政治学/政治(ポリティクス)の諸限界
著者 ギャンブル, アンドリュー, 添谷 育志
雑誌名 明治学院大学法律科学研究所年報 = Annual Report of Institute for Legal Research
巻 27
ページ 143‑181
発行年 2011‑07‑31
URL http://hdl.handle.net/10723/2175
政治学/政治の諸限界
アンドリュー・ギャンブル 添 谷 育 志 (訳)
訳者 まえがき
この講義は三つの意味での政治学/政治の諸限界を探究する。ひとつ目はケンブリッジ大学で の講義科目としての政治学であり、ふたつ目は学術的専門分野としての政治学であり、三つ目は 実際的活動としての政治である。20世紀のケンブリッジ大学では、政治学が独立した学術的専門 分野として発展することはなかった。今になってようやく、新しい「政治・国際関係研究学部
(Department of Politics and International Studies)」の設立によって、この状況は改善されつ つある。学術的専門分野としての政治学は、かつてはマスター・サイエンスと見なされていたが、
最近ではその射程範囲と方法の点で以前よりもいっそう限定されてきた。だが今でも政治学は方 法論よりも問題に焦点を当てる政治的論法(political reasoning)の伝統を保持する必要があり、
現に政治学/政治の諸限界に関心を抱いている。実際的活動としての政治の限界は四つの形態の 政治的論法を通して探究される。すなわち懐疑主義、理想主義、合理主義、そして現実主義的な 論法であり、それぞれはオークショット、ケインズ、ハイエク、そしてカーによって例示される。
アンドリュー・ギャンブル(Andrew Gamble)はケンブリッジ大学の「政治学教授(Professor of Politics)」、「政治・国際関係研究学部(Department of Politics and International Studies)」
学部長であり、また同大学の「クイーンズ・カッレジの特別研究員(Fellow of Queenʼs Col- lege)」である。彼は英国政治、公共政策および政治経済学に関して広範囲にわたり著作を出版 している。彼の著書『ヨーロッパとアメリカの間(
Between Europe and America
)』は、2003 年に政治科学分野で出版された最優秀著作に与えられるW. J. Mackenzie賞を受賞した。2005年 に彼は「政治研究に対する長年にわたる貢献(Lifetime Contribution to Political Study)」に対 して、「英国政治学結社アイザイア・バーリン賞(PSA Isaiah Berlin prize)」を授与された。政治学/政治の諸限界
2008年4月23日にケンブリッジ大学で開催された アンドリュー・ギャンブル教授による就任講義
この就任講義にお集まりいただいたすべての方々に感謝します。とくにかなり遠方かお出でい ただいた方々、なかでも今夜の講義に出席するために遙々東京からお出でいただいた都築教授に は深く感謝いたします。
かつてグルーチョ・マルクス〔Groucho Marx。「グラウチョ」とも表記される。チコ、ゼッポ、
ハーポの三人とともに「マルクス兄弟」と呼ばれるアメリカのコメディアン。カール・マルクス とは無関係〕はこう宣言しました。「これらが僕の原則だ。もし君がそれを嫌いなら、僕には君 以外の大勢の仲間がいる」。これは長い間、政治というものを圧縮して表現したものと見なされ てきました。今でも政治家についてはそうだと見なされています。政治というものは最も高貴で、
高尚で、なくてはならない活動だと考えられてきましたが、おそらくより多くの場合には、最も いかがわしく、抑圧的で腐敗していて、礼儀をわきまえた仲間内では話題にされないもので、さ らにはできることなら押さえつけておくべきものと考えられてきました。これは別に新しいこと ではありません。英国国歌の中にある、イングランドへの叛逆を扇動したスコットランド人につ いての幾つかの行は慎重に削除されましたが、第二節では依然として自信満々こう歌われていま す。「彼らが策(politics)を惑わしたまえ/彼らが騙し手(knavish tricks)を挫きたまえ」。政 治(politics)と策略(knavish tricks)は、ほとんどの人々の心の中で永遠に結びつています。
多くの場合、政治は邪悪な魔法のひとつとして見なされ、その活動は神秘に包まれています。女 王自身が元侍従のポール・バレルにこう言ったと伝えられています。「ポール、注意しなさい。
この国には得体の知れない勢力がうごめいているのです」。女王がこう語られたことについてど う考えているのかと法廷で問われたバレルは、堅苦しい口調でこう答えました。「女王が何かに ついてお話しなさる際に、その意味を尋ねる者などはおりません」
(1)
。政治を研究する人びとは、時にはこれらの闇の勢力についての知識を持っているのではないか という嫌疑をかけられてきました。王政復古の後にトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)は、
ケンブリッジのマーケット広場で自分の著書が焼かれる辱めを受けました。幸いなことに著書の 全部が焼かれたわけではありません。1988年のホッブズ生誕400年に当たり、私はダービーシャー にあるホッブズに所縁のある様々な場所を回る遊覧旅行を組織する手伝いをしました。ホッブズ が埋葬されているオウルト・ハックノウル〔Ault Hucknall。イングランド中部の村の名前。イ ングランドで最も小さな村と自称するが、地理学上の「村」の定義がないため公認されてはいな い〕にある「聖ジョン・バブスティスト教会」の司祭は、最も歓迎的でした。彼はホッブズとホッ ブズ的なものすべてに対する熱狂者だということが分かってきました。ところで彼が初めて司祭 に任命され、教区の住人にホッブズに関心を持つように試みた際に、彼は住民に向かって、この 教会がこれほど有名な人物と所縁があるのは何と名誉なことだろう、と語ったそうです。そのた めに彼は、胡散臭いものを見るような目を向けられることになりました。彼の前任者は、(その 事実を宣言する大きな敷石があるにもかかわらず)ホッブズがそこに埋葬されていることを否定 しようと試み、しばしばホッブズを反キリスト者として弾劾する祈祷を行ないました。
これまで述べてきたことはすべて、私がシェフィールド大学に勤務していた当時の学部長だっ たハワード・ウォレンダー〔Howard Warrender。1922年に生まれ85年に亡くなった英国の政治 思想史家。72年から85年の間シェフィールド大学の「政治理論・制度論教授(Professor of Polit- ical Theory and Institutions)」を務めた〕をさぞかし喜ばせたことでしょう。彼はホッブズ研 究者であるとともに人並み外れていることでも伝説的人物でした(ある時彼は、かなり当惑した 一年次生の前で、同じ週に同じ講義を二回したのです)。ベルファストでの彼の就任講義で、ハワー ドはこう述べています。以前のクイーンズ・カッレジの学則では、教授たる者は何よりも「対立
