韓国近代仏画の大衆布教的性格一
韓国近代仏画の大衆布教的性格
崔 燁
はじめに一、近代における仏教界の大衆布教二、大衆布教と近代仏画三、近代における仏教の視覚イメージの拡散おわりに
はじめに
韓国の近代は朝鮮時代末期、大韓帝国期、そして日帝強占期を含む約百年
であり、西欧「近代」との交流が本格化した時代である。比較的短いこの期
間に制作された仏画は、現存する韓国仏画のおよそ七割を占め、図像や表現
技法において、それ以前の仏画とは異なる多様な様式を見せる。
近代韓国の仏画には、当時輸入されたと思われる新しい仏教図像だけでな
く、海外から紹介された様々な文物や同時代の風物、風俗までもが取り込ま
れている例があり、興味深い
((
(
。また、多くの仏画には西洋画法が積極的に用
いられ、いくつもの新しい表現技法が試みられている。近代仏画におけるこ
のような変化は、仏教が大衆の注目を集め、人々を教化するための一助にな ったと考えることができる。本稿では以上のような点を、具体的な作品を通 して論じたい。まず一節では近代における仏教界の大衆布教について扱う。 次の二節では近代仏画に現われた新しい要素が大衆布教
((
(
に寄与したことを、
具体的な作品分析を通して見ていく。そして続く三節では、雑誌や書籍など
のマスメディアに登場する仏教関連の挿絵とその大衆布教的性格について考
察する。
一、近代における仏教界の大衆布教
一八七六年の開港以降、日本の仏教やキリスト教が近代的かつ体系的な布
教方法によって、急速に韓国国内へ広がった。具体的な統計を見ると、開港
後から日帝強占期に入ってすぐの一九一一年までに韓国へ流入した仏教団体
は六団体十一宗派あり、全国に約一六七ヵ所の寺刹、別院、布教所などが設
置された
((
(
。一九三三年にその数は七団体十八宗派に増加し、寺刹や布教所は
約三五〇ヵ所、僧侶は約六〇〇人、信徒は十九万人に上った
((
(
。一方、一九二
六年の調査によると当時の仏教徒が二十一万人であるのに対し、キリスト教
徒は約三十五万人と大きな差があり、仏教雑誌では「耶蘇教の黄金時代」と 日 比 野 民 蓉 訳
二
((
(
。このような日本
韓 龍 雲 を 中 心 に「 山 間 か
ガ ン に 大 衆 仏 教 論 が 展 開 さ
((
(
。
」 と い う 文 章 を 寄 稿 し
((
(
、 仏 行すること。三、男子の信徒による教化団体を組織し、社会活動を行なうこ と」を挙げ、布教の民衆化が必要であること、そしてそのための方法として 仏教書籍の刊行が重要であることを述べている
(((
(
。このように、仏教における
布教の民衆化は一九一〇年代からの重要な課題であったことが窺える。その
後も、仏教雑誌では布教の活性化についての議論が続いた。
以上のように、国内における仏教の布教活動の始まりは外来宗教の影響に
よるところが大きかったものの、仏教界の人士たちは継続的な問題意識を持
って議論を行なうと同時に様々な実践方法を考案し、とりわけ大衆の感化と
教化に重きを置いていた。
二、大衆布教と近代仏画
近代には図像や表現技法において、それ以前の仏画には見られない新しい
要素を持った仏画が登場する
(((
(
。その背景には様々な要因があるが、開港以降
どっと押し寄せた外来文物の影響はもちろんのこと、 仏教美術が収集、 展示、
鑑賞の対象となり制作者の認識に変化が表われたことで、仏画も大きな影響
を受けたものと考えられる
(((
(
。
この節では、近代に登場した新しい形式と画風の仏画が、大衆を感化し取
り込む際の一助になったと考え、これを大きく二つに分けて見ていくことに
する。まず一つは、大衆が仏法を理解することで布教に繫げる説明的で叙事
的な仏画、そしてもう一つは、人々の注目を集め、仏教に対する関心を高め
るために、当時の新しい要素を導入し、革新的な技法を用いて制作された仏
画である。 この二つについて、 代表的な作例を挙げながら具体的に確認する。
韓国近代仏画の大衆布教的性格三
(一 ( 仏教の布教と新しい仏画の登場
近代には布教所という新しい機能を持った建物ができ、尋牛寺の《一心三
関門図》
(一九二一年(のように、 布教所に飾るための新しい内容の仏画が生
ま れ た
(((
((挿図
((
。 こ の 仏 画 は 非 常 に 説 明 的 で あ り、 一 目 見 て も 布 教 所 に ふ
さわしい感化を目的とした絵であることがわかる。現在は慶尚南道・居昌の
尋牛寺が所蔵しているが、画記からソウルにあった仏教中央布教所の説法殿
に奉安されたものと確認できる
(((
(
。本来、一幅に描かれた画面は三つの部分に
分けられていたものと思われるが、現存するのは三つのうち二つの部分のみ
で、右側の部分は失われている。絵の内容は、一つの心が三つの「因」によ
っ て 三 通 り の 異 な る「 果 」 を 生 み、 「 果 」 次 第 で 往 生 す る 天 宮 の 先 が 変 わ る
た め、 「 因 」 す な わ ち 心 を 磨 き 善 行 を 積 ん で 良 い「 果 」 を 得 る こ と を 勧 め る ものである。
中央の部分には阿弥陀如来と観音菩薩を中心に、浄土の様子が細密に美し
く描かれており、その下では往生した者たちが菩薩と共に般若龍船に乗り、
浄土へ向かっている。その左には、また別の往生した人々の姿があるが、こ
れは『父母恩重経』の内容を図説したものである。画面の最下方には、大き
く波打つ海の中に尾根のくぼんだ須弥山がひときわ高くそびえており、須弥
