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解 題 ・ 翻 刻 ・ 影 印 国 文 学 研 究 資 料 館 蔵 『 勝 語 集 』 紙 背 文 書

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要旨国文学研究資料館蔵﹃勝語集﹂紙背文書を︑紹介・翻刻し︑影印を付す︒同文書は鎌倉後期︑主として鎌倉の僧

侶・童子等から京都の真言密教関係の寺院に送られたかと見られる書状を中心とした︑四十三葉に及ぶ文書であり︑この

時期の史料として貴重なものである︒ 解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵﹃勝語集﹄紙背文書

勝語集紙背文書研究会

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解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集」紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

該書の書誌を簡単に記しておく︒縦二六・○×横一九・五糎︑袋綴︑二冊︒上冊一二︑下冊二二︑計四三丁︒楮紙︒

青色紙表紙︵後補︶︑左上に打付で﹁勝語集甲︵乙︶﹂と墨書︒また二冊とも表紙右下に﹁金蓮院﹂と墨書︒内題︑上

冊は﹁保延元年十二月十一日於安養谷勝定房随聞記﹂︑下冊は﹁乙勝語集印記﹂︵﹁印記﹂は﹁覚印が筆記した﹂意

であろう︒本書は恵什撰・覚印記とされる︶︒本文には全体にわたって合点や片仮名・送り仮名を含む訓点︑及び校

合による補記と見られる朱書が加えられている︒但し︑朱書は上冊にはより多く︑下冊には比較的少ない︒全体に虫

損跡があり︑裏から紙を補い︑また切り継ぐ等の補修が施されている︵そのため︑紙背文書の読解は難しくなってい

る箇所が少なくない︶︒丁付を︑各紙の左端上方またはやや下方に︑上冊は﹁甲匡﹁甲二﹂⁝︑下冊は﹁乙こ﹁乙 ここに紹介するヨ勝語集﹂紙背文書﹂は︑昭和六三年度に当館の所蔵に帰した仏書﹁勝語集﹂︵当館請求記号︻ャ4.49︼︶の紙背に存する四十三葉の文書である︒勝語集紙背文書研究会は︑これを解読し︑翻刻・紹介する目的で︑平成四年一月から同五年九月まで︑当館の有志によって断続的に続けられたものであり︑翻刻作業を一度以上分担したメンバーは︑樹下文隆・小峯和明・辻本裕成・山崎誠︵以上文献資料部︶︑佐々木孝浩・宮崎修多︵以上研究情報部︶︑加藤洋介・佐伯真一︵以上整理閲覧部︶︑毛塚万里︵史料館︶である︒但し︑加藤・宮崎の両名は平成四年三月付けで転出した︒その他︑臨時の参加者があったが︑省略させて頂く︒最終的に翻刻原稿の整理及び解題原稿の作成に当たったのは樹下・辻本・佐々木・佐伯・毛塚である︒また︑翻刻及び本文書の性格について︑東大史料編墓所助手の上杉和彦氏に御教示を頂いた部分がある︒後述のように︑文書の性格については︑同氏に教えられたところが大きい︒記して謝す︒ ︹解題︺

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二﹂⁝という具合に記すが︑紙の両端を切断されているため︑見えなくなっているものも多い︒また︑丁付の番号は

実際の紙数と必ずしも一致しない︵一覧表参照︶︒従って︑丁付けが付されたのが︑最終的な補修が施されるより以

前であったことは明らかだが︑書写と同時に付されたとは断定できない︒虫損跡は上冊末尾と下冊冒頭とでよく一致

しており︑或は︑かつて一冊本だった時期があるかもしれない︒また︑下冊一二・一三紙は﹁乙廿﹂﹁乙廿ごと︑

それ以前の丁に続く丁付があるが︑虫損跡は第二○紙との間に違いがあり︑或は︑より古い段階では第二○紙と第二

一紙との間に現存しない数枚が存したかとも考えられる︒

奥書は下巻第二○紙に﹁永仁元年十月七日夜半燈下写之/同日一交畢金剛資亮禅﹂とあり︑朱筆で﹁同次日雨中

朱点了﹂と書き添える︵後掲図版・永仁奥書︒前記の朱書はこの時に加えられたものとみてよかろう︶︒第二○紙は

その後が余白であり︵この点は後述︶︑その後︑第二一紙に

雑秘云︑︲貰抄已上以印闇梨勝語集書之云々

心目抄心覚抄︵﹁同前﹂を見せ消ち︶

自見口伝集云信師者維摩詰化身云々取意維々々者浄名

と記した後に︑異筆で﹁徳治二年卯月廿二日以嘉祥寺本一交了﹂と識語があるが︑さらにその後に﹁引覆事﹂と題し

て一丁半にわたって本文があり︑最後は﹁吾閉眼之後必往生都率天可待慈尊﹂と終わっている︵後掲図版・徳治識語︒

丁付﹁乙廿一終﹂︒実際には下巻第二二紙︶︒また︑下巻裏表紙見返しには︑補修の際の識語が﹁安永九庚子歳十月十

四日加修復了/末資照焉﹂とある︒安永九年︵一七八○︶に補修されて現在の形態となったわけであり︑表紙はその

時に付けられたものと見られる︒ 雑秘云︑︲し覚抄已上以印闇型又云勝々々搬岬大井徳印事

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解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集』紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

建永二年丁卯五月四日︒於高野山中院紙窓書写之了︒此抄尤至要事也︒尤可秘之円遍

との記述があるが︑資料館本にはこの部分が欠けている︒しかしながら︑資料館本をよく検討すると︑この記述も本

来は存在した可能性が強い︒理由は以下の通りである︒問題の奥書のある下巻第二○紙は︑一部を切り取ってつない

だ跡がある︒切り取られたのは紙の中央︵袋綴の折目︶よりもやや左側の︑一紙の三分の一程度であり︑﹁永仁元年﹂

云々の奥書を記した部分は︑本来紙の左端にあったのだが︑右側が切り取られたために中央部に寄せて切り貼りされ

たことが︑虫損跡の検討によって推察されるのである︒つまり︑先に記した﹁第二○紙の奥書の後の余白﹂とは︑奥

書部分を右に寄せた跡を埋めるために新たな紙を継いだ部分なのである︒従って︑右の﹁本批云﹂云々の部分は︑或

はその切り取られた部分に記してあったのではないかと想像されるわけである︒但し︑この部分を切り取った理由は︑

虫損等の被害が甚だしかつたためかとも想像されるが︑さだかではない︒

右は一見大きな相違と見えるものが実は相違ではないと考えられるわけだが︑それを別とすれば︑末尾部分におけ

る正蔵との異同は︑まとまったものとしては補修識語及びその後の追記が挙げられる程度である︒即ち︑正蔵には補

修識語が﹁永禄十年七月二十八日加修復了仏子亮秀﹂とあり︑その後に﹁西院流聖教覚﹂として十五点ほどの書名

を挙げるが︑これらの部分は資料館本にはない︒もちろん︑逆に資料館本の安永の補修識語は正蔵にない︒大きな異

同はその程度だが︑但し︑細かい異同を拾えば︑○資料館本﹁永仁元年十月七日﹂l正蔵﹁承仁元年⁝﹂︑○資﹁必 ところで︑この奥書及び識語︵補修識語を除く︶は︑大正新修大蔵経第七八巻所収の智山専門学校蔵写本翻刻︵以下︑正蔵︶と概ね一致する︒但し︑正蔵には右引奥書の直前に﹁本批云﹂として