や興奮を生み出しかねない政治あるいは論争にかかわるいかなる主題も…紹介し議論し」ないと 誓約するよう要請されました。クイーンズ大学が設立された際にこの規定は廃止され、ハワード が指摘したように「政治学教授が自分自身について講義するためにはその席を投げ打って、自分 自身について講義するという活動に身を投じる」危険は減少したのです
(2)
。この講義で私は政治の諸限界、そしてその諸限界についての異なった考え方のいくつかについ て検討しようと思います。限界とは境界(boundaries)と最前線(frontiers)を意味しています。
それらは管轄領域、制度、そしてアイデンティティ、私たちの世界のあり方を決定している永遠 に固定化されているように見える諸要素を規定しているのです。限界とは、それを越えると何も のかが不可能になり許されなくなる境界のことでもあります。そのようなものとして限界は、い つでも人間の活動によって争われています。それは行動に制約を課しますが、これらの制約は挑 戦にさらされる可能性をはらんでいて、現に頻繁に試練にさらされているのです。私たちは権力 の限界、権威の限界、利害の限界、野望の限界について語ります。多くの場合、可能なものと許 されるものとの間には、ある緊張関係が存在しています。あるものは可能かも知れませんが、許 されてはいません。あるいは逆に許されてはいても、可能でないものもあります。限界を検証し てそれを乗り越えようとすることは、人間に特徴的な欲望なのです。それはちょうど自分自身を 超越することが、人間に特徴的な欠陥であるのと同じことなのです。厖大な量の政治学は、政治 の限界とは何か、その限界はどのようにして決定されているのか、そしてそれらの限界は政治を 通じて変えることができるのか、それとも変えられるべきなのかをめぐる論争なのです。あるも のには限界があると言うことは、それが制約されていて不適切であり、それゆえ克服されるべき だということを含意しています。だからこそ現代政治についての多くの批判者にとっては、自然 的であれ、社会的であれ、あるいは認知的であれ、私たちが直面している諸問題の原因であるお よそいっさいの限界に盲従することは、私たちの誤りだということになるのであります。
ケンブリッジでの政治学の諸限界
私はこれらの考察をケンブリッジから始めたいと思います。ケンブリッジでの政治研究に限界 があったこと、そしてこれらの限界が可能だったものよりむしろ許されていたものの結果だった ことは、ほとんど秘密ではありません。政治研究という専門分野は学部間で断片化されたり、他 の分野の下位部門として隠されたりしていました。2004年になって初めてケンブリッジ大学は「政 治学部(Department of Politics)」を創立し、その後ほどなくして私が就任することになった教 授職を創設しました。この点に関しては、オックフォード大学とは顕著な対照がありました。オッ クスフォードはLSEとともに、英国における政治研究という専門分野の発展の先陣を切ってきま した。現在オックスフォードには「政治学・国際関係学部(Department of Politics and Inter- national Relations)」という複合学部があって、そこには100人の活動的な研究スタッフと10の研 究センターと研究調査機関が存在しています。ケンブリッジで政治学が相対的に無視されてきた ことには、複雑な理由があります。結局のところ、ケンブリッジにはヘンリー・シジウィック
(Henry Sidgwick)(訳注1)とジョン・シーリー(John Seeley)〔Sir John Robert Seeley。
1934年に生まれ95年に亡くなった英国の歴史家で、1865年出版されたキリスト伝
Ecce Homo
で 論争を引き起こした〕に代表される「政治科学(Political Science)」の旧来からの伝統が存在し ています(3)
。彼らにとって「政治科学」とは法学、哲学、経済学に依拠する広大な多分野的な 探究のことでした。彼らは統治という問題をめぐる思考がもたらす多様な洞察をすべて縫い合わ せ、多才な能力をもって大英帝国に奉仕するような人物に相応しい教育を提供しようとしました。英国の帝国的拡大についての歴史家であるシーリーは、厖大な量の事実を収集し、それらの事実 から帰納される理論を発展させることによって、政治と歴史の経験的研究を通じて「政治学」を 樹立できると信じていたのです。シジウィックは功利主義的伝統の主要な提唱者としてミルの後 継者であり、「政治科学」が「道徳科学トライポス(Moral Sciences Tripos)」〔(ケンブリッジ 大学で学位B.A.の)優等卒業試験あるいは受験課程〕の中心になるのを望みました。彼はかなり 謹厳実直な人物で、とくに自分自身に対して謹厳でした。彼は日記の中でこう告白しています。
「パスカルは正しい。もしひとが果てしのない懐疑に囚われることになれば…45年のポートワイ ンやW・G・クラーク〔W.G. Clark。William Aldis Weightとともにシェイクスピア全集を編集 した英文学者で、著作としては
The Present Danger of Church of England
, London: Macmillan& Co, 1870などがある〕との澄んだ声での会話ではなく、粗布をまとい、灰をかっぶって〔「マ タイによる福音書11―21」〕空虚な独房に取り残されるに決っている。部屋に戻ると、私は奇妙 で嫌な気分になった」。そしてもうひとつの箇所ではこう書かれています。「私はいつも、必要な のは努力であり筋肉を鍛えることだけだ、と感じている。味気のない贅沢、無味乾燥な文化、オッ クスフォードとケンブリッジの間での騒々しい、馬鹿げた論争などは永遠に背後に消え去って 行った」
(4)
。ケンブリッジでの「政治科学」には、何人かの批判者がいました。トリニティ・ホールの学寮 長が幻滅したように大衆新聞の瑣末な記事、たとえば何枚のハンカチを広げれば地球から月まで 届くかを予測するといった記事について言及した際に、シジウィックの元の学生のひとりだった F・W・メートランド〔Frederic William Maitland。1850に生まれ1906年に亡くなった英国の法 制史家〕はこう応じました。「それこそがここで『政治科学』と呼んでいるものなのです」
(5)