山の左右には太陽と月が位置している。山道には両肩に父母を背負った青年
が描かれているが、これは須弥山を登って骨がすり減り骨髄に至ろうとも、
父母から受けた恩は返しきれないということを表わしている。そしてその上
に、生前両親へ孝行をした者が雲に乗って上生へと昇る場面、画面の最上部
には五色の雲と自鳴楽のあいだの兜率天宮で如来が説法をする様が描かれて
いる。本作は、京畿道の龍珠寺が所蔵する『父母恩重経』の図像を元に制作
されている点が特に興味深い
(((
(
。現在失われている画面右の部分には、左の内
容と対照的な地獄の場面が描かれていたと考えられる。
浄土図や『父母恩重経』を描いた作例はほかにも知られているが、このよ
うな内容と図像を一幅に収めた仏画は本作が唯一である。その最も大きな制
作目的は感化と勧善であったと考えられ、このような内容が描かれたことに
は、本作が奉安された場所が元々ソウルにあった仏教中央布教所の説法殿で
あったことが大きく影響している。つまり、本作は布教所という場所に合わ
せ、教化を目的として新たに制作された可能性が高い。布教所は仏教の布教
のためにつくられた近代の産物であり、この新しい機能を持った場所には、
それ以前になかった新たな目的の仏画を掛けることが意図された。また、画
記によると本作は灌仏日、すなわち釈迦誕生の日に合わせて制作、奉安され
た こ と が わ か る。 『 父 母 恩 重 経 』 の 一 場 面 を 描 い た の も、 お そ ら く は 誕 生 と
挿図 ( 《一心三関門図》 (((( 年 慶尚南道・居昌 尋牛寺蔵
四
いう主題に見合うよう、産み育ててくれた両親への恩を強調したものと推察
される。 このほかにも、感化と勧善という主題を効果的に伝える仏画として、全羅
南道 ・ 霊巌に位置する望月寺の《甘露王図》
(一九四五年(を例に挙げること
が で き る
(挿図((
。 本 作 は 一 般 的 な 甘 露 王 図 の 様 式 か ら 外 れ て お り、 内 容
も既存のものを新たに再構成している。それまでの甘露王図は七如来、施食
台、儀式、餓鬼、風俗、災難の場面で構成されているが、本作では既存の作
例にない極楽浄土と地獄の場面が追加され、この二つを対照して、主題がよ
り明確化されている点が注目される。特に、画面左上方に描かれた業鏡台に
映る孤独な魂を供養する場面は、功徳を積めば極楽へ行けるということを視
挿図 ( 《甘露王図》 (((( 年 全羅南道・霊厳 望月寺蔵
挿図 ( 挿図 ( 部分
韓国近代仏画の大衆布教的性格五
覚 的 に 説 明 し て い る
(挿図((
。 ま た、 善 行 を 積 ん だ 者 た ち を 乗 せ て 極 楽 へ
と向かう般若龍船に重きを置き、地獄の場面と対照させて主題を強調してい
る。このような内容を通して、人々は父母や先祖、そして孤独な魂に食べ物
を 供 え て 供 養 す る こ と を 学 び、 「 天 堂 修 行 」 す な わ ち 功 徳 を 積 め ば 極 楽 浄 土
へ行くことができるという信仰を持つようになったといえよう。
説明的な内容の仏画は大衆の教化と感化に効果的であり
(((
(
、仏教の布教と伝
播を助けたと考えられる。特に、先に見た尋牛寺の《一心三関門図》のよう
に、父母への孝行を主題とした絵は人々にとって理解しやすく親しみのある
ものであったはずであり、次節で具体的に考察する仏教書籍の挿図にも同じ
ような側面を見いだすことができる。
(二 ( 伝統的仏画との差別化と視覚的な新しさの追求
図像や技法にほとんど変化のなかったそれ以前の仏画とは異なり、同時代
の要素、あるいは主題や内容の面で新しい画風を受容した近代の仏画は、す
でに仏教の信徒となっていた人々にも驚きを与えた。また、新しい信徒を招
き入れる際にも重要な役割を果たしたといえる。近代仏画は、難解な教理を
説明せずとも大衆が容易に理解できる親しみのある要素、つまり民画や道釈
人物画のモチーフ、そして小説の挿絵のモチーフなどを取り込むこともあっ
た。 ま た、 陜 川 の 海 印 寺 希 郎 台 が 所 蔵 す る《 熾 盛 光 如 来 降 臨 図 》
(図版一(のように、菩薩が地上に降臨するような姿を描き、人々が切に願う希望を絵
に表わした作例もある。本作は、近代に制作されたほかの熾盛光如来降臨図
とは明らかに異なる構成で描かれている。近代の熾盛光如来降臨図はそのほ
とんどが説法図の形式を取り、熾盛光如来の台座部を引いたり、肩に如来を
乗せたりする牛が登場して「降臨」の場面であることを伝えるが、本作にこ のような牛は登場しない。しかし、画面中央には熾盛光如来が日光、月光菩 薩を従え、今にも空から地上に向かって降りてくる「降臨図」の場面である ことが、それぞれの左方向に向かう姿勢と雲のかたちから伝わる。雲の先が 風に舞うように天へと続くことで、上から下へと進む方向性が示され、さら にゆっくりと降臨するような速度までも感じさせる。三尊の両側で七如来と 七元星君が乗る雲にも同様の表現がなされており、全体的に画面の右上から 左下へと向かう流れが形成されている。興味深いのは、日光、月光菩薩が蓮 華座ではなく太陽と月に乗っている点で、日光菩薩が乗る太陽は画面下方の ちょうど中央に位置しており、空を赤く染める日没の場面を想起させる。実 際に背景の空は上方が濃い灰色で、下に向かうほど赤みが増して夕焼けのよ うな印象を与える。また、画面下方の遠景には山が描かれ、まるで山越しに 夕日が沈む時、熾盛光如来とその眷属が現実に降臨するような様子が伝わる 表現である
