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図版解説 萬鉄五郎 《軽業師》および《太陽と道 》

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図版解説 萬鉄五郎 《軽業師》および《太陽と道

著者 田中 淳

雑誌名 美術研究

号 397

ページ 79‑97

発行年 2009‑03‑27

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006176/

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 図  版  解  説

萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》

田  中    淳

     はじめに    一、一九一二年の「浅草公園」    二、 「見世物」としての「玉乗り」のイメージ    三、運動する身体への感覚

    はじめに

  本 作 品 ( 図

2 ・

( ) は、 二 〇 〇 八 年 ( 平 成 二 〇 ) 度 の 萬 鉄 五 郎 記 念 美 術 館 ( 岩 手 県

花 巻 市 東 和 町 ) の 新 収 蔵 品 の 一 つ で あ る。 同 作 品 は、 一 九 八 五 年 に 開 催 さ れ た「 生 誕 百 年 記 念  萬 鐵 五 郎 展 」 ( 六 月 ︱ 九 月、 神 奈 川 県 立 近 代 美 術 館・ 三 重 県 立 美 術 館・ 宮

城 県 美 術 館 を 巡 回 ) に 出 品 さ れ て 以 来、 永 ら く 所 在 不 明 の 状 態 で、 同 展 開 催 時 か ら 今日まで幾多の同画家の回顧展、刊行物において紹介されることがなかった作品で ある。いわ ば 二四年ぶりに紹介することができる作品である。   二〇〇八年六月初旬に 、購入の候補作品と考えていた先述の美術館学芸員

ン グ を し て い た ( 修 復 報 告 書 に よ れ ば 、 画 面 表 面 の 黄 変 し た ワ ニ ス を 除 去 し、 あ ら た に 認識したうえで、オファーする以前に実績のある修復家に依頼して作品のクリーニ 案内され、都内の画廊に同道した。画廊側では、作品の価値と状態をたいへんよく H 氏に

ワ ニ ス を か け た だ け で、 補 彩 等 は し て い な い と の こ と で あ っ た ) 。 そ の 修 復 後 に 実 見 し たことになるのだが、二十数年前に展覧会で見た記憶、そして当時の展覧会図録掲 載 の 脂 色 に お お わ れ た カ ラ ー 図 版 と 比 較 し て、 い さ さ か 疑 い た く な る ほ ど、 そ の 色彩の違うことに驚かされた。まことに色彩が生き生きと鮮やかなのである。しか も、これまで裏面にも絵が描かれているという情報だけで図版として紹介されるこ と の な か っ た《 太 陽 と 道 》 ( 収 蔵 後 に 美 術 館 側 で 付 し た 題 名 で あ る ) も、 は じ め て 目 に す る こ と が で き た。 こ ち ら も 青 年 期 の こ の 画 家 の 作 品 ら し く、 「 ゴ ッ ホ 」 風 に 大 胆に原色を使い、太いタッチでぐいぐいとギラギラと輝く太陽を正面から描いた作 品で、習作風ながら、作品として高く評価できるものであった。現在、萬鉄五郎が 描 い た 太 陽 を モ チ ー フ に し た 同 時 代 の 代 表 的 な 作 品 で あ る《 煙 突 の あ る 風 景 》 ( 一 九 一 二 年 ) 、《 太 陽 と 麦 畑 》 ( 同 年 ) が い ず れ も 所 在 不 明 で あ る こ と か ら、 美 術 館 に お いて目にすることができる貴重な作例になるとおもわれた。   ところで、この両作品は一枚の木製の「スケッチ板」に 描かれている。通常、表 に対して裏面は、 左右が斜めに削られている。 この作品の場合、 《太陽と道》 が表面に、 《軽業師》の左右両端は斜めに削られていることから裏面ということになる。萬は、 その晩年に展覧会を計画していたらしく、そのための出品予定の作品の図柄をスケ ッチした紙片が、同美術館の資料として残されている。それをみると、やはり萬の 書き込みがあり、 「表側」が「太陽と道」であり、 「裏面」が「軽業師」となってい る。 萬 自 身 が、 こ の 作 品 の ど ち ら を 展 示 し よ う と し た か は 判 然 と し な い ( 挿 図

になるからである (挿図 ある。カーブを描く道や画面右端の家など、 左右反転させると、 木版画《太陽と道》 ま た、 《 太 陽 と 道 》 は、 萬 の 自 刻 木 版 画《 太 陽 と 道 》 の 原 画 に あ た る よ う な 構 図 で 1 ) 。 からであ る 1 ) ウ に は、 旧 蔵 者 に よ る 墨 書 き で「 軽 業 ( 裏  太 陽 と 道 ) 萬 鉄 五 郎 作 」 と 書 い て い た ぜなら旧蔵者は、両面が見られるように額装していたが、作品を入れるためのタト り、 洋 画 家 で あ っ た 原 精 一 ( 一 九 〇 八 ︱ 一 九 八 六 ) の 意 向 も あ っ た の で あ ろ う。 な 青年期に茅ヶ崎在住の萬に師事し、戦後になって所蔵することになった旧蔵者であ ていた (作品の来歴については、 文末の展覧会出品歴と文献を参照されたい) 。この点は、 戦後から今日までのこの作品の来歴を調べたところ、つねに《軽業師》が展示され つぎに裏面にあたる方に 《軽業師》 を描いたと考えることが妥当であろう。しかし、 2 ) 。作者は、 順番としては先に表面に 《太陽と道》 を描き、

( 。そのためというよりも、ここでは《太陽と道》にみられる直截で主観 的 な 表 現 以 上 に、 《 軽 業 師 》 が 示 唆 す る 造 形 的 な 問 題 の 方 が 興 味 深 い こ と か ら、 こ

七九

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美  術  研  究   三  九  七  号

の裏面にあたる《軽業師》を中心に考察をすすめることにしたい。

    一、一九一二年の「浅草公園」

  萬は、一九一二年三月に 東京美術学校西洋画科本科を卒業した。ひきつづき同学 校の研究科に一年間ほど在籍することになるが、すでに一九〇九年に結婚をし、子 供をもうけていたことから、おのずと生活面で一家をささえていかなけれ ば ならな かった。萬自身はそうした事情を、つぎのように述懐している。

生活費を得る事としては学校を出て間もなく浅草に行って活動写真の看板をか いた。楽屋の裏で徹夜でやる事が多かった。それからこの年は池の端の外国館 で植民地の博覧会のあった年で台湾館の壁画となるものを近藤浩一路や田中良 などと一しょにかいたものだ。何んでもこうした絵をかいて居るうちに明治が 大正元年に変って仕舞ったのだ。浅草に通ってるうちにロートレックまがいの ものを描き始め浅草の魔女や玉乗などを画題にした事が一寸続いた。その間に 漫画家になろうとして時事新報に政治漫画を寄稿したり又文章世界や太陽に挿 絵を送っていた事もある。冬頃になってから小代為重さんからの相談で御厨純 一などとマリオラマの制作をやり始め海底旅行の様子を見せるものを浅草で作 った。これ丈が一ヶ年の主なる出来事であるから此の年は全く多事だったと思 う。 (「私の履歴書」 、『中央美術』一一巻一一号、 一九二五年一一月、 『鉄人画論』所収、

一四頁)

  こ の よ う に 卒 業 し て か ら と い う も の、 活 動 写 真 の 看 板、 博 覧 会 の 壁 画 ( 挿 図

またモチーフとなった「玉乗り」とはどのようなものだったのか、この二点に つい   さて、 作品そのものに 入っていく前に 、当時の 「浅草」 とはどのような場所であり、 まさにそうした時期に描かれたひとつであったろう。 「浅草の魔女や玉乗りを画題にした事が一寸続いた」 としている。この 《軽業師》 は、 トに精をだしていたことがわかる。その場所はおもに浅草であり、同地に通う間に 漫画や挿絵の投稿、マリオラマの制作等々、つぎからつぎへと、いわゆるアルバイ ( ) 、

挿図 1 萬鉄五郎《展覧会のための下絵

 

No. 4》、

鉛筆 ・ 紙、 ((.0 × 24.0 cm、 1927 年頃、

萬鉄五郎記念美術館蔵 挿図 2 萬鉄五郎《太陽と道》、 木版 ・ 紙、 10.1 × 1(.7 cm、 1912 年、

萬鉄五郎記念美術館蔵

八〇

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 て順に述べておきたいとおもう。以下の記述にあたり、一九一二年当時の東京浅草 の 見 世 物 と し て の「 玉 乗 り 」 に つ い て は、 朝 倉 無 聲 著『 見 世 物 研 究 』 ( 思 文 閣 出 版、

