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山 本 尚 − 1

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(1)

ーJβ6一  

驚  料  

512  

イギリス「炭鉱法,1930年」の成丑  

山  本  尚  − 

1  

個人企業と自由競争を基調としていたイギリス炭鉱業も,第1次大戦後の構造的不況に   よる内外需要の衰退によってカルテル形成の方向に向い,ついに「1930年炭鉱法」(The  

(1)  

CoalMines Act,1930)K.よって独占体制を確立する。小論は,A、M。ニユ−マン(A,M.  

(2) Neuman)の研究に.依拠して:,本法の経済的基礎を明らか紅することを目的とする。  

2   

大戦後の資本集中過程を2期に・わけて叙述しょう  

(1)第1期(1919−26年)   

大戦直後に.多くの集中が炭鉱業でおこなわれ,1921年に価格が急に崩壊したときまで着   実に進行した。この時以降集中運動ほ大いに・停滞し,ウェールズ無煙炭炭田の2つの合同,  

生産高の75%は現在支配するThe Amalgameted Anthracite Collieriesおよび1923年   紅設立されたThe UnitedAnthraciteCollieries,Ltdを除けば,集中ははとんど進行し   なかった。The PowellDuffryn Co.,LtdはThe WindsoICoalCo.を吸収し,他方   Pearsonand Dorman Long,LtdがKent で若干の前進をおこなった。この合同運動濫 

加えて,ヨーークレアの炭鉱の若干グループが販売機開設立のために彼らの利益を共同でプ   ールしはじめた。かかる協力の最上の例が,DoncasterAssociated Collieries,Ltdの名   の下で操業したThe MaIkham groupである。  

(2)算2期(1927−30年)  

(1)本法については,山本秀雄氏の先駆的研究がある(山本秀雄「イギリス炭鉱業におけ    る強制力ルテルNThe CoalMines Act,1930の成立檻ついて−」「大阪府立大学経済研    究」4号,昭和32年10月)なお,炭鉱業分析については,隅谷三番男『日本石炭産米分析.』  

(1968年)を参照されたい。  

(2)A M.Nenman,Economic Organizationof the British CoalIndustry,1934   

(2)

イギリス「炭鉱法,1930年」の成立   ー∫β7−   

513  

集中の新しい波ほ,1927−30年に㌧来た。この期間に.設立された新企業の中,The Powell   DuffrynColliery Co.,Ltdがある。新会社は全部で25,100人の労働者を雇用する36炭   鉱を支配した。次紅大きな合同としては,Ocean Coaland Wilson,s,Ltd,Carlton  

Collieries Association,YorkshireAmalgamatedCollieries,LtdおよびAmalgamated   Anthracite Collieries,Ltdがある。すべてとれらの新大合同は,1地域の境界内にとど  

まり,地方石炭利益を結合した。1927−8年の合同運動は,主として So11th Yo‡ksbiIe   およぴSouthWalesに限定される。1929年のより繁栄した期間にはとんど合同が行われな   かったが,一それでも亜,760人の労働者を雇用す−る61炭鉱に.影督する6計画をふくんだ。  

1929年から1930年にもきわめて重要な石炭,鉄および鋼の再組織がサウス・クエールスお   よびランカレアでおこなわれた。   

以上のイギリス炭鉱業の集中運動の概略から,地区が合同のための支配的境界であり,  

地区間の合同は例外犯すぎなかったことがわかる。今,1925年のイギリス炭鉱業に應ける   集中状況をみれば次表のとおりである。イギリス総生産高の約5%を生産する880以上の   企業が本表から排除されているにもかかわらず,最小企業グループが根強く存在している  

ことがわかる。他面,大企業グル十プ(年間100万トン以上の出炭高をもつ)が総出炭高の   36−8%をしめており,炭鉱業に.おける集中が両極集中型であることがわかる。以下,主要  

地区紅おける集中状況をみよう。  

(1)スコットランド炭田  

1930年の出炭高は,ほとん′ど3,200万トンであり,377個別炭鉱をもつ161企業に・よって   イギリス炭鉱企業規模別出炭高(1925年)   

(3)