。 1900年にシジウィックが亡くなった後に、アルフレッド・マーシャル〔Alfred Marshall。1842 年に生まれ1924年に亡くなった英国の経済学者。新古典派の中心人物で、主著として『経済学原 理』がある〕は「経済学」を個別トライポスとして確立することに成功し、「政治科学」の帝国 は「歴史学」と「経済学」とに引き裂かれてゆきました。「経済学」は「政治学」をその学部の 名称に取り込んでいったのです(2004年になってようやくそれが取り除かれました)。他方で「歴 史学」は、そのトライポスの中にいくつかの「政治科学」論文試験(Political Science papers)を保持していました。オックスフォードでは、ケンブリッジとは非常に異なった発展の道が開か れました。1912年にグラッドストーン教授職が寄付された後に、20年代には「政治学」、「哲学」、
「経済学」を結びつけた「モダン・グレイツ(Modern Greats)」〔上記三科目の学士号(BA:
Bachelor of Arts)最終試験〕が設立され、次第に勢力を増し、「政治学」を専攻する学生の数も 次第に増加し、そして今では政治学という専門分野におけるオックスフォードの巨大な力の基礎 になったのです。
ケンブリッジには「政治科学」の教授職を設立するための財政基盤が欠けていました。ところ がケンブリッジは1928年、ニューヨークにある「ラウラ・ロックフェラー記念基金(Laura Rockefeller Memorial Fund)」からの、ケンブリッジにおける社会科学の発展を支援するために ふたつの教授席を寄付するという申し出を受け容れました。ひとつは「社会学」で、もうひとつ は「政治学」でした。大学当局は「社会学」の教授席は辞退しましたが、「政治学」の教授席は 受け容れました。その際の謝辞にはこう書かれています。それによって「ケンブリッジには依然 として欠如しているが、他の大多数の重要な大学において有しているのと同様な地位と影響力を、
政治学という科目に与えるだろう」。大学当局は「記念基金」との連絡文書の中で、「調査作業と 社会科学への導入教育」
(6)
を発展させるのがこの寄付の目的だということを受け容れました。け れども大学当局は、新教授席は「当面のところ第一次的には『歴史学部』に所属する」ように調 整しました。この教授席に就任する者は、世界の国家構造を研究するように期待され、この目的 のために3学期に1回ケンブリッジを離れることが許されたのです(7)
。この教授席に最初に就任したのはオックスフォードで訓練を受けた政治思想史家のアーネス ト・バーカー(Ernest Barker)でした。彼は「歴史学トライポス(History Tripos)」に残存し ていたふたつの「政治科学」論文試験――「政治科学A(Political Science A)」と「政治科学B
(Political Science B)」――を、それぞれ「政治思想史(The History of Political Thought)」と
「近代国家理論(Theories of the Modern State)」に改名しました。彼はまた「社会・政治研究 トライポス(Toripos in Social and Political Studies)」の提案を推進しました。これらはどの大 学にもありませんでした。ひとつの記述によると、バーカーはたちまちのうちに「既存の委員会 と学位構造というビザンチン帝国のような網の目に引きずり込まれ、学位判定者(electors〔選帝 侯の比喩〕)と学位請求者たちがこの急進的変化にどんな期待を抱こうとも、それは長期にわたっ て確立された慣行という迷宮の中でたちまち無害なもの変えられてしまった」
(8)
のです。それでもバーカーはケンブリッジでの政治思想研究を統合する手助けをして、それはやがて主 要勢力となり、ケンブリッジの学識と教育はそれによって名声を博しました。後にLSEの「政治 科学教授(Professor of Political Science)」になったキングスリー・スメリー(Kingsley Smell- ie)はこう回顧しています。「淀んではいるが素敵なケム川の岸辺に腰をおろし、私たちはいく つかの競い合う国家理論について議論した」
(9)
。ほとんど完全に失われていたのは、ケンブリッ ジ「政治科学」の経験論的で分析的な伝統でした。この伝統にはチャンピオンはいませんでした が、何人かの手ごわい敵対者はいました。当時25歳だった若きマイケル・オークショット(Michael Oakeshott)は、ケンブリッジでの政治科学についてのあるエッセイの中で、政治研究に科学的 方法を適用しようとする試みを拒否する立場を擁護する力強い議論を展開したのです。「政治科学」が「歴史学」と「経済学」から仲間はずれにされたことは、この科目のカリキュ ラムやスタッフ補充の点で、オックスフォードやLSE――そして1945年以降、数を増してきた他 の大学――で見られたのと同じ発展がケンブリッジにはなかったことを意味しています。ケンブ リッジでは「政治学」やそれ以外の社会科学のいくつかは、他の学位スキームの一部としてしか 学ばれませんでした。私がケンブリッジで「経済学」を専攻した際には「英国と合衆国の政治制 度」、「英国の産業革命」、「政治心理学」、「社会学理論」、「ロシアの経済発展」と同時に「マクロ
経済学」と「ミクロ経済学」のコースを受講しました。今日では、このような科目の結合はほと んど不可能でしょう。1970年に「社会・政治科学(Social and Political Science: SPS)委員会」
が設立されたことは、当時のケンブリッジにおける社会科学の前進にとっての重要な一歩でした が、多数の制約によって縛られていました。後になって社会科学は単一学部の研究組織(a sin- gle- department Faculty)へと進化しましたが、その中に含まれる個々の専門分野は他の研究組 織に比べてきわめて小規模でした。「国際関係研究センター(Centre for International Stud- ies)」の設立によって、「国際関係研究(International Studies)」はケンブリッジで確固とした 地位を獲得しました。同センターはここ10年間に華々しい発展を遂げましたが、いつでもSPSや
「政治学」とは切り離されたままだったのです
(10)
。こうした断片化にもかかわらず、ケンブリッ ジには全包摂的な広大な領域としての「政治学」という考え方もまた生きつづけていました。そ れはたとえ少数であれ、ともかくも自分自身を政治科学者と呼ぼうとする特定の個々人による政 治研究への貢献という形態をとりました。ケンブリッジにはこの分野における仕事の、いくつも の豊かな水脈があったのです。たとえば政治思想史ではダン、スキナー、バーカー、オークショッ ト;政治経済学ではケインズ、スラッファ(訳注2)、ドッブ、ロビンソン;国際政治と国際法 ではバターフィールド、カー、ヒンズレー;政治哲学ではラッセル、ヴィットゲンシュタイン、バーナード・ウィリアムズ;社会学ではランシマン、ゴールドソープ、エイブラムズ、ギデンズ;