一九八八年覆刻版) 、阿久根巌著 『元祖   玉乗曲藝大一座   浅草の見世物』 (ありな書房、 一 九 九 四 年 ) を 参 照 し、 以 下 の 記 述 に つ い て も、 多 く を 同 書 か ら 学 ん だ こ と を こ と わっておきたい。また、明治、大正の浅草のシンボルとしての十二階建ての塔であ る「凌雲閣」を中心に、浅草の変遷を十二階の塔の内と外から多角的に考証した細 馬 宏 通 著『 浅 草 十 二 階 』 ( 青 土 社、 二 〇 〇 一 年 ) か ら も 多 く を 学 ん だ こ と も こ と わ っ ておきたい ) 2

( 。   さ て 阿 久 根 巌 の 前 掲 書 の 中 で も 紹 介 さ れ て い た 雑 誌『 新 小 説 』 第 一 七 年 四 号 ( 一 九 一 二 年 四 月 ) で は、 「 浅 草 研 究 」 と 題 す る 特 集 記 事 が 掲 載 さ れ て い る。 こ の 特 集 の 執筆者には、饗庭篁村、下岡蓮杖、淡島寒月、児玉花外、久保田万太郎等々、多士 済々の人々が寄稿している。そうした寄稿のひとつである瀧村靄山 「浅草公園雑感」 では、冒頭に当時、つまり一九一二年の東京にあって「浅草公園」の特色をつぎの ように分析している。

  僕は浅草公園に遊んで常に 感ずることは同公園が現代社会を最もよく縮写し て居ることだ、公園といへ ば 上野公園もありハイカラ式な日比谷公園も有り芝 もあれ ば 深川もある夫れ〳〵特殊な匂ひ各別な味があるに相違無いが何れも其 趣味は一色であると云つて良からう、然るに浅草公園に至つては大に然らず其 の趣味は甚だ多方面に亘つて居る、従つて浅草公園を通じて最もよく現代社会 を窺ひ得ると思ふ、   先づ浅草に遊んで仲見世から御堂、御堂から十二階下活動写真間其他の見世 物小屋 (今では小屋といふのは少しく失敬だが矢張り在来の名称を使つて置く) あたりを一巡して感ずる所は如何にも物質的に活発な所だ深さは無いが何か目 まぐるしい程動いて居る処だといふ事である。是れは恐らく一般の所感で有ら うと思ふ、浅草に遊んで直ちに深酷な匂ひを嗅ぎ理想の光明に対する憧憬心を 起しさては人世のさびしさを感ずるが如き人は蓋し無からう、何だか物質的現 実の中と壓され壓されて何か無し観音堂にも上らうし活動写真の下にも佇まう 迄の事だ、一言でいへ ば 騒々しいせゝつこましいそして飽くまで物質的な現代 の匂ひは浅草に於て最もよく表はれて居りますまいか。 (六一︱二頁)

  この寄稿者が指摘するように 明治に なって整備された日比谷公園とも上野公園と もちがった雰囲気、それは、一方で江戸時代からの最大の盛り場でありながら、何 よりも 「物質的」 で、 「目まぐるしい」 公園として 「浅草公園」 が位置づけられている。 その公園のなかでも、浅草寺西側に位置する「六区」という地域については、つぎ のような感想を記している (挿図

4 ) 。

頃日友人三四人と梅の名残を百花園に賞した帰るさ時は夕方久々公園に入つて 活動写真館の益々立派に成りイルミネーシヨンの愈々奇麗になつたのには驚い た現代はどうしても活動写真全盛時代だ、活動写真趣味旺盛の時代だとはつく 〴〵感じた所であつた、が、あの活動写真の裏は例の銘酒屋新聞縦覧所が軒を 列べて居るのだと思つたら一種妙な感に打たれた否活動館の裏手のみでは無い 公園の周囲は東側を除いては悉く這種の店で取り巻かれて居る而かもされがき らびやかな賑かな表通りと直接して存在して居るのだ、表から裏に移る間には 一筋の通りも無い、 全く背中合せの裏表なのだから面白いでは無いか。 (六三頁)

挿図 ( 拓殖博覧会(東京 ・ 上野)台湾館壁画の共 同制作、 1912 年、

後列(足場の上)左側二人目が萬鉄五郎

八一

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美  術  研  究   三  九  七  号

  こうした「六区」のにぎわいと歓楽の光の部分と対照的な影の部分を指摘してい る の は、 こ の 寄 稿 者 だ け で は な い。 か つ て 社 会 主 義 詩 人 で あ っ た 児 玉 花 外 も、 「 十 二階の窓の眼」と題する一文を寄せて、その「六区」のにぎわいをつぎのように 記 している。

  六区には活動写真が両側に 建詰つて、濃厚な頗る刺戟的で強烈な色彩に 塗つ た、 む し ろ 悪 ど い 色 の 絵 看 板 が 掲 出 さ れ て、 流 石 は こ ゝ も 春 で 桜 の 造 り 花 と、 長い丸い紅提灯が入口に沢山に 懸聨ねて紫黄赤や青の旗幟が場内からの蒸せる 空気と外方の春風にハタ〳〵する。夜のイルミネーシヨン晃々たる電燈が一時 に点つた華やかさは歓楽の世界の絶頂だ。臀部の肉の追々に 肥る美少女と少年 の悲哀を感じさす玉乗一座、例の四銭の安い白粉の女芝居も興行して居る。   凌 雲 閣 十 二 階

 

︱ ︱

 

い は ゆ る 千 束 町 塔 の 下 に は、 灰 色 の マ ツ チ 箱 の 様 な 夥 い 小家に、宵から白首が障子の硝子口から瞳を覗けて、狭い小路の右左から燕の 如に喋舌くつて、ぞめき歩きの浮れ嬌客を呼立つて居る。其中にはふつくらと つた濃い庇髪に薔薇や燃える虞美人草の紅い一輪挿の女や、青い流行の絹ハン カチで白首を巻いた若い女が居る淫楽の厚い化粧の塊物よ。 (三四頁)

  このような浅草の「六区」で、萬は、 「生活費」のために 「活動写真の看板」 、そ れは「濃厚な頗る刺戟的な強烈な色彩に塗つた、むしろ悪どい色の絵看板」を描い た こ と に な る。 「 活 動 写 真 の 看 板 」 が、 ど の よ う な も の だ っ た の か、 現 在 で は 当 時 の 絵 は が き ( 挿 図

こ と に に ぎ や か な 概 観 を 目 に す る こ と が で き る の で た い へ ん に あ り が た い ( 挿 図 模型があり、それなどをみると、多くの幟をたてて、活動写真の看板が並んだ、ま 博物館の常設展示場には、当時の常打ちの活動写真館の先駆であった「電気館」の ( ) 等 の 写 真 資 料 で し か 想 像 で き な い が、 現 在、 東 京 都 江 戸 東 京   そして《軽業師》のモチーフともなった「玉乗り」に ついて、同じ特集の記事の 6 ) 。

挿図 4 浅草六区の盛観(大正元年ごろ) 

右から 12 階、 浅草国技館、 江川の玉乗り大盛館(『増補新訂 浅草細見』、

浅草観光連盟、 1976 年より)

挿図 ( 電気館ハガキ、 191( 年(『増補新訂 浅草細見』、 浅草観光連盟、

1976 年より)

挿図 6 電気館模型、 東京都江戸東京博物館蔵

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 なかで、高崎春月「池の向ふ歩き」は、当時の前記のような浅草のルポルタージュ のなかでも、ことに「玉乗り」の江川一座の見物記が含まれており、つぎに引用し たい。

大盛館の江川玉乗一座へ入る。入らはい〳〵といはれた言葉に連れられて、ウ カ〳〵と入つた。 そして又ウカ〳〵と見物した。 綱渡りもあつた。 危険千萬な、 心の躍るのを禁じられない様々な技藝が、様々な形に於て演じられた。世の中 の種々な技藝が、漸く機械的に ならうといふのに 、この種の技藝が絶大な習練 を要し演技者の自信を要し、而して多年の苦心努力を要するもので、今また多 く世に容れられないものとなりつゝあるのを遺憾に思はずには居られない。我 等は長くこの種の技藝を保存し置きたく思ふと同時に、この種の演技者を保護 し な く て は な る ま い と 思 ふ。 先 づ 浅 草 の 見 世 物 を 軒 別 に 調 査 す る 必 要 が あ る。 数年前まで今の大勝館の所に青木一座といふ玉乗があつた。今のオペラ館の所 に都踊があつた。世界館の所にも都踊式のものがあつた。電気館の所か、其所 にも手踊があつた。○ 一 ) (

( も居た。海坊主も居た。書生剣舞加藤一座といふのも 居た。兎に角常磐座を中心にしたあの附近は今でこそ総てを活動写真に、占領 されて居るが、以前は日本式の見世物が並んで居たものである事を忘れてはな らない。 (九三頁。挿図

