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アリストテレスの中庸説の擁護

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Academic year: 2021

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はじめに

アリストテレスの中庸説とは、性格の徳を中間(中庸)の性向として位置づける理論のこと である。中庸説はアリストテレスの徳論の中核をなすものであるが、バーナード・ウィリアム ズの「忘れたほうがよい」1という言葉が端的に示しているように、否定的に評価されること が多い。ここ数十年のあいだ、アリストテレス倫理学は徳倫理学の主要な源泉として高く評価 されているものの、現代の徳倫理学者たちが中庸説を重視することはほとんどないと言ってよ い。評判の悪さの一つの理由は、中庸説の理論的枠組みそのものに不整合が含まれているよう に見えることである。本稿では、『ニコマコス倫理学』2第二巻を取り上げながら、アリスト テレスの見解に対する新たな解釈を提示し、中庸説の擁護を試みる。そのうえで、現代の規範 倫理学においてアリストテレスの中庸説がどのような意義をもつのかを論ずる。

1.中庸説の概要

(1)論述の流れ

中庸説は、人間の(魂の)徳とされる性格の徳(e-thike-arete-)と思考の徳(dianoe-tike-arete-)の うち、性格の徳とはどのようなものであるかを説明するために導入される。第二巻第五章において、

アリストテレスはまず性格の徳を性向(hexis)の一種として位置づける(1106a10-12)。ここで言 う性向とは、感情と行為(praxeiskaipathe-3にかかわる性向を意味する。感情と行為にかかわ る性向には善いものもあれば劣悪なものもあり、性格の徳は善い性向であるのに対して、悪徳 は劣悪な性向である。それでは、感情と行為にかかわる善い性向とはどのような性向のことを 言うのだろうか。

続く第六章でアリストテレスはこの問題に取り組み、性格の徳は感情と行為における「中間

(tomeson)」を射止めるものであると主張する(1106b28)。すなわち、性格の徳とは、それ をもっている人が個々の状況において中間の感情を抱き、中間の行為をする性向なのである。・・・・・ ・・・・・

性格の徳の働きはこのように(感情と行為における)中間を射止める点にあるため、アリスト テレスは性格の徳それ自体にも「中間(mesote-s)」4という性質を付与する。それが、「〔性格の〕

徳は、〔感情と行為における〕中間を射止めるものである限りで、ある種の中間である」(1106 b27-28)という定義5の意味にほかならない。

アリストテレスの中庸説の擁護

相 澤 康 隆

要旨:アリストテレスの中庸説は、理論的な不整合を含んでいるという理由や、実践上の意義 がないという理由で批判されることが多い。本稿では、先行研究とは異なる新たな解釈を示しな がら、中庸説に不整合はないこと、また中庸説は有用な実践的指針を与えうるものであることを 論ずる。

(2)

それでは、「感情と行為における中間を射止める」とは何を意味するのだろうか。以下では、

第二巻第六章の分析を通じてこの問いに答え、中庸説の全体像を概略的に捉えることにしよう。

なお、先行研究において感情と行為は一括して「反応(response)」と表現されることがある6。 本稿でも適宜この表現を用いることにする。

(2)二種類の「中間」

性格の徳の定義において核心となる概念は「中間」である。中間という概念を説明するにあ たって、アリストテレスはまず二種類の中間を区別するところから始める(1106a26-a32)。

すなわち、中間には「事物における中間」と「われわれにとっての中間」がある。「事物にお ける中間」とは、任意の連続体の両端から等しく離れている中間の値を意味する。たとえば、

一方の端が十ムナ7、他方の端が二ムナの場合、事物における中間は六ムナである。この意味 での中間は、両端の値に応じて一つに定まるものであるから、「いかなる場合にも8同じ一つ のものである」(1106a31)と言われる。これに対して、「われわれにとっての中間」とは、

「余分である(pleonazein)ことも不足している(elleipein)こともないもののことである」(1106 a31-32)。事物における中間とは異なり、われわれにとっての中間には、「いかなる場合にも 同じ一つのものであるとは限らない」(1106a32)という特徴がある。

二種類の中間を区別する際のアリストテレスの狙いは、非規範的概念としての中間と規範的 概念としての中間を対比する点にある9。つまり、事物における中間とは違って、われわれに とっての中間という概念には、「しかるべき(適切な、ちょうどよい)」というような規範的な 意味が含まれているのである。そのことは、「余分であることも不足していることもないもの」

という表現によって示唆されている10。「余分」や「不足」という言葉は、基準となるしかる べき値から外れていることを意味するからである。

われわれにとっての中間は「いかなる場合にも同じ一つのものであるとは限らない」という 点について、アリストテレスは次のような具体例を挙げて説明している。

実際、十ムナの食事では多く、二ムナでは少ないからといって、体育指導者は〔必ずしも〕

六ムナの食事を命ずるわけではない。なぜなら、それを取る人にとっては六ムナでも多い かもしれないし、あるいは少ないかもしれないからである。たとえば、その量は〔レスリ ング選手の〕ミロンにとっては少ないが、訓練を始めたばかりの人にとっては多い。……

このような仕方で、知識のある者は誰でも超過(huperbole-)と不足(elleiphsis)を避け、中 間を探し求めてそれを選択するのであるが、その場合の中間とは「事物における中間」で はなく、「われわれにとっての中間」なのである。(1106a36-b7

十ムナと二ムナの「事物における中間」は必ず六ムナになるのに対して、「われわれにとっ ての中間」は必ずしも六ムナとはならない。したがって、十ムナの食事では多く、二ムナの食 事では少ないという場合に、体育指導者は適切な分量として六ムナの食事を命ずるとは限らな い。この例を通じてアリストテレスが言おうとしていることは、「われわれにとっての中間」

は行為者が置かれる個々の状況に相対的な仕方で定まるという点である。このような状況相対・・・・・・・・・・

性こそが、「われわれにとっての中間」を「事物における中間」から区別するもう一つの特徴 にほかならない11

(3)

引用文中の「知識のある者(episte-mo-n)」とは、専門知としての技術(techne-)をもつ者のこ とであり、体育指導者はその一例である。彼らは個々の状況に応じて定まる中間を探し求めて それを選択することができる。この引用文に続けて、アリストテレスは考察の対象を知識(技 術)から徳へと移し、徳のある人もまた中間を捉えることができると論ずる(1106b8-b16)。