写本記云︒長寛元年四月上旬︒以釈迦院御草本奉錘同比蒙許了︒命云︒先年於勝定房辺受習間︒聞事等悉是後十

巻抄外事等注之也云々

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③﹁勝語集﹂本文において︑正蔵には誤脱があり︑また︑資料館本に存する異本注記を︑正蔵が本文中に取り込んで 往生都率天﹂l正﹁如往生都率天﹂等といった違いがあり︑これらは資料館本が正しいと見られる︒

さて︑以上を踏まえて︑正蔵の原本Ⅱ智山専門学校本と資料館本との関係を考えねばならない・奥書に加えて﹁徳

治二年﹂の識語をも共有するなど︑両者が密接な関係にあることは明らかである︒永仁元年︵一二九三︶奥書・徳治

二年︵一三○七︶識語の評価︑即ち資料館本の紙背文書の時代認定も︑それによって左右されかねないわけだが︑大

変残念なことに︑智山専門学校の蔵書は﹁国書総目録﹄によれば﹁戦災その他で焼失または所在不明のもの﹂のうち

に数えられており︑原本を参照することができない︵なお︑﹃国書総目録﹂によれば︑他に観智院金剛蔵本︵室町時

代写一冊︶がある由だが︑今回は参照できなかった︶︒従って︑例えば末尾部分の異同として右に挙げたような例も︑

正蔵の誤植である可能性が残り︑それだけでは資料館本との前後関係の決定的な判断は難しい︒

しかし︑資料館本が智山専門学校本の写しであるとは考えにくい︒それは︑次のような理由による︒

①資料館本の徳治二年の識語︑またそれ以後の追記は︑それ以前の部分に対して明らかに別筆であり︑これらの部分

を既に含んでいた先行の本を写したものには見えないこと︒

②内題が︑資料館本は右記のように上﹁保延元年十二月十一日於安養谷勝定房随聞記﹂︑下﹁乙勝語集﹂とあり︑﹁勝

語集﹂との書名及び巻区分が必ずしも整っていないのに対して︑正蔵では﹁勝語集巻上﹂﹁勝語集巻下﹂とあり︑書

名と上下巻の体裁を整えていること︒これは資料館本の方が聞書としての成立に近い姿をとどめていると見るべきで

はないか︵﹁巻上﹂﹁巻下﹂との呼称は︑二冊本としての形態が整って以後のものかと思われる︒なお︑正蔵は上下を

﹁甲乙﹂と称していないが︑正蔵の追記﹁西院流聖教覚﹂の中には﹁勝語集甲乙﹂との記載もあり︑﹁甲乙﹂との呼称

が残されている︒︶︒

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解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集』紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

梁武帝語宝志和尚云朕欲図三身一体観音供本︵傍書︶霜索十一面千手也同武帝十六羅漢其人也

とあるが︵改行原本のまま︶︑書き込みが︑﹁梁武帝﹂の右肩には

イ私云此事後見宝志和尚伝文頗異也代宗皇帝也

とあり︑また﹁絹索﹂の直前︵即ち右二行の行間︶には

ヒキサク髪和尚賜三人仏師対座切面皮引去三人各図一体

とある︒次に八ウに入り︑本行に

私云此事後見宝志和尚伝頗異也代宗王帝也︑以袈裟和尚登昇初利天引羅漢時持帰一帖依化羅漢状帰進帝王云々

︵最初の﹁私﹂字の右肩に﹁イ﹂とあったように見えるが︑虫損のため断定できない︶

とある︵以上︑すべて墨書だが︑本行と書き込みとでは墨色が異なる︶︒﹁イ私云此事後見宝志和尚⁝﹂以下の書き込

みは︑この異本注記を記しかけたが︑裏面本行にほぼ同文の注記があることに気づき︑途中でやめたものであろうか︒ 例を挙げる︒資料館本下巻第刷︵八オと略︒以下同︶の本行に いるケースが認められること︒この点は︑前記のように正蔵の原本である智山専門学校本が現存しないため︑正蔵の誤植などの可能性を考えれば︑どこまで原本の問題としてよいか︑問題も残るが︑以下のような様態から見て︑仮に正蔵の誤植に帰し得る点が幾つかあったとしても︑やはりその原本自体が資料館本よりも後のものであることは動かないと考えられる︒

③については具体例が必要であろう︒まず正蔵の誤脱は︑先にも末尾部分の例を二例挙げたが︑次に大きな脱文の

を挙げる︒資料館本下巻第八紙︵乙八︶・正蔵二一六bに宝志和尚説話の記事がある︒資料館本では第八紙・表

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間に﹁聞﹂と朱書補入︒

○正蔵一二一b﹁金剛エ また︑﹁差和尚⁝各図一体﹂は当初誤って脱したものを補入したのであろう︒以上に該当する正蔵の文は︑まず﹁梁武帝語宝志和尚云︒朕欲図三身一体観音︒簑和尚賜三人︒仏師対坐切面皮引去︒三人各図一体﹂とあって﹁霜索十一面千手也同武帝十六羅漢其人也﹂を欠き︑その後改行して﹁私云︒此事後見⁝﹂と続く︒﹁絹索﹂云々を欠くのは右のように錯綜した祖本の形を書写する際に誤って脱したものであろう︒また︑﹁私云⁝﹂が本行にのみ記され︑書き込みの形をとっていないのは︑資料館本の形を整理したものと考えられる︵正蔵は全般に細かい書き込み注記をよく拾っており︑これだけ長い注記を漏らしたとは考えにくい︶︒逆に正蔵のように整理された本文が先にあったとすれば︑資料館本のような形が発生する理由は想定できないわけである︒