7 ) 浅草の大盛館を常打ち館として興行していた (挿図 二四) に江川亀吉によって東京下谷で興された一座で、 一九〇一年 (明治三四) 以来、   こ こ に い う「 江 川 玉 乗 一 座 」 と は、 阿 久 根 巌 の 前 掲 書 に よ れ ば 一 八 九 一 年 ( 明 治

8 ・ れ る ( 挿 図 おり、また演じられたものは、玉乗り、軽業、曲芸といった「番組」であったとさ たち、ことに娘太夫たちは、一座立ち上げ当初からメリヤスの肌着を着て出演して 9 ) 。この小屋のなかの演者

「一週間、 もしくは一〇日替りの興行」 (田中純一郎『日本映画発達史 Ⅰ 』、 中央公論社、 の大衆の好奇心は 「活動写真」 に むかっていったといわれる。その 「活動写真」 は、 に浅草にはじめて常打ちの「活動写真」上映の電気館が開場して以来、日露戦争後 「 活 動 写 真 」 に 様 変 わ り し て い る こ と を 嘆 い て い る。 実 際、 一 九 〇 三 年 ( 明 治 三 六 ) 10 ) 。 た だ し こ の 寄 稿 者 は、 当 時 の 浅 草 の 大 衆 の 娯 楽 が、 「 見 世 物 」 か ら

一 九 八 〇 年 ) で あ っ た と さ れ、 そ う で あ れ ば こ そ、 美 術 学 校 を 卒 業 し た ば か り の 萬 にも「生活費」のための週代わりの「活動写真の看板」を描くというアルバイトが あったということだろう。

挿図 7 鰭崎英朋 「写生の浅草(其四)江川の 玉のり」(『新小説』第 17 年 4 号、1912 年 4 月)

挿図 8 「六区瓢簞池前大盛館玉乗」(宮尾しげお編『珍しい写真集 東 京そのむかし』、 アソカ書房、 19(6 年より)

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美  術  研  究   三  九  七  号

挿図 9 「浅草公園之図」(東京市編纂『東京案内』下巻、 裳華房、 1907 年より)

八四

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》   また、萬の同じ回想中に 「冬頃に なってから小代為重さんからの相談で御厨純一 な ど と マ リ オ ラ マ の 制 作 を や り 始 め 海 底 旅 行 の 様 子 を 見 せ る も の を 浅 草 で 作 っ た 」 とある。これは、同じ浅草六区内にあった「ルナパーク」という「遊園地風の娯楽 場」内にあった海底旅行館の仕事ではなかったかとおもわれる。   「 ル ナ パ ー ク は、 コ ニ ー ア イ ラ ン ド に あ る 同 名 の 遊 園 地 か ら 示 唆 を 得 た も の で、 総延べ坪千二百余坪の中には、東京及び地方の名物売店、海外諸国の物産販売所を はじめ、肖像写真撮影所、各種飲食喫茶店、南極旅行館、天文館、海底旅行館、自 動機械館、木馬館、電話発音機館、天女館、植物温室等の設備を常設し、中央の庭 園には高さ五〇尺の築山を造り、その山上より大瀑布を落とし、その下に 池を掘り 池 の 周 囲 に 四 季 の 草 花 を 植 え た。 ま た 汽 車 活 動 館 と 相 撲 活 動 館 」 ( 田 中 純 一 郎、 前 掲

書、 一 八 六 頁 ) と い っ た 施 設 が あ っ た。 一 九 〇 九 年 ( 明 治 四 三 ) 九 月 に 開 園 し た が、 翌年四月の「汽車活動館」から失火して全館に延焼してしまったという。同年一〇 月に一部復興したとつたえられることから、萬の「マリオラマの制作」も、美術学 校卒業後という時期から考えると、同園の復興の一部だったのではないかと推察さ れる。     二、 「見世物」としての「玉乗り」のイメージ

  と こ ろ で、 こ の 寄 稿 者 高 崎 春 月 は、 「 活 動 写 真 」 興 行 の 盛 況 の な か、 も は や「 江 川 一 座 」 だ け が、 「 最 後 の 奮 闘 者 」 と し て、 浅 草 の「 公 園 に 踏 み 止 つ て、 多 く の 敵 に囲まれながら、尚は且つ屈せずに闘つて居る」として、はては「歴史的に彼等は 公園を繁栄させた大なる功績」があるのだから、 「浅草区」は「区費」をもって「保 存 」 す べ き だ と 訴 え て い る。 い さ さ か、 お お げ さ な 主 張 な が ら、 「 見 世 物 」 と い う 興行自体が、衰退しつつあった時代であったことはあきらかであろう。その当時の 「江川一座」の舞台であるが、つづけてつぎのように記されている。

天井からは紅白に撚つた綱や撞木が下つて、中将湯の広告幕が正面に煤けて居 る。桟敷の前には色々な名の入つた提灯がズラリと並んで居た。水兵服を着た 小 供 の 口 上 が、 『 相 勤 め ま す 太 夫 身 支 度 な 相 整 ひ ま す れ ば 正 座 ま で 控 へ さ せ ま す』といふ口調がませて聞こえた。種々あつた技藝の中で最も興味を感じたの は、蝙蝠傘の足藝をした江川玉子といふ娘であつた。我等が手で取り扱ふより は、より巧妙に傘を自由にした。そしてその複雑な心的動作を寧ろ単調な現は れとして取扱つて居るのに一種の恐怖を覚えた。 (九四頁。挿図

11 )

  「 江 川 一 座 」 が も は や 衰 退 し て い た「 見 世 物 」 で あ っ た と い う 点 で は、 「 綾 雲 閣 」 と称された「浅草十二階」も、また色あせたものになっていたのだった。前掲の数 馬氏の著作でも、田山花袋、石川啄木、金子光晴、今東光といった文学者詩人たち の十二階をめぐる作品を引用しながら明治末年の浅草、ことに六区とそれに 隣接す る「魔窟」といわれた当時の千束町界隈の陰影の濃い情景が分析されている。   ではこの当時、つまり一九一二年前後の「見世物」としての「江川一座」は、他 にどのように語られ、見られていたのだろうか。それを管見の資料のもとに、つぎ にふりかえってみたい。まず、 もとより「見世物」とは、 通常の人間ではできない、

挿図 10 「浅草公園の見世物」(『演芸画報』第 1 巻 4 号、 1907 年 4 月)

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さまざまな「芸」を見せるわけだが、 とりわけ少女と子供が「芸」を見せることに、 労働の問題として、あるいは社会の問題としてこの「江川一座」の「曲芸」を見つ めている、つぎのような新聞記事がある。

△ 瓶( か め ) の あ し ら ひ  余 は 最 後 に 瓶 の あ し ら ひ に 就 て 記 せ ざ る べ か ら ず、 蓋し最も余を感動せしめたるものなれ ば なり。 這は前に鉄線渡りを演じたる江川きん子と称する少女と、又た前に頭立を演じ たる巳之助と名くる少年との合同演技なりき。仰向に伏したる少女は双脚の上 に瓶を載せ二三度試練し、夫れより小桶八ツを足の裏に積み塁ね上に瓶を載せ てぐる〳〵廻転さす、かゝる後、少年巳之助を瓶の中に入れ、二三度廻転した る上、下より相図を為せ ば 少年は徐々と瓶の中より後退りに這ひ出んとす、危 険なる哉、若し其の術一呼吸を誤ら ば 少年は瓶と共に床上に転落して多少の怪 我は免るべからず、 見るもの皆胆を寒うし、 唾を飲み、 手に 汗握らざるは無し、 然かも少年は一向平気にて首尾克く這ひ出でゝ瓶の上に立ち、鯱鉾立其の他の 芸を演じたる後又た元の瓶へと逆戻るなり、此れ実に千番に一番のカネ合と称 する危険なる芸にして、這ひ出づる時よりは余程六ケしと謂ふ、側に立てる相 方の男戯れて日く、穴より出でゝ穴に入る穴恐ろしの世の中やと、爾り、彼男 は無学なれども言ふ所は自ら心理を語れるなり、然かも無底の洞穴なり、此の 洞穴の為に日々幾千の不幸なる兄弟姉妹は呑まれつゝあるなり、多くの兄弟姉 妹は不知不識の間に此の洞穴に向つて急ぎつゝあり、穴恐ろしの世の中やと洒 落る彼の男も又然るなり。此の無底の洞穴に多くの不運なる兄弟姉妹を陥れて 此の世の富と栄華を独占せんとするが、今の貴族、富豪の志願にして、不幸に も此の志願は日々に実現せられんとしつゝあり、若し平民階級にして何時迄も 自 覚 せ ず ん ば 、 其 の 実 現 や 蓋 し 遠 き に あ ら ざ る べ し。 ( 赤 羽 巌 穴「 江 川 一 座 の 娘 玉乗 (危険なる生活術よ) 」『日刊平民新聞』 一九〇七年 〈明治四〇〉 一月一五日、 『明