すなわち、徳は「中間を射止めるもの(toumesoustochastike-12」(1106b15-16)なのである。

(3)性格の徳の定義

二種類の中間のうち、性格の徳に関係するのは「われわれにとっての中間」の方である。次 の引用文では、中間(およびそれに対応する超過と不足)という概念が感情と行為に適用され、

性格の徳とはどのようなものであるかが説明される。

ただし、ここで言うところの徳とは性格の徳のことである。というのも、性格の徳は感情 と行為にかかわるものであり、感情と行為には超過と不足と中間があるのだから。たとえ ば、恐れること、自信をもつこと、欲望を感ずること、怒ること、憐れむこと、 そして また、一般に快や苦を感ずることには、多すぎる場合もあれば少なすぎる場合もある。こ れらはどちらも善いあり方ではない。これに対して、しかるべき時に、しかるべき事柄に ついて、しかるべき人に対して、しかるべき目的のために、しかるべき仕方13でこのよ うな感情を抱くならば、それは中間にして最善のあり方であり、それこそが徳の働きなの である。これと同様に、行為についても超過と不足と中間がある。……したがって、〔性 格の〕徳は〔感情と行為における〕中間を射止めるものである限りで、ある種の中間なの である。(1106b16-b28

*以下、この引用文を「キー・パッセージ」と呼ぶ。

感情と行為には「中間、超過、不足」という三つのあり方が認められる。このうち、感情と 行為における中間とは、時、事柄、相手、目的、仕方などの観点14から見てしかるべき反応 をすることである。「われわれにとっての中間」には「しかるべき」という含意があることは すでに述べたが、ここではその含意が(時、事柄などの)さまざまな観点に関連づけられてい る。

それでは、感情と行為における超過と不足とは、それぞれ何を意味するのだろうか。しかるべ き反応をすることが中間とされる以上、超過と不足はこの「しかるべき」というあり方から何ら かの意味で逸脱しているということまでは容易に推測できる。しかし、「超過、不足」というい わば「量的な(quantitative)」概念と、「しかるべき」といういわば「質的な(qualitative)」概 念は、どのように関係しているのだろうか。これは中庸説の解釈における最大の難問であるため、

次節以降で詳細に検討することにしたい。

さて、キー・パッセージの最後では、性格の徳の定義が与えられている。「〔性格の〕徳は

〔感情と行為における〕中間を射止める」とは、性格の徳をもっている人が、個々の状況にお いて中間の反応をするという意味であり、中間の反応をするとはつまり、関連するあらゆる観・・・

点から見てしかるべき反応をするということである。そして、性格の徳が感情と行為における・・・・・

中間を射止めるものであることを理由として15、アリストテレスは性格の徳それ自体にも「中 間」という概念を当てはめる。つまり、アリストテレスは中間という概念をまず感情と行為に

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適用し、そこから派生的に、(中間の反応を生み出すところの)性向にもその概念を適用して いるのである16

以上の分析に基づいて、中庸説の要点を述べよう。すなわち、性格の徳とは、個々の状況に おいて、超過した反応や不足した反応ではなく中間の反応を、つまり関連するあらゆる観点か ら見てしかるべき反応を生み出すという意味で、中間の性向なのである17

2.先行研究の検討

(1)争点

キー・パッセージのなかで解釈上の最大の争点となっているのは、「超過、不足」という量 的概念と「しかるべき」という質的概念の関係をどのように理解すればよいのかという問題で ある。この節では、代表的な先行研究としてアームソンとハーストハウスの解釈をそれぞれ検 討することにしよう。

(2)アームソンの解釈

アリストテレスの中庸説に関する先行研究のなかでもっともよく知られているのは、おそら くアームソンの解釈であろう18。アームソンの解釈の要点は二つある。一つは、中庸説は穏健 説(doctrineofmoderation)ではないという点であり、もう一つは、「中間、超過、不足」と いう概念は性向に適用される概念であって、感情と行為には派生的に適用されるにすぎないと いう点である。

第一の点について、アームソンはおよそ次のように論じている19。もしアリストテレスの中 庸説が、「強すぎる感情や弱すぎる感情は避けるべきであり、いつでもほどほどの強さの

(moderate)感情を表すべきだ」という主張 このような考えをアームソンは穏健説と呼 んでいる であるとすれば、中庸説は馬鹿げた理論である。たとえば、ほんの些細な失礼 に対しても、残酷な仕打ちに対しても、われわれは同じようにほどほどの強さの怒りを示すべ きであろうか。そのようなことはない。些細な失礼に対しては少しばかりの不快感を表すだけ で十分であるが、残酷な仕打ちに対しては激しい怒りを表すべきであろう。要するに、われわ れはアリストテレスの中庸説を穏健説とみなすべきではないのである。アームソンのこの主張 は多くの研究者によって支持されており20、「中庸説をどのように解釈してはならないか」に ついての共通了解であると言ってよい。

第二に、アームソンによれば、「中間、超過、不足」という概念は第一義的には性向に適用 されるものであって、感情や行為には派生的にしか適用されない21。中間の性向とは、しかる べき時に、しかるべき事柄について、しかるべき相手に、しかるべき理由で、しかるべき仕方 で感情を表す性向を意味する。これに対して、超過した性向とは、あまりにも頻繁に、あまり にも多くの事柄について、あまりにも多くの相手に、あまりにも多くの理由で感情を表す性向 であり、不足した性向とは、あまりにも稀に、あまりにも少ない事柄について、あまりにも少 ない相手に、あまりにも少ない理由で感情を表す性向である22。このように、「中間、超過、

不足」という概念は、第一義的には性向に適用される。ただし、それらの概念は感情や行為に も派生的に適用することはできる。つまり、ある感情や行為がいま述べた意味での中間の性向 を表現するものであるならば、その感情や行為は中間であることになり、超過した性向や不足

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した性向を表現するものであるならば、その行為や感情は超過あるいは不足していることにな るのである。

前節で説明したように、アリストテレスは「感情と行為における中間」という概念から「中 間の性向としての徳」という概念を導いているのであって、その逆ではない。したがって、

「中間、超過、不足」という概念は感情と行為には派生的にしか適用されないとするアームソ ンの解釈は誤りである23。とはいえ、ここではその誤りを追及するのではなく、量的概念と質 的概念を整合的に理解することにアームソンは成功しているのかという視点から彼の解釈に評 価を下すことにしたい。

