意味の理念性
IdealitatderBedeutung
矢 島 忠
表現 の意味 と知覚の意味
フ ッサ ールに とって<Bedeutung>とくSinn>とは,同義語 であ る。 だが, 同時 に異義語 で もあ る。
この同一性 と差異を看過す るかぎ り, フ ッサ ールの意味論, とくに 「意味 の理念性」をめ ぐるあ らゆ る議 論は,実 りな きもの となろ う。
<Sinn>とい う語 は,それが 「表現 (Ausdruck)の意味 (Sinn)」 を意味す るのであれば,<Bedeutun‑
g>と同義語 であ る。
しか し,その語が作間の統握意味 (Auffassungssinn)‑作円の資料 (Materie) を意味す るのであれば,
<Bedeutung>と同義語 ではない。
あ らゆ る作用 (志 向的体験)は,その抽 象的契機 として資料 と性質 を持 つ。両契機 の統一 も,具体的作用 の抽象的 契機 にす ぎない。 しか し,必要不可欠 な, したが って本質的 な成素 であるがゆえに,作用 の 「志向 的本質」 と呼ばれ る。そ の作用が意味作間であ る とき,そ の志向的本質は とくに 「意味的本質(txdeutungs‑
maβigesWesen)」 と呼ばれ る。
表現 の意味 (Bedeutung)は, 意味作用 の抽象的契機た る意味的本質 の抽象 によって, しか も単 な る 「注 意」「分離」 とい う意味 での抽象ではな く,普 遍性意識 としての理念化的抽象 によって成立す る理念的単一 体 であ るD
これ に対 して,知覚 の意味 (Wahrnehmungssinn)は,知覚作 間の続握意味 ‑質料 である。 以下 の 『イデ ーン Ⅰ』 の記述 も,上で略述 された 『論研」]の主張 を否定す るものではない。
≪本来, これ らの語 〔Bedeuten,Bedeutung〕 は,言語的領野, 「表現 す る (Ausdrdcken)」 の領野 にの み関係す る。 しか し, これ らの語 の意味 を拡張 し, そのつ ど適 当に限定 を加え ることは, どうや ら避 けがた い ことで もあ り,認識 の重大 な進歩で もあ る。 こうす ることによって, それは或 る仕方で ノ工シスーノ‑マ の全領野 に,それ ゆえすべ ての作用 に一一 た とえ この時それ らが,表現す る作 用 とか らみあ ってい よ うとい まい と‑ 適 用 され る。 またそ うであれば こそわれわれは,あ らゆる志 向的体験 において絶 えず 「意味 (Sト nn)」‑ 実際,一般的 には 「Bedeutung」 と等価 なもの として使われ てい る請‑ を 口に して来たのであ るO混乱 を避 け るために,われわれは もとか らの慨念 だけに と くに BEDEUTUNGとい う語 を, しか も
「壷塑堕」 あ るいは 「表現す る」BEDEUTUNGとい う複雑 な言い方で使いたい と思 うDSINNとい う語は 従来 同様今後 も, よ り包括的 な広い範 囲で使 うことに しよ う。≫ (IdeenI.,S.304)
<Bedeuten>とくBedeutung>の関係 は, ノエ シスーノ‑マ関係 とい う一般的視点か ら見 られ てい る。 し か しそれ は,包括的 な意味での<Sinn>に対 して, <Bedeutung>の特殊 な意味 を限定す るためである。 こ こでの 「拡張」は同時 に 「限定」 であ る。<Sinn>が拡張 され, <Bedeutung>が限定 され る。 しか もこの 拡張は,既 に 『論研』で,新芽 として 『算術 の哲学』でなされ ていたのであ って, 『イデ ーン
Ⅰ
』 ではない。(ibid・,F・T・L,S.141)
『論研』 において理念性が要求 され ていたのは<Bedeutung>一般 であ って<Sinn>一般 ではない。 く≪二 つの表現 は同 じ意味 を有 しなが ら,異 なる対象関係を有 す る場合 もあ りうる≫ (L.U.ⅠⅠ/I.,S.48)が,≪ 同 じ質料が異 な る対象関係 を与え ることは決 してあ りえない。≫ (ibid.,S.416)あ る表現 が,意 味 を 「変 えず に」異 な る対象関係 を持 ち うるのはそ の普遍性 のゆえであ るが, 「異 なる」対 象関係 を持 ち うるのは, そ の つ どの意味作 用 とそ の資料 (統握意味) ない し意味的本質 の個別性 のゆえであ る。≪意味 の動環は もともと
*弘前大学教育学部社会科学科教室
意味作用の動揺≫ (ibid・,S・91) であ り,統握意味 の動揺 であ る。
樫味な意味 と精密な意味
形相学 としての現象学は,個体については何事 も語 りえない.(IdeenI・,S・172)とはいえ, 個休は, 単 に 「これが‑そ こに」 (Dies‑da!)とい う仕方でその存在が事実的 に確認 され るのにす ぎない ものではない.