(((
(
。
あ る い は ソ ウ ル 興 天 寺 の《 甘 露 王 図 》
(一九三八年(の よ う に、 近 代 化 し た
都市の姿や、近代に至って大きく様変わりした衣食住の様子など、新しい日
常 生 活 の 姿 を 描 い た 仏 画 も あ る
(((
(
( 挿 図
((。 本 作 は 甘 露 王 図 の 基 本 的 な 形 式
を踏襲するものの、画面下方の分割した画面に同時代の風俗を描き、全体的
に西洋の技法を取り入れている点が特徴的である。風俗を描いた画面の下方
には旅行、神社、統監府
((
(訳註
、サーカス、都心、質屋、電気工事、道路建設、電
話による通話、スケート場、新式裁判など、新しい文物と日帝強占下の生活
を描写し、それ以前の甘露王図とはまったく異なる新たな表現がなされてい
る。さらに近年、切り取られたと考えられていた本作の一部に、戦争の場面
が描かれていたことが判明した。かつては海戦や騎馬戦であった戦争の描写
も、本作では軍服を着た兵士やタンク、銃、飛行機、新式船舶など当時の実
六 挿図 ( 《甘露王図》(部分) (((( 年 ソウル 興天寺蔵
挿図 ( 《甘露王図草本》 (((0 年代 慶尚南道・梁山 通度寺聖宝博物館蔵
韓国近代仏画の大衆布教的性格七
際の戦争場面にならったものとなっている。本作は図像や表現技法において 伝統的な甘露王図とは大きく異なっているものの、日帝強占期の現実を描い て い る 点 や、 新 式 文 物 を ま る で 記 録 写 真 の よ う に リ ア ル に 描 写 し て い る 点
が、近代の視覚史料として大きな意味を持つ。同時に、大衆の視線を引きつ
け、仏教に目を向けさせる一助となった作品であると考えられる
(((
(
。
以上のような作例に関連して、近代に活発な活動を行ない、注目に値する
作品を残した画僧日變について触れておこう。日變は全羅北道・金堤に芙蓉
寺を建てて仏教美術専門の制作所を運営した。彼の手による仏画の画稿のう
ち《甘露王図》や《一心三観図》には、当時教育を重視していた世相や変化
する家族の姿、近代生活の様子などが描かれると同時に、教化のための機能
を持つ内容が盛り込まれており、注目される
(((
(
。まず一九四〇年代に制作され
た《甘露王図》の画稿は、般若龍船や地獄の場面も興味深いが、画面右下の 一九四〇年に制作されたもので、阿弥陀、観音、地蔵とその眷属が画面の大 部分を占めており、その下には地獄の様子と極楽に向かう般若龍船の姿が対 照 的 に 描 か れ て い る
(((
((挿図
((
。 そ れ 以 前 に は 見 ら れ な か っ た 画 面 の 新 し い
構成も見どころの一つではあるが、画面右下の場面が特に興味深い。塀を越
えて般若龍船に乗ろうとする人物を、大柄で凄みのある人相をした門番のよ
うな者が制止しており、その横にはハングルで「勉学を怠った者が極楽に何
の用か」と書かれ、教育を重視していた当時の世相を窺い知ることができる
(挿図
((
。 前 節 で 言 及 し た よ う に、 教 育 は 布 教 の 主 要 事 業 で あ っ た。 萬 海・
韓龍雲は「教育を妨げる者は必ずや地獄へ堕ち、教育を振興する者は定めて
仏土を成すだろう」と述べ、教育の重要性を強調している
(((
(
。本画稿は、この
ような仏教界の活動が仏画の内容にも反映されたことを示す一例と考えられ
る。 また、慶尚南道・固城の玉泉寺では、釈迦の生誕日に記念説法会を開くの
挿図 ( 挿図 ( 部分
挿図 ( 挿図 ( 部分
風 俗 の 場 面 が 目 を 引 く
(挿図((
。 円 い 食 膳 を 囲 む 老 若 男
女から成る家族が共に食事を
取 る 様 子 は、 以 前 と は 異 な
る 世 相 を 反 映 し て お り
(挿図((
、 お か っ ぱ 頭 に 制 服 を 着
た女子学生と男子学生が一緒
に登校する姿、サッカーをす
る様子などは、近代に入って
現われた新しい社会の様相を
描 写 し て い る
(挿図((
。 一
方、 《 一 心 三 観 図 》 の 画 稿 は
八
動であり、以上のような内容が仏画にも描かれている例がある。先に見た日
變の手による《甘露王図》の画稿には、西洋楽器であるバイオリンを奏でる
天女の姿が画中の二ヵ所に登場し
(挿図(0(
、一九二五年に制作された順天 ・
松廣寺の《熾盛光如来図》にも、当時西洋から輸入された文物であるバイオ
リ ン を 演 奏 す る 眷 属 が 描 か れ て い る
(挿図(((
。 近 代 に は こ の よ う に、 移 り
変わる時代の姿と世相を反映し、大衆に共感と興味を抱かせる様々な仏画が
制作された。
以上のように、近代の仏画は人々の関心を引きつけ、親しみを感じさせる
ことで、仏教の布教に大きく貢献したと考えられる。仏画に表わされたいく
挿図 ( 《一心三観図草本》 (((0 年 全羅北道・金堤 芙蓉寺蔵
挿図 ( 挿図 ( 部分
はもちろん、仮設舞台を
設置して因果応報や勧善
懲悪をテーマとした演劇
を開催したり、山門や正
門に標語を掲げ、たくさ
んの灯りと卍字旗をつく
って寺全体に飾りつけた
りしたため、近隣の人々
が多数見学に訪れたとい
う。さらに一九三〇年代
には管楽器を購入し、事
あるごとに奏でて、村の
老人や婦女子の興味を引
きつけた
(((
(
。これらはまさ
に大衆布教に直結する活
韓国近代仏画の大衆布教的性格九
つもの新しい要素は、革新的な画風と相まって見る者の目を楽しませた。た とえば、 水原 ・ 龍珠寺の 《神衆図》