アームソンによれば、「理由」という観点から見た超過と不足は「多すぎる理由」と「少なすぎる 理由」である。そうすると、「しかるべき理由」であるところの中間は、「多すぎも少なすぎもしない 理由」ということになろう。しかし、このような考え方は馬鹿げている24。理由がしかるべきもので あるかどうかは、一般に理由の数によって決まるわけではないからである。同様に、「相手」という 観点から見た超過と不足を「多すぎる相手」と「少なすぎる相手」と考え、中間を「多すぎも少な すぎもしない相手」と考えることも馬鹿げている25。その他の観点についても同じことが言える。要 するに、アームソン流の解釈では、アリストテレスに馬鹿げた見解を帰すことなしには、量的概念と 質的概念を整合的に理解することはできないのである。

(3)ハーストハウスの解釈

ハーストハウスの解釈の特徴は、量的概念と質的概念が両立しないことを指摘し、量的概念 を切り捨てたうえで、アリストテレスの中庸説を質的概念だけに基づく説明に置き換える点に ある26。厳密に言えば、ハーストハウスが行っているのは単なる解釈ではなく、解釈と批判を 通じた理論の修正である。

キー・パッセージにおける量的概念と質的概念は両立しないとハーストハウスが考える理由 は、先にアームソンの解釈を批判する際に述べたとおりである。そこでハーストハウスは、量 的概念を含まない1106b21-22の記述に基づいて、「われわれの標的は、正しい27時に、正し い事柄について、正しい人に対して、正しい理由で、正しい仕方で行為したり、感情を抱いた りすることである」という見解をアリストテレスに帰し、この見解を「中心理論(thecentral doctrine)」と名づける28。この中心理論が示唆するのは、中間の反応、超過した反応、不足し た反応という三区分ではなく、正しい反応と誤った反応という二区分である。事実、アリスト・・・ ・・・

テレスはキー・パッセージの直後で次のように言っている。

誤りを犯すこと(hamartanein)には何通りもの仕方があるが、……正しくなすこと(katorthoun) には一通りの仕方しかない(それゆえ、一方は容易であるが、他方は難しい。すなわち、標 的を外すこと(apotuchein)は容易であるが、標的に当てること(epituchein)は難しいのであ る)。(1106b28-b33

この引用文で描かれているのは、「標的に当てること(正しくなすこと)」と「標的を外すこ と(誤りを犯すこと)」の対比である。「標的に当てる(正しくなす)」とは、個々の状況にお いて、(時、事柄、相手などの)関連するあらゆる観点から見て正しい反応をすることであり、

「標的を外す(誤りを犯す)」とは、個々の状況において、(時、事柄、相手などの)何らかの

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観点から見て誤った反応をすることである。

中心理論とこの引用文は、性格の徳とは個々の状況において誤った反応をすることなく、関 連するあらゆる観点から見て正しい反応をする性向であるという見解を示唆している。正しい 反応を「超過と不足の中間」と表現したり、誤った反応を「超過」や「不足」と表現したりす ることは、アリストテレスの主張に混乱をもたらすだけである。このようにして、ハーストハ ウスは量的概念を切り捨て、中庸説を「正しい、誤った」という質的概念だけに基づく説明に 置き換えるのである29

3.中庸説の擁護

(1)「中間、超過、不足」の意味

アームソンは、「超過、不足」という量的概念と「しかるべき」という質的概念を整合的に 理解しようと試みていた。しかし、すでに見たように、多すぎも少なすぎもしない理由を中間 の理由、すなわちしかるべき理由と解釈することは馬鹿げている。理由以外の観点についても これと同じ批判が当てはまる。アームソンの誤りは、「あまりにも頻繁に、あまりにも多くの 事柄について、あまりにも多くの相手に……」といった具合に、時、事柄、相手、理由などの 観点そのものを量化するところにある。むしろ、これらの観点は、感情や行為が超過している のか、不足しているのか、それとも中間であるのかを調べるための観点であって、それ自体は 量化の対象とはならないと考えるべきである30

本稿の第一節では、感情と行為における中間とは、関連するあらゆる観点(時、事柄、相手、

目的、仕方など)から見てしかるべき反応をすることであると述べた。以下ではこの解釈をさ らに展開することにしよう。

われわれは日々の生活のなかで、ある種の行為をする(ある種の感情を抱く)ことが要求さ れる状況に置かれることがある。感情と行為における中間とは、第一に、この種の状況におい て、関連するあらゆる観点から見てしかるべき反応をすることである。他方、われわれはまた、

ある種の行為をしない(ある種の感情を抱かない)ことが要求される状況に置かれることもあ・・・ ・・・・

る。この種の状況においては、関連するあらゆる観点から見てしかるべきでない反応をしない・・・・・・・・・・・・・・

ことが感情と行為における中間である。たとえば、ある大人が一歳くらいの見知らぬ幼児から

「バカ」と言われたとしよう。この場合、その子どもに対して怒りを抱くのはしかるべきでな い反応であり、このような反応をしないことが怒りという感情における中間となる。キー・パッ セージでは「しかるべき反応をすること」の方だけが説明されているが、「しかるべきでない 反応をしないこと」はその説明から容易に導くことができる以上、アリストテレスはこれらの 両方を考慮に入れていると言ってよい。実際、第二巻第三章1104b24-26では、徳を定義する ときに「しかるべき仕方で」や「しかるべきでない仕方で」というたぐいの限定をつけない人々 が批判されているが、そのことはアリストテレスが「しかるべき」を肯定と否定の両面から捉 えていることの一つの証拠となるだろう。

「超過」と「不足」はこれら二つの状況における中間との対比で理解しなければならない。

第一に、行為と感情における不足とは、ある種の反応をすることが要求される状況において、・・

一つないしそれ以上の観点から見てしかるべき反応をしないことである。たとえば、怒るべき 相手に怒らないことや、怒るべき時に怒らないことや、怒るべき相手に怒るべき時に怒らない

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ことは、どれも感情における不足となる。これに対して、行為と感情における超過とは、ある 種の反応をしないことが要求される状況において、一つないしそれ以上の観点から見てしかる・・・