治文学全集八四   明治社会主義文学集(二) 』、筑摩書房、一九六五年、三五九頁)

  ここに描写されている 「瓶 (かめ) のあしらひ」 を読むと、 まさに萬の描いた 《軽 業 師 》 の 構 図 に 近 く ( 萬 の 作 品 で は、 盥 の よ う な も の に 子 供 が 入 り、 回 転 し て い る よ う

にみられる) 、画家がこの芸をモチーフにしたことがうかがわれる。 前掲の朝倉著 『見 世物研究』によれ ば 、これは「曲持」と称される芸で、 「曲持の演者は仰けに寝て、 両足を空に差上げ、其足底で開いた傘を水車のやうに廻はしたり、又樽や盥を廻し 乍 ら、 高 く 蹴 上 げ て は 受 留 め な ど を す る 曲 で あ る 」 ( 八 〇 頁 ) と さ れ る も の で あ る。 しかし近世以来からの伝統の「曲」芸とはいえ、この『平民新聞』記者は、その危 険と背中合わせの 「軽業」 をする 「兄弟姉妹」 を社会の底辺に 位置づけ、 「平民」 と 「富 豪 」 の 格 差 と い う 社 会 問 題 と し て 論 じ て い る。 『 平 民 新 聞 』 な れ ば こ そ の 視 点 で あ るが、同じく阿久根の前掲書でも、この見世物に対する見物記の多くは、演じてい る子供や若い娘たちに対する「憐憫の情に訴える」ことが常套的だったようだ。そ うしたことは、実際に当時の「玉乗り」一座に関する回想にいくつもうかがわれる ことから、見物する側も芸をみながら、やはり演者に対する「憐憫の情」をもって いたことがわかる ) 4

( 。   つ ぎ に 美 術 雑 誌『 方 寸 』 第 三 巻 八 号 ( 一 九 〇 九 年 一 一 月 ) で は、 「 浅 草 号 」 と い う 特集を組んでいる。創作版画の嚆矢として知られるこの美術文芸雑誌における、こ の 特 集 で は、 表 紙 ( 挿 図

下杢太郎、 長田秀雄、 石井柏亭、 高村碎雨 (光太郎) 、倉田白羊などが名を連ねている。 情景が描かれている。方寸同人たちの版画作品のほかに、執筆には、北原白秋、木 12 ) が 山 本 鼎「 薄 暮 」 と 題 さ れ た 凌 雲 閣 を 下 か ら 仰 ぎ 見 た

挿図 11 鰭崎英朋 「写生の浅草(其八)江川 たま子の曲芸」(『新小説』第 17 年 4 号、 1912 年 4 月)

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 ここには、 その顔ぶれをみれ ば 、隅田川をパリのセーヌ川にみたて、 隅田川沿いの 「よ か楼」 などで集っていた青年芸術家たちの 「パンの会」 の雰囲気がある。それだけに、 「 江 戸 の 伝 統 を 豊 か に 抱 く 下 町 浅 草 に 、 耽 美 的 な 芸 術 の 香 を 求 め て ゐ る こ と が 知 ら れる」 (野田宇太郎、 『瓦斯燈文藝考』 、東峰書院、 一九六一年、 一〇七頁) と評されている。 しかしながら彼等の視線は、かならずしも隅田川の方に向けられているかというと そうでもなく、また「下町浅草」のなかに「江戸の伝統」を懐旧的に求めているわ けではない。彼等が目にした現実の「浅草」が詠われ、また描かれている。そのひ とつである北原白秋「浅草哀歌」では、つぎの一節のように「江川一座」の玉乗り がモチーフになっている。

Ⅰ われは思ふ、浅草の青き夜景を、 仲見世の裏に洩るる短夜の葱のむせびを、 公園の便所の瓦斯を、はた澄めるアルポーズの香を。

あはれなる蛇小屋の畸形児を、かつは知れるや、 怪しげの二階より寥しらに顔いだす玉乗のわかき女を、 あるはまた曲馬に場に 汗臭き ば かりうち並ぶ馬のつかれを。 新しきペンキに沁みる薄暮の空の青さよ。 また臭き花屋敷の側に腐れつつ暗らみゆく溝の青さは、 夜もふけて銘酒屋の硝子うち覗くかなしき男のみや知りぬらん。 われは思ふ、かかる夜景に漂浪へる者のうれひを、 馬肉屋の窓にうつる広告の幻燈を見て蓄音機きけるやからを、 かくまた堂のうしろに病める者、尺八の追分のふし。 (中略) Ⅳ 玉乗の児よ、戯奴よ、身振をかしき鈴振よ。 また、いわけなき曲馬の児、 赤き上着にとりすまし銀笛吹きの童よ。 げに げに 汝ら、しほらしく、あるはをかしく、おもしろく、 戯れ浮かれて鄙びたる下司のしらべに忘るれど、 いづこともなき焼栗の秋のに ほひを嗅ぐときは 物思ふらむ、嘆くらむ、かくて涙もさしぐまむ。

すべり転がる玉の上に、暗き楽屋に、 汗臭き馬の背に、またはかの道化芝居の下座にして、 玉蜀黍を噛みしむる、収穫の日の 盲目のわかき女に見るごとく、 物のあはれをしみじみと思ひ知るらむ、焼栗の秋のに ほひ。

  白秋の叙情詩では、 薄暮から夜に かけての浅草の情景のなかで感傷的に 「玉乗り」 が 眺 め ら れ て い る。 ま た、 小 杉 未 醒《 竿 の 先 》 ( 挿 図

1( ) と 題 さ れ た 石 版 画 は、 少

挿図 12 『方寸』表紙(第 ( 巻 8 号、1909 年 11 月)

八七

(11)

美  術  研  究   三  九  七  号

女 が 肩 に 竿 を 載 せ、 そ の 先 で 芸 を す る も の を バ ラ ン ス を と り な が ら 見 上 げ て い る、 まさにこの「江川一座」の曲芸のワンショットという趣である。   また、人見東明は、口語自由詩を唱えた処女詩集『夜の舞踏』のなかで、白秋と は別に、むしろ明るく、玉乗りの球の白と赤の色彩の対比の鮮やかさへ目を向けつ つ、のどかに詠っている。

珠乗り くるくると珠は舞ふ 赤と白との珠はくるくると

 

……

はらりはらりと緋鹿の子の袖は小鳥の 滑らかな舞台を赤と白との珠がふたつ

さつとひらく緋の扇 少女の笑みのにこやかさ。

くるくると珠は舞ふ 赤と白との珠はくるくると

 

…… (一九一一年〈明治四四〉三月)

  詩 に 詠 わ れ た「 玉 乗 り 」 の つ ぎ に、 視 覚 的 な イ メ ー ジ ( 絵 画 ) と し て は ど の よ う に描かれたのだろうか。 その端緒となったのは明治末年にデビューした竹久夢二 (一 八 八 四 ︱ 一 九 三 四 ) で は な い か と お も う。 夢 二 は、 早 稲 田 実 業 学 校 を 卒 業 し た 一 九 〇五年 (明治三八) 頃から、 『直言』 、『中学世界』等の新聞雑誌に「コマ絵」の投稿 を は じ め て い る。 そ し て 一 九 〇 九 年 ( 明 治 四 二 ) 一 二 月 に 洛 陽 堂 か ら『 夢 二 画 集  春 の 巻 』 刊 行 を か わ き り に 、 瞳 の 大 き な 甘 美 な 独 特 の 女 性 像 を ト レ ー ド マ ー ク に 、 それに散文をそえ、あたかも詩と絵とが融合した「コマ絵」を集めた一連の『夢二 画 集 』 の 刊 行 が つ づ き 人 気 を 博 し た。 い ず れ も が、 都 会 ( 東 京 ) と 地 方 で 夢 二 が 目 にした生活の断片が描かれており、断片であるだけに、いずれかの場面が見るもの に自分の生活と現実との親近性を抱かせることになり、多くの共感を呼んだといわ れる ) (

( 。   そのシリーズのなかの 『夢二画集   秋の巻』 (洛陽堂、 一九一〇年一〇月) をみると、 「浅草江川一座」 と 「活動写真の女」 と題された 「コマ絵」 (薄い和紙に線描画を描き、

そ れ を 木 版 彫 り 師 が 版 木 に し て 印 刷 す る 絵 の こ と で、 残 る の は 版 木 だ け で あ る ) が 見 開 き で 掲 載 さ れ て い る ( 挿 図

14 ︱ 1 ・ ることを目的にした男性客も少なからずあったという 6 ) る女性があらわれたのだった。当時は、活動写真の内容よりも、女性に手をとられ の活動写真上映館ができると、客の手をとって暗い館内に案内することを仕事とす 草履履きながら洋装の女性が描かれている。先述のとおり、電気館のように 常打ち 若 い 男 女 が と ら え ら れ て い る に す ぎ な い。 一 方、 左 ペ ー ジ の「 活 動 写 真 の 女 」 は、 ものは描かずに、手すりにもたれ、いささか退屈そうに曲芸をぼんやりと見物する 2 ) 。 右 ペ ー ジ の「 浅 草 江 川 一 座 」 は、 曲 芸 そ の