(一九一三年(と江華 ・ 伝燈寺の 《神衆図》
(一九一六年((挿図
(((
の よ う に、 多 面 多 臂 の 忿 怒 像 が め ら め ら と 燃 え 盛 る 火 焰
挿図 (0 挿図 ( 部分 挿図 (( 《熾盛光如来図》(部分) (((( 年 全羅南道・順
天 松廣寺星山閣蔵
挿図 (( 《神衆図》 (((( 年 仁川・江華 伝燈寺蔵
一〇 挿図 (( 《掛仏図》 ((0( 年 釜山 梵魚寺蔵
挿図 (( 《熾盛光如来図》(部分) (((( 年 全羅南道・順天 松廣 寺星山閣蔵
光背の前に立つ姿は、見る者に強烈な印象を与える。
また、一九〇五年に制作された釜山・梵魚寺の《掛仏図》には初歩的な明
暗表現が試みられているが、立体感を際立たせた描写が当時非常に画期的な
表 現 技 法 と し て 注 目 を 集 め た こ と だ ろ う
(挿図(((
。 ま た、 先 に 簡 単 に 触 れ
た松廣寺の《熾盛光如来図》は画面全体に明暗法を用いているが、特に本尊
の形相に強い明暗をつけてグロテスクな雰囲気を醸し出している。さらに肩
までくねくねと垂れた頭髪の表現は西洋の聖人を彷彿させ、尊像の奇異な印
象 を よ り 一 層 強 め て い る
(挿図(((
。 一 方、 近 代 中 国 で 刊 行 さ れ た 釈 迦 如 来
の伝記本では、キリストを連想させる尊像が表紙を飾っており、興味深い。
また、西洋画法を取り入れるのみならず、写真を活用して僧の姿を写実的に
描いた頂相もあり、これらの作例は人々に驚きを持って迎えられたはずであ
る
(挿図(((
。
しかし、仏画は元々保守的な傾向の強い宗教絵画でもあるため、完全に新
しい下図で描いたり、画面全体に西洋画法などの新しい表現を用いたりした
作例は、近代にも決して多いとはいえない。ただし、この時期相当数の仏画
が部分的に西洋画の明暗法を取り入れている。真新しい下図をつくることは
出草画僧と呼ばれる者の役目であり、仏画の制作において最も力量を問われ
る部分である。そのためほとんどの画僧は新たな下図によって仏画を一新す
るよりも、簡単に技術の習得できる明暗法を絵の中に部分的に用いることを
選んだ。もちろん何人かの画僧は習熟したテクニックの西洋画法を駆使した
が、対象をリアルな存在感で描くためには、光に対する正確な理解、量感と
質感の自然な描写が揃わなければ不可能であり、それには相当期間の訓練を
要したため、無理のない西洋画法が発揮された作品は少数にならざるを得な
かった。 そのため、 慶尚南道 ・ 統營の龍華寺大雄殿が所蔵する 《釈迦説法図》
(挿韓国近代仏画の大衆布教的性格一一 図
(((
の よ う に、 雲 の 部 分 へ 立 体 感 を 出 し た り 床 に 落 ち た 影 を 描 い た り す る
初歩的な西洋画法で、画面の雰囲気を一新しようと試みている例もある。し
かし、このような流れに乗ることが逆効果な場合もあった。元々の力量や西
洋画法に対する理解が不十分な画僧たちは、全体の調和や画面の統一性を考
慮せずに分別のない西洋画法を用いて、生硬でぎこちない作品をつくってし
まうことがあった
(((
(
。このように、部分的ながらも積極的に西洋画法が受容さ
れた背景には、新しい仏画を求める大衆からの要望があったと考えられる。
当時の人々が西洋画法を導入して描いた絵を好んでいたことは、僧侶石鼎の
以下のような言葉から確認できる。
今やその原因としていくつかを挙げることができるが、いわゆる東洋
画の発展と共に西洋画が受容され、仏画は絵画ではないと無視されるよ
うになり、同時に画僧自身も無知で仏画に対する誇りもなく、このよう
な態度を認め、自虐に陥るようになった。それ故に信心が生じることも
なく、 伝統を守るだけの勇気もなく、 さらに衰退の一途を辿るようになっ た。これに対して、才能のある何人かの画僧たちは西洋画の遠近法と東 洋画の濃淡法を導入し、伝統を無視した仏画に似て仏画ならざるものを 描くようになったため、これが仏画の本質を知らない多くの人々の目に とまり、仏画界に新しい変化がもたらされた。すなわち、人気に迎合し た画僧によって古幀画の傑作は時代遅れであるという理由から焼き払わ れ、新しい幀画を掛けることが誇らしいことであると思うようになった のである。そのため、経済的に豊かであったり、都市近郊に位置してい
挿図 (( 《景鵬堂益運真影》 (((( 年 全羅 南道・順天 仙巌寺蔵
挿図 (( 《釈迦説法図》 (((( 年 慶尚南道・統營 龍華寺大雄殿蔵
一二
(((
(
。近代の仏
その代表的な例である
(((
((挿
ト 教 や 日 本 仏 教 の 影 響 を 受 までの布教活動によって急速に勢力を拡大すると、危機感を感じた仏教界は 布教を自らの重要な課題に据え、布教堂の拡大、都市での布教、文章による 布教など新しい戦略を立てることに注力した
(((
(
。仏教の布教所は一九一〇年に
建てられたソウルの覺皇寺をはじめとして全国に及び、それぞれの寺院によ
って活発な建設が進んだ。その結果、一九一〇年には覺皇寺のみであった布
教所が一九二四年には七十一ヵ所、一九三三年には一四七ヵ所、解放後の一
九四六年には三三五ヵ所と急激に増加した
(((
(
。
一方、大衆布教の方法として特に注目されるのは、仏教書籍と雑誌の刊行
である。大衆向けに発行された書籍の代表的な例は『釋門儀範』であり、一
九三五年に卍商会から刊行されたこの儀式集は、仏教の大衆化に非常に重要