比較政治・制度論ではブローガン、ペリング;さらにカルチュラル・スタディーズではレイモン ド・ウィリアムズ、コルリーニと結び付けられる面々がいました。忘れてならないのは政治風刺 の世界で、ここにはジョナサン・ミラー(訳注3)、ピーター・クック(訳注4)、ディヴィッド・
フロスト(訳注5)、ジョン・クリーズ(訳注6)、そしてスティーヴン・フライ(訳注7)です。
多くの場合ケンブリッジは生彩に富んだ論争の場を提供するとともに、失われた大義にとっての 安住の地でもあったのでした。1960年代に私がここで学生だった時、ある上級生たちが騒々しく 中国の文化大革命を賞賛していましたが
(11)
、他方では依然として「キング・オヴァー・ウォーター(King over the Water)」〔ジャコバイトがジェイムズを称える言葉〕で乾杯し、かつて非国教徒、
ユダヤ人、そしてとりわけ女性が大学と公職に就くのを阻止してくれた審査法に基づく保護措置
〔Test Act。すべての文官・武官に対して官吏就任の際に忠誠と国教信奉の宣言をさせた条例
(1673−1828)で、カソリック教徒が公職に就くのを阻止するための措置〕や制約の廃止を嘆い ていたのでした
(12)
。クロムウェルとミルトン、ニュートンとダーウィンを輩出した大学としてケンブリッジは、多 くの場合に政治的および宗教的反対派と結び付けられ、既存の政府よりもむしろ科学と結び付け られてきました。しかしこのことは1945年以前にケンブリッジが、オックスフォードと同数の首 相――その中には小ピット、パーマストン、バルフォアー、ボウルドウィンが含まれています―
―を輩出する妨げにはなりませんでした。けれども1945年以降、この供給源は干上がってしまっ たのです。45年以後の12人の首相の内で8人がオックスフォードで学び、ケンブリッジで学んだ 者はひとりもいません。このパターンはおそらく今後も続くように思われます。現在の内閣だけ でも、オックスフォードでPPE〔Philosophy, Politics, and Economicsの略称。オックスフォード 大学の近代学科〕のコースを終了したメンバーが6人います。ケンブリッジ出身者は保守党と労
働党の両党から6人の閣外大臣を出しましたが、オックスフォードのほうが政府と公共政策によ り積極的に関与する地位を確立したことは疑問の余地がありません。ケンブリッジにおける社会 科学が発展途上にあったことは、何の助けにもならなかったのです。
新しい科目がケンブリッジで確固とした地位を獲得するには時間がかかります。F・M・コー ンフォード(F. M. Cornford)は1908年に書かれた若い学内政治家(academic politician)にとっ ての聖書の中で、いかなる改革への提案にも反対するために用いられるいくつかの論法(argu- ments)を叙述しています。それらには次のようなものが含まれています。「未熟な時間の原則」:
「人々は現時点において正しいと考えることを、現時点において行なってはならない。なぜなら 人々が正しいと考えたその時点は、まだ到来していないからだ」。「危険な前例の原則」:「慣習的 でないような公的活動はすべて間違っているか、あるいはもしそれが正しいとすれば、危険な前 例である。そこから導かれるのは、何事も最初に着手してはならないということである」
(13)
。今 まさにケンブリッジでは、ついに機は熟したように思われます。新しい「政治学・国際関係研究 学部」とケンブリッジの卓越した伝統に相応しい政治研究・教育の統一されたプログラムを創設 し、それによってケンブリッジにおける政治研究を束縛してきた局所的な諸限界のいくつかを、少なくとも部分的に克服する可能性をもつ好ましい前兆がうかがえられるのです。
専門分野として政治学の諸限界
19世紀末のケンブリッジで考えられていたような「政治学」は、ほとんど限界のない一専門分 野でした。ありとあらゆることが許され、ありとあらゆることが可能だと思われていました。そ れはアリストテレスの線にそって人間諸科学における他のすべての専門分野をひとつの魅力ある 全体へと統一し、将来の国家を担うエリートのための究極の教育を提供するマスター・サイエン スと見なされたのです。そのようなプロジェクはあまりにも野心的すぎることが判明し、「道徳 科学トライポス」はバラバラに解体されました。個別専門分野における発展の速さによって、ひ とつの包含的な専門分野が存在することは非実用的なものになったのです。ロジャー・スクルー トン(Roger Scruton)はかつて、政治科学という考え方は原理上「政治的に意味のある思想と 行動を自らの主題とするあらゆる研究を一体化する」と指摘しました。しかし彼は政治学が「そ れ自身の方法論をもつ独立した科目であるにはあまりにも広くて野望に満ちているのではない か」と訝り、「政治学は現実的な統一体というよりむしろある統一体へのプロジェクトとしてだ け影響力を保持する」
(14)
と述べています。合衆国では「政治科学」は行動論的社会科学として再定義され、その作用域は狭められまし た
(15)
。連合王国ではこの流れは抵抗を会いました。1950年に政治学という科目のための専門家 職業結社の形成を議論するために、オックスフォードである会合が開催された際に、ケンブリッ ジとLSEの双方の教授職名が「政治科学教授(Chair of Political Science)」であったにもかかわ らず、そこに居合わせた何人かの教授たちは、科学(science)を名称の中に含むような結社に はまったく関心がないことを明白にしたのです(16)
。結果的に「政治研究結社(Political Studies Association)」が選ばれましたが、これは「アメリカ政治科学結社(American Political ScienceAssociation)」に対する直接的な対照を意図していたのです。「科学」という言葉への嫌悪感の 理由は、「政治研究」を歴史、法、哲学の中に根付かせたいという欲望と、そもそも「政治科学
(Political Science)」は自然科学のやり方で予測と反駁可能な仮説を提供できるのかという懐疑 主義でした。「科学」という用語の支持者たちは、行動論的方法へ向かう動きは、「政治学(Politics)」
が真の社会科学になり歴史と哲学への依存から脱却しようとするならば、まさに要求されている ことなのだと論じました。その一方でより柔軟な考え方をする人たちは、政治科学の支持者たち が手にすることができる英語があるとすれば、サイエンスに相当するドイツ語「ヴィッセンシャ フト(Wissenschaft)」であり、それは実験的自然科学というよりも厳密な体系的研究を含意し ていて、そうすれば大半の混乱は回避されただろうと主張したのです。
政治学という科目は、きわめて小規模な端緒から1960年代以降急速に拡大しました。そしてこ れと並行的な発展が「国際関係論(IR)」にも見られ、両者の間では次第に統合が進捗しました。