( 。このページからは、片やす たれていく 「玉乗り」 と新しく登場した活動写真館の案内嬢との対比があらわされ、 浅草における興行の世界の変化が表現されているといえるかもしれない。   つ づ く『 都 会 ス ケ ッ チ 』 ( 洛 陽 堂、 一 九 一 一 年 六 月 ) に な る と、 い く つ か 江 川 一 座 に取材した「コマ絵」が掲載されている。この画集は、夢二を慕って知己となった 東京美術学校予科在学の恩地孝四郎をはじめ、久本信夫、宮武辰夫、田中順之助と

挿図 1( 小杉未醒《竿の先》(『方寸』表紙、

第 ( 巻 8 号、 1909 年 11 月より)

八八

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 の共著であった。ここで夢二は、 「江川一座」に 取材して、 「江川一座」 (挿図

一 点 を 寄 せ て い る 7 ) 将湯の張り幕と、午後の浅草の雰囲気と、江川にて︱あさくさ︱」と添え書きした 川にて」 、「江川小金嬢」の三点を、また恩地が「あせた桃色の肉襦袢の匂ひと、中 1( ) 、「江

( ( 挿 図

チ し て い る 夢 二 そ の 人 を 描 い た も の が 残 さ れ て い る ( 挿 図 スケッチ帳には、まさにそうした江川一座を自らスケッチに出かけ、そこでスケッ   ところで、当時浅草の牛肉店「いろは」に 住み、画学生となっていた木村荘八の 屋裏で休んでいる、あるいは出番の合間のような情景である。 16 ) 。 い ず れ も、 曲 芸 を し て い る 場 面 で は な い、 む し ろ 楽

17 ︱ 1 ・

2 ) 。 同 時 に 荘 八 村荘八日記〔明治篇〕校註と研究』 、 二〇〇三年、 四五頁) と記されている。描く方 (夢 そして此の月は彼に二三度逢つた」 (小杉放菴記念日光美術館 ・ 東京文化財研究所編 『木 しきりに画いて居た。 〔欄外に記述〕 夫は夢二だつたと云ふ事は二三日あとで分つた。 の 当 時 の 日 記 ( 一 九 一 一 年 五 月 二 六 日 ) に は、 「 玉 乗 り を 見 る。 夢 二 ら し い 奴 が 来 て

二 ) が、 無 名 の 画 学 生 に 描 か れ て い た わ け で あ る。 こ れ は、 こ の 当 時 す で に 夢 二 自 身の存在が有名となり、ひろく知られていたことをしめしてはいないだろうか。   また、この『都会スケッチ』刊行後のことであるが、東京美術学校の『校友会月 報 』 を み て い く と、 同 じ よ う に「 江 川 一 座 」 を モ チ ー フ に し た 挿 絵 が 散 見 さ れ る。

挿図 14-1 竹久夢二 「浅草江川一座」(『夢二 画集 秋の巻』、 洛陽堂、 1910 年 10 月より)

挿図 14-2 竹久夢二 「活動写真の女」(同前)

挿図 1( 竹久夢二 「江川一座」(『都会スケッチ』、

洛陽堂、 1911 年 6 月より)

挿図 16 恩地孝四郎 「江川にて―あさくさ―」

(同前)

八九

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美  術  研  究   三  九  七  号

これなども、夢二たちの描いた「江川一座」のイメージの広がりの一端をしめすも の だ ろ う ( 挿 図

18 ︱ 1 ・ 2 ・ も、アルバイトでの浅草通いで目にした「江川一座」や『夢二画集』の影響のなか 動する」身体性への関心がないまぜになっていたといえるかもしれない。萬の場合 の こ と 夢 二 風 の 影 響 の な か、 「 動 か な い 」 モ デ ル と 異 な る、 「 動 く 」、 あ る い は「 運 う都会風俗への関心といえるだろう。また美術学校等の画学生たちには、もちろん あるいは繁華で猥雑な都市の影としての「玉乗り」に漂う情感をあらわしたいとい と、 夢二の場合は、 凋落していく 「見世物」 としての 「玉乗り」 への哀愁 (ペーソス) 、 ( ) 。 た だ し「 江 川 一 座 」 へ の 視 線 と い う 点 か ら 考 え る

挿図 17-1 木村荘八『写生帳』(水彩 ・ 鉛筆 ・ 紙、 19.( × 11.( cm、 1911 年、 小杉放菴記念日 光美術館蔵より)

挿図 17-2 木村荘八『写生帳』(同前、 スケッ チする竹久夢二が描かれている)

挿図 18-1 「江川の女」(東京美術学校『校 友会月報』、 第 10 巻 ( 号、 1912 年 2 月)

挿 図 18-2 「TAMANORI」( 同 前、 第 10 巻 8 号、 1912 年 ( 月)

挿図 18-( 同前、 第 10 巻 9 号、

1912 年 6 月

九〇

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 から、 《軽業師》 を描いたことに なるだろう。実際に 萬は、 郷里の 『岩手毎日新聞』 に 、 いわゆる「夢二式美人」の挿絵に散文をそえたものを寄稿し、その下絵も残されて い る か ら で あ る ( 挿 図

う造形的関心の方が強くあったとおもわれる 8 ) でに指摘されたとおり、閉ざされた見世物の空間のなかでの「運動」する身体とい 19 ) 。 た だ 萬 の 場 合、 「 江 川 一 座 」 の 曲 芸 に 向 け る 視 線 は、 す

( 。この萬の作品からは、見物記にある よ う な「 憐 憫 の 情 」 も、 「 社 会 の 底 辺 」 と い う 社 会 批 判 な ど の 視 点 は ま っ た く 感 じ られず、彼の関心は身体の運度だけに向けられ、ドライそのものである。夢二風の 風俗的関心から造形的な関心への展開の跡を、萬の「軽業師」をはじめとして、つ ぎに具体的にみていこうとおもう。

    三、運動する身体への感覚

  竹久夢二風の風俗的な関心から、造形的な関心への展開を示し、作品として表現 した者が、萬を含め一九一二年前後に三人いる。ひとりは萬鉄五郎、二人目は萬と 同 じ 年 に 東 京 美 術 学 校 日 本 画 科 を 卒 業 し た 広 島 新 太 郎 ( 一 八 八 九 ︱ 一 九 五 一 ) で あ り、 その作品とは彼の卒業制作《玉乗り》 (一九一二年、 挿図

彫刻家の戸張孤雁 (一八八二︱一九二七) であり、作品は《足芸》 (一九一四年、挿図 20 ) である。三人目は、

ことなっている。そこで、広島、戸張、萬の順で、その作品をみていきたい。 21 ) で あ る。 造 形 的 な 関 心 と い っ て も、 そ れ ぞ れ 三 人 は、 そ れ ぞ れ の 表 現 の 方 向 が 異色である。玉乗りの女性をはじめとして、日本画らしくなく、きわめてフォルム 構想していたのかもしれない。この卒業制作であるが、同学校日本画科のなかでは ( 前 掲 書、 一 一 七 頁 ) と 記 し て い る。 こ こ か ら、 広 島 も、 こ の と き《 玉 乗 り 》 制 作 を の 家 を 訪 ね た こ と が 記 さ れ て お り、 荘 八 は 広 島 と「 描 く 可 き 卒 業 製 作 の 話 を し た 」 木村荘八の日記からは、ちょうど一九一二年一月一七日に萬の家を訪ねた後、広島 城 素 明 の 教 室 に 学 び、 先 輩 に あ た る 川 路 柳 虹 な ど の 影 響 も う け て い た の だ ろ う し、 派」絵画につよく惹かれた青年画家たちのひとりであった。東京美術学校では、結   広島新太郎は、ゴッホに 倣って号を「 晃 甫 」とするなど、萬と同じく「後期印象

こうほ

挿図 19 萬鉄五郎「挿絵原画 よき宵」、

墨 ・ 紙、 14.0 × 9.0 cm、 1912 年頃、

萬鉄五郎記念美術館蔵

挿図 21 萬戸張孤雁《足芸》、 ブロンズ、

(8.( × 26.0 × 18.0 cm、 1914 年、

碌山美術館蔵

挿図 20 広島新太郎《玉乗り》、 絹本着色、

116.( × 84.( cm、 1912 年、

東京藝術大学大学美術館蔵

九一

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美  術  研  究   三  九  七  号 は単純化されているからである。日本画の画材の特性であるがゆえに、絵具を盛り 上げるなどできないわけだが、ゴッホ、あるいはマチス風にフォルムを単純化する ことで主観性を強調しようとした点では、萬の《裸体美人》と双璧をなす卒業制作 であったといえるであろう。しかもここには、 そうした造形的な試みが前面に出て、 風俗的な哀愁のようなものは一切ない。   つ ぎ に あ げ た い の が、 戸 張 孤 雁 で あ る ) 9