第44巻 第4・5・6号  

ーJββ−・   514  

生産された。しかし,出炭高の95%が約50企業紅よって,74%が20以下の企業に.よって,  

そして二40%以上が6企業によって生産された。  

(2)サウス・クェ−ルズ炭田  

1930年出炭高ほ,4,500万トンをわずかに.こ.え,総イギリス出炭高の約1815%に相当す   る。1930年の出炭高は,464個別炭鉱からの224企業に.よって生産されたが,24企業が出炭   高の92%を,7企業がはとんど75%を生産した。   

(3)東 北 炭 田   

ノ−サンバランドでは,1930年の出炭高ほ,99個別炭鉱をもつ56企業によって生産され   た。しかし,17企業が生産高の92%以上を占め,4企業が52%をしめた。グラムでは,  

1930年にはとんど3,600万トンの出炭高が237個別炭鉱をもつ97企業によって生産された。  

しかし,21企業が出炭高の92%をしめ,52%以上が7企業によって所有され支配される炭   鉱によって生産された。   

(4)東ミッドランド炭田  

1930年の出炭高は,はとんど7,300万トンであり,それはイギリス総生産高の30%以上   に・相当する。西ヨ−クレアの1930年出炭高は.,約1,225万トンであったが,その90%が18   企業に.よって,48%が4企業およびその子会社によって生産された。南ヨ−クレアの同年   の出炭高は,3,225万トンであったが,その91%は,28企業によって生産され,その中11   企業は,おのおの100方以上の出炭高をもった。ノッチンガムレァ鱒ネび北タービンア炭  

田の1930年出炭高は,2,850万トンであったが,そ・の91%は82炭鉱を経営する26企業紅よ   って生産された。  

椅)ランカレァおよぴチェレァ  

1930年の出炭高は,1,500万トン紅達し,約74,200人の労働者により生産された。その出   炭高の75%が33企業紅よって,37%が2企業に支配される炭鉱で生産された。   

(6)中央ミッドランド炭田  

1930年の5炭田の総出炭高は,2,125万トンで,それはイギリス総出炭高の約9%に相   当する。その中,約70万トンを生産するシュロツプレアでは,93%が4企業によって,75  

%が2企業によって生産された。550万トンを生産する北スタフか−ドンアでは,97%が   16企業に.よって生産された。160万トンの出炭高をもつ南スタフォーードンアではその59%  

が3企業によって,500万トンの出炭高をもつカノック・チエ.イスでは,99%が13企業に   よ・つて生産された。さらに492万トンのクォ・−クイックレァでは,9企業が82%を,3,600   

(4)

イギリス「炭鉱法,1930年」の成立  

−ヱβ9−−  

515  

万トンのサクス・ダービシアおよびライセスターンァでほ,14企業が99%を生産した。   

以上のように.,イギリス炭鉱業に.おける集中度は低く,1925年匿おいて上位8企業で10  

%,50企業累積で36.8%紅すぎなかったが,主要炭田に.おいては,地域差をともないつつ   もはぼカルテル形成紅必要な生産の集積を示すにいたった。  

3  

上述の地区内の生産の集積の一・定の発展段階な基礎とし1927〜29年の不況を契機とし   て,地区内のカルテリレ討画が発生した。以下それを概略しよう。  

(1)サウス・ク3=,−ルズ石炭販売連合(South WalesCoalMarketing Association)  

サウス・クエールズは,価格の安定および後に.生産高規制で実効性ある計画な生みだした  

最初の地区であった。この地区は,3つの封画を生み出し,その中ただ2つのみが実施され   た。これらの第1の計画は,1927年11月に.はじまり,80%の多数をもつ炭鉱主は,「市場を   落つかせ,価格を安定させる」目的で,「サクス・クェ−・ルズ石炭販売連合」を設立した。  

本連合に属するすべでの炭鉱は,生産された石炭の銘柄および等級忙したがってトグループ  

に分類された。それから最低価格計画が起草され,その下でほ加盟者は相場をつけるとと   を禁じられ,生産された石炭トン当り3ぺソスの購課金がスチーム炭取引に.おけるように  最低価格をまもって二取引を失った生産者を補償するため一・般的プール紅支払われた。この   計画は,1928年4月まで実施されなかった。との最初のクご.−ルズ計画の効果は,価格を   安定化させるとょであったが,他地区および非加盟炭鉱主の競争把,かんがみて,すぐ紅生  