いかなる 「この もの」 (Dies‑da)も,豊里 実質的本質成案 を持 ってい る.く≪そ の実質的本質が星 墜童 であ る この ものが,坦 堕 と呼ばれ る。≫ (ibid・,S・36)具 体者 とは,絶対 に独立な本質 である.最 低種差,形相的 単独体のみが独立的本質 であ りうる。一般的 な本質は特殊的 な本質 の中に直接ない し間接的 に 「含まれ て」
い るか ら,上位 の種や類は,≪原理上すべ て非独立的本質≫である. あ る類が具 体的 な類 と呼ばれ て も,そ れ 自身が具体者 なのではな く,その下 に具体者を持 つ ことを意味す るにす ぎない。 それ ゆえ, 「含 まれ る」
とい う言葉の二重の意味 を区別 しなけれ ばな らない。 あ る本質が よ り上位 のスペ チェスない し頴 に下 層す る こと(Subordination)と,個体 を,あるいは一般 に この ものをあ る本質 に (最低のスペ チェ スか ら最 高類 に 至 るまで)包摂す ること (Subsumption)を混 同 してはな らない。(ibid・,S・33)外延的 に含まれ るものは, それ ゆえにその独立性 を犯 され ることはない。逆 に,外延的 に含 む ものは内包的 に含 まれ る非独立的 な もの であ るO この意味 で,個体 を包摂す る本質は個体に含まれ る非独立的内容であ る.それが独立的であ ること は,それ を含むいかな る種差 を も自己の下 に持 たない ことを意味す るにす ぎないD 厳密 には,個体のみが貢 の具 体者である。 た しかに個体は, 「この もの」がその本質 との関連 に置かれた ときにのみ個体 と呼ばれ う るのであ り,そ の意味 で,個体は本質 を 「持つ」が,本質 「である」 のではない。つま り,個体の本質が何 であ るかは語 りうると して も,貢の具体者,無限 な もの としての個体が何 「であ る」 かは語 りえないo
形相的単独体 に対 して,現象学はいかなる態度 を とるだろ うか。現象学の逸す るのは 「個体化」だけであ り,本質内実 の全体は形相的意識 にまで高 め うる, と語 りなが ら,す ぐさま次の ことが言われ る.く宅われ わ れ の記述的領野 では,形相的単独体 の一義的規定 については何事 も語 りえない≫≪ このよ うに流れ ゆ くあれ これの星 墜墨 の術語的堅宣延 については考 え ることができないO>, (ibid・,S・172)様 々な次元へ向けて流 れ ゆき流動す ることが意 識一般 の特性 であ るか ぎ り,形相的具体者 の概念的 に精密 な固定は問題 にな らない。
記述的概念が唆 味 であ ることは必然的 なのであ る。 しか し,≪ スペチェ ス性の よ り高位 の本質 においては事 情がま った く異 なる≫ (ibid・)がゆえに,記述的形相学 としての現象学の可能性はその基礎 を持 つ。すなわ ち≪ これ ら 〔よ り高位 の諸本質〕は,確 固とした仕方で区別 し,その同一性を保持 し,厳密 に概念的に把握 し,同様 に してそれ らを構成す る諸本質へ と分析す ることがで きる。それ ゆえ, これ らの本質こ とっては, 包括的 な学的記述 とい う課蓮 を立 てることは 十分意味のあ ることであ る。≫ (ibid・)なぜ な ら,体系的 な帰 納的手続 き,すなわち普遍性 の階悌 を一歩一歩 よじのぼ ってゆ くことが方法論 として要請 され るとい う意味 で,高位 の ものが下位 の ものに依存す る ことは決 してない, とい うことが頴的本質把捉 の本性だか らであ る。
≪ さ もなけれ ば,形相的単独体の流動性 が類 に伝染 し, これ らの類 の記述 の厳密性 が,不精密性 によって排 除 され ることになるだろ う。≫ (Ricαur,p・240,n・2.cf・p.238.n.1)
表現 の意味のスぺ チエ ス的同 一性 を語 る 『論研』は,同時に,流動す る形相的単独 体の暖昧性 のゆえに酸 味 であ る表現 について も,すでに十分考慮 をは らっていたO意味 (Bedeutung)の理念性 が,暖味 な流動的 表現への配慮 に もかかわ らず主張 され ていた ことを忘れ てはな らない。
≪ 日常生活 における大部分の表現,た とえば樹木 と潅木,動物 と植物 な どは≫≪それが怪聞 され るあ らゆ る場合 に同一であ るような意味内容 を もってい ない≫暖味 な表現である。 なぜ な ら,それ らは≪知覚 や経験 に基づいて生 じる類型的諸性格≫ によってその意味 を定めてい るために,≪それ ら諸誓型 の流動的移行 (す なわちそれ よ りも更 に上位 の頴 の内部での) によ って,流動的 な表現 にな らざるをえない≫(LU.ⅠⅠ/Ⅰ・,S.88) か らであ る。 表現 には,意味が,主観や状況 によって変動す る表現 と,その意味が一切 の動揺 を免れ てい る 客観的で確宝的 な表現があ るO もし≪ 一切の動揺 を全て免れ てい るとい うこの ことを極 めて厳密 に受け取 る とすれ ば, この後者に属す るのは精密 な表現 のみである≫ (ibid・,S・89)ことにな る。事実的 な語義の動揺 を この ように承認 した うえでは じめて,・≪これ ら重大/Jj:意味の動揺 の諸事実が,意味 を理念的 (したが って 固定的 な)単一体 と解 す るわれわれの解 釈を揺 り動かすか どう′:'ゝ, あ るいはわれ われ の解釈の 普遍性 を制約