べきでない反応をすることである。たとえば、怒るべきでない相手に怒ることや、怒るべきで ない時に怒ることや、怒るべきでない相手に怒るべきでない時に怒ることは、感情における超 過となる31。このように、超過にせよ不足にせよ、(時、事柄、相手、目的、仕方といった観 点のうちの)一つの観点だけで成り立つこともあれば、複数の観点の組み合わせで成り立つこ ともある。

第一の種類の状況、すなわちある種の反応をすることが要求される状況を簡潔に「ほしい状 況」と表現し、第二の種類の状況、すなわちある種の反応をしないことが要求される状況を

「いらない状況」と表現することにしよう。そうすると、私の解釈は次のようにまとめること ができる。

「ほしい状況」において中間と対立するのは不足であり、「いらない状況」において中間と 対立するのは超過である。この解釈のもとでは、中間と超過と不足という三つのあり方は常に・・

存在するわけではなく、ある状況では中間と不足だけがあり、別の状況では中間と超過だけが あり、後に見るように、場合によっては中間と超過と不足の三つのあり方が存在することにな る。キー・パッセージでは感情と行為には超過と不足と中間があると言われているが、そのこ とは、それぞれの状況において常にこの三つのあり方が存在するということを含意しない。し たがって、私の解釈はキー・パッセージの内容と矛盾するものではない。

なお、この解釈に基づいて、「中間、超過、不足」という概念を性向に適用するならば、中 間の性向(性格の徳)とは、「ほしい状況」において、関連するあらゆる観点から見てしかる べき反応をし、「いらない状況」において、関連するあらゆる観点から見てしかるべきでない 反応をしない性向ということになる。また、超過した性向(超過の側の悪徳)とは、「いらな い状況」において、一つないしそれ以上の観点から見てしかるべきでない反応をする性向であ り、不足した性向(不足の側の悪徳)とは、「ほしい状況」において、一つないしそれ以上の 観点から見てしかるべき反応をしない性向であるということになる。

(2)反論と応答

以上で述べた解釈には次のような反論が考えられる。「ほしい状況」における中間である

「(関連するあらゆる観点から見て)しかるべき反応をすること」と、「いらない状況」におけ る中間である「(関連するあらゆる観点から見て)しかるべきでない反応をしないこと」は、

<ほしい状況>

中間:(関連するあらゆる観点から見て)しかるべき反応をすること 不足:(一つないしそれ以上の観点から見て)しかるべき反応をしないこと

<いらない状況>

中間:(関連するあらゆる観点から見て)しかるべきでない反応をしないこと 超過:(一つないしそれ以上の観点から見て)しかるべきでない反応をすること

(8)

単に二種類の状況の違いによって区別されているだけで、中間の内容それ自体としては区別さ れないのではないか。たとえば、ある状況において「しかるべき反応」が「怒ること」であるなら ば、「しかるべきでない反応」は「怒らないこと」である。そうすると、「しかるべき反応をすること」

としての中間は「怒ること」であり、「しかるべきでない反応をしないこと」としての中間は「怒ら ないことをしないこと」となる。しかし、「怒ること」と「怒らないことをしないこと」は論理的に 等しい。それゆえ、二種類の中間を区別することは無意味ではないか。

この反論には次のように答えることができる。上で示した表は、アリストテレスが述べてい ることや考えていることの省略表現にすぎない。「ほしい状況」における中間、すなわち「(関 連するあらゆる観点から見て)しかるべき反応をすること」とは、より正確に書き表すならば、

「しかるべき時に、しかるべき相手に、……反応をすること」となる。同様に、「いらない状況」

における中間、すなわち「(関連するあらゆる観点から見て)しかるべきでない反応をしない こと」とは、もっと正確に言うならば、「しかるべきでない時に、しかるべきでない相手に、……

反応をしないこと」となる。つまり、「しかるべき」や「しかるべきでない」という言葉は反 応(行為や感情)を修飾するのではなく、時や相手といった観点を修飾するのである。「怒り」

を例に挙げて二種類の中間の内容を比較してみよう。

(ほしい状況における)中間:怒るべき時に、怒るべき相手に、……怒ること

(いらない状況における)中間:怒るべきでない時に、怒るべきでない相手に、……怒らないこと

これら二つの中間は論理的に等しいとは言えない。なぜなら、怒るべき時に怒ることができ るのに、怒るべきでない時に怒らないことはできない(つまり、怒るべきでない時にも怒って しまう)ということがありうるからである32。このように、二種類の中間は、「ほしい状況」

と「いらない状況」という設定とは独立に、それ自体として区別することができるのである。

さらに、超過と不足の関係についても、これと同様の反論が考えられる。「ほしい状況」に おける不足である「(一つないしそれ以上の観点から見て)しかるべき反応をしないこと」と、

「いらない状況」における超過である「(一つないしそれ以上の観点から見て)しかるべきでな い反応をすること」は、表現の仕方が異なるだけで、論理的には等しいのではないか。たとえ ば、ある状況において「しかるべき反応」が「怒ること」であるならば、「しかるべきでない 反応」は「怒らないこと」である。そうすると、「しかるべきでない反応をすること」として の超過は「怒らないことをすること」であり、「しかるべき反応をしないこと」としての不足 は「怒ることをしないこと」となる。しかし、「怒らないことをすること」は要するに「怒ら ないこと」であり、「怒ることをしないこと」も要するに「怒らないこと」なのだから、両者 は論理的に等しい。そうだとすれば、超過と不足の区別は成り立たないのではないか。

この反論に対しても先と同じ仕方で答えることができる。上記の表にある超過と不足の説明 も、キー・パッセージの内容を省略的に表現したものにすぎない。「怒り」を例に挙げてより 正確なかたちに書き直すならば、超過と不足は次のように記述することができる。

(いらない状況における)超過:怒るべきでない時に(and/or怒るべきでない相手に、……)

怒ること

(ほしい状況における)不足:怒るべき時に(and/or怒るべき相手に、……)怒らないこと

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このように表現すれば、超過と不足がそれ自体として区別されることが分かるだろう33。怒 るべき時に怒らない人のなかには、いかなる状況においても怒らない人も含まれる。そのよう な人は、当然ながら、怒るべきでない時に怒るということもありえない。したがって、超過と 不足の内容は実質的に異なっているのである。このように、第一の中間に対立するものとして の不足と、第二の中間に対立するものとしての超過はそれ自体として区別することができるの だから、中間、超過、不足という三つの概念はそれぞれ互いに異なるものとして成立している ことになる。