資料館本に見える異本注記等の行間書き込みは正蔵にも多く残されているが︑正しいと見られる字が本行に取り込

まれ︑或は単に書き込みが失われている例も少なくない︒もっとも︑何度も言うように︑そうした例は正蔵校訂者の

処置によるものである可能性もないとは言えないわけだが︑正蔵がかなりの数の注記を拾っていることから考えて︑

注記の処理をしたのは︑多くの場合︑智山本の書写者だったのではないかと想像される︒例えば︑資料館本の朱書が

正蔵で本行に取り込まれている例を若干掲げてみよう︒

○正蔵二二a﹁石山寺焼失時見本尊像﹂︑資料館本・上六オ﹁像﹂字朱書補入︒

○同右﹁已上出文殊師利耶曼徳迦金剛陀羅尼経也﹂︑資・上六ウ﹁曼﹂字は﹁ゑ﹂字の右に﹁本マ︑﹂と墨

書傍記︑左に﹁曼﹂と朱書傍記︒

○同右﹁尚如求聞持乳歎﹂︑資・上六ウ﹁尚女求持乳歎﹂として﹁女﹂に朱で﹁如﹂と傍記︑﹁求﹂﹁持﹂の

一b﹁金剛手安大勢至菩薩也﹂︑資・上セオ﹁安﹂朱書補入︒

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解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集』紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

○正蔵二一三a﹁経云︒或執三戟︒頭円髻﹂︑資・上一五オ﹁頭﹂字は︑﹁頚﹂に﹁頭﹂と朱書傍記︒

一方︑資料館本の朱書が正蔵に生かされていない例としては︑

○正蔵二一二C﹁或人云︒広隆寺殊定日縁日云事﹂︑資・上一三オ﹁定﹂字は︑﹁定﹂に﹁寅﹂と朱書傍記︒

○同右﹁天女形⁝無量化仏﹂︑資・同右﹁仏﹂字に﹁寿﹂と朱書傍記︒

といった例があり︑いずれも正蔵には注記がない︒資料館本が本来の形であるとすれば︑智山本書写者が資料館本の

朱書注記を適宜取捨選択して本文を作ったと考えて︑問題が無い︒一方︑逆に智山本がもとであったと考えると︑資

料館本の朱書がどのように記されたのか︑説明がつかない︒もし︑﹁智山本にも本来朱書があり︑資料館本の書写者

は墨と朱とを分けて極めて厳密な書写を行なったのだ﹂と考えるとすれば︑正蔵がその朱書注記を右の諸例について

は一つも拾っていないのが不自然である︒

このように見てくると︑智山本は資料館本の徳治年間以降の転写本であったと推測される︒ただ︑永禄十年︵一五

六七︶に補修されている点から推して︑その比較的早い時期の写しだったのではあるまいか︒ともあれ︑資料館本が

そのような位置にあるとすれば︑前記のように﹁勝語集﹂の現存伝本がごく少数しか知られない中で︑唯一の鎌倉写

本ということになる︒本書は︑紙背文書を別としても︑﹁勝語集﹂そのものとしても貴重な書であると言えよう︒

以上︑正蔵Ⅱ智山本との比較・考証にいささか手間取ったが︑資料館本の奥書・識語は該本自体の書写年次を示す

ものと考えられるわけである︒従って︑その紙背文書は︑奥書の示す永仁元年︵一二九三︶︑或は識語の示す徳治二

年︵一三○七︶以前のものと考えてよいだろう︒問題は︑上冊冒頭から永仁元年の奥書が記される下冊第二○紙まで︑

即ち本書の大部分︵全四三葉中の四一葉︶を︑永仁元年以前の文書と見てよいかどうかだが︑右に見てきたような本

書の様態から考えて︑その可能性は強いものと思われる︒即ち︑徳治二年の識語の記される下冊第二一紙︑及び第二

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二紙は永仁書写の後に加えられた可能性があるということである︒後掲の別表のように︑下冊二一・二二紙は︑紙背

文書の筆跡も︑それ以前のものとは別種である︒但し︑この点の判断は難しく︑下冊二○紙までに永仁以後︑徳治以

前のものが入っていないと断定するには︑なお至らない︒

さて︑紙背文書は四三丁全てに存する︒通し番号を付して一覧を示せば︑別掲の表のようになる︒年を記すものは

咽の正応二年︵一二八九︶のみであり︑またこの紙のみ申状の写しと見られるが︑その他はすべて書状の正文であり︑

7・妬.u・鳴等には切封墨引も見出せる︒書状の内容から年次を判定するのは難しいが︑例えば︑別の﹁極楽寺長

老上洛之間﹂の﹁極楽寺長老﹂が忍性を指すとすれば︑遅くとも忍性の没年である嘉元元年︵一三○三︶よりは前で

ある︒また忍性の上洛としては︑永仁元年︵一二九三︶四月の︑勅を奉じてのそれが著名であり︑この上洛を指して

いる可能性が少なくない︒また︑弱の﹁鎌倉中にも天変ともおほく候とて御祈きひしぐ候也︒二階堂の池の魚ともい

きとしいきたるものは皆死候了﹂とは︑同じく永仁元年四月十三日の鎌倉大地震の災害を指しているのではあるまい

か︒これだけでは根拠として十分ではないが︑先に見てきた本書の永仁元年十月書写の直前に交わされた書状が多く

含まれている可能性は認められるように思われる︒

また︑申状の写しを含めて筆跡を分類すると︑別表のようにaからOまで︑十四通りとなる︒このうち︑最も多く

を占めるのが﹁闇梨﹂または﹁闇﹂と読み得る署名を残している人物︵筆者タイプa︶の十三葉である︒次いでC

﹁慶深﹂の五葉︑b﹁幸夜叉丸﹂.d﹁夜叉王丸﹂の各三葉︑g﹁とくす丸﹂︵徳寿丸?︶の一葉と続く︒これらはい

ずれも僧や童子の名と見てよいだろう︒即ち大半を僧侶・童子の書状が占めるわけであり︑寺院の間で交わされたも

のが大部分であることが推測される︒注意すべきは︑慶深筆と見られる脇の文中に﹁幸夜叉殿﹂︑幸夜叉丸の署名の

あるⅣの文中に﹁あさりの御房﹂︑裏面に﹁闇梨﹂の署名が認められる別の文中に﹁慶親﹂の名が見出されることで

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解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵i勝語集」紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