産高規制および非加盟炭鉱主取扱方法をふくむよう再モデル化されねばならなかった。  

1929年1月以降「サウス・クェ−ルズ石炭販亮連合」は,その方法を変更し割当によっ  

て生産高を制限することを決定したた。しかしこの第2計画は実施されるに充分多数の炭   鉱主を支配しなかった。とかぐするうち紅,実施された計画は充分運用されず,1929年5   月初め以来最低価格がスチーーム炭のみで守られた。   

ついに1929年秋に.籍3の計画が起草された。その目的はつぎのようである。   

11.「石炭需要にしたがって一生慮高を規制すること」   

2.「石炭の等級又ほ銘柄紅たいしで最低価格を決め,規制し,そしてこの目的のため  

にグル−プを決め,それにたいする炭鉱又は石炭等級を割当てること」   

3い 「生産高損失に.たいして会員を補償すること」   

4.「何かの同一・組織との操業協定又は協会に協力し,又は形成すること」   

(5)

算44巻 第4・5・6号   516    一員鋸卜一  

こ.の討画の実施は,1929年6月に蘭・る四半期の生産高の少くとも70%を示す炭鉱主の承   認に依存せしめられた。   

かぐて,ウェールズ・カルテルの経験腰,供給および価格の両方を決定することなし紅   ほ作用しえないことを示した。こ・の計画庭・よってサ・クス・クェーノ㌣ズは他地区の関心を集   めた。  

(2)中央炭鉱商業連合(The CentralCollieIies CommeICialAssociation)   

ミッドランド諸州,ランカVァおよびチェ・Vァほ,「5州計画」The Five Counties   Scbemeとして有名な「中央炭鉱商業連合」−一生慮高を規制し,輸出業者に補助金を支払  

う1舶繊−の加入者であった。年間生産高はとんど1億トンを支配する生産者をふくむこ   の巨大なカルテルほ,、1927年12月に.設立された。この計画ほ,2つの主要目的をもち,寛  

1は石炭輸出を増大せしめ,黛2柁.各炭鉱への割当に.よって生産高な規制することであっ  

た。すべての会員ほ,採炭トン当り3ぺンスをこえない拠出金を共通基金に.支払わればな   らなかった。この基金から輸出補助金が引出されることに.なった。この補助金ほ,1シ′リ  

ング6ぺンスから4シ′リングへと時紅応じて異なる。   

生産は,つぎのように規制された。つまり鱒1に,基礎トン数が Tbe Basic Tonnage   Committeeに.よって決められた。この大きさは,投近15年間から各炭鉱主にしよってえら  

ばれた1年の炭鉱の現実生産高にもとづいていた。割当又は基礎トン数の割合は,The  

QuotaCommitteeに.よって毎月すぺての炭鉱について決定された。繚別の措疲が発展す  

る炭鉱の要求に応ずるため紅なされた。さら監採炭されない割当プールが作られ,そこ.か   ら彼ら自身の割当の増大を要求するものは,The Quata Committeeの承認をえて追加畏   を講入することができた。1%以上彼の割当をこえる会員にたいしてほ,トン当り3シリ   ングの罰金が課された。   

この計画の主要な欠点は,それが価格を規制せず,かくして加盟員に相互庭価格引下げ   を許したことである。さら紅基礎巷産トン数の計算ほ,不満足なものであった。   

木連合のもっとも患要な実績ほ,輸出部門紅おけるものであり,主として他のイギリス   輸出地区の犠牲で,1930年9月まで実施された補助金の援助で外国領場において若干の前   進をなすことに成功した。他面多くの激怒が本連合に貿易を奪われた釆北炭田およびスコ  

ットランド炭田によって表明された。   

景気が回復しつつあると思われた1930年初めに本道合ほ,事実上その終末紅来た。この   最初の徽候はランカレアおよびチェシアの脱退であり,葦2は補助金の停止であった。価   

(6)