21世紀の初頭にはこの専門分野は、いたる所の主要な国際的大学では確立された科目になってき たのです。それと同時に次のような論争が依然として続いています。それはこの科目の諸限界を どこに設定するかをめぐる論争であり、この科目の内部で教えることができることとできないこ とを区別するために、ある合意された方法と理論という核を確立することによって、この科目を 狭隘化し専門化したいという人たちと、かつてケンブリッジで保持されていた「政治科学」のいっ そう広く折衷的な見方を蘇らせたいという人たちとの間での論争なのです
(17)
。ステファン・コルリーニ(Stefan Collini)が思い起こさせてくれるように、学術的専門分野と いうものの理念は、いつでも様々な勢力の不安定な合成物なのです
(18)
。専門分野は不断に再形 成され再想像され、その核心はつねに論争の的になっています。新しい世代はそれぞれに先行す る世代によって保持されてきた理念のいくつかに挑戦しますが、もしある専門分野が健全な状態 を保ち、それが代表する研究の伝統の中にある最良な部分を保存したいと思うのなら、遵守され なければならない若干の原理が存在しています。ここケンブリッジの「政治科学」の伝統には私 たちに教えてくれる多くのものがあって、その原理はジョフリー・ホーソン(Geoff rey Haw- thorn)やジョン・ダン(John Dunn)の労作の中に例示されてきました。彼らは自分たちの間 でケンブリッジでの政治教育と政治理解の豊かな伝統を保存し拡大してきたのです。私たちは彼 らが築いた伝統を基礎にしたいと思っています。私はこの場を借りて、彼らに深く感謝します。第一の原理は、「公開性」――すなわち他の専門分野や他のアプローチに対して開かれている ことです。「政治科学」はそれだけで存立し、自らの方法と関心事項を神聖不可侵なものとして 扱うべきではありません。専門分野の境界は確かに存在しますが、固定されてはいません。現時 点における国境のように、多くの場合、境界には適切さが欠如しているのです。専門分野はます ます重なり合ってきています。そこには整然とした限界などは存在していません。また存在する べきでもありません。過去の「政治科学」は数ある他の専門分野の中でも「心理学」、「法学」、「歴 史学」、「社会学」、「古典学」そして「哲学」に依拠していました。「政治科学」は他の人間諸科 学と同様に、複雑が現象を扱う科学であり、単純な現象を研究し予測を可能にするために経験的 な規則性を発見するためにデザインされた実証主義的方法は不適切なのです
(19)
。政治的論法に できるのは、様々な方法の道具箱に依拠しながら、けれどもひとつだけの方法にはけっして頼らずに、どのようにしてあるいはなぜあることが現にそうであるような仕方で作用しているかを説 明することなのです。なぜなら「政治科学」の目標とは、可能なかぎり最も完全な形態の理解を 得ることだからなのです。
第二の原理は、「政治科学」は方法論よりもむしろ問題に焦点を当てるべきだということです。
「政治学」や「国際関係論」のような専門分野が主として自らの方法に関心を抱き、それらの研 究に従事する人びとが、世界中で起こっていることについてなにがしか新しい知見を得ようと努 力するよりも、各研究者の仕事についてコメントすることに関心を抱くようになる場合、それら の専門分野は自らが依って立つ論理的根拠との繋がりを失い始めるのです。確かに世界には――
アフリカや中東での紛争であれ、インドと中国の台頭であれ、気候変動の脅威であれ、多文化主 義という難題であれ、不平等と差別の執拗な残存であれ、あるいはデモクラシーの失墜であれ―
―私たちを多忙にさせるのに十分な実に多くの問題が存在しているのです。
第三の原理は、「政治科学」は「政治思想」、「政治経済学」、「比較政治」そして「国際関係論」
を中心としたバランスのとれたカリキュラムを目指すべきだということです。そうすることが必 要なのは、「政治科学」を学ぶ者がその最も広い意味での公共政策を、複数の文脈、制約、そし て地球を横断する政治において多様なやり方で現に行動している複数の行動主体(agencies)を 学ぶことを通して理解する手助けをすることができるからなのです。またそれは、たとえば性差 に偏った(gendered)「ヨーロッパ中心主義的」なパースペクティヴの適用によって過去の政治 研究に刻印されてきた、諸限界を乗り越えるためにも必要なのです。政治について批判的に思考 する能力を開発することはそれ自体として価値あるだけでなく、政治を学ぶ者が今後行なうであ ろう、ほとんどのことにとっての準備作業なのです。
第四の原理は、「政治科学」教育の中心的目標のひとつはたんに批判的に思考する能力を開発 するだけではなく、政治的論法の本性に通暁することです。社会諸科学における主要な専門分野 は、自らが探究する複雑な現象を理解するための独自の論法形態を開発してきました
(20)
。それ はとりわけ「経済学」において顕著ですが、経済学的論法が社会生活の全局面に浸透する傾向に ある時代においては、私たちは他の論法形態も重要だということを銘記するべきです。政治的論 法は根本的に政治にとっての諸限界、すなわち政治は何を達成できるのか、何を達成できないの か、そしてどうすれば私たちが欲することだけではなく必要とすることを最善のやり方で私たち 提供してくれるのかということと関連しているのです。実際的活動としての政治の諸限界
政治的論法の多様な様態のいくつか――懐疑主義的、理想主義的、合理主義的および現実主義 的――は、程度に差はあるものの、ケンブリッジと関連する四人――マイケル・オークショット、
ジョン・メイナード・ケインズ(John Meynard Keynes)、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)およびエドワード・ハレット・カー(Edward Hallett Carr)――の著作によって例示 されます。
オークショットはハロルド・ラスキ(Harold Laski)の後継者として1950年にLSEの政治科学
教授職に就任する以前、ケンブリッジにある「歴史学部」で教鞭を執っていましたが、彼は自然 科学の方法を人間科学に適用することに反対しました。なぜなら自然科学の方法は合理主義を産 み出し、それが社会の伝統を、とりわけその社会の政治的取り決めをめぐって形成されてきた理 解を深く傷つけたからなのです。オークショットにとって合理主義的およびイデオロギー的用語 で政治について思考することは、バークにとってそうだったように、私たちの政治とその諸限界 の性格を誤解することを意味し、さらには間違った判断に基づく不適切な改革へと導きまし た
(21)
。その代わりに彼は、伝統それ自体の中に現存する複数の「暗示(intimations)」に意を用 いることのほうを好んだのです。彼はこう書いています。「政治的活動においては、人びとは、底も知れず、果てしのない海原を航海している。そこには、避難のための港も、投錨のための底 地もない。また出航地もなければ、定められた目的港もない。その企ては、船を水平にたもって 浮かび続けることである。海は、友であるときもあれば敵であることもある」