( 。 孤 雁 に は《 玉 乗 り 》 ( 一 九 一 四 年、 挿 図

刻家ならではの思考がはたらいたものとして興味深い。 《足芸》は、 一九一四年 (大 おもしろさからいえ ば 、版画作品と同年に制作された彫刻作品《足芸》の方が、彫 ことで画面の安定をはかっていて、すぐれたものである。しかし、その造形表現の 品で、構図としても大胆に斜めに舞台を切りながら、演者たちをたくみに配置する 22 ) と 題 す る 版 画 作 品 が あ る。 ま さ に 舞 台 上 で 玉 乗 り を す る 演 者 た ち を と ら え た 作

正 三 ) 三 月 に 開 催 さ れ た 東 京 大 正 博 覧 会 に 「 玉 乗 り 」 と 題 さ れ て 出 品 さ れ た。 東 京 日本橋生れの孤雁にしてみれ ば 、浅草の「江川一座」の曲芸は、なじみのあるもの だったのだろうが、彫刻家としてこれをモチーフにしたとき、彼は何を表現しよう としたのだろうか。それを知る手がかりになるのが、当時孤雁が書いた一文「彫刻 界の現状を論ず」 である。 このなかで、 つぎのようにこの作品について言及している。

  或 る 批 評 家 が 私 の 製 作 ( 博 覧 会 美 術 出 品「 玉 乗 」 の 彫 刻 ) を 評 し て『 動 の 印 象 が無い』と言つた。自分は何も自作に対して弁護するのでは無いが此の批評家 の言つた『動の印象が無い』と言つたのは何ういふ事を意味してゐるのか不審 に思つてゐる。   唯『 動 の 印 象 が 無 い 』、 と 言 ふ 言 葉 が、 私 の 製 作 全 体 に 向 つ て の 批 評 で あ ら うか、即ち生命の躍動が無い愚劣なものだ、といふ事であらうか?   若しそう だとすれ ば 、私にとつては芸術上一大事の事であるから大いに考へね ば ならぬ。 併し幸にさう言ふ根本的の意味では無くて、此彫刻は『動』を現はすべき性質 のものであり乍らそれが現はれてゐない。 と言ふのなら私には少し議論がある。   私は斯ういふ事を主張したいのだ。それは動の中に も静があると。玉乗女が 柳樽を蹴上げたり、廻したりする時、ふと運動を止める事がある。其処に静が 生れる。即ち一つの運動より他の運動に移らんとする瞬間、 其処に静が出来る。 其静は動の連鎖中生れたる美妙なる静である。又こんな例も引ける、即ち工夫 が鶴端を振り上げて土を掘らんとする際頭上に充分振り冠つて今や将に打ち下 さんとして満身の力を手先に籠めた刹那、工夫の全身は動の力で満ち満ちて居 り乍ら、しかも其刹那の状態は静である。斯ふいふ静は芸術として取り扱ふに 最も好い材料では無いか。実に余は其の静を取材したのである。であるから其 の批評家の言が、此の間の消息を解してゐて、動が無い静である。と言つたな ら将に私の狙つた気分を洞察したものだといふことが出来る。だが恐らく此の

挿図 22 戸張孤雁《玉乗り》、 木版 ・ 紙、

(4.0 × 24.0 cm、 1914 年、

東京国立近代美術館蔵

挿図 2( 戸張孤雁《綱渡り》、 鉛筆 ・ 紙、

21.0 × 14.0 cm、 制作年不詳、 愛知県美術館蔵

九二

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 批評家の言はそんな所まで観察した上の言葉ではあるまい。たゞ漫然と動の印 象 が 無 い、 静 的 の 気 分 し か 出 て ゐ な い、 失 敗 の 作 で あ る と 言 つ た の で あ ら う。 (『孤雁遺集』 (復刻) 、碌山美術館、一九八六年、一一九頁)   ここで孤雁は「満身に 力」がみなぎった身体が運動しながらも、つぎの動きに う つる前の「静」の一瞬の状態を表現したというのである。力があふれながらも、緊 張した「静」の形である。そうした瞬間をとらえようとする孤雁の視線は、たとえ ば 綱 渡 り や 反 り 返 っ た 体 を 描 い た 彼 の 多 く の ス ケ ッ チ か ら も う か が え る ( 挿 図

ケ ッ チ ブ ッ ク 」 に は、 そ う し た 一 座 の さ ま ざ ま な 芸 を す る 場 面 を 描 い て い る ( 挿 図 ま な 形 ( フ ォ ル ム ) を あ ら わ す こ と に 驚 い た の で は な い だ ろ う か。 当 時 の 萬 の「 ス は運動する人間のフォルムではなかったろうか。曲芸をみて、人間がこうもさまざ たとき、その身体の動きそのものに萬は、何かを発見した、それは、動く、あるい 目したといえる。くるくると人の足さ ば きで、子供が入った盥が廻るという芸をみ   「 動 」 の な か の「 静 」 に 注 目 し た 孤 雁 に 対 し て、 萬 は む し ろ 積 極 的 に 「 動 」 に 注 えるであろう。 これもまた、アトリエのなかの不動のモデルからは、得られない表現であったとい 2( ) 。 24 ︱

1 ・ 2 ・

( ・ め と お も わ れ る、 同 じ 構 図 の 木 炭 素 描、 水 彩 画 ( 挿 図 所から舞台を見下ろすように描かれている。しかし、この《軽業師》の油彩画のた 4 ) 。 そ れ ぞ れ の 場 面 を み る と、 い ず れ も 二 階 桟 敷 の よ う な 高 い 場

側に緞帳があるように描かれ、そのために舞台裏からの情景と受けとられるように えられている。本来桟敷からとらえた情景が、後ろ向きの人物を加えることで、右 なかった画面右側に、曲芸をする演者に背を向けるように椅子に座る人物二人が加 2( ) を み る と、 ス ケ ッ チ に は

挿図 24-1 萬鉄五郎《スケッチブック(No. ()》、

鉛筆 ・ 紙 20.( × 14.7 cm、1912 〜 1( 年頃、

萬鉄五郎記念美術館蔵 挿図 24-2 同前

挿図 24-( 同前 挿図 24-4 同前

挿図 2( 萬鉄五郎《軽業師》、 水彩 ・ 鉛筆 ・ 紙 2(.7 × 18.2 cm、191( 年頃、 萬鉄五郎記念美術 館蔵

九三

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美  術  研  究   三  九  七  号

逆転している。なぜそのように描いたかは不明だが、そのために画面の遠近感や視 点そのものも不安定になってしまっている。しかしながら、 「曲持」 の演者の 「動き」 そのものが中心であることには変わりはない。このように画家が、この作品のため の周到な準備と関心の深さがうかがわれると同時に、奇妙な構図の改変の意図を考 えてみたくなる不思議さをもった作品でもある。   この作品に ついて、萬が「曲芸」の世界で日常目に することのない人間の身体の フ ォ ル ム に 注 目 し た と い う 指 摘 は、 す で に 水 沢 勉 氏 が、 小 品《 飛 び 込 み 》 ( 挿 図

をあげ、後年のキュビスムへの展開まで視野にいれながら論じている (( ) 26 )

( 。さらに、近 年 で は 沼 辺 信 一 氏 が、 動 く 身 体 へ の 萬 の 関 心 が、 雑 誌『 太 陽 』 の 扉 絵 ( 挿 図

っていくことの先駆性を指摘している (( ) 描くほど、やがてニジンスキーのバレエ・リュスへと、舞踏への関心に までひろが 27 ) に

( 。このような代表的な先行研究が示唆すると おり、 《軽業師》は萬という画家の「身体」 、しかも「動く」 、あるいは「運動する」 身体への関心、それはやがて造形思考として深められ、作品として表現されるのだ が、 そ の 起 点 と な る 作 品 で あ っ た と い え る。 同 時 に、 い ま ひ と つ い え る こ と が あ る。一九一二年当時の萬という画家は、 《裸体美人》をあげるまでもなく、 「後期印 象派」絵画の影響をもっとも強くうけていたはずである。その点で、本来表面であ る《太陽と道》は、受容の問題からすれ ば 、まさに萬という画家を通してストレー トに ゴッホ風の太陽の表現を増幅しながら受け入れていたことをしめしたものであ る。 こ れ に 対 し て、 裏 面 に 描 か れ た《 軽 業 師 》 は、 「 後 期 印 象 派 」 絵 画 の 受 容 と は 別に、独自の関心のあらわれとしての「運動する身体」が表現されている。視覚表 現の受容の問題として考える場合、表裏に「受容」性と独自性(画家特有の関心と し て の 人 間 の 身 体 性 ) を あ わ せ も っ て い た こ と を し め す 両 義 的 な 作 品 ( モ ノ ) と い え る。 い わ ば 、「 受 容 」 の 問 題 と し て も、 一 面 的 に な か な か わ り き れ な い こ と を 教 えてくれる「モノ」といえるだろう。