これとは別の反論をもう一つ取り上げよう。先に述べたように、「ほしい状況」においては 中間と不足だけがあり、超過は存在しないのに対して、「いらない状況」においては中間と超 過だけがあり、不足は存在しない。しかし、一つの状況において中間と超過と不足の三つのあ り方が存在することもある。ここで取り上げる反論は最後のケースに関するものである。つま り、中間と超過と不足という三つのあり方のどれもが成立しうる状況において、ある人がしか るべきでない反応をしていると同時にしかるべき反応をしていないとすれば、その反応は超過 であると同時に不足でもあるのではないか34。一つの反応が「超過かつ不足」となるような奇 妙な結果を避けるために、その反応を超過と不足のどちらか一方に分類するならば、それは恣 意的な分類ではないだろうか。たとえば、次のような状況を想定してみよう。私が駐車場に着 くと、愛車のフロントガラスが割れており、すぐ近くにサラリーマン風の男とチンピラ風の男 が立っていた。私はある種の偏見のせいでチンピラ風の男がフロントガラスを割ったと思い込 み、彼に怒りをぶつけたが、本当の犯人はサラリーマン風の男だった35。さて、この場合、私 は怒るべきでない相手に怒ると同時に怒るべき相手に怒っていない。そうすると、私の反応は 超過であると同時に不足でもあるのではないか36

この反論に対する一つの答え方は、「そのとおりである」というものだ。このような状況に おいては、私の反応は現に超過していると同時に不足しているのである。もう一つの答え方と して、「いっそう非難に値する方の反応がカウントされる」と言うこともできる。先の状況に おいて、私が怒るべきでない相手に怒ったことは間違いなく非難に値するのに対して、怒るべ き相手に怒っていないことはそれほど非難に値しない。この主張の根拠となるのは、超過した 性向と不足した性向はどちらも同じ程度に中間の性向と対立するとは限らず、一方の性向は他 方の性向よりもいっそう中間の性向と対立する場合があるという見解である(第二巻第八章 1108b35-1109a2参照。この見解については後に改めて取り上げる)。その箇所でアリストテ レスは性向について語っているが、同じことは反応についても当てはまると考えられる。つま り、怒るべきでない相手に怒ることは、怒るべき相手に怒らないことよりも、中間の反応といっ そう大きく対立し37、それゆえいっそう非難に値するのである。したがって、超過であると同 時に不足でもある反応を超過として記述することは、いっそう非難に値する方の反応を重視す るという意味で、必ずしも恣意的な分類とはならないのである。

(3)解釈上の意義

前節で取り上げたハーストハウスの解釈では、アリストテレスの中庸説は「正しい反応をす ること」と「誤った反応をすること」の二区分から成り立つ。これに対して、「しかるべき反 応をすることとしかるべきでない反応をしないこと」を中間とし、「しかるべきでない反応を すること」を超過とし、「しかるべき反応をしないこと」を不足とする解釈の場合、中庸説は

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三区分から成り立つことになる。つまり、ハーストハウスが「誤った反応をすること」として 一本化していたものを、私の解釈では超過と不足という二つの方向から捉えているのである。

しかし、ハーストハウスを支持する人は、その解釈にどのような意義があるのかと問うかもし れない。「誤った反応をすること」を超過した反応と不足した反応の二種類に分けることが可 能であるとしても、そのように解釈することによって何が得られるのだろうか。

この疑問に対しては、中庸説から得られる実践的指針に注目することによって答えることが できよう。先に引用したように、「誤りを犯すことには何通りもの仕方があるが、……正しく なすことには一通りの仕方しかない」(1106b28-31)とアリストテレスは言っている。とはい え、アリストテレスはさまざまな誤りをどれも同列に扱っているわけではない。すなわち、あ るタイプの誤りは別のタイプの誤りよりもいっそう悪く、いっそう避けるべきものなのである。

誤りを犯すことにおけるこの違いは、アリストテレスが与える実践的指針に関しても違いをも たらすことになる。

中庸説に基づく実践的指針を論ずる第二巻第九章において、アリストテレスは(感情と行為にお ける)中間を射止めることの難しさに言及した後で、「中間を射止めようとする者は、まず、〔中間 と〕いっそう対立する側から離れなければならない」(1109a30-31)というアドバイスを与えている。

このアドバイスは、超過と不足と中間の対立関係を論ずる第二巻第八章の議論を踏まえたものであ る。超過した性向としての悪徳と不足した性向としての悪徳は、どちらも何らかの仕方で中間の性 向としての徳と対立する(1108b11-13)。しかし、概して言えば、どちらか一方の側の悪徳の方が 中間の性向としての徳といっそう対立する。たとえば、「勇気(andreia)」という徳といっそう対立 するのは、超過の側の悪徳である「向こう見ず(thrasute-s)」ではなく、不足の側の悪徳である「臆 病(deilia)」であり、「節度(so-phrosune-)」という徳といっそう対立するのは、不足の側の悪徳であ る「無感覚(anaisthe-sia)」ではなく、超過の側の悪徳である「自堕落(akolasia)」である(1108b 35-1109a5)。

ところで、性向としての徳(または悪徳)の形成と個々の行為や感情の関係は、第二巻第一 章と第二章において、「習慣(ethos)」という概念を核として説明されている。つまり、中間の反 応の習慣化によって形成されるのが徳であり、超過した反応の習慣化や不足した反応の習慣化に よって形成されるのが、それぞれ超過の側の悪徳と不足の側の悪徳である(1104a11-1104b3)。

たとえば、「節度」という徳は身体的快楽に対してしかるべき反応をすること(あるいはしか るべきでない反応をしないこと)が習慣となることによって形成されるのに対して、超過した 反応(しかるべきでない反応をすること)の習慣化からは「自堕落」という悪徳が生まれ、不 足した反応(しかるべき反応をしないこと)の習慣化からは「無感覚」という悪徳が生まれる。