(22)
。限界のない状 況に対処するために政治は、自らが試行することにおいて、また政治的活動を理解することにお いて、きわめて限定されなければなりませんでした。オークショットにとってイングランドの政 治的伝統に特有なものは、国家を公民的結社(civil association)として理解するようになったこ とでした。つまり個人が自由に選択できる余地を残すような一般的、非道具的法の枠組みとして 国家を理解するようになったことなのです。このような国家理解はつねに、国家を企業的結社(enterprise association)として理解する敵対者によって脅かされてきました。そのような国家 理解は、市民社会の全エネルギーをある単一の目標を追求することに利用し、そうすることによっ て政府を限界のないものにしようとしたのです。
ジョン・メイナード・ケインズはケンブリッジが産み出したきわめて特異な人物でした。彼は いつでもケンブリッジの合理主義的、進歩的陣営に属していました。彼はかつてこう言いました。
「事実が変化すれば私は精神を変える。君はどうする」
(23)
。彼は理想の力、知性の力を信じてい たのです。国家が企業的結社でないならば、国家の長所とは何か。もし人びとが自らの関心事を、情報に精通した判断能力を備えた彼自身のような人びとに任せさえすれば、世界を改善すること は完全に可能だと彼は考えたのです。ケインズは主導的な経済学者だっただけではなく、両大戦 期には財務省に勤務した実務家でもありました。彼はジョン・スチュアート・ミルにまで遡る、
リベラルな改革者たちからなる伝統の中に立っています。彼らは正しい制度と政策をデザインす ることはできるし、それがいっそう大きな幸福を促進すると信じています。現に苦難と悲惨を除 去することはできましたし、進歩は実現できました。彼は開明的改革、そして聡明な公共政策の 可能性を信じていたのです。1930年代の不況という現実に直面した彼は、政府は実行されるべき ことを実行できないようにさせる複数のドグマに囚われていると論じることで、英国を不況から 脱出させる実際的政策を編み出しました。ケインズは政策における大革命と、20世紀に連合王国 で生じ、そしてここ30年間に起こったありとあらゆることにもかかわらず、依然として逆転され ないでいる国家の役割の拡大とに対する知的基盤を据える手助けをしたのです。彼はこう論じま した。「政府にとって重要なのは、民間の個人がすでに実行している活動を行うことではないし、
それを少しばかり上手に、あるいは少しばかり下手に行うことではない。現状ではまったく手が 付けられていない活動を行うことである」
(24)
。彼はハイエクに宛てて、リベラルなイングランドが永遠に消滅しつつあるというハイエクの恐怖について、次のような手紙を書きました。「正し く考え感じるような共同体においては危険に満ちた行為も安全に実行され得るのです。もしそれ らの行為が間違って考え感じるような人たちよって実行されるとしたら、それは地獄に到る道に なるでしょう」
(25)
。ハイエクはそれでも安堵しませんでした。経済学のオーストリア学派の主導的メンバーである 彼は、1930年にLSEの「経済学」教授に任用されました。そしてほとんどその直後に、理論的に も政策上の面でもケインズと衝突し始めました。かつてケインズは、ハイエクこそ誤謬から出発 し狂気で終わる情け容赦のない論理学者の典型であると指摘しました
(26)
。けれども第二次世界 大戦が始まると、ケインズは再度外務省へと姿を消しました。その時にLSEはロンドンから立ち 退き、ピーターハウスに仮住まいすることを余儀なくされたのです。ケインズはキングズ・カレッ ジにハイエクのための部屋を見つける便宜をはかりました。その時までには、ハイエクは帰化し た英国市民になっていましたが、オーストリア・コネクションのために戦闘に参加することも、政府に勤めることも許されませんでした。それで彼はケンブリッジに席を置き、『隷従への道』
(27)
を執筆しながら戦争の時代を過ごしたのです
(27)
。この著作は集産主義へと邁進する流れ、そし て彼が論じるところによれば、西洋文明とりわけ19世紀における英国文明の成功が依って立つ基 盤だったリベラルな諸原則の放棄に対する情熱的な論難でした。彼の見解のいくつかはオーク ショットのそれと接近していますが、オークショットはつねにハイエクを合理主義者――オーク ショットの指摘するところでは、すべての計画に反対する計画は、その反対のものよりはまだま しだとしても、同じ政治のスタイルに属している――と見なしていました(28)
。この講演で論じ られる他の思想家たちの誰よりも広範囲にわたり、ハイエクは時として政治的論法の懐疑主義的、理想主義的、合理主義的および現実主義的様態を結合しました。彼はリベラルな政治経済学の知 的復活の背後にいる最も重要な刺激源、自由市場と制限された政府の擁護者になり、絶えず人間 の理性と人間の知識の諸限界と、さらには経済活動と市民社会の計画に国家が介入することがも たらす危険とについて警告しました。彼はケインズに対する最も苛烈な批判者のひとりであり、
ケインズ主義に対してはさらに苛烈な批判者でしたが、彼らには共通する点が多数ありました。
彼らはともに理念というものに途方もない重要性を与え、真理と進歩の可能性を信じていたので す。社会にはある正しいパターンがあって、国家はそれを認定し強制力を意のままに行使するこ とによって、そのパターンを可能にする義務がある。国家はその機能においては制限されなけれ ばなりませんが、自由な社会の諸制度を支えるために、それらの機能を発揮する点では強力でな ければなりません。究極的にハイエクは国家を、オークショット的な意味における企業的結社と 見なしました。国家には――拡大した国家を逆転し、そこでは政治的および行政的裁量が最小限 にまで縮小されるような市場秩序を再建することができるように政治的風潮、政治運動、さらに は政治指導者たちを活気づけるという――至上の目標があったのです。
E・H・カーは20年にわたり外務省に勤める以前に、ケンブリッジで古典学を修めました。そ の後彼はアベリストウィス〔Aberystwyth。ウェールズ西部のカーディガン湾に臨む保養地〕
で「国際関係論」を教える職に就き、『タイムズ』の社説を執筆しました。60歳代になって彼は 結果的にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに戻り、大部のソ連史の執筆に取り組みまし