ある︒﹁慶深﹂と﹁慶親﹂︑﹁あさりの御房﹂と﹁闇︵梨︶﹂の署名者とが直ちに同定できるわけではないが︑この三名

については︑相互に知合いであった可能性が低くない︒即ち︑本文害は︑あちこちから全くばらばらに寄せられたも

のではなく︑ある程度生活圏を共通する人々から送られたものを多く含むということになるだろう︒

その送り手の生活圏として想定されるのは︑まず鎌倉である︒即ち︑本文書は鎌倉から都周辺へ送られたものが多

いと見られる︒例えば別﹁極楽寺長老上洛﹂や︑弱の﹁二階堂﹂の記事については既に述べた通りだが︑他に肥

﹁︵扇を︶鎌倉にては尋かね候て⁝﹂︑Ⅳ﹁かまくらにはをひた︑しく⁝﹂︑㈹﹁御房につきまし*てこそ鎌倉へも﹂の

ように﹁鎌倉﹂の名が見出され︑その多くは書状の送り手が鎌倉にいることを示すものと読み取れる︒2の﹁すきた

に﹂も鎌倉の地名ではないか︒平凡社﹁日本歴史地名大系﹂や角川﹁日本地名大辞典﹂等によれば︑現鎌倉市二階堂

の紅葉ヶ谷の辺を﹁杉谷﹂と称することは︑古くは元徳二年︵一三三○︶三月四日金沢貞顕書状に﹁椙谷を当時紅葉

谷申候也﹂とあること等によって知られるようだが︑鈴木千歳氏﹁鎌倉史蹟疑考﹂︵鈴木業三編﹁鎌倉古絵図・紀行l

鎌倉紀行篇﹂東京美術一九七六年所収︶によれば︑永福寺は本来︑二階堂の奥﹁杉ヶ谷﹂に建てられたといわれる︒

本文書はそうした考証にも一つの材料を提供するものと思われる︒また︑全体に﹁上洛﹂﹁下向﹂をめぐる話題が非

常に多いことも︑どうやら鎌倉と京都近辺の寺院との間で交わされた書状であるらしいことを想像させる︒但し︑

﹁鎌倉へも言付申へく候様⁝﹂は︑鎌倉からの発信ではないかもしれないが︑これも鎌倉との連絡に関わることは疑

いない︒また︑寺院の所領に関連してであろう︑﹁播州﹂﹁播磨﹂も多く登場する︵特に﹁闇梨﹂書状︶︒それらに関

連して記される﹁高田功田﹂︵別・詔︶︑﹁中村﹂︵1・認・師︶等は播磨国内の地名である可能性もある︒しかし︑こ

れらの点については︑いかなる寺院の所領関係を示すのか︑なお未詳とせざるを得ない︒

次に書状の受け手だが︑まずこれが真言密教関係者であることは﹁勝語集﹂の性格自体から容易に推定できる︒ま

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た︑地理的には京都周辺と見てよいだろう︒前記のように﹁上洛﹂﹁下向﹂の話題が多いことや︑また﹁鎌倉にては

尋かね﹂ている扇を送ったりすることができるのも京都の人間であろうと考えられること等々により︑そこまでは難

しい推測ではない︒しかし︑書状の宛所は︑訓﹁帥律師御房﹂︵岨に﹁帥律下向之時﹂とある人物か?︶︑銘﹁**法

印御房﹂︑岨﹁**僧都御房﹂等とあるものの︑銘・岨の解読困難もあって︑固有名詞を特定できない︒従って確定

的なことは言えないのだが︑上杉和彦氏から︑次のような示唆を頂いた︵談話による︒文責佐伯︶︒

①表紙に墨書された﹁金蓮院﹂は︑醍醐寺の塔頭ではないか︒

②師の﹁法務大僧正﹂は東寺の長者ではないか︒

この御示唆に基づいて若干補足すれば︑

①金蓮院は下醍醐三宝院流の子院であり︑佐和隆研氏﹁醍醐寺﹂︵東洋文化社一九七六年︶によれば︑文明二年二

四七○︶の火災の後︑秀吉が復興を命じた六坊の一つとして再興されたが︑現存しないという︒﹁醍醐寺新要録﹂巻

十二・下諸院部には﹁普賢院篇・安養院篇﹂と並んで﹁金蓮院篇﹂があるが︑本文はなく︑同書編蟇の時点で草創な

どに関する詳しい資料は失われていたものと見られる︒﹃勝語集﹄が安永九年二七八○︶に補修されたのは︑この

金蓮院内においてであった可能性は高いものと言えよう︒

②訂書状本文は年賀の挨拶に始まり︑﹁其上︑上にも法務大僧正二令任給候之由︑御方は又大僧都之法印二令任給候

之由承候﹂云々とあり︑書状の送り手・受け手が法務大僧正を﹁上﹂と呼ぶ関係にあった点で特に注目される︒なお︑

群書類従本﹁東寺長者補任﹄により︑永仁元年︵一二九三︶書写の前後の時期に法務大僧正となった僧を探すと︑守

助・静厳・実宝・勝恵等がいる︒

上杉氏からは︑さらに︑︿蛇の﹁太政法印御房﹂は︑醍醐寺の親玄に該当するのではないか﹀との示唆を頂き︑併

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解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集』紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

せて︑参考論文・岩橋小彌太﹁親玄僧正と其の日記﹂︵国史学二号︑一九三○年二月︶を御紹介頂いた︒これは送り

手と受け手の双方に関わり得る事柄であろう︒即ち︑岩橋論文その他によれば︑親玄は醍醐三宝院流︑親快の弟子で︑

親快没後︑地蔵院を継ぐ︒久我道忠息︑仮名太政大臣︒寛元三年︵一二四五︶生︑鎌倉幕府に親しく︑しばしば京・

鎌倉を往還し︑永仁六年︵一二九八︶には鎌倉に居ながら醍醐寺座主に補されている︒翌年辞座主︑その後上洛し︑

嘉元元年︵一三○三︶座主還補︑同三年関東に下向して辞座主︑徳治元年︵一三○六︶東寺一の長者となり︑元亨二

年︵三三二︶入滅︒﹁愚問決﹂﹁灌頂記﹂の二書が知られる他︑﹃満済准后日記﹂に混入されて伝わった一冊の日記

が現存する︒この日記は正応五年︵一二九二︶から永仁二年︵一二九四︶の三年間︑親玄が鎌倉に滞在した当時の日

記である︒従って︑本文書の書かれた時期として最も有力な頃には鎌倉に住したわけであるから︑その受け手を直接

に親玄自身の周辺とすることはもちろんできないし︑また︑送り手についても直ちに親玄周辺とは言えないが︑右に

見てきた本文書の性格から考えて︑親玄が本文書の送り手や受け手とそう遠くはない位置にいたことが想像される︒

その意味で︑親玄らしき人物の名が右のように見えることは重要である︒それを別としても︑同日記は本文書と時期

が重なると見られるものであり︑例えば前記の永仁元年の鎌倉大地震の件等︑共通の話題も見出されるので︑今後︑

本文書の考察にあたっては︑同日記との対照が不可欠の作業となろう︒

以上︑主として上杉氏の示唆によって考えてきたところによれば︑書状の受け手は東寺・醍醐寺を結ぶ線上にある︑

鎌倉と縁の深い真言僧と想定できようか︒送り手もまた︑そのような推定を基礎に考究されるべきであろう︒

なお︑右に触れてきたものの他に︑書状の文中には﹁円乗﹂︵2.8.9︶︑﹁禅円﹂︵1.2.岨・訓︶︑﹁良智﹂

︵6︶︑﹁菊房法師﹂︵8︶︑﹁幸一法師﹂︵2.3︶︑﹁十念法師﹂︵1︶︑﹁随音法師﹂︵郡︶︑﹁千得法師﹂︵2︶︑﹁りやうい

ちの御はう﹂︵釣︶︑﹁良訳上人﹂︵認︶︑﹁讃岐僧都﹂︵3.川・岨の﹁讃岐殿﹂も同人の可能性有り︶︑﹁宰相律師﹂︵8︶︑

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書状の内容としては︑﹁替物﹂﹁替銭﹂﹁相節﹂﹁用途﹂﹁加地米﹂﹁かち﹂﹁寺用﹂﹁得分﹂﹁年貢﹂等々︑寺院経済に