以上の議論を踏まえるならば、「〔中間と〕いっそう対立する側から離れなければならない」

という言葉は、「中間といっそう対立する側の悪徳の形成につながるような反応を避けよ」と いう実践的指針として理解することができる。たとえば、身体的快楽に対する態度を例に挙げ るならば、われわれは、しかるべきでない種類の快楽を追求することや、しかるべきでない程 度に快楽を追求することなどを、すなわち、(一つないしそれ以上の観点から見て)しかるべ きでない反応をするという超過した反応をしないようとりわけ気を配らなければならないので ある。なぜなら、中間の性向である節度は、不足の側の悪徳である無感覚よりも、超過の側の 悪徳である自堕落といっそう対立するからである。

誤りの種類の違いに基づくこのような実践的指針は、正しい反応と誤った反応という二区分

(11)

に基づく中庸説からは得ることができない。超過と不足という量的概念を切り捨てずに、誤っ た反応をこれら二つの方向から捉えることの意義の一部はここにある。

4.現代の規範倫理学における中庸説の意義

(1)中庸説と正しい行為

中庸説の解釈に関する議論はこれくらいにとどめ、次に現代の規範倫理学における中庸説の 意義を考察することにしたい。

現代の規範倫理学において、もっとも重要な概念は「正しさ(rightness)」であると言って よいだろう。「正しさ」についての探究は、多くの場合、「正しい行為(rightaction)」とは何 かを明らかにするというかたちで行われる。正しい行為とは何かを明らかにし、何をなすべき かをわれわれに教えることは、もろもろの規範倫理学説にとって単に不可欠の課題であるだけ でなく、もっとも重要な課題とみなされているのである。概して言えば、功利主義者は正しい 行為を「当該状況において選択可能な行為のなかで、関係者全体にもっとも多くの幸福(利益)

をもたらす行為」というような仕方で説明し、義務論者はたとえば「普遍化可能な道徳規則に 即した行為」という仕方で説明する。それでは、中庸説に従って正しい行為を説明するとどう なるだろうか。

ここまで論じてきた解釈が正しいとすれば、中庸説の立場では、正しい行為とは中間を射止 める行為、つまり「関連するあらゆる観点から見てしかるべき行為」ということになる。さら に、中間を射止めるのは徳の働きであり、徳のある人は中間を射止めると言われているのだか ら、正しい行為とは「有徳な人ならばなすであろう行為、つまり関連するあらゆる観点から見 てしかるべき行為」であると説明することができよう38

この説明に対して向けられうる反論は少なくとも二つある。一つは、中庸説に基づく正しい 行為の説明は同語反復ないし無内容であるというものだ39。なぜなら、「正しい」と「しかる べき」はほとんど同義であるため、中庸説は正しい行為とは正しい行為であると言っているよ うに見えるからである。しかし、この反論は単純な誤解に基づいている。前節でも触れたよう に、「しかるべき」は観点を修飾する言葉であって、行為(や感情)を直接修飾する言葉では ない。中庸説が主張しているのは、行為の正しさは「時、事柄、相手、目的、仕方」といった さまざまな観点から判断され、正しい行為は関連するあらゆる観点において正しさを捉えるこ とによって成り立つということなのである。

中庸説に即した正しい行為の説明の意義を明らかにするために、「がん患者に対して病名を 告知することと伏せておくこととではどちらが正しいのか」という、現代の倫理学においてよ く見かける問いを取り上げよう。義務論者のなかには、「告知することは真実を告げるという 道徳規則に一致しているから、前者の選択肢が正しい」と答える人がいるだろう。また、徳倫 理学者のなかには、「告知することは正直という徳に即しているから、前者の選択肢が正しい」

というようなシンプルな説明を与える人がいるかもしれない。これに対して、中庸説の立場か ら問題を考察するならば、たとえ告知することを同じく肯定する場合でも、「しかるべき時に、

しかるべき目的で、しかるべき仕方で告知するかどうか」に注目するだろう。たとえば、告知 のタイミングは患者が冷静さを欠いている時よりも、落ち着きを取り戻している時の方が望ま しい。また、告知する医師の目的が、新しい抗がん剤の効果を調べるために、治療方針に関す

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る同意をできるだけ早く患者から取り付けることでしかないとすれば、その医師はしかるべき 目的で真実を伝えることにはならない。また、患者の気持ちには一切配慮することなく、高圧 的な態度や冷淡な態度で病名を告げるとすれば、それはしかるべき仕方で告知しているとは言 えない。このように、「関連するあらゆる観点から見てしかるべき行為」という説明は、行為 の正しさを多角的に眺めるための視点を提供するのである。

もう一つの反論は、「有徳な人とはどのような人なのか、また有徳な人ならばなすであろう行 為とはどのような行為であるのかが分からない」というものである40。この種の反論が生まれる 要因は、「徳」や「有徳な人」という概念が明確でないことにあると考えられる。しかし、これ はアリストテレスの説明に対する性急な結論である。もし正しい行為についての説明が、キー・

パッセージにあるような抽象的な説明に尽きるとすれば、そのような反論はもっともであろう。

しかし、アリストテレスは抽象的ないし一般的な説明だけでは不十分であるとし(1107a28-29)、

さまざまな徳を個別に取り上げながら中庸説を具体的に論じているのである41

たとえば、身体的快楽にかかわる徳は「節度」であり、身体的快楽に関して徳のある人は

「節度のある人」である。したがって、身体的快楽に対してどう振る舞うかが問題となる場面 では、「有徳な人ならばなすであろう行為」という記述を「節度のある人ならばなすであろう 行為」というより明確な記述に置き換えることができる。われわれは、たとえ有徳な人がどの ような人であるかは知らないとしても、節度のある人については多くのことを知っている。た とえば、節度のある人は他人の妻と肉体関係をもつことは決してないだろうし、暴飲暴食のよ うな仕方で快楽を得ることは避けるだろう。このように、アリストテレスの中庸説(そして中 庸説に基づく正しい行為の説明)は、個々の徳に適用されることによっていっそう明確なもの となる。この点において、中庸説に基づく説明は、正しい行為とは何かを概括的に語るだけの・・・

義務論的説明や功利主義的説明にはない魅力を備えているのである。

(2)中庸説と正しい感情

中庸説の重要な特徴の一つは、「いかに行為すべきか」だけでなく「いかに感じるべきか」を も論じていることである。アリストテレスは性格の徳が行為と感情の両方にかかわることを繰り・・