挿図 26 萬鉄五郎《飛び込み》、 油彩 ・ 板、 11.8 × 16.2 cm、 1914 年頃、

岩手県立美術館蔵

挿図 27 萬鉄五郎「ニジンスキー」(『太陽』扉絵、 第 20 巻 1 号、 1914 年 1 月)

九四

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萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 《軽業師》来歴 ◎展覧会 一九五三年一一月 「曲芸」   「四人の画家   中村彝 ・ 小茂田青樹/萬鐵五郎 ・ 土田麦僊」展、 東京国立近代美術館(なお、同展目録には「制作年代」の記載なし) 一九六一年一一月 「軽業」   「万鉄五郎展」 、現代画廊(東京) 一九六二年   七月 「軽業」   「万鉄五郎展」 、神奈川県立近代美術館   ( 註 ) 同 展 覧 会「 目 録 」 及 び「 追 加 目 録 」 に は 記 載 さ れ て い な い が、 当 時 学 芸 員 と し て     担当した陰里鐵郎の 「目録」 に 自筆追記に は、 「軽業」 (番号なし) と記されている。 一九七二年   一月 no. ( 2 「軽業師」 (一九一三年、 モノクロ図版) 「萬鐵五郎展」 、 主催= 日本美術館企画協議会、 読売新聞社。会場=小田急百貨店(東京新宿) 一九八五年   六月 no. ( 1 「軽業師」 (一九一二年ころ、カラー図版、裏面「太陽の風景」 ) 「生誕百年記念   萬鐵五郎展」 、神奈川県立近代美術館、三重県立美術 館、宮城県美術館を巡回 二〇〇八年一一月 「軽業師」 (裏面「太陽と道」 )一九一二年(大正元)   油彩・板   「萬 鉄五郎   大新収蔵作品展」 、萬鉄五郎記念美術館

◎文献 ・ 「大正二年 (一九一三)   一四五   軽業師   油彩   (1. ( × 24   K

・ 挿 図 人画論』 、中央公論美術出版、一九六八年、三七五頁 代 美 術 館・ 万 鉄 五 郎 展 作 品 目 録・ 油 彩 画 」 を 指 す )、 「 万 鉄 五 郎 作 品 目 録 」 萬 鐵 五 郎『 鉄 = K は「 展 覧 会 目 録 に お け る 略 号〈 数 字 は 目 録 番 号 を 表 わ す 〉」 と し て、 「 神 奈 川 県 立 近 182   東京都   原精一」 (註 七五年七月、三五頁 ・ 「 曲 芸 」( 図 版 番 号 な し、 モ ノ ク ロ 図 版 )、 『 近 代 の 美 術 二 九  萬 鉄 五 郎 』、 至 文 堂、 一 九 no. ( 9 ・ 「軽業師」 (モノクロ図版) 、『萬鉄五郎画集』 、日動出版、一九七四年 二五八号、一九六八年七月、二九頁 4 「曲芸」 (モノクロ図版) 、 陰里鐵郎「萬鐵五郎︱生涯と芸術︱(二) 」、『美術研究』

  な お、 本 稿 執 筆 中 に、 萬 鉄 五 郎 記 念 美 術 館 学 芸 員 平 澤 広 氏 か ら、 件 の 作 品 が 同 美 術 館 の 所 蔵 品 に な っ た こ と を 萬 鉄 五 郎 の 長 男 で あ る 故 博 輔 の 妻 蔵 子 夫 人 に 案 内 し た と こ ろ、 同 夫 人 よ り 萬 家 に 嫁 が れ た 一 九 四 八 年( 昭 和 二 三 ) 当 時 は 萬 家 に あ っ た と 記 憶 し て い る 旨 の こ と を 教 示 い た だ い た。 し た が っ て、 一 九 五 三 年 の 展 覧 会 で は、 す で に 原 精 一 蔵 に な っ て い ることから、その間に所蔵が移ったと推察される。 註 (

( 理報告書   2 003 』、平塚市美術館)に詳しい。 精 一 に よ る 回 顧 談 」( 聞 き 手  陰 里 鐵 郎 )( 『 平 塚 市 美 術 館 所 蔵  原 精 一 寄 贈 資 料 整 れる。萬鉄五郎と原精一の師弟関係については、 原精一のインタビュー採録記録 「原 1 )  原 精 一 は、 《 軽 業 師 》 を 戦 後 入 手 し て か ら、 そ の 没 年 ま で 愛 蔵 し て い た と 推 察 さ

(   橋爪紳也『増補   明治の迷宮都市』 、筑摩書房、二〇〇八年   坪井秀人『感覚の近代   声・身体・表象』 、名古屋大学出版会、二〇〇六年   郡司正勝・関山和夫編『小寺玉晁   見世物雑志』 、三一書房、一九九一年   阿久根巌『曲乗り渡世始末記』 、創樹社、一九八一年 あげるものを参照した。 2 )  本 文 中 で 揚 げ た 参 照 書 の ほ か に 、「 見 世 物 」 及 び 当 時 の 浅 草 に つ い て は、 左 記 に

( ( )  「○一」とは、丸一(まるいち)と称された江戸太神楽の一派の名称である。

( 挿 図 東 京 の 印 象 』、 社 会 思 想 社、 一 九 九 二 年 ) で は、 浅 草 の 賑 わ い を つ ぎ の よ う に 語 り 141 (   また本間國雄『東京の印象』 (南北社、 一九一四年、 復刻版『現代教養文庫   を覚えたものだ」 (浅草の会編『浅草双紙』 、未央社、一九八八年、六六頁) ろ う か、 田 舎 か ら さ ら わ れ て 来 た 少 女 な の じ ゃ な い か し ら、 な ど と 少 年 ら し い 感 傷 言 い 知 れ ぬ 淋 し さ が た だ よ っ て い た。 お 母 さ ん や お 父 さ ん の こ と を 考 え て い る の だ っ た。 で も 玉 か ら 降 り て、 た れ 幕 の 間 か ら 外 を な が め て い る よ う な 時 の 表 情 に は、 振 り な が ら 調 子 を と っ て 動 き 廻 る の に は、 妙 な エ ロ チ シ ズ ム を 感 じ さ せ ら れ る の だ 体 を 見 せ る 見 世 物 が 無 い 時 代 だ っ た か ら、 こ の 娘 達 が 大 き な 玉 の 上 に 乗 っ て、 腰 を は ビ ロ ー ド に 南 京 玉 の よ う な も の で キ ラ キ ラ 彩 っ た 派 手 な も の だ。 現 今 の よ う に 裸 だ け お 白 粉 を 濃 く ぬ っ た 娘 た ち が、 桃 色 の メ リ ヤ ス を 肌 に ピ ッ タ リ 着 け て、 パ ン ツ ド ン チ ョ ウ と も 幕 と も つ か ぬ も の を、 く る く る と 上 に あ げ て 中 の 情 景 を 見 せ る。 顔 に つ い て 記 さ れ て い る。 「 江 川 の 玉 乗 り が 何 分 か お き に、 一 寸 だ け 前 に 下 げ て あ る、 4 )  挿絵画家神保朋世の回想 「浅草オペラの哀歓」 によれ ば 、つぎのように 「江川一座」

思 う が ま ま に 振 り ま わ さ し め る 力 で あ る。 人 一 度、 此 の 六 区 の 裏 通 り を 覗 い て 見 た れは此の人世の裏面に潜む、 常に機会だにあら ば 、 満足を求めようとする享楽欲を、 有 の ま ま の 放 縦 な 享 楽 主 義 の 人 と な っ て し ま う か ら 不 思 議 で あ る。 六 区 の 魅 力、 そ 区 の 魅 力 で あ る。 足 一 度 此 処 に 入 っ た 以 上 は、 如 何 な る 君 子 人 で も 瞑 想 家 で も、 皆 な っ て、 自 ら ま ず 見 物 人 の 心 を 全 く 別 種 な 気 分 に 溶 し 去 っ て し ま う。 そ れ が 所 謂 六 る よ う な 美 し い 絵 看 板 と、 そ れ に ブ ー カ 〳〵 の 楽 の 音 と、 客 呼 ぶ 声 と が ゴ ッ チ ャ に い を 寄 せ て い る。 「 六 区 の 夜  昼 を 欺 く 電 燈 の 光 と、 そ れ に 映 し 出 さ れ た 眼 を 眩 ず 28 )、 さ ら に 玉 乗 り に つ い て、 や は り そ こ で 演 ず る 女 性 た ち の「 身 の 上 」 に 思