す るか どうか≫ (ibid・)と問われていたのである。 意味の理念性は 『イデーン
1
』 において初 めて脅か され たのではな く,意味の動揺 とい う事実 との対決 によって獲得 されたのである。 『論研』 におけるこの対決がどのようになされていたのかを見 ることに しよう。
何 よ りもまず,客観的表現 の意味 と主観的表現の意味 との間には,何 ら本質的な相違が存立 していない こ とが確認 され る.主観的な表現がそのつ どの状況 に応 じて思念 してい るその意味 も, <Bedeutung>である か ぎ りやは り理念的単一体なのであ って,≪ この表現 に瞬間的に帰属す る志向を同一の もの として確保 して いる場合 には≫ (ibid・,S・90),客観的な精密な表現の意味 とな りうる。 この ことは, ≪客観的理性の無限 性≫を,つま り≪それ 自身で確定 してい るものは,客観的に規定 され るはずであ り,客観的に規定 され るも のは,理念的に言えば,確定 された語義のなかで表現 され る≫ (ibid.)ことを意味す る。 とはいえ,暖味 な 主観的表現 をすべて排除 し,精密な客観的表現のみか らな る理想言語 の構築がめざされてい るわけではないo
≪そ うした試みはすべ て明 らかに徒労である。≫ (ibid・,S.91)それが徒労であるのは, 「客観的理性 の無 限界性」が否認 され るか らではな く, まさにそれが確認 され るか らである。理念的無限性 のゆえに,事実的 不可能性が主張 されてい るのである.主観的表現 にそのつ ど瞬間的に帰国す る意味志向が思念 している意味 は,それぞれ理念的単 一体であ り,それ ら無数 の意味に対応す る無限に多 くの一義的表現 を与えることは, 原理上可能である。いずれ にせ よ,≪瞬間的 に帰属す る意味志向を同一の もの として確保す る≫ とい う条件 が不可欠であ る。異なる意味志向が異 な る意味 を思念 していた として も不思議はない。厳密 に言えば,意味 志向が異な るならば,語 としては同一であ って もその語は異なる表現だ とい うべ きである.語 としての同一 性の背後 に,表現 としての差異性の可方E性 を承認す るか らこそ,同 じ語が果 して同一の表現 であるか (同一 の意味を持 つか) どうかが常 に気づかわれ るのである。そ して, このような気づかいは,意味 を理念的単一 体 と考えないか ぎ り,無益である。
表現 と表現 されるもの
表現 の意味 の理念性が表現 され るものの非理念性 によって脅か され,汚染 され ると考え られ るのは,表現 の 「非生産性」 と,表現 され る ものに対す る「反映」関係 とについての,あ る種の解釈を前提す るか らであ る。
≪ 「表現」 とは,すべ ての<Sinn> (ノエマの 「核」)にみずか らを順応 させ,それ 〔Sinn〕 を 「三三三」,
「概念的な もの」,それ ゆえ 「普遍的なもの」 の国‑ と高める,ある 注 目すべ き形式であ る。≫(IdeenI・, S.305)
≪あ る独特の志向的媒体がそにあ る。それは,他のいかなる志向性 をも形式 と内容 にそ くして言わば反映 し,独 自の色づけを して模写 し,その さい この志向性のなかに 「概念性」 とい うそれ 〔表現〕 自身が持 つ形 式を画 きこむ。≫ (ibid.)
≪表現 の層は‑ その ことが この層 の独 自性 なのだが‑ それが他のすべ ての志向的なものに表現を賦与 す るとい うことを除 けば,非生産的であ る。 あるいは こう言いたければ,その生産性,その ノエマ的作業は, 表現す ることと,その ことにともなってあ らたに入 りこんで くる概念的な もの とい う形式 に尽 きる。≫ (ib‑
id.,S.306)
「非生産的」即 「単 なる反映」であれば,表現 され るものの非理念性がそ っくり表現 に反映す るのは当然 であろ う。 しか し問題はいかに反映す るか,非生産性 とは何か,とい うことである。それ ゆえ,鏡像 とか模写 とい う比境 に対す る慎重な理解が,ただちに要求 され るのである。(ibid.,S・305)そ もそ も表現は本質的に 不完全であ り,それは まさに表現 の普遍性,概念性 のゆえであ る。く≪表現 の本質 に属す る普遍性 には,表現 され るもののすべての特殊性が表現 のなかに反映す ることは決 してあ りえない, とい う意味が含 まれ てい る。
意味す る層は,一種の,基層の二重化な どではない し,原理上か らしてそ うではない。≫ (ibid・,S・310) ロゴス化 し,概念化 し,普遍化す る ことな しに表現す ることはあ りえない。 また逆 でもあ る。 表現 の非生産 僅 とは,表現が何 も生産 しない ことを意味 しない。すべての作用は,根源的生産 において生 成 す る。そ れ は,≪いわば創造的端初 とい う自発性 の様態≫ (ibid・,S・300)において始 まる。 表現 もまた単なる再生産 ではな く,それ 自身 一種の根源的生産,創造であ る.それはまさに<Bedeutung>を生産 し, 創造す る.他 のすべ ての志向性 をロゴス化 し,概念化 し,普遍化 し,範晴的形式によって綜合す る。つま り表現す る。そ