な 役 割 を 果 た し た
(((
(
。『 釋 門 儀 範 』 が 発 行 さ れ る ま で、 大 衆 向 け と い え ど も 仏
教 書 籍 に は 専 門 的 な 内 容 の も の し か な く、 『 釋 門 儀 範 』 の 前 身 と な っ た『 佛
子必覧』は刊行から二年もしないうちに完売してしまうほど、大衆の欲求を
充足させるものであった。漢字とハングルを併記し、人々が親しみやすいよ
うな配慮がなされている点も、本書が好評を博した理由の一つであったと考
えられる。そして、この本の普及はすなわち仏教儀式と文化の発展を意味す
挿図 (( 又荷・金禮植筆《菡湖堂真影》
(((( 年 全羅南道・順天 松廣寺蔵
韓国近代仏画の大衆布教的性格一三
るものでもあった
(((
(
。また、 書籍以外にも 『佛教』 など多くの雑誌が刊行され、
仏教の布教に大きく貢献している
(((
(
。
(一 ( 仏教書籍と雑誌の視覚イメージ
このような状況の中で、視覚イメージは言葉と共に一般大衆に仏教をアピ
ールする絶好の手段となった。雑誌や新聞、そして書籍などの印刷物は、大
衆がたやすく手に取ることのできる媒体であり、同時性を持つ非常に効果的
な 道 具 で も あ る。 近 代 仏 教 の 視 覚 イ メ ー ジ も ま た、 こ れ ら を 通 し て 拡 散 し
た。ここには、当時最新の仏画を含む様々な仏教イメージが挿図として掲載
され、仏教に対する理解を助けると共に、視覚的な楽しみを人々に与えた。
初期の仏教雑誌は文章のみで構成され、単調さを回避するために表紙に仏 教の遺跡や遺物の図版を載せる程度であったが、その後次第に内容の理解を 助けるための仏画や彫刻、建築の写真をそれぞれの記事と共に掲載するよう になった。最もわかりやすい例としては、大覺国師に関する記事に大覺国師 の 頂 像 を 添 え る と い う よ う な 具 合 で あ る
(((
((挿図
(((
。 ま た、 西 洋 画 の 明 暗 法
を取り入れ立体感をはっきりと表わした曹溪寺大雄殿の仏幀後図は、制作年
と同じ一九三八年に仏教雑誌の表紙に掲載された。これは、実際に寺を訪れ
たことがない人にも間接的に新しい仏画を伝え、彼らの好奇心を刺激する契
機となった
(((
((挿図
(((
。さらに国内の仏教美術だけでなく、 中国やベトナム、
インド、東南アジアの仏教関連の文化財や遺物なども紹介され、仏教の文物
が広く知られることとなった
(((
(
。一方、仏画ではないが、仏教をモチーフにし
た絵画も近代には多数制作され、展覧会に出品されたり雑誌に掲載されたり
して
(挿図(0(
、仏教に対する親しみやすい雰囲気が醸成されたのである。
挿図 (( 《大覺国師真影》
挿図 (( 《総本山大雄殿仏幀後画》
一四
儀 式 に 関 す る 人 々 の 欲 求 を
牟 尼 の 伝 記 を 絵 と 共 に 伝 え
尼 の 伝 記 が 挿 図 と 共 に 記 述
販 売 さ れ た
(((
(
。『 釋 門 儀 範 』
ン グ ル に 添 え ら れ た 漢 字 も
「毘藍降生相」 「四門
「双林涅槃相」 が 骸 骨 を 拝 さ れ る( 仏 礼 枯 骨 (」 に は『 父 母 恩 重 経 』 の 内 容 が 挿 入 さ れ て お
り
(((
(
、ここに該当する内容と挿図が『釋迦如来應化事蹟』にはないためか、一
七九六年に龍珠寺で編まれた『父母恩重経』の「如来頂礼」の絵を掲載して
いる点が興味深い
(((
(
。新たに追加された残りの十一項目には挿図がなく、文章
だけで構成されているのを見ると、安震湖が『父母恩重経』を重視していた
ことがわかる。先祖、両親と子どもとのあいだの話が大きな比重を占めてお
り、編集者の編纂方針が垣間見られるのである
(((
(
。
もう一つ『新編八相録』が興味深いのは、挿図それぞれの下に一、二名の
人物の名前が住所と共に掲載されていることである。そこには、編集者の安
震湖、金泰洽、権相老のような仏教界の著名人士をはじめ、ソウルや全国の
有名寺院に関わる人物、朝鮮半島全域に及ぶ様々な信徒たち、あるいはすで
に世を去った関係者たちの名前が連なる。おそらくは、功徳や折伏のために
『新編八相録』 の出版に際して布施をした人々であろうと思われる。 実際に、
この出版に賛同した人々は三百余名に上り、安震湖は巻末にハングルの順で
挿図 (0 《観世音菩薩像》
韓国近代仏画の大衆布教的性格一五
その名前を載せ、挿図の掲載頁も付しているため、賛同者にとっては記念と なる書籍であったことだろう。男性の名は漢字、女性の名はハングルで収録 され、女性の読者に配慮されている点が目立つ。 『 新 編 八 相 録 』 の 出 版 は 仏 教 の 理 解 を 助 け る こ と は も ち ろ ん、 当 時 キ リ ス
ト教や外来宗教に危機感を感じていた仏教界の布教にも大きな影響を与えた
ものと考えられる。これ以前にも中国のものを模刻した釈迦の伝記やハング
ルの筆写本、翻訳本はあったが、安震湖は当時最新の、そして最も美しい中
国の版本を求めて翻訳し、ハングルで記した。また、わが国の伝統に合うよ
う釈迦八相に分類し、原典である『釋迦如来應化事蹟』より一層見やすく理
解しやすいものに編集した。さらに、原典にはないが大衆に人気のある『父
母恩重経』の内容と挿図を追加し、このほかにも大衆の教化に繫がる話を加
えて、内容をより豊かに構成した。安震湖の『新編八相録』は、近代の大衆
布教に関わる数多くの絵と文章の集大成であり、注目すべき近代の仏教書籍