関わると思われる語彙が頻出し︑寺領の収益の取り立て・配分・輸送等に関わる話題が多い︒3.8.9.皿・妬・

銘・銘等では具体的金額にも触れており︑肥には刀や針の製作代金と見られる話題もある︒また︑既に触れたように

﹁上洛﹂﹁下向﹂の話題も多く︑中には8のように﹁下向用途﹂について詳しく触れるものもあり︑また岨.弱のよう

に扇や筆の贈答に関わる話題など︑僧侶の生活や京・鎌倉間の交流の在り方を生々しく伺わせると言えよう︒さらに︑

寺院関係の話題とは別に︑世相一般に関わる事柄としても︑先に触れてきた極楽寺長老の上洛や鎌倉天変等の他︑2

﹁大しやうゑの御れう﹂﹁長崎御母⁝他界﹂︑〃﹁熊野山も大訴不座候て﹂︑別﹁去年はちをはらひたる大損亡にて⁝﹂︑

釣﹁北原︵存疑︒或は北条?︶悪党等落失候物ともか又せいをそろへて上洛の時をまちて候よし﹂等々︑興味深い記

事が少なくない︒そして︑最後になったが︑書状の中に唯一混入している週の﹁三箇御庄住人字藤平次﹂申状写も︑

﹁放言﹂の罪に関わる点等︑現今の歴史学にとって注目の対象となり得る素材であろう︒これらを含め︑史料の比較

的少ない鎌倉後期にあって︑本文書が何らかの新しい知見をもたらすことが期待されるのである︒ ﹁僧正御房﹂︵岨・焔・〃・的・羽・弘・胡︶︑﹁僧都﹂︵Ⅱ︶︑﹁帥法印﹂︵1︶︑﹁大僧都法印﹂︵師︶︑﹁大納言律師﹂︵6︶︑﹁大弍律師御房﹂︵8︶︑﹁大輔律師﹂︵1︒﹁大輔﹂肥︑大輔公9あり︶︑﹁中納言律師﹂︵7︶︑﹁弁律師﹂︵2︶︑﹁法印御房﹂︵Ⅱ︒Ⅳ︶︑﹁法眼御房﹂︵1.肥︶︑﹁法橋﹂︵蛇︶等の僧の名や︑﹁千王﹂︵5︶︑﹁松王﹂︵胡︶︑﹁薬叉王﹂︵銘︶等の童子の名︑﹁稲津入道﹂︵4︶︑﹁金持八郎﹂︵6︶︑﹁宮内兵衛﹂︵3.9︶︑﹁三位殿﹂︵2︶︑﹁藤さゑ門尉﹂︵2︶︑﹁八条殿﹂︵2︶︑﹁平太郎﹂︵Ⅳ︶︑﹁与三郎入道﹂︵銘︶といった俗人の名や︑﹁尼公﹂︵3︶︑﹁故尼御前﹂︵船︶︑﹁刀自女﹂︵恥︶︑﹁長崎御母﹂︵2︶といった女性名も見出され︑さらに﹁西方寺﹂︵Ⅲ︶︑﹁来迎寺﹂︵坊︶及び﹁高野﹂︵岨︶︑﹁熊野﹂︵9.〃︶等の寺社名も見出される︒

書状の内容としては︑﹁替蛤

−210−

(15)

解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集」紙背文書(勝語集紙背文言研究会)

以上︑本紙背文書の解題としては甚だ不十分なものであり︑さらに調査すれば︑より多くの事柄が明らかになるこ

とは容易に予想できるが︑本格的な考察には︑より適任の専門的研究者が多々あろう︒ここでは︑右のような本文書

の基礎的解題及び翻刻・影印を提供することを以て︑一応︑本研究会の所期の目的を達したものとする︒識者の手に

より︑翻刻の訂正を含めた本文書の検討が活発になされることを待望する︒

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一 …

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(16)

国文学研究資料館蔵「勝語集」紙背文書一覧表

丁 付 け の ( ) 内 は 、 切 断 の た め 難 読 で は あ る が 記 入 の あ る も の 。 − は 記 入 の 読 み 取 れ な い も の 。

[]内は推定、〈〉内は切断のため読みにくい文字、*は判読不能な文字であることを示すの 評状の料紙に側する表記は、111中稔│ 礼紙について」(『奈良平安時代論集下』吉川弘文館1984年)

百瀬今Wl雄│ 亜紙と裏紙̲ (『11本歴史.1479号、1988年)を参考に行った。

l

2

3

−212−

QIUp瘤﹄

I 日 付 文諜名(鰍0恥、棚价酬雌)

備 考

1 1蕊‑州 I 某 卿 (柵・鵬ハり) a

イ i 端 裏 「 * * 御 房 闇 」

2 I (柵・雌あり) &1

3−4 二二一

W WW

lノ

畠刈TfrI舌

(剛?)

某薔状(柵・鵬あり)

il

a

56 rnl上ハ

l

10.18 │馴梨}謀状(側?・舵あり)

某諜状(糊・仙紡り)

&I b

料名はN()10と一致。奥にI封」字切吋

7

8−9

'0 j L

−0 I

|j−

−ill仰一

W

10.30

正.19

夜叉丸諏状(瓢)

某書状(泓)

某書状(柵・鵬 り)

闇梨諜状(酬)

b

も0口巳

ローq

fl a

左端に切封墨引・充書(切断で読めず)

左端に「闇く梨>」

11

12 '3

一 ● 雨 一

= →

一一一

リト

叩に 脇2間10.

某誹状(剛?)

慶深謬状(似)

三筒庄住人字藤平次申状写

;l C C

右端典│ 〈 * * * 殿 へ 慶 深 状 > 」 厩1名不記*1289年

川︾崎

一K 明Ⅲ

lj

(糊)

(瓢?)