してそれ に≪尽 きる≫のであ り,それ以外 の ものは≪生産 しない≫のであ る。知覚 表現は知覚 に表現 を与 え る (範鳴的 に形成 す る)が, 当の知覚その ものを決 して生産 しないD ま してや別 の知覚 を生産す るわけ もな いO表現 だ けか ら知覚 を うることは決 してで きない。 また,想起 とい う意味で知覚 を再生産す るわけではな いO想起 の きっかけにな りえない表現が,それ ゆえに不完全であ るわけではfj:いO 表現 は表現以外 の何 もの で もな く,表現独 自の生産性 を持 つ。
た しか に, .『イデーン
Ⅰ
』では,表現 の この生産性,概念 化,範晴的形成 の作業そ の ものは主誼 とな って いない。 しか しそれは, 『諭研』全体が この ことをすでにな しで ィ、た ことを前提 してい るか らであ る。意味 (Bedeutung)は イデア自勺単 一体であ り,普遍的対象 ない しスペチェ スの一種であ るO知覚 表現 の志向す る 意味 に合致す る充 実す る意味 も,充実す る直 観 としての知覚そ の ものの統握意味ではな く,範鳴的 に形成さ れた知覚 の意味的 な もの (Bedeutungsmaβige), つ ま りイデ ーであ る。そ して, この普遍的対 象そ の もの を思念す る普遍性意識が明 らかに存在す るか ぎ り,直観概念は感性的 直観か ら範晴的直観 にまで拡張 され な ければな らない。 しか しこの拡張 は,同時 にそれぞれの直観の限定 で もあ る。 『諭研』 の主題 は,表現 と表 現 され るものの差異,前 者による後者 の概念化,範晴的形成,普遍化,つ ま り 「表現す る」 とは何 か, を解 明す ることにあ った。「表現 され る」 ことは, 同時 に 「思 考 され る」 ことであ る。(IdeenIリS・304)表現 され ることによって 高 ま ってゆ くロゴスの世界 とは,言表, 思 考, 思考 された もの, 理性 の世 界であ る。 (F・T・L,S・23)忠 考 とは,≪ 表現 されたSinnにな るべ きはずの Sinn‑ そ して このSinnは,表現 され た時には,表現 の 鮎deutung, と くにそのつ どの言表 の Bedeutungと呼ばれ る‑ が,そのなかで意識的 に構成され るすべ ての休験≫ (ibid・,S.27)を意味す る。 この よ うな思 考, <Bedeutung>にな るべ き<Sinn>の意識的構成 は,次 の ことを前提す る。 ひたむ きに遂行 され てい るすべ ての コギ トに とって,そ の コギタ トゥムその もの への態度変更が可能であ り, この反省 によって当該 の<Sinn>,思念 され たその もの, コギタ トゥムその も のが指定 され うる。 ロゴス (思 考, 表現,理性)が可能であ るためには,つ ま り,理性 の≪ 「批 判」が始 ま るべ きな ら,そ のつ どの<Sinn>が主蓮的 にな らな くてはな らない。≫ (ibid・S・141)
知覚対象の同一性 と意味の同一性
知覚 において,物の諸規定は決 して一挙 に全 面的 に与 え られ ることが ない。 しか し,物は無数 の個別的規 定 の単 な る総和 ではない,同様 に連続的知覚 もまた部分的志向の単 な る総和ではな く,統一体であ る。そ し て,≪ この統一はた しかに同一化の統一 (Einheitderldentifizierung)であ る>,が ,≪ しか し同一化 の統一 とは≫≪ひ とつの同一化 「作用」 の統一 (EinheiteinesAktesderIdentifizierng)と同 じことを意味 しないO ひ とつの作用は何 ものかを思念す る。 同一化 作用は同一性 を思 念 し,それ を表象す る。 われわれ の場 合には た しかに同一化が遂行 され てい るが,いかな る同一性 も思念 され ていない。≫ (L U.ⅠⅠ/ⅠⅠ・,S・150)つ ま り,≪い ま知覚 され てい るもの と, さきに知覚 され た ものが,一つの同 じものであ る≫ ことは,連続性 (融 令) の統一 を土台 とす る新 しい同一性 の意識 においては じめて意識 され る ものであるO(ibid.,S.151)
したが って, ノエマ的意味 において,意味規定が移 り変 って も≪ 同一 な もの≫,≪ あ らゆる述語 を抽象 し た純粋なX>,(IdeenI.,S・321)の同一性 も,無限 に多様な意 味規完 のそのつ どの不完全 な綜合 によっては じめて与 え られ,それ ゆえに抹消 され る可能性 を秘 めた同一性 ではない.それ は逆 に,何か についての経験 が成立 しうるための必然的な条件であ る。 この≪同一な もの≫があ っては じめて,無限に多様な意味規定が 可能 にな るのであ る。つ ま り, この ことは,そのつ どの意味規定が絶対的 であ ることを意味 しない。