た。カーにとっての政治的なものの意味は、ケインズとハイエクのそれからは実質的に異なって いました。なぜなら彼は歴史と政治における理念の役割をほとんど重視せずに、政治的論法の理 想主義的様態を軽蔑していたからです。彼の古典的著作のひとつである『危機の二十年』は、第 二次世界大戦前夜に執筆されました。この著作はウッドロー・ウィルソン〔Thomas Woodrow Wilson。1856年に生まれ1924年に亡くなったアメリカ合衆国の民主党に属する政治家。第26代大 統領(在任期間1913―21年)を務め、第一次世界大戦中、1917年対独宣戦を布告、18年民族自決、
国際連盟設立、通商障壁撤廃などを含む14ヶ条を提唱、19年のパリ講和会議に臨んだが、アメリ カ上院でパリ講和条約の批准を得ることに失敗し、失意のうちに没した〕のようなリベラルな政 治家やリベラルな大学人や同時代人たちによって喜んで受け容れられたリベラルな幻想を容赦な く暴露するものでした。だからと言って、カーはチャーチルの支持者にはなりませんでした。彼 は宥和政策の強力な提唱者でしたが、それは地政学と相対的な力関係、そしてデモクラシー諸国 に開かれている選択肢についての彼自身の評価に基づいていたのです。彼は国家運営術(state- craft)を重視する点でツキジデスにまで遡る、1945年以後は「国際関係論」における主導的潮 流になるに到った、国際関係についての思考の伝統に属していています。『歴史とは何か』にお いて説明しているように、彼は歴史上の人物たちについて道徳的審判を下すことが歴史家の務め だとは信じていませんでした。それよりも彼が好んだのは、スターリンを巨大な非人格的諸力の 乗り物として理解することであり、そしてスターリンが成功したのは、革命によって解き放たれ たダイナミックな力のおかげだと論じたのです
(29)
。カーは進歩を信じていましたが、リベラル な進歩は信じていませんでした。つまり彼は、リベラリズムは終焉し世界はそれを凌駕したと考 えたのです。彼にとって政治に対する諸限界は、グローバルな経済的・社会的諸力によって設定 されるのであり、理念によってではありませんでした。そして政治において起こることは人間の 意志の問題などではなく、個々人がどのように自らが生きる時代の本性を理解しその本性に適応 するかという問題なのでした。彼にとっては人間活動に課せられる制約のほうが、個々人が影響 力を発揮できる機会よりもつねに明らかだったのです。彼は批判者たちによって決定論と歴史を 不可避なものと見なしているという廉で批判され、オークショットによっては歴史をまるで勝者 の立場から書かれた後ろ向きの政治(retrospective politics)のように書いたという廉で批判さ れました。カーは同時代人たちの間に蔓延していた悲観主義、ヨーロッパは依然として世界の中 心だという時代遅れの思い込み、さらには彼らが現実政治から距離を置くことを軽蔑していたの です(30)
。これらの異なった思想家たちは、政治的論法の特徴的な様態――それぞれ懐疑主義的(オーク ショット)、理想主義的(ケインズ)、合理主義的(ハイエク)、そして現実主義的(カー)――
のいくつかを示唆しています。私たちはそれらの間で選択しなければならないのでしょうか。政 治的理解のどのような成熟した形態も、それが人間社会における紛争の本性、多様な利害関心を 発展させ、多様な価値観を保持し、多様なアイデンティティを形成し、多様な判断に到達する人 間の能力に内在する紛争の根源を把握しようとするのなら、これら四つのすべてに依拠していま す
(31)
。ほとんどどのような政治的問題の研究といえども私たちに、ほとんどの政治的状況は複 雑さに満ちていて、とても人間の手には負えないということ、そしてそれら状況の馬鹿げた側面と同様に暗い側面をも否応もなく認識するように迫ります。現代世界の中で私たちは、競い合い 両立不可能な過剰なまでの諸要求に直面させられています。そして先に述べた四つの間で選択す る能力についての懐疑主義、さらにはそれらを調和させる能力についてはよりいっそうの懐疑主 義が蔓延していることは、いささかも驚くに当たりません。
『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル(
Monty Python and the Holy Grail
)』という映画の中でアーサー王はふたりの人物に出会い、彼はこの人物たちを貧民と見なし、それ に相応しく振舞います。この登場人物たちは自らを自律的なアナルコサンディカリスト(労働組 合至上主義者)のコミューンのメンバーだと見なしています。アーサー王が彼らに静かにしろと 命令すると、彼らは異議を唱えます。台詞は次のように展開します。
「あいつは自分を誰だと思っているんだ」(「何様のつもりかね」)
「我こそはなんじらの王なるぞ」(「私は王だ」)
「へぇそうかい。おれはあんたに投票しなかったぞ」(「投票してないよ」)
「王は投票によって選ばれるものではないのだ」(「選挙じゃない」)
「そんならなんであんたは王になったんだい」(「どうやって決めた?」)
「湖の貴婦人が、純粋きわまりない光り輝く豪華な絹織物で包まれた手で湖水の底からエク スカリバーを拾い上げ、神聖な摂理によってわれアーサーこそがエクスカリバーを携える定め にあると言明した。それこそがわれアーサーがなんじらの王たる所以なるぞ」(「湖の精が腕に 金糸の衣をまとわせて、水中から名剣エクスカリバーを神の摂理により、このアーサーに下さ れたのだ。それが理由だ」)
「おい聴いたかい――池に横たわっている奇妙な女が剣を手渡したことなど、統治システム の基礎なんかじゃないぞ」(「池にいる変な女が剣を?そんなの政府と言えるか」)。
(32)
〔( ) 内の台詞は映画字幕より引用〕。政治の諸限界についての懐疑主義的分析に力を付与するのは、問題の数がそんなにも多いとい うことであり、人間の理性、人間の能力そして人間の知識がもつ欠陥と結びついた場合には、人 間の意志の薄弱さなのです。政治とは、その最小限の意味においてさえ、無益な行為に思える場 合が多いのです。政治上のレトリックと政治上の達成との間には絶え間ないコントラストがあっ て、懐疑論者ならばこれはいつでもそうならざるを得ないことであり、そうならざるを得ない理 由は政治の本性に深く根ざしていると論じることでしょう。ですから懐疑主義的論法がとるひと つの方向は、人間の野望の愚かしさと人間の社会が直面する諸問題に立ち向かう際の謙遜さへの 必要を指摘することであり、さらには深慮、試行そして既知のほうを選ぶということなのです。
クリストファー・ラッシュは最近の著書のひとつで「なぜ真面目な人びとが未来を信じつづけて いるのか」と問いかけています。またマーティン・リースの近著『今世紀で人類は終わる?(
Our Final Century?: Will the Human Race Survive the Twenty-fi rst Century
)』は、私たちが直面しているテロリズムと核拡散から気候変動と遺伝子操作に到るまでの多様な脅威について詳細に 論じていますが
(33)