C一価

16 !#状(鋤?) C

7−81−

19

i

'1 (I化)

5.21 幸夜叉メLiif状(瓢)

某諜状(柵・棚あり)

某諜状(柵)

b il

f

20 .

下騨‑M

一■一一一

(

"L

咽一咽

(

9.6

−ぬ−−

とくす凡諜状(瓢)

某書イノ

jlj咽一噸

某書〃

裟諜〃

(柵)

(柵)

0︐|︑l

●gl9一・J

N()22.23は同筆

N()2イ.25は一通 25

26 27 28 29 30

H

L

(棚)

(6)i

Jlj−j

砿一吐一皿

U W

間10.10 [ 野 上 百 姓 ? ] 奮 状 ( 瓢 )

[ ] 書 状 ( 柵 )

●■−−−

某諜状(柵・舳鮎り)

某書状(蝋)

某諜状(糊・鵬あり)

某書状(似)

●●■■︾

k

I

左端に切封墨引

N()27‑21)は同筆

右端裏「[*****]十三11御状」

31 −0 UL 闘梨齊状(柵) &

右 端 裏 「 帥 律 師 御 房 闇 梨 」

32 33

− ゆ

L ' +

某書状(瓢?)

某書状(柵・鵬ルリ)

a a

34 35

一 =

[7.15f[慶深]謀状(側)

[7.151[慶深]謀状(鼎刻)

C C

N()34〜36は一通

36 一K(&冊) 7.15 慶深書状(鼎弧) C

37 (【M 某書状(柵)

38 L 正 . 4 []・『'I状(班?) 11 左端に充書「<進***法印御房>‑1

39 10

1

イ2 43

jL 二0

乙化

I LI‑

某諏状(柵)

[8.8][夜叉王丸l諜状(柵・鵬あり)

8.8 夜叉盲IjL諜状(鰍)

某諜〃 (柵)

[ ] 書 状 ( 測 )

1

(

()

N()40.41は同筆

左端に切封墨引・充書「〈**悌都御房>=

左端に切封墨引・充書(切断で読めず)

(17)

解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集」紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

○字体は基本的に現代通行のものとする︒

○明らかに字があるのに読めない場合は﹁*﹂によって示す︒

○切断によって確認できないが︑推測できる字は八Vに入れて示す︒

○難読で読解に自信を持てない字︑或は仮名書きの語に漢字を当てるなどの場合︑傍注を︵︶に入れて横に書き込む︒

○追而書・袖書は本行と区別して原本になるべく近い位置に記し︑それが難しい場合は適宜注記を加えて記す︒

○紙の切り継ぎ・裏面にわたる記載等々︑一紙全体に対する注記を︑その紙の最後に※をつけて記す︒

○本文書は︑紙背文書としては宿命的な裏映りに加え︑解題中に記したように補修が加えられている関係で︑至って

難読である︒翻刻にはなお不明の点も多く︑一応字を当てたものにも誤りがあろうかと恐れる︒影印も鮮明なものを

めざしたが︑本来が右のようなものであり︑技術的に限界がある︒これらの点については︑御了解を乞う次第である︒ ○句読点・濁点は打たない︒ ○改行は原本通りである︒ ○勝語集紙背文書をできるだけ原文に近い形で翻刻する︒ 翻刻・凡例︒ ︹翻刻・影印︺

(18)

改年御吉事今者申覚候

猶以自他幸甚j︑

替物事駿河より未請取候海路

関不定事候船人二已請取せたるよし

承候へとも未見来候請取候ハ︑念々

以使者可申候也車力事も大輔律

師下向之時申候了子細請取候て可申候八也V

いかさまにも自中村ハ念々可上之由可被

仰遣候也

中村草山事も上洛之時可有御沙汰候

之由可被仰遣候也其外事等以同前候也

彼等訴状皆以慥給候了御上洛之時両方

︹翻刻︺

れて候とも

のこりはひかへ

られ候て沙汰

や候へき海路

おほつかなく候

をとりて候へく候

かひなくて 1︵上巻・第一紙甲二

替物事ハ大輔律師下向之時

旦も自播磨上候ハ︑帥法印の

もとへとるへきよし申され候し

さも候ハ︑いか︑候へき少々請取 聞食候て成敗候へきよし仰候へく候但背教事ハ自法眼御房被申候此一段ハ可有御︵念の字に重ね書あり︶沙汰候也又十念法師事ハ法眼御房へ申候禅円か中村知行之時の定候者定***一反田を******ハ同上の沙汰

**さぬとて

さま**仰給候三位殿御方より種々仰下され候御事

て*等候御世間御心苦存候故重々給候

条御計**多田一丁事在京之時も仰旨申入候き円*先度も心得てわたくし申てと仰の候わか事ハ*

申いれ候也

計**申候

八条殿へ藤さゑ門尉とかきて候三位殿御方へ参上候

去十月廿七日被仰下候趣条々十一月

四日辰刻到来具案了初有房無為

下向候也 ※右端裏面に充書﹁**御房闇﹂︒

2︵上巻・第二紙甲二︶

−214−

(19)

解題・翻刻.影印国文学研究資料館蔵「勝語集」紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

千得法師円乗未下向候廿比大しやうゑ

の御れうの事すきたにへ仰下され候

て候に十一月十六日まて此物とも不下向*

*申*候返々歎入候今は廿比御用思もより八候V

はす御事閾候歎不可思儀事候弁律師八とV

つれ候て道々と︑まりて候と存候返々

あさましく候すきたにの御返事

先度候し返状進上候長崎御母の事*

他界のよし先度令言上候了御文八箱V

返給候は此二預置候此便宜にも返上す八へV

く候へとも無骨之間止置候也

法師原さ様候覧歎入候幸一法師もの

もき候ハてあさましけに候としのうちハ

難治候よし申候明暮は衣物なとたひ候てま

いらせ候へく候人いり候ハ︑幡州へ禅円二仰合

**りぬへき下人まいらせよと仰候ハ︑相計

法師原なといか︑候と存候又郷内百姓国八在V

人へなとも候らんさらて候たにもたひ候ハ︑子細

申候ハしと存候御在京之程ハ御事閼候ハしと

存候さりぬへき怪もの︑出来候ハんほとハ御 3︵上巻・第三紙甲三︶ はからひ候てめしよセられ候へく候幸一法師もすかし候てまいらせ候へく候︵弥力孫力︶︵更力︶*法師事無申限候文二申候了六貫文候にけたし三貫文をまいらせ候へきよし状かきて候当時所々へ尋候よし書候也御所奉仕ニハ猶同所當にて当時沙汰候也替銭借上にも又日来のにも御留守時沙汰セょと*めされ候御留守相節と申候難治事候へと八もVすこしつ︑もたりてさたし候也