の一つとして大きな価値を持っている。
挿図 (( 『新編八相録』卍商会、((0( 年
挿図 (( 《釈尊伝涅槃》
(二 ( 仏教映画および映像の上映
『 新 編 八 相 録 』 で 見 た よ う に、 釈
迦の一代記は非常に重要な美術の題
材であり、初期の仏教美術から連綿
と引き継がれる主題である。近代に
も、 仏 教 雑 誌 に 西 洋 画 法 で 描 か れ
た 釈 迦 八 相 図 が 掲 載 さ れ た り
(((
((挿図
(((
、 釈 迦 の 伝 記 が 映 画 化 さ れ、 一
般向けに上映されたりした。
一六
(((
(
。
映 し た 要 素 が 取 り 入 れ ら れ あることが一目で感じられ、布教所に適した感化を目的とする絵であること がわかる。このように、仏教に対する理解を助けたり感化や啓蒙を目的とす る仏画が制作され、大衆の教化に用いられた。そのほかにも、興天寺の《甘 露王図》のような作品は当時の人々が好奇心を抱くような種々の要素、すな わち変化した時代の世相や新しい文物を仏画に描き、仏教美術、ひいては仏 教への関心を引きつけた。また、西洋画法のような革新的な技法の導入は、 人々の視覚的な注意を引きつけ、布教の効果を高めたと考えられる。
寺院に奉安された礼拝用の仏画以外にも、一九一〇年代前後に発行され始
めた仏教雑誌のような刊行物は、布教に効果的だった。文章と共に挿図を載
せ、仏教遺跡や遺物、話題となった新しい仏画やそのほか関連の絵を紹介す
るなど、 視覚的なイメージによって読者の理解を助けた。 また、 『新編八相録』
のように、釈迦牟尼の一生を一六〇余りの挿図と共にハングルで書き下した
書籍も出版され、釈迦の生涯とその教えが広く伝わった。映画の上映やスラ
イドの利用など、布教や大衆の教化に新しい技術が積極的に用いられた例も
ある。 近代には、図像や表現技法の面で、それ以前とは異なる新しい要素を取り
入れた仏画が登場した。本稿では仏画に見られるこのような現象とあわせ、
当時刊行され始めた雑誌や書籍の視覚イメージを、大衆の感化と教化に重点
を置いた大衆布教という大きな脈絡から振り返った。もちろん、近代のすべ
ての仏画が新しい要素を持っていたわけではない。しかし、相当数の仏画が
初歩的ではあるものの当時目新しかった西洋画法を取り入れている。このよ
うな新しい図像と技法の登場、および流行は、大衆の関心と注目を集め、仏
教の理解と布教に一定の影響を与えたものと筆者は考えるのである。
韓国近代仏画の大衆布教的性格一七 註(
((
崔燁「근대기
불교계와
佛畵
의
제작
(近代における仏教界と仏画の制作(」『東岳美術史学』第一三号、東岳美術史学会、二〇一二年(日本語訳:崔燁著、日比野民蓉訳「近代における仏教界と仏画の制作」『美術研究』第四一三号、東京文化財研究所、二〇一四年、一九~四二頁(。(
((
記事や資料から、当時は修行者すなわち僧侶ではない在家信徒や一般人のことを「大衆」あるいは「民衆」と称していたことがわかる。また、近代的な布教に対する認識の高まりや試みは一九一〇年代から見られるようになった。これについては、註
(を参照のこと。
(
((
金淳碩「開港期
日本 佛敎宗派
들의
韓國 浸透 -일본 사찰과
별원 및 포교소
설
치를
( 動史研究所、一九九四年。 布教所設置を中心に(」『한국독립운동사연구(韓国独立運動史研究(』韓国独立運 중심으로(開港期における日本仏教宗派の韓国浸透―日本の寺院と別院及び
((
金孝敬「朝鮮に於ける信仰状態の現状」『朝鮮佛教』第九二号、朝鮮佛教社、一九三三年八月、一四~一五頁。(
( ((「朝鮮宗教界現状」『朝鮮佛教』第二八号、朝鮮佛教社、一九二六年八月、五四頁。
((
国内の仏教の初期の布教と布教堂については、김광식(キム・グヮンシク(「각
황사의
설
립과
운
영(覚皇寺の創立と運営(」『대각사상(大覚思想(』第六集、大覚思想研究院、二〇〇三年、同「근대불교의
청소년
포교와
( 覚思想研究院、二〇〇三年、一一~一三頁。 代仏教の青少年への布教と朝鮮仏教青年会(」『대각사상(大覚思想(』第八集、大 조선불교소년회(近
( 一九三一年十月、八~九頁。 が今日の朝鮮仏教のスローガンにならなければならない」『佛教』第八八号、佛教社、 な現象を断固として打破しなければならず、「山間から街頭へ」「僧侶から大衆へ」 はないにも拘わらず、なぜこれを仏教の教義といえるのか。仏教は当然、このよう 教、僧侶のための仏教になっていた。これは仏教の歴史的衰退による一時的現象で ((「在来の朝鮮仏教は歴史的な変遷と社会的な世相によって、専ら寺院のための仏
((
노권용(ノ・グォニョン(「석전
박한영의
불
교사상과
개
혁운동(石顚・朴漢永の仏教思想と改革運動(」『선문화연구(禅文化研究(』第八集、韓国佛教禅理研究院、二〇一〇年、二七一~二七二頁。(
((
金泰洽「佛敎布敎에
대하야
(仏教の布教について(」『佛教』第一〇〇号、佛教社、一九三二年十月、二三~二八頁。(
(0(
김광식(キム・グヮンシク(「근현대
불
교개혁론의
지
평(近現代仏教改革論の 地平(」『일본불교사연구(日本仏教史研究(』第四号、日本仏教史研究所、二〇一一年、一六六~一六七頁、이기운(イ・ギウン(「근대기
불교계의
(0本山교육체
제
정비와
인
재양성(近代仏教界三〇本山の教育体制整備と人材養成(」『韓国禅學』第二〇号、韓国禅学会、二〇〇八年、四四五頁。(
( (((『佛教』第七九号、佛教社、一九三一年一月、九〇頁。
(((