イギリス「炭鉱法,1930年」の成立  

517   

ーJ.凱トー  

格規制の新提案ほ,充分な支持を見出さなかった。これらは,任志的計画の限界を示した   ものといえよう。  

(3)スコットランド石炭販売剖画(Scotish CoalMarketing Scheme)   

スコットランドでは,炭鉱主が非絶率炭鉱を休山し,他炭鉱をより完全能力で作業せし   め,消聖者の若干グル】・プにたいする炭価を引上げる目的で「スコットランド石炭販売計  

画」が設立された。1928年3月6日に実施された本討画は,この地区の全炭鉱主の90%以   上の多数で支持され,トン当り6ぺンスをこえない国内消費用炭にたい1する賦課に.よって  

融資された。輸出炭,バンカ−炭および補助ないし関連企業へ販売さわる石炭ほ無税であ   った。   

本計画の実際の運営籠移るならば,われわれはいかなる能力皮で経営す・る完全な自由も   企業に威されており,いかなる劇般的意慄での制限も課されなかったことを指摘しなけれ  

ばならない。本計画が1929年3月に終ったとき,その範囲を増大するための多くの新提案   が提出されたが,いずれも実施されなかった。  

以上の3地区の計画(ノーサンバランドおよぴグラムに・おいて炭鉱主は,いかなる公式   の計画も結ばなかった)を概観し,各地区が1927−8年のもっとも困難な時期に,その地   方的経済条件を考慮して:,その特殊な方法で問題を解決したこ.とを見た。すべての酎画は,  

地区を単位としている点に特贋があり,自然発生的統合運動の漸進的進歩が種々の組織形   態のネット・ワークを形成した。つぎにイギリス炭鉱業に.おける調薬の全国的形態の試み   を記述しよう。  

4  

本節では,1930年国家による全国組織の設立のための経済的準備を叙述する。この全国   的組織は,炭鉱共にすでに長く存在していた動機と不況の直接的刺戟との一敏であった。  

この最終段階ほ,次の3つの事件の結果であった。  

(1)特紅1928年以降敢着であった炭鉱業内の統合運動の全国的基礎上での急速な発展  

(2)国際競争の激化と輸出市場の国際的統制の可能性  

(3)選挙戦中その支持者に与えられた政治公約に拘束された石炭計画をもつ1929年の労   働党政府の政権麓得   

全国的統一・に導くこれらの諸要因の最初の2つは,その性質上経済的なもので炭鉱業に   おける自発的再粧織をひきおこし,罪3は,政治的強制武器をふくんだ。   

(7)

畠1畠   

籍44巻 第4・5・6号  

−J92−  

既述のように,当時若干の重要地区をおおう地Ig封画がすでに存在し,価格又ほ生産高   およびその両方を制限することに、よって種々の原則で操作しつつあった。1928年紅.これら   の計画ほ,総生産高の約80%を含んだが,それらは全国的に.調整されず,価格切下げは,  

彼らの間で猛烈に続いた。したがって全国的基礎での調整と組織が重要な前提の1つであ   った。   

サウス・ウェールズ,スコットランドおよびミツドランズですでに実施されていた3計   画の発展および1つの一L般的構造の下へ全炭鉱業をおくためのイニレアチプほ,外国およ   び国内消薯の双方紅草しんでいた輸出地区から生じた。とくに・東北地区ほ1928年紅,一方  

に.おいて外国競争者および需要縮少に攻撃され,他方においてよりよく組織されたイギリ   ス地区の競争に.よって攻撃されたため,競争条件の解決のための−提案を提供した。   

全地区がその海外船積において大きな損共に盾画したので,The Tyne,Blyth,Wear   およびTeesの炭鉱主のとったイエリアチプでほ,全国で同情的承認をえた。初期の段階   で連動は「炭鉱協会」の注目をひき,この炭鉱主の代表団体は,さらに.調整過程を遂行す   る仕事をまかされた。かくして,全調整運動がロンドンに.集中され,準備作業が遅滞なく    ほじまった。   

会議の主要な結果として「炭鉱協会中央販売委員会」(A CentIalMaIketing Com−  

mitteeof the Mining Association)が,全国に,たいする鵬L般的販売計画を準備する目的で   設立された。当時存在した3つの地区計画は,−・般封画の仕上げの下部組織として役立つ  