︵進力︶讃岐僧都小野庄ものハ定重上候乎此程*

にて候なる尼公二をくれて此谷禅衆三河あょもと

︵宿力︶常候也延命供事宮内兵衛かもとへ申て候ヘハ*

摩にハ自房知行所にハ米も候ハぬよし申候八讃V

︵とく力︶僧都ハ上へ申てと申候へともた︑し出仕八をV

し候ハす候後日二申ていつれへのにて八もV

状をたひ候へく候

谷御堂衣物いまた無沙汰候也下行候ハ︑

可計候供米ハいなつ北郷未進候供僧中

よりもとめ候両人近日すこしつ︑おろし

へきよし申候江田ハよも今年ハ沙汰し候ハし

申合候

寺の諸家は御ふミにもなに︑ても同様になけき

(20)

伊賀公物とてこれに候へきよし

︵候力︶申つかハして候へとも相節有まし

よし申切了御下向之時まて八はV いかにと候へとも猶々御留守事相節事不存候伊州も難治事候すき︑ぬるかたのいまはさし*ち二用途かりをきて候か︑るみにもいまたかへし候ハす候なり候ぬ*候此程も服蒜候つるほとゆ︑しき

俄此両人令上洛之由申之間

可被上候委細旨定申入候歎御留守

當寺まて無別事候但御相節事

下行物何も候ましき之由奉候

稲津入道未下向年中下行候八まV

しきよし申候北郷未参候ハす

人数禅衆作法申はかりなきよ八しV

奉候此御留守作法も雑事と申

相節と申候無申限候御所奉仕同

せめ申候少々人数も略候ハては

下向まても世間かない候いとも不* 始作法も 4︵上巻・第四紙甲四︶

︵長力︶猶々便宜二可申入候か*の*

のものハ御替銭に寺仕房二下行候

なはさし**不幾候おろし相*

︵難力︶とも一も御さたし給はす候子細難

︵受戒力︶言上候千王ハすかいのためにのほ八るV

へきよし申候之間それへもまいり

さたしたく候て出家も可仕候*

申し候此条能々可下御計候*

不取敢*ぬ事申候間**

一筆言上候此由可申入給候**

謹言

十月十八日闇八梨V まちまいらせ存候此等子にて

※上欄外に追而書あり︒多くは読めず︑省略︒ 5︵上巻・第五紙甲五︶

︵切封﹁封﹂字あり︶

−216−

(21)

解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集』紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

なけき候当時まては別に

あしさまの御気色も候ハす

御在京も御かへりたるにてわたし候

③八きVの事申候てかへりて御わすれにも

のたになりて申進とて仰から*に

のたになり候て御そへまいり候ほとに

しのうちいとま申候て

にほかに候しかともかない候

*ねんはいかさまにもまかりのほり

十月四日御文たしかに見

まいらせ候ぬ大納言律師との

の便宜之時に御文はまいらせ候

んとてかきした︑め可申*

とりをとし候てまいらせ候

ハす候又金持八郎便宜之時 ①人はたより

なきをもてした

しからんと良智

殿の御取なかしに

も御ものかたり候しに候

②上にも御文一度もま

いらせ候ハぬ御事とて御 6︵上巻・第六紙甲六︶

︵急力︶月**すきか房ハし******

へきよしおほせ候て便宜八にV

しるしめされ候ハて御文も

まいらせ候ぬひんきの時ハ遣セ

ハしむ候へきよし仰かうふり

︵可申力︶て候しかほとに今日あすひん

きのかへりとそんし候て申入候

わんとて御房へ参て候ほとに上二 申入候へきにて候しに御所へまいり候てあつかりまて祗候仕て候しほとにそのひまに立候けるほとに申入す候又上の御上儀にとも中にて候へきに*****御いとまをたまハリ候*を*かし御取*もとしあけて*て*候としあけ

※追而書①は右上︑②は右下︑③は﹁十月四日⁝﹂以下の本

行の行間に記される︒

7︵上巻・第七紙甲七︶

(22)

なとにて**************

壹貫五百からせ給候て此兵部公の下向

三貫大弍律師御房に候なる替銭ニして候 用途二たひ候也宰相律師用途を 御そへ御まいりにて候ほとに申入す候いま四五日のほとに中納

︵る力︶言律師上候へきよしうけ給

候ヘハ下給候にそ申入なく候

又上の御のほり秋になり候ハ︑

御下候へきよし仰のこと申

入て候しかハとしのうち御下

候ハて給んにハくたり候ハん御

事せんなき事にて候そ

八おほくVとおほせ事候也あなかしぐ

十月舟日幸夜叉丸

※左端に充書らしきものあれど読めず︒

8︵上巻・第八紙甲八︶ ︵切封墨引︶ 内一結ハ円乗わたくし二取候也今試貫残候二又一貫五百自其も御尋候歎又自三ヶ嶋候ハんする銭を壹貫五百かして三貫五百下向用途二自其御沙汰候へく候自三ケハ越前房分一貫文相節沙汰分一貫三百はかり候へく候此内越前房分ハ其にて沙汰して候へく一貫三百相節分ハかり候へく候円乗二くハしく申付候也可有御尋候歎播州状下遣候以便宜必々可被下遣候大方ハ此状ハ供料を可請取状候わさとも人を可下事候無便宜候てハ菊房法師なとをも被下遣候へかしと被申候也可有御計候延命供々料関東御房用二て十石今年分可請取状候也恐々謹言

︵梨力︶闇*

*へく候 9︵上巻・第九紙甲九︶

彼御房用事器物ハ

‑ 2 1 8 ‑

(23)

解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集」紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

留守御心苦存候御相頼事も如何候乎

八多V田又三ケ等事もの沙汰候乎抑此兵部公

八為V受戒上洛候若在京候程にて候ハ︑

*かたやすえ候へきに一身上洛心苦候落付

事も又南都への事も心苦候其御生

をたのみまいらて候不具事候也

少々事も御尋候て無閥如御計候ハ︑

可然候在京候程相節雑事なと自

此沙汰候へきにて候ともかくも御沙汰候て

御立用有へく候委細間以円乗申候也

熊野へ参候し大輔公のもとへ一結可沙汰候

用途事御沙汰候乎越前房許より一結︵越前ヲ抹消シ改ム︶可沙汰事候またしく候ハ︑此兵部公下向

用途に御沙汰候て彼借物にハ自幡州候ハん

するものにて沙汰し候へし**候也此上洛俄

候間不具無申限候下向用途何もノー

相遣候ハ︑今壹貫五百はかり*** 宮内兵衛と申候ハ野上郷正地頭にて候返状二其子細見候間幡州へ下遣候也

何条御事候乎先度申候き自何も

八 ハ か 石 ん <

請 さ れ 取 し な て と き 候 申 存 事 は 候 知 候

、 斗 候 雑 御 に 歎 掌 房 て

**供僧事悦存候事何事

奉候存外事歎御*此僧正御房の

寺務候ハさりともと存候如此落居

候互不望候

讃岐殿事下向之時条々子細事

この候も被閾の候ていよ﹄︑*被召具候きさ

人数更候何方へもさし上られ候へかし

て候**可仕候更心苦候ぬしハらく

やうに候ハゞ内々以奉ハいかにも候へ一旦ハ

請取候ても候へきに****はくれて候へ

申しかへ候****御計候へき

衣類も難治相*れ候しかとも己

沙汰上ハは無子細候事**後*候恐々

謹言正月十九日闇梨 ※右端裏面に充書らしきものあれど読めず︒

扣︵上巻・第十紙甲十︶

(24)