た とえば,思 い違いの現象について考えてみ よう。 私:I, 当初 は 「人間」 だ と思 われた ものが,その もの につい ての新 しい経験が加 ることによって,実 は「人形」であ った としよ う。その時,否定 されたのは,意味
違いが生 じうるのであ る。 この基体の同一性 は,そ のつ どの意味規定の集合 を比較 し, 共通 の意味規定 を兄 いだす ことによっては じめて意識 され るのではな く,知覚 の連続性 による統 一であ る。意味規定 の集合 の比 較 は, 中断 された知覚 において,.基体 の帖 一性 を確認 しようとす る時 になされ る新しい同一化の作岡であるL
同一の基体な しに,知覚 の無限 な開放性 について語 って も何の意味 もない. なぜ な ら,そのよ うな知覚 に
おい ては何事 も起 りうるか らである0 円い ものの知覚は, 四角い ものの知覚が後続す ることを矛循律 によっ て排除 しない。見 えた ものが瞬時 に見えな くな り, 円い ものが瞬時 に四角 くな ることに何 の不思議 もない。
連続す る諸知覚はその ことによって何 の矛循 もきた さず,一つの全体知覚 の うちに融合 され,統一 され てい るだ ろ う。
さらに次の ことを確認す ることがで きる。 すなわ ち,あ る同一の基体の意味規定が無限 に多 くな りうるこ と, またそのつ どの概括的意味規定が抹消 され うることは,意味規定その ものが流動す る ことを意味 しない。
た とえば,同一の基体が, 当初 は 「人間」 とい う意味規定 を与え られ,今 は 「人形」 とい う意味規定 を与え られ てい るとして も, 「人間」 とい う概念が 「人形」 とい う概念 に変 ったのではない。知覚 とい う前表硯層 において,表現 層の意味 の同一性 を論ず るのは不適切 であ ると批難 され るか も知れ ない。実は,た しか に不 適切 だ とい うことを,われわれは示 したい と思 ってい るのであ るOつ ま り,<fkdeutung>の同一性 を主張 す ることは, ある個体あ るいは世界 の認識が決 して完結 しない ことと,何 ら矛循 しない, と言 ってい るので あ る。 ナポ レオ ンは,あ る時は, イエナの戦いで陣利 をお さめたが, 後には, ワーテル ローで敗れ さったの だか ら, ナポ レオ ンのあ る一定の状態 を特権化 した 「イエナの睦者」 とい う表現 の意味 も流動す るのた, 忠 どとい うことが どうして主張 で きよ うか。
自己現在化と 自己共同化
「あ らゆるものが表現可能であ る」 こと,そ して同時 に, 「何故あ らゆる ものが表現可能であ るのか」 を 明 らか にす ることに,現 象学 の主要 な課題があ った。 あ らゆるものは, 有意味 な陳述 の主語 にな りうるか ぎ りで対象 (客観)であ り,対象 (客観)であ るか ぎ りで表現 可能 であ る。(客観的理性 の無限界性) それ ゆ え,現象学は なによ りも,客観化作用 (objektivierenderAkt)の解 明をめざす。<≪志 向的体験はすべ て客観 化 作用であ るか, もしくはそのよ うな作用を「基礎」に もつ≫,≪すべ ての質料 は客観化作 円の質料 である。≫
(L.U・ⅠⅠ/Ⅰ・,S・493‑4)そ して, 表現それ 自体 も客観化作用であ る。
ところで,あ らゆる対 象 (客観)は,実在的,つま り時間的 に局 在化可能であ るか,実在的 でない,つ ま り時間的 に局在化不可能であ るか,いずれ ,かであ るO前 者は,その時 間的局 在性 のゆえに,意識か ら独立 な 超越者であ り, これ に対 し,後 者は,思 考の自発性 :=依存す る。 この構成 の過 程が 「理念化」 であ り,それ によ って構 成され る非実在的対′象は理念的対象 と呼ばれ るO表現 の意味 もまた,客観的時間の中にその位 置 を占めない とい う意味で,非実在的理念的対象であ る。 「理念性」 とは, まずは この 「無時間性」「超時間 性」以外 の何事 も意味 しない。 あ らゆ るものの表現可能性 を説 く現 象学は,それ ゆえ,理念的対象 を構成す
るこの 「理念化」 の解明をめざす。
しか し, あ らゆ る対 象構成が時間化 であ るな らば,時間のなかに位置 を占めない理念的対象 の構成は,矛 循であ る。それ ゆえ現象学は,時間的 に局在化不可能な ものの或 る独 自な時間化を明 らか に しなければな ら ないOすなわち, 理念的対 象の無 時間性, 超時間性 は, それ 自身時間性 の一様態 にす ぎない 「汎時間性」
(Allzeitlichkeit)(E・U・,S・313)であ る。誰 に とって も,何処 にも存在 し, しか も同時 に,特定 の誰 に も, 特定 の何処 にも存在 しない この汎時間的対象の構 成は,そのつ ど各 人がそれ であ り,同時 に特定 の誰 で もな
く,特定 の此処 と今 にい うわけで もない構成者,超越論的 自我 (transzendentaleslch)の うちにその根拠 を 持 つ。
この超越論的 自我が何 であ るかを解明す ることが,つね に現象学 の中心課題であ った。