ことに.な′った。秋中続いた非公式論議の過程で,実施されているすべての現存のイギリス   石炭計画が分析され,特に.ドイツとポーランドの若干の外国石炭カルテルの規則も又考慮   された。  

1928年7月および1929年1月の間に,何も承認され,又は起草さえされず,注怒ほもっ   ぱら提案を支持するに.充分な多数を確保する方向に向けられた。調整の創始者は,全国生   産高の少くとも9D%を代表する炭鉱主の承認をうることを欲したからである。1929年1月   までに組織の主要目的を含む1計画が概略されたが,それほつぎのことを含んでいる。  

(1)地区割当の配分規定。しかし個々の炭鉱の割当紅ついて何等の提案もなかった。  

(2)非輸出地区の犠牲において国内市場に.おける輸出地区の割合の増大虹たいする規   定ム  

ー3)3年間の界術平均生産一つまり1925年,1926年およぴ1928年のそれ一紅もとづく地    区割当。   

(8)

イギリス「−炭鉱法,1930年」の成立  

519   

−エ9β−   

この封画の中に.ほ,何らの利潤プ−ル又は何らの種類の一・般的補助金に言及もなく,価   格規制,非加盟のアウトサイダーへの強制もなく,販売組織への計画もなく,割当超過に   たいする罰金もなかった。明らかに.計画は,まだ仕上げられていない単なるアクト・ライ  

ンであった。その後言†■画ほ修正をうけ,1929年3月紅示された拐案は,つぎのとおりであ   る。  

(1)国で生産される石炭トン数ほ固定さるべきである。  

(2)全国にたいする国内価格を支配する措置が含まれるべきであるが,いかなる種類の   統制があるべきかほ,未だ決定的に決められなかった。  

(3)討画を管理する特別地区機関が各地区で規定されたが,何ら正式の全国機関ほなか   った。  

(4)生産の配分割当の超過に.たいしてトン当り2シリング6ぺンスの罰金ほ規定された   が,価格の引下げにたいして−ほ何ら罰金がなかった。  

(5)輸出プールが,国内価格がより高いとき世界価格にたいする国内の超過の−・定の承   認された割合の引下げの手段によって外国貿易を助けることが,提案された。これは,  

輸出地区のより利益のある国内取引の利益への参加を許すこ.とを意図した。   

以上が,提出された改著された提案の−・般的アウトラインであった。それらな2カ月前   の計画と比較すれば,われわれは国内市場から輸出地区に掃償を与えるという主要アイデ  

アほ残っているが,全計画が大いに変更され,拡大されたのがわかる。もっとも興味深い   特徴ほ,価格につい、ての他区間の協力の欠如であり,・それほ,1930年の強制的販舞計画の   下でも経験された困難であった。   

水計画は,実際に.実行不可能であった。とかくするうちに・1929年寛1四半期紅炭鉱業の   一・般的状態がかなり変化し,将来の見通しが当分明るくなった。そこで炭鉱主ほ凝案され  

た討画に対する情熱を失い,変化した確場条件の下でほ,それらほ不必要と考えた。しか   し半年以上も続いた産米内の論議は,その代表者に・後にきわめて員望で役に・立つ資料と批   判点を提供した。さら紅,それらほ貫に贋急な場合紅炭鉱栄がその共通の困難に・ついて議  

論し,その困難が続いているならば,政治から何らの圧力なし紅実施しうる全国協力計画   を作成することが完全にできるという証拠を提供した。事実,経済から建設的アイデアを   摂取するのは,常に政治であった。   

(9)

第44巻 寛4・5・6考   520  

−ブタイ一  

5   

1929年5月の総選挙戦の間,諸政党が選挙民匿与えた公約の中に炭鉱業再組織の巨大な   討画が含まれた。労働日の短縮は,儀鉱菜の広い改革の核心をなした。イギリス炭鉱其の   組織紅ついての全論争のうらもっとも壮大な部分ほ.,議会の討論の間に生じた。内閣石炭  