返し指摘している(1104b13-14;1106b16-17,b24-25;1107a3-6;110816-19;1109a20-23)。

それどころか、中庸説の概要を論ずるキー・パッセージでは、むしろ感情における中間を説明 することに重きが置かれているように見える。アリストテレスがこのように感情を重視するの は、倫理的に正しい生き方には行為のみならず感情も深くかかわっていると認識していたから であろう。もしそうであるとすれば、正しい行為の分析に偏る傾向のある現代の倫理学者にとっ・・

て、正しい行為だけでなくいわば「正しい感情」をも射程に収めた中庸説から学びうることは 少なくないはずである。

しかし、現代の倫理学者のなかには次のように反論する人がいるかもしれない。「いかに行 為すべきか」を論ずることの主たる目的は、行為の指針(actionguidance)を与えることにあ る。たとえば、「この状況で倫理的に正しい行為はどれか」と思い悩む人に対して、「関係者全 体にもっとも多くの利益をもたらすことになりそうな行為を選びなさい」というような指針を 与えるわけである。しかし、感情に関して指針を与えることはそもそもできるのだろうか。感 情は自分の身に降りかかってくるものであり、感じようと思って感じることや、感じまいと思っ て感じないことはできないのではないか。要するに、「いかに感じるべきか」を語ることは、

(13)

本人にはなしえないことを要求する結果になるように思われるのである。この指摘は、「感情」

の原語に当たるギリシア語の「パトス(pathos)」という言葉の成り立ちに注目するならば、いっ そう説得力を増してくる。「パトス」は「こうむる」や「生じる」を原義とする動詞の「パス ケイン(paschein)」に由来し、もともとある種の受動性を含意する言葉である。そのため、わ れわれの言う「感情」に近い意味で用いられる「パトス」にも、当然その含意は何らかのかた ちで残っていると考えられるのである。

たしかに、アリストテレス自身、「われわれは選択することなしに(aprohaireto-s)怒りや恐 れを感ずる」(1106a2-3)と言っている。しかし、この言明は、感情が「熟慮に基づく欲求」

としての「選択(prohairesis)」42にはかかわらないことを意味するだけであり、感情が完全に 受動的なものであることを意味するわけではない。むしろ、アリストテレスは一方で感情の受 動的性格を認めながらも、他方で感情にはある種の能動的性格があると考えていたと思われる。

この解釈を根拠づけるために、『弁論術』43におけるアリストテレスの感情論を取り上げるこ とにしよう。

『弁論術』におけるアリストテレスの感情論は、感情の認識的側面を指摘したことでよく知 られている44。たとえば、怒りは「軽視すること(oligo-rein)はふさわしくないのに、自分ま たは自分のものに対するあからさまな軽視(oligo-ria)があったがゆえに、これに対してあから さまな45報復をしようとする、苦痛を伴った欲求」(1378a30-32)と定義される。この定義に ある「軽視することはふさわしくない」という部分や、「自分または自分のものに対するあか らさまな軽視があった」という部分は、客観的事実として位置づけられているのではなく、感 情を抱く当人の判断ないし思いを表している。というのも、実際には軽視されていないとして・・ ・・

も、本人が軽視されたと判断し、それはふさわしくないことであると思うならば、怒りは成立 するからである46。ほかにも、たとえば憐れみは「破滅的ないし痛ましい不幸をそれに値しな い人がこうむるように見えることで生ずる一種の苦痛」(1385b13-14)であり、妬みは「自分 と同じような人が上述の善いものに恵まれているように見えることで生ずる一種の苦痛」

(1387b23-24)と定義される。ここでもまた、「破滅的ないし痛ましい不幸をそれに値しない 人がこうむる」という部分や「自分と同じような人が上述の善いものに恵まれている」という 部分は本人の判断を表している47。このように、感情の生起は本人がある事態や出来事をどの ように判断しているかに依存する。アリストテレスは感情をこのように規定することによって、

感情にはある種の能動的側面があることを示唆しているのである。感情は自分の身に降りかかっ・・・

てくるものであり、自分でコントロールできるようなものではないと考えることは、感情のこ の能動的側面を無視することにほかならない。ある事態や出来事をどのように判断するかはわ れわれの力の範囲内にある。その意味で、われわれは少なくともある程度は感情をコントロー ルしうるのであり、したがって、「いかに感ずるべきか」を語り、正しい感情のための指針を 与えようとすることは、十分に意味をなすことなのである。

それでは、正しい感情のための指針はどのような仕方で得られるのだろうか。怒りを例に挙 げて説明しよう。怒りという感情における中間は、怒るべき時に、怒るべき事柄について、怒 るべき相手に……怒り、怒るべきでない時に、怒るべきでない事柄について、怒るべきでない 相手に……怒らないことである。この基本見解に前節で導き出した実践的指針、つまり「中間 といっそう対立する側の悪徳の形成につながるような反応を避けよ」という指針を組み合わせ るならば、われわれは、怒るべきでない時に、怒るべきでない事柄について、怒るべきでない

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相手に……怒らないように、つまり超過した反応をしないようにとりわけ注意しなければなら ないことになる48。それでは、そのような超過した反応を避けるためには、具体的にどうすれ ばよいのか。残念ながら、アリストテレスはその点については説明しておらず、中庸説からこ れ以上の感情の指針を得ることはできない。しかし、先に見た『弁論術』における感情論を引 き合いに出すことによって、われわれはさらに具体的な指針を推測することができる。

アリストテレスの感情論によれば、怒りが成立するためには「不当に軽視された」という判 断が不可欠である。ところで、そのように判断することが多い人とはどのような人だろうか。

不当に軽視されたと思うことは、ある人が自分を評価している程度と他者がその人を評価して いる程度のあいだのギャップを認識することである。したがって、他者が自分を評価する程度 以上に自分のことを高く評価する人は、不当に軽視されたと思うことが多くなるであろう。そ うだとすれば、自分のことを大した人間であると誤って思い込むことのないようにすることが、

怒りの超過を避けるための一つの有効な手立てとなる。怒り以外の感情にもこれと同様のこと が当てはまる。つまり、判断ないし思いを含むことは感情一般に共通する特徴である以上、誤っ・・