Heldは, フ ッサ ールの未刊 の草稿 を駆使 しなが ら, この間蓮 に次 の よ うな解明 を与えてい る。 すなわち, すべ ての対象構 成は時間化 (Zeitigung)であ り,≪ この時間化 の硯様態は 「現在化 (Gegenwartigung)」
であ る。≫ (Held,S・Vlll)≪時 間化の原階層は≫, 自己 自身へのその最大 の近 さのゆえ に,≪超越論的 自 我 の 自己現在化であ るO>,この自己現在化の≪ 「場」が 「生 ける現在 (1ebendigeGegenwart)」 であ る。>, 構成 され るあ らゆる対 象は,時間的 な流れ ゆ く対象か,あ るいは汎時間的 な立 ちつ くす対 象か,そのいずれ か として しか構 成 され えないO 同様に,対象構 成の原様態,原階層の場 であ る超越論的 自我 自身,時間的 に 流れ ゆ く今 ,'J、,あ るいは汎時間的 に立ちつ くす今 (nunc stans)か,そのl/ザ れか J̲して しか, 自己 自身を‑ 反省的 表現性 (明確性) において把捉 しえな い C≪ すなわ ちつね にすでにいずれかの仕方て構 成され いる も
の として現 象す るのであ り,最終的 に構成す る もの としては決 して現象 しない。≫ (ibid・,Ⅹ)だが,生 ける 現 在その ものは, 流れ ゆ く今 で も立ちつ くす今 で もな く, 両者 の統一, 「流れ ゆ き一立 ちつ くす一今 (str61 mend‑stehendes‑Jetzt)」である。それは,時間のなかにあ るとい う意味 で も,汎時間的 とい う 意 味 で も
「時間的」ではな く, 「前一時間 (Vor‑Zeit)」(ibid・,S・116)であ る。あ らゆる対象構成が時間化であ る か ぎ り,前一時間的 な生 ける現在その ものはいかなる意味 で も対象ではな く,それ ゆえ証示不B'iE,表現不能 , 無名 (anonym)な ものであ る。それはいか なる意味で も存在ではな く, 「前一存在 (Vor‑Sein)」(ibid・) であ る。
われわれ は ここに,あ らゆる構成可能性,表現可能性 の根拠 その ものの構成不可能性,表現不可能性,無 名性 とい う逆説 に曹偶す る。す なわち,≪すべ ての ものはその名前 を もってい る, ない しは最 も広い意味で 名づ け られ るもの,す なわち, 言語的 に表現 しうるものであ る≫ (krisis.,S.370)と同時 に,根源的時間 構 成の流れ,絶対的主観性,≪ こうい った ことのすべ てを言い表わす名前 をわれわれは持 ちあわせ ていない≫
(Z・B・,S・75)のであ る。
しか し, まさに この無名性 のゆえに,現在化 の原階層た る自己現在化 は,同時 に自己共同化 (Selbstver‑ gemeinschaftung)で もあ る。それは,客観的世 界,≪すべ ての人にとっての世界,「だれ もが」世界地平 と
してもつ世 界≫ (krisis・,S・370),語 りつつ理解 しあ う人間の世界 としての言語共同体, を構 成す る共同化 の原階層であ る。 なぜ な ら,≪私 を定義 し他 のあ らゆ る現前 を条件づ ける私 自身への現在 (Urprasenz)が 同時 に非現在化 (Entgegemwartigung)であ る>,(Merleau‑Ponty,P.417)か らであ り, 自己現在化が≪生 ける現在 ‑ これは 自らを投射 し自 らを弁証法的 に把持 す る ‑ の絶対的同一性 のなかでの構成 された契機 と構 成す る契機 の限 りない不 ・‑一致 と相互的包 含 との統一>,(Derrida,p・159)だか らであ る。 自己現在化 は超越論的 自我 のそれ 自身 に対 す る最大の近 さのゆえに,あ らゆ る現在化の原階層 であ った。 しか し,最大 の近 さは最小 の遠 さにす ぎない。 自己現在化は,それ以前 に自我が前 反省的,原受動的 に自己か ら引 き裂か れ,距離 を とっていたのでなけれ ば,そ してその自己疎外 (Selbstentfremdung)と同時 に, 自己 自身 と絶 えず連結 していたのでなければ不可能であ る。 しか もこの結合 は,あ らゆる能動的 な自己同一化以前 の根源 的 な綜合, 「移行 の綜合 (UtXrgangssynthesis)」であ る。(Held,S.104,Merleau‑Ponty,p.480,P.484) 知覚 における融合 の統一 も,あ らゆる対 象構成,あ らゆる時間化,超越論的 自我 の反省的 自己現在化 も,滑
り去 らせつつ同時 に引 き留 めるこの移行 の綜合 な しにはあ り え な い。 ≪絶対者は移行 であ る (1'Absolut estlePassage)≫ (Derrida,P・165)と言われ るの も, この意味 においてであ る。
この原受動的な移行 の綜合 によって私は, 「現 に(Da)」「私が作動 してい る (Ich fungiere)」 ことを 知 ってい るとはいえ,それは時間的 ない し汎時間的 に構成 された 「対面 (GegentitXr)」 ではない。 それは 何 であ るか を語れ ない 「原事実 (Urfaktum)」であ る。 (Held,S・146‑9)