九五

(19)

美  術  研  究   三  九  七  号

な ら ば 、 思 い 半 ば に 過 ぎ る で あ ろ う 」( 一 四 二 頁 )、 「 球 乗 り  球 乗 り …… そ れ が 女 で あ る と い う 為 め に、 時 々 若 い 男 の 足 を ひ い た。 好 奇 心 で 見 物 し な が ら も、 斯 う し た 女 の 身 の 上 を 偲 ば な い 訳 に は 行 か な か っ た。 併 し 球 乗 り の 女 は、 何 時 行 っ て 見 て も平気で居るのだった。 」(一五八頁) (挿図

( 29 )

( 宮城県美術館、 和歌山県立近代美術館、 一九九四年一〇月︱九五年二月) を参照した。 校 」 形 成 の 過 程 に つ い て は、 『 恩 地 孝 四 郎  色 と 形 の 詩 人 』 展 図 録、 横 浜 市 美 術 館、 し た。 恩 地 孝 四 郎 を は じ め、 夢 二 の も と に 画 学 生 た ち が 集 ま り、 い わ ゆ る「 夢 二 学 美 術 館、 夢 二 郷 土 美 術 館、 和 歌 山 県 立 近 代 美 術 館、 二 〇 〇 七 年 一 月 ︱ 五 月 ) を 参 照 術 館、 二 〇 〇 一 年 四 月 )、 『 竹 久 夢 二 展 ︱ 描 く こ と が 生 き る こ と ︱』 展 図 録( 千 葉 市 1884 19 (4 ( )  竹 久 夢 二 の 来 歴 に つ い て は、 『 夢 二  ︱ 』 展 図 録( 町 田 市 立 国 際 版 画 美 どをも知って居た」 (一八四頁) (挿図 蔭 か ら『 此 方 へ ……』 と い っ て 手 を 握 っ て 案 内 す る 所 謂 活 動 の 女 の 手 の、 温 か さ な る。 「 活 動 の 女  浅 草 の 活 動 へ 行 く 若 い 人 々 は ヒ ル ム の 善 悪 を 撰 ば な か っ た。 暗 い   ま た、 先 に 揚 げ た 本 間 國 男 も 活 動 写 真 の 案 内 嬢 に つ い て、 つ ぎ の よ う に 記 し て い 一九八八年、五五頁) 始的?な洋服姿も出て来たようにおぼえています」 (浅草の会編 『浅草双紙』 、未央社、 上 に 青 黒 い 事 務 服 に 似 た も の を 着 て い た よ う で し た が、 少 し 経 つ と 館 に よ っ て は 原 い が け な い 景 物 の 一 つ だ っ た と 言 え る か も 知 れ ま せ ん。 案 内 の 娘 さ ん た ち は 和 服 の で も あ る か の よ う な、 か り そ め の 好 き 者 も 出 て 来 よ う と い う、 こ れ も 昔 の 浅 草 の 思 ぐ っ た り な ん か し て、 し ま い に は 活 動 写 真 そ の も の よ り も、 そ っ ち の 方 が お 目 当 て だ け が 強 烈 に 残 る と い う 寸 法 で、 だ か ら 中 に は 握 ら れ た そ の 手 を コ チ ョ コ チ ョ く す り が 真 暗 だ か ら お 客 の 手 の ひ ら に は、 ぎ ゅ っ と 握 っ た 若 く て 柔 か い 女 の 素 手 の 感 触 っ 張 っ て い く。 案 内 嬢 た ち は 牛 屋 の 姐 さ ん と 違 っ て 若 い の が 揃 っ て い る 上 に 、 ま わ 電 灯 で 足 も と を 照 ら し て な ど と い う の で な く、 い き な り 手 を に ぎ っ て 暗 闇 の 中 を 引 か 判 ら な い。 す る と こ の 案 内 嬢 が 適 当 な 場 所 に 連 れ て い っ て く れ る の で す が、 懐 中 眼 が 馴 れ る ま で は 館 内 は 真 暗 闇 同 然 で、 殊 に 客 が 混 ん で で も い る 時 は 何 う し て い い て お き た い。 「 も う 一 つ は 活 動 小 屋 の 案 内 嬢。 ま っ ぴ る ま な ど は テ ケ ツ を 通 っ て も 6 )  活 動 写 真 の 案 内 嬢 に つ い て は、 永 忠 順「 牛 屋 の 姐 さ ん と 案 内 嬢 」 を つ ぎ に 引 用 し

( (0 )

( 作品であるという。 を デ ザ イ ン 化 し た の は、 竹 久 夢 二 の 作 品 で あ り、 カ タ カ ナ の「 ム 」 は 恩 地 孝 四 郎 の だけである。井上芳子、 寺口淳治 (和歌山県立近代美術館) 両氏の教示に よれ ば 、「艸」 7 )  共 著 で あ る『 都 会 ス ケ ッ チ 』 で は、 そ れ ぞ れ の 絵 に 作 者 名 は な く、 サ イ ン が あ る 8 )  長 門 佐 季「 浅 草 風 景  描 か れ た 軽 業・ 曲 芸 師 を め ぐ っ て 」、 『 サ ー カ ス が や っ て 来

挿図 28 本間國男 「六区の夜」(『東京の印 象』南北社、 1914 年〈復刻版〉より)

挿図 29 本間國男 「たまのり」(同前より)

挿図 (0 本間國男 「活動の女」(同前より)

九六

(20)

萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 た!』 展 カ タ ロ グ、 神 奈 川 県 立 近 代 美 術 館、 兵 庫 県 立 近 代 美 術 館、 一 九 九 六 年 四 月 ︱七月、一五二︱一五六頁 (

( 九四年を参照した。 9 )  戸 張 孤 雁 に つ い て は、 『 戸 張 孤 雁 と 大 正 期 の 彫 刻 』 展 図 録、 愛 知 県 美 術 館、 一 九

( 神奈川県立近代美術館等、一九八五年六月︱九月 10 )  水 沢 勉「 萬 鐵 五 郎 の 人 体 表 現 を め ぐ っ て 」、 『 生 誕 百 年 記 念  萬 鐵 五 郎 展 』 図 録、

11 )  沼 辺 信 一「 生 の 躍 動 と『 リ ズ ム 』 ︱ 大 正

2 年 の バ レ エ・ リ ュ ス 」、 『 ダ ン ス!  

20 世 紀 初 頭 の 美 術 と 舞 踏 』 展 図 録、 栃 木 県 立 美 術 館、 二 〇 〇 三 年 二 ︱ 三 月。 ま た、 同 氏の「ニジンスキーを観た日本人」 、『ディアギレフのバレエ ・ リュス   1909 ︱ 1929 』 展 図 録、 セ ゾ ン 美 術 館、 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館、 一 九 九 八 年 六 月 ︱ 一 〇 月 で は、 一 九 一 二 年 当 時、 ベ ル リ ン、 パ リ で 実 際 に バ レ エ・ リ ュ ス を 観 た 山 田 耕 筰、 小 山 内 薫 等 の 日 本 人 を 論 じ て い る。 そ れ だ け に 一 九 一 二 年 か ら 翌 年 に か け て の 日 本 に お い て、 バレエ・リュスを観ずに舞踏に関心を抱いた萬の視線は、興味深いものがある。

  本解説を執筆するに あたり、 註記中に お名前を挙げた方々のほか、 萬鉄五郎記念美術館、 東 京 都 江 戸 東 京 博 物 館、 小 杉 放 菴 記 念 日 光 美 術 館 の 諸 機 関 及 び、 飯 島 満、 岡 塚 章 子、 平 澤 広、 田 中 正 史、 山 梨 俊 夫 の 諸 氏 に は、 ご 教 示 と 資 料 提 供 等 を 願 っ た。 こ こ に お 名 前 を 挙 げ て感謝の意を表したい。       図  版  要  項 一  満谷国四郎   自画像   一八九二年(明治二五)   (原色刷)     鉛筆   紙  竪三八 ・ 二

cm   横二五 ・ 〇

    油彩   板  竪三一 ・ 八 二  萬鉄五郎    軽業師   一九一二年(明治四五)   (原色刷)     意味

 

︱ ︱」参照     一  角 田 拓 朗「 満 谷 国 四 郎《 自 画 像 》 の 彷 徨 い

 

︱ ︱

 

五 姓 田 派 の 所 在 を 問 う こ と の cm         東京国立博物館蔵 cm   横二二 ・ 七

三  同      太陽と道   (《軽業師》裏面)   (原色刷) cm      岩手   萬鉄五郎記念美術館蔵

    油彩   板  竪二二 ・ 七

cm   横三一 ・ 八

    一︱三   鳥光美佳子撮影     二︱三   田中淳「萬鉄五郎   《軽業師》および《太陽と道》 」参照 cm          同         蔵

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参照

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