た思い込みを避けるようにすることが正しい感情をもつための指針となるのである。もちろん、

・・・・・・・・・

誤った思い込みを避けることは簡単なことではない。ここで主張しているのは、感情のコント ロールは容易であるということではなく、われわれは少なくともある程度は感情をコントロー ルしうるということである。もしそのとおりであるとすれば、行為の指針だけでなく感情の指 針について考察することも倫理学者の重要な課題となるはずである。

おわりに

本稿では、アリストテレスの中庸説についての新たな解釈を提示し、代表的な先行研究と比 較しながらその解釈の優位性を主張したうえで、現代の規範倫理学における中庸説の意義を論 じた。中庸説の理論的枠組みに不整合はなく、またわれわれは実践面で役に立つ指針を中庸説 から得ることができるというのが本稿の結論である。

1Williams1985,p.36.同ページの「彼の〔倫理学〕体系のなかで、もっとも有名であると同時にもっと も役に立たない部分の一つ」という言葉も中庸説に対する否定的評価としてしばしば引用される。

2以下、『ニコマコス倫理学』に言及する際には書名を省略する。テクストはBywater1894を用いる。

3第二巻で繰り返し用いられる「感情と行為」という表現は、「感情と行為のそれぞれ」と解釈されるこ ともあれば(本稿はこちらの立場をとる)、「感情を伴った行為」と解釈されることもある。詳しくは、

Kosman1980,pp.109-115,廣川2000,pp.129-130,Bostock2000,pp.45-50を参照。

4本稿では、tomesonmesote-sの両方を「中間」と訳す。一部の研究者は、感情と行為における中間に はtomesonが使われるのに対して、中間の性向にはmesote-sが用いられると解釈し、その違いを踏まえて 両者を訳し分けるべきであると主張している(Young1991,p.121n.3;Brown2014,p.65,p.71n.12)。

しかし、Peterson1988,p.235n.6が正しく指摘しているように、アリストテレスは両者を厳密に使い 分けているわけではない(たとえば、1104a26と1107a9mesote-sは感情と行為における中間を指し ている。また、1106b15のtomesonb12mesote-sの言い換えである)。

5性格の徳の厳密な定義は1106b36-1107a2で与えられるが、その定義には先行する議論において論じ られていない内容が含まれている(Taylor2006,pp.107-108参照)。本稿の目的は、性格の徳がどのよ

(15)

うな論述を通じてどのように定義されるのかを考察する点にあるため、より簡潔な1106b27-28の定義 に焦点を当てることにする。

6たとえば、Broadie1991,p.96;Mller2004,p.25;Brown2014,p.64を参照。

7ムナは重量の単位で、一ムナは約六百グラム。

8Irwin1999,p.197Taylor2006,p.9に従って、1106a31とa32pasinを中性複数と解釈する。男 性複数と解釈した場合には、「誰にとっても」という意味になる。

9Woods1992,p.103;Brown1997,p.79;Taylor2006,p.102.

10Brown2014,p.68.

11「われわれにとっての中間」は状況相対性に加えて行為者相対性(行為者がどのような人物であるか に応じて「中間」は変わりうるという特徴)をも含意するのかどうかについては解釈が分かれている。

Losin1987およびLeighton1992とそれらに対するBrown1997の批判を参照。また、この論争に関す る詳細な分析として、Curzer2006およびGottlieb2009,pp.25-32も参照。

121106b15-16およびb28toumesoustochastike-はしばしば「中間を狙う(aim at)」と訳されるが、どち らの文脈においても、単に中間を狙うだけでなく中間に命中するという意味が含まれている(Taylor 2006,p.103)。さらに、アリストテレスはこの表現を「中間を捉える(tomesonlabein)」(1109a25)あ るいは「中間を射当てる(toumesoutunchanein)」(1109b13)と言い換えている。以上の理由から、本 稿ではtoumesoustochastike-を「中間を射止める」と訳す。既存の邦訳のなかでは、渡辺・立花2015

「中間を狙い当てる」という適切な訳語を用いている。

13Taylor2006,p.105は「しかるべき仕方(ho-sdei)」を「時、事柄、相手、目的」に続く五番目の観点 ではなく、あらゆる観点を包括的に表現したものと解釈している。この解釈に対する批判として、

Hursthouse2006,p.108を参照。

14これら五つの観点は網羅的なものではない。このほかにも、「程度」(1109a28)、「持続時間」(1109b 15-16,1125b32)、「速さ」(1126a10)といった観点がある。なお、ここで「目的」と訳した1106b 21-22houhenekaは、「理由(reason)」と訳されることも多い。

151106b28stochastike-geousatoumesouという分詞句が理由を表すものであることは、第二巻第九章の

「中間を射止めるものであるがゆえに(diatostochastike-toumesoueinai)」(1109a22-23)という言い換え から読み取れる。

16Broadie1991,p.100;Taylor2006,p.107.なお、「超過」や「不足」という概念にも同様のことが当て はまる。すなわち、アリストテレスは超過した反応や不足した反応という概念から、超過した性向(超 過の側の悪徳)や不足した性向(不足の側の悪徳)という概念を導いているのである(Taylor2006, p.107;Brown2014,p.71)。

17性格の徳は、いま述べた意味で中間の性向と言われるだけでなく、超過の側の悪徳と不足の側の悪徳 という二つの悪徳のあいだにあるという意味でも中間の性向と言われる(1107a2-・・・・・・・・・・・・ 3,1109a21-22)。こ の二種類の規定の関係についてはBrown2014pp.71-72を参照。

18Urmson1980,1988.アームソンの解釈は特にCurzer1996によって支持されている。

19Urmson1980,pp.160-161,1988,p.29.

20たとえば、Broadie1991,p.99;Pakaluk2005,p.109;Gottlieb2009,pp.22-23を参照。

21Urmson1980,p.161.Bostock2000,pp.42-43のコメントも参照。

22このほかに、Urmson1980,p.161は「必要とされない時に感情を表すこと」と「必要とされる時でさ え感情を表さないこと」という対比も付け加えている。

23WeltonandPolansky1995,pp.90-91.彼らも指摘するように、アームソンがこのように解釈する理由 の一つは、量的概念を感情に直接当てはめるならば、中庸説は穏健説にならざるをえないと(誤って)

考えているからであろう。

24Hursthouse1980-81,p.61.

25Losin1987,p.335.

26Hursthouse,2006,pp.100-109参照。Taylor2006,pp.110-112もこれとほぼ同様の見解を示している。

参照

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