難治事歎察申候四人はかりの

分候て候へかしと申て候へとも難治

事にてそ候ハんすらん

条々事ハ自法印御房申され候了り

*申候其上去年委細二申候了

︿三力︶二ヶ米ハ五石ハ松さかつへつかハし候を*

︵損力︶色房去年指已了間六石六斗六升

六合四尺候へきよし松さかつの注文**

︵静力︶其**れて候らんほとは御*候て用途

もなして供物方へも一遣候四面仏具*

香呂箱なとも候上も可被遣候歎彼三ヶ

米もとしあけ候てハ*も**成候歎可

御心得候也去年も内に用途にて沙汰し

候ハす候当時和市と可有御沙汰候也

︵候ハ︑力︶米にていまた︒ていまこしもすつる

成候はんはまた今給候へく候此等子細御存知

*彼僧都許状慥付了返状参*候御返

事在京之時奉*候きはちなき大事にて

*めと**て候自是状にても申され候ハす

御使はかり二て不可事行候けると存候彼文

又便宜二被下候へ可申候也 川︵上巻・第十一紙甲十一︶

三箇御庄住人字藤平次謹言上

欲早被行重科同御庄住人越前房同舅

金次郎間事

件條藤平次越前房於令放言之由令訴申八之V

当方被召合天子細被聞食畢而越前房平次 遂申入候あまりにともするものも候はすたよりなきやうに候あひた十はかりになり候小童を一人まうけて候か相節難治八候V*世間も御心苦相存候へともいくほとならぬ*事にて候ヘハ三郎かもとへ仰下され給るや吉様に御計候てうへも申させおハしまし候へし御舌入候へく候返々無心申状恐存候I〜

※右端裏面に充書﹁︿***殿へ慶深状﹀﹂

旧︵上巻・第十三紙甲十三 吃︵上巻・第十二紙︶

在裏封

‑ 2 2 0 ‑

(25)

解題・翻刻・影印国文学研究資料館蔵『勝語集」紙背文書(勝語集紙背文書研究会)

こと相存候御ふミをもて別事もあらん

*ハ出仕せらるへきよしおほせ事 八二V月九日御文今月二日承候了

︵けふ力︶八抑V西方寺御勤等自正月きの︑

**候て四十度出仕一度も閾如候ハ︑

︵之︶用途五連を御沙汰候へき候由はりふハミV

をせられて候あひた心のひまも候ハす候也

八只V身一にてハ自然二所勢なんと御事

八もV候ハ*難治事候上洛阿闇梨も人々二

八相V*せられ候て出仕せられ候あひた自然

*も出来候ハん時は御科になり候 舅金次郎者早速為行同罪恐々言上如件正應二年閏十月日 時越前房令承伏畢然者於越前房井 放言之由依令訴申藤平次預家封之條無術之次第也於越前房者八訴人彼V藤平次伏網於引上穂竹於令盗取之者也然者先八被V行盗犯罪科之後於放言之實否者以後八日V可被聞食彼者哉且穂竹於令盗取之條對決

側︵上巻・第十四紙甲十三︶ ︵但ヵ︶︵三字見セ消チ︶*いるへくや候らん任やミなんと仕候ハさ*さらんほかハ閥如あるましく候へと八もV︵別力︶御事のためと如此申入候也而又

︵御力︶御下向心もとなく候へとも実適以物

*へ*****︑と

申て候て如此

入見参候

**之*へ**けの**

*********

***作法********

︿Z目*******

**入**悦*****

** ※本紙左右切断︑別紙を貼継ぐ︒

幅︵上巻・第十五紙甲十四︶

(26)

**ノ︑可有御下向候八歎V

来迎寺御勤等三河公勤られ候ヘハ心や

すく存候也後*御勤ハ出仕候了向後

も閾如する事なんと候ハ︑仕進候へく候御八心V

八安Vおほしめされ候へく候又今月十四日ゆつ*

*う御分三郎と申会候て用途二連と

能米一斗沙汰候了毎月四日故尼御殿御

教巻ハ能々申候也**やらは是尼上

存知*て候也僧正御房も秋は可定とう八けV

*給候ヘハそれまてハ御留之由を存候に候幸

夜叉殿も自三月早々御房に御座候御とき*

候也後彼膝事其後は別事なく候ヘハ悦

入候/︑便宜時侍従**出仕もち

*ぬへき扇一二本下給事候へく候扇*

入候ほとに鎌倉にては尋かね候て申

上候に候如此申状恐存候/︑

もへちの事候ハすハ御のほり八一V定にて候へき

よし仰こと候八御Vたひすくひもひさし八くV 旧︵上巻・第十六紙︶〃︵上巻・第十七紙甲十五︶ ならせ給候ヘハさらて御八かたりV候らめと悦*︵せ力︶をまいらせ候て候当時は平太郎をめしつか*その子細も先の御文二くハしく申候し*ら候又わかミやへこの月の十日頃にいかな八るVもの︑まいらせて候やらん大弓大やを八まVいらせ候にしもつけのくにの物にて八候とVそ申候弓のなかさ一ちやう二尺四寸ふとさ七寸五分候なりやハ五尺にあまりて候か二十そく候二*ふたすちとりのしたと申候をすけてまいらせて候その子細もかくあさりの御房御のほり候ヘハハVさためてくハしく申と申給候ハ︑*法印御房へも申入へく候へともこの八四V五日かさきにくハしく申候し

︵ヘノ︑︷︶をなし御事にて候ヘハ申入す候よし

︵トト右〃︶御心たて申さセ給候へし当時ハ

くそ力︶この御房にハはりまのゆら川いたはり

*てうつり給て候ほとにゆとの︑へや**

かまくらにハをひた︑しく返セや

をし候かやミ候ハミなたすかり候ハて

しに候ヘハをそろしさ申はかりなく

あなかしぐ

五月廿一日幸夜叉丸

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