≪私 の主観性 と私 の他者への超越 とを同時 に基礎 づけてい る中心的現象は,私が私 自身 に与 え られ てい る とい う, まさ しくその点 にあ る。≫ (Merleau‑Ponty,P.413)この与 え られ てい るとい うことは,無名 かつ 事 実的 に,あ らゆ る対象化以前 につね にすでに与 え られ てい ることであ り,それ ゆえ,≪私は私 よ りももっ と私 自身であ るこの私 に関 して無 知であ る。≫ (ibid・,P.412)私 は私 の 「私 は作動 してい る」 を,他者 の
「私は作動 してい る」 よ り以上 に現在化 し,それが何であ るかを知 っているわけではない。た とえ≪私が私 の生 の 「第一人称 〔最初 の人格〕」であ り, またあ り続 けるか ぎ り,私 の,私 に‑とっての‑存在が,他者 の, 私 に‑とっての‑存在 よ りも本質的 に近い≫ (Held,S・164)としても事 情は変 らない。それ ゆえ他者の 「私 は作動 してい る」が この よ うにあ らか じめ与 え られ てい る仕方が≪共 同現在 (Mitgegenwart) と呼ばれ, あ らゆる対 象化か ら身をかわす共同化 の根源形式であ るな ら≫≪無名かつ事実的 な もの としての 私 自 身 の
「私 は作動 してい る」 を受 け取 ることも 「自己共 同化」≫ と呼ぶ ことができるだろ う。 (ibid・)
したが って,≪ 自我 の内面 にはすでに 「形式的 な此処一其処一相関関係」が支配 してお り,それ によって我 (此処)は, 「つね にすで に人称変化 を可能 にす る汝 (其処)」 なのであ る。≫ (ibid・,S・169)もちろん, 客観的 に構成 された 自我 の一人称単数性,その唯一性 は,他の自我 を排除す る。 しか し,最 終的 に構成す る 自我の唯一性,一点性 は, もろ く,崩れ さるoそれ ゆえに≪われわれが絶対的個体 としての密度 を手 に入れ ることを妨 げ る内的脆弱 さ (faiblesseint6rieure,innereHinfalligkeit)>,(Merleau‑Ponty,P・485)につい
て語 ることがで きるのであ る。 しか し, 自我 における 「此処‑其処」 の相関 も反省 によって確定 された複数 性 ではない。依 然 として自我は移行の綜合 によ‑1て 「JFr'、」 として立ちつ くす。く≪生 け る作動現在は立 ちつ く
し一崩れ さる自己共同化であ る。≫ (Held・S・172)
あ らゆ る客観的構成以前 の,超越諭的 自我の この無名の前所 与性 (Vorgegebenheit)とい う 「事実」 を ど う理 解すべ きだ ろ うか。Merleau‑Pontyによれば, これは≪私がすでにあ る物理的 ・社会的 世界の うちに位 置づ けられ てい ること≫≪私の世界への挿入≫ に私が気づいてい ること,それが≪私 に隠 され ていない こと≫
(Merleau‑Ponty,P.413)であ る。 ≪私の主観性 は≫,決 して客観的世界 に同す る ものではない≪己 れ の 身体 を引 きず ってい る≫ (ibid.,P.405)ことに よって,≪その純粋性 と透明性 を失 う.≫ (ibid・,P・402) つ ま り≪われわれの誕生≫≪われ われの 「生殖性」が,われわれの能動性 ない し個体性 と,われわれの受動 性 ない し一般性≫ ≪ とを同時 に基礎づ けてい るのであ る。≫ (ibid・,P・489)しか し,原事 実 としての 自我 の不透明性 を,身体の不透明性 に よって基礎づけることがで きるだろ うかOそ うだ とすれば,それは もはや 原事 実ではない ことにな らないだろ うか。逆 :こ,身体の不透明性 も,≪身体が客観的世 界か ら身を退 く≫(ib‑
id.,P.402)ことがで きるの も,生 ける現在が 「流れ ゆ き‑立 ちつ くす一今」 とい う両義性 をそれ 自身でにな ってい るか らではないだろ うか。 この両義性 は還元の果 てに, もう一度 自我 を世界‑挿入す ることに よって 生 じるのではな く, まさに還元の果てに兄 い出 され る両義性 であ る。それ ゆえに こそ,私は身体 を 「持 つ」
ばか りでな く,身体 「であ る」 と言 えるのであ る。
結論
この論文 の前半は,そ こではそれ と明示 され ていないが,加茂英 臣民の論文 「意味 と存在」(哲学誌)の再 考 であ る。その論文の意 図は次の よ うであ る。く≪さて, この 『論研』で主張 された意味一般 の イデア性が,
‑‑『イデ‑ン Ⅰ』での この 「意味」概念の前表現層 までの拡大及び分析 によって,その 高貴な資格の保持 を貫徹で きな くな ってい ると,筆者は考 える。つ ま り, 表現意味の イデア性は,知覚意味 の非 イデア性 によ って, 自 らを維持 で きな くなってい るのではないか,少 くとも,知覚意味の非 イデア性が, 『論研』で表現 意味 に与 え られたあの透明な イデアの姿 に,暗 い影 を投影 して くることは事実であ る。果 して,表現意味は,
この影 を拭 い去 って, 自らの形相 (Specie)を保 てるか。 『論研』 と 『イデーンⅠ』の壁 塾 に とどまるか ぎ り,恐 らくは出来 ないのではないか, と筆者は考 える。 つま り, イデア的意味一個体 とい う二極的枠組 では, ことた りな くな ってい る筈 なのであ る。≫ (哲学誌 P・6ト2)
