 この捉え方 によれ ば素質的 にもっている諸力によって一定の内容が獲得 されるのであって、その逆 は有 り得ない ことなのである。
それに対 して、 クラフキーは世界 との具体的な出会いにおいて初めて能力の分化が生ず ると いう見解を提起す る。 この見解 は、一定の内容 の獲得がそれに対応す る‐定の能力を生み出す と主張するものではない。その際た しかに、その内容 と関わる「一般力」のようなものを仮定 せざるを得ないであろう。それは、人間的な諸力の調和を追究 したペスタロッチーが、形成 さ れた個々の力 とその成果を行使すために人間の根本的な力 としての「一般力」を想定 したこと とも関連 している。前者 と後者の「一般力」 は質的な差異 はあれ人間 という種 に固有な潜在力 と見なす ことがで きる。 したが って、 この潜在力が内容 との関わ りで具体的な力になると言 う ことは認め られるが、 しか し内容が能力を生み出す という表現 は適切ではない。なぜなら、そ の場合、陶冶内容 は諸力を解発す るための単なる「手段」 となるか らである。
陶冶内容 と諸力 との関係をクラフキーは次のように捉えている。「一定 の仕方 で個人 の精神 の内に受 け容れ られたな らば、 これ らの陶冶内容 はそのもの自体が、転用 された意味において
W.ク ラフキー陶冶理論の考察 217
『 諸力』 と呼ぶ ことが出来 るものである」。①,この転用 された意味での「 諸力」 はカテ ゴ リー 形成 と結 びつけて考察する必要があろう。 いずれにせよ、そ うした把握 によ って彼 は「 諸力」
の実体化 に陥 らないように配慮 しているのである。
第二 に、「 機能的陶冶論」 において前提 されている一つのまとまった力で あ る「 関連づ ける 思考」や「想像力」 は、実際には一定の内容 との関わ りで細分化を強い られるものである。数 学的な関連づけと言語的な関連づけの思考、そ して造形美術的な想像 と厳密な自然科学的な想 像 の力 はそれぞれ異質なものとして区別す る必要があるも抽象的な「 関連づけ」 とか「 想像」
という力の存在を主張するのは、先 に批判 されたように能力を実体化す るものである。要す る に、「『 関連づける思考』、『 想像力』
"…
…・等の中身 〔内容でない(筆
者)〕
その もの は、 明 ら かに………内容の構造 に依拠 している」① と考えぎるを得ないのである。それゆえ、一定 の内 容 との関わ りにおいてのみ「精神」 という概念 は、そ して同様 に、子 どもと内容 との出会いを 顧慮 してのみ「陶冶」 という概念 はその具体的な意味を もつ ことになる、 とクラフキーは指摘している。
「機能的陶冶論」 に対す るクラフキーの批判的見解を通 して確認 され ることは、人間の諸力 はそれ らの表現形態すなわち活動
(性
)からのみ知 ることができるという点であ る。 そ して、この場合 にも、諸力 と活動 とは同一視 されてはな らない。歴史的0社会 一文化的な条件の変化 に伴い人間の活動 も変容をせまられることになる。その新たに求め られる活動の背後 にすでに それに対応す る力が存在すると見なすな らば、人間および社会の進歩 とか発達 とかということ は最初か ら何 も問題 にする必要 はないのである。 したが って、「機能的陶冶」 の理論 は、 それ が諸力 と活動性 との同一視を前提 にする限 り、矛盾を有す るものと言わざるを得ない。
形式陶冶論の もう一つの類型 は「方法的陶冶」の理論である。 これは、ケルシェンシュタイ ナーとガウデイ ッヒの労作学校教育学およびデューイの問題解決学習論 において積極的に追究 された ものである。
「方法的陶冶論」 は子 どもが陶冶を獲得する「 過程」を重視 している。際限のない陶冶内容 の増大化傾向は、内容の視点か ら陶冶の本質を規定することを不可能 にしているか らであ る。
とはいえ この理論 は「諸力」を前提 にす るのではな く、内容の取得を助 ける「方法」 に注目す るのである。それゆえ ここでは、陶冶 とい うのは「 もろもろの考え方、感情のカテゴリー、価 値基準、要す るに『方法』の獲得 と熟達」 として捉え られている。例えば、道具の使用、制作 技術の熟達、辞書 の利用、地図の記号表記の理解、数学の解決法等の仕方 を習得すること、 そ して最終的には、道徳的行為の「 方法的な」基準 としてのカント的な定言命法を内面的に確立 す ることが、 この「 方法的陶冶」によって目指 されているのである。
この理論の適用が有効な領域 は、上で示 されているように、手工的技術 に関わる労作教育の 分野 と、方法的な規準 によって定義 され得 る科学 に関わる認識陶冶の分野である。後者をクラ フキーは「方法的科学主義」 と呼び、実質陶冶の「 内容的科学主義」 と区別 している。陶冶の
「方法的な」科学化 は、 いわゆる「教育の現代化」の核心部分を成す ものであ り、学 び方 の学 習を推進 している今 日もなお主要な要因 といえよう。
教育実践 の側か ら「 方法的陶冶」 に対 して多大な関心が寄せ られているのは、それが教育 に おける「 自己活動の原理」 と結 びつけて捉え られているか らである。その陶冶理論の教育学的 な魅力 は、「 それが、生徒の自己活動の原理を最 も力づよ く実現す ることを可能 にす るものの ように思われている」