近代を大きく十九世紀後半と二十世紀前半に分けて見ると、視覚的により革新性のある仏画は二十世紀前半に多く現われる。これは、外来宗教に対する仏教界の積極的で多様な布教活動が一九一〇年代から本格化するのと時期が一致する。一方、十九世紀後半には、王室の仏事とあわせ、ソウル・京畿道地域はもちろんのこと、全国的に仏事が活発になり、仏画の図像の標準化と混乱が同時に起こった。この時期には、近代的な布教活動によってではなく、王室とその関係者の積極的な仏事によって、仏画も数多く制作された。詳しくは、崔燁「
((세기
말 왕 실 발
원
불사와
서울
· 경기지역의
불화
(十九世紀末王室発願の仏画とソウル・京畿地域の仏画(」(『김
홍남
교수 정념퇴임
기념 논문집
동아시아의
궁중미술
(キム・ホンナム教授退官記念論文集東アジアの宮中美術(』韓国美術研究所、二〇一三年、四九六~五二六頁(を参照のこと。(
(((
崔燁「마곡사
화승 약효와
동시대
활동했던
화승들의
근대기
불화
(麻谷寺の画僧若效と同時代に活動した画僧たちの近代仏画(」『마곡사
근대불화를
만나다
(麻谷寺の近代仏画に出会う(』国立公州博物館、二〇一二年、二二二~二二五頁。(
(((
仏画の画記から、布教所に奉安されたことが確認できる作品は現在八十点ほどある。布教所は「布教堂」「教堂」などとも称され、布教所に掛ける仏画として仏菩薩図、神衆図、甘露王図をはじめ様々なものが描かれた。中でも近代仏画に多い阿弥陀如来図、神衆図、独聖図、山神図、熾盛光如来図などは、布教所でも多数制作されたことが確認できる。고경스님(僧侶・コギョン(校勘、송천스님·이종수·허상호·김정민(僧侶ソンチョン、イ・ジョンジュ、ホ・サンホ、キム・ジョンミン(編著『韓國의
佛畵 畵記集
(韓国の仏画の画記集(』(聖宝文化財研究院、二〇一一年(を参照のこと。(
(((
本作の画記は次の通りである。「一心三關門
諸天宮殿修善上生
慕果修因 內 生二千九百四十八年辛酉三月初一日起始灌佛日告功仍奉安于佛敎中央布敎所說法殿 釋尊誕 當時職員 監督晦光師璿
證明寶潭普荷
庶務智相世信
敎務活淵世觀
財務大雲尊雨
出草
古山竺演 畵工鶴松學訥
草庵世復 般若船出草
畵工 淨順沙彌 信士李秉球」
(
(((
本作は特に『父母恩重経』の様々な版本のうち、金弘道の作と伝えられる龍珠寺本の十二番目の場面「周遶須弥」と十四番目の場面「上界快楽」に近似しているこ
一八 佛畵 硏究(古山道・竺演の仏
二〇〇五年、一八一~一八二頁。
박은경(パク・ウンギ(』(SIGONART、二〇〇八年、
탄생 , 흥천사
감로도
(モ
화를
만
나다(麻谷寺の近代仏(、장희정(チャン・年作、興天寺甘露王図(」(『東(、강우방(カン・』図書出版藝耕、一九九五年、
画研究(」東国大学大学院博士
で開催された「마곡사
근
대불
寺院の仏画を制作するための
론
( 詩)禪一揆論과
그
(」『석전 문학사
박한영의
생애와
(0前掲論文一八六~
佛畵草本(韓国の仏画草本(』 ( しているものと考えられる。
(((
近代以前まで、あるいは二十世紀初頭に至ってなお、仏画の制作者たちは、鑑賞のための作品をつくる芸術家というよりは、修行の一つとして信心深く仏画を制作する職人と自らを認識していた。そのため、仏画は各人の個性を表現するものではなかった。しかし、本文で引用した石鼎の言葉のように、新式の仏画には伝統的な仏画との差別化が必要であり、次第に個性を発揮した新しい画風の仏画が増加していった。(
(((
仏像の場合、近代の彫刻家金復鎭(一九〇二~一九四〇(は、鑑賞用の作品のみならず、実際に寺院に奉安する仏像も制作した。現在知られている金復鎭の仏教彫刻には、《観音像》(一九三〇年、木彫、キム・ヨンジン蔵(、《鶏龍山小林院弥勒仏立像》(一九三五年、石膏、現存(、《金山寺弥勒殿本尊像》(塑像、現存(、《仏像習作》(第十五回朝鮮美術展覧会出品作(、《ソウル永道寺釈迦牟尼仏立像》(一九三六年、石膏(、《仏像》(一九三七年、朝鮮美術院落成記念小品展出品作(、《観世音菩薩》(一九三七年、石膏、キム・ヒョンウォン蔵(、《禮山定慧寺観音殿観音菩薩座像》(一九三九年、現存(、《俗離山法住寺弥勒大仏》(セメント、遺作、弟子によって完成(がある。金復鎭の仏教彫刻については、윤범모(ユン・ボムモ(『김복진
연구 -일제 강점하
조소예술과
문예운동
(金復鎭研究―日帝強占下の彫塑芸術と文芸運動(』(東国大学出版部、二〇一〇年、一九一~二七一頁(を参照のこと。(
(((
崔燁「한국
근대 불 교 진
영(韓国近代の仏教真影(」『불교미술사학(仏教美術史学(』第六集、通度寺聖宝博物館、仏教美術史学会、二〇〇八年、四一~六三頁。(
(0(
一九一〇年に諸本山の僧侶たちが協力し、京城の磚洞に設立された中央布教所・覚皇寺では、キリスト教式にならい、毎週日曜に説教と講演が行なわれた。また、一九一二年に建設された全州の松廣寺布教堂は日本式の建築であった。鄭珖鎬編『韓國佛敎最近百年史編年』(仁荷大学出版部、一九九九年、七九頁(参照。(
(((
大韓仏教曹渓宗布教院『한국불교사-조계종사를
중
심으로(韓国仏教史―曹渓宗史を中心に(』曹渓宗出版社、二〇一一年、二七〇頁。(
(((
註
((前掲書二七〇頁、および註
(0前掲書二八八~二九六頁の「一九一〇
~一九四六までの布教所設置一覧表」を参照のこと。(
(((
한상길(ハン・サンギル(「한국
근
대불교의
대
중화와
석
문의범(韓国近代仏画の大衆化と釋門儀範(」『佛教學報』第四八集、東国大学仏教文化研究院、二〇〇八年、一三六、一四八~一四九頁。(