われわれ は,著者の議論 を十分理解せず, 『論研』 と 『イデ ーン Ⅰ』の枠組 とい う制限 を尊重 しなか った か も しれ ない ことを恐れ なが ら,蛋「意味」 概念の拡大≫については,<Sinn>の拡張はあ っても,<Be‑ deutung>の拡張はなか った ことを確認 したOついで,意味 の理念性 と流動性 の対決が,客観的理性 の無限界 性 と意味志 向の同一性 の確保 の主張 によって果され ていたのを見た。 また,表現 と表現 され るものの関係が, 決 して単 なる反映 ではな く, 表現 の生産性 が,普遍化,理念化 の作業 に認 め られ,それ に尽 きることが示 め
された。そ して,知覚対象の同一性 が融合の統一 であ り, それ こそが, ≪差異的綜合≫ (哲学誌p.66)と 呼ばれ ていた ものの原形式であ ること,個体 の意味規定が未完であ るとしても,その意味規定その ものは, 表現 され うるか ぎ り,流動 す るものではない ことが確認 されたC
結論的 に次 の よ うに言 うことがで きる。意味の理念性 の主張 は,われ われ の言語活動 において,同 じ語, 同 じ文が,つねに明証的直観 に基 づいて同 じ意味 で理解 され てい ることを意味 しない。そ もそ も,汎時間性 (Allzeitlichkeit)が時間性 (Zeitichkeit)の‑様態であ ることは,それが, 「はかな さ」(Zeitlichkeit)の一 様態 であ ることを意味す る。現象学 の論理的客観主義について語 りうるとしても,それは,表現 の意味 の理 念的同一性が, 自覚 (Selbstbesinnung)と自己責任 (Selbstverantwortung)に基づ く意味志 向の同一性 の 確保 によっては じめて成立 しうることを意味す るにす ぎない。 それ ゆえに こそ,語 ってい るのは誰 であ り, 何 を語 ってい るかについての不断 の反省 が要請 され るのであ る。
この論文 の後半は, この語 ってい る自己は誰か,語 るとは どうい うことなのか, とい う問いに当て られ て い る。
現象学の課題 は,なぜすべ ての ものが表現可能 であ るかを解 明す ることにあ る。 まず この ことが確認 され
た。すべ ての ものは対象 として構成されてい るか ぎ りで表現可能であ った。そ して,すべ ての対象構成が時 間化であることが示 された。何時で も出逢 い うる汎現在性 とい う時間様態の うちで与え られ る理念的対象の 構成は,流れゆ きなが らつねに今 とい う形式を保持 し,汎時間的 に現在す る自我 な しには不可能である。 し か し,われわれはそ こで解 き難い謎 に曹偶 した。すなわち,あ らゆる対象構 成をのがれ る超越論的 自我その
もの無名性 とい う事実である。だが,それは事実であるか ぎ り自分自身に与え られ ている。最小 のへだた り とその架橋 ,移行 の綜合 とい う仕方での自己 と自己の連結は,無名かつ事実的 な自己共同化 と捉 え られたO それ こそが,表現可能な世界,客観的世界,言語共 同体を構 成す る共同化,相互主観性 の原形式である。
文献略号
L U・ⅠⅠ/Ⅰ:LogischeUntersuchungen,BandII,TeilI,MaxNiemeyer,1968・
L U.ⅠⅠ/ⅠⅠ:LogischeUntersuchungen,BandII,TeilII,MaxNiemeyer,1968・
E.U.:Erfahrung undUrteil,CIssen,1964.
IdeenI:IdeenzueinerPhanomenologieundphanomenolgischen Philosophie,ErstesBuch,Hu・(Hu‑
sserliana)ⅠⅠⅠ,1950・
Z・B.:ZurPhanomenologiedesinnerenZeittxwuβtseins,Hu・X,1966・
F.T.L.:FormaleundtranszendentaleLogik,Hu.XVll,1974.
Krisis:DieKrisisdereuropaischenWjssnschaftenunddietranszendentalePhanomenologie,Hu.VI, 1962.
以上 Husserl.
Ricoeur:Id6esdirectricespouruneph6nom6nologie,(IdeenI,traduitprRicoeur)Gallimard,1950・
Held:Let*ndigeGegenwart,PhanomenologlCa23.1966.
Merleau‑1X)nty :Ph6nomenologiedelaperception.Gallimard,1945.
Derrida:L'originedelaG60m6trie,(Husserl:Ursprung derGeometric,traductionetintroductionpar Derrida)
哲学詰 : 『哲学誌19』,東京都立大学哲学会,1976.
(昭和52年12月3日受理)