、本書は前述した論点を改めて強調しています。ラッシュは近代性を逆転し、私たちの欲望の規模を縮小し、私たちが地球という惑星に対して求めているものを削減し、そし て諸限界の内部で生きることを再度教えてくれるような道徳上の革命だけが、私たちを救うこと ができると信じているのです
(34)
。すべての現実主義者が、この悲観主義を共有しているわけではありません。彼らが指摘してい るのは、世界が構造化され権力が配分される仕方から生じてくる、人間的活動に課せられた不可 避的な制約なのです。政治に課せられた諸限界はこれらの制約から生じてきます。ですからもし 政治家が自ら実行することにおいて効果的でありたいと望むなら、まずもって彼らはこれらの制 約の本性を理解しなければなりません。それらの制約を無視しても、あるいはそれらの制約が実 在しないという振りをしても、彼らは成功することなどできはしません。彼らがもしそうすれば、
彼らが意図したものとはまったくかけ離れたものを実現してしまうというリスクを冒すことにな るのです。政治的論法の一形態としての現実主義は現実というものを強調し、それゆえ決定論と 宿命論に傾きがちです。ですが、現実と制約の承認を進歩のための基盤と見なすような現実主義 の流れも存在しているのです。世界は理念や価値観よりもずっと権力の布置に関連しています。
現実主義者たち自身が意見を異にするのは、政治活動に課せられた制約は果てしなく同一のもの なのか、それとも近代世界の発展は新しい機会と構造を創造し、成功を収める政治家はそれらを 見定め、成功するためにそれらを利用できるかという点をめぐってなのです。けれども彼らはこ れらの構造の内部で働かなければなりませんし、それらを無視したり廃絶したりすることなどは できないのです。
政治的論法のこれらの形態に対する挑戦は、合理主義者と理想主義者からやってきます。彼ら の中には道徳上の変化を追求する者、制度上の変化を追求する者、さらにはその両方を追求する 者もいます。彼らは政治家と政治運動が効果を発揮し、苦難を緩和し、不平等を軽減し、そして 世界全体によりいっそう公正で平等な社会を達成する機会を強調しがちです。理想主義者の気質 は1919年に出版された『政治的理想(
Political Ideals
)』の中のバートランド・ラッセルによるい くつかの文章に表現されています。この書物は――カーの『歴史とは何か』とともに――私がもっ ていた最初のもののひとつです。われわれが蒙っているどんなに多くの悪がまったく不必要であり、それらは連合した努力に よって数年の内に廃絶され得ることを理解している人はほんどどいない。あらゆる文明化され た国々の多数派がそう望めば、すべてのおぞましい貧困を廃絶し、世界の病気の半分と世界の 人口の10分の1を束縛している経済的奴隷状態を消滅させることができる。われわれは世界を 美と喜びで満たし、そして普遍的平和を確保できる。これが達成されていないのは、人びとに 情熱がなく想像力が貧困で、これまでそうであったものはつねにそうでなければならないと見 なされているからにすぎないからだ。善意、寛大さ、知性があれば、これらのことは実現され るだろう
(35)
。懐疑主義者と現実主義者はともにこうした感情を軽蔑しました。人類は自由に生まれながらい たるところで鎖に繋がれているというルソーの主張に対するジョセフ・ド・メーストル(訳注6)
の態度は、エミール・ファゲによるエピグラフの中の次のような言葉に要約されています。羊は 生まれつき肉食獣なのだが、いたるところで草を食んでいる
(36)
。2,000万人もの命を奪った世界 戦争の末期にラッセルが先に引用した文章を書いた20年後に、世界は第二次世界大戦に突入し、それは7,000万人を死に追いやったさらに巨大な大変動でした。一般的に政治的理想主義は、現 在かつてのようには流行っていません。けれども多くの場合、ネルソン・マンデラやアウンサン スーチーのような、ある特定の指導者に集中した希望という突風の噴出によって、政治の世界を 大きく様変わりさせることは依然として可能なのです。そういう指導者はある大義や闘争の力強 い、ほとんど時代を越えた象徴になりました。
政治の諸限界についての懐疑主義的および現実主義的評価は、政治という職人芸(the craft of politics)にとってなくてはならない一部になっています。しかしそれらにもまたいくつかの限 界があります。というのもそうした評価がゆきすぎると、私たちにとってあまりにもありふれた ものと感じられる種類の政治に対する無関心と不参加に火をつけることになるからなのです。ど のような歴史的評価に照らして見ても、今日そんなにも多くの国々におけるなんらかの形態の制 限的デモクラシーの達成は、途轍もない偉業なのです。たとえそれが私たちの望むよりもずっと 脆弱で確実性に欠けるものだとしても、そう言えるのです
(37)
。今日の懐疑論者と現実主義はそ れを一時的なものだと考えていますが、それぞれの理由にはしばしば違いがあります。懐疑論者 はデモクラシーが機能することなどけっしてないと考えるのに対して、現実主義者はデモクラ シーの理想が実際の上で実現されるのをこれまで妨げてきた諸構造を指摘します。これらすべて があらゆる種類の政治への不満のムード、投票参加の凋落に表現されているシニシズムと無関心 の蔓延、そして政治と政治家への信頼の崩壊――「何も機能していない」というムードの一部を なしています。そのようなムードはメディアの側によって増幅され、政治の諸限界を狭めること になります。なぜならそれは公的領域、そしてシティズンシップという考え方の腐食に他ならな いからなのです(38)
。政治というものは腐敗・堕落した活動、自己利益を追求する活動だと見な されるようになってきました。そのような態度が拡大するならば、変化をもたらす政治の能力も また減退します。政治の諸限界は収縮するのです(39)
。政治的論法の理想主義的および合理主義的形態はしばしば困難な闘争に直面しますが、それら は私たちの政治の本質的構成要素でありつづけています。その理由の一部はシニスズムにもかか わらず市民たちは依然として周期的に、ある新しいカリスマ的な指導者、たとえば1997年におけ るトニー・ブレアや今日のバラク・オバマのような人物を信頼しようとする誘惑に駆られるから なのです。不可避的な幻滅の前には、失望が周期的に停止する期間があります。より良きものを 求める本質的な変化は最終的には政治を通してもたらされるという希望は、西洋文化の中では依 然として強大な力を保持しています。というのも人類は結局のところ、そしておそらくは〔悲観 主義の〕証拠事実の重さに反して、依然としてきわだって楽観主義的だからなのです。カーが述 べたように、人類には骨の髄まで希望が宿っているのです。そして彼は――知識人たちとは違っ て――と、気難しげに付け加えました。だが現代政治の様相は、近代性が私たちの世界にもたら した強大な変化のためでもあるのです。集団的に、そして誰が計画したわけでもないのに、人類 はここ200年間に、この地球という惑星上に住むありとあらゆる人々の生活条件を絶えず変容さ