(((
註
((前掲論文、一三六頁。
(
(((
近代の代表的な仏教雑誌である『佛教』は、一九二四年から四四年まで二十余年
韓国近代仏画の大衆布教的性格一九 間発行された。この雑誌の近代的性格については、김성연(キム・ソンヨン(「일
제강점기
잡 지 『
佛敎』의
간
행과
그 성
격(日帝強占期における雑誌『佛教』の刊行とその性格(」(『선문화연구(禅文化研究(』五巻、韓国仏教禅理研究院、二〇〇八年(を参照のこと。(
( (((『佛教』第五二号、佛教社、一九二八年十一月、四九頁。
( (((『佛教』新第一六号、佛教社、一九三八年十月、一〇頁。
( (((『佛教』第三六号、佛教社、一九二七年七月。
( 一年に編集、刊行したのであろう。 制作されたことがわかる。おそらく編集者の安震湖は、上海本を持ち帰って一九四 な版と比較すると、『新編八相録』は一九三九年の上海本に最も近く、これを元に れているなどより絵画的な印象を与える。このような『釋迦如来應化事蹟』の様々 く出版された『釋迦如来應化事蹟』は、十九世紀のものとは異なり、明暗が表現さ 流麗で洗練された線描による表現がなされている。一方、一九三九年に上海で新し で最も早いこの『釋迦如来應化事蹟』は一八〇八年に刊行されており、無駄がなく 緒七年(の模刻本もあり、繊細で美しい描線が特徴的である。現在知られている中 書局からも新たに出版された。このほかに比丘開慧の手による一八八一年(清・光 (((『釋迦如来應化事蹟』は一八六九年に重版され、一九三九年には中国の上海佛學
(0(
本書の編者は日帝強占期に活発な活動を行なった僧侶安震湖(一八八〇~一九六五(である。本には「小白山人
震湖 教儀礼の集大成である『釋門儀範』を刊行した。한동민(ハン・ドンミン(「일제 小白頭陀、晩悟生などの筆名で文章を残し、仏教書籍の編纂はもちろんのこと、仏 仏教史において多方面にわたる著述を残した有名な僧侶である。安震湖、安錫淵、 安本錫淵編輯」とある。安震湖は近代韓国の
강점기
寺誌
편찬과
그 의의
(日帝強占期の寺誌編纂とその意義(」『佛教研究』第三二集、韓国仏教研究院、二〇一〇年、二三六頁。(
(((
安震湖新編『新編八相録』卍商会、一九四一年、四〇四~四〇九頁。(
(((
註
((前掲書、三九四頁。
(
(((
安震湖が新たに追加した項目は次の通りである。「耶輸夫人が災厄を免れる(耶輸免厄(」「盧志の強欲を教化する(化盧志貪(」「餓鬼が歌をうたう(餓鬼唱歌(」「極楽浄土の縁起を説かれる(極楽縁起(」「子どもを殺し悪報を受ける(殺兒悪報(」「二つの家の子どもになる(両家一子(」「わが子を失くし狂い走る(失子狂起(」「仙官公主のお話はこのようなものである(仙官公主(」「宮中で問答する(宮中問答(」「阿難の宿因をお話しになる(阿難宿因(」「檀伊介夫人の古いぼろ(檀伊介衣(」「仏様が骸骨を拝される(仏礼枯骨(」。註
((前掲書、二二一、二七六、三四三、三四五、 ( 三四七、三五五、三五八、三六一、三六六、三六八、三七〇、四〇四頁。
( (((『朝鮮佛教』第二五号、朝鮮佛教社、一九二六年四月、六~八六頁。
(((
註
(前掲論文、二八頁。
(
( (((『佛教』第二二号、佛教社、一九二六年四月、七五頁。
( (((『朝鮮佛教』第二九号、朝鮮佛教社、一九二六年九月、六三頁。
(((「소남・박한영연보(僧侶・朴漢永年譜(」『석전
박한영의
생애와
시문학
(石鼎・朴漢永の生涯と詩文学(』白波思想研究所、二〇一二年、一八一頁。
(補註(挿図
(0の『佛教』新第五一号(一九四三年
(に掲載された《観世音菩薩像》の図は、日本の洋画家、原田直次郎が一八九〇年に制作した《騎龍観音》(護國寺蔵(の図版である。(訳註
((
一九〇七年に南山のふもとに建てられた統監府庁舎は一九一〇年に総督府庁舎となり、景福宮敷地内で一九一六年から工事が始まった新たな総督府庁舎は一九二六年に完成した。原著者に確認したところ、一九三八年制作の本作は画中に「統監府」と記された看板が描かれているという。そのため、訳語もそのまま統監府とした。
挿図出典挿図
(『韓国の仏画』五、聖宝文化財研究院、一九九七年、一八一頁
挿図
(・
(『韓国の仏画』三一、聖宝文化財研究院、二〇〇四年、一三九頁
挿図
挿図 (姜友邦、金承煕『甘露幀』図書出版藝耕、一九九五年、三二二頁
(~
(『麻谷寺の近代仏画に出会う』国立公州博物館、二〇一二年、一七二~一七
三頁挿図
(~
(0『麻谷寺の近代仏画に出会う』国立公州博物館、二〇一二年、一七六~一七
九頁挿図
((『麻谷寺の近代仏画に出会う』国立公州博物館、二〇一二年、一四〇頁
挿図
((『韓国の仏画』三五、聖宝文化財研究院、二〇〇五年、九九頁
挿図
((『韓国の仏画』三二、聖宝文化財研究院、二〇〇四年、五九頁
挿図
((『麻谷寺の近代仏画に出会う』国立公州博物館、二〇一二年、一四〇頁
挿図
((『韓国の仏画』一二、聖宝文化財研究院、一九九八年、一八六頁
挿図
((『韓国の仏画』二五、聖宝文化財研究院、二〇〇二年、三三頁
挿図
((『悟りの道を歩んだ顔』直指聖宝博物館、二〇〇〇年、一八九頁
挿図
((『佛教』第五二号、佛教社、一九二八年、四九頁
二〇
(Choi Yeob・東国大学校講師( みよん・横浜美術館学芸員
(
(
図 版 要 項 一
熾盛光如来降臨図
(カラー(
絹本著色縦一一六・五㎝横一二七・〇㎝
慶尚南道・陜川海印寺希郎台蔵聖宝文化財研究院画像提供一崔燁「韓国近代仏画の大衆布教的性格」参照
図版はいずれもオフセット印刷