委員会,坑夫,炭鉱主そして−最後に自由党の間の長い一・遵の交渉の後紅,政府ほ「炭鉱法   案」The CoalMines′Billを提出した。それほ,4つの部分からなる。つまり   

籍Ⅰ部は.,石炭の生産,供給および販売,つまり販売討画な取扱った。   

籍Ⅱ部ほ,半時間だけ坑内作業時間を短縮した。   

貨Ⅲ部は,「炭鉱全国産業委員会」a CoalMines NationalIndustrial Boardを制度化   した。   

第Ⅳ部は,解釈条項をふくむ一・般規定をふく人だ。   

本法案が発表されるとすぐ紅巨大な数の抗議が,全体としての措置および個々の部分に   たいしでおとった。政府の提案した本法案紅潜成したのは,ただ2つの重要団体「坑夫連   盟」とヨークレア炭鉱主であった。その他の炭鉱主および本法案の他の批判者は,彼らの   吸撃を貨1に.炭鉱の労働時間短縮に向けた。保守党は強く全法案に.反対し,それに及対し   て連合した非妥協的戦線を示した。他方自由党ほ,それがコスト切下げ紅役立たず,能率   を阻止し,そして非能率炭鉱へ既得利益を与え.るという理由で本法秦紅反対する惨正案を  

動議した。政貯は,籍2読会中に自由党の要請に応じてつぎの修正を行った。  

(1)「調査委員会」(The committees ofinvestigation)の権限強化  

(2)強制販売制度の運用への3年間のタイム・リミットーそれほ1933年末紅終了する。  

(3)「炭鉱再組織委員会」(The CoalMines Reorganigation Commission)の設立    委員会の最終段階で,激烈な閑争が強制的価格規制の措置詔−かんして生じた。本法案紅   対する炭鉱主の態度をみれば,輸出地区ほ反対し,国内生産地区は賛成であった。しかし   政貯ほ,価格規制ほ販売計画の満足のいく運用に.とって本質的であることを充分明白に.し   た。1930年4月3日第3読会で若干の小変更をもって本法案ほ.43票の多数で通過した。そ  

の後,上院および下院で若干の修正の後,1930年8月の最初の日紅本法案は,王の承認を  

受け,「1930年炭鉱法」The CoalMines Act,1930は成立したのである。議会に.よる本法案   紅おいてなされた主な変化をふりかえり要約すれば,われわれは,そのはとんどが労働党  

一自由党提携の産物であり,したがって強い自由党の影響を示すことは注目に値する。  

「1930年炭鉱法」がイギリス炭鉱業紅与えた構造的変化は,2つのグループに分類しうる。   

(10)

イギリス「炭鉱法,1930年」の成立  

ーヱ95…  

521  

すなわち,石炭の生産,筒場および販売の組織にかんするもの,および炭鉱の合同を取扱   うものとである。前者グル−・プは,後者のグループよりはるかに重要であった。本法によ  

って採用された新販売組織は,つぎの諸特質をもっている。  

(1)本計画の仝管理は,炭鉱所有者濫まかされ,原則として・何らの外部的要素もこの産   業の行動紅責任をもたされなかった。  

(2)しかし国家当局と強制の重責は,いくつかの場合にこの組織紅介入する。  

(3)本制度は,イギリスで石炭を生産するすべての企業ならびに採掘されるすべての石    炭をふぐむよう拡げられる。  

(4)生産は,全国的規模で統制され,他方価格ほただ地区基礎のみで規制される0  

(5)大愚の経済計画が採用された。もっとも若干の点で本法ほ,高度の調整を達成する   こと紅失敗する。  

(61その制限的性格とほ別に,新組織ほ石炭の生産又ほ販売を容易にする何か橡別の制    度又ほ協定を提供しなかった。かかるすべてほ炭鉱主の任意の決定紅まかされる0か  

くして個別的調整への広い余地がそのイニシアチブに留保される。  

(7)本法の創設した制度は,政治学,経済学,社会理論などの混合である。  

(8)消費者の利益のために.保護がなされる。  

(9)本法の採用したこの産業の新組織は,時限的である。  

(10)石炭配給組織の問題は,含まれなかった。   

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